Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖フランシスコ・ザビエルと大天使聖ミカエルと日本

2020年09月28日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年9月27日、聖霊降臨後第17主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

チャンネル登録をなさいますと、新しくアップされた動画の通知が届くので便利です。チャンネル登録は、ここ「SSPX JAPAN 聖ピオ十世会日本」をご覧ください。


最大の2つの掟はイエズス・キリストへ向かっている。イエズス・キリストは、天主であることを言葉と行いで証明された。だから私たちはイエズス・キリストに真の礼拝を捧げ、愛を捧げる義務がある。

2020年09月28日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年9月27日は聖霊降臨後第十七主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十七主日の説教」の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【説教全文】

兄弟たちよ、主において鎖につながれた[囚人となった]私は、あなたたちに願う。あなたたちが召し出された召命にふさわしいように歩き[生き]、すべての謙遜と柔和と忍耐とをもって、互いに愛によってたえ忍び、平和の鎖[きずな]において精神の一致を守るようにせよ。体は一つ、精神は一つ、あなたたちが召出しによって一つの希望に召されたのと同様に、主は一つ、信仰は一つ、洗礼は一つ、天主は一つで、すべてのものの父であり、すべてのものの上にあり、すべてのものの上に働き、すべてのものの内に在す。

そのとき、ファリザイ人たちがイエズスの近くに相集まった。そしてそのうちの一人の律法学士が、イエズスをこころみるために、「先生、律法のうちどの掟がいちばん大切ですか?」とたずねた。そこでイエズスは、「"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ" これが第一の、最大の掟である。第二のも、これと似ている。

"隣人を自分と同じように愛せよ"。全律法と預言者とは、この二つの掟による」とお答えになった。ファリザイ人たちが集まっていた時、「あなたたちはキリストについてどう考えているのか?それはだれの子か?」とイエズスがお問いになると、かれらは「ダヴィドの子です」と答えたので、イエズスは、「そうすると、ダヴィドが霊感をうけて、かれを主と呼ぶのはなぜだろう?"主は私の主におおせられた。私があなたの敵をあなたの足の下におくまで、私の右にすわれ"と書かれている。ダヴィドはかれを主と呼んでいるのに、なぜ、子なのか?」とおおせられた。だれも一言も答えられず、またその日から、あえて問いかける者もなくなった。

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は2020年9月27日聖霊降臨後第十七主日です。一緒に主日の黙想をいたしましょう。

【天主の十戒の第一戒】

「天主は愛である」と使徒聖ヨハネは宣言します。天主は愛によって私たちを、天国での永遠の婚宴に招いておられます。これこそが、今日聖パウロの語る、私たちが「召し出された召命」です。

私たちは、天主との愛による一致による永遠の幸せという「召出しによって一つの希望に召された」のです。従って、私たちを愛する天主を、私たちが愛し返すのは全く同然です。私たちにとって第一の最大の掟は「あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ」です。

天主の十戒の要点は、天主を愛し(一戒~三戒)、天主のために、天主に従って隣人を愛する(四戒~十戒)です。十戒の内で、一番重大で、荘厳で卓越している掟が第一戒です。つまり「第一 われはなんじの主なり。われを唯一の天主として礼拝すべし。」です。第一戒に反する罪は、第五戒の殺人罪よりも、第六戒の邪淫の罪よりも、重大な罪です。

第一戒は、超自然の徳である愛徳を命じるだけではありません。第一戒は、超自然の徳である信仰の徳をも私たちに命じます。聖パウロは言います。「信仰がなければ、天主によろこばれることはできない。天主に近づく者は、天主が存在しておられること、天主を求めるものに報いをくださることを信じなければならないからである。」(ヘブレオ11:6)また「「義人は信仰によって生きる」と書きしるされているとおりである。」(ローマ1:18)

【第二バチカン公会議で活躍した神学者イエズス会のカール・ラーナーは「無名のキリスト者」論を提唱しました。キリストを知っていようがいまいが、宗教を信じていようがいまいが、「無神論者」であろうが、良心の命令に従って生きていればすべての人は「キリスト者」であり、キリスト者という名前だけがない「無名のキリスト者」で救われているとしました。残念ながら、ラーナーはよく聖書を読んでいなかったようです。「信仰がなければ、天主によろこばれることはできない。」ということさえ知らなかったのですから。】

第一戒は、超自然の徳である希望の徳も命じています。私たちが希望するのは、完全な絶対の果てしない幸福です。全能永遠で無限の天主のみが私たちに与えることができる、無限の幸せです。

私たちが希望しているのは、この世界の進歩でもなければ、世界の統一でも、地球環境保全でもありません。聖パウロはこういいます。「私たちが、キリストに希望をかけたのが、この世のためだけであるなら、私たちは、すべての人の中で、もっともあわれなものである。」(コリント前15:19)

聖パウロはまたこうも言います。「今の時の苦しみは、私たちにおいてあらわれるであろう光栄とは比較にならないと思う。…霊の初穂をもつ私たちも、心からの嘆きをもって、自分が養子とされ、自分の体があがなわれることを期待している。まことに私たちが救われたのは、希望においてである。目に見える希望はもう希望ではない、見えるものをどうして希望することができよう。私たちがもし、見えないものを希望しているのなら、忍耐をもってそれを希望しよう。」(ローマ18:18, 24-25)

私たちの望徳はこの祈りにうまく表されています。「恵みの源なる天主、主は約束を違(たが)えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その御約束の如く、われに終りなき命と、これを得(う)べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。」

私たちは、信仰・希望・愛徳をもって、真の天主を愛さなければなりません。私たちの主イエズス・キリストは、こういわれました。「まことの礼拝者が、霊と真理とをもっておん父を拝む時がくる。いやもう来ている。おん父は、そういう礼拝者をのぞんでおられる。天主は霊であるから、礼拝者も、霊と真理とをもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4:23)

礼拝(latria)とは、いとも高き創造主にのみなされなければなりません。いかなる被造物にも礼拝を捧げることをしてはなりません。

【約束のキリストは、真の天主である】

ところで、私たちの主は、ファリザイ人たちにご自分が誰であるかをわからせるために、次のように質問します。「あなたたちはキリストについてどう考えているのか?それはだれの子か?」と。ファリザイ人らはイエズスに反対し、キリストをただの人間であると思っていました。そこでかれらは「ダヴィドの子です」と答えます。しかしこれに対して、イエズスは詩篇109を引用して言います。ダヴィドは、自分の考えではなく、聖霊によって、キリストを主であると呼んでいる、と。

「主(御父)は私の主(キリスト)に言われた、私(御父)の右に座れ」これは、御父の御稜威と同じ御稜威と光栄を受ける方である、という意味です。つまり、キリストは、肉体によっては、本当にダヴィドの子孫ですが、天主の本性によってはダヴィドの主(天主)であるということです。御父は、キリストの敵どもを、キリストの足の下に置く、と。

「私があなたの敵をあなたの足の下におくまで、私の右にすわれ。」sede a dextris meis, donec ponam inimícos tuos scabéllum pedum tuórum. 聖レミジオは、この「まで」donec という言葉は「無期限」を意味し、永久に私の右に座れ、永久に敵をキリストの足の下に置く、という意味であると言っています。御父によって敵が足元に置かれるのは、御父と御子キリストとが同じ天主の本性を持っているということを意味しています。

「ダヴィドはかれを主と呼んでいるのに、なぜ、子なのか?」これにはこう答えるしかありません。聖霊によって息吹かれたダヴィドは、キリストがダヴィドの子孫であると同時に完全な真の固有の意味で天主である、と言っているからだ、と。

時において人としてダヴィドの子孫として生まれなければならなかったが、時の始まる前から、永遠の昔から、天主であり天主の御子であったからだ、と。

同じ詩篇109にはこの一節もあるからです。ex útero ante lucíferum génui te.「私はおまえを暁の前、懐から生んだ」と。ファリザイ人らは「だれも一言も答えられず」、ちょうど、御父が御子キリストの敵を足の下に置いたかのようです。

イエズス・キリストに関する真理の中核はまさにここにあります。イエズス・キリストは言葉の固有の意味で、完全な真の人間となった完全な真の天主である、ということです。

もしも「キリストはとても聖なる方で預言者だったとしも単なる人間だ」と考えるのならそれは間違っています。イエズス・キリストは、御父天主によって「御子」の地位を与えられて「天主」となった人間でもありません。

単なる被造物である人間を「主」(つまり天主)と呼ぶことは絶対に許されないことです。また、時間のうちに存在をし始めた有限の単なる人間が、本性による永遠の昔から始めなく存在している無限の天主になる、などというようなことは、全能の天主でもできないことです。

そうではなく、イエズス・キリストこそが、旧約の預言を全て成就した約束の救い主で、人となった真の天主です。

【イエズス・キリストは天主として行動した】

この詩篇の一節ばかりではありません。イエズスは天主御自身として多数の奇蹟を行っています。「私が父のわざをしないなら、私を信じないでもよい。しかし、もししているなら、たとえ私を信じないでも、私のすることを信じよ。そうすれば、父が私におられ、私が父にいることを、知って悟るだろう。」(ヨハネ 10:38)

イエズスはこうも言います。「私の羊は私の声をききわけ、私にしたがい、私もかれらを知っている。私はかれらに永遠の命をあたえる。かれらは永遠に亡びず、そして私の手からだれも、かれらをうばえない。父が私にくださったものは、なにものにもまさって尊いもので、それを私の父の手からうばえるものはない。私と父とは一つである。」

イエズスは人々に自己を天主として礼拝することを要求しています。キリストが生まれつきの盲者を癒した時その盲者に尋ねて言います。「「あなたは天主の子を信じるか?」とおおせられた。そこで彼が、「主よ、それはだれのことですか?私がその方を信じますように」といった。イエズスは、「あなたはそれを見ている。あなたに話しているのがそれだ」とおおせられた。すると彼は、「主よ、私は信じます」といって、そのみ前にひれ伏した。」(ヨハネ 9:35-38)

【「あなたは天主の子を信じるか?」συ πιστευεις εις τον υιον του θεου の「天主」は、一部のギリシア語の写本では「人」となっていると指摘されています。ηκουσεν ο ιησους οτι εξεβαλον αυτον εξω και ευρων αυτον ειπεν αυτω συ πιστευεις εις τον υιον του θεου [ἀνθρώπου WH NIV ] θεοῦ Treg RP]】

イエズスは天主に固有の権をもって罪を赦します。「イエズスが、かれらの信仰を見て、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と中風の人におおせられると、そこに座っていたある律法学士たちが、「この人はなぜあんなことをいうのだろう。あれは冒涜だ!天主以外に罪をゆるせるものはない!」と、心の中で考えた。

すると、イエズスは、かれらがそう考えているのをすぐ心に悟り、「なぜ、そんなことを考えているのか。中風の人に、"あなたの罪はゆるされた"というのと、"起きて、床をとって行け"というのと、どちらがやさしいか。人の子が、地上で罪をゆるす権力をもっていることをあなたたちに知らせよう!」。

そして中風の人に向かい、「私は命じる。起きよ、床をとって家に帰れ!」とおおせられるや、病人は、起きて、すぐ床をとり、人々の目のまえを出ていった。皆はおどろいて、天主をあがめ、「今まで、こんなことを見たことがない!」といった。」(マルコ 2:5-12)と。

ある時には、泣きながら、イエズスのうしろ、そのおん足の近くに立ち、涙でおん足をぬらし、自分の髪の毛でそれをぬぐい、おん足にくちづけして、香油をぬった罪の女性がいました。共に食卓についていた人々に向かってイエズスは言います。「私はいう。この人の罪、その多くの罪はゆるされた。多く愛したのだから。」(ルカ 7:48)それからマグダレナに向かってこう言います。「あなたの罪はゆるされた。」

天主に対する愛によってのみ罪は赦されるのです。イエズスは自分に対する愛によって赦されるというのですから、自分に対する愛は天主に対する愛に等しいと宣言しています。別の言葉でいえば、イエズスは天主であることを断言しているのです。

【イエズス・キリストは、天主である】

イエズス・キリストはご自分の権力と知識とにおいて天主と等しいと主張しています。「すべてのものは、私の父から、私にまかせられました。子が何者かを知っているのは、父以外にはなく、父が何者かを知っているのは、子と、子が示しを与えた人の他にはありません。」(ルカ 10:22)

イエズス・キリストは、更に、全人類を裁くために再臨することを宣言しています。天主だけが、全ての人々の良心の秘密を知り、それにふさわしい正義の賞罰を与えることができますが、イエズスは全人類の最後の審判者であると宣言しています。「人の子は、その栄光のうちに、多くの天使をひきつれてきて、光栄の座につくであろう。そして、諸国の人々を前に集め、ちょうど牧者が羊と牡山羊とを分けるように、羊を右に、牡山羊を左におくだろう。」(マテオ 25:31-32)

審判の日に、イエズスは善人に向かってはこう言うでしょう。「まことに私はいう。あなたたちが、私の兄弟であるこれらのもっとも小さな人々の一人にしてくれたことは、つまり私にしてくれたことである"というであろう。」

悪人たちに向かってはこう言うでしょう。「まことに私はいう。これらのもっとも小さな人々の一人にしてくれなかったことは、つまり私にしてくれなかったことだ」と。

またこうも宣言します。「御父が、死者を復活させて命をおあたえになるように、御子もまた、自分の望む者たちに命を与えるのである。御父は、審判をなさらず、御子に審判のことを全くお任せになった。それは御父を尊ぶのと同じように、みなが御子を尊ぶためである。」(ヨハネ 5:22-23)

イエズス・キリストは、天主御自身であることを言葉と行いで証明しています。ですから、私たちはイエズス・キリストに真の礼拝(latria)を捧げ、愛を捧げる義務があります。

しかし、ファリザイ人らをはじめとする人びとは、イエズス・キリストを受け入れず十字架に付けることによって、天主に対する愛と隣人に対する愛とに背いてしまいました。天主への愛と天主のための隣人への愛にこそ、全律法があったにもかかわらず、です。私たちの主は今日の福音でこう言います。「全律法と預言者とは、この二つの掟による。」

しかし、私たちがイエズス・キリストを愛するなら、全ての法を全うすることができます。何故なら、イエズス・キリストこそ、真の天主であり同時に真の人間、しかも私たちを極みまで愛された救い主なる恩人、王、大司祭、この地上でのすべての正しい愛の直接の対象であるからです。

聖アウグスチヌスは、天主が私たち人間を愛するのは、御子の神秘体の一員であるから、或いは一因となることができるからだ、天主が人類全てにおいて愛しているのは御子である、と言っています。

もしも私たちが天主を愛するなら、その愛とは天主においてある愛であって、私たち被造物である人間に聖霊によって伝えられた愛によって天主を愛するのです。この愛によって私たちが愛さなければならないのは、私たちにおける、また隣人における、天主の御言葉なるイエズス・キリストです。

もっとも小さい者たち、もっとも憐れな者たちにすることは、善であれ、悪であれ、イエズス・キリストにするのです。私たちは、イエズス・キリストのために、隣人を私たち自身のように愛するのです。

聖パウロはこう言います。「律法の目的は、清い心と、よい良心と、偽りのない信仰から生じる愛をひろめることである。」(ティモテオ前1:5)またこうも言います。「キリストは律法の目的である。」(ローマ10:4)

つまり、法の目的とは、愛徳であり同時にキリストです。ですから、私たちの行動を律する法は、愛徳のうちに完成されますが、その愛徳の究極の対象はキリストである、ということです。

私たちがキリストのおいて完全となること、私たちの完成とはキリストに到達すること、これが私たちの完徳です。聖アウグスチヌスの有名な言葉を借りて言えばこうです。「主にのみ愛着しよう、主をのみ楽しもう、主と一つに留まり続けよう」haereamus uni, fruamur uno, permaneamus unum.

私たちが、真の天主であるイエズスだけを全てを超えて愛することができますように!天主の聖母マリア様が、いつも私たちのために祈り続けてくださいますように!

"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ"これが第一の、最大の掟である。


「真の天主を信じない」は「不信」の罪 「偽りの神々を信じる」という事は「迷信」の罪

2020年09月28日 | お説教・霊的講話
2020年9月20日(主日)聖霊降臨後第16主日

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆さん、
来たる水曜日・金曜日・それから土曜日は四季の斎日で、四季の斎日の水・金・土です。伝統的には、この水・金・土には大小斎を行なっていました。

今ではその義務が無くなってしまいましたけれども、聖ピオ十世会の会員たちは、これを守る義務があります。

それで、愛する兄弟姉妹の皆様にとっては義務ではないのですけれども、来たる水・金・土、もしもできる事なら、一緒に大小斎を捧げてはいかがでしょうか。

罪の償いと、そして多くの御恵みを求める為に、とても良い機会だと思います。どうぞなさって下さい。

今日、イエズス様は福音の中で、「婚宴に招待された時には、上席を探してはいけない」と、「むしろ進んで下の方の、貧しい謙遜な席を探して、下座を探して、そして上にあげられるのを待て」と仰いました。ドン・ゲランジェという大修道院長によると「これは、天での婚宴の座の事だ」と言っています。

私たちは皆、天での結婚式に招かれています。「三位一体との霊的な一致、永遠の幸せの結婚に入る、という神秘の事だ」と言っています。
「その時イエズス様は、謙遜な者たちを『あぁ、もっと私の近くに来なさい』とお呼び下さるだろう」と。ですから、「その私たちは皆、この結婚の式に与る為に準備しなければならない」と言っています。

ところで、これは天主様の創造の定めた事によって、結婚は「唯一の真の天主」と「私たちの霊魂」との一致ですから、私たちは本物の真の天主を、真理のみを、天主として礼拝しなければなりません。

これが天主の十戒の第一戒にある事です、「真理の、本当の、三位一体の天主を、真の創造主なる天主として信じて、礼拝する」という事です。「それ以外を拝んではいけない」という事です。

「天主を信じない」という事は、「不信」の罪ですけれども、「間違った事を、偽りの神々を信じる」という事は、「迷信」の罪です。間違っているから罪です。ですから、この世にはたくさんの迷信があるので、気を付けて下さい。

自分の力や富や権力を天主を超えて信じる事も迷信です。
あるいは「あぁ、今日は仏滅だから」とか、あるいは「あぁ、今日は風が東から吹いたから」とか、「猫が目の前を通ったから、あぁ不吉だ」とか、「あぁ、旅行の前に靴の紐が切れちゃった」とか、全く現実とは関係がありません。

私が聞いた話によると、あるカトリック信者さんは、十字架のプレゼントをしないのだそうです。
「なぜですか?」と言ったら、「いや、この方に十字架が与えられると、苦しみが来ると困るから」と。これは全く迷信です。「くだらない事を言わないで下さい」と怒ってあげて下さい。

私たちが十字架像をプレゼントしようがしまいが、小さかろうが大きかろうが、天主様はそれによって左右されません。どんな星の元に生まれたか、星座が何かに関わらず、私たちは善をすれば報いられますし、悪を行なえば、罪を行えば罰を受けます。

たとえ星の動きがどうであろうと、太陽の黒点の数がどうであろうと、またその他、何があろうとも、私たちには自由選択能力を持っていますから、自由意志で私たちが善を選ぶか悪を選ぶかによって、私たちは裁かれます。

私たちがどんな遺伝子を持っていようが、どんな先祖からの者であろうが、全く関係ありません。聖マテオの系図によると、イエズス様の家系には女性の名前が二人出てきます。ラハブとウリアの妻(ベトサベ)です。この二人とも罪人の女性でした。二人とも罪によって子供を生みました。ですから「私の先祖はこうだから、呪われている…」などと心配しないで下さい。全く関係ありません。

私たちはただ、真の天主をのみを愛して、そしてそれに礼拝して、それに仕えて、それの御旨を果たす、それだけで幸せになります。

私たちにどんな十字架が来ようと、苦しみがあろうと、それはイエズス様からのプレゼントです。それを受け止めて捧げる事によって、更に大きな報いが待っています。

では愛する兄弟の皆さん、では天国での婚宴の式に良く与る事ができますように、準備致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




ヴィガノ大司教:キリスト教文明の至高の価値とは、生命であり、一人の男と一人の女と子供たちからなる自然な家族、祖国愛だ

2020年09月28日 | プロライフ

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

以下は、2020年9月23日に開催された「全米カトリック祈祷の朝食会」にカルロ・マリア・ビガノ大司教が送ったメモです。今年はオンラインで行われたのですが、イベントの主催者はこのイベントで、ヴィガノ大司教のメモを声に出して読むことをしませんでした。ライフサイトニュースは、次のように全文を掲載しました。

愛する兄弟姉妹の皆様に日本語訳をご紹介いたします。

--------------

私はドナルド・J・トランプ大統領が9月23日に開催される「全米カトリック祈祷の朝食」(National Catholic Prayer Breakfast)に参加することを、深い感慨をもって知りました。

この機会に、ウィリアム・バー司法長官が、教皇ヨハネ・パウロ二世による「一般信徒に関する使徒的勧告」にちなんで名付けられた「全米カトリック祈祷の朝食」の キリスト一般信徒賞 (Christifideles Laici Award)を受賞します。

もしもできるなら私は、この記念すべき機会に私自身も出席したいと思います。私は、教皇大使としてワシントン D.C.での任務中(2011年~2016年)、この集いに非常に熱心に参加したことがあります。

そこで私は、この特別な祝典に参列するすべての人びととすべてのアメリカのカトリック教徒たちと一緒にこの記念すべき祝典に出席したいと思います。何故なら彼らは、ドナルド・トランプ大統領においてキリスト教文明の最高の価値観の最大の擁護者であることを見ているからです。キリスト教文明の至高の価値とは、生命であり、つまり受精から自然死に至るまでの生命、また、一人の男と一人の女と子供たちからなる自然な家族というものの価値、さらに祖国愛、天主のもとにある一つの国という価値です! そして最も重要なことは、トランプ大統領は、私たちの信仰を自由に実践する権利を擁護し、それによって私たちがより完全に天主を敬うことができるようにしているということです。

11月に行われるアメリカ大統領選挙は、画期的な挑戦であり、聖書的な挑戦であります。その結果はアメリカ合衆国のみならず、全世界にとって決定的なものとなるでしょう。

アメリカのカトリック信者の全ての皆さんは、御摂理が皆さんの大統領に託された役割を十分に認識し、天主が、ディープ・ステートや新世界秩序という悪魔的勢力に対抗して戦うように備えている、通常を超えた戦いを認識している必要があります。

私は、何百万人ものカトリック信者たちそして世界中の善意の人々と共に、熱烈な祈りをもってあなたの側にいます。

私たちの信頼は、全能の天主にあります。その右の手は常に不思議な業を行います。

+ カルロ・マリア・ヴィガノ
ウルピアーナ名義大司教
元ワシントンD.C.の教皇大使(2011年~2016年)

【訳注:アメリカ合衆国(The United States of America)は、50の州(states)の連邦で構成されているが、そのもっと深いところで米国を操るとされるエリート・グループのことを、ディープ・ステート(deep state)と呼び、「闇の政府」あるいは「国家内国家」「深層国家」とも訳される。】


2020年9月27日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for September 27, 2020

2020年09月28日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2020年9月25日(金)26日(土)27 日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 9月25日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 9月26日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 9月27日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 9月28日(月)  06:30 ミサ聖祭

 9月29日(火)  17:00 頃 ロザリオ  18:00 ミサ聖祭

 9月30日(水)  17:00 頃 ロザリオ  18:00 ミサ聖祭

 10月1日(木)  17:00 頃 ロザリオ  18:00 ミサ聖祭

 10月2日(金)  17:00 頃 ロザリオ  18:00 ミサ聖祭

 10月3日(土)  10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

【東京】 「聖ピオ十世会 聖なる日本の殉教者巡回聖堂」 東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図

9月27日(日)主日ミサが三回捧げられます。

午前8時20分頃から準備が出来次第、告解の秘蹟を受けることができます。二階です。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ (ミサの直後に赤ちゃんの洗礼式があります)

それぞれのミサの間にも告解の秘蹟を受けることができます。二階の告解の部屋に司祭は待機しております。

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of September 27th, 2020.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live
11:00 - Low mass
12:30 - Low mass
It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses.
Mass location:
"Holy Japanese Martyrs' Mass Center"
Akebonocho Jido-kaikan
1-12-5 Honkomagome, Bunkyo-ku, Tokyo

Mass schedule in OSAKA:

Fri, September 26: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, September 27: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, September 28: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, September 29: Holy Sacrifice of the Mass at 06:30 am.

Tuesday, Sept 30 to Friday Oct 2 : Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, Oct 3: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】