Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【拡散希望】ヴィガノ大司教:私たちの主がその絶対的首位権を認められる典礼へと立ち返りましょう。まさに天主の御稜威への憎しみから改革主義者たちが改悪した以前の、本来の礼拝へと立ち返りましょう。

2020年09月02日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年8月6日に、LifeSiteNewsのスタッフの方々のために、ヴィガノ大司教は小黙想会を指導しました。この日本語訳をご紹介いたします。

その内容は、Ap. Viganò: Christ the King has been ‘dethroned’ not only ‘from society but also from the Church’として掲載されています。

この内容は、すぐにイタリア語や、スペイン語、フランス語などに訳されました。

VIGANÒ: CRISTO NON È PIÙ RE. NEANCHE NELLA CHIESA. MEDITAZIONE.

Mgr Viganò : le Christ-Roi a été « détrôné », non seulement « dans la société, mais dans l’Église »

Cristo Rei foi “destronado” não apenas “da sociedade, mas também da Igreja”, declara Viganò

Monseñor Viganò: “Cristo Rey no sólo ha sido destronado de la sociedad, sino también de la Iglesia”

MONSEÑOR VIGANÒ: “CRISTO REY NO SÓLO HA SIDO DESTRONADO DE LA SOCIEDAD, SINO TAMBIÉN DE LA IGLESIA”

Erzbischof Viganò über das Königtum Christi

ヴィガノ大司教

「王たるキリストは『社会からだけでなく教会からも退位』させられた」

2020年8月12日 米国東部標準時間午後4時25分

TE ADORET ORBIS SUBDITUS
服従したこの世が御身を礼拝せんことを。

O ter beata civitas
cui rite Christus imperat,
quae jussa pergit exsequi
edicta mundo caelitus!

三重(みえ)に幸いなる国よ、
そこにキリストが合法的に命令し、
天からこの世へ命じられた
法の順守を実行する社会!
【王たるキリストの祝日の賛歌より】

イエズスはペトロとヤコボとその兄弟ヨハネを連れて、人里離れた高い山に登られた。そして、彼らの前で姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。そのとき、モーゼとエリアが現れ、イエズスと語り合った。ペトロが口をはさみ、「主よ、私たちがここにいるのはよいことです。お望みなら、私はここに三つの幕屋をつくります。一つはあなたのために、一つはモーゼのために、一つはエリアのために」とイエズスに言った。ペトロがなお話し続けていると、光る雲が現れ、雲の中から、「これは私の愛する子、私の心にかなうものである。これに聞け」と声があった。弟子たちはこれを聞いて、恐れて倒れ伏した。するとイエズスは近づいて彼らに触れ、「起きよ、恐れることはない」と言われた。彼らが目を上げてみると、イエズスのほかには誰も見当たらなかった。山を下りるときイエズスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるまでは、見たことを誰にも言うな」と命令された。(マテオ17章1-9節)

愛する友人の皆さん、私たちが今日お祝いする御変容において明らかにされた私たちの主イエズス・キリストの王権についての黙想について、皆さんにお話しさせてください。この御変容は、主の地上での生活における他の重要な出来事であるベトレヘムの洞窟の上に現れた天使たちから、三博士の礼拝、ヨルダン川での洗礼に続くものです。

私がこのテーマを選んだのは、ある意味で、私たちと皆さんのカトリック教徒としての責任の焦点が、私生活や家庭生活だけでなく、とりわけ社会生活や政治生活において、このテーマに集約されていると信じているからです。

まず第一に、私たちの天主なる救い主の普遍的な王権への信仰を復活させましょう。

主は本当に普遍的な王でいらっしゃいます。すなわち、すべての被造物、人類、すべての民、さらには聖なる、カトリックの、使徒継承の、ローマ教会という主の囲いの外にいる人々にさえも、絶対的な主権を持っておられるのです。

一人ひとりの人間は本当に天主の創造物です。すべての人は、その全体としての本質においても、身体、霊魂、能力、知性、意志、感覚といった全体を構成する個々の部分においても、その存在全体が天主に帰せられるものです。これらの能力の働きと身体のすべての器官の働きは天主の賜物であり、天主の支配権は、天主の計り知れない自由の実として天主の善のすべてに及んでいます。誰も自分が地上で属する家族を選ばず、選べないという事実を考えるだけで、私たちが自分の存在に関するこの根本的な真理を納得するのに十分です。

このことから、天主なる私たちの主はすべての人間の主権者であり、それは個人としても、社会的集団の一員としても同じことです。なぜなら、人がさまざまな共同体を形成しているというからといって被造物としてみずから与えられた条件を失うことはないからです。実際、市民社会の存在そのものが、人間の本性を社会的なものとされた天主の設計に従っているのです。ですから、すべての民、すべての国家は、最も原始的なものから最も文明化されたものまで、最も小さいものから超大国まで、すべて天主の主権に服しており、その民や国家自体、みずからこの甘美なる天の支配を認める義務を負っているのです。

イエズス・キリストの王権

聖書がたびたびに証言しているように、天主はこの主権を御独り子に授けられました。

聖パウロは、総括的に、天主が御子を「万物の世継ぎ」(ヘブライ1章2節)になさったことを断言します。聖ヨハネも、みずからの福音書の多くの箇所で、異邦人の使徒【聖パウロ】の考えを裏付けています。例えば、彼が「父は審判をされず、子に審判のことをまったく任せられた」(ヨハネ5章22節)と思い起こすときがそうです。審判を行う特権は実際には王に属しているので、その特権を持っている者は誰であれ、主権者としての権力を(王から)委任されているからこそその特権を持つのです。

御子が御父から受け継がれたこの普遍的な王権は、ただ、天主の本質の一致において、いとも聖なる三位一体の第一のペルソナと等しくかつ本質を同じくする属性のすべてを、御子の天主としての本質ゆえに外面的に引き継がれたというだけの理解では足りません。

この王権はまた、イエズス・キリストがまことの人間にして天と地の仲介者であるという特別な理由によって、イエズス・キリストに属しているのです。事実、ご托身のみ言葉の使命は、まさに天主の御国を地上に確立することなのです。イエズス・キリストの王権に関する聖書の種々の表現を見てみると、それらは疑いの影もなく、イエズス・キリストの人間という状態に言及しているのです。

イエズス・キリストは、ダヴィド王に代わって、地の果てまで及び、年を数えることすらできない永遠のものである父の王座を受け継ぐために来た、ダヴィド王の子として世に示されました。ですから、大天使ガブリエルはマリアの御子の尊厳を次のように告げたのです。「あなたは子を生む。その子をイエズスと名付けなさい。それは偉大な方で、いと高きものの子と言われます。また、その子は主なる天主によって父ダヴィドの王座を与えられ、永遠にヤコブの家を治め、その国は終わることがない」(ルカ1章31-33節)。

さらに、彼を礼拝するために東方からやって来た博士たちは、王としてのイエズスを探していたので、エルサレムに到着したとき、「お生まれになったユダヤ人の王はどこにましますか」とヘロデに尋ねるのです(マテオ2章2節)。ご托身の神秘において永遠の御父が御子に託される使命は、地上に御国、すなわち天の国を打ち立てることです。この御国を打ち立てることを通じて、天主が人間を永遠から愛され、御あわれみをもってご自身のもとに引き寄せてくださった計り知れない愛徳が具体化するのです。「Dilexi te, ideo attraxite, miserans.」「私は永遠の愛をもって愛し、おまえに私の慈悲を保っておいた」(エレミア31章3節)。

イエズスは、「天主の国」と呼ばれることもあれば、「天の国」と呼ばれることもある、ご自分の国をのべ伝え、確立するために公生活を捧げられます。東方の慣習に従って、私たちの主はご自身が確立するために来られたこの国についての観念と本質を教え込むために、魅力的なたとえを用いられます。主の行われる奇跡の目的は、主の国はすでに来ていて、それは民の中にあるのだということを人々に納得させることです。「Si in digito Dei eiicio daemonia, profecto pérvenit in vos regnum Dei」―「私が天主の指によって悪魔を追い出しているのなら、もう天主の国はあなたたちのもとに来たのである」(ルカ11章20節)。

イエズス・キリストの使命において、ご自分の国の確立がそのあまりに本質的な部分であったため、彼の敵が背教したときもこの考えを利用して、ピラトの法廷でイエズスに対する非難を正当化する際、この観念を逆に利用したのです。「Si hunc dimittis, non es amicus Caesaris」―「もしあの人をゆるすなら、あなたはチェザルの友ではない」。彼らはポンティオ・ピラトにこう叫びました。「自分を王だと言う者はチェザルの反逆者です」(ヨハネ19章12節)。イエズス・キリストは、ご自分の敵の意見を確認して、ローマ総督に対して自分が本当に王であることをお認めになります。「あなたの言うとおり私は王である」(ヨハネ18章37節)。


本当の意味での王

イエズス・キリストのみわざの持つ、王としての性格に疑問を呈することはできません。イエズスは王でいらっしゃいます。

しかし、私たちの信仰においては、天主なる贖い主が王であるということの範囲や意味をよく理解することが必要です。ピオ十一世は、私たちがその在り方や行動について人間的に優れたものなら何であれ「王(king)」と呼んだり、「王的な(kingly)」と呼んだりする比喩的な意味を真っ先に排除しています。そうではありません。イエズス・キリストはこのような比喩的な意味での王ではありません。彼は王という言葉の本来の意味での王です。聖書の中で、イエズスは主権国の王としての大権を行使し、法を定め、法に違反する者たちに罰を与えておられるように見えます。有名な山上の垂訓では、救い主は御国の律法を公布されたと言うことができるでしょう。まことの主権者として、主はご自分の律法への服従を求められ、それに従わない者に対しては永遠の地獄以外のなにものをも与えられないのです。また、世の終わりを告げる審判の際には,天主の御子が生ける者と死せる者に裁きを下すために来られ、「人の子は、その栄光のうちに、・・・光栄の座につく。そして、・・・ちょうど牧者が羊と雄やぎを分けるように、羊を右に雄やぎを左におく。そのとき王は右にいる人々に向かい、『父に祝せられた者よ、来(なさい)、・・・』と言う。また王は左にいる人々に向かって言う、『呪われた者よ、私を離れて・・・永遠の火に入れ・・・』。そしてこれらの人は永遠の刑罰を受け、義人は永遠の生命に入るであろう」(マテオ25章31節以下参照)。甘美であると同時に、恐ろしい判決です。義人にとっては、彼らを待っている類い稀なる褒美のゆえに甘美なものですが、悪人にとっては、彼らが永遠に地獄に落とされるという恐ろしい審判のゆえに、それは恐怖に満ちた恐るべきものとなります。

このような考察をするだけで、イエズス・キリストの御国がここ地上にあるということを人々が正しく認識することが極めて重要であることが理解できます。なぜなら、この国に属するか属さないかということが、私たちの永遠の運命を決定するからです。「ここ地上に」と言ったのは、人が来世に良き報いを受けるか罰を受けるかがこの世において決まるからです。それゆえ地上では、人は、この一時的でもあり永遠でもある神聖な天主の国に入って、その一員となるべきなのです。なぜなら、天主の国はこの世において形作られていますが、天において完全に花開くからです。

現在の状況

人類を憎む敵【悪魔】の怒りは、主にキリストの王権の教理に向けられています。なぜなら、その王権はまことの天主でありまことの人である私たちの主のペルソナに繋がっているからです。19世紀の世俗主義は、フリーメーソンに煽られて、自らをさらに倒錯したイデオロギーに再編成することに成功しました。なぜならこの世俗主義は、贖い主の王権の否定を、市民社会に対してだけでなく教会の体にまで拡大したからです。

この攻撃は、ローマ教皇の持つ天主の代理者としての王権という概念そのものを教皇が放棄するというところにまで達しました。これによって、すでに国家と支配者の権威を弱体化させるために使われてきた民主主義と議会主義への要求が、教会のまさに中心にまで持ち込まれたのです。

第二バチカン公会議は、永遠の大司祭の持つ天主の王権を暗黙のうちに否定したため、教皇の君主制を大幅に弱体化させ、またそれによってそれまでキリスト教社会の世俗化に対する防壁として立っていたこの制度に対して横柄にも一撃を加えました。天主の代理者の主権は縮小し、続いて漸次、キリストの神秘体に対するキリストの主権が否定されてゆきました。そして、パウロ六世が、あたかも聖なる天主の代理者の君主制を放棄するかのような仰々しい身振りで王の三重冠を脱ぎ捨てたとき、また私たちの主からも王冠も取り去り、主の王権をただ終末論的な領域のみに限定してしまったのです。その証拠は、王たるキリストの祝日の典礼が大幅に変更され典礼年の最後に移されたことです。

この祝日の目的、すなわちキリストの社会的な王権を祝うことはまた、暦の中でその光を放っています。伝統的な典礼では、(天において)参加することによって君臨する諸聖人の祝日に先立って、御自らの権利によって君臨するキリストの祝日がくるように、10月の最終日曜日に割り当てられていました。1969年にパウロ六世によって認可された典礼改革により、王たるキリストの祝日は典礼年の最終主日に移され、キリストの王権の社会的な面が消し去られ、キリストは単なる霊的、終末論的な面へと追いやられることになったのです。

「信教の自由に関する宣言(Dignitatis Humanae)」に賛成投票し、パウロ六世と共に信教の自由を宣言したこれら公会議の教父たちは全員、自分たちが実際には私たちの主イエズス・キリストを追放し、彼の社会的な王権の冠を奪って【退位させて】しまったことを理解していたのでしょうか。彼らは、私たちと全世界の上に立つ天主としての玉座から、私たちの主イエズス・キリストを現実的に引きずり降ろして【退位させて】しまったことを理解していたのでしょうか。彼らは自分たちが背教した国々のスポークスマンとなって、これらの卑劣な冒涜をイエズス・キリストの王座に向けて投げつけたことを理解していたのでしょうか。

「私たちは彼が王になるのを望まぬ」(ルカ19章14節)、「私たちの王はチェザルのほかにはありません」(ヨハネ19章15節)と。しかし、無分別な人たちの混乱した噂に直面した主は、彼らから聖霊を取り除かれました。

偏見に目がくらんでいない人にとっては、ピオ十一世によって制定された祝日とそれによって表現された教理を矮小化しようとする邪悪な意図をここに見ないわけにはいきません。キリストの王座を社会からだけでなく教会からも奪ってしまったことは最悪の罪であって、それによって位階階級が救い主の教えの管理者としての役割を果たさなかったという汚点を残したかもしれません。

この裏切りの必然的な結果として、主によって使徒のかしらに与えられた権威は実質的に消滅してしまいました。はっきりとした異端でないとしても強く異端の疑いのある曖昧な言い回しの定式が作られる状況をつくりだした司牧性を支持し、ローマ教皇の不可謬の権威を意図的に排除した第二バチカン公会議の教令以来、私たちはこの確証を得てきました。

それゆえ私たちは、何世紀にもわたって闇の勢力がキリストの優しいくびきを拒否し、背教と罪という憎むべき暴政を国々に押し付けてきている世俗の領域において自分たちが包囲されているだけでなく、権威者が自らを破壊し、天主なる王が教会やその牧者たち、その信徒たちの上にも君臨すべきであることを否定している宗教の領域においても、自分たちが包囲されてしまっていることに気づくのです。

この場合もまた、キリストの甘美なるくびきは、世俗の革新主義者たちの権威主義と変わらない権威主義によって、新しい教理、新しい道徳、新しい典礼を押し付ける革新主義者たちの憎らしげな暴政に取って代わられています。そのようなところで私たちの主の王権が言及されるのは、別の宗教、別の教会からの気まずい遺産として扱われるときだけです。聖パウロが言ったように「天主は、惑わしを彼らの内に働かせられる。こうして彼らは偽りを信じるようになる」(テサロニケ後書2章11節)。

それゆえ、世俗において、裁判官が正義を覆して無実の者を断罪し、有罪の者を無罪にし、支配者が権力を乱用して市民を虐げ、医師がヒポクラテスの誓いに反して病気を蔓延させ、病人を慢性的な患者に変えようとする者たちの共犯者となり、教師が生徒に知識への愛を教えるのではなく無知を養い、イデオロギー的な操作を助長するように、キリストの花嫁の中心にも、みずからの非難されるべき道徳的行為によって信徒たちをつまずかせ、説教壇から異端を広め、世界統一主義(globalism)が意図した(教会の)解体計画と完全に一致して明白にフリーメーソン的な基盤に基づいた環境主義(ecologism)の名の下に、パチャママをたたえ、母なる大地(Mother Earth)を礼拝することで偶像崇拝を支持する枢機卿たち、司教たち、聖職者たちがいるのを見ても、それは不思議なことではありません。

「今はあなたたちの時である。くらやみの力だ」(ルカ22章53節)。もし私たちが、私たちの救い主、世の主、歴史の主、そして教会自身の主の約束が確実であることを知らなければ、カテコン(kathèkon)【反キリストの来臨を「止めているもの」το κατεχον】は消えてしまったように見えることでしょう。

【訳注(2020年11月5日追記):ヴィガノ大司教はここで、kathèkonと、ギリシア語の単語をラテン文字で書いて使っている。テサロニケの後の手紙の第二章には「かの者が、時いたってあらわれ出るまでとどめているのはなにかを、もうあなたたちは知っている。罪悪の奥義はすでに内にはたらいている。ただ、それを止めているものがいつか除かれるときまでのことである」とある。つまり、反キリストの来臨は、それを「止めているもの」το κατεχον(katechon)が、取り去られて無くなるまでは来ない、とされている。さてフランス語では、katechonとkathekonとを混同していることが見受けられる。例にとると、フランスのブルーノ・ラトゥールという哲学者とされる人は、ある世界的に有名になったエコロジストの少女は、黙示録的な災害を止めるkathèkonである、と感想を述べている。ヴィガノ大司教が聖書を引用して、暗闇の力の時を語っているので、反キリストの到来の時について語っているようにも思われる。英語やイタリア語やポルトガル語では、あえて訳し出そうとせずにkathèkonのままである。フランス語では、kathèkonの意味をそのままストア派の意味で取ろうとしている。スペイン語とドイツ語では、kathèkonをテサロニケ人への手紙の中にあるkatechonの意味で理解して、el katejón、der Aufhalter, vgl. 2 Thess 2,6としている。日本語訳についていえば、これを発表する時は、スペルを尊重してkathèkon を、古代ギリシアのストア派が作り出した語彙として、その意味を「ふさわしい行為」「自然に適した行為」(これは「完全な行為」に対照的な概念であるとされる)として訳した。しかし、ヴィガノ大司教のトランプ大統領への第二の公開書簡の中でその意味を正確にしているので、それを踏まえて以前の訳を訂正した。】

結論

しかし、彼らが破壊する一方で、私たちは再建するという喜びと名誉を持っています。また、さらに大きな幸福があります。それは、新しい世代の信徒たちと司祭たちが霊魂の救いのための教会の再建というこの仕事に熱心に参加していることであり、また彼らが自分たちの弱さやみじめさを十分に認識しながらも、天主の御手にある従順な道具、つまり、助けの手、強き手、全能者の手として天主に用いていただいているということです。私たちのもろさが、特にこの人間的なもろさに謙遜が伴っているところでは、これが主のみわざであるという事実がさらに明確になります。

この謙遜は「instaurare omnia in Christo(キリストにおいてすべてを復興させる)」ことへと私たちを導いてくれるはずですし、それは信仰の中心、即ち教会の公式な祈りから始まるものです。

私たちの主がその絶対的首位権を認められる典礼へと立ち返りましょう。創造主を貶め、全能の妄想の中で王に反抗する権利を主張し、主に当然なされるべき礼拝に反して自分たち自身の「non serviam(私はお仕えしない)」を口にして、被造物を誇らしげに高揚させるために、まさに天主の御稜威への憎しみから改革主義者たちが改悪してしまった、それ以前の本来の礼拝へと立ち返りましょう。

私たちの人生は一つの戦いです。聖書はこのことを私たちに思い起こさせてくれます。しかしそれは、「sub Christi Regis vexillis militare gloriamur(王たるキリストの御旗のもとに戦うを誇りとする)」(王たるキリストのミサの聖体拝領後の祈り)戦いであり、その前ではこの世や地獄の砦さえ何の力も及ばない天使の軍団の配備、という非常に強力な霊的武器をもって私たちが取り組む戦いです。

私たちの主が、(王家の血筋であることから)世襲の権利によって、(位格的結合のために)天主の権利によって、また(十字架上のみずからの犠牲によって私たちを贖われた)征服の権利によって王であられる一方、天主の御摂理の計画においては、この天主なる主権者のおそばには、聖母にして元后であり、主ご自身の荘厳なる御母、至聖なるマリアがおられることをも私たちは忘れてはなりません。

マリアが甘美にして母なる元后であることを抜きにして、キリストの王権はありえません。聖ルイ・マリー・グリニョン・ド・モンフォールが私たちに思い起こさせてくれるのは、この元后が、王の前で取り成しする王妃として、御子の御稜威の王座の前で、私たちの仲介者でいてくださるということです。

社会と国々における天主なる王の凱旋の前提は、天主がすでに私たちの心と霊魂と家族の内に君臨しておられることです。キリストが私たちの内にも君臨してくださり、キリストとともにその至聖なる御母も君臨してくださいますように。Adveniat regnum tuum: adveniat per Mariam.(御国の来らんことを、マリアを通して来らんことを。)

Marana Tha、Veni Domine Iesu ! マラナ・タ、主イエズスよ、来り給え!

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

【参考資料】【王たるキリストの祝日の賛歌より】

Vexilla Christus inclita キリストは誉れ高き御旗を
Late triumphans explicat: 凱旋して大きく広げ給う、
Gentes adeste supplices, 民々よ、跪いて来たれ、
Regique regum plaudite. 王の王に喝采せよ。
   
Non Ille regna cladibus: 彼が諸国を服従させるのは、破壊によるのでもなく、
Non vi metuque subdidit 暴力によるのでも、恐怖によるのでもない。
Alto levatus stipite, [十字架の]木に高く挙げられて、
Amore traxit omnia. 全てを愛によって引き寄せた。
   
O ter beata civitas 三重(みえ)に幸いなる国よ、
Cui rite Christus imperat, そこにキリストが合法的に命令し、
Quæ iussa pergit exsequi 天からこの世へ命じられた
Edicta mundo cælitus! 法の順守を実行する社会!
   
Non arma flagrant impia, 不敬な戦争は火を噴かず、
Pax usque firmat fœdera, 平和は条約を固め、
Arridet et concordia, 心の一致も微笑み、
Tutus stat ordo civicus. 市民秩序は安全に立ち留まる。
   
Servat fides connubia, 忠誠は、婚姻を守り、
Iuventa pubet integra, 若者は、貞潔を尊び、
Pudica florent limina 家庭生活の諸徳により、
Domesticis virtutibus. 慎み深い家族は花咲く。
   
Optata nobis splendeat 望まれたこの光は私たちに光り輝かんことを、
Lux ista, Rex dulcissime: いとも甘美なる王よ、
Te, pace adepta candida, 燦然たる平和を楽しむことにより、
Adoret orbis subditus. [御身に]服従したこの世が御身を礼拝せんことを。
   
Iesu, tibi sit gloria, イエズスよ、御身に栄光あれ、
Qui sceptra mundi temperas, 御身は世の王笏を統括し給う、
Cum Patre, et almo Spiritu, 聖父と聖霊と共に、
In sempiterna sæcula. Amen. 代々に至るまで、アメン。


「助産婦の手記」39章  新時代の一人の新市民を!

2020年09月02日 | プロライフ
「助産婦の手記」

39章

かつての職工長のシュテルンは、革命後の数週間のうちに、本当に村の厄介者となった。そして彼の奥さんも同様である。彼は、ロシヤの状態をドイツに実現する時期が到来したと信じ、そして来たるべきプロレタリヤ支配の時代について、あらゆる居酒屋で、最も美しい演説を行った。曰く、今や絶対的共産主義の理想は、ついに実現されるであろう。労働者抑圧の時代は、もはや過ぎ去った。今や工場は、共有財産となり、誰でもそれに対し同一の請求権を持つこととなるであろう。一切の生産手段は、今後は全体に属するであろう。田畑は、もはや農民各個人には属さずに、共有となり、そして農産物は、共同で取り入れられ、穀倉におさめられるであろう、と。

幸いなことには、聴衆には、来たらんとする時代への信頼が欠けていた。農民たちは、大農から小農に至るまで、改革には賛成しなかった。労働者たちは、自分たちの手で、大工場を何とか経営して行くことの不可能なことをあまりにも明瞭に認めた。彼らにとっては、車輪を再び回転させる人が誰かやって来なければならないことが、日毎にますます明白になった。なぜなら、シュテルンが希望をかけているその国家は、ちっとも建設されなかったからだ。現在の政府は、あらゆる小さな暴動の企てに対抗して、日々にますます強固になって行った。共産主義者たちが政権を掌中に収めることは、明らかに成功しなかった。そこで、ある人たちは、信念上よりして、シュテルンの運動から遠ざかり他の人々は、無気力よりしてその運動から離れた。ただ最も若い煽動者のうちの数名のみが、今なおシュテルンのお先棒をかついでいるだけであるが、彼らは終戦前の数週間中に召集された音に聞えた連中のうちから出ている。彼らは、何ものかをなし遂げるには不十分であったが、しかし常に不安をかもし、騒ぎを起し、秩序を乱すには十分であった。

そのうちに、シュテルン奧さんは、第二百十八条は、もはや廃止されたこと、婦人はすべて、もし子供がほしくなければ、それを除去してもらう権利を獲得したことを、到るところで説明することによって、婦人たちを反逆的にならせようと試みた。こういうことは、今後は全く、ただ母親の意思のみに任せられるのだ。母親は、自分の体を処分する権利があるというのである。
その頃というものは、私は古くからの神聖な道徳律を擁護せねばならぬ困難な立場にあった。多くの人々にとっては、前に述べたような新しい便利な説に従って、窮状から脱し得られるということは、非常に好都合であった。なぜなら、ロシヤ人の種が、幾つか成長しつつあったし、また幾人かの父親は、自分が作った子でないのに、家族が増したような有様であったからである。道徳は、すでにそんなに弛んでいたのであるから、それを全く破壊するには、大した手数は要しなかった。

その時、あたかも天主が御自身で、私を助けようと思われたかのような出来事が起った。少なくとも婦人たちは、そう見たのであった。私は、その考えを人に洩らしたことはなかったが。

誰あろうシュテルン奥さんが、身重になったことが判った。彼女は、そのことをちっとも秘密にしなかったのみか、却って自分はいま子供がほしいのだと、到るところで吹聴した。新時代に対して、一人の市民を送りたい、全く粒選りの優れた子孫を。すなわち、来たるべき世代において、いま生きている人間たちが仕事をするにはあまりに、もうろくした時に、父親の仕事を完成するような優秀な子孫を。
そう、新時代の一人の新市民を! 父親のシュテルンも、その子のことを、あらゆる居酒屋で吹聴した。その子は、大理想の担い手に決められていた。世界史における新時代の先駆者に。
『そんなに大きなことを言いなさんなよ。』 と村長が言った。『運命は、あんたを愚弄するかも知れませんよ。 するとあんたは、 世間の笑われ者となりますよ。』 しかし、 それは何の効き目もなかった。これより先き、シュテルンは、村役場の中に、住宅係りの小さな職分を作ってもらっていた。それは、人のよく知っている諺(ことわざ)に従ったものだ、『悪い犬には、骨を投げてやれ』と。その地位では、大した給料にありつけなかったが、彼は、自分自身を非常に重要欠くべからざるものと感じていた。
シュテルン夫婦は、生れて来ようとする子供のために、当時最も金のある人々でさえも、しなかったような準備をした。ケースやリボンのついた沢山の下着類、部屋かごと乳母車、すべてのものが用意してあった。やがて大いなる日が近づいた。産褥看護婦は、活動にはいる時機を待っていた。乳母が必要かどうかの話も出た。しかし、それには私が反対した。強い健康な婦人は、自分で子供に授乳せねばならない。今度の場合には、授乳してはいけないというような原因は、ちっともないではないか。ところが彼女は、あの周知の愚かな言い草を、私に対して並べ立てた。すなわち、授乳すると、容姿を損なう、美しさを失って醜くなり、非常に早く老いこむ、飲食物に注意せねばならない……と。それならば、子供というものは、母親がそのような犠牲を払うに値いしないものであろうか? 右に述べた抗議箇条のうち、最後のもの以外は、どれも本当ではない! 私は、子供が七人も、または、それ以上もありながら、殆んど今日の若い女と同じように、そんなに若々しく新鮮に見える母親たちを知っている!

そこで、私に反対しようとするものは、一人もいない。婦人たちは、母親というものは自分の子供に授乳すべきであるということを、私が助産婦を始めてから十年のうちに学んだのであった。それは、激しい戦いであった。私が開業した当時は、この母親の義務を履行したものは、百人中、わずかに十人あるかないかであった。あのバベット婆さんは、母親のしたい放題に任せたものだから、授乳のことなんか、婆さんにとってはどうでもよいことであった。しかし私は、それが至当だと言った。私は、もし授乳されない子供が死ぬと、母親にその責任があるように思われる。私は、強いて子供に授乳させることにした。もちろん、助産婦は、もし授乳を徹底させようと思うなら、遙かに多くの時間をかけねばならない。しかし、それは私には全く同じである。子供の授乳のために尽くすことは、私の職務上の義務に属するのであり、そして私は、それを履行しているのである。私は、このことは、もし義務がなくてもするであろう。なぜなら、それは子供のために、実に善いことだからである。

このようにして、私たちは、 シュテルンの家で、子供の生れぬうちから、もう授乳のことについて、議論した。このようなことをするのは、時間が速くたって行くために、時として全く興味あることである。さもなければ、シュテルン奧さんの精神状態では、理性的なことは一言も話すことはできなかった。そして私は、ひそかに絶えず、教会の聖なる祭壇の所の窓の燈火(ともしび)の方を、かの永遠の光の方を眺めやっていた。私には、このお産はどうも気持がよくなかった。何か起るぞという感じがした。そしてこのような予感は、私を決して欺かないのである。成程、私は、それが果して何であろうか、または、それが何処から来るかということは、言うことができない。ただ私は、何ものかが空中にただようていることを確かに知っているのである。

シュテルン奥さんは、恐ろしい身ぶりをした。彼女が、今すすり泣いたり、わめいたりしている時の有樣は、彼女が普段いつもたたいていた大口には全然ふさわしくないものだった。それは全く、石をも軟らかにするほどだった。これに反して、しっかりした母親は、しばしばいかに勇敢であり、極度の苦痛の下にありながらも、生れようとする子供に向って、いかに喜ばしそうに、ほほ笑みかけることであろうか!
『もし私がこのことを知っていたら、もしこんなとき、何を凌がねばならぬかということを予感していたら、私はこんなことを背負いはしなかったでしょう! 男たちは、うまいことを言うものですね……』
『それは、そんなに悪いものじゃありませんよ。ここで、歯を少しばかり喰いしばらねばなりません。ほかの母親たちは、子供を五人も六人も産みながら、またもや一人できれば、いつも喜んでいるのです。あなたが、赤ちゃんを産んだ後では――その時には、以前あったすべてのことは、忘れてしまいますよ……』
『あんたも、男たちと同じようなことを言いますね。あんたにとっては、それはまた何でもないばかりか、却ってそれは、あんたのパンです。しかし、私はもう二度とこういうことには、決してならないつもりです。目まいが去ったら、すぐ私は、もう一度避妊手術をしてもらいますよ。』
そこで非常な驚きのため、私は体中がぞっとした。さし迫った不吉の原因が、どこにあるかということを予感した。『では、あなたは、もう既に一度そんなことをなさったのですか?』
『もちろんですよ。あんたは、私が戦争の四年間というものを、一切の楽しみを捨てようとしたとでも思っていますか? 男たちは、前線で妻を手もとに置いていない埋め合わせを、やっていたのです。今は、正常の時代ではありません。だから、正常な定木(じょうぎ)を当てることはできないんですよ……』
『で、あなたは、レントゲン放射は、後に生れて来るかも知れぬ子供に対して、非常な害を引き起すことがあるかも知れないということを、決してお聞きにはならなかったんですか?』
『どうしてですか?』と彼女は、さすがに驚いた。
『それは、こうです。まだ非常に発育が後れていて、何年か後にはじめて成熟するような卵細胞はX光線の作用によって、全く破壊されてしまうということはありませんが、しかし、多かれ少なかれ損われ得るからです。そこで、そんな子供は、肉体的にも、精神的にも、出来損いになることがあり得るのです。』
『止して下さい――そんな恐ろしいこと―――もしも――もしも……』
『私はただ「あり得る」と言っただけです。「なるでしょう」とは言いません。個々の場合について、私たちは、何も予言することはできないんです。』

一時間後に、子供が生れた。この子ぐらい、私が憐れに思った赤ちゃんは珍しい。そうだ、親の罪悪は、報いを受ける……奇形の手足、でかい脳水腫。驚異的新時代の憐れな担い手!
母親は、その子を見たとき、髪をかきむしった。父親はわめきあばれた。自分を追って来た宿命を呪った。姑は、一日中泣きわめいた。ただ産褥看護婦だけが、その憐れな子供を気の毒に思った。私は、できるだけ両親を慰めた。
『赤ちゃんが乳離れしたら、すぐ整形外科をする治療院へ入れなさい。手足は、奇形が殆んど人に気づかれぬぐらいに直すことができます。私は、そんな子供たちを、そこで見たことがあります。入院が早ければ早いだけ、それだけたやすく、うまく行きますよ。』
私は、その子の智能も平均以下であろうと怖れていたが、そのことは黙って置いた。もし実際、そうだとすれば、両親に段々それが判って行く方が、堪えられやすいのである。
『僕の子には、洗礼は受けさせない! 僕たちは、迷信を捨ててしまったんだ。』 とシュテルンは、反対した。しかし彼の威張りは、大へん下火になった。

数日のうちに、そのことは、もう村中に知れわたった。どういう具合に、すべてのことが人々の間に知れるのか、判らない。到るところで、婦人たちは尋ねた。『リスベートさん、それは実際、ほんとですか?…』そして、たとえ誰も、そのことをあえて公然とは言わなかったが、この事件では、親が人間の芽を損なったことが子供に影響を及ぼしたのだということを、みんな感じたのであった。人は、そのような因果関係については、一つの直覚を持っている。そして多くの人の頭の中に、これに関する考えが再び明瞭になり、そして道徳的観念が再び取りもどされた。
その憐れな小さな不具者は、治療を受けた。普通の子供と同じ様に歩けるように、足を真直ぐにされた。また手も幾らか使えるようになった。しかし、憐れなその頭に欠けているものは、誰もそれを与えることはできなかった。その子は、学校へ行かないうちに死んだ。弟妹は、生れなかった。私はその子の病気の頃、しょっちゅう見舞ってやったが、父親は、ある日、こう言った。
『もしもあんたがお喜びになるのでしたら、あの子に洗礼を授けて下さってもいいですよ。神父さんは、この家には来ません。しかし、僕はあんたを喜ばしてあげたいのですが……』
私は、このことを二度と繰り返して言わせなかった。そして、今その憐れな小さな不具者は、天上の天使たちのそばにいるのである。




私たちは本当に世界の平和を求めています。本当に私たちが互いに愛し合って、赦し合って、仲良く、平和な世界を築く事ができたらどれほど良いでしょうか。その為にはどうしたら良いのでしょうか?

2020年09月02日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年8月9日(主日)聖霊降臨後第10主日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージをご紹介いたします。

 

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、今日皆さんを、シュナイダー司教様が始められた、御聖体に対する瀆聖を償う為に国際十字軍を始められた、その十字軍に、皆さんを招待したいと思っています。

ある方から、「この十字軍に参加したいけども、どうやったらいいのか?」という質問を受けました。それに答えさせて下さい。

私は、この「特にこれをしなさい」という事はないのだと思っています。ただ3つの事をする事を提案します。

1つは、御聖体が受けている罪を、冒瀆を、瀆聖を償う為に、昔ながらの、カトリックの聖伝のミサに与って下さい。

東京と大阪でミサが捧げられています。これに与って、そして跪いて、口で、舌に、敬虔に、礼拝をしながら、感謝をしながら、心を込めて、御聖体を礼拝しつつ、御聖体拝領なさって下さい。御聖体を心から口で受けて下さい。

そして第2に、御聖体に対する罪の償いの為に、ロザリオを毎日祈って下さい。
ファチマのマリア様が御出現の度に仰っていました、「毎日ロザリオを唱えなさい。」「毎日ロザリオを唱えなさい。そうすればこの世の中に平和が来るでしょう。戦争は終わるでしょう」と。

イエズス様もシスタールチアに言いました、「世界の平和は、マリア様に委ねてある」と、「マリア様が私たちに世界の平和を下さるのだ」と。

第3に、御聖体に対して私たちは特に、ファチマの天使が教えてくれた2つの祈りを唱える事に致しましょう。
私たちは東京と大阪では必ず、ミサの後の感謝の祈りに、このお祈りをずっと唱えています。2017年のファチマ100周年の時から必ず唱えています。

ですからどうぞ皆さん、この私たちのミサに与って、そしてロザリオを唱えて、このお祈りを唱えて下さい。そうしたらイエズス様はどれほどの慰めを、マリア様はどれほどの喜びをお受けになる事でしょうか。

今日は、長崎に原爆が落とされた日です。そして私たちは本当に世界の平和を求めています。本当に私たちが互いに愛し合って、そして赦し合って、そして仲良く、平和な世界を築く事ができたらどれほど良いでしょうか。

一体その為にはどうしたら良いのでしょうか?「平和」とは一体何でしょうか?

「平和」というのは、「秩序の平穏さ」である。平和の為には秩序がなければなりません。では「秩序」というのはどうやったらできるのでしょうか?

「秩序」を作る為には、「知恵」が必要です。では「知恵」というのは何でしょうか?

「知恵」というのは、「究極の深い究極の原因にまで到達する事」こそが知恵なのです。「表面的なものではなくて、深いところに行って解決する。」それが知恵です。では最も深い、鋭い知恵というのは、最も深い原因にまで到達しなければなりません。そうして解決しなければなりません。では「究極の原因」とは何でしょうか?

「天主」です。私たちを今在らしめて、生かして下さる天主です。

もしも本当の平和を求めるならば、私たちは真の天主、唯一の三位一体にまで辿り着かなければなりません。そしてこの天主を頂点として、聖父と聖子と聖霊の天主、イエズス・キリストを頂点とする秩序を作って初めて、本当の世界に平和がきます。それ以外には平和はありえません。

75年前の今日、一瞬の内に浦上の大聖堂は灰に帰してしまいました。そして一瞬の内に、聖母被昇天の為に準備をしていた浦上教会の1万2千名の長崎の信徒たちのうち8千名も、あっという間に亡くなってしまいました。

永井博士もその犠牲者の一人でした。永井博士は被爆をして、家を失い、妻を失い、全てを失ったのですけれども、子供だけは二人だけ残りました。

そして永井博士はその原爆の後で、全てを失った後に、信徒を代表してこう仰いました。これは、その全てを失った人であるからこそ仰る事ができる事であって、私たちがとてもそのような事を言う事はできませんが、しかしこの方が、その当事者が仰った事は本当に貴重です。

「長崎は、この浦上の私たちは、天主から特別に愛されて、特別に選ばれた。だからこのような苦しみを与えて下さった。このような天主様に感謝する。さあ、この私たちは喜んでこれを捧げよう」と。

何と天主様に対する従順、愛、その御旨に従おうとする心意気だったでしょうか。これこそ大和魂、これこそ日本のカトリック、これこそ昔ながらのカトリックの信仰でした。

「全ては、天主様の御旨のままに。」

天主様のその元に、私を位置付ける。これこそ平和の元でした。これのおかげで、私たちが今でも平和を、今天主様から恵まれていると信じております。それ以外ではあり得ません。

私たちがどれほどを美しい宣言文を出そうと、どれほど格好良い平和のメッセージと言ったところで、何の役に立ちません。憲法9条も役に立ちません。

その証拠はなぜかというと、今実は、長崎よりも広島よりももっと恐ろしい、原爆よりも恐ろしい、「堕胎」という行為によって、そして多くの、長崎、広島よりも多くの子供たちが、罪のない子供たちが亡くなっています。毎年。毎年。

そしてそれを守ってくれる人は、メッセージでもなくて、そして憲法でもありませんでした。多くの赤ちゃんたちが今、黙っている内に虐殺されて亡くなっています。

天主様の、私たちが天主様の元に基づいて、天主様の元に行って、そして天主様の元に秩序を立てようと思わなければ、言葉も口先だけで終わってしまうからです。

ですから私たちは、この本当の平和を求める為にも、そしてイエズス様からの祝福を受ける為にも、ぜひ国際十字軍に、罪の償いの為の国際十字軍に、皆さんが参加して下さるようにお願い致します。

そして、是非この私たちの拙い、価値のない、小さな拙いものですけれども、しかしイエズス様の憐れみによって、マリア様の御取次によって、私たちに特別の憐みが与えられると、本当の平和が与えられると信じております。

では愛する兄弟の皆さん、どうぞ寛大に十字軍に参加なさって下さい。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

世界の本当の平和はここにたどり着かなければ実現しません。シュナイダー司教様により発動された国際十字軍に参加するために3つのことを実践してください

2020年8月9日聖霊降臨後第十主日 聖ピオ十世会小野田神父からのメッセージ  ▼最新のミサ情報▼ http://www.immacula...

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シュナイダー司教様が、御聖体の罪を償う為の特別の国際十字軍を始められました。私たちはこれを聞いて大賛成で、両手を挙げてこれに参加したいと思っています。

2020年09月02日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年8月2日、聖霊降臨後第九主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介いたします。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、シュナイダー司教様が、御聖体の罪を償う為の特別の国際十字軍を始められました。私たちはこれを聞いて大賛成で、両手を挙げてこれに参加したいと思っています。

そして今日、愛する兄弟姉妹の皆さんたちを、皆、より多くの方々を、このシュナイダー司教様が始められた十字軍、国際十字軍に参加するように呼びかけたいと思います。そしてお友達の方にも、この十字軍に特に参加するように呼びかけて下さい。

特にこの8月を、この罪の償いの為に、たくさんお祈りや罪の償いを捧げる事によって、聖なる8月とする事に皆さんに知らせて下さい。お友達や隣人の方に知らせてあげて下さい。

私がこのようにお願いする理由は、1つあります。それはつい最近、ヴィガノ大司教様が、元駐米教皇大使であったヴィガノ大司教様が、アルゼンチンのある司教様に書いた手紙を読んだからです。この手紙の中には、主に3つのポイントがあります。

1つは、ヴィガノ大司教様は、「ニュースを見て非常に驚いた」と。何のニュースかと言うと、「アルゼンチンのサンラファエルのある司教様が、アルゼンチンで一番栄えている、一番神学生が多い、そして信心が深い神学校を、廃止するという決定を、ローマの承諾を以て決定した」という事を聞いたからです。

なぜ廃止するか、廃校になったかというと、理由はたった1つしかありません。それは、この校長先生が神学生たちに、「手ではなくて、口で御聖体拝領させていた」ただその為だけです。たった1つの理由の為に、廃校になりました。

校長先生は校長職を失い、仕事を失い、そして神学生たちは皆家に帰らされました。退校です。そしてアルゼンチンの、ほぼ空っぽになっている他の神学校で再教育を受けなければならなくなりました。

ヴィガノ大司教様は言います、「本当ならば、御聖体をこれほども大切にするこの司祭たち、校長先生、そして神学生たち、その家族を、褒めてあげなければならないのに、『よくこれぞ、ここまで御聖体を大切にしてくれた!どれだけ御聖体が、真のイエズス・キリストの御体であるという事を、体で、態度で示さなければならないという事を、皆さんはこの示してくれた!感謝する!さぁ、もっとやりなさい。もっと御聖体に対して、尊敬と愛を示しなさい』と、司教様は言わなければならない。」

その反対に、戦争を仕掛けられました。罰を受けられました。

ヴィガノ大司教はその同じ手紙の中で、第2の点として、スイスのやっぱりつい最近の出来事を挙げています。スイスのある教会では、女性がミサをしたそうです。祭服を着て、全てミサだったのですけれども、聖変化の言葉だけがありませんでした。それを知って司教様は、何の反応もしませんでした。どれほどの大きな違いがある事でしょうか。

「カトリック司祭は、男性だけしかできない。女性は司祭になる事ができない」というのは、カトリックの信仰です。2000年の聖伝です。それを全く司教様は、何の判断もしませんでした。むしろこれを勧めているかのようにも思われます。

第3の点に、ヴィガノ大司教がアルゼンチンのサンラファエルの司教に宛てた手紙に、「あなたの司教の紋章の中には、『父親的な、兄弟的な愛』というモットーが書かれているけれども、あなたがした最近の決断は、父親的なところは全くなく、兄弟的なところも全くなく、愛も全くない」と、「なぜこのような素晴らしい司祭や神学生に対して戦争を始めたのか」と、「あなたの回心を祈っている」と。

ですから私たちは、御聖体に対する罪の償いをしなければなりません。

愛する兄弟の皆さん、これはアルゼンチンの話だけではありません。日本でも同じ事が起こっています。

皆さんもよくご存知の通りです。つい最近ある司教区では、その司教区の典礼担当の司祭がミサを捧げていたところ、ある信徒の方が跪いたそうです。すると、その司祭は非常に怒って、そのミサを中断して、「何でそんな跪くのか!」と叱ったそうです。「でも御聖体はイエズス様がいらっしゃるじゃないですか。イエズス様は私たちの天主じゃないですか。御聖体を礼拝するのが当然じゃないですか。特に聖変化の時には、つっ立ったままいる事ができません」と。

しかし、その信徒は罰を受けました。日本での事です。

愛する兄弟の皆さん、御聖体がどれほど日本で、そして世界中で冒瀆と瀆聖を受けているか知って下さい。その私たちは、これに対する罪の償いをしなければなりません。シュナイダー司教様の仰る通りです。

ですからどうぞ、この8月を、この十字軍の為に、特に祈りと償いで捧げて下さい。私たちは天主様の御恵みによってできれば、聖ピオ十世会の修道院が日本で確立する事を祈っています。そしてこの聖ピオ十世会の修道院がぜひ、本当に、真の意味で、教皇聖下に対する奉仕と、教皇聖下に対する本当の愛と、忠誠とを示すものとなりますように。

「本当の忠誠」というのは、教皇様のなさる仕事、つまり「兄弟たちの信仰を固める」というこの事を応援する事です。これを支持する事です。信仰を破壊する事ではありません、信仰を高める事です。

そしてこの修道院では、御聖体がますます大切にされ、そしてマリア様がますます崇められるように、尊敬されるように、その為に必要な御恵みを乞い願える為にも、この8月を使って下さい。

では、シュナイダー司教様のこの国際十字軍に皆さん参加して下さる事を、あらかじめ深く感謝致します。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 

【拡散希望】ヴィガノ大司教とタウシグ司教との二つのパレーシア(臆することなく発言すること):ヴィガノ大司教のサン・ラファエル教区の神学校の閉鎖に関する手紙

シュナイダー司教様は、天主を侮辱するこれらの罪の償いのため、ファチマの天使の祈りを祈ることを呼び掛けておられます。

 

御聖体を敬わない、冒涜の罪の償いのために、国際十字軍がシュナイダー司教様により発動されました_世界で日本で御聖体を敬う者は迫害されています - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

アヴェ・マリア・インマクラータ!愛する兄弟姉妹の皆様、2020年8月2日、聖霊降臨後第九主日に東京で録画した小野田神父のメッセージをご紹介い...

御聖体を敬わない、冒涜の罪の償いのために、国際十字軍がシュナイダー司教様により発動されました_世界で日本で御聖体を敬う者は迫害されています - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

 


聖母の汚れなき霊魂の愛はあまりにも強く、もはや霊魂を体に留めておく事ができないほど、天上の事を慕い求めておられた

2020年09月02日 | お説教・霊的講話

栄えの玄義第4玄義黙想 
2020年8月1日(土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

『栄えの玄義 第4玄義:この一連を捧げて、聖母の被昇天を黙想し、その御取次ぎによりて、善き終わりを遂ぐる恵みを乞い願わん。』

マリア様からのお求めに従って、ロザリオの玄義の1つを、15分間黙想致しましょう。8月は聖母の被昇天をお祝いしますので、栄えの玄義の第4、「聖母の被昇天」を黙想致しましょう。

主の御復活と御昇天の後に、使徒聖ヨハネの元に引き取られた天主の御母、聖母マリア様。マリア様の想いはいつも、イエズス・キリスト、イエズス・キリストの贖いの業を黙想する事、その聖心の愛を黙想する事でした。

マリア様の汚れなき御心も、イエズス様の聖心の愛を黙想すればするほど、ますます愛に燃え上がり、地上の事はますます遠くに、天上の事をますます熱心に乞い求めるばかりでした。

汚れなき御心の、汚れなきマリア様の御体が弱っていったというよりは、その御体の力が尽きたというよりはむしろ、マリア様の汚れなき霊魂の愛があまりにも強く、もはやその霊魂は体に留めておく事ができないほど、天上の事を慕い求めておられました。

私の霊魂の中に燃える火は、チョロチョロと、風が吹けばあっという間に消え去ってしまうような、風前の灯のような、弱々しい、くすぶったものでしかありません。

聖アウグスティヌス、聖ドミニコ、アシジの聖フランシスコ、聖イグナチオ、あるいは日本の殉教者、あるいは諸聖人、多くの諸聖人たちの轟々とする大きな燃える炎を見ると、全く何でもないかのように、消えつつある炎であるかのように、燃えています。

しかしその諸聖人たちの愛の炎も、マリア様の愛の炎と比べると、比較もできないほど小さく、弱々しく見えてしまいます。


聖母のなす一言の言葉、あるいはなさる息、あるいはその見る視線、その心臓の鼓動、それは全て、イエズス様の為にのみ捧げられて、行なわれていました。

「仰せの如く、我になれかし。御旨が行なわれん事を。」それだけがマリア様の願いでした。

イエズス・キリストの御旨は、マリア様が天の最も高い所に上げられ、体の腐敗を見る事なく、汚れなく守られ、傷なく、美しく、天に上げられる事でした。

イエズス様は、罪無きマリア様の捧げられた全ての苦しみ、イエズス様と一緒に贖いの業をなさったその功徳、マリア様のその従順、ご謙遜、全て感謝し、マリア様に最も相応しい報いと褒美を、栄誉を御与えしようと思われます。


今日、2020年9月2日は、九月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2020年09月02日 | カトリックとは

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2020年9月2日は、九月の初水曜日(月の初めての水曜日)です。
初水曜日に「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


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