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2020年8月15日(土)秋田巡礼 聖母被昇天の大祝日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は聖母の被昇天の大祝日です。主日と同じ程大切な日ですので、少し黙想する事を許して下さい。
ピオ十二世教皇様は、昔からの使徒から伝えられた信仰でしたが、この被昇天の玄義が現代の人によって忘れ去られる、あるいは、「信じられなくても良いのではないか」という疑問が湧いてきたので、それをはっきりとさせる為に、1950年、今から70年前、11月1日、「マリア様は、その人生の終わりに、その肉体と霊魂をもって天に上げられた」と、宣言しました。
では、このマリア様の被昇天は私たちに、現代の私たちに一体何を教えているのでしょうか?
マリア様は、被昇天の玄義は私たちに、「イエズス様が伝えて下さった最も大切な事は、天の国の事にある」という事を教えています。「超自然の事にある」という事を教えています。
「私たちは超自然の命を、超自然の天主の命を頂いている」という事を信じています。「天主の子供に、養子に遺産相続された」という事を信じています。
この「天上の事を信じている」というのが、私たちの御子イエズス・キリストが天から降って、私たちに伝えて下さった事です。
ですからこの超自然の命を生きる為に、太古から、初代教会から、多くの人たちは全てをしてきました。ある者は隠遁生活、ある者は修道生活、ある者は殉教、ある者は宣教師となって、ある者は司祭となって、ある者は命をかけて、このイエズス・キリストの大切な超自然の命を守ろうと、あるいは伝えようと、広めようとしました。
そして家庭生活は、イエズス・キリストへの信仰で満ちていました。家庭での家族の祈り、あるいは家庭での一番大切なものは、イエズス・キリストの十字架などでした。
このカトリックの教えによれば、私たちにとって信じるべき事は、私たちにとって大切なものは、私たちが自由、自分の面白い事、面白おかしい事を話したという事ではありません。むしろ天の事を求めるあまり、地上の事はあまり関係ない、むしろ軽蔑、地上の事よりももっと天上の事を大切にしたい、という事でした。
ですから、たとえあばら家でも、子供たちがたくさんいる家庭、祈りに満ちた家庭を築く事に、喜びを見出していました。
マリア様の被昇天は、この「天上の信仰」に対するのみならず、「希望」も天に上げていました。
私たちが希望するものは、「永遠の命」です。マリア様のいらっしゃる天国です。「マリア様のすぐ傍に、諸天使と一緒に、天主三位一体を讃美したい。」これです。
私たちの希望は決して、現代の世界の言うように、人類の進歩、あるいは科学技術の発達というものでありませんでした。地上の事ではありませんでした。
マリア様の被昇天が教える事は、「天上への愛」です。
マリア様は、イエズス様を愛するその愛のあまりに、その霊魂は肉体に留めておく事ができませんでした。マリア様が天の事を愛したように、天主を愛したように、そして天主を愛するが為に隣人たちに憐れみと愛で接していたように、カトリック教会は、天国への愛を、天主への愛を、全てに超える愛を教えています。
今のように地上への、地球を大切にするとか、資源を大切にするとか、絶滅危惧種を守るとか、もちろん天主様の被造物ですから大切ですけれども、全てに勝る天主への愛を語らないと、全てに超える天主への信仰と、希望と、愛を語らないという事は、イエズス様がもたらしたその最も大切なものを無視する、あるいは暗黙の内に否定する、という事に繋がってしまいます。
ですから天主の、天上の事を語らない現代では、神学校は空っぽですし、修道院も空っぽですし、カトリックの家庭も、キリストのない家庭となって、十字架のない家庭となって、そして実りのない家庭となってしまって、ただ一緒にご飯を食べる、その場所だけになってしまいます。
では愛する兄弟の皆さん、今日マリア様の被昇天、私たちも、心をいつも天に上げている事ができますように、お祈り致しましょう。そして私たちも遂に、マリア様の被昇天を祝う私たちも遂に、マリア様と共に、永遠の命という最も大切なイエズス様がもたらした事を得る事ができますように、お祈り致しましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
2020年8月13日(木)秋田巡礼 御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
御聖体の内に真にましまし給うイエズス様の聖心の御前で、礼拝と、感謝と、讃美、私たちの罪の償い、全ての御恵みを乞い求めましょう。
御聖体の内に真にましますイエズス様の、天主の御目には、どれほどマリア様を評価しておられるか、天主の御目にとって、マリア様とはどれほど素晴らしい方であるか、どれほど聖なる方で、イエズス・キリストがどれほど愛されておられるか、そのマリア様の秘密を私たちに教えて下さるように、私たちもマリア様のその偉大さを知る事ができますように、お願い致しましょう。
イエズス様だけが御存知の、マリア様のその成聖の聖徳の秘密を、私たちも垣間見る事ができるように、特別の御恵みを与えて下さい。
天主三位一体の、閉ざされた秘密の庭園、全く美しい、誰も人の入る事ができないその庭、その輝きと、素晴らしさと、美しさを、私たちも少し理解する事ができるように、特別の御恵みを与えて下さい。
この被造物が決して知り尽くす事ができない、マリア様の聖徳の輝き、その持つ威光、憐れみの深さ、その天主に対する愛、天主聖霊と全く一致せられたその霊魂の浄さ、はるかに、私たちのはるかに遠くにある燦然とした輝きを、私たちが近付いて理解する事ができますように。
御聖体の内に真に隠れてましますイエズス様の愛の聖心。イエズス様は、この地上で生活している間、マリア様にいつも従順である事によって、天主聖父に最高の栄光を帰す事を良しとされました。全世界に大奇跡を行なうよりも、世界の皇帝となるよりも、全人類からの賞賛を浴びるよりも、30年間の隠れたナザレトでの生活の方が、マリア様に対する愛の方が、価値があると、永遠の知恵は思われました。
もしもイエズス様がそうなさったのであれば、私たちにとっても、最も価値がある事は何か分かります。
ファチマのシスタールチアは言いました、「天主は、人類に最後の、最後の救いの手段を与える事を望んだ。それが『ロザリオ』であり、『聖母の汚れなき御心に対する信心』である。これが最後の手段であって、この次はない」と。
イエズス様は、この最高の最終兵器を、私たちに与えようと思っておられます。
2020年8月8日(土)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
御聖体の内に真に在し給うイエズスの聖心の前で、しばらく、礼拝と感謝を御捧げ致しましょう。
世界中のカトリック司祭が、御聖体とマリア様を大切にし、信じようとし、教会のこの2つの宝を、多くの信徒たちに恵みを分け与える事ができますように。
カトリック司祭が、世界中のカトリック司祭が、御聖体の内に真にイエズス様が在す事を深く確信して、御聖体を聖なるものとして、大切に礼拝し、そしてこれを信徒らにも深く礼拝させますように。決して粗末に御聖体を取り扱う事がないように。
願わくは、世界中のカトリック信者たちが、御聖体を大切にする司祭、良き牧者の声を聞きますように。御聖体の事を気にもかけない雇い人の声ではなく、イエズス様の声を聞きますように、良き牧者の声を聞きますように。
十字架の上でイエズス様がマリア様を使徒ヨハネにお委ねになったように、使徒ヨハネもマリア様をご自分の母として敬ったように、司祭たちもマリア様を敬い、マリア様に対する信心を伝えますように。
教会で2000年間敬ってきた、天主の御母聖マリア。マリア様に対する信心を、司祭たちが讃えますように。母なる大地でも、パチャママでも、自然環境でもなく、私たちに救いをもたらして下さるマリア様。
2020年8月7日(初金)御聖体降福式にて
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父
御聖体の内に真に在し給うイエズス様の聖心の受ける侮辱、冒瀆を償う為に、礼拝と、讃美と、感謝を御捧げ致しましょう。
ニュース報道によると、もうすぐ私たちはバチカンの大改革の事を聞く事になっているとのことです。教皇様は、取り返しがつかない、後には戻れないほどの改革をすると、発表されるとのことです。もう教皇様はサインをした、とのことです。使徒憲章という一番強い法令で、改革をするとの事です。
カトリック教会の為に、この初金曜日の、この御聖体降福式を御捧げ致しましょう。
改革に於いて、カトリック信仰は、その正統な信仰を守るという事はどうでもよくなってしまう恐れがあります。
教理聖省が無くなってしまって、聖職者と平信徒の区別も非常に曖昧になる改革が準備され、それが発表されようとしているとのことです。「福音宣教」がもっとも大切になり、さらに、これからは女性も含めて、平信徒も、バチカンの長官になる事ができる、等。
御聖体に在すイエズスの聖心の特別の御憐れみを乞い願いましょう。
カトリック教会のこの不安定さは、この全世界の不安定を引き起こすきっかけとなる可能性があります。
これをきっかけに、例えばコロナウィルスをきっかけに、全世界をリセットしようと、今までの世界とは全く別の世界を作ろうと、この動きが大きく、ますます大きくなる危険があります。
イエズス様にひたすら憐れみを乞い願いましょう。
イエズス様の御恵みによって、御憐れみによって、特別な御助けによって、イエズス様の涙、イエズス様の訴えに、イエズス様の聖心の呼びかけに、応える事ができますように。
2020年9月13日は、聖霊降臨後第十五主日(二級祝日 典礼色:緑)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします
【ミサ聖祭】キリストは、われらの生命であり、復活である。ナイムの若者は、罪によって死ぬ教会の子らをかたどっている。教会が、彼らのために祈るので〈入祭文。集禱文〉、主は再び彼らを生かし、新しい歌をうたいうるようにさせ給うのである。〈奉献文〉主はあわれみの天主であり、たえず御慈悲を下し給う。しかし、思いあやまってならぬことは、天主のあわれみにたのみすぎ、天主をあなどってはならぬということである。われらが復活の霊を受けたのは、肉の人間としても業を行うためではなく、霊にしたがって生きるためである。だから、生きている間に、善を行うように心がけねばならない。
今天圣教又揭示我们,叫我们再次见到自从领洗以后,直至获得天上的永生,圣体的作用是怎样发挥我们心中的神生。耶稣是叫死人复活的(福音)。祂在圣洗中复活了我们的灵魂,而叫我们得天主子女的生命。在世界末日时,祂又将复活我们的肉身。从现今直至世界末日,我们的神生该于试探中长大与发展。为此,每主日在重行救赎我们的圣祭——弥撒中,我们来找求我们神生所需要的神粮:因为基督以自己的圣体滋养我们(领主咏),同时,又把祂的圣神赐给我们,使我们在祂的教会中长大,成为真实的基督徒,即献身为天主及为我们兄弟服务(书信)。
Dominica Decima quinta post Pentecosten | 聖霊降臨後第十五主日 | 降临后第十五主日 | 성신 강림 후 제 십오 주일 |
II Classis | 二級祝日 | 复式【绿】 | (2급) 초록색 |
Ant. ad Introitum. Ps. 85, 1 et 2-3. | 入祭文 詩篇 85ノ1、 2-3. | 进台咏(咏85:1,2-3) | 초입경(성영85.1,2-3) |
Inclína, Dómine, aurem tuam ad me, et exáudi me : salvum fac servum tuum, Deus meus, sperántem in te : miserére mihi, Dómine, quóniam ad te clamávi tota die. | 主よ、御身の耳を私に傾け、私の祈りを聞き入れ給え、我が天主よ、御身に希望する下僕を救い給え。主よ、私を憐み給え、終日私は御身に叫んだ。 | 上主啊!求祢侧耳俯听我。我的天主啊!求祢救拔这依靠祢的仆人。吾主啊!求祢怜恤我,因我终日向祢哀号。 | 주여 네 귀를 내게 기울이사 나를 들어 허락하시고, 내 천주여 네게 바라는 종들을 구원하소서. 주여 나 또한 종일 네게 부르짖었으니 나를 긍련히 여기소서. |
Ps. ibid., 4. | 詩篇 85ノ4 | 咏85:4 | (성영85.4) |
Lætífica ánimam servi tui : quia ad te, Dómine, ánimam meam levávi. | 御身の下僕の霊魂を喜ばせ給え、主よ、私は私の霊魂を挙げ奉る。 | 吾主啊!求祢使祢仆人的灵魂愉快,因为我向祢举起了我的灵魂。 | 주여 나 내 영혼을 네게 받들어 드렸사오니 네 종의 영혼을 기쁘게 하소서. |
V/.Glória Patri. | V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。 | 光荣归于父......。 | 영광이 부와 자와 ... |
Inclína, Dómine, aurem tuam ad me, et exáudi me : salvum fac servum tuum, Deus meus, sperántem in te : miserére mihi, Dómine, quóniam ad te clamávi tota die. | 主よ、御身の耳を私に傾け、私の祈りを聞き入れ給え、我が天主よ、御身に希望する下僕を救い給え。主よ、私を憐み給え、終日私は御身に叫んだ。 | 上主啊!求祢侧耳俯听我。我的天主啊!求祢救拔这依靠祢的仆人。吾主啊!求祢怜恤我,因我终日向祢哀号。 | 주여 네 귀를 내게 기울이사 나를 들어 허락하시고, 내 천주여 네게 바라는 종들을 구원하소서. 주여 나 또한 종일 네게 부르짖었으니 나를 긍련히 여기소서. |
Oratio. | 集祷文 | 集祷经 | 축문 |
Ecclésiam tuam, Dómine, miserátio continuáta mundet et múniat : et quia sine te non potest salva consístere ; tuo semper múnere gubernétur. Per Dóminum. | 主よ、御身の教会をたえざる御あわれみが浄め強めんことを。御身なくしては[教会が]安全に留まり得ないゆえに、御身の助力により常に統治されんことを。天主として、(…)。 | 主,求祢依着祢的仁慈,时时刻刻洁净与护佑祢的教会。因为没有祢,她便不能保持安全,望祢常施恩佑,使她得到祢的照管。因我们主……。 | 주여 네 항구한 인자로 네 성교회를 조찰케 하시고 호위하소서. 너 없이는 저 스스로 보존치 못할 것이오니, 네 은혜로 항상 다스리시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과 ... |
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Gálatas. | 使徒パウロの、ガラツィア人への書簡の朗読 | 书信 | 서간경 |
Gal. 5, 25-26 ; 6, 1-10. | ガラツィア 5ノ25-26 ; 6ノ1-10. | (迦5:25-26;6:1-10) | (갈라타서5.25,26, 6.1-10) |
Fratres : Si spíritu vívimus, spíritu et ambulémus. Non efficiámur inanis glóriæ cúpidi, ínvicem provocántes, ínvicem invidéntes. Fratres, et si præoccupátus fúerit homo in áliquo delícto, vos, qui spirituáles estis, huiúsmodi instrúite in spíritu lenitátis, consíderans teípsum, ne et tu tentéris. Alter alteríus ónera portáte, et sic adimplébitis legem Christi. Nam si quis exístimat se áliquid esse, cum nihil sit, ipse se sedúcit. Opus autem suum probet unusquísque, et sic in semetípso tantum glóriam habébit, et non in áltero. Unusquísque enim onus suum portábit. Commúnicet autem is, qui catechizátur verbo, ei, qui se catechízat, in ómnibus bonis. Nolíte erráre : Deus non irridétur. Quæ enim semináverit homo, hæc et metet. Quóniam qui séminat in carne sua, de carne et metet corruptiónem : qui autem séminat in spíritu, de spíritu metet vitam ætérnam. Bonum autem faciéntes, non deficiámus : témpore enim suo metémus, non deficiéntes. Ergo, dum tempus habémus, operémur bonum ad omnes, maxime autem ad domésticos fídei. | 兄弟たちよ、私たちが霊によって生きているのなら、また霊によって歩もう。いどみあい、ねたみあって、虚栄を求めることのないようにしよう。兄弟たちよ、もしある人の過失を見つけたなら、霊の人であるあなたたちは、柔和な心をもって、その人を改めさせよ。そして、自分も誘われないように気をつけよ。たがいに重荷を負え。そうすれば、あなたたちはキリストの法をまっとうできる。何者でもないのに、何者かであるかのように思うのは、自分を欺くことである。各々自分のおこないをしらべよ。そうすれば、他人についてではなく、自分についてだけ誇る理由を見出すであろう。各々自分の荷を負っているからである。みことばを教えてもらう人は、教える人に自分のもちものを分け与えよ。自分を欺いてはならない。天主を侮ってはならない。人は蒔くものを収穫するからである。すなわち自分の肉に蒔く人は、肉から腐敗を刈り取り、霊に蒔く人は、霊から永遠の命を刈り取る。善をおこないつづけて倦んではならない。たゆまず続けているなら、時が来て刈り取れる。だから、まだ時のある間に、すべての人に、とくに信仰においての兄弟である人々に、善をおこなえ。 | 弟兄们:如果我们依着灵性而生活,就随它的指导而行动吧。我们不要贪求虚荣,彼此激怒,互相嫉妒。弟兄们,如果有人陷于什么过失,你们这些受灵性指导的人,要用温和的心情劝他归正;各人自己也要小心,免得陷于诱惑。你们要互负彼此的重担,这样就成全了基督的法律。人本来不算什么,若自以为大,便是自欺自骗。各人要检讨自己的行为,然后在自己个人方面,或许还能夸耀,在别人方面却不能;因为、各人应负起自己的重担。听道受教的人,要把自己所有的一切,和施教的人共同享用。不要陷于错误,天主是不可轻侮的。种了什么,就收获什么。在肉体中播种的,将来要由肉体收获腐朽。在灵性中播种的,将来要由灵性收获永生。我们行善不要松懈;如果我们不松懈,到了既定的时刻,便要收获。所以趁着我们还有时间,要对一切人行善,尤其是对于我们信主的一家人。 | 형제들아 우리가 만일 영신으로 살진대 또한 영신으로 행할지로다. 우리는 허영을 좋아함으로써 서로 싸움하고 서로 시기하는 자 되지 말지로다. 형제들아 어떤 이가 만일 뜻밖에 범죄하였을지라도, 너희는 영신적으로 사나니, 자기도 유감을 당할까 조심하여 저를 양선한 정신으로 가르칠지어다. 너희는 서로 너희 짐을 질지니 이에 그리스도의 법을 준행할지로다. 대저 누 만일 아무것도 아닌 자기를 무엇으로 생각하면 저는 스스로 속음이니라. 각각 자기 행실을 시험할지니 그리하면 남에게 자랑하지 아니하고 자기 안에 자랑할 것인지라 대저 각기 자기짐을 질 것임이니라. 도리를 배우는 자는 가르치는 자에게 제 모든 소유물을 나눠줄지어다. 스스로 속지 말라. 천주는 조롱을 받지 않으시나니 대저 사람은 그 심으는 바를 거두리라. 즉 육신에 심으는 자는 육신에서 부패를 거두고, 영신에 심으는 자는 영신에서 영생을 거두느니라. 그러므로 우리는 선을 행함에 피곤하여 말지니 피곤하지 아니하면 저때에 거둘것임이니라. 우리는 시간 있을때까지 모든이에게 선을 행할지니 특별히 신앙의 가족들에게 할지니라. |
Graduale. Ps. 91, 2-3 | 昇階誦 詩篇 91ノ2-3 | 台阶咏(咏91:2-3) | 층계경(성영91.2,3) |
Bonum est confitéri Dómino : et psallere nómini tuo, Altíssime. | 善きことかな、主を告白し御名に詩を歌うのは!いと高き御者よ。 | 至高者上主啊!赞美祢、歌颂祢的圣名,这本是件美事。 | 주께 찬미를 드림이 좋으니 지극히 높으신 자여 네 이름에 노래를 부름이 좋으니이다. |
V/. Ad annuntiándum mane misericórdiam tuam, et veritátem tuam per noctem. | V/. 朝には御身の憐みを、夜には御身の真理を告げるために。 | 清晨传扬祢的仁慈,夜间传扬祢的诚实。 | 아침에 네 자비하심을 보하고 저녁에 네 진실하심을 보함이 좋으니이다. |
Allelúia, allelúia. V/.Ps. 94, 3. | アレルヤ、アレルヤ。V/.詩篇 94ノ3. | 阿肋路亚。阿肋路亚!(咏94:3) | 알렐루야 알렐루야.(성영94.3) |
Quóniam Deus magnus Dóminus, et Rex magnus super omnem terram. Allelúia. | 主は偉大な天主、全地の上に[君臨する]偉大な王なり、アレルヤ。 | 上主是尊大的天主,是普世的大王。阿肋路亚。 | 주는 크신 천주시요 보세에 대왕이시로다. 알렐루야. |
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Lucam. | ルカによる聖福音の続誦。 | 福音 | 복음 |
Luc. 7, 11-16. | ルカ 7ノ11-16. | (路7:11-16) | (성루까7.11-16) |
In illo témpore : Ibat Iesus in civitátem, quæ vocátur Naim : et ibant cum eo discípuli eius et turba copiósa. Cum autem appropinquáret portæ civitátis, ecce, defúnctus efferebátur fílius únicus matris suæ : et hæc vidua erat : et turba civitátis multa cum illa. Quam cum vidísset Dóminus, misericórdia motus super eam, dixit illi : Noli flere. Et accéssit et tétigit lóculum. (Hi autem, qui portábant, stetérunt.) Et ait : Adoléscens, tibi dico, surge. Et resédit, qui erat mórtuus, et cœpit loqui. Et dedit illum matri suæ. Accépit autem omnes timor : et magnificábant Deum, dicéntes : Quia Prophéta magnus surréxit in nobis : et quia Deus visitávit plebem suam. | そのとき、イエズスがナインという町においでになったときも、弟子たちとおおぜいの人とがついてきていた。イエズスが町の門に近づかれたとき、かつぎ出されてくる死人におあいになった。それはひとり息子で、その母親はやもめだった。町の人も大勢、その母親といっしょについてきていた。さて、やもめを見てあわれにお思いになった主は、"泣くではない"といい、棺に近づいて手をおふれになったので、かつぐ人も足をとめた。イエズスが、「青年よ、私がいう。起きよ!」とおおせられると、死人は起きなおって、ものをいいはじめた。イエズスは、息子を母親におわたしになった。人々はおそれ、天主をあがめ、「偉大な預言者がわれわれの中に出た!」とか、「天主が、み民を訪れてくださった!」などといった。 | 那时候,耶稣到一个名叫那应的城里去。祂的门徒和一大群人同着祂走。走近城门,有人出丧,是一个独生子,而母亲又是寡妇,有许多城里的人陪着她。主一看见那个寡妇,就可怜她,对她说:“不要哭。”于是上前按着棺材,抬的人就停下来。耶稣说:“少年!我命你起来。”那死人就坐起来,开口讲话。耶稣把他交给他的母亲。众人都不禁大为惊骇,光荣天主说:“一位大先知在我们中间出现了!”又说:“天主眷顾了祂的百姓。” | 유시에 예수 나임이라 부르는 읍내로 가실새, 그 제자들과 및 많은 백성도 함께 행하여 성문에 가까이 오실 즈음에 마침 죽은자를 행상하여 나가니 이는 과부의 외아들이요 또 읍내의 많은 백성이 그 과부와 한가지로 오더라. 주 그 과부를 보시고 측은한 마음이 감동하사 저에게 가라사대 '울지말라' 하시고 가까이 가사 상여를 붙잡으시니 (메고 가는 자들이 머무는지라) 이에 가라사대 '소년아 나 네게 명하노니 일어나라' 하시매 죽었던자 일어나 앉아 비로소 말하는지라. 이에 저를 그 어미에게 주시니 모든 이가 놀라 천주를 찬송하여 이르되, '큰 선지자 우리 중에 나심이로다. 천주 자기 백성을 돌아 보심이로다' 하더라.)(신경 외움) |
Credo | 信経 | 信经 | 신경외움 |
Ant. ad Offertorium. Ps. 39,2,3 et 4. | 奉献文 詩篇 39ノ2, 3 ,4. | 奉献咏(咏39:2,3,4) | 제헌경(성영39.2,3,4) |
Exspéctans exspectávi Dóminum, et respéxit me : et exaudívit deprecatiónem meam : et immísit in os meum cánticum novum, hymnum Deo nostro. | 私は主を待ちに待ち望んだ。そして主は私をかえりみ給うた。主は私の願いをききいれ給うた。私の口に、新しい歌を、我らの天主への讃歌を置き給うた。 | 我曾耐性地仰望上主,祂垂顾了我;祂听了我的哀呼,并教我的口,讴唱新歌,就是赞扬我们天主的歌曲。 | 나 기대를 가지고 주를 기다리매 저 나를 돌아보사 내 기구를 들으시고 천주를 찬미할 새로운 노래를 내입에 넣으셨도다. |
Secreta. | 密誦 | 密祷经 | 묵념축문 |
Tua nos, Dómine, sacramenta custodiant : et contra diabólicos semper tueántur incúrsus. Per Dóminum. | 主よ、御身の秘蹟がわれらを守らんことを。悪魔の攻撃に反対してわれらを守らんことを。天主として(…)。 | 主,祈望祢的奥迹护卫我们,并保佑我们于魔鬼的攻击。因我们主……。 | 주여 네 성사로써 우리를 보호하시며 또한 그로써 우리를 항상 마귀의 모든 습격에 호위하시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과... |
Præfatio de sanctissima Trinitate | 三位一体の序誦 | 天主圣三的颂谢引 | 성삼감사경 |
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : Sanctus… | 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… | 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣…… | 주여, 성부여, 전능하시고 영원하신 천주여, 우리가 어디서나 항상 주께 감사하는 것이 참으로 당연하고 옳으며, 지당하고 구령에 유익하나이다. 주는 외아들과 성신과 더불어 오직 한분의 천주시요, 오직 한분의 주이시되, 한 위가 아니시고, 한 체로서 세 위시니이다. 주의 계시로 우리가 주의 영광에 대하여 믿는 바를, 성자와 성신에 대하여서도 조금도 다름이 없이 믿나이다. 그리하여 우리는 참되시고 영원하신 천주성을 찬미함에 있어, 위로서는 각 품이시요, 체로서는 하나이시요, 지존하시기는 같으심을 찬송하나이다. 천신들과 대천신들 및 케루빔과 세라핌이 이를 찬양하며, 날마다 간단없이 제창하나이다. 거룩하시다, 거룩하시다, 만군의 천주이신 주는 거룩하시나이다. 하늘과 땅에 주의 영광이 가득하나이다. 천상에 좌정하신이여 호산나, 주의 이름으로 오시는 이는 찬미받아지이다. 천상에 좌정하신이여 호산나. |
Ant. ad Communionem. Ioann. 6, 52. | 聖体拝領誦 ヨハネ 6ノ52 | 领主咏(若6:52) | 영성체경(성요왕6.52) |
Panis, quem ego dédero, caro mea est pro sǽculi vita. | 私の与えるパンは、世の生命のための私の肉である。 | 我要给的粮食,就是我的肉,作为世界的生命。 | 세인을 살리기 위하여 내가 줄바 떡은 곧 내 살이니라. |
Postcommunio. | 聖体拝領後の祈 | 领后经 | 영성체후축문 |
Mentes nostras et córpora possídeat, quǽsumus, Dómine, doni cæléstis operátio : ut non noster sensus in nobis, sed iúgiter eius prævéniat efféctus. Per Dóminum. | 主よ、願わくは、天の賜のはたらきが、我らの心と体とを掌握せんことを。そは、我らのうちにある我らの[人間的な]考えではなく、この[秘蹟の]影響が常に[我らにおいて]優位にならん為なり。天主として、(…)。 | 主,祈望祢的天恩,凭藉它的功用占有我们的身心,使在我们身上,时时统制着圣事的效能,以替代我们私意的主张。因我们主……。 |
주여 비오니 네 천상 예물로 하여금 우리 영육을 차지하여 관리케 하소서. 우리 자의로 행치 말게 하시고 오직 그 작용으로써 우리를 다스리시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과 ....
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