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聖アントニオの挑戦状と御聖体の奇跡

2021年06月08日 | お説教・霊的講話

2021年6月6日 ドモルネ神父のメッセージ


1. 聖アントニオの話

今日は、御聖体をお祝いしていますが、6月13日は、パドヴァの聖アントニオの祝日でもあります。これから、本当に起こった、ある出来事をご紹介しましょう。

12世紀から13世紀にかけて、聖アントニオが生きた時代には、アルビ派という異端が存在していました。この異端は、全実体変化の真理を否定し、聖別されたホスチアが真にキリストご自身の御体であることを否定していました。この異端の主張は、このホスチア、すなわちパンはキリストの象徴、つまりキリストを思い起こす方法にしか過ぎない、というものでした。

聖アントニオは、この異端の人々を真の信仰に連れ戻そうと、フランスのツールーズの町にいた異端の人々に説教をしに行きました。そこでは、バルナヴェルという名前の商人が、公の場で聖アントニオに大変強く反論したため、聖アントニオは、この哀れな人よりも、動物さえもが天主の御言葉にもっと敬意を払っている、と宣言するに至りました。この商人は、自分が愚かな動物に例えられたとして、大いに怒りました。

ところが、聖アントニオはこの商人に、ある挑戦状をつきつけたのです。その挑戦とは次のようなものでした。

この商人は、自分の持っているラバに三日間えさを全く与えず、その後、このラバを町の広場の公衆の面前に連れてくること。商人は、このラバのために、最高の新鮮なえさを準備して、広場の一方に陣取ること。他方、聖アントニオは、御聖体を持って、広場の反対側に陣取ること。そうすれば、ラバがどのように行動するかを、誰もが見ることができる。もし、この空腹のラバが、エサに向かって突き進まず、御聖体におけるキリストの実存を認めるならば、商人はローマ・カトリックの信仰の真実を認めること。すると、この商人は、この挑戦を受けて立つことにしました。

そこで、その日から三日間、ラバにはエサが少しも与えられませんでした。一方、聖アントニオは、異端派の人々の回心のために、断食と祈りとを熱心に行いました。三日の後、沢山の人々が見守る中、お腹のすいたラバが町の広場の中央に連れてこられました。商人は、このラバ用の沢山の新鮮なエサと共に、広場の片方の隅に陣取りました。聖アントニオは、上着の内側に御聖体を持ったまま、反対側の隅に陣取りました。お腹のすいたラバは、エサの匂いがすると、商人の方に歩き始めました。

そこで聖アントニオは、上着の下から御聖体を取り出して、それを高く指し挙げ、創造主に敬意を示すよう、ラバに命じたのです。すると突然、ラバは商人の方から方向転換して、聖アントニオの近くにまで来て、御聖体の前でひざまずいたのです。

商人はラパを鞭打って、その場から離れさせようと懸命に努力しますが、ラバは動きません。遂に、天主の御恵みにうたれた商人は、御聖体の真理を認めました。この商人は、ローマ・カトリック教会の教える、聖別されたホスチアにはキリストが実存する、という真理を告白したのです。

2. つぐない

もう一つ、お話ししておきたいことがあります。今日私たちは、私たちの主イエズスが私たちに御聖体をくださったことを喜び、そしてその感謝に満たされています。

しかしまた、このことも忘れてはいけません。ご自分の御聖体という最も尊い賜物を私たちが受けられるようにしてくださるために、主イエズスは、不注意な人たちによる数々の不敬の行為ばかりか、無数の恐るべき冒涜の行為をも甘んじて受けておられるのです。

教会で、聖別されたホスチアを盗む人たちがいます。このような人たちは、御聖体を刺したり、燃やしたり、あるいは人糞と混ぜたりするような、あらゆる種類の恐るべき冒涜の行いをするのです。また、私たちの主イエズスをあざ笑い、おとしめ、侮辱するために考え得るあらゆることを行う、忌まわしく、みだらな儀式を行うのです。自らの司祭職にそむき、何らかの理由から、黒ミサを執行することを引き受ける司祭たちがいます。黒ミサというのは、聖なるミサを冒涜する真似事の式で、そこでは、そのような哀れな司祭たちがパンとぶどう酒をキリストの御体に聖別した上、それを悪魔に捧げ、そのうえ恐ろしい涜聖の行為を行うのです。

なぜ、そのような忌まわしい行為を行うのでしょうか?それは、そのような罪深い行為によって、悪魔たちがこの地上に持つ勢力を著しく強めることができるからです。そのため、そのような罪深い行為を行う人たちに対して、名声、金、欲望、仕返し、その他望むものは何でも叶えられるように助けることを、悪魔たちが約束するのです。

私たちの主イエズスが、ご自分の御聖体に対して、これら全ての冒涜行為がなされるのをお許しになるのは、この地上において、物理的に私たちと共にいて、私たちの霊的食物となることを、お望みだからです。ですから私たちは、礼拝と感謝だけでなく、このような全ての恐ろしい冒涜行為に対する、心からの償いをお捧げすることも、忘れてはいけません。ポンマンにおいても、秋田においても、聖母は私たちが償いをすることを、お求めになったのです。


全実体変化という神秘

2021年06月08日 | お説教・霊的講話

2021年の御聖体の祝日の短い説教

ドモルネ神父

はじめに

今日は、御聖体をお祝いしています。御聖体とは、パンとぶどう酒の外観の下にある、私たちの主イエズス・キリストの御体、御血、御霊魂と、御神性です。今から、全実体変化という神秘について、少しお話しします。


1.御聖体の神秘

聖ヨハネの福音書には、私たちの主イエズスが、御聖体を告知される場面があります。「私は天から下った生きるパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。私の与えるパンは、世の命のためにわたされる私の肉である…人の子の肉を食べず、その血を飲まなければ、あなたたちの中には命がない。私の肉を食べ私の血を飲む者は、永遠の命を有し…私の肉を食べ私の血を飲む者は、私に宿り、私もまたその者のうちに宿る…私を食べる者も、私によって生きる」(ヨハネ6章51-58節)。そして、最後の晩餐で、私たちの主イエズスはその約束を果たされました。「主はパンを取り、祝し、裂き、それを弟子たちに与えて言われた、『取って食べよ。これは私の体である』。また、杯を取り、感謝し、彼らに与えて言われた、『みなこの杯から飲め。これは、多くの人のために、罪のゆるしを得させるために流す契約の私の血である』」(マテオ26章26節)。

これらの言葉はそれ自体で非常に明確です。さらに、私たちの主イエズスが、私たちは主の肉を食べ、主の血を飲まなければならないと強調されたことから、主のみ言葉が象徴的な意味しか持たないという考えは確実に排除されます。主は、間違いを犯すことも、私たちをだますこともおできになりません。主はこう言われました。「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14章6節)。ですから、イエズスが、これはご自分の御体であり、これはご自分の御血であると言われるとき、それはまことに主の御体と御血でしかありえません。

しかし一方、最後の晩餐のときの使徒たちにとっては、またミサにあずかる私たちにとっても同様に、聖別されたパンとぶどう酒を見ても、それは人間の肉や血には見えず、単なるパンとぶどう酒に見えます。聖別されたパンやぶどう酒を味わうと、人間の肉や血ではなく、パンやぶどう酒の味がします。では、次の二つの要素をどのように調和させればよいのでしょうか。一方では、私たちの主は「これは私の体であり、私の血である」という真理を語られます。他方では、私たちはパンとぶどう酒としてしか感じないという事実があります。その答えは、「全実体変化」(Transubstantiation)という言葉で表わされます。

2.実体および偶有という考え

私たちが物や人について考えるとき、私たちは、同じままでいるものと変わるものという二つの要素を区別します。例えば、人間について考えてみましょう。胎児の時と大人になってからのその人を比べてみてください。その人は同じ人間ですが、同じにはまったく見えません。体格、髪の色、体重、容貌は変化しています。私たちは、同じままで変わらず、その人を同じ人間とさせるものを「実体」と呼びます。変化したものを「偶有」と呼びます。偶有とは、色、形、柔らかさや硬さ、粗さや滑らかさ、味、大きさなどのことです。

実体と偶有は常に結びついています。私たちは、その一方を変えずに他方を変えることはできません。例えば、私が木を木炭に変えれば、木の元の姿を変えざるを得ません。水を蒸気に変えれば、水の元の姿を変えざるを得ません。イチゴジャムを作れば、イチゴの元の姿を変えざるを得ません。人間には、ある物の偶有をまったく変えることなしに、その物を別のものに変える力はありません。

3.全実体変化という神秘

「全実体変化」というのは、偶有が一切変化することなく、実体が変化することを意味します。例えば、木の元の姿(色、大きさ、形、硬さなど)を保ったまま、木炭にしたようなものです。また例えば、水を、水の元の姿を保ったまま、蒸気にしたようなものです。あるいは、イチゴの元の姿を保ったまま、イチゴジャムを作ったようなものです。そのようなことは、人間の力では不可能です。しかし、天主の御力では可能でしょうか。はい、可能です。それはなぜでしょうか。なぜなら、天主はすべてのものを創造されたからです。天主は実体と偶有を創造され、そのふたつを結びつけられました。したがって、天主はそのふたつを分離させることもおできになるのです。天主がお望みならば、物の元の姿を変えることなく、その実体を変えることがおできになるのです。この天主の行為を、私たちは「全実体変化」と呼ぶのです。

私たちの主イエズスが、小麦のパンを手に取って「これは私の体である」と言われ、またぶどう酒【の杯】を手に取って「これは私の血である」と言われたとき、主はこのような全実体変化を行われました。私たちの主イエズスは、その天主の御力によって、パンの偶有を変えることなく、そのパンの実体をご自分の御体に変えられました。私たちの主イエズスは、ぶどう酒の偶有を変えることなく、そのぶどう酒の実体をご自分の御血に変えられました。ですから、パンとぶどう酒の外観の下に、イエズス・キリストのまことの御体と御血が存在するのです。このような変化がいかにして行われるのか私たちには理解できないため、私たちはこれを御聖体の神秘と呼びます。すべてのミサにおいて、聖変化のとき、私たちの主イエズスは、司祭を通してこの神秘的な変化を更新されるのです。

結論

今日、御聖体の祝日をお祝いするにあたって、御聖体への私たちの信仰を更新することにしましょう。御聖体は、私たちの主イエズス・キリストご自身です。主が御聖体に現存しておられるのは、私たちが、天主の御稜威にふさわしい供え物として、御聖体を聖三位一体にお捧げできるようにするためです。主が御聖体の内に現存しておられるのは、私たちの地上での旅の間、私たちと共におられるためです。主が御聖体の内に現存しておられるのは、私たちの霊的な食べ物となられるためです。

御聖体は、私たちにわたされた、無限の価値をもつ賜物です。世界中のすべての黄金や富を合わせても、ただ一つの聖別されたホスチアと比べれば、まったく価値のないものです。御聖体における私たちの信仰、イエズスへの敬意と愛が増すよう、聖母が取りなしてくださいますように。






--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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