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ヴィガノ大司教:自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」が修正される懸念があることについての考察

2021年06月29日 | カトリック・ニュースなど

新しいミサと古いミサの間に平和的な共存を望むのはばかげています。また、カトリックのミサとルターの主の晩餐の間にも共存はありえません。何故なら、存在論的に相容れないものがあるからです。

私は、司教職にある兄弟たち、司祭たち、そして信徒たちに、聖ピオ五世の勅書「クオー・プリームム」(Quo Primum)によって荘厳に承認されたカトリック典礼への権利を熱心に守るように、また、それによって、牧者たち自身によって信用を失い、嘲笑にさらされている聖なる教会と教皇職を守るように、強く勧めます。

ほぼ2000年のあいだ聖人たちを形作ってきた形式で捧げられるミサと秘跡が奪われるなどということを受け入れる用意のない人々を、教会の外にいる者とみなすことも許されません。

教会は、マーケティング部門が、顧客の要望に応じて、古い製品をカタログから取り消し、代わりに新しい製品を提案することを決定する代理店ではありません。

ヴィガノ大司教「スンモールム・ポンティフィクムが変更される懸念についての考察」

2021年6月10日

【編集者注】この最新の文章で、カルロ・マリア・ヴィガノ大司教は、予想されている「スンモールム・ポンティフィクム」への攻撃について、私が最良の解説だと思うものを与えてくださっています。大司教様は、ディープ・ステートとディープ・チャーチを同じものだとするというテーマに立ち戻り、この攻撃とパンデミックで行われたことの類似性を示しています。そして、そのすべての背後にいる「操る者のかしら」(master manipulator)、教皇フランシスコを指摘しています。

最も興味深いのは、大司教様が、革新主義者が正しくてベネディクト十六世が間違っていた、と指摘しておられることです。つまり、カトリックの儀式と新しい儀式の二つの形式のミサは共存できません。両者は相反しているのです。「ですから、典礼表現の多元性という名前の下で、二つの相反する形式のカトリック礼拝を一緒にすることが可能であると信じる者は、間違っているのです。典礼の表現の多元性とは、公会議のメンタリティーの産物であり、それ以上でも以下でもありません。また『連続性の解釈法』の産物でもあります。」

主な攻撃対象は「エクレジア・デイ」共同体であって、彼らは古い儀式の限定的な使用を保持し続けるために教理を妥協するように迫られるだろう、という大司教様の予測に、私は同意します。このような致命的な妥協を受け入れない剛毅の徳が、その司祭たちに与えられますように。―ブライアン・マッコール(カトリック・ファミリー・ニュース編集長)


自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」の修正の懸念についての考察

5月30日にベネチアで開催されたモンシニョール・アントニオ・リヴィ追悼に捧げられた哲学シンポジウムの機会に、私は邪悪な者【悪魔】の欺瞞の仕業の中で歴史上常に繰り返される要素を特定しようと試みました(こちら)。

私の考察(こちら)では、パンデミックの不正に焦点を当て、違法な強制措置や天賦の自由の制限を正当化するために与えられた理由が、実際には「言い訳」(prophasis)、つまり口実であり、本当は悪い意向や犯罪計画を隠すための表向きの理由であることを示しました。アンソニー・ファウチの電子メール(こちら)が公開されたこと、また、主流のナラティブ(物語)関する今まで以上の多くの反対意見の声を検閲することは不可能であることから、私の分析は裏付けられ、私たちは「グレート・リセット」の支持者たちの露骨な敗北を期待することができます。

その講演の中で、ご記憶のことでしょうが、私は、第二バチカン公会議もある意味では教会にとっての「グレート・リセット」だったこと、また、社会に革命を起こすために計画・設計された他の歴史的出来事と同様のものであることを述べました。

この場合も、典礼改革や、エキュメニズムや、聖なる司牧者たち【司教】たちの権威を議会化させることなどを正当化するための言い訳は、善意に基づいたものではなく、欺瞞と嘘に基づいたものでした。それは、使徒継承のミサ、救いの手段としての教会の唯一性、教導権の不変性、聖職位階の権威など、疑いのない善であるものを、より高い善のために放棄していると私たちに信じさせるためという方法でした。

しかし、私たちが知っているように、この崇高な善は到来しなかった(また到来しえなかった)だけでなく、実際に公会議の真の意向は、その破壊的で転覆的な価値のすべてにおいて明らかにされました。教会は空になり、神学校は放棄され、修道院は捨て去られ、権威は邪悪な牧者らのせいで信用を失って専制政治に変質し、善き牧者たちを無力にさせました。また、このリセット、つまり壊滅的な革命の目的は、信徒や聖職者を服従させるための高貴な意向の外見を羽織っていたにもかかわらず、最初から邪悪で悪意に満ちていたことも分かっています。

2007年、ベネディクト十六世は、50年間不当に否定されてきた正当性を復活させ、由緒あるトリエント典礼に完全な市民権を与えました。彼は自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」(Summorum Pontificum)の中で、次のように宣言しました。

「それゆえ福者ヨハネ二十三世によって発布され、決して廃止されたことのないローマ・ミサ典礼書規範版に従って、教会の典礼の特別な形式としてミサのいけにえを行うことは許される。(中略)いずれのミサ典礼書に従ってこのような典礼を行うにせよ、司祭はそのために使徒座ないし自らの裁治権者から許可を得る必要はない(こちら。日本語版はこちら)」。

実際には、この自発教令とそれに関連する実施文書の文面は決して完全には適用されず、今日、使徒の典礼でミサを捧げている「忠実なグループ」(cœtus fidelium)は、司教に許可を求めに行かなければならない状態が続いており、本質的には今でも、ヨハネ・パウロ二世の以前の自発教令「エクレジア・デイ」(Ecclesia Dei)での特別許可の命令に従うことに甘んじているのです。

聖伝の典礼が持つべき正当な名誉は、公会議後の改革による典礼と同等のレベルに置かれることで抑えられ、前者が「特別な形式」、後者が「通常の形式」と定義されています。それはあたかも、小羊の花嫁【である教会】が二つの声を持ち、一つは完全にカトリックの声であって、もう一つはあいまいでエキュメニカルな声であり、ある時は天主の御稜威に、またある時は信徒の集まりに向かって語り掛けることができるかのようです。しかし、トリエント・ミサの自由化が多くの善をもたらしたことも疑いの余地はなく、何百万人もの人々の霊性を養い、改革された典礼の不毛さの中で改心のきっかけも霊的成長のきっかけも見つけられなかった多くの霊魂を信仰に近づけました。

昨年、聖座は、革新主義者の典型的な行動として、ベネディクト十六世の自発教令の実施状況に関する情報提供を求めるアンケートを世界中の教区に送りました(こちら)。

この質問の書き方は、またしても第二の目的をさらけ出しており、ローマに送られた回答は、この自発教令を完全に破棄しないまでも、制限を押し付けるための見かけ上の正統性の根拠となるはずでした。確かに、「スンモールム・ポンティフィクム」の著者がまだ教皇座に座っていたならば、このアンケートによって、教皇は司教たちに、古い儀式でミサを行う許可を求める必要のある司祭はいないし、そうすることで司祭が任務から外されることもないことを思い出させることができたでしょう。

しかし、裁治権者に相談しようと望んだ人々の本当の意向は、霊魂の救い(salus animarum)にあるのではなく、聖なる教会の不変の信仰を断固たる明快さで表現している儀式に反する神学的な憎しみにあるように思えますし、この理由から、公会議の教会論、その典礼、そしてそれが前提としまたそれが伝えている教理とは異質のものです。トリエントの典礼よりも強力に、いわゆる第二バチカン公会議の教導職に反対するものは他にはありません。聖伝の典礼のすべての祈り、典礼学者に言わせるならば、すべてのペリコペ(pericope)【当日の聖書朗読部分】は、革新主義者たちの繊細な耳への侮辱となり、すべての儀式は彼らの目への侮辱なのです。

その儀式の神聖な源流から水を飲みたいと思うカトリック教徒がいることを単に「寛容する」としても、彼らにとってそれは敗北のように聞こえ、それが懐古趣味の高齢者やエキセントリックな美意識を持つ人々という小さなグループに限られている場合にのみ、耐えられるものです。

しかし、そのような言葉の普通の意味での「特別な形式」が、意識的にそれを選択した何千もの家族、若者、普通の人々の規範となるならば、それはつまずきの石となり、執拗に反対、制限、廃止されなければなりません。なぜなら、改革された典礼に対抗するものや、公会議の儀式の不潔さに代わるものはあってはならないからです。それはちょうど、主流派のナラティブ(物語)に対して反対の声や主張する反論ができないのと同じであり、実験的なワクチンの副作用に直面しても、ワクチンの無用さを証明することになるがゆえに、有効な治療法が採用されないのと同じです。

また、次のことも驚くことはできません。天主から来たのではない人々は、カトリックの牧者たちによって -- 権威を乱用する不忠実な牧者らではなく -- カトリック教会が治められていた時代のことを少しでも思い出すようなものすべてに不寛容なのです。信仰が完全な形で -- 世を喜ばせるために混ぜ物を入れられることなく -- 諸国に伝えられていた時代があったこと、真理に飢え渇いていた人々が、形ではこの世のものながら実体は天主的であった典礼によって養われ新たにされていた時代があったことを寛容することができないのです。

そして、昨日まで聖にして善だったことのすべてが非難され、軽蔑の対象となったのならば、その痕跡を残したままにしておくことは寛容することができず、耐え難い侮辱となるのです。なぜなら、トリエント・ミサは、モンティーニ【パウロ六世】の典礼が近づくことさえできない霊魂の琴線に触れるからです。

明らかなことですが、カトリックのミサを廃止するためにバチカンの裏で操っている人々は、何十年にもわたって行ってきた作業がこの自発教令によって損なわれているとみなしており、この自発教令を、今日、彼らが服従させている多くの霊魂たちの所有に対する脅威であり、教会という組織に対する彼らの専制的な支配力を弱めているものとみなしているのです。

私のように、信仰と霊性のかけがえのない宝を再発見した、あるいは公会議後の激しい迫害にもかかわらず天主の恩寵によって決して放棄しなかった同じ司祭たちや司教たちは、その中に自分たちの司祭職の魂と超自然的な命の栄養を見いだしたことで、それを放棄する気にはならないのです。そして、トリエント・ミサが教会にもたらしている良い点にもかかわらず、根拠のない理由でそれを禁止したり、その挙行を制限したりしようとする人々がいることは、つまずきを与えるものであると同時に不愉快なことです。

しかし、もしも私たちが改革を行う人々の立場に立って絵見るならば、これが彼らの歪曲された教会観に完全に一致していると理解します。彼らにとって教会とは、"霊魂の救いという目的のために、天主によって制定された完全な社会"ではないからです。彼らによれば、教会とは "単なる人間の社会でしかなく、そこでは権威は腐敗して自らが好むエリートに従属しており、また、漠然とした霊性へと大衆のニーズを導き、主が教会に意図された目的を否定し、良き牧者が何もしないように、彼らだけが従う官僚的な「かせ」によって強いる社会なのです。

この「袋小路」(impasse)、この法的な行き詰まりは、その権威において信徒らがキリストの声だと認めるという事をつかって、権威の濫用を信徒らに押し付けることができるという意味です。たとえその与えられた命令や、命令を決定する動機や、権威を行使する人々の、内在的な邪悪さがあまりにも明らかであることを目前にしても【信徒らは、命令が明らかな邪悪であることを信じず、邪悪な命令を受け入れるの】です。

一方、世俗の領域でも、パンデミックの間、多くの人々は、不条理で有害な規則に従いました。なぜなら、市民の健康と幸福を念頭に置くべき医師やウイルス学者、政治家から押し付けられたものだからであり、多くの人々は、犯罪的な計画の証拠に直面しても、彼らが何百万人もの人々の死や病気を直接意図することができるとは信じたくなかったからです。

これは、社会心理学者が「認知的不協和」(cognitive dissonance)と呼ぶものです。つまり、個人をして、巨大な詐欺の被害者であることを認識するよりも、したがって男らしく対応しなければならないとするよりも、不合理(irrationality)という快適な隙間に避難するように仕向けるものなのです。

ですから、古い典礼に結びついたカトリック共同体が増加し、ほとんど自発教令【スンモールム・ポンティフィクム】の文脈だけでのみ召命が開花し、それに従う人々の間では秘跡を頻繁に受け、キリスト教的生活をまじめに送ろうと一貫性が高まっているという現実を目前にして、それにもかかわらず、いったい何故、【聖伝のミサを捧げる】不可侵の権利を意地悪く踏みにじり、使徒継承のミサを妨げようとする願望があるのか、ということを自問するのはやめましょう。

むしろ、悪名高い異端者や道徳のない姦淫者らが誤謬をまき散らし嘆かわしい生き方を送っていることについて、少数派の信徒や聖職者たちが自分たちを守ってくれる保護者もいないのに、異議を述べているのに、彼らは、その異議を妨げる権力を持っているにもかかわらず、なぜ黙認し続けるのだろうかと、自問しましょう。

この点で、この【聖伝のミサに対する】嫌悪は、権威を簒奪し邪悪に濫用して、自発教令【スンモールム】に終止符を打つことによって、まさに明らかにされるしかないことを、私たちはよく理解します。プロテスタントの似非改革の時であっても、民衆に深く根付いていたいくつかの典礼の習慣には寛容がありましたが、それは短命でした。なぜなら、童貞マリアへの信心、ラテン語の讃美歌、奉挙のときに鳴らされる鐘 --- これらはもはや存在しませんが ---、ルターの信奉者たちが拒否していた信仰を表現していたため、必然的に消滅しなければならなかったからです。

また、ノブス・オルド(新しいミサ)とヴェトゥス・オルド(古いミサ)の間に平和的な共存を望むのはばかげています。また、カトリックのミサとルターの主の晩餐の間にも共存はありえません。何故なら、存在論的に相容れないものがあるからです。

さらによく考えてみると、ノブス(新しいミサ)の支持者が期待したヴェトゥス(古いミサ)の敗北は、少なくとも彼らの原則と首尾一貫しており、それはヴェトゥスによるノブスの敗北も同様に期待されるべきものであるのとちょうど同じです。ですから、典礼表現の多元性という名前の下で、二つの相反する形式のカトリック礼拝を一緒にすることが可能であると信じる人々は間違っているのです。典礼の表現の多元性とは、公会議のメンタリティーの産物であり、それ以上でも以下でもありません。典礼の表現の多元性は、また『連続性の解釈法』の産物でもあります。

この自発教令に対する作戦には、革新主義者の「手口」(modus operandi)が再び現れています。まず、聖伝の典礼に対する最も狂信的な反対者の一部が、古いミサを「分裂的」と呼んで、「スンモールム・ポンティフィクム」の廃止を、挑発として、求めます。

次に、教理省が、教区長たちにアンケート(こちら)に答えるように求めますが、その回答は実質的に事前に用意されています(アンケートへの回答内容は司教省にも知らされるので、司教の出世は聖座に報告する内容に沿って進められます)。そして、イタリア司教団のメンバーとの非公開の会合で、ベルゴリオ(教皇フランシスコ)は平然とした態度で、「善良に見えるが硬直している」(こちら)神学生や、聖伝の典礼の普及について懸念していると述べ、公会議の典礼改革は不可逆的であることを常に繰り返しているのです。

さらに、教皇は、ヴェトゥス・オルド(古いミサ)の仇敵を典礼秘跡省長官に任命し、今後の制限適用の際の味方とします。最後に、パロリン枢機卿とウエレット枢機卿が、この自発教令の規模縮小を率先して望んでいることを私たちは知るのです(こちら)。

明らかですが、このことは、「保守的な」高位聖職者たちが、通常と特別の二つの形式を共存させる現在のシステムを擁護するために急ぐようにさせます。フランシスコには、「スンモールム・ポンティフィクム」を完全に廃止するのではなく、制限する「だけの」方向に進むことで、自分が二つの相反する流れの賢明な仲裁者であることを示す機会が与えられるのです。しかし、私たちが知っているように、この自発教令を完全に廃止することは、彼の作戦の始まりとは全く異なり、まさに彼が目的としていることなのです。

最終的な結果がどうなるかにかかわらず、この予測可能な劇の「機械仕掛けの神」(deus ex machina)は、いつものようにベルゴリオです。ベルゴリオは、保守派への寛大な配慮のジェスチャーを自分の手柄にし、制限適用の責任を新しい長官であるアーサー・ローチ大司教とその支持者たちに負わせようとさえしています。

このようにして、信徒の抗議の合唱と、それに対する長官あるいは他の高位聖職者たちの異常な反応があった場合、ベルゴリオは再び進歩主義者と伝統主義者の衝突を楽しむことになります。なぜなら、二つの形式のローマ典礼の共存は教会の分裂を引き起こすから、したがって「モンティーニの平和」(pax montiniana)に戻る、すなわち全時代のミサ(聖伝のミサ)の全面的な禁止に戻るのがより賢明であると肯定するための優れた論拠を持つことになるからです。

私は、司教職にある兄弟たち、司祭たち、そして信徒たちに、聖ピオ五世の勅書「クオー・プリームム」(Quo Primum)によって荘厳に承認されたカトリック典礼への権利を熱心に守るように、また、それによって、牧者たち自身によって信用を失い、嘲笑にさらされている聖なる教会と教皇職を守るように、強く勧めます。自発教令の問題は、決して廃止されたことのない、また廃止される可能性のない儀式の正当性を再確認するものであるため、少しも交渉の余地はありません。

さらに、このような新奇なものを発表することが霊魂に与える確実な損害と、その新奇なものから悪魔とそのしもべにもたらされる確実な利益に加えて、ベルゴリオが、まだ存命中のベネディクト十六世に対して示した下品な無礼があります。ベルゴリオは、ローマ教皇が教会に対して行使する権威は代理者としてのものであり、自分が持つ権能は神秘体の唯一のかしらである主イエズス・キリストからもたらされていることを知るべきです。

使徒の権威と聖なる鍵の力を、主によって制定された目的とは反対の目的のために濫用することは、天主の御稜威に対する前代未聞の侮辱であり、教会の不名誉であり、自分がその代理者であるお方に答えなければならない罪です。そして、キリストの代理者としての称号を拒否する者は誰であれ、そうすることによって、自分の権威の正当性も失われることを知っています。

教会の最高権威が、宗教的な音色のキャンセル・カルチャーという不穏な作戦の中で、先祖たちから受け継いできた遺産を取り消してしまう(キャンセルする)ことは受け入れられません。

また、ほぼ2000年のあいだ聖人たちを形作ってきた形式で捧げられるミサと秘跡が奪われるなどということを受け入れる用意のない人々を、教会の外にいる者とみなすことも許されません。

教会は、マーケティング部門が、顧客の要望に応じて、古い製品をカタログから取り消し、代わりに新しい製品を提案することを決定する代理店ではありません。公会議に従うという名目で、司祭や信徒に典礼革命を強引に押し付け、キリスト教生活の霊魂そのものをはぎ取り、フリーメーソンのブニーニがクランマーの「共通祈祷書」からコピーした儀式に置き換えたことは、すでに痛ましいことでした。

ベネディクト十六世が自発教令で部分的に癒やしたこの濫用は、古代の典礼の自由化に大きく賛同する要素が存在する今、決して繰り返されることはあり得ません。この危機に瀕した天主の民を本当に助けたいのであれば、50年間でカルヴァン主義がやった以上の損害を与えた「改革された典礼」こそが廃止されるべきでした。

聖座が自発教令に加えようとしていると懸念されている制限が、教区司祭に影響を与えるのか、それともメンバーが古い儀式のみを捧げる団体にも影響を与えるのか、私たちには分かりません。しかし、これまでにも申し上げてきたように、私が危惧しているのは、まさに後者に対して、革新主義者たちの破壊的な行動が解き放たれるのではないかということです。革新主義者たちは、トリエント典礼の「儀式的な」面は許容できるかもしれませんが、それが意味する教理的・教会論的な構造へ固執することを絶対に受け入れません。この構造は、革新主義者が例外なく押し付けようとしている公会議の逸脱とは大きく異なります。

だからこそ、これらの【聖伝を守っている】団体は、例えば、教区司祭がすでに行わなければならないように、少なくとも時折、ノブス・オルドの挙行を義務付けるなど、何らかの形で公会議の典礼に服従することを求められるのではないかと危惧しているのです。このようにして、自発教令を利用する人は誰であれ、改革された典礼を「暗黙のうちに」(implicit)受け入れることだけでなく、新しい典礼とその教理的な「心・精神」(mens)を公的に受け入れざるを得なくなるのです。また、二つの形式の典礼を捧げる人は誰であれ、何よりもその一貫性において「事実上」(ipso facto)自らに不信感を抱き、自分の典礼の選択を単なる美学的なもの(ほとんど振り付けのようなものと言えるでしょう)としてごまかすことになります。

実際、モンティーニのミサとそれに形を与えている「心・精神」(mens)に対する批判的な判断を彼から奪うことになります。なぜなら、彼は自分がそのミサを捧げざるを得なくなるだろうと分かるからです。これは、権力を濫用する権威が自らに反対する人々を委縮させる悪意に満ちたずる賢い作戦であり、その方法は、一方では古代の典礼を認めることによって、他方ではそれ【古代の典礼を認めること】を単なる美学的問題にすぎないとし、狡猾な両典礼主義と、さらに狡猾といえる二つの相反する対照的な教理的アプローチへの固執を義務付けることによってです。

しかし、ある時には、教理、儀式、生活の間に完全な一貫性を見いだすことができる由緒ある聖なる典礼を捧げるように求められ、次の瞬間には、異端者に好意的な新しい典礼を、つまり、古い典礼が誇らしく宣言していることを卑屈に黙っている、改ざんされた新しい典礼を捧げるなどということを、どうして司祭に要求することができるのでしょうか。

ですから祈りましょう。私たちが由緒ある古い儀式を行って完全な礼拝を捧ている天主の御稜威が、聖なる牧者たちを照らすことで、改革者らがその目的を断念し、聖なる教会の善のために、そして至聖なる三位一体の栄光のために、トリエント・ミサを本当に推進するようにしてくださいますように。

ミサの保護聖人である聖大グレゴリオ、聖ピオ五世、聖ピオ十世を「筆頭に」(in primis)何世紀にもわたって私たちに受け継がれてきた形式で聖なる犠牲を捧げてきた諸聖人に、私たちがそれを忠実に守ることができるように願いましょう。彼らの天主の玉座の前での取り次ぎが、全時代のミサの保存をこい願い、そのおかげで、私たちが聖化され、徳において強められ、邪悪なる者【悪魔】の攻撃に抵抗できますように。そして、もし教会人の罪が、ダニエルが預言したような非常に厳しい罰を私たちに与えることになるならば、私たちは、牧者たちの回心のためにこの試練を捧げるよう、カタコンベに降りる準備をしましょう。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2021年6月9日
聖霊降臨後第二週の水曜日


多くの祈りの霊的花束を心から感謝申し上げます

2021年06月29日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2021年6月27日は、聖ピオ十世会総長の叙階25周年でした。そのために多くの祈りの霊的花束をいただきました。心から感謝申し上げます。

日本からは、東京と大阪とから次のように集まりました。ご報告いたします。

ミサ拝領 310
聖体拝領 306
霊的聖体拝領 1333
十字架の道行 46
ロザリオ 2621
犠牲 778
その他 932

今日、2021年6月29日聖ペトロと聖パウロの祝日は、ドモルネ神父と、愛する兄弟姉妹の皆様のしもべの司祭叙階日です。それぞれ、14周年、28周年です。愛する兄弟姉妹の皆様のお祈りに心から感謝いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

 


聖アタナシウス信経って聞いた事ありますか?ニケア公会議の勝利者、カトリック信仰の擁護者、アレキサンドリア総主教、聖アタナシオ(298年頃 - 373年頃)が作ったものです。

2021年06月29日 | お説教・霊的講話

2021年5月30日(主日)三位一体の祝日
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父メッセージ



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は三位一体の祝日です。それで聖伝の聖務日課には、第一時課というものに、『聖アタナシオ信経』というものを唱えるように義務付けられています。

聖アタナシウス信経って聞いた事ありますか?これについて今日は少しお話をしたいと思っています。

聖アタナシオ信経というのは、いわば使徒信経と似たようなものですけれども、その最初の言葉にちなんで、『Quicumque信経』とも言われています。これは特に、「三位一体」と、「キリストにおける神性と人性、天主の本性と人間の本性の結合」を告白する信仰宣言です。

西方教会の伝統によると、この著者は、ニケア公会議の勝利者、カトリック信仰の擁護者、アレキサンドリア総主教、聖アタナシオ(298年頃 - 373年頃)が作ったものであるとしています。

聖アタナシオは、アリウス派に対して徹底的に戦いました。でもこのテキストは明らかに、今のフランスであるガリアで書かれて、ラテン語で書かれたものです。そして聖アタナシオが生きていた頃には、東方教会には知られていませんでした。

そこで現代の文献学者たちは、「このQuicumque信経は、聖アタナシウスのものによるのではない」と疑問を提示しています。

しかしこの事は、聖アタナシオがアリウス派の皇帝勢力から西方に追放されていたこと、「ガリアに追放されていた」という事を無視しています。聖アタナシオは数年間、ガリア、特に正確に言うとガリア・ベルギカ・プリーマ、特に今その中心地である、今のトリーアという都市にいました。またローマにも追放されていました。その事を忘れてはなりません。

しかも聖アタナシオは、ブルガリアの今のソフィアという所で行なわれた、サルディカ教会会議(343年)には、ガリアの34名の司教たちを代表して署名しています。つまりガリアとすごく密接な関係があって、友人たちがたくさんいた。司教様を友達として持っていたという事です。

そして、何度も何度も西方にガリアに亡命している間、どうしても聖アタナシオはラテン語を使わなければなりませんでしたし、またラテン語を話す友人たちに、「自分のカトリック信仰はどういうものであるか」という事を説明する為にも、ラテン語で書類を残さなければなりませんでした。

ですから、このQuicumque信経、聖アタナシオ信経というのは、特にガリアの司教様たちの為に自分が残した、カトリック信仰の要約だった、要点だった、と言う事ができます。

なぜこういう事を言う事ができるかというのは、まだもっと理由があります。

例えば、この信経の内容の痕跡が、Lerinsという所にある聖ヴィンチェンツォの『Commonitorium』(†450)という著作の中に垣間見る事ができます。5世紀のものです。

また5世紀には、このCommonitoriumの解説書があるのですけれども、その解説書の中にも、その事が言及されています。聖アウグスチヌス(†430)や、今のチュニジアにあるビザセナの司教であった、ルプセの聖フルジェンチウス(†533)の著作の中にも、聖アタナシオ信経の内容と似たようなものが載っています。すごく近い表現が載っています。

そしてかつてレランの修道者だった、そして後にアルルの司教となった聖チェザリウス(470 - 542)が542年にした説教の中には、「ここから、聖なる司教アタナシオのカトリック信仰の宣言が始まる」と言って、この聖アタナシオ信経を引用しています。これは6世紀のものです。

この信経は、このガリアからその周辺のスペイン、アフリカに広まり、そして遂にはドイツにも広まります。

特にオタンという所の聖レジェ司教(聖レオデガリオLeodegarius, 616 – 678)が、オタン公会議(670年または676年)というものを開きました。教会会議を開きましたが、そこに、「ガリアの教会の司祭と聖職者が、このアタナシオ信経を暗記しなければ、これは罰せられる」というカノン(法令)が公会議で発表されていました。

そして11世紀になると、全フランスの教会では、毎日この聖アタナシオ信経が歌われていました。そして最も古い、8世紀にまで遡る古代の写本の一つには、「その聖アタナシオ信経の最も古い写本は、トリアの修道院から見つけた」と写本を残した人が証言しています。

ドイツでは8世紀に教会に広がって、そして聖ボニファチオが主にこれを広げました。イギリスにも伝えられました。そして例えばウォースター(Worcester)司教区の被選司教、司教様に選ばれた方であるでデネベルト(Denebert)が、自分のカトリック信仰を宣言して、聖アタナシオ信経を歌った、という事も記録に残されています。

そしてドイツに話を戻しますと、ライヒェナウ(Reichenau)という所の修道院長で、その後バーゼルの司教様となったハイトン(Hayton)という司教様は、毎週主日に聖務日課の一時課で、アタナシオ信経を唱えるというように命じました。

この習慣は全ヨーロッパに広がって、そしてローマ典礼でも、「聖務日課を唱える義務がある全ての聖職者たちは、一時課に毎週主日に、御公現の後の主日、それから聖霊降臨後の主日には、一時課で、毎週このアタナシオ信経を唱えなければならない」という事が命じられました。

そしてこれは1960年まで、そのように毎週唱えられていましたが、1960年の典礼改革で、三位一体の主日祝日だけに義務は限定されるようになりました。

ですから私たちは今、1960年の改定に従って、一時課でアタナシオ信経を唱えます。

聖トマス・アクィナスも、この聖アタナシオ信経について言及しています。「アタナシオは、信仰の表現を、使徒信経の形ではなくて、『教義を教える』という形で教えたのは、その表現からも分かるけれども、しかしその全ての真理をわずかの言葉で表現していたので、教会の最高の権威、教皇の権利によって、信仰の規範として受け入れられるようにもなった」と書かれています。(『Secunda Secundæ』第一問第十項)

こうして、最初はアタナシウスによっておそらく伝えられた、ガリアに伝えられたものでしたけれども、非常に早い時期にギリシャ語にも翻訳されて、そしてロシア教会ではポロツクのシメオン(†1680年)が詩編の付録として印刷するようになって、またコンスタンティノープル総主教は、“ホロロギオン”(『時課教』と正教の方は訳すようです)、それにギリシャ語の翻訳が挿入されてもいます。後にはそれは削除されました。

では、アタナシオ信経というのは一体どのような内容であるかという事を、もしかしたらご存知ない方もいらっしゃるかもしれませんので、ご紹介したいと思います。

『アタナシオ信経』

救われることを望む者は誰であれ、全てに優先して、カトリック信仰を持つ必要がある。
この信仰を、誰でも完全に汚されずに守らなければ、疑いなく永遠に滅びるだろう。
さてカトリック信仰は次の通り。すなわち、我らは三位における唯一の天主、一性における三位を礼拝する。
位格を混同することなく、実体(substantia)を分けることなく。
聖父の位格は別であり、聖子の位格も別、聖霊の位格も別である。
しかし、聖父と聖子と聖霊との天主性は一であり、栄光は等しく、御稜威(みいつ)は共に永遠である。
聖父がまします如く、聖子もましまし、聖霊もましまし給う。
聖父は創造されず、聖子も創造されず、聖霊も創造されない。
聖父は測り知れず、聖子も測り知れず、聖霊も測り知れない。
聖父は永遠、聖子も永遠、聖霊も永遠である。
しかし、三つの永遠なるものではなく、一なる永遠なるものである。
三つの創造されないものでもなく、三つの測り知れぬものでもなく、一なる創造されぬもの、一なる測り知れぬものである。
同じく、聖父は全能、聖子も全能、聖霊も全能である。
しかし三つの全能なものではなく、一なる全能なるものである。
そのように聖父は天主、聖子は天主、聖霊は天主である。
しかし、三つの天主ではなく、唯一の天主である。
そのように聖父は主であり、聖子は主であり、聖霊は主である。
しかし、三つの主ではなく、唯一なる主である。
なぜなら、キリスト教の真理によって、それぞれの位格は天主であり主であると我らが告白するべきであるように、三つの天主、あるいは三つの主を語ることは、我らはカトリックの宗教によって禁ぜられている。
聖父は何によっても作られず、創造されず、生まれない。
聖子は聖父のみよりであり、作られず、創造されず、生まれた。
聖霊は、聖父と聖子とより、作られず、創造されず、生まれず、発出する。
従って、一なる聖父であり、三つの聖父ではない、一なる聖子であり、三つの聖子ではなく、一なる聖霊であって、三つの聖霊ではない。
この三位においては、より先もより後もなく、より大いなるものもより小さきもない。三位は全て、共に永遠であり、互いに共に等しい。
このように、すでに上に述べた如く、全てを通して、三位における一性が、かつ、一性における三位が礼拝されなければならない。
従って、救われることを望む者は、三位一体について以上のように考えるように。
しかし、永遠の救いのために必要なことは、我らの主イエズス・キリストの御托身もまた忠実に信ずることである。
従って、正しい信仰とは、我らの主イエズス・キリストは、天主の聖子であり、天主であり人間であると信じ告白することである。
主は、聖父の本質(substantia)においては、代々の時の前に生まれた天主であり、御母の本質(substantia)においては、時において生まれた人間である。
完全なる天主であり、理性的な霊魂と人間の肉とから自存する完全なる人間である。
天主性によって、聖父と等しく、人性によっては、聖父より低い。
天主にして且つ人間であるが二つではなく、キリストは一である。
天主性が肉へ変化したのではなく、天主のうちに人性が取られたことにより、一である。
本質(substantia)の混同によるのではなく、位格の一性により、全く一である。
理性的霊魂と肉体とが一つの人間であるように、天主かつ人間は一なるキリストである。
主は、我らの救いのために苦しみを受け、古聖所に降りて、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる天主の右に座し、かしこより、生ける人と死せる人とを審かんために来り給う。
主の来り給う時に、すべての人間は、自分の肉体をもってよみがえり、自分の行いについて報告するであろう。
善を行った者たちは永遠の生命に入り、悪を行った者どもは永遠の火に行く。
これがカトリックの信仰である。誰であれこれを忠実に固く信じなければ、救われることはできない。アメン。”







--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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