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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「マリア会創立者 福者シャミナード神父について、マリア様が私たちの母であることについて」

2021年06月14日 | お説教・霊的講話

2021年5月3日(月)秋田巡礼
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父霊的講話 その1
「マリア会創立者 福者シャミナード神父について、マリア様が私たちの母であることについて」

巡礼者の皆様、今回の巡礼で、私は3回にわたって、「シャミナード神父様による、マリア様に関する教え」を紹介したいと思っています。
特に、「聖母が、私たちの母である」という事についてお話ししたいと思っています。

なぜ、このシャミナード神父様のお話をするかというと、理由は2つあります。

1つは、秋田のマリア様の全部で3回のメッセージがあるのですけれども、必ずマリア様はこの言葉を以ってお話を始めるのです、
「私の娘よ、私の修練女よ。」
最後には、「私の愛する娘よ、」と仰って、これはシスター笹川だけの事というよりは、私たちに、「私の子供よ、」「私の息子よ、」「私の娘よ、」と呼びかけていると思っています。
マリア様は私たちに「母親として呼びかけている」という事が分かります。これが第1の点です。

第2の理由は、これはちょうどフランス革命の時に、その直前に生まれた福者シャミナード神父様という方が、『マリア会』を創立して、そしてそのマリア会が最初に日本に『暁星』という学校を創りました。その暁星という意味は、「暁の星」という意味です。ちょうど私たち聖ピオ十世会の最初の修道院の名前が、「暁の星」、同じ名前であるので、またシャミナード神父様のその暁星のマリア会の本流をちょっとご紹介するのは興味深いと思いました。
そこで、シャミナード神父様の経歴を簡単に説明します。「あぁ、このような神父様であれば、是非、この方の話を聞いてみたい」というきっかけになると思うので、少し話をします。

シャミナード神父様は、1761年、フランスのペリグーという所でお生まれになりました。13番目の子供でした。その日の内に洗礼を受けました。

10歳で堅振を受けて、小神学校に入って、それでボルドー、パリで勉強して、そして司祭に叙階されますが、司祭に叙階されるやいなや、フランス革命が起こります。

フランス革命では、反カトリック勢力が起こしたもので、革命直後にカトリック教会を封鎖、廃止、そして理性の女神の儀式を始める等をするのです。聖職者は、「共和国に忠誠を誓う。共和国に従順にする」という宣誓をしなければなりませんでした。

しかし、シャミナード神父様は、多くの司祭たちと共に、その宣誓を拒否して、逃亡します。そして最初の内は、秘密裏で聖務を行なって、秘跡を与え、ミサを捧げていたのです。迫害が厳しくなると、遂にフランスに残る事はできずに、スペインに亡命します。

そこで、サラゴサという、マリア様がまた生きておられる時に聖ヤコボに現れた、という『柱の聖母』の聖地に行って、そこに留まって、マリア様にお祈りをします。そこで非常に多くのインスピレーションや、啓示、色々なものを受けます。柱の聖母については非常に面白い、日本とも深い関わりがある話があります。こうしてシャミナード神父様は、サラゴサで恵みの日々を過ごします。マリア様に強められて、ついにはフランスに戻って、マリア会を創立します。

シャミナード神父様と日本との関係は、マリア会を通じて繋がっています。それについてはまた別の機会にお話をしようと思います。岩下壮一神父様も、マリア会で勉強した方ですし、山本信次郎もマリア会で暁星で勉強した方でした。そして日本に多くの影響を与えました。

先程申し上げましたが、私たちのいつも祈っている『暁の星に対する聖母の祈り』も、マリア会の方が作りました。聖ピオ十世教皇様がこれに贖宥を与えました。
2000年には、ヨハネ・パウロ二世教皇によって、シャミナード神父様は列福されています。

では、このシャミナード神父様による「マリア様が私たちの母である」という事について、少し話を移します。

サラゴサでマリア様にたくさんお祈りして、特別の御恵みを受けて、そしてマリア様に関する本を色々読んでおられました、黙想していました。

すると、シャミナード神父様がよく読んだのが、その当時、「マリア様は私たちの母だ。なぜかというと、それはマリア様は、私たちに対して母のように御恵みを与えて下さって、私たちもマリア様を母のように愛さなければならない。特にイエズス様が十字架の上で、『これはお前の母だ』と言ったので、母であるかのように、私たちはマリア様を考えなければならない。」というようなことでした。

また、マリア様のマリア神学というのをよく読むと、「マリア様は、イエズス様の御母であって、天主の御母であって、だからその天主の御母となる為に、『無原罪の御宿り』という特別の特権があって、『被昇天』の特権があって、『聖寵の充ち満てる』特権があって、マリア様の『終生童貞である』という特権があって、そして色々な特権があって、それからマリア様は私たちの為に、『全ての御恵みを仲介して下さる』という特権、」そして最後に付録のように、「マリア様は実は、『私たちの母』でもあるのだ」等というようなかんじでした。

でもシャミナード神父様はこう考えました。「教父の話によると、この強調点が違っている。確かに、イエズス様の御母で、天主の御母であるけれども、『私たちの御母である』という事を昔の教父たちは言っている。『イエズス様が十字架の上で宣言した。だから法律上そうなった。』ただそれだけなのだろうか?たまたまイエズス様が言ったからそうであって、言わなかったからそうじゃなかったのだろうか?何かマリア様と私たちの関係は、そういう外面上だけの、あたかも『そうであるかのような』ものなのだろうか?」

サラゴサで、シャミナード神父様は色々こう黙想して考えて、マリア様に光を求めました。ついには、神父様は「「母のようなもの」ではなくて、マリア様は、イエズス様を肉体的に産んだように、私たちを霊的にもお産みになった。最も言葉の厳格な意味で、『私たちの母である』」という事に辿り着きます。

その理由はいくつかあります。

例えば聖ルカは、“マリア様はイエズス様を初子としてお生みになった。”
「なぜ『初子』という言葉が出るのか?」
実はこれは、確かに昔の旧約の法律的な表現でした。“初子は捧げられ”なければなりませんでした。しかし、シャミナード神父は教父たちと共に、マリア様は更に、霊的に子供たちを生むという事を想定した言葉ではないか?と考えました。
つまり、「新しいエヴァとして、マリア様がいらっしゃる」という事に注目します。「霊的に、本当に、私たちをお産みになった。」

「それはどうやってお産みになったか?」という事にも注目します。
「それは御託身、つまり『ナザレトの御告げを受けた時』に、そして『十字架の下で、罪の贖いをイエズス様と共にした』、その2つの時だ」と言います。

では一体、「マリア様が本当に私たちの霊的な母」という事はどういう事なのでしょうか?
シャミナード神父様は、「2つの事によってそうだ」と言います。そして、「イエズス様が、『これは汝の母だ』と言うのは、それを確認した事であって、それをただ私たちに知らせた事であって、その本当の実際の行なわれた結果の表明に過ぎない。」

では何が行なわれたかというと、「御託身の時に、天主の御言葉が肉体を取った時に、マリア様の胎内に宿られた」という事です。

「でも、ただ肉体だけのイエズス様ではなくて、神秘体としても、キリスト全体を見ると、神秘体の頭であるイエズス様が、マリア様の胎内に宿された、という事は、同時に、神秘体の他の部分、手・足・全てが、マリア様の胎内にも宿されなければならない。」

「全て、イエズス・キリストと一致して超自然の命に生まれる者は、マリア様からどうしても生まれなければならない。なぜかというと、もしも私たちが超自然の命を頂くとしたら、イエズス・キリストにおいて神秘体の一部として持っている、いう事なので。でもイエズス様はそのマリア様の胎内で命を、人間としての命を受けていたので、どうしても私たちは、マリア様の中で命を受けなければならない。」

ちょっと長いのですけれども、シャミナード神父様が仰った事を引用します。

「聖母が、自分の胎内において御言葉が託身する事に協力した時、聖母は、贖いの事業のその全ての広がりにおいて理解したのは明らかである。」

(ただイエズス様をお腹の中に、母となる、という事だけでなく、それが結果する、それが意味する全ての事を受け入れた、という事です。)

「聖母は、それを愛を以って受け入れた。聖母は、イエズスを懐胎しつつ、全てを懐妊したと理解した。」

「イエズス様、頭を胎内に宿したのみならず、キリスト全体を宿したと理解された。つまり自然的な肉体と、神秘体の両者を、胎内に宿したと理解された。なぜかというと、マリア様は、イエズス様と一つになったものを切り離す事ができないから。」

「天主の御母となる事によって、個人としてのイエズス・キリストの母となると同時に、『教会』という神秘体全体の母になる事も受け入れた。」

「自然の体においては、イエズス様を、救い主を童貞の胎内に宿して、そして霊的な体としては、霊的には、愛と信仰によってキリスト教を信じた全てを、イエズス・キリストの神秘体全てを、胎内に宿した。」

これがシャミナード神父様の言葉です。

では、『贖い』というイエズス様の人生の最後に起こった事です。

もちろん、御託身、またイエズス様がお生まれになった、神殿にマリア様が抱えて割礼を受けられた、あるいはお潔めの式を受けられた、シメオンの預言を受けた、あるいはエジプトに逃げた、マリア様と一緒にナザレトで生活した、また十字架の道行き、全てマリア様と共でした。その頂点は、『カルワリオ』でした。

ちょうどアダムとエヴァが罪を犯した時に、天主はヤーウェは、エヴァにこう言いました、「お前は、これからは、苦悩の内に子供を産むだろう」と。

もしも原罪がなかったら、子供を産む事は人間にとって何の痛みも苦しみもなかったのです。原罪の後は、苦しみを伴うようになってしまいました。

それと同じようにマリア様も、私たちをカルワリオの苦しみの下で、イエズス様と共に生んで下さった、霊的に生んで下さったのです。

シャミナード神父様はこう言います、「イエズス様は、『これがお前の子供である。』と、ヨハネを指して聖母にこう言った。ではこう言った後にもう、イエズス様はもう聖母の息子ではなくなってしまったのだろうか?」

「イエズス様の代わりに、私たちイエズス様とは似つかない子供がマリア様に与えられてしまって、マリア様にとっては苦痛だったのだけれども、しかしイエズス様はもう息子ではないのだろうか?」

そうではなくて、シャミナード神父様によれば、こうです。
「私たちが聖母の子供となったのは、イエズス様において、聖母の子供になった。神秘体において、マリア様の子供となった。イエズス様が子供であり続けるので、その神秘体も全て子供である。」

「十字架の麓で、カルワリオで、私たちを霊的に産み出す、贖いの事業を完成したので、それを以ってイエズス様は、『確かに、霊的に産まれた。マリア様は、本当に私たちの母となったのだ』という事を確認したに過ぎない。」

これは今度の講和で申し上げますが、では、マリア様は私たちの母となり、私たちを産んだ、さあ、これでもう母としての義務は終わったのでしょうか?

いえ、マリア様の母として霊的に産んだという仕事は、これからも母としての役割を、これからもますます続けられます。超自然的な母であって、霊的な母であって、私たちを愛し育てる母として、私たちをお産みになりました。

では、マリア様の役割は一体どうなのか?

これはまた明日、続けましょう。


2021年5月3日(月)秋田巡礼 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ イエズス様が私たちの為になさったその愛の神秘に、深く入る

2021年06月14日 | お説教・霊的講話

2021年5月3日(月)秋田巡礼 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

ドモルネ神父様、そして巡礼者の皆様、
今日、イエズス様の至聖なる聖心の随意ミサで、巡礼を始めようと思いました。それは2つの理由があります。

金曜日でもないのになぜ聖心のミサかというと、まず第1に、イエズス様が私たちの為になさったその愛の神秘に、深く入りたいと思うからです。

イエズス・キリスト、つまり人となった天主の御言葉は、私たちを救う為に、私たちの罪を償う為に、私たちをして天主の命に生み出す為に、人となられました。

イエズス様はただその時に御一人でなさろうと思ったのではなくて、親密な伴侶と一緒に、それをなさろうとなさいました。第2のエヴァ、マリア様です。

そして、マリア様の事をよく理解する為に、イエスズ様の聖心の助けを乞い求めようと思いました。

第2は、イエズス様の御生涯を見ると、イエズスはいつも、マリア様と緊密に一致している、ということが分かりますけれども、いつもそれは、「マリア様の子供」として、マリア様を、「イエズス様の愛する母」として、行動されていました。

イエズスの聖心こそが、マリア様に対する真の信心をお持ちでした。

ですから、マリア様に対する信心と愛を深く理解する為には、イエズス様の聖心に聞くのが一番であると思うからです。

それでは巡礼者の皆さん、今年の巡礼はますます、イエズス様の聖心を通して、マリア様に対する信心を深めるものとなりますように、秋田のマリア様にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


天主の御あわれみの信心について:天主の御あわれみの信心は、闇の中の光となり、謙虚にし、人を元気づける力となる

2021年06月14日 | お説教・霊的講話

天主の御あわれみについての説教

ドモルネ神父

はじめに

この前の金曜日には、イエズスの聖心をお祝いしました。今日は天主の御あわれみの信心について少しお話ししたいと思います。この信心は、イエズスの聖心の信心と関係があります。

a)あわれみという概念

あわれみとは、私たちが他の人の苦しみを見たために感じる同情や悲しみのことです。その人をできるだけ助けたいと、私たちに思わせる同情です。ですから、あわれみには二つの要素があります。私たちが感じる同情や悲しみと、私たちが苦しんでいる人に与える助けです。

b)御あわれみは天主の属性である

聖書の中で、天主は何百回も、ご自分があわれみ深いお方であると宣言されています。例えば、次のように。「主の栄光をたたえよ。主は善きお方である。主のあわれみは永遠に続く」(歴代の書上16章34節)、「主よ、あなたは正しい。あなたの裁きは、すべて正しい。あなたの道はすべて、あわれみ、真理、裁きである」(トビア3章2節)、「その契約を守る人にとって、主の小道は御あわれみと真理である」(詩篇24篇10節)。

また聖パウロは、天主の御あわれみがすべての人に及ぶことを、こう述べています。「天主は、すべての人にあわれみを現すために、すべての人を不従順に閉じ込められた」(ローマ11章32節)。天主は、私たちに対してあわれみ深いお方です。天主の永遠の幸福に影響を与えるものは何もありませんから、もちろん、私たちのみじめさによって天主がお悲しみになることはありませんが、私たちのことを気にかけてくださり、私たちが霊的なみじめさから抜け出すのを助けてくださいます。天主は預言者エゼキエルを通してこう言われました。「罪人は死すべきだというのが私の望みだろうか。むしろ、彼がその生き方をかえて生きることが私の望みである」(エゼキエル18章23節)。

c)天主の御あわれみを求めることは、天主の栄光をたたえること

天主が聖書の中で、ご自分があわれみ深いことをこれほど強調しておられるのはなぜなのか、不思議に思うかもしれません。それは、このあわれみという属性が、特別な形で天主の栄光をたたえることになるからです。私たちが天主の御あわれみを求めるとき、私たちは、自分自身の弱さと天主の御力を同時に認めているのです。私たちは、天主の超越性と私たちの天主への依存性を同時に認めます。私たちは、罪人であるという自分の状態と、天主の正義と聖性を同時に認めます。私たちは、天主が善きお方であることと、天主の御助けを私たちが望むことを同時に宣言します。ですから、天主の御あわれみを求めるということは、一方では天主の超越性、完全性、御力、善性を認め、他方では私たちの天主への依存と霊的なみじめさを告白するということを意味します。私たちの霊魂のこの二重の働きが、天主の栄光をたたえるのです。


d)天主の御あわれみを求めることは、人に希望をもたらす

天主の御あわれみを求めることは、私たちにとっての希望と霊的な慰めの源です。天主は私たちが永遠の幸福に達するのを助けることがおできになり、また助けたいと思っておられます。聖書にはこう書かれています。「私はあなたのあわれみを信頼し、私の心はあなたの救いに喜ぶ」(詩篇12篇6節)、「主を恐れるものは、主に希望を置け。あわれみはあなたのもとに来て喜びとなる」(集会書2章9節)、「天よ、喜びうたえ、地よ、喜べ、山々よ、歓呼を上げよ。主が民を慰め、みじめな人々をあわれまれたからである」(イザヤ49章13節)。


e)私たちの主イエズスは、御托身になった天主の御あわれみである

天主の御あわれみは、私たちの主イエズス・キリストにおいて明らかにされました。「天主は御独り子を与え給うほどこの世を愛された。それは、彼を信じる人々がみな滅びることなく永遠の命を受けるためである」(ヨハネ3章16節)。人間は自分の過ちによって罪を犯し、霊的にも肉体的にも最も深刻な不幸に陥ってしまったため、自分自身の力ではそこから抜け出すことができませんでした。しかし、天主は私たちの主イエズス・キリストを通して、最も優れた御あわれみのみわざである人類の贖いを計画されました。そのため、イエズスを「御托身になった天主の御あわれみ」とお呼びすることがあるのです。

f)天主の御あわれみとイエズスの聖心

天主の御あわれみは、イエズスの聖心と関係があります。福音書の中では、貧しい者、病人、困窮者、罪人が主に呼びかけます。「私をあわれんでください」「私たちをあわれんでください」…それによって自分のみじめさと、助けを得られるという望みを告白しているのです。そして実際、私たちの主イエズスはこのような呼びかけに心を閉ざすことができず、そのたびに彼らの願いにお応えになり、彼らのために奇跡を起こされたのです。贖いという私たちの主イエズスの御あわれみのみわざのうちでも究極の行いは、ご自分の心臓を槍で貫かれることでした。イエズスは、私たちをお救いになるために、ご自身の尊い御血を最後の一滴まで捧げ尽くされたのです。


g)聖心の聖画と天主の御あわれみの聖画

天主の御あわれみの信心は、聖心の信心と関係があります。聖心の聖画と天主の御あわれみの聖画はよく似ていますが、少し違います。イエズスの聖心の聖画については、私たちは特に、イエズスが聖マルガリタ・マリアに言われた言葉を連想します。「見よ、人々を愛するがあまり、その愛を証明するために自らを捧げ尽くすまで、ありとあらゆる苦しみを耐え忍んだこの心を。その報いに私が大半の人々から受けるのは、ただ忘恩ばかりであり、不敬と冒涜、この愛の秘跡のうちにいる私に対する冷淡と軽蔑である」。イエズスの聖心の聖画は、特に愛と償いを求めるものです。天主の御あわれみの聖画が表しているのは、むしろ、私たちが謙遜と信頼を持って主に近づくならば私たちをお助けくださるという聖心の約束です。

h)近代主義者による天主の御あわれみの歪曲

近代主義者は、あわれみという概念と天主の御あわれみの信心を貶めてしまいました。彼らは、普遍的な救いに関する偽りの教え、つまりすべての人が天国に行くという教えを広めるために、「天主の御あわれみ」を利用しています。彼らは、同性愛のような道徳的な混乱を断罪するのを避けるために、「天主の御あわれみ」を利用しています。彼らは、霊魂を養うことのできない、感傷的でカリスマ運動的な欺瞞の霊性を発展させるために、「天主の御あわれみ」を利用しています。こういうことに天主の御あわれみを利用することは、聖霊に対する罪、すなわち、思い上がったり、悔い改めなかったり、執拗に悪にこだわったりする罪です。

結論

天主の御あわれみの信心、つまり、私たちを助けてくださるイエズスの聖心の信心は、特に私たちの時代に適していると思われます。私たちの世界には、特に超自然的な希望が欠けています。一方で、天主を必要としないと主張する愚かな思い上がりでいっぱいの人々がいて、自分の気まぐれによってこの世の形を決めたり、この世の物事の中に幸せを見いだしたりするふりをしています。また他方では、自分の人生には意味がないと考え、悲しみ、うつ、恐怖に沈んでしまって、自殺するような人も多く見られます。

天主の御あわれみの信心は、天主の超越性と、天主の私たちへの、愛に満ちた気遣いへの、私たちの信頼とを、同時に宣言します。そして、それは闇の中の光となり、思い上がっている人を謙虚にし、落胆している人を元気づける力となるのです。

聖なる希望の聖母、われらのために祈り給え!





--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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