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聖ピオ十世会アフリカ管区・管区長ヴェルノワ神父様によるジンバブエの写真

2008年10月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会アフリカ管区・管区長ヴェルノワ神父様によると、ジンバブエの百貨店(Grands magasins d'Harare (Zimbabwe). )には何も買うものが無いのだそうです。

 詳しくはここをクリックして聖ピオ十世会フランス管区のウェッブ・サイトの写真をご覧下さい

 聖ピオ十世会のジンバブエの写真はここをクリックして下さい


 ファチマの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
 ファチマの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
 ファチマの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.

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京都のキリシタンの史跡:南蛮寺跡(中京区姥柳町)、本能寺跡(元本能寺南町)

2008年10月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 十月六日は、今年の十一月に列福される京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日(1619年10月6日)でした。今年列福される日本の殉教者たちを記念して、京都のキリシタンの史跡をご紹介します。




南蛮寺跡(中京区蛸薬師通り西入る姥柳町)
南蛮寺跡:中京区蛸薬師通り西入る

南蛮寺(中京区蛸薬師通り西入る姥柳町)の絵

地図で見る

南蛮寺跡(中京区蛸薬師通り西入る姥柳町)

南蛮寺(中京区蛸薬師通り西入る姥柳町)の絵


南蛮寺跡(中京区蛸薬師通り西入る姥柳町)
南蛮寺跡の説明

~~~~~~~~~ 本能寺 ~~~~~~~~~

本能寺の元々の場所
本能寺の元々の場所
(南蛮寺のすぐ近くに本能寺があり、宣教師たちは本能寺の変を直接に知った。織田信長は本能寺に居た。



大きな地図で見る

本能寺の跡
現在の本能寺は、ここから秀吉によって移された。

四条油小路上がる蛸薬師通りの手前:大きな地図で見る


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十月六日は、京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日
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京都のキリシタンの史跡:司教座聖堂カトリック河原町教会と都の聖母

2008年10月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 十月六日は、今年の十一月に列福される京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日(1619年10月6日)でした。今年列福される日本の殉教者たちを記念して、京都のキリシタンの史跡をご紹介します。

 ファチマの聖母マリアよ、我らのために祈り給え!
 聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
 ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え!

カテドラルと都の聖母

 1862年日本においてはキリシタン禁令の時代、教皇ピオ九世により二十六聖殉教者が聖人の位にあげられたましたが、1854年フランスのサン・クロード教区のロバン神父(Leon Robin)は日本の改宗のために祈祷の会を作りました。ド・シャモン司教(Bishop Antoine-Jacques de Chamon)により公式に認可されています。フランス人のレオン・ロバン神父は、日本の殉教者の記録を読み深く感激したからです。彼は、日本人の改宗のための祈祷会を起こし、日本に福音を説くために教皇から派遣される司教および宣教師が入国できるように祈る運動を始めました。

  ロバン神父は聖フランシスコ・ザベリオが聖母に奉献した聖堂を京都に建てたいと望んでいたことを知り、1864年から聖フランシスコ・ザベリオが日本に携えて来たと伝えられる聖母の画像にちなんで六体のブロンズの聖母像をローマで鋳造させ、翌1865年12月31日教皇ピオ九世から祝別を受け、「都の聖母」と命名しました。

 1866年6月14日、ヴィリオン(ビリオン)神父(Père Villion)はそのうちの一体をパリから日本にもって来て横浜にいたジラール神父 (Père Girard) のもとに届けられました。それは、ロバン神父が「京都を見下す高い丘の上へ埋めて下さい。聖母のとりなしにより京都に宣教師が入れる日が1日もはやくきますように。」という手紙をそえてパリ宣教会本部に三体の像を送っていたからです。何故京都かというと、当時、外国人は、横浜、長崎、神戸などの居留地から出られず、京都に宣教師が入ることは不可能であったからです。

 ヴィリオン神父(ビリオン神父)は日本で、京都の博覧会(1873年5月欧州外交団が仙洞御所の特別拝観を許された)に列席をゆるされたヴィグルー神父(すでに日本に入国していたパリ外国宣教会の宣教師)に像を託しました。

 当時は禁教状態の日本で、ヴィグルー神父 (Père Vigroux) は京都で信仰を伝えることが許されず、博覧会の後は京都を去らなければなりませんでした。真理なるカトリック信仰が都で自由に伝えることが出来る日を祈り希望し、1873年、ルイス原田という日本人の助けを得て、ヴィグルー神父によって「都の聖母」像は市内を見おろす東山将軍塚の六本の松の木のそばにひそかに埋められることになりました。
 深い信仰を持っていたヴィグルー神父は、御殿場の神山復生病院の二代目院長となり、神山復生病院をよく理解して、患者たちのためによく働いていました。しかし、健康上の理由で、院長となった六年後フランスへ帰国しています。(御殿宣教師物語


【ジラール神父とヴィグルー神父の綴りは、3回ほど来日した Mgr Francisque MARNAS (1859-1932) 著 La Religion De Jésus ( Yaso Ja-Kyo) Ressucité Du Japon Dans La Seconde Motié Du XIXeme Siècle.(「日本キリスト教復活史」)によった。 Mgr Francisque MARNAS は、Claude Prudhomme, professeur d’histoire contemporaine, Université Lumière- Lyon 2 によると、リヨン出身で特定の外国宣教会には属していなかったようだ。】





  1879年(明治12年)9月28日フランス語教授という名目で最初に京都に赴任したヴィリオン神父(A. Villion)は、厳しい宣教に直面しながらも、翌日、早速話に聞いていた将軍塚に登り、聖母像を掘り出し、彼は御像を大切に持ち帰り、高倉二条の借家に設けた仮聖堂に安置しました。やがてザヴィエルの願いが成就し、京都に聖堂の建つ日が来ました。1890年5月1日河原町教会の献堂式の日、当時京都の属していた中日本代牧区を管轄するミドン司教は、説教の終わりに、すでに脇祭壇に置かれてあった「都の聖母」(Our Lady of the Capital/NUESTRA SEÑORA DE LA CAPITAL) の由来の一部始終を参列者に紹介し、京都で最初に献堂された河原町教会に安置されたのです。

 ヴィリオン神父は、将軍塚の聖母マリアのあった場所をそのままにしておかず、御像のあったところの樹に小さな十字架像を付け、この場所に毎日聖務日課を唱えに登りに来たのでした。

 現在カトリック河原町教会にある聖母像がこの像です。

Se souvenant que quelques années plus tôt, une statue de la Sainte Vierge, bénite par Pie IX, avait été enterrée sur une colline dominant la ville, dans le but d’obtenir, par l’intervention de Marie, l’introduction d’un missionnaire à Kyôto, il [=Pere Villion] va la reprendre, puisque le but est réalisé, et la transporter dans son oratoire. Pour ne pas laisser la place vide, il attache un petit crucifix à un arbre, et chaque jour vient réciter son bréviaire à cet endroit, d’où l’on aperçoit la ville aux mille pagodes.





カトリック河原町教会(カテドラル)
京都のカテドラル:カトリック京都司教区 司教座聖堂 カトリック河原町教会
地図で見る

カトリック河原町教会(カテドラル)
京都のカテドラル:カトリック京都司教区 司教座聖堂 カトリック河原町教会

カトリック河原町教会(カテドラル)
京都のカテドラル:カトリック京都司教区 司教座聖堂 カトリック河原町教会



カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像
都の聖母マリア
『ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え』
『ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え』
『ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え』

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像


カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像の説明

カトリック河原町教会(カテドラル)にある「都の聖母」像の説明


ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え。
ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え。
ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、我らのために祈り給え。

Oh, Our Lady, being buried, thou hast prayed for Japan in the soil, pray for us.
Oh, Our Lady, being buried, thou hast prayed for Japan in the soil, pray for us.
Oh, Our Lady, being buried, thou hast prayed for Japan in the soil, pray for us.

¡Oh tu, la sepultada de la colina, Señora Nuestra! Ruega por Japón, Ruega por todos nosotros.
¡Oh tu, la sepultada de la colina, Señora Nuestra! Ruega por Japón, Ruega por todos nosotros.
¡Oh tu, la sepultada de la colina, Señora Nuestra! Ruega por Japón, Ruega por todos nosotros.


ああ、土に埋もれたまま日本のために祈り給いし聖母よ、
土に埋もれたままのような聖伝のミサがもう一度日本の地に与えられんがために、
我らのために祈り給え。
土に埋もれたままのような聖伝のミサがもう一度日本の地に与えられんがために、
我らのために祈り給え。
土に埋もれたままのような聖伝のミサがもう一度日本の地に与えられんがために、
我らのために祈り給え。


【推薦サイト:関連サイト:参考資料】
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京都のキリシタンの史跡:慶長天主堂跡地 (上京教会跡地)

2008年10月11日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 十月六日は、今年の十一月に列福される京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日(1619年10月6日)でした。今年列福される日本の殉教者たちを記念して、京都のキリシタンの史跡をご紹介します。

慶長天主堂があった都の上京教会の跡地(地図で見る

 堀川の元誓願時通りを東に入り、油小路通りとの角に、金網の中に慶長天主堂の碑があります。



この付近に慶長天主堂があった。(一条の辻)都の上京教会の跡。
この付近に慶長天主堂があった。(一条の辻)都の上京教会の跡

この付近に慶長天主堂があった。(一条の辻)都の上京教会の跡。

この付近に慶長天主堂があった。(一条の辻)都の上京教会の跡。

この付近に慶長天主堂があった。(一条の辻)上京教会の跡。慶長天主堂跡。

この付近に慶長天主堂があった。(一条の辻)上京教会の跡。慶長天主堂跡。

この付近に慶長天主堂があった。(一条の辻)上京教会の跡。慶長天主堂跡。

この付近に慶長天主堂があった。(一条の辻)上京教会の跡。慶長天主堂跡。
堀川の元誓願寺通りを東に入る

この付近に慶長天主堂があった。(一条の辻)上京教会の跡。慶長天主堂跡。

この付近に慶長天主堂があった。(一条の辻)上京教会の跡。慶長天主堂跡。
その周辺

この付近に慶長天主堂があった。(一条の辻)上京教会の跡。慶長天主堂跡。

この付近に慶長天主堂があった。(一条の辻)上京教会の跡。慶長天主堂跡。


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十月六日は、京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日
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京都のキリシタンの史跡:瑞峯院の大友宗麟の閑眠庭、金毛閣、北野天満宮の灯籠

2008年10月11日 | カトリックとは
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愛する兄弟姉妹の皆様、

 十月六日は、今年の十一月に列福される京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日(1619年10月6日)でした。今年列福される日本の殉教者たちを記念して、京都のキリシタンの史跡をご紹介します。


大徳寺:瑞峯院
京都市北区紫野大徳寺町、瑞峯院(ずいほういん)は、大友宗麟の菩提寺(境内には大友宗麟夫妻の墓がある)で、十字架の庭があります。瑞峯院という寺号は宗麟の法名「瑞峯院殿瑞峯宗麟居士」から名付けられたとのことです。





大徳寺:瑞峯院
大徳寺

大徳寺:瑞峯院
瑞峯院

大徳寺:瑞峯院

大徳寺:瑞峯院
瑞峯院入り口

大徳寺:瑞峯院

大徳寺:瑞峯院

大徳寺:瑞峯院
大徳寺内の瑞峯院(ずいほういん)の庭

大徳寺:瑞峯院
「大友宗麟公はキシリタンであったので、」

大徳寺:瑞峯院

大徳寺:瑞峯院

大徳寺:瑞峯院
十字の庭(閑眠庭 かんみんてい)
東側にあるキリシタン灯篭を背にして見ると、七つの石が十字架を形作っています。
「閑眠高臥して青山に対す」という禅語から銘じられました。

キリシタン灯籠
キリシタン灯籠

キリシタン灯籠
キリシタン灯籠

キリシタン灯籠

キリシタン灯籠


金毛閣
大徳寺の三門(あるいは山門とも)金毛閣:京都洛北 大徳寺 金毛閣
利休を刻んだ木像が安置されている。門の上にその像があった。
秀吉も利休の像を仰いでここを通らなければならなかったようだ。
秀吉は「利休、おまえは俺を足踏みにするのか」と因縁を付けて
利休に切腹を命じた。やはり大徳寺の敷地の中にある。


キリシタン灯籠
キリシタン灯籠

キリシタン灯籠

 この有名なキリシタン灯籠は、北野天満宮(きたのてんまぐう)にある。
上京区馬喰町

キリシタン灯籠

キリシタン灯籠

キリシタン灯籠

普通の灯籠
普通の灯籠

普通の灯籠
一般の灯籠

普通の灯籠
普通の灯籠

キリシタン灯籠


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京都のキリシタンの史跡:曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺

2008年10月10日 | カトリックとは
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愛する兄弟姉妹の皆様、

 十月六日は、今年の十一月に列福される京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日(1619年10月6日)でした。今年列福される日本の殉教者たちを記念して、京都のキリシタンの史跡をご紹介します。

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺

 曲直瀬 道三(まなせ どうさん、1507年 - 1594年)は、「医聖」と称される当時有名な名医でした。そのもとに数百人の弟子がいました。1584年、イエズス会のオルガンティノを診療し、洗礼を受けました。




曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺
十念寺:ここに曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある。曲直瀬道三(まなせどうざん)は七十七歳の時に受洗しキリシタンとなって多くの影響を与えた。

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺
曲直瀬道三(まなせどうざん)の記念碑

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺


曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺
記念碑の裏側

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺
曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓を見つける

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓がある十念寺



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京都のキリシタンの史跡:六条河原の元和の殉教碑、廬山寺

2008年10月10日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 十月六日は、今年の十一月二十三日に列福される京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日(1619年10月6日)でした。今年列福される日本の殉教者たちを記念して、京都のキリシタンの史跡をご紹介します。

六条河原にある元和のキリシタン殉教碑
1619年10月6日の夕暮れに、京都六条河原で火あぶりの刑にて殉教した五十二名の殉教者を記念する殉教碑。1994年7月26日に建立された。



 それは一六一九年十月六日、日曜日の午後のことでした。将軍徳川秀忠(とくがわひでただ)の上洛によって、突然、キリシタンたちの処刑が決定され、男女幼児を含む五十二人が十一台の大八車に乗せられ、見せしめのために主な町中を引き回された後、大仏と相対する賀茂川の六条河原の刑場へと連れて行かれました。

 この大仏とは豊臣秀吉が奈良の東大寺の大仏に倣い、奈良より大きく立てられたもので、後に落雷に遭い、また炎上し大仏殿など全て消失、現在残っているのは豊臣家滅亡の口実となったという巨大な釣り鐘だけです。【一五八六年、天台宗の寺として建てられた方広寺(ほうこうじ)に一九メートルほどの木像の巨大な仏像があった。方広寺の境内にある釣り鐘の上部には「国家安康」また「君臣豊楽」という祈願の言葉が刻まれている。この八つの文字は今では白く囲まれている。徳川家康は、家康は引き裂かれていくことによって豊臣家は栄える、という意味だと因縁を付けた、という有名なエピソードがある。】

一五八六年、天台宗の寺として建てられた方広寺(ほうこうじ)に一九メートルほどの木像の巨大な仏像があった。方広寺の境内にある釣り鐘の上部には「国家安康」また「君臣豊楽」という祈願の言葉が刻まれている。この八つの文字は今では白く囲まれている。徳川家康は、家康は引き裂かれていくことによって豊臣家は栄える、という意味だと因縁を付けた、という有名なエピソード(方広寺鐘銘事件ほうこうじしょうめいじけん)がある。


 この大仏の前の河原の刑場へ向かう道々、大八車を先導する役人が大声で「これらの者は将軍が禁じているキリスト教を信じていたから火あぶりの刑で殺されるのだ」と叫ぶたびに、「はい、私たちはキリシタンです。天主のために命を捧げます」と声高らかに答えるのでした。

 その顔は、まもなく天主に出会える喜びで皆一様に輝き、その様子を見る見物人たちは彼らの深い信仰に称賛を送るのでした。

 刑場には、キリシタンたちの家を取り壊して集められた梁と薪が二十七の大きい十字架の、それも聖堂に飾るような美しい十字架のもとに高く積み上げられておりました。・・・

 秀忠の命を受け、火あぶりの刑を実行することになったのは、京都所司代、若かりしころ僧侶であった板倉勝重(いたくらかつしげ)で、宣教師の友であった彼はキリシタンたちに大変好意的で、通常火あぶりの刑では残酷な苦しみを与えるために遠火(とおび)で行っていましたが、彼らが決して棄教しないことを確信していた勝重は、可能な限り苦痛を最小限に抑えるべく、猛火での火あぶりを決行することにしたのでした。

 役人たちは、各十字架に二人づつ背中合わせに縛っていきました。両端の十字架には男たちが、中程の十字架には女性とその子供達が付けられていきました。

 ジョアンの妻マグダレナは、二才の娘レジナを、
 マリアは娘のモニカを、
 マルタは二才の息子ベントを、また、
 他のマリアは息子シクストと、
 マシアは三才の娘ルシアを胸に懐いて十字架に付けられたのでした。

 また役人から許してやろうと結われた牢中で盲目になったマルタは「お母さんとともに殉教したい」といって母のルフィナに抱かれて天国に召されるのを待っていました。

 最も多くの人々の涙を誘ったのは、この殉教者たちのリーダー格であったジョアン橋本太兵衛の身重の妻テクラと五人の子供達の姿でした。テクラは逮捕はされていましたが、家にいることを許され、処刑決定の日に牢に行き、皆とともに一緒に刑場へ連れて行かれたのです。

 殉教のためにと用意していた「きぬかずき」という衣を頭からかぶって十字架のもとへと歩むテクラのその気高さは、見物人たちの心を打たずにはおれませんでした。

 テクラは三才の娘ルイサを懐き、右脇に十二才のトマ、八才のフランシスコを左に十字架に付けられました。六才のペドロと十三才のカタリナは隣の十字架に付けられました。

 十字架に火が付けられ夜空が炎で煌々と照らされる中、殉教者たちは祈りを、また、賛美歌を歌い始めました。

「もう私は目が見えない」というカタリナに、「イエズス、マリアの聖名を唱えなさい」と母テクラは答えるのでした。

 なお、橋本家の長男ミゲルは不在故に逮捕されませんでしたので、後に自分も家族とともに殉教したいと願い出ましたが受け入れられず、逆に家督を守るように諭され、家に帰って行きました。

 猛火ゆえに処刑は早く終わりましたが、何も恐れず信仰を証(あかし)したキリシタンたちの、特に親たちとともに逮捕され十字架に付けられた十一人のけなげな幼子たちの殉教の光景に、その場にいた多くの人々は涙と悲しみとともに、その崇高さ、勇敢さを讃えたのでした。

 その夜、京都のキリシタンたちは、約三十数名の殉教者たちの遺体を殉教地近くに密かに埋葬しましたが、彼らがどこに葬ったかは今となっては知るよしもありません。

 ただ、三百九十年前のこの京都の大殉教を静かに目撃したあの巨大な釣り鐘を除いては。・・・・
【「心のともしび」(2007年6月590号)マクドナル神父の記事を参考にしました。】




[大きな地図で見る]

六条河原と呼ばれる鴨の河原にある元和のキリシタン殉教碑

In The Christian century in Japan (1951), one can read of an Englishman who was there, on that very day of October 6, 1619, and who describes how he saw ‘fifty-five persons of all ages and both sexes burnt alive on the dry bed of the Kamo River, and among them little children of five or six years old in their mothers’ arms, crying out, ‘Jesus, receive their souls!’ ” Here is the description of one of these executions:“The ordeal was witnessed by 150,000, according to some writers, or 30,000 according to other and in all probability more reliable chroniclers. When the fagots were kindled, the martyrs said sayonara (farewell) to the onlookers who then began to entone the Magnificat, followed by the psalms Laudate pueri Dominum and Laudate Dominum omnes gentes, while the Japanese judges sat on one side ‘in affected majesty and gravity, as in their favorite posture’. Since it had rained heavily the night before, the faggots were wet and the wood burnt slowly; but as long as the martyrdom lasted, the spectators continued to sing hymns and canticles. When death put an end to the victims’ suffering, the crowd intoned the Te Deum.” (C.R. Boxer, The Christian Century in Japan, University of California Press, 1951, pp.342,343, 349)



廬山寺
 その昔、紫式部が「源氏物語」「紫式部日記」などを書いたと伝えられている廬山寺(ろざんじ)には、キリシタン大名の有馬晴信の妻であるジュスタの墓があります。

 有馬晴信(1567年 - 1612年)は、1580年にカトリックの洗礼を受け、有馬城下にセミナリヨ(カトリック司祭養成の神学校)を作り、1582年、大村純忠、大友宗麟とともにローマへ天正遺欧使節を送っています。

 ジュスタは後陽成天皇の正室の妹で、今出川の公家である菊亭に嫁ぎますが、その後、小西行長の計らいで有馬晴信と婚姻したのち受洗します。有馬晴信は、1612年に甲斐に流されて処刑されて命を落としますが、晴信の死後ジュスタは菊亭家にもどったらしく、墓碑に菊亭家と刻まれています。




廬山寺(ろざんじ)にあるキリシタン大名の有馬晴信の妻であるジュスタの墓
上京区寺町通り広小路上がる:廬山寺(ろざんじ)にあるキリシタン大名の有馬晴信の妻であるジュスタの墓

廬山寺(ろざんじ)にあるキリシタン大名の有馬晴信の妻であるジュスタの墓

廬山寺(ろざんじ)にあるキリシタン大名の有馬晴信の妻であるジュスタの墓

廬山寺(ろざんじ)にあるキリシタン大名の有馬晴信の妻であるジュスタの墓

廬山寺(ろざんじ)にあるキリシタン大名の有馬晴信の妻であるジュスタの墓

廬山寺(ろざんじ)にあるキリシタン大名の有馬晴信の妻であるジュスタの墓
廬山寺の中を歩く

廬山寺(ろざんじ)にあるキリシタン大名の有馬晴信の妻であるジュスタの墓

廬山寺(ろざんじ)
廬山寺


【推薦サイト:関連サイト:参考資料】
京都市内キリシタン遺跡 案内
京都のキリシタンの史跡:二十六聖人発祥の地、フランシスコの家(キリスト教文化資料館)
被昇天のしるしのもとで. 日本におけるカトリックの歴史
聖ピオ十世会だより: マニラの eそよ風 (第385号)
聖ピオ十世会だより: マニラの eそよ風 (第387号)
京都の大殉教
日本188殉教者名簿
十月六日は、京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日
SSPX ASIA Newsletter May-Sep 2007

京都のキリシタンの史跡:二十六聖人発祥の地、フランシスコの家(キリスト教文化資料館)

2008年10月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 十月六日は、今年の十一月に列福される京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日(1619年10月6日)でした。今年列福される日本の殉教者たちを記念して、京都のキリシタンの史跡をご紹介します。

 現在の四条通堀川に建っている四条病院のあたりで、1597年2月5日に長崎の西坂で殉教した日本二十六世殉教者は、ここに聖堂と聖アンナおよび聖ヨゼフ病院を建て、ここで捕らえられ、ここから長崎へと送られたのです。



四条通堀川にある四条病院のあたり

日本二十六聖殉教者の殉教の始まり
日本二十六聖殉教者の殉教の始まりの地点

日本二十六聖殉教者の殉教の始まり

日本二十六聖殉教者の殉教の始まり
現在の四条通堀川にある四条病院の入り口。
日本二十六聖殉教者たちは、ここで捕らえられて長崎に送られた。
殉教者聖ペドロ・バウチスタ(聖ペトロ・バプティスタ)神父が、
このあたりに聖堂と病院を建てた。

四条堀川
四条堀川近辺

四条堀川
四条堀川近辺

キリスト教文化資料館、フランシスコの家の周辺
キリスト教文化資料館の近辺:
四条通堀川を一筋西に向かい、四条岩上通りを下がると、
フランシスコの家がある。


キリスト教文化資料館 フランシスコの家 下京区佐竹町388(四条堀川西一筋目下がる)

京都の元和の大殉教の絵
焼かれる殉教者の絵

京都の元和の大殉教

キリシタン灯籠の説明(英語)
キリシタン灯籠の説明(英語)

キリシタン灯籠の足元(聖母マリア様と思われるお姿がある)
キリシタン灯籠の足元(聖母マリア様と思われるお姿がある)

キリシタン灯籠

フランシスコの家の玄関ののれん
天使の聖母教会:フランシスコの家の玄関

フランシスコの家の玄関にある元和の殉教の絵

フランシスコの家の玄関

フランシスコの家の玄関

キリスト教文化資料館の資料のキリスト教年表
キリスト教文化資料館の資料のキリスト教年表

キリスト教文化資料館の資料のキリスト教年表

キリスト教文化資料館の資料のキリスト教年表

踏み絵
踏み絵

踏み絵
踏み絵

南蛮画
南蛮画

細川ガラシア夫人
細川ガラシア夫人

細川ガラシア夫人

マリア観音
マリア観音

マリア観音
マリア観音

マリア観音
これは聖母マリア様らしいマリア観音

京都のキリシタン遺跡の地図

十字架の印のついた馬の轡
十字架の印のついた馬の轡

十字架のついたキセルケース
十字架のついたキセルケース

十字架のついた刀のさや
十字架のついた刀のさや

十字架のついた屋根の瓦
十字架のついた屋根の瓦

ロザリオ
ロザリオ

南蛮寺
南蛮寺の絵

狩野派の画家である元秀(狩野永徳の弟)の描いた南蛮寺の絵。秀吉によりことごとく打ち壊された。
狩野派の画家である元秀(狩野永徳の弟)の描いた絵。秀吉によりことごとく打ち壊された。


都の聖母マリア
都の聖母

都の聖母

都の聖母


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【参考資料】
被昇天のしるしのもとで. 日本におけるカトリックの歴史
聖ピオ十世会だより: マニラの eそよ風 (第385号)
聖ピオ十世会だより: マニラの eそよ風 (第387号)
京都の大殉教
日本188殉教者名簿
十月六日は、京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日
SSPX ASIA Newsletter May-Sep 2007

十月六日は、京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日

2008年10月09日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様

 十月六日は、今年の十一月に列福される京都の元和(げんな)の殉教者たちの殉教の日(1619年10月6日)です。この日には間に合いませんでしたが、愛する兄弟姉妹の皆様に、この殉教を想起することを提案致します。そこで、今回は、親愛なる日本の老いたる僕かつ宣教師であるヴィリヨン神父様(Reverend Pere A. Villion M.E.P.)の「日本聖人鮮血遺書(ヤマト ヒジリ チシオ ノ カキオキ)」(1911年)の517ページに記されている第九十三次殉教者の記事をご紹介します。

Among the 55 Martyrs is this heroic family of John Hashimoto Tahyôe, his wife Thecla and their five children, Catharina 13, Thomas 12, Franciscus 8, Petrus 6 and Ludovica 3. During the execution, the fire actually freed Catharina who was tied to a separate cross at a short distance from the cross where her mother and the 3 youngest children were tied together. She ran to her mother saying, ‘Mother, I can’t see!’ Her mother replied, ‘pray to Jesus and Mary’. The last thing bystanders saw of the mother was that she was drying tears from her 3 year old baby who was in her arms. After the flames and the smoke abided, the mother was still seen holding her youngest, tight in her arms, both dead.
当時テクラ橋本は身籠もっていた。
娘のカタリナが母に向かって
「お母さん、お母さん、もう目が見えませぬ」と叫びければ、気丈の母はこれに答えて
「さらば早くイエズス、マリアの聖名を唱えよ」と励ましつつ、
自分は幼子をしかと懐き、天を仰ぎながら処分を受けた。


第九十三次殉教者(1619年 元和5年10月6日)

 京都伏見街道大仏前と加茂川との間に、四十五間(けん)づつ別々に離して、十字架を立てたる刑場を設け、五十二人の信者を十字架に縛(ばく)し、火あぶりに処す。

六条河原と呼ばれる鴨の河原にある元和のキリシタン殉教碑

1619年10月6日の夕暮れに、
京都六条河原で火あぶりの刑にて殉教した
五十二名の殉教者を記念する殉教碑。
1994年7月26日に建立された。
元和の殉教の時、二十七本の十字架が立てられ、
下に積み上げられた巻きに火が付けられたとき、
大きな炎はしばらくの間夕暮れの京都を照らし、
後にその光が日本全土にまで広がったと記録にある。
願わくは、元和の殉教者のカトリック信仰の光が
日本全土を輝きだし照らしだし広がりますように!

In The Christian century in Japan (1951), one can read of an Englishman who was there, on that very day of October 6, 1619, and who describes how he saw ‘fifty-five persons of all ages and both sexes burnt alive on the dry bed of the Kamo River, and among them little children of five or six years old in their mothers’ arms, crying out, ‘Jesus, receive their souls!’ ” Here is the description of one of these executions:“The ordeal was witnessed by 150,000, according to some writers, or 30,000 according to other and in all probability more reliable chroniclers. When the fagots were kindled, the martyrs said sayonara (farewell) to the onlookers who then began to entone the Magnificat, followed by the psalms Laudate pueri Dominum and Laudate Dominum omnes gentes, while the Japanese judges sat on one side ‘in affected majesty and gravity, as in their favorite posture’. Since it had rained heavily the night before, the faggots were wet and the wood burnt slowly; but as long as the martyrdom lasted, the spectators continued to sing hymns and canticles. When death put an end to the victims’ suffering, the crowd intoned the Te Deum.” (C.R. Boxer, The Christian Century in Japan, University of California Press, 1951, pp.342,343, 349)



 十一両の車に彼らを乗せ、市中を引き回しながら、一人の者をして大声に呼ばしめて曰く
「この者どもはキリスト信者たる故をもって、将軍の厳命に由り火あぶりに処するものなり」と。

 然るに一人の信者またこれに答えて
「我らはいかにもキリスト信者なれば、今イエズスの聖名に由りて死せん、願わくは主に光栄あらんことを」と言われた。

元和の殉教の時、二十七本の十字架が立てられ、下に積み上げられた巻きに火が付けられたとき、大きな炎はしばらくの間夕暮れの京都を照らし、後にその光が日本全土にまで広がったと記録にある。
焼かれる殉教者の絵 キリスト教文化資料館フランシスコの家の所蔵



 既にして刑場に至り、二人づつ背中合わせに縛され、母は子を抱きながら縛せられて処刑せられし者の姓名は左のごとし。【括弧の中は、日本188殉教者名簿による名前】

豊後の人、トマス・ヂァン【喜庵】。
北国の生まれなるトマス池上。
中国の生まれなるリノ治兵衛【利兵衛】。
その妻、マリア。(但し、リノはイエズス会の世話人)
コスマ某【コスメ】。
ドミニコ某【ルフィナ?】
アントニオ某【どみ】
ヨアキム小川。
モニカ某女(以上は大和の人)。
ヨハネ忠作【久作】。
その妻マダレナ【マグダレナ】。
その子レジナ、及びオイダク【シクスト?】
トマス仁治郎【こしましんしろう】
その妻マリア。
他のマリア、その子なる四才のモニカを抱く(以上は山城の人)。
河内の生まれなるマリア【マルタ】、その子なる三【二】才のベネディクトを抱く。
美濃の国のモニカ某女。
トマス籐右衛門。
その妻ルシア【ルチア】。
盲目の娘なる八【七】才のマルタ。
レオ久助【きゅうすけ】。
その妻マルタ、この夫婦は或る大名の家来なりしが、教会のために尽くさんと欲して永の暇を乞い殊更に自ら貧困に陥りし者。
ガブリエル某。
マダレナ【マグダレナ】某女。(以上八人、尾張の者。)
近江のモニカ某女、
アガタ某女、
ソンシャ【メンシア】某女、三才のルシヤ【ルチア】を抱く。
マヌエル黒三郎【インマヌエル小三郎】。
トマス與右衛門。
その老母アンナ【アンナかじや】。
マリア千代。
他のマリア某女。
ペトロ某(以上は丹波の者)【マリアちゅうぞう?】。
筑前のエロニモ四郎【ヒエロニモそうろく】。
その妻マリア【ルチア】。
ヤコボ櫻井【ヨハネ桜井如庵】。
その妻【ヨハネ桜井の息子の妻】ウルスラ(この二人豊後の者)。
マレチヨ千次郎【マンショ九次郎】。
ルドヴィコ又五郎【ルイス(ルドビコ)又五郎】。
イエズス組の宿主ヨハネ橋本太兵衛。
その妻テクラ【テクラ橋本】。
その子カタリナ(十三才)。
トマス(十二才)。
フランシスコ(八才)。
ペトロ(六才)。
ルシア【ルイサ】(三才)。

 かくて橋本の親子が車より降りるとき、父は礼服の肩衣(スカプラリオ)を着けて、祝日の出で立ちしたり。子供は柱に縛り付けられ、母が幼子を胸に懐く、一人歩きする子は母の両脇にくくられながら、火あぶりに処せらるる時、娘のカタリナが母に向かって
「お母さん、お母さん、もう目が見えませぬ」と叫びければ、気丈の母はこれに答えて
「さらば早くイエズス、マリアの聖名を唱えよ」と励ましつつ、
自分は幼子をしかと懐き、天を仰ぎながら処分を受けた。

次にヤコボ都子【ディエゴ辻】。
フランシスコ長作【フランシスコ庄三郎】。
その子フランシスコ、一同と共に火あぶりに処せられた。

同日伏見において、
イグナシヨ土右衛門もまた火あぶりに処せられる。彼は近江の人なり。

中山正美作「都の大殉教」より テクラ橋本(バチカン美術館蔵)



【参考資料】
聖ピオ十世会だより: マニラの eそよ風 (第385号)
聖ピオ十世会だより: マニラの eそよ風 (第387号)
京都の大殉教
日本188殉教者名簿

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の言葉:司祭の偉大な権能

2008年10月08日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教様の言葉をご紹介します。

From "La sainteté sacerdotale" Mgr Marcel Lefebvre
(マルセル・ルフェーブル大司教「司祭の聖性」)

La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre



La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre La sainteté sacerdotale par Mgr Marcel Lefebvre


 司祭が御聖体の聖別の言葉を発するとき、司祭は私たちの主イエズス・キリストを、天主の聖子を祭壇の上に呼び降ろす。哀れな被造物、儚く重要でもない被造物ではあるが、司祭は万物の創造主であり、宇宙の贖い主、私たちの主イエズス・キリストを、自分の言葉によって呼び降ろす権能を持っている。ちょうど、聖母マリアがその「我になれかし」という言葉によって御胎内に天主の聖子を呼び降ろしたように、司祭も聖別の言葉を唱えるたびに、私たちの主イエズス・キリスト御自身を、その肉体、御血、御霊魂、御神性において、私たちの祭壇に呼び降ろす。これが司祭の権能である。信じられない権能、想像も出来ない権能である。私たちの主がこの権能を被造物にお与えになったこと、これはその全能の行為、私たちに対する偉大なる愛徳の行為であり、それはその贖いが私たちに適応されるためであった。
【ルフェーブル大司教、1977年8月25日の説教、シャテルペロンにて】


Lorsqu’il prononce les paroles de la consécration, le prêtre fait descendre sur l’autel Notre Seigneur Jésus-Christ, le Fils de Dieu. Pauvre créature, petite créature insignifiante, il a le pouvoir par ses paroles de faire descendre celui qui est le Créateur de toutes choses, le Rédempteur de l’univers, Notre Seigneur Jésus-Christ. Comme la très sainte Vierge par sonFiat a pu faire descendre dans son sein le Fils de Dieu, ainsi le prêtre, chaque fois qu’il prononce les paroles de la consécration, fait descendre sur nos autels Notre Seigneur Jésus-Christ lui-même dans son Corps, son Sang, son Âme, sa Divinité. C’est là le pouvoir du prêtre, pouvoir incroyable, inimaginable. Que Notre-Seigneur ait donné ce pouvoir à des créatures est un acte de sa toute-puissance et de sa grande charité envers nous, afin que s’applique sa Rédemption. - Homélie, Châtelperron, 25 août 1977.

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【関連記事】

フェレー司教様:カストゥリヨン・オヨス枢機卿の最後通牒について(その6)

2008年10月07日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
Sermon de Mgr Bernard Fellay, lors de la procession du vœu de Louis XIII, à Saint-Malo, le 15 août 2008.

アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2008年8月15日、サン・マロ(フランス)におけるフランス王ルイ13世の宣誓の聖母行列における、フェレー司教様の説教 の抜粋の続きをご紹介します。

(From DICI: Sermon de Mgr Bernard Fellay, lors de la procession du vœu de Louis XIII, à Saint-Malo, le 15 août 2008.)
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 私たちがまだ生きている間に、この目で遂に、教会の状況が改善するのを見ることになるでしょうか?もちろん私たちはそのことを期待します。しかし私たちにはよく分かりません。人間的に言うと、改善の方向に向かっていることを示す幾つかの要素を見ることが出来るのは本当です。

 原理のレベルでは、覚醒があります。特に若い世代において、何も受けなかった人々において、期待があります。聖伝に向かうという期待があります。今日、教会当局が彼らに与える物に満足できず、彼らは聖伝の教義を求めています。

 古いミサ聖祭に戻る司祭たち、自分の宗教を発見する司祭たちもいます。もしも皆さんが昔のミサを初めて捧げた後に「この2つのミサは、全く別世界だ!この聖伝のミサを捧げて、司祭が何かを発見した!」という司祭の数がどれ程多いことかを知ったらびっくりすることでしょう。

 だからといってこれらの司祭たちが司祭職について何の概念も持ち合わせていなかったというわけではありません。そうではなく、彼らは聖伝のミサで、私たちの主イエズス・キリストがその司祭たちをして御自分に一致していること、御自分の業の継続者であること、天主と人々との仲介者であること、霊魂がそれと一致するように招かれている聖子のいけにえを通して、天主聖父の聖心から霊魂の救いを勝ち取ることを、望んでいると理解するのです。

 これが今日の危機の鍵です。何故なら人々はもはや十字架を望まないからです。苦しみを望まないからです、罪について聞くことを望まないからです、いけにえを望まないからです。この危機の解決は、ここにあると言うことが出来るでしょう。

 だから、私たちはミサ聖祭を強調しているのです。何故ならミサ聖祭こそはこの信仰の目に見える表明であるからです。つまり「救いは十字架を通してくる」という信仰です。救いは私たちの主イエズス・キリストのいけにえを通してきます。救いは司祭を通してきます。私たちが現在その中を生きている危機は、司祭職の危機です。司祭をその本来の姿から歪めようとしているからです。司祭は、もはや新しいミサにおいて司祭のアイデンティティーを見出すことが出来ないのです。私たちがそのことを言うと、ローマはイライラするのです。新しいミサは悪いと私たちが言うのをローマは耐えられないのです。しかし、事実を見るだけで良いのです。これは明白な事実です。新しいミサの実りを見るだけで良いのです。私たちの主は、樹はその実で分かると言いました。


Serons-nous encore vivants lorsque les choses se seront enfin améliorées ou pas ? Bien sûr que nous l’espérons, mais nous n’en savons rien. Il est vrai qu’humainement parlant, on voit un certain nombre d’éléments qui montrent que l’on va vers un mieux. Au niveau des principes, il y a un réveil, il y a une attente surtout dans les jeunes générations, chez celles qui n’ont rien reçu, une attente qui se tourne vers la Tradition et qui, insatisfaite par ce qu’on leur donne aujourd’hui, réclame la doctrine traditionnelle. On voit des prêtres qui se tournent vers l’ancienne messe et qui découvrent tout simplement leur religion. Si vous saviez le nombre de jeunes prêtres qui, célébrant l’ancienne messe pour la première fois, nous déclarent : « Mais ce sont deux mondes ! En célébrant cette messe, je découvre ce que c’est que le prêtre ». Cela ne veut pas dire qu’ils n’avaient aucune idée du sacerdoce, mais ils découvrent là que Notre Seigneur veut que ses prêtres lui soient unis, soient ses continuateurs, des médiateurs entre Dieu et les hommes pour arracher du cœur de Dieu le salut des âmes à travers le Sacrifice de son Fils auquel elles sont appelées à s’unir. C’est la clef de la crise d’aujourd’hui : on ne veut plus de la croix, on ne veut plus de la souffrance, on ne veut plus du péché, on ne veut plus du sacrifice. On peut dire que la solution de cette crise, elle est là ! C’est pourquoi nous insistons tellement sur la messe, parce que la messe est l’expression incarnée de cette foi : le salut passe par la croix, il passe par le Sacrifice de Notre Seigneur, il passe par le prêtre. La crise que nous vivons est une crise du sacerdoce. On a voulu dénaturer le prêtre, un prêtre qui aujourd’hui ne trouve plus son identité dans la nouvelle messe. Cela les agace à Rome lorsque nous disons cela ! Ils ne peuvent pas supporter que nous disions que la nouvelle messe est mauvaise. Pourtant il n’y a qu’à regarder, c’est une évidence. Il n’y a qu’à regarder les fruits. Notre Seigneur a dit que l’on reconnaissait aux fruits la qualité de l’arbre.

【関連記事】


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ロザリオの聖母マリア

2008年10月06日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟の皆様、
 明日は、ロザリオの聖母マリアの祝日ですね。聖ヴィアンネーの言葉を黙想することを提案します。

「私たちの祈りも聖母マリアを通じてお捧げするならば、全く違った別の功徳を生み出します。天主の御母聖マリアは天主に背かなかった、ただ一人の人だからです。天主の十戒の第一戒を完全に守ったのは聖母マリアだけです。聖子が聖父に願うことは全て与えられるように、聖母マリアが聖子に願うことは全て与えられるのです。香料に触れた手は、その手に触れた全てのものに芳しい香りを移します。祈りも聖母マリアの御手を通してお捧げしましょう。そうすれば、聖母マリアは私たちの祈りに芳しい香りを与えてくださるでしょう。」

モンナン神父著『聖ヴィアンネの精神』聖母文庫 87-88ページ

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

真・善・美、 目的と手段

2008年10月04日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟の皆様、
 人間の本性は、人間の現実は、人間が現実世界に生きているためには、真・善・美にどうしても向かわなければなりません。何故なら、人間の知性が真理を求めているからです。人間が、本能と気まぐれな欲求とに隷属せず、本当の幸福を得るためには、意志で自然の法則の欲求する善へと行動を律しなければならないからです。幸福を求めて美を求めますが、美しいためには、完全と調和と秩序との法則に従う必要があります。そのためには、知性は、現実世界に自分を従わせなければなりません。従わせることを、自由に望むのです。

 人間は、最高の究極の善である天主に向かって創造されています。究極の善を選んで得る手段として、自由が与えられています。自由は、手段であって、目的ではありません。

 近代の実存主義などは、天主を拒み、そのため、この世界が不条理となったがゆえに、自由こそが自我の自覚と一致して目的として立てられてしまいました。実存主義によると、全ては人間の「私」から出て、「私」に由来する、と。自由は人間が人間である根拠であり目的だ、と。

 近代は、目的と手段との倒錯が多くあります。

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

天主様の祝福が豊かにありますように!

天主の御母聖マリアよ、我らのために祈り給え!

聖ピオ十世会創立者ルフェーブル大司教の伝記13.1.1.「発言することは私の義務だった」

2008年10月03日 | ルフェーブル大司教の伝記
第13章 王たるキリストの使者

I. 公会議におけるルフェーブル大司教の発言

“発言することは私の義務だった”

「私は他の司教たちよりももっとたくさん発言したが、発言することが私の義務だったと思っていた。」

 この言葉で、ルフェーブル大司教は自分が公会議で公に介入に出るようになった精神的状態を説明した。開会式の後、十日しかたっていない 1962年 10月 20日、ルフェーブル大司教は教父たちの承認を得ようと提出された「万人に送るメッセージ」に直ちに反応した。

これについて吟味するために十五分の時間が私たちに与えられました。何らかの修正を加えたいと望む人々は、電話で公会議事務総長に連絡し、その発言を書き、事務局の呼び出しを受けるとマイクに立たなければなりませんでした。
 このメッセージは、全く人間に向かってそして人間の中に、特にこの世のものへと向かい、無神論者であろうと信仰者であろうと全ての人間を一致させるというテーマを求めている宗教という概念、不可避的にユートピア的でありリベラルな精神によって息吹を受けて作られていることが私に直ぐに分かりました。



 有益と思われるならば自分自身が発言するという決心に忠実であったルフェーブル大司教は、発言するのを自ら要望して、マイクで、次のようにメッセージの内容自体を批判した。


このメッセージは特に人間的で地上的善のみそして霊的で永遠の善はほとんど考察していません。 このメッセージは地上の国の善を特に重要視し、私たちがそれに向かっており私たちがそれへのためにこの地上に存在している天上の国についてはほとんど無視されています。


 ルフェーブル大司教は後に、この教皇メッセージの精神を攻撃してこう解説した。

私はそのメッセージを起草した者たちと対立していたのであって、会議が終わったのち、ルフェーブル枢機卿によって苦々しいコメントが私に寄せられました。おそらくコンガール神父のようなフランスの顧問たちが起草したこのメッセージを、彼が取り仕切っていたのでした。


 この最初の小戦闘は、大司教の闘いの剣を研ぎ澄まさせるだけだった。
 闘いは 10月 30日にさらにあったが、信仰の守護者であるオッタヴィアーニ枢機卿が公会議会場で制限時間を越すと、総会の座長をしていたアフフリンク枢機卿が、マイクのスイッチを切れと指示した。辱められた年老いたこの勇士は、反対者たちの揶揄の拍手喝采の中を座席に戻らなければならなかった。
 ルフェーブル大司教はこの事件に憤慨し、以前にも増して更に強く発言する決意を固めた。彼は 1987年にその理由を次のように詳しく説明した。

「私は他の司教たちと同じように行動しない、ということを探していたのではありませんでした。全く違います。幾つかの原則に従って、すなわち歴代教皇たちがあらゆる回勅と書簡とを通して詳しく説明したその原則の路線に沿って、私が反応するように導いてくれたローマのフランス神学校で受けた養成の結果だと思っています。私はこの精神において行動したのです。私たちの主イエズス・キリストキリストが社会を統治するように、カトリック社会を建設するという精神で行動したのでした。

「公会議が開かれると、すべての宗教が思いのまま自らを表現する自由があるように、このリベラルなエキュメニズムの精神のために、私たちの主イエズス・キリストの社会統治について考えることをほとんど止めなければならなくなりました。もちろん、この時、私はそのようなことを絶対に受け入れることができなませんでした!

「驚くことは、私と共に神学校で勉強していて、司教になったすべての人々の中で、多くの人々がこれをまったく受け入れてしまったということです。
 アンセル (Ancel) 司教、ガロンヌ大司教、ルブラン (Lebrun) 司教、ミション (Michon) 司教、等々。彼らは皆、熱心な擁護者だった。幾人かは私などよりもずっと熱烈に、教皇たちのしている闘いに、教会のための闘いに加わろうと考えていたのです。彼らは神学校で、いまでも名を留めている素晴らしい講演をしていたのです。しかしフランスの司教と任命されると、リサイクルされ、自由主義及び自由主義の命題にまったく身を売ってしまったのです。残念なことです。私の生涯で一番悲しい事の一つです。」

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II. ル・フロック神父、教皇、十字軍

III.観想的な哲学の学生

IV.アクション・フランセーズの排斥

V.自由主義(リベラリズム)の風に直面して

VI.聖トマス・アクィナスの哲学・神学体系(トミズム)とローマ精神 (その1)

VII.ローマの司祭、神学博士


第12章 公会議の嵐に直面して
I. 中央準備委員会委員

II. 革命が始まる

III. 教父たちの国際グループ(Coetus Internationalis Patrum)

聖なるロザリオの聖月

2008年10月03日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟の皆様、
 十月は聖なるロザリオの聖月です。愛する兄弟の皆様をロザリオの十字軍にご招待いたします。

 カトリック教会のため、教皇様のため、司教、司祭たちのため、修道者のため、日本のため、新しい麻生首相とその内閣のため、愛する兄弟の皆様のお祈りを宜しくお願い申し上げます。

 日本において聖伝のミサ聖祭に与る愛する兄弟の数が増えますようにお祈りをお願いいたします。

 幼きイエズスの聖テレジア、我らのために祈り給え!

愛する兄弟の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!

文責:トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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