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「ウニヴェルセ・エクレジエに関する、ピーター・スコット神父様のコメントの続きをご紹介します

2011年06月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 使徒書簡「スンモールム・ポンティフィクム」の適用に関する指導文書(Instruction)「ウニヴェルセ・エクレジエ Universae Ecclesiae」(2011年5月13日発表)に関する、ピーター・スコット神父様のコメントの続きをご紹介します。

*****


否定的な点

 しかし、残念ながら、指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」のその他の部分は、聖伝に対して危険であり害をもたらすものである。何故なら、この指針の始めから最後までミサ聖祭の聖伝の典礼様式の存在とその挙行が持っている象徴性、その意味、その理由を無きものとしようと試みているからである。

 これは聖伝のミサを挙行することによってカトリック教会に聖伝を戻そうとする努力を全て無きものとしようとする努力である。

 ミサ聖祭の聖伝の典礼様式による挙行を推進するための文書が、本質的に且つ深く聖伝のカトリック信仰の実践の立ち戻りに反対するものであるとは奇妙なことに思えるが、しかし、この指針が含む次に示す内容は、明らかにそうであることを示している。

(1)指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」は、聖伝のミサと新しいミサとの間にいかなる矛盾も断絶もないと述べている。これによれば両者は同じ祈りの法の表現であるという。


第6項 教皇パウロ六世によって公布されたローマ・ミサ典書と教皇ヨハネ二十三世のもとで最後の版が準備されたミサ典書はローマ典礼の二形式であり、それぞれ一般形式(ordinaria)と特別形式(extraordinaria)として定義される。それらは一つのローマ典礼様式の二つのやり方であり、並列するものである。両者は教会の同じ祈りの法(lex orandi)の表現である。その崇敬すべき古代からのやり方ゆえに、特別形式はふさわしい敬意を持って維持されなければならない。

第7項 「ローマ・ミサ典書の二つの版の間には何の矛盾もありません。典礼の歴史においては、成長と進歩があり、断裂はありません。前の世代が神聖なものとして持っていたものは、私達にとってもまた神聖であり、偉大なままです。それ故、それが突然全く禁じられるなどということはあり得ませんし、また有害であると考えられることさえあり得ません。」(教皇ベネディクト十六世聖下の1970年以前のローマ・ミサ典書の使用についての自発使徒書簡スンモールム・ポンティフィクムの公布に際して司教達へ宛てられた書簡)

 これは明らかに真理ではない。何故なら、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿とは1969年9月25日付けのパウロ六世への手紙の中で次のように宣言しているからである。
「Novus Ordo Missae(新しいミサ)は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱しています。」



(2)指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」は、新しいミサと聖伝のミサとは「一つのローマ典礼様式の二つのやり方(usus)」であり、新しいミサは一般形式(ordinaria)と考えられ、聖伝のミサは特別形式(extraordinaria)とされている。この区別は、上述の自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」の第1項において、ベネディクト十六世によって発明された。それによると、パウロ六世のミサは「ラテン典礼のカトリック教会の「祈りの法(Lex orandi)」の通常の表現」であり、聖伝のミサは「同じ「祈りの法」の特別な表現と考えるべき」であるとされた。

 しかし、この区別は明らかに間違っている。何故なら、新しいミサはプロテスタントと近代主義的な要素からインスピレーションを受けており、聖なる性格を欠いているからである。何故なら、新しいミサは、晩餐の食事会を表現しており、共同体の祝うものであるが、聖伝のミサは罪の償いのためのいけにえでありカルワリオのいけにえの再現実化であるからだ。それ故、それぞれのミサを支配している「祈りの法」は全く異なっている。従って、カトリックの教義を表明しているミサ聖祭を「特別」と呼び、カトリックの信仰を完全に表明することに欠いているミサを「通常」と呼ぶことは出来ないからである。


(3)この全指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」において最も驚くべきことは、聖伝のミサを求める信徒たちに課された条件である。それは第19項に次のように述べられている。

第19項 特別形式のミサ挙行を求める信徒は、通常形式によって挙行されるミサ聖祭或いは秘蹟の有効性(validity)や正当性(legitimacy)に反対する、或いは普遍教会の最高牧者としてのローマ教皇に反対することを表明するグループを、いかなる方法であれ、支援したり、或いはこれに所属したりしてはならない。


 この条件は、極めて強い妥協を許さないものであり、聖伝のカトリック信徒たちに反対するために存在している。たとえ彼らが新しいミサがそれ自体では必ずしも無効ではないということを受け入れているとしても、そして、教皇の権威を受け入れているとしても、しかし、新しいミサの正当性(legitimacy)を受け入れることを絶対的に拒否している。このためにこそ、彼らは新しいミサに与ることを拒み、聖伝のミサを要求しているのだ。

 従って、この条件は、自分たちにはカトリック信仰を守る権利があると主張する全ての人々をして、モートゥー・プロプリオの傘下で聖伝のミサを捧げることを排除させる。聖伝を守ろうとするその様なカトリック信徒らが、自発教令の条件の下に聖伝のミサを捧げるとしたら、それは客観的に間違った主張をしていることになる。もしもこの条件が厳密に適用されるのであれば、この条件は聖伝のミサが捧げられなければならない理由(カトリック信仰を守るためという理由)そのものを認めることを拒む。それはとどのつまり、聖伝のミサの死を意味している。(ただし、感傷的な理由で聖伝のミサに愛着を抱いている少数の人々を除く。)


 何故新しいミサの正当性を拒否するかと言えば、それは、新しいミサがカトリック信仰の法に従っていない事実を観察したからであり、新しいミサが内的信仰生活をむしばみ、新しいミサに与る人々の信仰を崩壊させる事実、新しいミサは近代主義の考え方を伝播させ、秘蹟、特に御聖体の秘蹟と叙階された司祭とに対する敬意を失わせる事実、新しいミサの儀式に染みこんでいる非超自然主義と人間中心主義を促進するという事実を観察してしまったからである。

 以上の事実は、頭を使って考える全てのカトリック信徒が観察しているに違いないことだ。この事実こそが、何故極めて多くのカトリック信徒たちが信仰生活を捨ててしまったのかという深い理由の説明である以上のことを考慮すると、新しいミサは極めて現実的な意味でその正当性を否定されなければならない。何故なら、霊魂の聖化という目的を果たすことにおいて無能だからだ。また同時に、カトリック教会に大きな損害をもたらす誤ったもの、重大な悪であるからである。第二バチカン公会議後の教皇たちの「公認」があろうと無かろうと、この事実を変えることは出来ない。


 この事実は、キリスト教一致推進評議会の委員長 クルト・コッホ枢機卿(Cardinal Kurt Koch)が、2011年5月15日の「スンモールム・ポンティフィクム」に関する大会で述べた発言で認めたことでもある。

 コッホ枢機卿はこう発言した。「第二バチカン公会議後の典礼改革は、カトリック教会の広域な範囲において聖伝との断絶、かつ新しい創造であると考えられている。」("the post-conciliar liturgical reform is considered in large circles of the Catholic Church as a rupture with tradition and as a new creation")
GLOBAL ZENIT NEWS Rome's Zenit News Priest Reflects on Old Liturgy in Church's Future


そして、発言を続けて、新しいミサには「多くの人々を旧典礼に引きつけるかの神聖さが、もっと力強く現れるべきである」という。(www.zenit.org 5/17/2011)

 これは過小な表現である。しかし、少なくとも信徒たちの理解においては新しいミサには現実の問題があると理解していることを認めているわけである。指針の文書によれば、この新しいミサの問題を認識し素直に認めることは、モートゥー・プロプリオのおかげによって捧げられる聖伝のミサに参加することから排除されることになるわけだ。


(4)この指針の行間には、はっきり説明されていない隠された計画がある。この計画については既にベネディクト十六世が2007年に指摘している。つまり「ローマ典礼の使用の二つの形式は、相互に豊かにし合っていく」(教皇ベネディクト十六世聖下の1970年以前のローマ・ミサ典書の使用についての自発使徒書簡スンモールム・ポンティフィクムの公布に際して司教達へ宛てられた書簡、2007年7月7日付)ことを求めている。それは「新しい聖人達と幾つかの新しい叙唱を古いミサ典書に挿入」することによってである。このプロセスは既に聖金曜日のユダヤ人のための祈りを変更しユダヤ人の回心のための祈りを取り除いて、聖伝の典礼様式の中に挿入させることによって為されている。

 指針の第25項はこのような変更はさらに続けられると私たちに述べている。

第25項 新しい聖人や幾つかの新しい叙唱は、後に指示がある規定に従って、1962年版のミサ典書に挿入できるし、また挿入されなければならない。


 しかしコッホ枢機卿自身がは、上記の講話の中で、許可の不要な典礼様式、つまり聖伝のミサにこの許可を与えたその裏にあるローマの計画を説明している。


 コッホ枢機卿によると、聖伝のミサが「エキュメニカルな橋渡し」となることを教皇が望んでいるとのことである。何故なら、聖伝のミサが「エキュメニカルな橋渡し」となることによって、教皇は「この論争に解決を与え、教会内部の和解のために貢献することを望んでいる」からである。「モートゥー・プロプリオは、いわば、カトリック内部のエキュメニズムを促進する。もしもカトリック内部のエキュメニズムが失敗するなら、典礼に関するカトリックの論争はエキュメニズムにも延長するだろうし、旧典礼は橋渡しというエキュメニカルな役割を果たすことが出来ないだろう。」(同講話より)


 従って、この指針の目的は、リベラルであろうが聖伝支持者であろうが、全てのカトリックに互いの典礼を受け入れさせるように強制し、教義上の論争を終わらせることである。驚くべきことのように思われるが、第二バチカン公会議に由来する同じエキュメニズムの精神が、アシジの世界宗教集会を開かせ、そして同時に、ローマが聖伝のミサに許可を与えさせたのである。本当はその様な許可など全く不要であることをローマが確認しているではあるが!


 コッホ枢機卿は、この指針の究極の目的を分析して、さらにはっきりと言明している。つまり、聖伝のミサと新しいミサは将来混ざり合って共通の典礼様式となり、究極的には両典礼様式は消滅するだろう、ということだ。

「ベネディクト十六世は、ローマ典礼様式において通常形式と特別形式とが長期的に共存しつづけることは出来ないとよく知っている。従って、教会はもう一度将来一つの共通の典礼様式を必要とするだろう。しかし、或る新しい典礼形式はその地位に就くことが出来ない、何故なら成長と浄化の過程が要求されるからだ。そこで一時的に教皇は、ローマ典礼様式の使用の二つの形式が相互に豊かにし合っていくことが出来るし、そうしなければならないと特別に強調している。」(同講話より)


 つまり、許可など全く不要な聖伝のミサの許可をローマが与えたのは、究極的に聖伝のミサが消えて無くなるためだったのである!何という悪魔的なパラドックスであろうか!


(5)この指針のどこにも聖伝のミサを広めようという宣教の熱心も努力のかけらも見あたらない。聖伝のミサは、常に司祭や信徒らが自発的に請求しなければならないものとして提示されている。聖伝のミサは、教会位階当局によって積極的に促進されるべきものでは決してないとされている。カトリック教会の普通のやり方とは何と違っていることであろうか! 何という権威の空虚であろうか! 単なる一般の人々や司祭たちが、教会を動かさなければならないとは! この理由のためにも、指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」は、聖伝のミサへの広範な回帰のための道具とはなり得ない。


(6)指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」は、剃髪式(トンスラ)、下級品級、そして上級品級の一つである副助祭を、単なる形だけの儀式のレベルに還元しまっている。これらにはいかなる教会法上の価値も霊的重要さも霊的権能も附属しているとは考えられていない。

(§ 30).

 たとえ剃髪式を受けても、聖職者になるわけではない。たとえその青年が聖伝の典礼様式だけを使用する修道会に属していようとも、剃髪式には何の価値もないとされている。更に、これらの「非聖職者」がいくら下級品級を受けたとしても、何かを受けたとは考えられていない。

 また、副助祭に叙階される時に同時に含まれている貞潔の請願は、存在していないと考えられている。指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」によれば、たとえ副助祭の品級を受けても、この青年はこの上級品級を受けたとはされず、もっと言えば、聖職者であるともされない。たとえ副助祭の品級を受けても、彼は新しいミサにおけると同様にただの平信徒でしかない。彼は助祭になって初めて聖職者となるとされるのだ。

 つまり、指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」は、記録が残っているかぎり少なくとも三世紀にまでさかのぼることが出来るこの上級下級の七品級を授ける聖伝の典礼様式を軽蔑し馬鹿にしている。自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」では、ただ単に感傷的な理由でのみ保持されているに過ぎない。


 以上の短い考察から、私たちは極めてはっきりとした結論を出すことが出来る。エクレジア・デイ委員会による、このモートゥー・プロプリオ「スンモールム・ポンティフィクム」と指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」との運営に協力することは、私たちの最も大切にしてきているカトリック信仰の原理を危うくさせる妥協であって、私たちはこれを受け入れることが出来ない。カトリック教会には危機が存在していないと宣言すること、エキュメニズムの精神に公式に協力すること、これらは、近代主義の持つ教義上の問題を解決させることを拒むからである。

 自発教令「スンモールム・ポンティフィクム」と指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」の原理に同意することは、自己矛盾を受け入れることである。つまり、どういうことかと言うと、新しいミサがおかしいので聖伝のミサを選ぶ、と同時に聖伝のミサを捧げるために新しいミサはおかしくないと宣言することだ。

 許可の全く必要とされないミサの許可を求めつつ、許可不要の事実は究極的には禁止へとつながっているというこのことこそ、自発教令と今回の指針の持つ究極の矛盾である。


【関連記事】指針「ウニヴェルセ・エクレジエ」について




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