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【参考資料】「冒涜されたファティマ」(ド・ナント神父著)

2011年09月07日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 先日、ド・ナント神父が時の教皇様パウロ六世に宛てた文書をご紹介しました。(「パウロ六世とファチマ) この文書は原文は英語で、今から38年前、1973年4月10日にパウロ六世教皇宛てに聖座に著者自身によって届けられました。

 ブログでご紹介したものは英語訳だったのですが、今回、ド・ナント神父の文章をフランス語原文を基に日本語にして下さった方がおられますので感謝しつつ、参考資料として日本語の訳をご紹介します。繰り返しますが、フランス人司祭のド・ナント神父は、聖ピオ十世会の会員ではありませんでした。しかし聖伝のカトリック信仰を守ろうとして立ち上がった歴史の証人の1人としてご紹介します。

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

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冒涜されたファティマ


 これらの何ら安らぎを見出せない苦悶の中にあって、しばしば私は教皇様のファティマ巡礼に期待しました。キリストの代理者による、聖母及び御聖体との出会いは、天主の恩寵と憐れみとを示す天からの印となるに違いない、そしてこれが全てを救い、全てを昔の輝きにおいて復興するだろう、と私には思えました。
すでに1964年の12月8日、私はこう書きました。「マリア様から告げられた(第三の)秘密を明かす為に、ファティマに教皇様が赴いて下さる事を期待致しましょう」と。

 (パウロ六世の)上記の一連のスキャンダルや、離教の雰囲気、鉛のカッパのように重く私たちにまとわりついていた(パウロ六世の)異端に対する疑いも、聖下がもしファティマへ巡礼に行かれるならば消え失せるだろうと思われました。恩寵の洗礼を受けて洗われたかの様に、全き信頼と、子としての愛とを私たちはもう一度見いだす事になるだろう、と。さらに聖下はファティマで、カトリックの、忠実で<公教会の>聖伝を生きる大群衆と一緒に、聖なる童貞マリアに 祈り、私たちの守りの御母である天主の御母に 語らせ、さらに第三の秘密を 明かし 、さらに聖母の要求に 従う べきであって、それ以外の事は許されません。そうなれば、私たちに始まって、次には聖下の司祭たち、聖下の民<カトリック教徒たち>、そして憐れな罪人という具合に世界は回心することでしょう。これこそが私たちの希望だったのです。

 聖下はファティマに行かれました。それは本当です。それは天的<聖母の>御出現から五十年目のちょうど同じ日、1967年の5月13日の事でした。「テレビに釘付けられた両目、苦悶に締め付けられた心、指にはロザリオをかけ、兄弟なる大衆と共に、この彼らの悲しみに満ちた『めでたし聖寵満ち満てるマリア』をつぶやきつつ、世紀の出来事 を私たちは期待していました。」

 「ああ!五時間が経ち、平和の希望はもはや存在せず、キリストの代理者とその聖なる御母との出会いから期待された、最終の神秘的な恩寵は全て台無しになったのです。」

 1967年5月13日付けの 我が友人たちへの手紙(Lettre a mes Amis) の中に、この莫大で確実な幻滅が書き記されているのは何故でしょうか? その理由は、この恩寵の浪費が巡礼の始めから終わりに至るまで余りにも明白だったたからです。

 つまり聖下は見る為ではなく自分を見せる為に、聞く為ではなく話す為に、跪く為ではなく、平伏す百万人の面前で王位に就く為に、天からの命令を頂く為ではなく、聖下の現世的計画を押し付ける為に、童貞マリアに平和を嘆願する為ではなく、その平和を大衆に求める為に、聖下の心を聖ならしめ、マンハッタンの汚れを浄める為ではなく、まさにここマリアの領地内に、マンハッタンの世界を強要せんが為にあの場所に来られたからです。つまり聖下はファティマを冒涜する為にこそ来られたのです!

 最初から、聖下が(聖母マリアのメッセージではなく)自分の考えに忠実に留まらんと欲しておられた事は見え見えでした。サラザール(Salazar)大統領は、<ウガンダの>オボテ(Obote)大統領ではありません。サラザール大統領は、白人の洗練されたキリスト教徒、--- 今(20)世紀中最も威信のあるキリスト教徒たちの一人、文明の大恩人の一人 --- であり、ポルトガルは、世界中でカトリック信仰に最も忠実な国なのです。そのことは、自国の憲法に於いて誇り高く勇敢に宣言され、政教条約は議会の承認を受けています。それなのに、急いで巡礼に来られた事を口実に、聖下はこの国のことも、この国の元首のことも尊重されませんでした。進歩主義のマスメディアは、この勇敢な国民に対する聖下の誇示されたこの軽視を全世界に伝えていました。

 聖下は、世界中のあらゆる言語とあらゆる民族が耳を傾けていたにも拘らず、御自分が改革者の味方であること、変革を行う方針である事を、聖伝に忠実なポルトガルに向かって上手く表明するために、自らの意志を天主の栄光の上に置いて、ポルトガル語のミサを捧げようと予め計画を練っていました。それは、悲しいミサ、忙(せわ)しなく付いて行くことさえ儘ならない寒々しいミサであり、それについてロランタン(Laurentin)神父 は「口篭もりの」儀式だったとさえ言っています。

 さらに聖下は御自分の時間の全てを満たすべく謁見、極めて意味深長なエキュメニカルな会見をそこで準備していました。≪非カトリック共同体の代表者たち≫との謁見です。しかしそこには長老派の代表者二人しかいなかったのです。大勢の善良なカトリック信徒たちが、聖下と語り、聖下と一緒に祈りたいと望んでいながらも、それが許されなかった一方で、御自分の準備されたフランス語の演説を理解していなかったこの代表者たちとは、幾つかの言葉を交える余地だけしかできませんでした。

 こうして御自分の政治的かつエキュメニカルな妄想に気を取られたまま、聖下は巡礼を行う事なく、ぞっとするようなスキャンダルをそこでお始めになるのです。沢山の演説の中には、1917年(5月13日から10月13日迄)の御出現に対する、全く付けたりだけの外面的だけのそして冷淡な仄めかしだけしか見つかりません。また聖下は、御出現を信じていないという印象を‐故意に?‐与えつつ、一連の御出現が与えられた場所である、目と鼻の先のコーヴァ・ダ・イリアに行こうとはお望みになりませんでした。ファチマに到着するや、一時間以上の道のりの間、大衆からの情熱的な崇拝の対象となり、途絶える事のない歓声を耳にしながら、聖下はファティマの聖母に挨拶をされませんでした。テレビ画面は全てを映していました。聖下は演壇に登ると御挨拶をされましたが、ただ大衆に挨拶しただけです。そして聖母に対しては、されませんでした!聖下は‐巡礼本来の的であった‐聖母の御前を、御自分の目を上げる事もせずに素通りしたのです。私はそれを見ました。さらに聖下は、大衆と一緒にロザリオを唱える事はしませんでしたが、聖下はアヴェ・マリア<天使祝詞>を唯の一回でもお唱えになったのでしょうか、テレビはそれを中継しませんでしたし、新聞各紙はそれについて報道しませんでした。

 最後に、私が期待していたものであり、一同が漠然と待ち望んでいた最後の希望である、大いなる対立の瞬間がやって来ました。聖下と、1917年の聖なる幼き幻視者たちの最後の一人、ファティマの牧童ルチアとの面会です!

 人類の為、そして公教会と我々、道に迷った哀れな子供たちの為に、教皇聖下、聖下御自身の為に、天はある恩寵を聖下に与えようとされていたのです。ルチアは聖下に対して一対一の短い対談を涙して求めていたのです。あのファティマの牧童に耳を傾ける事、つまり<カルメル会修道院の>禁域に於ける五十年を通じて恩寵と叡智の内に固められた天の小さな伝言者に耳を傾ける事を拒絶などしないものです。

聖下はこの恩寵を拒絶されたのです。

 聖下の通訳者であるアルメイダ神父様(le P. Almeyda)はこう語っています。「ある時、ラジオ・バチカンに提供されたインタビューで、ルチアは教皇様だけに個人宛で何かお伝えしたいという希望を表明したのですが、教皇様は『よろしいですか、今はその時ではありません。しかも、もし貴方が私に何かをお伝えしたいのであれば、貴方の司教様にお伝えなさい。司教様が私に伝えるでしょう。そして貴方の司教様に信頼して、彼に従って下さい。』とお答えになりました。さらに教皇様は、父親が二度と再会する事のない最愛の子供を祝福するかの様に、ルチア修道女を祝福したのです。」

 そうです、私たちに与えられる、(しかし拒否するなら)二度と戻って与えられる事のない数々の<助力の>恩寵があります。

六日前の5月7日には、クラウディア・カルディナーレ(チュニジア生まれのイタリア人女優)に、また大仮装舞踏会となった聖ペトロ大聖堂では、ロロブリジーダ(同じくイタリア人女優)に対して、聖下は全く別な興味を示されました。<ファチマ巡礼>四日後の5月17日には、理解の神殿(Temple de la Comprehension)なるオカルト団体【注1】のイスラエル人総裁二人に対して、さらに大きな注意を払いつつ耳を傾けられました。しかし<ルチアからの>御自分に対する個人的メッセージを聖下は拒絶したのです。それは親切にも聖母が、その寵児であるルチアの口を通じて聖下に話かけて下さっているものでした。さらに聖下に知って頂きたいのは、進歩主義の新聞各紙と、社会的メディアに属した反聖職者主義の全機関紙による、このニュースに対する地獄紛(まが)いな歓喜でありますが、彼らはほっと息を撫で下ろしていたのです!教皇は<この恩寵に>がんばって抵抗した、最初のパウロ<当時サウロ>の様に、天のビジョンや、天からの御声により地上に倒される事はなかった、つまり<聖パウロの回心をもたらした>ダマスコへの道はなかった!と。

 この子<ルチア>は何を聖下に伝えたかったのでしょう?聖下は何をそんなにも恐れていたのでしょうか?聖下の唱えた様々な異端説、さらに離教やスキャンダルの合計は、沢山あり過ぎて一例を挙げるのにも選択に困る程です。ただし、一つの可能性が他のそれ全てを凌駕しています。この天の使者であるルチアが、唯一聖下の上に存在している、上級かつ至高の天主なる権威者の聖旨、つまり聖下がファティマ第三の秘密を世界に公表する 事をその聖下に思い起こさせる事をお望みだったのは確かであります。何故なら、それが公表されるはずだった年が、天の命令によって1960年だったからです。しかし聖下の巡礼は1967年でした。今年は1973年です。そして世界は、聖下の過ちが原因で、天罰により滅びの道を突き進んでいるのです。

「聖下の沈黙は、この私が聖下の巡礼後間もなくして著した、真のファティマ・メッセージに関する拙研究論文の中で御説明させて頂きました様に、それ以外の成果をもたらす事は出来なかったのです。つまり間違いなく最初の二つの秘密と類似している、この第三の秘密の重要な部分である新たな天罰<チアッピ枢機卿及びオッディ枢機卿たちに拠れば、この重要な部分は第二バチカン公会議に端を発する公教会当局の棄教に特化して言及しているという‐訳者>への脅威を実のところ耐え難いものに変えてしまう事以外に何も出来ませんでした。天が世界を脅かす為に用いる恐ろしいものをお認めにならないならば、この世界は回心するどころか、止め処なく血(ち)膿(うみ)及び血の海へと嵌り(はまり)込むでしょう。これは第三次世界大戦の事であって、世界中に拡散した共産主義という迫害者であり、前代未聞の大損害を及ぼす核戦争、そしてキリスト教徒たちの大棄教でありましょう。警告を受け回心へと招かれる事がなければ、キリスト教諸国は信仰をその生命を道連れにして失うことでしょう。」

 「私たちはヨナに与えられたあの印を1960年から待っているのです。この秘密の公表に反対する全ての矛盾する口実は、事を知りつつ黙り込む人々の責任を重くするだけです。いえ、ちがいます。この予言的メッセージは取るに足りないものでも、安心を与えるものでも、保留されたものでもありません。それは1960年の時点で、全人類に宛てたものでした!依然としてそれは変わっておりません。そして現代にとって余りに恐ろしいのは、それが<未公表でありながらも>相変わらず全人類に宛てられていると言う事です!しかし、それは唯一降り掛かる災いを遠ざける事の出来る言葉なのです。」

 「バルタス神父はこう書いています。『確かに、天の元后による<母親としての>脅かしと約束は、大部分の人々にとって、ファティマの「神秘」に対して、世界が抱く畏敬の念と希望が混ざり合わされた、不安な注目のきっかけとなるのです。』(83ページ)ならば!不安に満ちた期待の内に置かれた世界を失望させる権利など誰も持ち合わせておりません。その反対に、天の元后の御言葉を世に知らせるのは義務なのです。このメッセージが実際に私たち全員のためのものであるということは、その証拠はここ、1952年に書かれた教会参事会員バルタス神父の記述にあります。『ヴェールで覆われたままの事柄。‐『秘密』にある三つ目の内容は何時私たちに明かされるのか?早くも1946年に、ルチアとレイリアの司教は、この質問に対し一様に『1960年に』と迷わず、コメントもなく、はっきりと私<バルタス>にお答えになった。また何を理由にこの年まで待たなければならないのかと尋ねさえする勇気を奮い起こしていた時、私はこの御二方から全てを説明する『何故なら聖母がそう望んでおられるからです。』という同じ回答を手に入れた。』 現在は1967年です。天の聖旨は変わる事がありませんので、ルチアは、他日、世界に聖母の警告を公表して下さるよう教皇様に懇願する事を望んでいるのです。恐らく最後の呼びかけである、最後通牒の形で彼をファティマに招く責任を負わされていたのではないかと私は考えております。<御父の正義の>杯は溢れており、<人類の>邪悪はその絶頂に達しております。罪が一体どんな深遠に人類を引きずり込んでいるのかを是非とも公教会全体は知るべきです。

 それなら、どうしてファティマに行かれたのですか? 聖下による巡礼以来、ファティマは聖下によって滅ぼされてしまったかのようです。世界では、あの巡礼地で明示された天主の聖旨についても、ロシアの回心についても、第三の秘密についても、さらに様々な信心業の実践、その中でも特に、ルチアがこの有名な5月13日に口頭で「強調して」下さるよう聖下にお願いした「平和を祈願する聖なるロザリオを唱えること」についても、語ろうとする人は誰もいません。

 聖下は何をされたのですか? それに対する答えは単純です。つまり聖下は御自身のメッセージを平和の元后のそれと置き換えたのです。ファティマで私たちに明かされた天主の御計画とは「善き天主様はマリアの汚れなき御心を通してその恩寵を与える事を望んでおり、人々は聖母の汚れなき御心にその恩寵を求めることをためらってはならないこと、また、イエズスの聖心は御母の汚れなき御心を通して崇拝される事をお望みであるということを貴方は全世界に伝えなさい。この汚れになき御心にこそ天主は平和をお委ねになったのだから、人類はこの汚れなき御心にその平和を求めるように」というものであり、聖下はこれを、御自分がマンハッタン<の国連本部>で明かされた、御自身の偉大なる御計画と置き換えたのです。そしてこの計画とは、この平和を聖下御自身がお委ねになられた人間の心に要求する事なのです。

 これを遂行する為に、自分は天の啓示の幸福な受益者であると主張するのを聖下は躊躇されませんでした。巡礼から戻られた日の夜、バチカンの御住居の窓から姿を現された時に聖下は仰いました:「ファティマに於いて、平和に至らせる、辿るべき道について私たちが聖母に尋ねますと、平和は実現可能であるというお答えを頂きました。」メッサージェロ誌の一記者は、この発言に対するローマでの全体的な印象を要約しています:「このように奇抜な言い回しが持っている意味をこじつけるのは余りに簡単な事ですが、恐らくファティマの聖地への巡礼の間に、パウロ六世には、平和実現の努力の内に、私たちの弁護者であり人類の保護者なる御母とのいわば内的な意思疎通の短いお時間があったのでしょう。」

 確かに聖下はこれを私たちに信じさせようとお考えでした。天が聖下に「行きなさい、貴方の計画の内に前進しなさい、そして新しい平和を築く為に全ての人を招きなさい、ただしカトリックだけによる、祈りと償いによってではなく、貴方が主張する『ポプロールム プログレッシオ POPULORUM PROGRESSIO』【注2】、つまり進歩と平和という新しい啓示によってによって招きなさい」と伝えたと信じ込ませることを。聖下がマンハッタン訪問以来何度も止むことなく主張するこの地獄のメッセージの責任を、天に負わせようとお望みになったのです。それは「人間たちが善良だからこそ平和は実現可能なのであり、平和は、人類、つまり全ての人間が、ユダヤ・フリーメーソン組織<国連>の世界的指揮の下で払う努力によってこそ実現可能な業なのだ」というメッセージでありました。つまりそれは天主の崇拝に代わる人間の崇拝なのです。

 結局この御旅行の絶頂は天主への祈りではなしに、奇怪かつ躓きの因になる人間への祈りだったのです。

「人間たちよ、平和という天主の賜物に相応しい者となりなさい。人間たちよ、人間たりなさい(原文のまま)。人間たちよ、善良かつ賢く、そして世の中の公共利益を考えることに開かれていなさい。人間たちよ、寛大であるように... 人間たちよ、新世界を構築する意欲を持って互いに近づきなさい。そうです、真の人間の世界は、天主の太陽がその水平線に昇る事なくしては決して実現し得ないでしょう。」

 実にこれは反キリストの演説です。聖下がファティマに来られたのは、蛇の頭を踏み砕いていた御方<聖母>が、その復讐として蛇とそのメッセージによって踏み潰されるためでした。自らの高慢という基礎の上に築かれる新世界を構築しようとの、人間たちへの呼びかけである反対のメッセージによって、世界の救いの為に与えられた最後のチャンスが踏み砕かれる為なのです!

 もし私が嘘をついていれば、それを証明して下さい。そしてファティマ第三の秘密を公表し、全キリスト<カトリック>信者を祈りと償いへと招き、平和の為にロザリオを多く唱えるように要請し、「天主からこの平和を委ねられた」マリアの汚れなき御心への、平和の鍵を握る、世界の奉献を、「この汚れなき御心が最後に勝利する為に」宣言する事を以って、聖下がサタンの味方ではなくキリストの味方である事を証明して下さい!



【注1】「理解の神殿」(あるいは「理解の寺院」)というオカルト団体は、ニュー・エイジ運動をもり立てるために1961年から1963年の間に作られた。全世界の宗教を仲介するエキュメニズムをめざす。1984年、「理解の神殿」というオカルト団体は、その本部をニュー・ヨークの聖ヨハネ大聖堂(The Cathedral Church of Saint John the Divine in the City and Diocese of New York)に設置する。当時の責任者はジョン・パーク・モートン(James Park Morton)であった。「理解の神殿」には「瞑想ルーム(Chambre de Méditation)」があり、「啓蒙の広間 (Hall of Illumination, Atrium de l'Illumination)」と呼ばれる。ここで、「理解の神殿」の道案内として、覚者たち(イルミナーティ、照らされたもの)が新しい人類崇拝を大衆に教えることを計画する。

【注2】『ポプロールム プログレッシオ POPULORUM PROGRESSIO』とは、「諸民族の進歩」という言葉から始まる、パウロ六世の有名な回勅で、救霊のことよりはむしろこの地上での進歩と人間世界の建設を訴えている。


ローズ・フーさんの「楽在苦中」 第8章 我が家の二頭のトラ

2011年09月07日 | カトリックとは
第8章 我が家の二頭のトラ

 まず、私はこれがどういうことであるかを説明しなければなりません。この「虎」は人食いではなく、逆に人間に食べられた「虎」です。父が1952年1月に死んだとき、中国共産党政府は、すでに三反五反運動を始めていました。この運動は資本家を標的にし、彼らが人民を搾取する人食い虎であると言いました。中国の富裕な事業家は、特に共産主義者を恐れていましいた。単にそれについて言及することですら、彼らの顔は青ざめました。彼らの多くは拷問の後、毒をあおったり、高い建物から飛び降りて自殺しました。

 私の家族に関して言うならば、天主様の慈悲はこの運動が始まる前に父がこの世を去ることをお許しになりました。そして、長兄と3番目の兄が中国に留まっていた私の唯一の兄弟でした。彼らは虎であると見做され、嘲笑と侮蔑の対象となりました。常に民衆を反抗へと先導し、互いに密告させることは、共産党の方針です。息子や娘が自分の両親を批難したり、またその逆を見るのは別に驚くことではありませんでした。夫妻が互いに批難することもまた、一般的でした。共産主義者はこれらの行動を、血縁関係を犠牲にしても正義を擁護することであると説明しました。

 私は、この非人間的な残虐行為が、人が誰をも信頼しない結果に終わるだろうと考えました。人々は完全に彼らの基本的な拠り所の一つを失いました。人は、簡単に他人についての嘘をでっち上げ、自分自身の利益を守るための内通者となる捕われの獣になります。

 父の輸出入の会社は、国の法律を守り、規則に違反することなく、かつ不正な企みにも関与していませんでした。私の二人の兄弟は、自分たちが政府と問題を起こすことはないだろうと考えていました。私たちは、会社の中に内通者がいたことを少しも知りませんでした。彼は私たちの親戚で、私たちの従弟だったのです。彼が何年も前に初めて私たちの家に来たとき、仕事が無く非常に貧しかったのです。父は彼に同情し、彼に会社で給与の高い会計士の地位を与えました。この三反五反運動で、政府は最初に彼に話しかけ、もし会社に対して反対行為をするのならば、高額のボーナスと高い地位を与えると彼を誘惑しました。彼は結局私たち関する多くの嘘をでっち上げることで私たちを裏切りました。間もなくして、共産党の役人は私達の会社を調査し、違法な組織であると見做しました。彼らは私の兄弟を尋問のために連行しました。毎晩私たちは彼らが帰宅するのを待っていた時、多くの拷問の後でよろめきながら家に入るのを見ました。時々、彼らは午後の間ずっと跪かされたと私たちに語りました。役人は、二番目の兄はスーツケースに50万米ドルを入れて香港に逃げたと言いました。役人は、そして兄にそれを認める文書に署名するよう強制しました。

 私の長兄は、それは全くの嘘だと思っていました。会社の総資産はその金額未満でした。どうして彼は書類に署名したのでしょうか?彼らは長兄に非常に厳しい罰を与えました。ある人々に酷く殴られました。その時、私の兄弟はまだカトリック教徒ではありませんでした。彼らは人生の試練の最中に祈る方法を知らなかったのです。彼らは苦しみの本当の意味を知りませんでした。毎晩、彼らは涙と悲しみの中に帰宅し、高齢の母親を案じて、自分たち自身で秘密にしました。私の家族の全員が二人の兄弟が翌朝に処刑されるれるだろうと思ったとき、私たちは涙を抑えることが出来ませんでした。私たちは、お金や財産を失うことは、私たちの兄弟の命を失うことより重要ではないと考えました。だから私たちは、彼らが処刑を回避するために、役人が自白を強いるならば、いつでも彼らの要求通りにするように勧めました。私たちは、これが賢明な考えではないことは少しも分かりませんでした。私の二人の兄弟は、彼ら役人が要求したことに屈してしまいました。その後、彼らはほんの数ヶ月間拘留された後、釈放されました。私たちは代わる代わる彼らを慰めました。私たちは兄弟を失うよりも、むしろ私たちの所有物を失ったほうがましでした。事実、私たちは政府に支払うために、家や非常に貴重な財産を売却しました。

 この運動の後、私の長兄は、香港の私達の親戚への訪問を決めました。私たちは、彼がそこに存在することを望みました。しかし、香港で彼の滞在中、上海の陳毅市長は彼に招待状を送って、上海に戻るようにそそのかしました。祖国に対して忠誠心が厚く、献身的だった彼は、自分の敵を許し、過去の苦い思い出を投げ捨ててしまいました。彼は私の二番目の兄の警告にもかかわらず、中国に戻りました。帰国後、不幸と試練が相次いで彼にふりかかりました。彼は1957年に「右派」と見做され、強制労働収容所での作業に送らました。 1968年の文化大革命中に、彼の家は徹底的に略奪され、彼の財産は没収されました。最後に彼は家から追い出され、毎月彼と妻の生活費のために、僅か24人民元しかありませんでした。約10年間、彼は通りや公衆トイレを掃除しなければなりませんでした。1980年になってようやく、彼の生活状況は徐々に改善していきました。1982年に、私の義姉は脳卒中を起こし、寝たきりでした。たくさんの苦しみの後、天主の御計らいにより、イエズス会の司祭である蔡石方神父様を通して、彼らにカトリックの信仰という最高の贈り物を与えられました。蔡神父様は私たちの親友でした。彼は私たちの親戚が病気であるのを知って時々夫婦を訪問し、彼らにいくつかの教義を説明しました。1982年に、蔡神父様は2人に洗礼を授けました。私の義姉は6年間寝たきりでした。彼女は、「この苦しみの歳月がなければ、どうして私は自分の罪を償うことが出来るでしょう?」と私たちに語りました。1992年に義姉は天主様の内に安らかに亡くなりました。

 私の長兄は、2002年、受胎告知の祝日に亡くなりました。何と慈悲深い全能の天主様でしょう!


信仰を失う以外に何も残されていないのでしょうか?

2011年09月06日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ルフェーブル大司教様の言葉を聞いてください。

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 私たちは信仰を守ることを選びます。

 教会が二〇〇〇年間教え続けてきたことに私たちが固執するなら、私たちは間違うことが有り得ないからです。

 危機は極めて深いものです。良く知り尽くし巧みに組織され、指導されています、それは、この事業を操っているのは人間ではなくサタン自身ではないかと本当に私たちが信じることが出来るほどです。

 カトリック信者たちをして従順の名によって全聖伝に不従順であるようにし向けることが出来たのは、正に、サタンの強烈な一撃です。様々な修道会の「現代化(アジョルナメント)」は典型的な例を私たちに提示しています。従順によって、修道士、修道女らをしてその創立者の創った会憲や会則に不従順たらしめているのです。彼らが修道誓願をたてた時遵守すると天主に誓ったその会憲に不従順たらしめているのです。この場合、従順は断固とした拒否でなければなりません。たとえ合法的な権威であっても、非難すべき悪しき行為を命ずることは出来ません。それが誰に対してであっても修道誓願を単なる約束に変えることを強制出来る人は存在しません。同じように、誰も私たちをしてプロテスタントや近代主義者に変わるようにすることはできません。


 聖トマス・アクィナスは私たちが常に参照しなければならない規範ですが、その神学大全の中で、私たちの主が命じている「兄弟的矯正」は私たちの長上たちに対しても為されうるか、と問うことさえしています。有用な区別を全てした後に、聖トマス・アクィナスはこう答えています。「信仰に関わることである時、長上たちに対して兄弟的矯正を行使することが出来る」と。

 もしも私たちがこのことについてもっと断固としていたら、私たちはゆっくりゆっくり異端と同化してしまうことを避けることが出来たことでしょう。


 16世紀初頭、イギリス人たちは、現在私たちが経験しているたぐいの出来事を体験しました。私たちとの違いは、英国ではこれが離教によって開始された、ということです。その他については驚くほど類似しており、私たちは考えさせられます。アングリカニズム(英国聖公会)という名前を取ることになる新しい宗教は、ミサ聖祭、個人的な告解、聖職者の独身制などに対して攻撃することから始めました。ヘンリ8世は、英国民をローマから引き離すという巨大な責任を負った後に、当初は自分になされていた英語のミサという提案を拒否していました。

 しかし彼の死後には、ミサで英語を使うことが許されるようになり、
行列は禁止され、
新しいミサの式次第が強制されました。

 これがOrder of Communion (聖餐式の式次第)と呼ばれるもので、それにはカトリックのミサの「オフェルトリウム(奉献の祈り)の部が無くなっていました。キリスト教徒らを安心させるために、その他の変更を加えることは禁止する命令が出されました。他方で第3の法令で、主任司祭は小教区の教会内にある諸聖人の御像や聖母マリアの像を廃止することが許されました。こうして極めて貴重な美術品が大量に売り飛ばされました。これは現在、教会の芸術品・美術品が骨董品屋やノミの市に売り飛ばされているのと全く同じです。

 新しい聖餐式の式次第(Order of Communion)が、私たちの主イエズス・キリストは私たちに霊的に御体と御血を与えるとあるので、イエズス・キリストの御聖体における現存のドグマを否定するものであると気がついた司教様たちはほんのわずかでした。

 告白の祈りであるコンフィテオールは英語に訳され、儀式の時に司祭と信徒とが同時に唱えるようになりました。これが罪の赦しの代わりになりました。

 ミサは食事に変わり、聖餐式になりました。


 しかし博学であった司教様たちでさえ、平和と一致を保つために、ついには新しい祈りの本を受け入れるようになりました。第二バチカン公会議後の教会が私たちに新しいミサを強制するのも、全く同じ理由からです。


 16世紀にはイギリスの司教たちは、ミサとは「記念」であると断言したのです! 大量になされたプロパガンダのために信徒らの頭の中も、ルター式のものの見方をするようになってしまいました。説教をするには、政府の許可を受けた人でなければなりませんでした。

 同時に、教皇は「ローマの司教」とでしか呼ばれなくなりました。教皇は、もはや聖父(パパ)ではなく、他の司教らの一兄弟でしかなく、英国の場合、自ら国教会の頭となった英国王の兄弟でしかないのです。ギリシア典礼とルター式サービスを混ぜ合わせた、クランマーの祈祷書(Prayer Book)というものが作られました。これは、ブニニ司教がパウロ6世のミサといわれるものを作った時に、典礼改革のための専門委員会(コンシリウム)に専属の6名のプロテスタントの「オブサーバー」たちと一緒に仕事をしていたことを思い出させないでしょうか。

 クランマーの祈祷書(Prayer Book)は次の言葉で始まっています。「晩餐そして聖餐は、一般にミサとよばれており・・・」と。これは新しいミサの総則第7条の前兆であり、同じことは1981年にルルドでの聖体大会で言われました。「主の晩餐、言い換えるとミサは、・・・」と。【訳者注:1969年版のローマ・ミサ典書総則7番がミサとは何かを説明してこう言う。「主の晩さん、またはミサは、・・・」】

 私が既に話した聖なるものの破壊は、アングリカンの改革でも含められていました。以前は小さな声で司祭が唱えていた典文の祈りは、大きな声で唱えなければならなくなりました。同じように現在の「聖体祭儀」でもそうなっています。

 クランマーの祈祷書(Prayer Book)も、「王国の内的一致を保存するため」司教らによって承認されました。「昔のミサ」をささげ続けていた司祭らは、聖職録の取り消しから、聖職の罷免までの刑罰を受けましたし、「再犯者」には終身禁固刑が待っていました。現代では、「聖伝の」司祭たちを刑務所には入れないものの、待遇はほとんど同じだと認めなければなりません。



 チューダー王朝のイギリスは、そうと気がつかない内に異端に落ちていきました。それは指導者の牧者らを始めとして時代の歴史的状況に適応させるという口実の元に変化を受け入れることによってでした。


 正に今日では、全キリスト教世界がこれと同じ道を辿る危険があります。もしも年をとった私たちが、ほんの少しの危険でも冒すなら、子供達・青年達・神学生達は、新しい要理書と臨床心理学と社会学で養成され、教義神学も倫理神学も教会法も教会史も全く学ばずに、本当のものではない「信仰」において教育されることになり、彼らが学ぶ新プロテスタント的概念を当たり前のこととして受け入れるようになってしまうということを考えたことがありますか?

 もしも私たちが抵抗しなかったら、明日のカトリック宗教はいったいどうなってしまうのでしょうか?

 読者の皆さんはこんなことを言う誘惑に駆られているかもしれません。「では私たちにいったい何が出来るというのか? 私たちにこれをしろ、あれをしろ、というのは司教様なのだ。ほら、この公文書は(司教様公認の)要理委員会が、または別の公式委員会が発表したものだ。(公式の司教様の権威に抵抗しろというのか?)」

 では、信仰を失う以外に何も残っていないと言うのでしょうか?

 そのような対応をする権利はありません。聖パウロは私たちにこう警告しました。「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」(ガラチア1:8)

 これが真の従順の秘訣です。



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローズ・フーさんの「楽在苦中」 第7章 凍った愛

2011年09月06日 | カトリックとは
第7章 凍った愛

 私たちは皆人間です。カトリック教徒も例外ではなく、私たちは超人ではありません。他の人がそうであるようにわたしたちの誰もが、自分の感情や愛情を持っています。 10代の女の子のある者は、スポーツに、またある者は映画に関心を持ちます。多くは自らの将来について、甘い夢を持っています。ある者は、背の高い白馬に乗った王子様に憧れ、いつしか憧れていた人がその人のものになり、その後幸せに暮らせることを期待しています。

 しかし中国では、特に前世紀の50年代は、人生を楽しむための時間ではありませんでした。それは殉教者や反逆者となることを選択する時間でした。私たちは信仰を守もろうと望んだ場合は、私たちは様々な試練に直面しなければなりませんでした。私は非常に明確にヨセフ沈神父様が何度も言ったことを覚えています。「若者にとって、両親よりも天主様を愛するのは、そんなに難しくはないかもしれませんが、いつか天主様があなたの最愛の人よりも天主様を愛するこようお求めになった際、それはそう簡単ではないでしょう。聖アグネス、聖セシリアそして聖ルチアの物語を読んで下さい。あなたは彼らが重要な時期に貞潔の美徳をどのように守ったかを知っておく必要があります」私は、沈神父様の指示に従うことに最善を尽くしました。苦難の道への途中で、自分が誰かや世俗的なものに気を取られない様、あらゆる努力をしました。

 これは、天主様の御恵みの偉大さを示す一方で、私たち人間の弱さの大きさをも示す私の実話です。

 1952年にマタイ張希斌神父は、私と約30人の大学生の信者を一つの団体へと組織しました。イグナチオ艾祖亮はその中の一人でした。彼は非常に際立っていました。彼のハンサムな外観、エレガントなマナーとユーモアのセンスは、クラスで多くの女の子を惹きつけました。彼女たちはほとんど彼を崇拝し、その内の何人かは彼に夢中でした。率直に言えば、私も彼のファンの一人でしたが、沈神父様の言葉は、しばしば私の耳に鳴り響いていました。私は完全に自分自身、そして少年少女が抱く他愛の無い愛情さえ否定しなければなりませんでした。

 悪魔は、休むことなく昼夜働いていました。彼らは私たちを捕えるために、異なった罠を仕掛けていました。1954年の春、私たち大学生の信者は、張神父様の指導する三日間の静修に、佘山(シェシャン)の聖母の聖地に行きました。

 静修の最後に、イグナチオは数分の間、単独で私と話す機会がありました。彼は私に言いました。「ローズ、この静修で僕は天主様の呼びかけに従うよう決心した。僕はすぐに神学校に入るつもりだ。自分の信仰を守る場合、僕たちは全てを放棄する必要があることを知っている。僕は世俗的な干渉を排除するために、高い壁の城を築かなければならない。僕は完全に天主様に自分自身を捧げる」

 彼は静かに続けました。「ローズ、君はとても勇敢で愛らしい女の子だ。張神父様は、レジオ・マリエのための君の家族に対する戦いについて、多くの人々に話しをした。他の何よりも天主様を愛しているから、君は美しい。でも、いつか君が裏切り者になるのなら、もはや愛らしくも美しくもなくなるということを覚えていてほしい。君が天主様を愛し続けるなら、僕たちはいつも天主様の内に会うだろう」

 その瞬間まで、私達の間には真実の愛があったことに気付きませんでした。しかも、この愛は私の暖かい手のひらで融け去るような、雪のかけらのようにはかない物でした!それは非常に短かったので、変わることは有り得ませんでした。この愛はより高いレベルに昇華させる方が良いのです。その日以来、私はこの愛を固く凍らせて、私の心の奥深くに閉じ込めました。それは何十年もの間、私の記憶の中で凍結した氷の岩となっています。

 1970年代後半、私はついにイグナチオに関するある情報を得ました。彼は1955年9月26日に神学校で逮捕され、懲役7年の判決を受けました。彼は労働改造所で激しい肉体労働に従事していました。彼は有名な大学を卒業したにもかかわらず、非常に長年の間、負担の軽い仕事を求めるために、自分の知識を披露したことがありませんでした。その後、彼は私の収容所からそう遠くない収容所に移されました。私は彼を訪問する計画を立てましたが、彼は肝臓癌を患い、上海に送り返されました。

 今、彼の弟はアメリカに住んでおり、イグナチオが1981年に亡くなったと告げました。彼は死の床で、自分を迫害していた人を許しました。彼は自分が信仰のために刑務所で何年も過ごしたことを悔やんだことはないと語りました。彼は最良の部分を選択していました。彼は自分自身を清めたばかりでなく、私にも大きな恩恵をもたらしてくれました。

 私たちが若い頃に恋に落ちていたのならば、私たちは、おそらく自分たちの信仰を失っていたでしょう。たとえ、私たちがは夫と妻になっていたとしても、それが何になるでしょう?幸福と愛は、裏切者の夫婦の間には存在しません。人が天主様を愛していないならば、どうして人は自分の隣人を愛することができるでしょうか?それは不可能です。私はお互いに尽くそうとしない何組かの夫婦を見てきました。どうして彼らが幸せな生活を送ることができるでしょうか?

 彼への愛は、約半世紀の間凍ったままです。イグナチオは既に天国にいます。彼を懐かしく思うたびに、私は自分の心を奮い立たせます。世界中には、ロミオとジュリエットや、梁山伯と祝英台(中国の伝説によれば、恋人と一緒に死んだ後に蝶に変身しました)のような沢山の愛の物語があります。男女の片方か両方が人間的な愛のために死んだということで、それらのストーリーはよく知られています。おそらく、彼らは期待通りか又は相応しい愛を決して得ることが出来ないので、人々は同情し、共感するのでしょう。大抵、私たちの願いが満たされたとき、失望がやって来ます。私たちは幸福を得るための最良の方法が、何よりも天主様を愛し、全てを天主様に於いて愛することであるのを知るべきです。

 人生において、私には途方もなく浮き沈みがありました。しかしイグナチオの別れの言葉は、いつも私に愛らしく素敵な女の子になるように励ましてくれます。私はそれを永遠に覚えていることでしょう。


教会が信じ愛してきた真理を、信じ愛し実践するだけ

2011年09月06日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 従順とは、天主様の御旨を果たすために、天主様の代理者である目上の人間の意志を行うことが従順です。

 ルフェーブル大司教様と聖ピオ十世会は、新しいミサを拒否しました。何故なら、新しいミサは新しい精神と新しい「信仰」を私たちに伝えているからです。新しいミサは「新しい司式はその全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第22総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」(オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿のパウロ六世への言葉)からです。教皇様は、私たちに信仰を失わせるように命じるとき、それに従うことは本当の「従順」ではないからです。

 ルフェーブル大司教様と聖ピオ十世会は、アシジの諸宗教の集会を拒否しました。何故なら、この種の集会は天主の十戒に反し、カトリック教会の聖伝に反し、聖書に反し、歴代の教皇様の教え(例えば特にレオ十三世やピオ十一世)に反しているからです。そのような場合、これに従うことは本当の従順ではあり得ないからです。何故なら、従順とは天主の御旨を果たすためにするのであって、明らかに天主の御旨に反しているなら、それに従っては罪になるからです。

 カトリック信仰を、二千年間教会が信じ愛してきたそのままの変わることのない真理をそのまま信じ、愛し、実践する、それだけをルフェーブル大司教様がし続け、聖ピオ十世会がそれだけをし続けようとしているのです。そして、それがためにルフェーブル大司教様と聖ピオ十世会は極めて難しい立場に置かれ続けてきたのでした。


 ベネディクト十六世教皇様は、2007年の7月ついに、今までのバチカンの「第一の秘密」を破って、聖伝のミサは実はカトリック教会の有効で合法的なミサ聖祭である、と認めたのでした。聖伝のミサは決して廃止されていないと主張していたがために、ルフェーブル大司教様は「不従順」の汚名を帰せられていたのですが、じつはルフェーブル大司教様こそが本当に従順であったということが全世界に分かるようになりました。

 日本では、聖伝のミサが禁止されていました。実は、そんな「禁止」は、ウソだったのですけれど。「従順」の名前で、不従順が強制されていました。


 将来、真理が輝く時、ルフェーブル大司教が正しかったと皆がいうことになるでしょう。


愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2つの宗教と本当の従順

2011年09月05日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

ルフェーブル大司教の公開書簡「第18章 本当の従順と偽物の従順」にはこうあります。

 従順と言うことは、重大なテーマです。教会の教導職との一致、特に教皇様との一致に留まることは救霊の諸条件の一つだからです。私たちはそのことを深く自覚しています。そしてまた、今日教会を統治しているペトロの後継者に対して、私たちがその前任者たちに対してそうであったように同じく執着しているのは私たち以上にありません。私はここで自分自身について語っているのであり、自分の小教区の教会から棄てられた多くの信者さんたち、フランス革命の時のように倉庫や納屋でミサ聖祭を捧げなければならなくなってしまった司祭たち、また町や村で聖伝の公教要理を(公式の教会の要理の授業とは)また別に教えている司祭たちについて語っています。

 教皇様が使徒継承の聖伝と自分の全前任者教皇たちの教えとをこだまのようにそのまま繰り返して語る時、私たちは教皇に固執します。正に、ペトロの後継者の定義それ自体が、この信仰の遺産を守ることにあるからです。ピオ9世教皇は、(第一バチカン公会議の決議書である)『パストル・エテルヌス』の中で私たちにこう教えています。

「聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは、聖霊の啓示によって、新しい教義を教えるためではなく、聖霊の援助によって、使徒たちが伝えた啓示、すなわち信仰の遺産を確実に保存し、忠実に説明するためである。」

 私たちの主イエズス・キリストが教皇様や司教たちそして司祭職一般に委ねた権威は、信仰に奉仕するためです。教会法や教会組織また権威を、カトリック信仰を無きものとするために使うこと、それらを命を伝えるために使わないこと、それは霊的な堕胎行為であり霊的な避妊行為です。

 だからこそ、二千年の間たゆまなく教えられてきたそのままの私たちのカトリック信仰と合致することを全て受け入れることに対して、私たちは服従しますし、その準備が整っています。ただし私たちはこれに対立することは全て拒否します。

 何故なら、パウロ6世の教皇統治の間、全てのカトリック信者たちにとって良心と信仰との重大な問題が生じてしまったからです。それはペトロの真の後継者である教皇様が、聖霊の援助を約束された教皇様が、ほんのわずかな間に、教会史上もっとも深くまたもっとも広大な教会の崩壊、いかなる異端者といえどもこれ程の破壊を成功させることができなかったほどのことを主導することができたのか?
 という問題です。この問題に、将来、正しく答えを出さなければならないことでしょう。


 五世紀の前半に、レランの聖ヴィンチェンチオという人がいました。彼は教義の発展について次のように語っています。

「キリスト教の教会において、将来、宗教の進歩は全くないだろうか? 極めて重要なものが確かにあるだろう。それは信仰の進歩であって変化であってはならない。全ての信者においても各々の信者においても、諸地方教会においても個人においても、歴史の流れの間、知性、知識、智恵が溢れるほどにそして強烈に増加することが重要である。ただしそれは教義の同一性、同じ考えの同一性においてでなければならない。」

 聖ヴィンチェンチオは異端の衝撃を体験していました。そこで彼は十五世紀後においてでも常に有効な行動の規則を与えています。

「もしも教会の或る一部分が、交わりからつまり普遍の信仰から切り離されたとしたら、カトリックのキリスト者は、どうしたらよいのだろうか? 壊疽にかかり腐敗している肢体よりも、全体において健康な体以外、いったいどの部分を取るというのだろうか? そしてもし新しい伝染によって、もはや教会の一部分のみならず、一度に教会全てが毒を盛られそうになったとしたら、その時もっとも配慮しなければならないことは、いかなる嘘の革新にも誘われることもできない昔に固執することである。」

 祈願祭の連祷の中で、教会は私たちをしてこう祈らせています。「主よ、願わくは御身の聖なる宗教において、教皇及び教会位階の全階級を維持し給わんことを、我らは御身にこいねがい奉る。」この祈りをするということは、そのような災いが起こりえるということを意味しているのです。

 教会において、一人のキリスト信者にその信仰を減少するように強制することができるようないかなる権利も裁治権もありません。全ての信者は、子供の時にならった公教要理による自分の信仰に危害をかける人がいれば、それが誰であろうとも、彼に抵抗する権利と義務があります。
もしも信仰を腐敗させる危機にさらすようにという命令を受けた場合には、これに不従順である絶対の義務が生じます。

 正に、第二バチカン公会議後の改革と方針とによって私たちの信仰が危機にさらされていると判断されるので、私たちはそれらに不従順であり聖伝を遵守する義務が生じているのです。

私たちはこのことを付け加えます。それは、私たちが教会とペトロの後継者とになす事のできる最大の奉仕とは、改革されたリベラルな教会を拒否すること、これです。イエズス・キリスト、人間となった天主の聖子は、リベラルでもなく、改革され得もしないからです。

 私は聖座から送られた使節がこう言うのを二度も聞いたことがあります。「私たちの主イエズス・キリストの社会的王権は現代ではもはや不可能だ。決定的に宗教的多元主義を受け入れなければならない。」これが、彼らが私に言った言葉です。


 それならば私は言います。私はそのような宗教に属してはいません。私はこの新しい宗教を受け入れません。これはリベラルな近代主義の宗教で、独自の礼拝と、独自の司祭らと、独自の信仰、独自の要理書、独自のエキュメニカルな聖書、つまりカトリック、ユダヤ教徒、プロテスタント、聖公会信者らと共同で翻訳し、二股をかけた日和見主義的な、八方美人で皆を喜ばせようとして非常にしばしばローマ教導職の解釈を犠牲にする聖書を持っています。

私たちはこのエキュメニカルな聖書を受け入れません。天主の聖書だけしかないからです。つまり天主の御言葉であり、私たちにはそれに人間の言葉を混ぜ入れる権利がないからです。



 私が子供だった時、教会はどこでも同じ信仰で、同じ秘蹟があり、同じミサ聖祭を捧げていました。その当時、これが変わるだろうと誰かが言ったとしたら、私はそのようなことなど信じることもできなかったでしょう。キリスト教世界の全地域で、私たちは皆天主に同じやり方で祈りを捧げていました。しかしリベラルな近代主義の新しい宗教は、分裂の種をまいたのです。

司祭たちは何をしたらいいかわからなくなっています。自分の長上たちが彼らに押しつけることに盲目的に従って、そのためにある意味で子供の時からの幼少の時以来の信仰を棄て、自分が叙階を受けるときに荘厳にした近代主義に反対する宣誓という約束を破るのか、或いは、抵抗するべきか、しかしそうすることは教皇様と離れてしまうかのような、私たちの霊父でありキリストの代理者から離れてしまうかのような印象を受けてしまう。どちらにしても、何という苦しい状況でしょうか。心が張り裂けるようです! 多くの司祭たちは苦しみのあまり早死にしてしまいました。



 どれ程多くの司祭たちが、長年の間司祭として聖務の奉仕していた小教区を離れ去るようにし向けられたことか! これらの司祭らは自分の長上たち位階制度のあからさまな迫害の餌食となって、信徒たちからの大きな人望と信頼とにも関わらず、信徒たちからむしり取られてしまっているのです。



 私の目の前に、このような司祭たちのうちの一人の主任司祭が、自分の受け持つ二つの小教区の信徒たちにだした感動的なお別れの手紙があります。



「×年○月○日の面会で、教区長の司教様は私に最後通牒を伝えました。新しい宗教を受け入れるか拒否するかの二者択一でした。私はこれを避けて通ることが出来ません。ですから、私は自分の受けた司祭職への参与に忠実に留まるために、永遠の教会に忠実に留まるために、・・・私は自分の意に反して、引退するように要求され強制されました。・・・ただ単に誠実でありたいということ、特に私の司祭としての名誉は、私をして正にこの天主に関わる重大な問題(=ミサ聖祭のこと)において誠実である義務を果たさせています。・・・これは、私が天主に、そして人々に特に教区民の皆さんに与えなければならない忠実と愛の証拠なのです。そして正にこの忠実と愛の証拠について、私は最後の審判の日に裁かれることでしょう。それは他方で同じ遺産を委ねられた全ての人々についても言えることです。」



 ブラジルのカンポス教区では、教区のほとんど全ての聖職者達はカストロ・マイヤー司教様の引退後その小教区教会から追放されました。何故なら彼らは、つい最近までまだそれを捧げていたように、永遠のミサ聖祭を放棄するのを望まなかったからです。



 分裂は、信心のほんの少しの表明にさえ作用しています。フランスのヴァル・ド・マルヌ県では司教は、長年の間主任司祭を正式に任命することになっている個人所有の教会でロザリオの祈りを唱えていた二五名のカトリック信者らを警察を呼んで排除させました。メス司教区では司教は共産主義者の市長に頼んで、聖伝を守るカトリック信者たちの団体に譲与した場所の賃借権を停止させるように動きました。カナダでは六名のカトリック信者が裁判所で有罪判決を受けました。この国の法律がこの種の問題を取り扱うことを許しているのですが、彼らは頑固に跪いて御聖体拝領をしたということで有罪となったのです。カナダのアンティゴニッシュの司教は彼らを「宗教儀式の秩序と尊厳を故意に攪乱した」と告訴したのです。そして「攪乱者たち」は裁判官から、六ヶ月の保護監察を言い渡されたのです! 司教がキリスト者らに天主の御前で跪いてはいけないと禁止命令を出したのです! 昨年、青年らが行ったシャルトルへの巡礼はミサ聖祭で幕を閉じましたが、そのミサ聖祭はシャル
トルのカテドラルの前の庭で行われました。何故ならカテドラル内部では聖ピオ5世の聖伝のミサが禁止されたからです。二週間後、同じカテドラルはスピリチュアル・コンサートのためにその全ての扉を大きく開いていました。そのコンサートの中では、元カルメル会修道女がいろいろなダンスを踊っていたのです。

 二つの宗教が互いに対立しています。私たちは今、劇的な状況の中を生きているのです。選択をしないと言うことは不可能です。ただしこの選択とは従順と不従順とのどちらかを選ぶというものではありません。人々が私たちに提示していること、はっきりと厳しく私たちをそれに招いていること、そしてそれを私たちにさせるために私たちを迫害しているのは、それは見かけ上の従順を選ぶことです。何故なら、教皇様は私たちをして私たちの信仰を放棄することを要求することが出来ないからです。



 私たちは信仰を守ることを選びます。



トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローズ・フーさんの「楽在苦中」 第6章 好機は逃さずに

2011年09月05日 | カトリックとは
第6章 好機は逃さずに

 我等が主イエズス様は、使徒たちに「信仰の薄い者よ、なぜ恐れるのか?」(マタイ:第23章 - 27節)と仰せになりました。私たちは恐れを取り除かなければなりません。それは、私たちが働くのに正しい態度を取ることが出来ず、正しい判断を下すことが出来ないからです。私たちが多くの恐れから遠く離れるよう努めても、一つの恐れを保ち続ける必要があることを強調しなければなりません。それは天主様への恐れです。あなたが唯一の天主様を恐れるならば、人を恐れることはありませんし、この世のいかなる霊をも恐れません。(1931年5月17日の教皇ピオ11世によるスピーチ)

 1951年、マグラス神父様は、私たちの敵がナイフを研いで状況を伺い、レジオ・マリエを攻撃するために計画していたことを知っていました。何のためらいもなく、神父様は全てのレジオ・マリエにすぐに解散するよう命じました。その一方で、私は震旦女中のプレシディウムである「汚れなき御母」の会長でした。そのニュースを聞いた途端、私の心は打ちひしがれました。私たちは、すでに20人の正規会員と約100人の賛助会員を擁していました。私たち皆は、子どもたちに公教要理のクラスを教えたり、病院の患者を訪問するのに忙しかったのです。どうして、止めることを躊躇わずにいられるでしょうか?いいえ、絶対にいられません。私は、霊的指導者であるエドワード・マッケルロイ神父(Edward MacElroy)の前で泣き出しました。私は、「なぜ私たちは非常に臆病なのでしょう?共産主義は私たちを攻撃し始めていません。それなのに私たちは事前に白旗を揚げています。これはどういう意味ですか?」と言いました。神父様は、彼自身のアイデアが何であったかについては、何も言いませんでした。彼は言いました。「これは教皇庁の決定です。私たちは従う必要があります。より多くのトラブルを巻き起こすこがないように、私たちはむしろ後方に少し下がるべきです。聖ヨセフと聖母マリアはヘロデ王からの殺害を避けるために、幼子イエズスを連れてエジプトに逃れました。時々機会を避けることは賢明です。あなたは行動する熱意を持っています。天主様のために働き続けなさい。レジオ・マリエが無くとも、あなたは以前のように懸命に働くと信じています」すべてが取り決められているのに、どうして小さな平信徒が、この状況の根本的な変化をもたらせるというのでしょうか?

 1951年1月から、私は先週に行ってたことを報告するために、週に一度崇真堂(マッケルロイ神父様が滞在した場所)に行きました。彼はそのことに非常に満足していました。しかし、1952年10月、彼は不安な顔つきで私に言いました。「ローズ、何かが私に起こる場合に備えて、もう私を訪問しないことを望みます。私は強制送還される可能性があります。私は苦しみをあまり受けないでしょう。しかし、あなたは別です。あなたは、私が何を最も恐れているか知っていますか?逮捕されたり、刑を宣告されたりすることではありません。私はあなたと共に苦しむために、追放されるのではなくむしろここに留まりたいのです」これを聞いて、このアイルランド人司祭は、進んで中国のための殉教者になろうとしているのが分かりました。私は涙を抑えることができませんでした。私は心の底から彼に言いました。「何が起ころうとも、私はここに来続けます。いつか、私があなたのために迫害されなければならないのでしたら、私は喜んで迫害を受けます。あなたは遠くから私たちの国に来て、未開の地で宣教師になるために、自分の快適な生活を棄てました。あなたは不平不満を言わず、中国の教会のために行ったことを決して後悔しません。愛は愛で返されるものです」それ以来、彼が1953年6月に強制送還されるまで、私はいつもの通りに彼を訪問しました。私は彼が言った最後の言葉を決して忘れないでしょう。「もし、いつの日にか、ここを去るならば、私はなるべく早く戻ることが出来るのを期待しているので、私は中国に最も近い都市に滞在します」

 マッケルロイ神父様は香港で、1984年11月22日に心臓発作で亡くなりました。彼は全生涯、天主様や人に対して忠実でした。彼は聖コロンバン会の会長でした。彼はアメリカやアイルランド等に行くことが出来ましたが、実際には彼はどこへも行かず、中国に最も近い都市である香港に滞在しました。彼は日夜待っていました。遅かれ早かれ、彼は自分の甘い夢が叶うことを望んでいたのです。多分次の日には、彼は中国に戻る機会があったかもしれません。しかし、天主様は御自身の計画をお持ちでした。神父様は30年以上待っていたのです。私はどこにそのような深く誠実な愛を見出だすことが出来るでしょう! 1998年に、私は母の墓地を訪問しに香港に行きました。非常に驚いたことに、母のお墓のそばに神父様のお墓を見付けました。私は彼のお墓の彼の写真を見た途端、私は唖然としました。私は夢を見ているのでしょうか?私は自分の指を噛みました。神父様は天国におられ、しかも母の隣人であるとは!

 天主の恩寵により、神父様と私は両方とも、自分たちの約束を守りました。彼は中国に最も近い都市である香港で亡くなりました。私は同じくローズのままでした。私は彼に何の悪いこともをしていませんでした。私たちは天主様の摂理を賛美いたしましょう!唯一の天主様だけがそれを実現することができます!

 1951年にレジオ・マリエが解散させられた後、その翌年には通っていた上海市の約翰大学医学院から退学させられ、何の仕事もありませんでした。しかし、この期間中に私たちは時間が最もありました。時間は天主様を賛美や霊魂の救いに最も重要な物です。私たちは何かをしたいと望みさえすれば、何も私たちを止めることができませんでした。どんなに問題が困難であろうと、またはレジオ・マリエが無かろうと、私たちは出来ることなら何でも探すことに焦点を当てました。両親が非常に忙しかった多くの若者達がいました。親たちは彼らに公教要理を教えるための時間がありませんでした。多くの小教区では、彼らが若いものを教育するための信者を必要としていました。そこで、私たちはロザリオを唱えるためやミサに与るために、彼らを連れて行きました。週に1,2回、私たちは彼らに教義を教えました。時には私たちは患者を訪問し、彼らを慰め、臨終の時には多くの異教徒に洗礼を受けさせようと試みました。マタイ張神父は、しばしば私たちがより多くの祈り、より多くの霊的な読書をすることを薦めました。私たち自身が霊魂に多く恩寵を受けていなかったら、どうやって他人を助けることが出来るでしょう。私たちは、いつ自分が逮捕される番になるのかわからないと常に考えていました。私の十字架はとても重かったので、裏切り者になるには、私の家族は主な障害となったでしょう。私の友人の多くは非常に勇敢で、彼らは全く恐れていないようでした。しかし言うことと、行うことは別です。彼らのほとんどは、迫害の中で自分たちの方法を捻じ曲げてしまいました。天主様は、常にその御恵みを求める人々をお助けになります。

 半世紀以上が経ちました。私たちの大学の若者のグループ25人の中で、私たち3人だけが信仰のために逮捕されていたのは信じ難いことで、これまでに何人かは他界しています。ある者は教授、科学者、芸術家になりましたが、彼らの多くは幸せに暮らしていません。世界的名声、富や権力では幸福を買うことができません。真の幸福は、全能の天主様から来ています。私たちは、天主様だけの為に創られたのです!


聖ピオ十世の祝日、おめでとうございます

2011年09月03日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、聖ピオ十世の祝日のお慶びを申し上げます。

 本当はブログに書きたいことは沢山ありますが、時間が許してくれません。

 最近、藻谷浩介著「デフレの正体」を読んでいます。とても面白い作品です。

 日本は国際競争には勝っているけれど、それとは全く無関係に「病気」が進んでいる、内需の縮小である、自動車の国内の新車販売台数も、小売り販売額も、国内輸送量も、一人当り水道水使用量も、国内の書籍・雑誌の合計売り上げも、国内の酒類販売量も、地方格差ではなく日本中が内需不振なのです。何故なら、生産年齢人口がものすごいペースで減少しているからです。総人口の減少よりも、生産年齢人口の減少の方がよほど急だからです。

昨年の11月20日号のエコノミスト誌の日本特集にあった、日本全体の「夕張化」です。

日本の本当の問題は、電気不足というよりは、生まれて来る赤ちゃんの不足なのです。

主よ、我らを憐れみ給え!

聖母の汚れなき御心よ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!!


トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

ローズ・フーさんの「楽在苦中」 第5章 我が家のサウロはパウロとなった

2011年09月03日 | カトリックとは
第5章 我が家のサウロはパウロとなった

 私たちの教会で最初の殉教者である聖ステファノが石打ちの刑にされたとき、サウロは彼を迫害した主要な人物でした。しかし、聖ステファノの死後長く経たないうちに、ダマスコに向かう途中で彼は神の特別な恩寵によって改心させられました。彼は殺戮のナイフを捨て、よく知られている使徒で偉大な聖人である聖パウロとなりました。

 1951年10月8日、中国共産党は公式にレジオ・マリエが反動組織であると宣言しました。全ての会員は登録するよう命じられました。私たちは国家や人々に対して何もしていなかったことを明確に知っていました。登録に行くことは、私たちの良心と信仰に対する共産主義者のいわれなき批判を認めることになります。しかし、共産主義者は非常に狡猾でした。彼らは公共の場で私たちを攻撃するだけでなく、しばしば私たちの最愛の人をも利用したのです。

 私はレジオ・マリエのために迫害されたとき。警察は私の両親を脅すために私たちの家にやって来ました。警察は彼らを日夜泣き明かすようにしました。このような状況の下で、私の両親と兄弟、特に4番目の兄は、私たちに多くの緊張をもたらしました。彼はいつも私たちに対して非常に冷酷でした。食事の度に、彼は私達が登録するよう強制し続けました。私は、なぜ兄がそうしたのか分かりました。

 まず、彼は自分が何をしていたか知りませんでした。単に、彼は非常に深く父を愛していたのであり、彼は父が私たちのためにとても苦しむのを見るのに忍びなかったのです。次に、彼は私たちを心配していました。もし、いつの日か私たちが逮捕された場合、私たちの家族に何が起こるでしょうか?

 日曜日に父は私たちが教会に行くことを禁じ、兄に私たちを見張るように言いました。そのことは私たちを非常に動揺させたので、私は心の底から彼を嫌いました。私は彼を非難し、彼と何度も口論をしました。私は、中国共産党の走狗だと彼を罵倒すらしました。彼は政府のために、ボランティアとして悪を行っていたのです。この政府は、カトリックの信者に対して、厳重な包囲網を敷いていました。その時、私の兄のような多くの無実の人々がいました。彼らは盲目と無意識の内に、私たちのカトリック教会を激しく迫害しました。彼らは実に、私たちの主が「彼らは何をしているかわからない」と仰せになられた通りでした。

 1951年の終わりに、父は4番目の兄に私達の寝室で本を調べるように命じました。父は、「この二人の娘は非常に頑固だ。遅かれ早かれ、警察は逮捕するだろう。共産主義に反対する本があるかどうか寝室に行って、本を調べなさい。もしあれば、それを取り上げるようにしなさい。さもなければ、より多くの罰を受けることになるだろう」と言いました。兄は父が彼に言ったことをやりました。彼は本を一冊ずつ読んで行きました。最後に、彼はマタイ陳神父様によって書かれた「マルクス主義と宗教」というタイトルの本を見つけました。彼はそれを読む間、詳細にメモを取りました。私は、彼がその本に対して何かあら捜しをしているのではないかと恐れていました。同じ日の夜、彼は非常に良い雰囲気で、私に話かけてきました。彼は、「陳神父様が書いた本は、僕にとって非常に有益だ。僕は司祭に話をしたいと思う。質問したいことがあるんだ」。私は答えました。「あなたが天主様を受け入れのならば、非常に歓迎すべきことです。もし、話をした後も受け入れることを望まないとしても、それは問題ではありません。でも、警察に全てを報告しないで。私はあなたが率直で誠実な人であることを願っています」この時、兄は誠実に私に説明し、「レジオ・マリエのことでおまえに反対していたのは、自分が異教徒だからで、僕はカトリック教会について何も知らない。僕はおまえを守るために、世俗的な位置に立っているだけだ。おまえの兄として、何の悪い意図も持っていない。もし、僕がおまえの気持ちを傷つけたのなら、許してくれ」。

 翌朝、私は自分の小教区の教会である「君主堂」に行きました。主任司祭であるザビエル朱樹徳神父様に会い、兄について何らかの話をしました。朱神父様は言いました。「天主様は、それぞれの霊魂を異なった方法でお導きになられます。あなたの兄は、私と一緒に話をしても構わないと思っているのですから、私はいつでも歓迎します。私は、過去の信仰に対する彼の態度がどうであったかは気にしません。あなたも知っての通り、サウロはパウロになりました」。それ以来、兄は一週間に二度朱神父様を訪問しました。彼は、聞きたい質問が沢山ありましたが、天主様の驚くべき恩寵が、彼の霊魂の上に注がれたのでした。

 1952年3月、彼は洗礼を受ける決心をしました。朱神父様は興奮のあまり、龔品梅司教様にそれを報告しました。司教様は非常に心を動かされたので、聖土曜日に私の小教区である君主堂において、荘厳な儀式で兄に洗礼を施すことに決めました。

 私は、ずっとその特別な夜の光景を覚えていることでしょう。そのことを考える度に、あらゆるものの詳細が、私の目前ではっきりと浮び上がります。午後4時頃、妹と私の2人は教会のロビーで待っていました。突然、一人の司祭がやって来ました。歩くのが余りにも早く、彼のカソックの2本のベルトがあたかも蝶のつがいのように風に漂っていたので、明らかに気分が高揚していると分かりました。彼はまた、「胡美珍は誰で、胡美玉は誰?」と非常に早口で聞きました。私は躊躇することなく立ち上り、妹を引き寄せて「私たちです」と言いました。この司祭は、暖かく私たちの手を取り、「おめでとう!あなたがたは最初の戦いに勝ちました。あなたがたの苦しみや涙は、私たちの教会を守ってきました。天主様は非常にあなたがたを祝福しています。あなた方の父と兄の洗礼は、天主様の真の贈り物です」。私はとても奇妙なことだと思いました。私たちは、彼の名前すら知らないのに、どうして彼は、私たちにこうも親しく出来るのでしょう。私たちは、目にいっぱい涙を浮かべ、何と言っていいか分かりませんでした。確かに、私たちは数ヶ月もの間、悩まされてきました。私たちは数え切れないほどの眠れぬ夜を過ごし、聖母の像の前で、何百回も私たちの仲介者となって下さる様にと跪きました。私たちが恐れていた最悪な事態は、裁判で聖母を裏切ることでした。

 私たちは、天の御母の手に私たちの弱さを委ねました。いつの日か逮捕されることは、恐ろしくはありませんでした。父がちょうど「レジオ・マリエ」のために死んだという事実は、真に天主様の恩寵でした。私たちは、聖母マリアに私たちが自分の信仰を無くさない様にと祈ったのを除けば、私たちに何が起ろうとも怖くはありませんでした。「最愛の御母よ、もし次の瞬間に第二のユダになるのでしたら、今天主様に私たちをお呼びになるようお頼み下さい」。

 張神父様は私たちの頬の涙を見て、私たちの肩をたたき、「私はマタイ張希斌神父。あなた方に会えてとてもうれしい。司教様は、式典後に個人的に話しかけるでしょう」と言いました。兄が洗礼を受けるために準備していたとき、彼はカトリック教会に対して行っていたことのために、とても申し訳なく思っていました。彼は聖アウグスティヌスを模倣したかったので、アウグスティヌスを自分の洗礼名にしました。式の間、兄は司教様自身が彼に洗礼を施すために来たことで、とても興奮していました。彼は非常に熱烈に、自分の手を携えたままでした。「私はサタンと彼の全ての働きを退けます。私はカトリックの信仰を受け入れます」という彼の言葉を聞き、私は泣き出しました。これ以上他に何が感動することがあるでしょうか!ほんの数ヶ月前、彼は私たちの教会に反対し、日夜盲目的に私達を攻撃しました。今、私たちは同じ群れにいるのです!なんと慈悲深い天主様でしょう!

 式典の後に龔品梅司教様は私たちと短い会話をし、私たちにいくつかのロザリオと御絵を与えて下さいました。最後に、司教様は私たちに、「あなた方は、天主様に感謝しなさい。多くの試練があなた方を待ち受けています。一歩一歩着実に歩まなければなりません。聖母マリア様に寄りすがりなさい。霊的な丘を登り続けるように」と仰いました。

 彼の洗礼の後、兄は毎日ミサに与り、聖体拝領をしました。彼は苦行を行い、過去の罪を痛悔してしばしば絶食しました。ザビエル朱神父様は、彼の霊的指導者を務めていました。彼は多くの教区の信者の前でアウグスティヌスを賞賛し続けました。 「アウグスティヌスは洗礼を受けたばかりですが、天主様の恩寵が彼にどのように働きかけるかを見て下さい。彼はこれほどまでに天主様を愛しています。"

 20世紀には、共産主義運動は延々と続きました。中国の状況はますます緊張していきました。父は香港に会社を持っていたので、私たちは出来るだけ早く香港に行くようにアウグスティヌスに促しましたが、彼は拒否しました。彼は私たちと一緒に暮らすと主張し、「自分はむしろ、海外に行くよりも一緒にここにいる」と言いました。私たちは彼に説明し、「私たちは国外に出る術はありませんが、あなたにはあります。あなたがそこに着いた後、父の会社で働くことができます。私たちが逮捕された場合、私たちを支援することができます。 なぜ私たち皆が、1本の樹にぶら下がろうとするのでしょうか?そうであれば、希望はありません」。最後に、朱神父様は、「アウグスティヌス、私たちの教会のため、そしてあなたの家族のためとあなた自身のために、行かなければなりません」と言いました。これを聞き、兄は躊躇することなく「私はあなたの言うことを行います」と言いながら、跪いて神父様に祝福を求めました。

 彼は香港にいた時、高い給料を貰っていませんでしたし、しかもほんの少しの金額しか自分一人の為に使いませんでした。彼は多くの食糧と医薬品を困っている人、特に神学生へと郵送しました。その時、蔡石方神父様(徐傢匯の教区司祭)は、兄の援助が無ければ、何人かの神学生は叙階されていなかったと語りました。1955年に私が刑務所に着くと、天主様の摂理により、私は兄から多くの食糧の小包を得ました。天主様に感謝!最愛の兄に感謝!

 彼は1965年に日本の大阪で心臓発作により、亡くなりました。香港と日本の多くのカトリック教徒は、彼は自分たちの中で傑出していたと褒め称えました。デオ・グラチアス!


ローズ・フーさんの「楽在苦中」 第4章 レジオ・マリエ カトリック教会の前衛

2011年09月02日 | カトリックとは
第4章 レジオ・マリエ カトリック教会の前衛

 凡そカトリック教会を攻撃する人々は、先ず聖母を最初に攻撃します。彼らは、天主様が創世記(3:15)で蛇に仰せになったようにしました。「わたしは、おまえと女との間に、そして、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく」。

 1949年に中国共産党は、中国大陸で権力を掌握しました。その間、アイルランド人司祭で聖コロンバン会の宣教師であるエダン・マグラス(Aedan McGrath)神父様は、中国にやって来て、上海、北京、漢口、天津、広州等でレジオ・マリエのプレシディウムを何百も設立しました。マグラス神父様は、カトリック聖職者からさえも、批判を受けなかったわけではありません。ある方は、聖母マリアへの信心を広める為の多くの組織が既にあると言いました。またある方は、大多数の会員は快楽を好み、いかなる使徒的活動も全く真剣に取り組まないという色眼鏡で見られがちな、十代の若者であると言いました。マグラス神父様は、これら全ての批判や異議を気にしませんでした。彼は大きな圧力の下で働き続けました。彼は私の学校である震旦女中に6つのプレシディウムを設立しました。

 私たちには、合わせて100人以上のアクティブな会員がいました。私たちの多くは異教徒の家庭で生まれ、育てられました。私たちの年齢は15歳から18歳でした。私たちの一部は、洗礼を受けてから僅か数ヶ月か数年しか経っていませんでした。ですから、迫害の間、私たちは二重に十字架を背負う必要がありました。

 聖母は、特に弱い人々をお選びになりました。聖母は私たちに布教活動を行うばかりではなく、私たちが信仰のために試練と苦難を受けるようお求めになったのです。1949年から1951年の間、中国共産党は、中国のカトリック教会を攻撃する計画を立てていました。私たちは、彼らがどんな方法を用いて私たちを迫害するかを待ちつつ警戒し、思案していました。ところが、創立されて間もないレジオ・マリエが中国共産党の主要な標的になるとは全く思いもよりませんでした。おそらく、レジオ・マリエは強力な後ろ盾や支援無しに設立されたと彼らは考えたのでしょう。もしかしたら、彼らは、若者である会員は誘惑と攻撃に抵抗するための十分な勇気と不屈の精神を持っていなかったと見做したのかもしれません。レジオ・マリエが崩壊した場合、ドミノ倒しの様に中国の全カトリック教徒が彼らに屈服するなどと彼らは考えたのでしょうか?

 1951年10月8日は、私の人生で最も忘れられない日でした。 中国のほとんどのすべての新聞は、第一面に大きな太字で、「レジオ・マリエは反動組織であり、全会員は登録の為に公安局に行かなければならない」というニュースを載せました。路上の公安局へ入る前の扉の外壁には、レジオ・マリエの為の「登録所」と書かれた大きなボードが掲げられていました。政府は大規模な宣伝を始めていましたが、殆ど成功を収めませんでした。僅かに数家族が、公安局に行くよう子供に嘆願したのみでした。彼らが登録しなかった場合、家族全員が非常に厳しい処罰を得ることを怖れたためでした。両親は泣いて、自分の娘や息子に登録するよう乞い願い、跪きさえしました。

 1951年に、上海のセナトゥスの会長と副会長を含む数人のレジオ・マリエの役員が逮捕されました。一人は、禁固12年の刑を宣告されました。彼の名前はフランシスコ沈多森。彼には7人の子供がいました。一番下の娘は、彼の逮捕後に生まれました。後に、共産党の幹部に、獄友にカトリックの信仰を教えていたのが見つかったため、1960年に公開裁判で死刑を宣告されました。沈氏と同じ刑務所にいたある信者が私に語ったことによれば、看守が沈氏を銃殺するために連行した時、彼は非常に落ち着いており、殉教者の様に十字を切って、牢獄を出たということです。実際、彼は殉教者でした。最愛の妻と7人の子供という家族がいたにもかかわらず、信仰を守るために全てを捧げたからです。

 あの時、多くのカトリック教徒の家族は、上海から新疆、モンゴル等の遠くて発展の遅れた地方へと追放されました。政府は、彼らが再び上海に戻って来ることを許可しませんでした。多くの人が職を失い、学校から追い出されました。私自身は、レジオ・マリエの会員として登録しなかったために、大学から退学させられました。

 私たちは互いに励まし合いました。私たちのモットーは、「我が元后、我が御母よ、我と我が所有物は全て貴方の物です」でした。私たちは聖母の最愛の子供であることを完全に自信を持っていました。聖母は常に私たちを守って下さいます。私たちの武器は、可能な限り多くのロザリオの祈りを唱えることです。

 1951年の「反レジオ・マリエ運動」の間、私は常に逮捕に備えていました。刑務所では、当局は囚人が自殺することを恐れていたので、私たちはベルトや帯を持つことを許されないと言われました。私の母は、何着かのゴムバンドの付いたズボンと下着、及びファスナーではなくボタンの付いたパッド入りの綿のジャケットを仕立てました。妹と私は、小さな包みにこれらの衣類、石鹸、ティッシュ、歯ブラシ、歯磨き粉を入れ、白い紙で留め、筆と墨を使ってとても大きな字で、「天主第一」と書きました。私たちの包みは、私たちの枕元に置かれました。毎晩の黙想中に、その日は天主様を何よりも優先していたかをいつも自問しました。

 私たちのドアの呼び鈴が鳴るのを聞く度に、妹と私は互いに、「多分、今すぐ行かなければならない時です。祈り、信仰を保ちましょう」と言ったものです。

 私の両親、特に父は、この動乱の時代の中で非常に苦しみました。彼らは日夜、恐怖と不安に耐えなければなりませんでした。非常に心配な状態と不安とを抱え、しかも父は非常に神経質であったので、とうとう脳卒中で倒れてしまいました。そして、数時間後に亡くなりました。私は最初、自分は進んで苦しもうとしていたのに、なぜ両親が私と一緒に苦しんだのかと天主様にこぼしました。

 父が遺体安置所に運ばれた時、あの頃は資本家に対する"三反五反運動"が続いていたので、多くの恐ろしい外観の自殺した御金持の実業家の亡骸を目にしました。その時、私は父が成功した大企業の所有者であるにもかかわらず、神の摂理によってこの種の不幸から守られたことに気づいたのです。さらに、父は死の床で洗礼を受け、安らかに亡くなりました。天主様に感謝!

 1955年までの共産主義者の迫害の間、中国のカトリック教会、とれわけレジオ・マリエは、闘いに於いて大きな役割を果たしました。いつの日か、誰かが中国における共産主義に対するカトリック教会の闘いの歴史を書くとしたら、レジオ・マリエはこの闘いの前衛かつ牙城として考慮されるべきです。 1951年に司教や神父様がまだ攻撃されていなかった時、この平信徒の軍団は最前線に在り、中国のために優れた模範を示しました。

 1950年代に「中国全体が上海に目を注ぎ、上海は震旦女中に目を注いだ」という有名な言葉がありました。それは、学校の殆どのカトリック教徒がレジオ・マリエの会員だったからです。聖母は苦難を通して、私たちを御導きになられました。私達の非常に少数の者だけが、自分達の貴重な信仰を否定するか放棄すると宣誓しました。しかし、かれら少数者の中の或る者は、年を経た後、自分達が行ったことを非常に悔みました。

 現在、半世紀以上が経過しましたが、試練や闘いはなお私たちの前にあります。信仰は変わること無く、真理は常に同じであり、信仰と真理に対する私たちの姿勢もまた、同じでなければなりません。誰もが息を引き取るまで、霊魂の救いは確実ではありません。私たちは、最後の忍従の為に日々祈らなければなりません。


健康と人体と生命についてあれこれ(2)皮膚幹細胞とガンス博士

2011年09月01日 | 私たちが今ここで生きている宇宙
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会のマニラの教会の隣の土地の昔の所有者フィリピンの方ですが、癌で闘病生活をしていました。(姉妹の方は、私も知っていましたがやはり癌でなくなっています。)しかし、彼女はドイツのガンス博士(Dr Christoph Ganss)によって、幹細胞の移植で健康になったとのこと笑顔で最近お会いしました。
 皮膚の細胞を培養してそれを体に入れるのだそうですが、細胞が若返るのだそうです。細胞は自分が行くべき必要とされているところに自分で行くので切ったり縫い付けたりする必要がないそうです。

 ドイツのハイデルベルクのこのやり方の良いところは、自分の皮膚を使うので取り出すにも簡単で量も多く倫理的にも問題がないところです。しかし皮膚の幹細胞が、必要に応じて220もの様々な細胞になるのだそうです。(調べたところ、この技術は、京大の講師の高橋和利博士や京大教授の山中伸弥博士がこの分野の先駆者だそうです。)

 ガンス博士は、皮膚から採った世界で最初の幹細胞の銀行を作ったそうです。それが、TICEBA (Tissue & Cell Banking)です。ガンス博士によると、出来るだけ若いうちに皮膚の細胞を採っておくと病気の時に役に立つのだそうです。

 フィリピンの彼女は、心臓の細胞がほとんど若返って、治療が最も成功した1人なのだそうです。彼女によると、細胞の機能を知れば知るほど、人間の体の神秘は私たちに天主が真にましまし給うとこと教えている、とのことです。フィリピンには10月からこのやり方による治療法がマカティ・メディカル・センターという病院で開始されるそうです。

 人間の知識が深まれば深まるほど、人知を遙かに超える生命の複雑さに、その創造主に思いをはせざるを得ません。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


健康と人体と生命についてあれこれ(1)

2011年09月01日 | 私たちが今ここで生きている宇宙
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 いかがお過ごしでしょうか?
 主日には、東京では35名(以上)の愛する兄弟姉妹の皆様が聖伝のミサに与るお恵みを得ました。月曜日には7名の方々が聖伝のミサに与りました。

 何か私ごとで失礼します。今年の5月には入院したりしましたら、いろいろな人々が心配をして下さいました。自分自身も、入院したり、老眼になりつつあることが自覚されたり、健康に留意しなければならないことを思い知らされています。

 ところで、最近、ギリシャ語・ラテン語の語源に興味があり「骨単 --語源から覚える単語集シリーズ--」という本を見ましたが、人間の体は本当に精巧に出来ており、知れば知るほどヒトという生物のデザインはものすごいと思います。

 ところで、6月30日、クリスチャンアカデミー(東京都東久留米市)にて開催された第66回コーヒーアワーにて、心臓外科医の今中和人(いまなか・かずひと)博士が「心臓外科医が語る驚異の人体」と題して講演を行ったそうです。

 今中氏は講演において、現在もなお日本の義務教育下で「進化論」が正しいかのように教えられていることに深い遺憾の意を表し、キリスト者である私たちは「進化論」が完全に誤った考え方であり、全知全能の天主が私たちのすべてを初めから創造されたお方であることを堂々と宣べ伝えていかなければならないと強調した、とのことです。

 今中氏は心臓外科医となり、心臓をはじめ人間の内部の多くの驚くべき仕組みに触れるなかで、人体は徐々に進化して形成されていったのではなく、初めからほぼ完全な機能を備えて創造されたと確信するに至ったことを講演で証ししました。

 特に心臓については「心臓が送りだす血液量は一分間で5リットル、1日に換算するとペットボトル1万5千本もの血液を送り出している。心臓には軽いのに凄まじいパワーの心筋、非常に薄いが高い強度と精緻な機構を持つ弁、収縮シグナルを電光石火に伝えるが一部で絶妙に遅れ、バックアップ機能まで備わった刺激伝導系がある。似ても似つかないこれらの組織は、もとは1つの細胞から形成され、全く別な臓器や組織とのネットワークを構築されて生まれてくる。しかも個々に極めて完成度が高い一方、個別に完成しても全く心臓は機能を果たせないので、段階的な進化ではなく、最初からすべて備わっていたと思われる。そんな可能性は、創造主がおられるという以外には考えられない。」

 他の器官についても、筋肉というものはよく考えられてついており、曲がるけど伸びない関節はないことなど、身体器官の驚くべき仕組みを説明した。そして、なぜ肺が酸素を取り込めるのか、脳が記憶できるのか、感情はどこから来るのか、皮膚が熱いとなぜわかるのか、なぜ免疫が外敵を撃退できるのか、なぜ腎臓は不要物のみを排せつできるのか、私たちはメカニズムを理解するとわかった気になるが、それらの機能を獲得した経緯を全く知らないことや、出来過ぎた機能を無数に持っていることに気付くべきだ、と述べています。

 人体の形成をもし進化論に即して考えるとすれば、「ブドウ糖は20もの化学反応の連鎖で代謝されるが、段階的に代謝酵素を獲得したのなら、獲得前の生物は生存できなかったであろう。20種類ものアミノ酸を代謝する能力を段階的に獲得してきたのなら、片っぱしから乳児期に死亡する時代や、全員重度知的障害者だった時代などが生じてしまい、あり得ない結論に至る」。同氏によると、観察すればするほど「人体の機能は最初から全部できなければならないことばかりで、段階的に進化してきたとは考えられない。

 人体の各器官の働きやネットワークを観察すればするほど、「どの一か所として自分のために存在している器官はなく、全体に貢献するために素晴らしい機能を果たしている。それは「互いに愛し合いなさい(ヨハネ15・12)、いっさいの物を共有にし・・(使徒行伝2・44)、互いの重荷を負い合いなさい(ガラテヤ6・2)、見よ。それは非常に良かった(創世記1・31)、あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、自分のからだをもって、神の栄光を表しなさい(Ⅰコリント6・19-20)」という聖書の御言葉が正に真実なものであることが痛感させられることを証しし、「パリサイ人は外に徴を求めたが、私たちの体内を見れば、自らの内に神が創造された創造物であるという徴を見出すことができます」、「私達を愛して下さる造り主は、私達の状況を気にかけておられ、私達の人生は意味も目的もある。(悲惨な出来事など)疑いたくなる現実は山のようにあるが、わたしたちの存在こそが聖書どおりの愛なる神の証明である」と述べました。

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 ところで、地球上の生命は 20種類のアミノ酸の配列からできているのですが、「100個のアミノ酸からなる酵素を、完全にランダムな選択の過程によって作る」その確率について、地球の成り立ち(1) - 生命の確率というおもしろい記事がありました。

 生物のからだを作るのに使われるアミノ酸は20種類だそうで、その中で、特定の機能を持つ酵素を作るためのアミノ酸の配列はすべて決まっているのだそうです。酵素とは、生命を構成する上での、基本の基本で、おにぎりで言えばお米です。

 つまり、100のうち最初の1つのアミノ酸は20種類の中からひとつ選ばれます。「20分の1」の確率から正しく選ばれなければならないわけです。ふたつめも20分の1。みっつめも20分の1・・・と、100個まですべて20分の1の確率を最後まで正しく選んで構成していかなかいと、機能するための「生き物の素」というのはできないのだそうです。これは、パチンコで言うと、「大当たり確率20分の1のパチンコ100台を打って、全部1回転目に当たる」という感じです(お、なんかわかりやすいかも)。

その確率。10の130乗分の 1

 この「10の130乗分の1」の確率を乗り越えても、まだやっと「ほんの小さな酵素がひとつできただけ」なのです。

 そして、上の果てしない確率をくぐり抜けたとして、たとえば、小さな単細胞生物ひとつができるためにこれがどれだけ必要かというと、大体「2000個以上の酵素から生き物は構成されている」らしいのです。そして、自然発生説では、これらがすべて「偶然に起きた」としているわけです。

その確率。
最初に出た数字の「10の130乗分の1」からみると、

10の130乗分の1 × 2000

から見ると、すなわち、

10の260000乗分の1

ということになります。

 ここから生命には他に様々なものが必要だと思われます。つまり、自然発生と自然の生物の化学進化というのは、「大当たり確率20分の1のパチンコ100兆台を打つことを100兆回繰り返して、全部1回転目に当たる」というような(もうここまで来ると数字は適当)話で、ここで、ふと

・・・?

と思ってしまうのです。この「超天文学的数字の確率」というのは、いくら何でもおとぎ話にもならないレベルの話なのではないだろうかと・・・。世界の科学者や生物学者の人たちは本当にこの「地球では無機物から有機物が偶然生まれたということを心底信じているのだろうか?こここに何か疑問は感じられないのだろうか??と。

 「10の26000乗分の1」を何度も繰り返さなければならないような確率で生命が無機物から発生し、またそれを乗算するような確率で生物が進化してきたということは「ありえない」としか思えないのです。

 私たちもそろそろ上の夢から、すなわち無機物から生命が自然とできたというような夢から「人類全員で」覚めてもいいような気もします。無機物から生命が自然とできたという可能性は一切ないと思います。

 さらに上の「 10の26000乗分の1」を表示してみようかなとおもった次第です。ちなみに、これはあくまで非常に単純な構造の小さな生物が一個できる確率」だということを繰り返し書いておきます。また、当然ながら、「人為的に無機物から構成されるのではなく、ランダムにできる」ということです。下の「数字分の1」が無機物から単細胞生物のような生き物ができる確率です。

「数字分の1」が無機物から単細胞生物のような生き物ができる確率です


分の1。

私たちもそろそろ上の夢から、すなわち無機物から生命が自然とできたというような夢から「人類全員で」覚めてもいいような気もします。無機物から生命が自然とできたという可能性は一切ないと思います。


ローズ・フーさんの「楽在苦中」 第3章 宝物を見つける

2011年09月01日 | カトリック・ニュースなど
第3章 宝物を見つける

 チェスをする時、チェスの駒を移動するたびにそれはゲーム全体に影響を及ぼし、勝ったり負けたりします。私たちの人生もそのようなものです。天主様は常に私たち見守って下さいます。私たちの日常生活では、何も偶然から生ずることはありません。天主様の摂理は私たちを完全にします。ただ一つ必要なのは、私たち人間は天主様に協力しなければならないということです。

 中国の共産主義者が中国を支配しようとしていた時、私が学んだ学校は真実を知るための手段を提供しました。空はとても暗く、嵐が近づいているようでした。カトリック教会は非常に深刻な迫害に直面しなければなりませんでした。当時、海外から上海に来ている何人かの神父様がいました。ヨセフ沈士賢神父様、マタイ陳哲敏神父様、そしてエダン・マグラス神父様です。

 沈神父様は彼等の中では最年少で、僅か33歳でした。彼は自分の招命に従って、18歳で家を出ました。それから彼は、アイルランド、イギリス、そしてイタリアの神学校で学びました。遂に彼は神学、哲学、政治学と3つの博士号を取得しました。彼は深遠で幅広い知識だけでなく、優れた知性をも持っていました。若かったにもかかわらず、彼は世界中で有名でした。私が最も驚いたのは、彼がローマの世界的に有名な大学から教授として迎えようという誘いを辞退したということでした。彼は中国に戻ることを決断したのです。私が初めて彼を見たとき、私はまだカトリック教徒ではありませんでした。私は、彼のユーモアのセンスと感じの良い人柄を好みました。私たちはよく神父様に、私たちが関心の無かった公教要理についてはあまり話さないようにと頼んだものでした。私たちはハリウッド映画や旅行が好きだったのです。

 神父様は私たちを導くのに特別な方法を持っていました。私たちが映画が好きであるのを知っていたので、私たちの学校のために映画「ベルナデッタの歌」を借りて、それを二度見たいかどうか聞きました。そして、誰かに映画をもう一度見せるように頼みました。神父様は時々ケーキ屋で私たちに御馳走しました。私は常に、最も高価なケーキかアイスクリームを注文しました。私は故意にそうして、「何につけても、私は最高のものが好きです」と言いました。神父様は、「日常生活の中で最高の物を選択するのは良いことです。後にあなたが聖書を読んだら、確実にマグダラのマリアを模倣するでしょう。常に天主様を喜ばせるために、最善の方法を選択するように」と躊躇することなく答えました。何と沈神父様は賢明だったのでしょう。彼は天主様に私たちを導くために、あらゆる方法を用いました。私は自分の生涯で、彼の言葉を心に留めています。

 一度、私は物理学のテストで高得点を取れずにとても落ち込み、自分の点が何人かのクラスメートよりも低いのは恥ずかしいと考えました。沈神父様は、私が何らかのことでうれしくなかったことを察し、私と個人的な会話をしました。私は正直に、自分の目標は最高点を取ることで、そうでなければテストで零点を取ったのも同然だと彼に言いました。否定的な言葉を使わずに肯定的な方法で私を導いた神父様は、実に心理学者でした。彼は、「私たちの主は、熱くなく冷たくも無い人は好きではありません。あなたは非常に強い性格を持っています。自分自身を制御することができるのは、あなただけです。いつかあなたは、とりわけ迫害の間には、ひとかどの人物になれるでしょう。私たちは信仰に於いて強くなければなりません。幼きイエズスの聖テレジアは、生涯で多くのことを為さなかったかのように見えますが、彼女は毎日100%の愛で天主様を愛しました」。私はこれらの言葉の奥義があまりよく分かりませんでしたが、この心の柔和な神父様により確信を得ました。その時点で、私はカトリックになることを希望したのです。

 1948年のある日の午後、私は要理の教室に入ろうとした時、沈神父様は、すでに教義に関する授業を始めていました。黒板にいくつかの言葉があり、「私たち一人一人には、天上の母親がいます」という言葉は私を魅了したので、すぐに席を探して腰を下ろしました。神父様は続けて言いました。「私たちにより明確に祝福された私たちの御母を知らしめるために、天主様は一人一人に地上の母親をお与えになりました。子供に対する母親の愛は、常に純粋で真実で、無私なものです。私たちのカトリック教会には、非常に優れた母親である童貞聖母マリア様がおられます」。それから神父様は、危険な時に聖母が彼を保護した方法を示すために、私達に彼自身の物語を話しました。一度、彼はイタリアからアイルランドへの飛行機に乗りました。天候はひどいものでした。視界は非常に悪く、最終的に飛行機は事故に遭いました。神父様は、幼子イエズスの聖テレジアの聖遺物を身に着け、しっかりと彼のロザリオを握りしめていました。神父様はとても熱心に聖母に祈りました。実際、彼は母親が彼が司祭に叙階されて中国に戻ってくることを期待した以外には、その瞬間に亡くなったとしても、後悔することは何もないと思っていました。飛行機は海に落ち、多くは亡くなったり、負傷したりしましたが、奇跡的に神父様は無事でした。

 その日以来、私は聖母マリアへの祈りを始めました。約一ヶ月後、私はカトリックの教えを受け入れて真実を守ろうと決心しました。

 1948年の終わりに、共産党の軍隊は揚子江を渡ることを計画していました。南京と上海は、彼らの次の目標でした。私は、間も無く重大な試練が来ることを知っていました。カトリック教会と共産主義の間には決して妥協というものはありません。沈神父様はどのような状況に陥るかをかなりよく知っていましたが、穏やかさと確信を以て危機に臨みました。彼は私たちが20世紀にいることを指摘し続けました。私たちの敵が私たちを迫害する方法は、古代ローマのそれとは全く違ったものになります。コロシアムや十字架への磔はないでしょう。彼らは、信仰のためにすぐに死なせようとはしません。彼らは虚偽と真実の混ぜ合せや人を操つる戦術を用い、長時間惑わせます。彼らは飴と鞭を両手に持っています。彼らの戦術は、まるで有毒ガスのようです。人々は、最初は自分たちがガスに覆われていることに気が付きません。次第に彼らは目がくらむのを感じます。いったん、彼らは何が起こっているか気が付いても、もう遅すぎます。彼らに窓やドアを開く力はもはやありません。共産主義者が行う最悪な行為は、私たちを分裂させるために、私たちの教会の弱い人々に付け込むことです。不一致の種をまくために、人々が自分たちの間で互いに信用しないように仕向けます。私たちの敵は、通常は親切さを装い、甘い言葉を用いて、「私たちは、あなたの宗教を放棄することを強制しませんが、彼ら帝国主義者を憎まなければなりません。あなたは彼らを非難し、彼らの犯罪を暴露しなければなりません」等と語ります。信仰が弱い傾向にある人々は、それが原因となって他の人を裏切り、彼らが逮捕されるようにします。共産主義者は、これらの行為を「愛国愛教」であると美化しました。

 洗礼の前に、私が逮捕されたとしても、信仰のために苦しむために準備ができているかと沈神父様が非常に真剣に尋ねたことを、はっきりと覚えています。彼は尋ねました。「なぜ、あなたはこの重大な時期にカトリックになるのですか。あなたは災いを求めています。信仰のために血を流す準備ができていますか?」私は簡潔にしっかりと答えました。「私は天主様を知って以来、どんな状況の下でも否定しません。もし、信仰のために死ぬことがあるのならば、私はそれを厭わないでしょう。私たちのカトリック教会はなんと素晴らしいことでしょう! 神父様、あなたはビング・クロスビーの歌「ゴーイング・マイウェイ」をよく歌います。私はきっとあなたに従います」神父様は、さらにもう一つ、私が迫害者たちを許しますかと私に尋ねました。彼に対する私の答えは「いいえ」でした。私は異教徒の家庭に生まれました。私が小さい頃、誰かが意図的ではなくても私の本を台無しにした場合、お返しにその人の練習帳に落書きをしていました。今、教会は敵を愛するように私に求めます。私は勇気と不屈の精神を持っていませんでしたが、いつかは神父様自身が敵への愛を示した場合、私は必ず彼を模範にすると確信していました。

 1949年4月16日、9人のクラスメートと私たちは、中国上海の聖心修道院でヨセフ沈神父様により、洗礼を受けました。神父様は私たち一人一人に絹製の非常に神聖なカードを記念品として下さいました。白い帆が付いている小舟が描かれ、帆には赤い十字架がありました。神父様は、私たちが向う岸へ進んでいる聖ペトロの小舟の上に座っていると説明しました。どんなに風が強くとも、またはどんなに大雨が降ろうとも、私たちはこの小舟の上では安全です。

 1950年に神父様が心臓病のため、上海の病院に入院しました。妹と私は彼を訪問しに行きました。それは、私たちが彼を見た最後でした。彼の話から、天主様が非常に早く彼をお呼びになることを知っているのが窺えました。彼は中国での宣教活動で働くという美しい夢を持っていましたが、さらに殉教者として死ぬことを願っていました。最後に、彼はどんな状況の下にあっても、いつも私たちのために祈ると約束されました。

 1953年に、私は香港の兄から手紙を受け取りました。それには、ジャン・ビヨーという名前のフランス人司祭が、神父様の殉教に関する記事を書いていたと記されていました。このようにして、私は沈神父様の死を知ったのです。

 ジャン・ビヨー神父様とは誰でしょう?彼は長年にわたり、中国は上海の孤児院で働いていたイエズス会士でした。彼は中国の共産主義者に逮捕されて約2年間投獄され、1953年に強制送還された最初の司祭でした。彼が香港の空港に到着したとき、彼はぼろを纏い、使い古した靴を片方しか履いていませんでした。入国管理官の一人は、彼が作成することのできなかった彼のビザを見せるよう彼に尋ねました。彼らは彼が香港に入ることを拒否しました。彼は自分が司祭であることを説明し続けました。遂に彼らは彼が香港のイエズス会の事務局に電話をかけることを許可しました。皆が驚いたことに、15分以内に多くの教会は大きな音で鐘を鳴らしました。これは、ビヨー神父様を歓迎する方法でした。すぐに何人かのイエズス会士は、ビヨー神父様に会いに、新しい服と靴を持参して、空港にやって来ました。

 神父様の記事によれば、彼が上海の刑務所の病院で病気だったとき、死の間際の司祭ヨセフ沈士賢神父様に会いました。彼に臨終の秘跡を施すために、沈神父様のベッドに努力して近づきました。彼は非常に穏やかで平安に満ちていました。彼の最後の言葉は、彼は誰も批判せず、誰かを傷つけるための何の情報も与えなかったということでした。彼は迫害者全員を許しました。それから彼は、十字架の印として両腕を開き、「私たちは6人です。皆、キリストの殉教者です」と言いました。(彼ら6人の司祭の中には、上海の天主教中央局で一緒に居住していたマタイ陳哲敏神父様と候之正神父様が含まれていました。彼らは全員逮捕され、全員が刑務所で亡くなりました。)

 沈神父様が言ったことは、本気でした。今度は私が彼を最高の模範とし、人生の最後の瞬間まで彼の足跡を辿る番です。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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