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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年11月23日(金) 殉教者教皇聖クレメンテ1世のミサ説教 「教会の頭である教皇様について」

2018年12月16日 | お説教・霊的講話
2018年11月23日(金)殉教者教皇聖クレメンテ1世のミサ
小野田神父説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年11月23日、聖クレメンテ教皇殉教者のミサをしています。

今日は日本の国民の祝日ですので、金曜日ですが朝ミサをする事ができて嬉しく思っています。お友達も朝早くから来て下さってとても嬉しいです。

御ミサが終わったら、いつものように感謝のお祈りをして、簡単にお食事をしてから、公教要理をしたいと思います。

このお話は、フランスのとても頭の良いビルコック神父様という方がなさったお話の中で、「プロテスタントの教えとは何か」そして「その結果、今社会がどうなっているか」という事についてお話をして下さっているのがあるのです。それを皆さんに、そのビデオの内容を皆さんにご紹介しようと思っています。どうぞいらして下さい。

明日も朝10時半からミサがあります。

それから来月は、11月30日と12月1日ですが、2回とも、アジア管区の新しい管区長様が日本に初めて来られてミサをして下さいます。是非いらして下さい。クリスマスにもミサがあります。



「お前はペトロである。私はこの岩の上に私の教会を建てよう。そして地獄の門も、これに打ち勝つ事はできないだろう。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は聖クレメンテ教皇殉教者のミサをしています。

⑴そこで、一体聖クレメンテという人が、いつ、どこで、どういう事をした教皇様なのか?という事を簡単に見て、

⑵そしてその次に、聖クレメンテ教皇様がなさった事の中で、一番大切なものの内の1つは、今でもその記録が残っているのですけれども、それで一体教皇様は何をなさったのか?という事を黙想して、

⑶そして最後に、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴聖クレメンテ教皇様というのは、聖ペトロから数えてその4代目の教皇様でした。聖ペトロの次には聖リノ殉教教皇様、聖リノ殉教教皇様の次には、聖クレトあるいはアナクレトあるいは略してクレト、その次が聖クレメンテです。

紀元後88年から97年の間教皇様で、ローマにいました。そして「聖クレメンテ」という名前は、ローマの典文ミサの典文、「典文」というのは、昔からのミサの中で変わる事がない一番の大切な所ですけれども、その中にその名前が載っています。「聖クレメンテ」と名前が載っています。

聖クレメンテのお父さんの名前はファウスティアーノと言いました。聖クレメンテはローマで生まれました。そして聖ペトロの愛弟子でした。聖パウロとも会った事があります。聖パウロは今日読んだ書簡の中で、フィリピ人への手紙の中で、「クレメンテ」という名前を出しています。これはローマ教皇となる聖クレメンテの事なのです。

教皇様となって、ローマを7つの地区に分けて、特にこの「殉教者たちの記録を残すように」として命じました。しかし1世紀の終わり、つまり97年に、トライヤヌスというローマ皇帝が、非常に残酷で、キリスト教を迫害しました。そこで教皇様は聖クレメンテは捕らえられて、砂漠に追放されます。

そして追放された所にいると、2000名ほどのやはり追放されたキリスト教徒がいるのに出会います。そして砂漠で強制労働をさせられていて、大理石を削ったり掘り出したりする仕事をしていました。砂漠だったので非常に暑くて、喉が渇いて皆苦しんでいました。私たちに伝えられたところによると、聖クレメンテがお祈りをしていると、お祈りをして、「どうかこの人たちを助けて下さい」と言うと、丘の上に子羊が立っているのが見えたのです。そしてその子羊の所に行って、足元、その立っていた所を掘ってみると、水が湧き出て、こんこんと湧き出て、そしてそれは今でもあるのだそうです。それで苦しんでいた、その喉が渇いていたキリスト教徒たちを、迫害された者たちを癒した、喉の渇きを癒したそうです。

余談ですけれども、お祈りというのはとても力があります。私も昨日、夜中にソウルから来たのですけれども、その時にちょっとした話を聞きました。あるお母さんは、双子の赤ちゃんがいたのですけれども、双子の赤ちゃんがお母さんのお腹の中で頭がくっついていたのだそうです。それで、子供が生まれると頭がくっついたまま生まれてくる、「どうしたらよいか。」非常に困って、お祈りしたのだそうです。お祈りをして、お祈りをして、お祈りをしたら、次に見たら、離れていた。

聖クレメンテも、お祈りをして、「助けて下さい。」そうしたら、水が湧き出たのです。イエズス様は私たちの祈りを聞いて下さいます。そうすると、それを見た、奇跡を見た未信者の人も、カトリックじゃなかった人たちも見て、「すごい、これは本物だ」と思って、そして多くの人がカトリックになりました。

それを見た皇帝が、「何だ!せっかく迫害してやったのに、却って結果として多くの人がキリスト教徒になった」という事で、ますます腹を立てました。そこで、この張本人であった聖クレメンテの首に錨をつけて、船に固定する重い鉄の塊をつけて、そして海に放り込んでしまったのです。

その時にキリスト教信者たちは、クレメンテの為にたくさんこの岸辺で浜辺でお祈りをしていました。そしてお祈りをして、お祈りをしていると、海の水が3000歩ほど引いてしまったのだそうです。そして「何だ?」という事で行ってみると、聖クレメンテの投げられた所に、大理石で、ちょうど教会のような形で建物が立っていた。そして中にはアーチがあって、そしてそこにクレメンテの遺体と、その横に聖クレメンテが付けられていた錨があって、そのまま横たわっていたのです。「海の底に一体誰がこんな物を造ったのか!?」という事で、ますます多くの人がこの大奇跡を見て、信仰を得てキリスト教徒になりました。

後にこの遺体は、教皇ニコラ一世の時にローマに運ばれて、聖クレメンテ教会という所に安置されました。

聖クレメンテは生きている間に、12月に叙階式を、司祭を作りました。その時に叙階式の時に、10名の司祭と2名の助祭と、そして色々な所に派遣される15名の司教様たちを特別に叙階したそうです、聖別したそうです。


⑵第2のポイントで、聖クレメンテのした仕事の中で、一番重要なものは何でしょうか?

これは、教皇様としてコリントの人々に手紙を書いたのが残っているのです。

聖イレネオというリヨンの司教様が、この方は202年まで生きていたリヨンの司教様だったのですけれども、「聖クレメンテは、ローマ教皇様として使徒たちと会った事があって、そしてその使徒たちのやっている事を見た、そして使徒たちの教えを直接耳で聞いて、目で見て、その通りにやっている、その伝えている教皇様だ」と証言をしています。

ですから、昔の教会の教えを伝える人の事を、「教父」、教える父と書いて教父という風に言うのですけれども、特に使徒たちと直接会って、使徒たちの話を聞いて、そのまま伝えたような教父の事を、「使徒的教父」と特別な名称で呼んでいます。「使徒たちからの教えをそのまま伝える教父」という意味です。自分で発明したとか、自分で考え出した、というのではないです。そのまま、イエズス様の教えた通りの事を、使徒たちが十二の使徒たちが、そしてその十二の使徒たちの話を直接聞いた人たちなのです。

やはり、チェザレオという所の司教であったエウゼビオという人が記録を残しています、「聖クレメンテは手紙を残している。この手紙は本物だ。確かに彼が書いて、コリントの人々に書いた手紙だ。」今でも残っています。

それはどのようなものかというと、おそらく西暦96年に書かれたもので、迫害の真っ只中の事でした。迫害の真っ只中で、キリスト教信者は非常に苦しんでいました。ですから聖クレメンテも、やりたいと思った事も自由にできませんでした。生き延びるので精一杯でした。しかし、ギリシャ語でコリント人へ手紙を書いています、「色々な苦しい事の為にすぐにできなかったけれども、私はコリントのお前たちに愛の手紙を送っている。」

その当時、コリントの人たちにはちょっと問題があったのです。そこで、聖ペトロ以来私たちの手元に残っている歴史的な記録として最初の物なのですけれども、一番古来の物ですけれども、ローマの教皇様が、世界の別の、ローマ以外の所の司教様に人々に指導をしているのです。これを見ると、「ローマの教皇様が、他の全世界に対してそういう力を持っている、権利を持っている」という事が、「使徒の時代からそうであった」という事が分かります。

何か地方で問題があると、その地方の司教様たちはすぐにローマに、「どうぞ教皇様、お願いですから解決して下さい」とお願いした証拠なのです。昔からつまりローマは、特別な優位の首位性、第一の力を持っていました。特別の権利を持っていて、特別の裁治権を持っていました。それは今でも続いています。

そしてどんな話をしたかというと、当時コリントでは信仰がだんだん弱くなっていたのです。信仰が弱くなると何が起こったかというと、コリントにいた神父様たちと信徒の間で戦いが起こったそうです、喧嘩が起こったそうです。一体どんな、詳しくどのような事かは私は調べていないのですけれども、信徒の人が神父様たちを教会から追い出してしまったとか、何かものすごい事が起こったそうです。

それでその事を、ローマの教皇様が、「それはおかしい」と言って、そしてもう一度、「使徒の時代から、イエズス様の時代から伝わった教えは何か」という事を確認します。つまり、「教会は組織立っていて、聖職者と平信徒がいて、そしてこれは愛の調和を持っている。そしてそのような秩序だった組織を持っているのが、イエズス様の御望みである」という事を、「それが昔からの使徒たちのこの教えである。私たちはだから、その信仰と共に、愛徳を持たなければならない。そして特に謙遜を持たなければならない」と諭しています。そして、「このような階級があるのは、戦う為にあるのではなくて、相互に助け合って、愛し合う為にあるのだ」と教えています。

これを見ると、昔から、使徒の時代から、つまりイエズス様の時代から、イエズス様の教えは、「御自分の教会を、組織立った位階制度のあるものとしてお作りになられた事がある。聖職者と、そして信徒の2つがある」という事が分かります。そして更に、「その聖職者と平信徒の一番トップは、ただ1つの頭であって、それが教皇様である。教皇様は全地上の、全ての事を裁く事ができる最高の力を持っている」という事が分かります。そして私たちも今、それと同じ信仰を持っています。

もしも私たちが、この今、聖伝のラテン語の昔からのミサをしている、なぜしているかというと、それは聖ピオ五世教皇様が、「このミサは、永遠に永久に有効なものであって、全ての司祭がこれを捧げなければならない義務があるし、これを捧げる権利がある。そして誰もこのミサを変えてはいけない。もしもそのような事があったら、聖ペトロとパウロの怒りがあるように」として、そのミサを列聖したからです。

もしも私たちが、「カトリック教会だけが、イエズス・キリストの本当の教会である」と言うとしたら、それは過去の教皇様たちがいつも同じ事を仰っていたからです。

もしも私たちが今、「御聖体の前で跪く、御聖体を礼拝する」としたら、それは過去の教皇様が、あるいは公会議が、「この御聖体は、イエズス・キリストの真の御体であって、私たちは礼拝しなければならない」と教えてきたからです。

もしも私たちが、「カトリック教会が唯一の救いの箱舟であって、もしもこの教会のメンバーに属さなければ、天国に行けない」としたら、それは過去の教皇様が何度も何度も、公会議が何度も何度も言ったからで、私たちが別にそれを発見したとか、別にそれを作り出すとか、私たちが固執しているとか、頑固にそれを主張しているのではないのです。ただ私たちは、教皇様たちがそう仰って、不可謬の教えを教えたので、それをそのまま信じて、もしも、イギリスの英国聖公会の司祭と言われている人たちが、「実はこの司祭の叙階は無効だ。だからこれは司祭ではなくて、ただの平信徒だ」と言われたとしたら、これは教皇様が、特に教皇様たちが、特にレオ十三世が、不可謬権を以てそう断言したからです。

もしも私たちが、「共産主義は間違っている。本質的に邪悪だ」としたら、それは教皇様たちがそう仰ったからです。特にピオ十一世教皇様がそう仰いました。

はい、私たちは教皇様に従順でなければなりません。教皇様の教えをそのまま素直に受け取らなければなりません。

そして私たち聖ピオ十世会は、本当に教会に忠実である為に、特に2000年間の過去の教皇様の不可謬の、「これは絶対変えてはいけない」という教えを、そのまま素直に受け取って、そのままにしています。イエズス様の教えのまま、そのまま来ています。

⑶今日、信仰の為に亡くなった、殉教した教皇聖クレメンテ1世の祝日で、私たちはもう一度カトリックの、キリストの代理者、地上における目に見えるキリストの代理者であって、そして唯一の最高の指導者である教皇様に対する信仰をますます強める事に致しましょう。イエズス様は仰いました、「この世の終わりまで、私はお前たちと共にいる。地獄の門もこれに打ち勝つ事はできない。」

そして私たちは、教皇様の為にたくさんお祈り致します。お祈りをしてきましたけれども、これからもお祈りします。教皇様がいつも、過去の聖伝の教えに忠実でありますように、使徒たちから伝えられた教えにいつも忠実でありますように、過去の教皇様が、「この教えを変えてはいけない」と言ったものをそのまま変える事なく、私たちにその信仰の遺産を伝えて下さいますように、私たちは特に今日お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2018年11月4日 聖霊降臨後第24主日のミサ説教 「主がたった一言で嵐を静められたことについて―教会の教え」

2018年12月15日 | お説教・霊的講話
2018年11月4日(主日)聖霊降臨後第24主日のミサ
小野田神父 説教


日本の聖なる殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年11月4日、聖霊降臨後第24主日のミサをしています。

今日は月の最初の主日ですので、いつものように御聖体降福式をしましょう。御ミサの後の感謝の祈りの後に致します。どうぞ皆さん与っていって下さい。

特に日本での平和、世界での平和の為にお祈り致しましょう。

今日は14時半から公教要理があります。フルトン・シーン司教様が話していた講話の中で、「第二次世界大戦というのは実は一体何だったのか」という事について、「なぜ起こったのか」という事を、フルトン・シーン司教様の分析をご紹介したいと思っています。16時から晩課があります。

次のミサですけれども、最終の主日にミサがあります。どうぞお間違いのないようになさって下さい。

それから12月はアジア管区長様が特別ゲストとしていらっしゃいます。12月1日の夕方にも土曜日にもミサがあり、2日の主日に、管区長様がミサと、そして御講話をして下さいます。


「何を恐れているのか、信仰の薄い者よ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は、今日のミサのテキストは、先週の聖霊降臨後第23主日の共通文の間に、御公現の後の第4主日の、今年読む事ができなかったテキストが入っています、挿入されています。それを使います。典礼暦年の終わりまでそうです。

⑴これをする事によって、教会は私たちに何を教えようとしているのかでしょうか?今日はこの特に、嵐を静めた、イエズス様がたった一言で、「黙れ」と言った事でシーンとなってしまった嵐、この話、この実話、歴史的な話から私たちに、教会は何をこの典礼暦年の終わりに教えようとしているのか?それを黙想します。

⑵そして実際にそれが私たちにどのように適用されるのか?

⑶私たちはではどうしたら良いのか?という事を黙想して、

⑷遷善の決心を立てる事に致しましょう。


⑴もしも、このイエズス様がきっと、関空でも絶対に、どんな事があっても関空だけは機能する、日本の最高の頭脳を以って技術を以って設計したものも、タンカーがぶつかったりとか、水が浸水したりして使う事ができなくなり、そして大阪でも、「え、まさか」と思ったのですけれども、主日のミサが行なわれる事ができない事もありました。

とても大きな嵐、台風の中に舟が、イエズス様と弟子たちを乗せている舟が、もう沈まんばかりに荒波に飲み込まれようとしています。「一体私たちはどうなってしまうのだろうか。海の深い深みに沈んでしまうのだろうか。イエズス様は、こんなにも荒れているにもかかわらずグーグー寝ている、大丈夫だろうか。」

イエズス様はその時に、弟子たちがどうも耐えきれずに、「主よ、起きて下さい。早くして下さい。私たちはこのまま沈んでしまいます。転覆してしまいます。」するとイエズス様は起き上がって、「何を恐れているのか、信仰の薄い者よ」と言って、いきなり立ち上がって起き上がって、海に嵐に命令するのです、「黙れ。」すると、あたかも何事もなかったかのように凪になって、平和がやって来る、という事です。

これは、聖霊降臨後の最終の主日の中に埋め込まれる事によって、「この小さな聖ペトロの舟は、教会の事だ。教会の歴史の事を表している」と解釈させようとします。教会は、嵐のような地獄の迫害、地獄の手によって荒波に揉まれているのですけれども、しかし世の終わりに近付くと、イエズス様は裁き主としてというよりは、教会を救う者として、捕虜から救い出す者として、起き上がって、この世の中を平定する、たった一言で平和をもたらす、という事を意味しています。

⑵第2に、ではこれは私たちにとってどんな意味があるのでしょうか?

典礼学者によると、「確かに、これは教会の歴史をも表しているけれども、私たちの日常の生活も表している。実はこの舟に乗っているのは、イエズス様と一緒に乗っている私たち自身だ。私たちも一週間、イエズス様と一緒に舟に乗っている。イエズス様はあたかも私たちに見えないかのように、眠っているかのように、何もしていないかのように見える。でも本当はイエズス様は私たちのすぐ隣にいらっしゃる、全能の天主として隣にいらっしゃる。」

舟は、私たちの舟は、朝起きてから夜まで、あるいは主日から土曜まで、どこかでハロウィンがあった、あるいはどこかで先生に怒られた、あるいは嫌がらせをされた、誰かが割り込んできた、スピード違反で誰かが暴走運転をしてきた、あんな事があった、あるいはカトリックだからといって嫌がらせをされた、あるいは悪いインターネットを見る危険があった、舟は、私たちの舟は、荒波に揉まれて一週間すごして来た。

しかし今日、主日、イエズス様の復活を、御受難と復活を記念するこの主日にイエズス様は、私たちがイエズス様に近付いて、「イエズス様、主よ、私たちは何か沈んでしまいそうです。罪を犯してしまいそうです。平静を失ってしまいそうです」と言う時に、「何を恐れているのか。心配するな、私がここにいる。全能の力で私たちの周りの事を平定させる」という事を。

そしてまた私たちの人生の終わりにも、私たちが呼びかければ、イエズス様にお願いすれば、イエズス様は起き上がって、「心配するな。私がいる」と言って、この世の中を平和を下さる、その力をお持ちになっている、そしてイエズス様は「この平和になる、凪になる」というのはつまり、「私たちを、真の幸せ、天国に必ず連れて行く事ができる」という事です。

⑶第3には、確かに私たちは諸聖人の大祝日の後に、多くの聖人たちが天国で今平和を、イエズス様とマリア様と、使徒たち天使たちと共に、殉教者、証聖者たちと共に祝っているのを黙想します。そして確かに、イエズス様は私たちにこの本当の平和を与えようとして下さる事を知っています。私たちの人生の目的はこの地上ではない、という事を知っています。

この地上では、本当の短い期間で、私たちは永遠の楽しみに、永遠の幸せに、私たちの創造の目的に生まれてきたその目的に到達しなければなりません。イエズス様はそれを私たちに与える事ができます。私たちにとってイエズス様は、裁判官とよりは審判者というよりは、救い主として、今日現れます。「何を恐れているのか、心配するな。ひとつも心配する事はない。私にはお前に平和を与える事ができる。平和を与える事ができる。ここに、私がここにいる。心配するな」と呼びかけています。

迫害時代、明治政府がまだ、禁教令の立て札を取り外してそれでもまだ偏見が残って、そしてキリシタンが嫌がらせや村八分や意地悪をされていた時に、長崎の司教様たちは五島や色々な所に回って、「頑張れ、心配するな。イエズス様は今寝ているように見えているけれども、起き上がって私たちに平和を下さる。そして私たちのこの信仰のその尊さが、日本中で世界中で賞賛される日が来る」と言って励まして、そして「先祖から伝えられた、聖フランシスコ・ザヴェリオから伝えられた、7代8代に渡って伝えられた信仰、この信仰の遺産を守り抜くように」と励まして回りました。「将来、必ずこの信仰は勝利する。」

実際、カトリック信者である麻生首相の時に、日本で、日本の108名の殉教者が列福されて、その事を全部NHKが放映しました。100年前では考えられない事が起こりました。日本のその殉教は、その迫害のその精神性の高さが、「これこそ日本の宝だ」と文部省が推薦して、長崎の教会群は世界遺産に登録されています。これを聞いた時に、長崎の信者さんたちは感動して、涙が止まらなかったそうです、「先祖が守ってきた信仰のその価値が、その精神性の高さが、このイエズス・キリストに対するその愛が、全世界によって認められた」と。

その日は必ず来ます。たとえ私たちの周りが悪魔の仮装行列をしたとしても、カトリックの結婚に反対するような事を言う人たちがたくさんいたとしても、信仰に反するような事が法律となったとしても、しかしそれは長く続きません。ゼン枢機卿様も最近のインタビューで言いました、「共産主義は、永遠ではない。」

反キリストの勢力は永遠ではありません。必ず、イエズス・キリスト様は立ち上がって、私たちに平和と真理の勝利を与えます。必ず、私たちがそれを信じようと信じまいと、イエズス様が今いないかのように見えていても、その日は必ず来ます。聖伝のミサも、大勝利をする日が来ます。御聖体への信仰が勝利をする日が来ます。「マリア様への信心が正しかった」と全世界が認める日が必ず来ます。

今日、この世の終わりを準備する為のこの福音ですけれども、私たちに非常に強いメッセージを送っています、「私たちは、たとえイエズス様が今いらっしゃらないかのように見えても、荒波に揉まれているかのように見えても、何も心配する事はない。イエズス様にただ信頼すれば良い。」

「イエズス様、助けて下さい。イエズス様、私たちは荒波に飲まれそうです。イエズス様、お傍にいらっしゃるのは知っています。イエズス様、どうぞ憐れんで下さい。」

イエズス様は私たちの声をちゃんと聞いています。教会は何度も私たちに歌わせました。デ・プロフンデス、「私たちをこの深い闇の中から…」

⑷では、私たちは今日どのような決心をしたら良いでしょうか?

第1に、「イエズス様が私たちの創り主、全能の天主、創造主、救い主、私たちを愛する方がすぐ傍に必ずいて下さる。たとえ目に見えなくても、その動きが見えなくても、いらっしゃる」という事を確信なさって下さい。そしてその全能の憐れみ深い愛と御恵みに、信頼なさって下さい。

そして、是非イエズス様に、絶え間なく、「イエズス様、憐れんで下さい。イエズス様、助けて下さい」と呼び続けて下さい。私たちのこの叫びを、愛の祈りを、決してイエズス様は無視する事はありません。

この御恵みをマリア様にお祈りしましょう。典礼暦年の終わりにおいて、私たちが遂には、諸聖人と共に、永遠の喜びに、平安に、凪に入る事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

無原罪の聖母の騎士全員への指導司祭の手紙【第12号】―2019年のモットーFather Director's Letter No 12 to all Knights of the Immaculata

2018年12月14日 | M.I.(無原罪の聖...
親愛なる無原罪の聖母の騎士の皆さん!

喜びと感謝をもって、私は皆さんにお知らせしたいと思います。私たちの新しい総長は、無原罪の聖母の騎士会(MI)の国際本部をワルシャワに設立することをお許しになり、祝福してくださいました。総長はまた、「MIハンドブック」の推薦の言葉を書いてくださいました。この本は英語、フランス語、スペイン語版がすでに出版されていますが、もうすぐドイツ語版も入手できるようになります。この本はMIが取り組むことすべての要約であり、とりわけ、MIの本質と正当性、有益性、今日性について述べています。特別な章も一つあって、MIと他のマリア運動の関係を説明しています。なぜなら、それらの運動によって誤解と不信が繰り返し発生するからです。恐らく最も重要な章は、MIの具体的な在り方、すなわちMIへの入会および特に騎士の堅忍を取り扱っています。何かを始めるのはいつも簡単ですが、何かを継続させ保持するのは極めて困難です。あらゆる団体が持ちこたえていくか駄目になってしまうかは、いかにしてメンバーがいつも注意を払っているようにしているか、いかにしてメンバーに最初の熱意を維持させているか、あるいはその熱意をさらに深めさせているか、という問題にかかっているのです。このことは、すべてのカトリック信者にとって、特にすべての騎士にとって、確かに大きな問題です。自分が、いかにすれば、忠実にとどまることができ、またそれ以上に忠実になることができるのでしょうか?

第一の答えは外部から来ます。騎士たちに霊魂の戦いのための武器や弾薬を常に供給し、無原罪の聖母の御手にある、さらにより良い道具となるよう、騎士たちをさまざまな方法で激励することは、MI指導部の責任です。MIの全構造は、使徒的な素材を生み出して、それを適切な使用説明書と一緒に、騎士たちに渡すように設計されてきています。それゆえに、定期的な雑誌や手紙、リーフレット、MIコーナーなどがあるのです。

もう一つの答えは、騎士自身の内部から来なくてはなりません。騎士自身がMI指導部のこれらすべての努力を無視するとしたら、その努力はいったい何になるというのでしょうか。もし騎士が自分に差し出されたものを手に取らず、それを考慮するのを怠ったとしたらどうでしょうか? そうすれば、私たちは、自分が一日に少なくとも一回は無原罪の聖母のために、霊魂の救いのために何かをするという約束に不忠実となってしまった眠れる騎士の一人、名前だけの騎士の一人であるということに突然気づいてしまっても驚くには当たりません。

それゆえに、私たちは自分が忠実にして寛大であるよう祈るだけでなく、奉献の祈りの中に非常にうまく要約されている騎士というものの本質を観想し続けることも、いかに重要でしょうか。

このことを、もう少しよく理解してみるようにしましょう。
すべての恩寵の仲介者であるマリアがMIの土台です。すべての恩寵の仲介者というのは、主によって、その御苦しみと十字架上の死を通して獲得された回心と聖化というすべての恩寵がマリアに委託された、というマリアの特権に関する教えです。それは、マリアがその恩寵を「マリアがお望みのときに、マリアがお望みの人に、マリアがお望みの方法で、マリアがお望みの分量を」(聖ベルナルド)善意の人々に分配できるようにするためでした。この恩寵の仲介は、二つの方向に働きます。まず、恩寵はイエズスの聖心から流れ出て無原罪の聖母の御手を通してやって来ます。天主の光と恩寵が私たちに触れ、私たちを回心させ、聖化します。私たちは、この天主の創造の、かつ贖いのわざにお応えしなければなりません。私たちの全存在は天主に帰るためにあります。さて、私たちが天主に帰るには、天主がマリアを通して私たちのところにやって来られたのと同じように、マリアを通して、でなければなりません。このことは、キリスト教の古い時代から有名な格言で表現されてきました。「マリアを通してイエズスへ」です。ファチマの聖母も、このことを次の分かりやすい言葉によって確認なさいました。「私の汚れなき心はあなたたちの避難所であり、あなたたちを天主へと導く道になるでしょう」。

天主は人間に強制なさるのではなく、むしろ私たちに天主の救いのみわざへの自由な同意をお求めになります。それゆえに、私たちがこのことを明確に求め、私たち自身の意志によって、意識的で決定的な「はい」によって私たちが聖母を受け入れる条件でのみ、聖母は仲介者としてのご自分の任務を私たちにおいて実現させることがおできになるのです。仲介者である聖母は、私たちが自分自身を明け渡すという行い、すなわち自分自身の奉献によって自分自身を聖母に捧げるならば、それに応じて私たちの内に聖母のあらゆる愛の活動を広めてくださることでしょう。

私たちの奉献において聖母に捧げるものを、もっと正確に特定しましょう。私たちはこれまで、霊的生活においては二つの偉大なる現実があることを見てきました。それは、私たちの天主との関係および私たちの隣人との関係です。これは結果として、二つの異なる奉献となり、それらは互いに補いあうものです。

a)まず、私たちは、マリアが私たちの母にして女主人となるように、また私たちがマリアの子どもにして奴隷となるように、自分をマリアに捧げます。これは重要かつ土台となる奉献の行為ですが、基本的には、このことはすでに私たちのマリアへの完全な明け渡しを表してはいるものの、具体的には、私たち自身の聖化や、マリアを通して私たち自身が天主へ帰ることに限定されています。これは、御摂理が聖ルイ・マリア・グリニョン・ド・モンフォールに霊感を与えることによって、「聖母マリアへのまことの信心」の中で驚くほど素晴らしく私たちに示すことを望まれた、マリアへの完全な信心の説明です。

b)次に、マリアが私たちのこの世でのいのちをご自分の御手にお取りになるように、すなわち、私たちが成し遂げなければならない務めをお取りになるように、自分自身をマリアにお捧げします。マリアは今や、私たちのすべての行いと他人との関係についての主要な原因(もちろん、常に天主の下位ですが)となられ、私たちを「マリアの汚れなき御手の道具」とみなされることになります。聖マキシミリアノ・コルベの奉献の祈りは、聖グリニョン・ド・モンフォールの奉献の短い要約で始まります。しかし、中心となるものは、私たちがマリアに、私たちのすべての能力を所有し、それを通してマリアが霊魂における回心と聖化の奇蹟を行うことができるように願うことです。これによってマリアは、「ヘビの頭を踏み砕き」、「世界中のあらゆる異端に打ち勝つ」ことができるようになるのであり、こうして「主の聖心の支配」をもっともっと打ち立てることができるようになるのです。

ですから、これこそが、2019年の年間の決心として、私が皆さんに提案したいことなのです。つまり、私たち自身を聖母の道具として無原罪の聖母へ奉献することを、私たちの生活のあらゆる領域へもっともっと浸透させることであり、それによって、私たちが祈りによって聖母に捧げるものを、また毎日の生活においても実践に移すようにするためです。

このことは第一に、しばしば奉献の祈りを観想しながら祈ること、その祈りにある一つ一つの文と一つ一つの言葉を味わうことであり、これはいわば、可能な限り深くその祈りを理解するためなのです。「我らの愛深き母よ」、「天主は、あわれみの全秩序を御身に委ねることを望み給えり」、「道具」などの言葉の背後には、霊的世界全体が開かれます。今年の騎士への手紙は、とりわけこれらの霊的な深みへと私たちを導くはずです。

しかしその後、本当に重要で困難なものがやって来ます。それは、私たちの奉献を毎日の生活において実践することです。これには、ただ一つの基本的な態度を必要とします。寛大さです! もしいつも狭量でけちであるならば、もしいつも自分の利益だけにしか関心がないならば、その人は王たるキリストの呼びかけに従うことができず、天主を愛し天主のご意志を成就させようとするあらゆる願いは、つぼみのうちに摘み取られてしまうことでしょう。それゆえに、まず第一に、私たちはみな、毎日の生活において寛大であるようにしなければなりません。寛大に屈辱を受け入れ、寛大に他人の誤りや不完全さに耐え、寛大に不思議のメダイやちらしを配布し、寛大にロザリオを終わりまで祈り、寛大に汚れなき御宿りに何かを捧げるのです。小出しに何かを行うのではなく、寛大に行ってください。

私たちはみな、無原罪の聖母への私たちの奉献を表明するとき、幼子イエズスと御母の足元に騎士たちを置くことによって、この寛大さを求めて祈る必要があります。それは、聖なるクリスマスの輝く光が私たちみなを恩寵で満たし、その恩寵が私たちの騎士としての振る舞いを通して、あわれな罪びとの心に流れ込むようにするためです。

祝福とともに
カール・シュテーリン神父
2018年11月25日、ブカラマンガ(コロンビア)にて。


【英語原文】

Father Director’s Letter No. 12


Dear Knights of the Immaculata!

With joy and gratitude I would like to inform you that our new Superior General has allowed and blessed the establishment of the International Headquarters of the M.I. in Warsaw. He has also written a word of recommendation for the "M.I. Handbook", which has already been published in English, French and Spanish and will soon be available in German. It is a summary of all the concerns of the M.I.: above all, its essence and its justification, usefulness and topicality. A special chapter also explains the relationship of the M.I. to other Marian movements, as misunderstandings and mistrust repeatedly arise with them. Probably the most important section deals with the concrete existence of the M.I.: the enrolment into the M.I. and especially the perseverance of the Knights. It is always easy to start something, but extremely difficult to continue and preserve something. Every association stands or falls upon the question of how to keep its members on their toes and keep their first zeal or even deepen their initial zeal. This is surely also the big question for every Catholic and especially for every Knight: how can I remain faithful and become even more faithful?

The first answer comes from the outside: it is the responsibility of the M.I. direction to provide the Knights constantly with weapons and ammunition for the combat of souls, and to motivate them in various ways to become ever better instruments in the hands of the Immaculata. The whole structure of the M.I. has been designed to produce the apostolic materials and to hand them over to the Knights with an appropriate instruction manual: hence the regular magazines, letters, leaflets, the M.I. corners, etc.

Another answer must come from inside the Knight himself: what is the use of all these efforts if the Knight himself ignores them? If he does not take what is offered to him and neglects to consider it? Then we should not be surprised by the sudden realisation that he belongs to the sleeping knights, to the Knights in name only, who become unfaithful to their promise to do something for the Immaculata and for the salvation of souls at least once a day.

How important it is, therefore, that we pray for fidelity and generosity, but also that we keep contemplating the nature of the Knight, which is so ably summarized in the consecration prayer.

Let us try to understand this a little better:
Mary, the Mediatrix of all graces is the foundation of the M.I.: a privilege which teaches us that all the graces of conversion and sanctification earned by our Lord through his suffering and death on the cross are entrusted to Mary so that she can distribute them to people of good will "whenever she wants, to whomever she wants, howsoever she wants, as much as she wants" (St. Bernard). This mediation of graces takes place in two directions: first they flow down from the Sacred Heart of Jesus through the hands of the Immaculata. God's light and grace touches us, converts and sanctifies us. We have to respond to this creative and redeeming work of God: our whole existence consists in returning to God. Now, our return to God must take place in the same way in which God came to us, through Mary. This has been expressed since Christian antiquity by the famous axiom: "through Mary to Jesus". Even Our Lady in Fatima confirms this with the simple words: "My Immaculate Heart will be your refuge and the way that leads you to God".

God does not force man, but he wants our free consent to his salvific work on us. Therefore, Our Lady can realize her mission as Mediatrix in us only if we also want this clearly, if we accept her by an act of will, by a conscious and decisive "yes". The Mediatrix will unfold all her loving activity within us to the extent that we give ourselves to her through an act of surrender, the consecration of ourselves.

Let us specify more precisely what we give to Our Lady in our act of consecration. We have seen that in our spiritual life there are two great realities: our relationship with God and our relationship with our neighbour. This results in two different acts of consecration that complement each other:

a.) First we give ourselves to Mary so that she may become our mother and mistress and that we may become her children and slaves. This is the important and fundamental act of consecration, which basically already expresses our total surrender to Mary, but which is concretely limited to our own sanctification, our personal return to God through Mary. This is how Providence, by inspiring Saint Louis Maria Grignion de Montfort, wanted to explain total devotion to Mary which is wonderfully presented to us in the "Golden Book on True Devotion to Mary".

b.) Then we give ourselves to Mary so that she may take our lives in the world into her hands, namely the tasks that we have to fulfil. She should now be the main cause (always subordinated to God, of course) of all our actions and our relationship with others, and she should regard us as "instruments in her immaculate hands". The act of consecration of St. Maximilian Kolbe begins with a brief summary of the consecration of St. Grignion de Montfort. But the main thing is that we ask Mary to possess all our abilities in order to make them channels through which she can perform miracles of conversion and sanctification in souls. This enables her to "crush the head of the serpent", to "overcome all heresies all over the world" and thus to establish more and more "the dominion of the Sacred Heart of Our Lord".

And this is exactly what I would like to propose to you as the Yearly Resolution for 2019: that our consecration to the Immaculata - as her instruments - should penetrate more and more all areas of our lives, so that what we give her through prayer may also be put into practice in daily life.

This means, first of all, to pray, often contemplating the act of consecration, to savour every sentence, every word in it, so to speak, in order to grasp it as deeply as possible. Whole spiritual worlds are opened behind the words "Mary who loves us so much", "to whom God has entrusted the whole order of mercy", "instrument", etc. Our letters during this year should lead us above all into these spiritual depths.

But then comes the really important and difficult one: the implementation of our consecration in everyday life. This requires a single fundamental attitude: generosity! If one is usually petty and miserly, if one is constantly concerned only with one's own advantage, then one cannot follow the call of Christ the King, then every desire to love God and fulfil his will is nipped in the bud. Therefore, first of all, we must all try to be generous in our daily lives: generously accept a humiliation, generously endure the mistakes and imperfections of others, generously distribute the Miraculous Medal and flyers, generously pray the Rosary to its end, generously give something for the Immaculate Conception. Don't just do something sparingly, do it generously!

We all need to pray for this generosity in the manifestation of our consecration to the Immaculata, by laying all Knights at the feet of the Christ Child and His Mother, so that the bright light of Holy Christmas may fill all of us with graces, and that these may flow through our knighthood into the hearts of poor sinners.

With my blessing
Father Karl Stehlin
Bucaramanga, on the 25th of November 2018

2018年11月3日(初土) 御聖体降福式での 「喜びの玄義―第1玄義の黙想」

2018年12月12日 | お説教・霊的講話
喜びの玄義 第1玄義の黙想
(2018年11月3日(初土)御聖体降福式にて 小野田神父)


『喜びの玄義 第1玄義:この一連を捧げて、聖母が御告げを受け給いたるを黙想し、聖母の御取り次ぎによりて、謙遜の徳をこい願わん。』

御聖体の秘跡の内に真に在し給うイエズス様の聖心の御前で、15分間、ロザリオの玄義を黙想致しましょう。

特にこの黙想を、マリア様の汚れなき御心に対して犯される罪を償うために、御捧げ致しましょう。この黙想を通して、マリア様が私たちに回心の恵みと、御憐れみと、平和の恵みと、聖徳への高い、熱い情熱を下さいますように、多くの霊魂を救いたい、と思うイエズス様とマリア様の心に合わせて、私たちもこの黙想をお捧げ致しましょう。

今日は特に、マリア様が御告げを受け給いたる事を黙想致しましょう。

救いの約束の、永遠の昔から決められていた時は来ました。天主が、天主の御言葉が人となる時が来ました。

「初めに、御言葉があった。御言葉は天主と共にあった。御言葉は天主であった。
この御言葉は、この御言葉によって全ては創られ、創られなかったものは何もなかった。」

そしてこの御言葉は、私たちの為に、私たちの救いの為に、人となる事を御望みになりました。天主の本性と人間の本性が一つと合体する、この玄義の為に、天主は大天使聖ガブリエルを送りました。人類の代表者としてマリア様に、その同意を求める為でした。

もしもマリア様が、「嫌だ」と言えば、唯一の光は失われてしまいます。もうこれ以上チャンスはありません。マリア様だけが、唯一、選ばれた、無原罪の御宿りでした。永遠の昔から定められたその時、その日、その全てを定められていた方でした。

マリア様は、大天使聖ガブリエルの訪問を受けて、この言葉を聞きます、「めでたし、聖寵充ち満てる方よ、御挨拶し奉る。」

「一体、この挨拶は何の事だろうか」と驚いていると、「恐れるな、マリア。お前は身ごもって子を産む。その子をイエズスと名付けよ。なぜなら彼は、世を罪から救う者であるからだ。」

マリア様は1つ疑問に思いました、「私は男を知らないのですけれども、一体、どのようにしてそのような事が起こるのでしょうか?」

「聖霊が御身を覆い、お前から産まれる者は、『いと高き子』と言われる。」

大天使聖ガブリエルはマリア様に、童貞のうちにイエズス様が御胎内に御宿りになる事を説明します。

「その玉座には終わりがない。石女と言われたエリザベトも今、身を宿して6ヶ月目である。天主の御言葉に不可能な事はない。」

マリア様は答えます、「我は主の婢女なり。仰せの如く我になれかし。」

アダムとエヴァの時代から与えられた原福音、多くの預言者たちを通して預言されてきた、救い主の御到来のその時、その場所、そのやり方、「乙女が身ごもって子を産む。その子はエンマヌエルと呼ばれる。」

全て、マリア様において、成就致しました。マリア様は唯一望んだ事は、主の御旨を果たす事。主の救いの業に協力する事。その為に自分を無として、道具として御捧げする事でした。「主の婢女。仰せの如く我になれかし。」

マリア様のこのご謙遜と、従順と、主の御旨のみを望むその情熱によって、人類において最も偉大な業を行ないます。「イエズス・キリストと共に、贖いの業を達成する」という大事業です。

「幸せな方、主の御言葉の実現を信じた御方は。あなたは代々、幸せな者と呼ばれる事でしょう。」

私たちの人生の価値は、「イエズスの救いの業に協力するか、否か」にかかっています。まず私たち自身の霊魂を救う事。そして御恵みによって、できるだけ多くの霊魂たちの救いに協力する事。

その為に一番効果的なやり方は、マリア様の道具になる事です。

2018年11月3日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサ説教 「世の終わりとマリア様についての黙想」

2018年12月10日 | お説教・霊的講話
2018年11月3日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年11月3日、11月の初土曜のミサです。聖母の汚れなき御心の随意ミサをしています。

今日は初土曜ですから、いつものように初土曜日の信心をしましょう。ミサが終わった後には、聖体降福式があります。イエズス様の元で、マリア様のロザリオの黙想を致しましょう。今日はマリア様の御告げの神秘を、喜びの第1玄義を黙想する事を提案します。

11月は少し予定がイレギュラーなところがあります。次のミサは、11月11日の主日で夕方にありますけれども、2番目のミサは、最後の主日の前の金・土で、11月23日・24日です。ですから少し変則的になっているので気を付けて下さい。

11月30日と12月1日には、アジア管区長、新しい管区長様もいらっしゃいますので、その時も皆さん来て下さい。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は11月の初土曜日で、11月は死者の、死せる信者の霊魂、煉獄に居る霊魂たちの為にお祈りをする特別の月です。

それで教会はそれと同時に、典礼暦年の最終の主日を準備する為に、「世の終わりについて黙想するように」と励ましています。そこで私たちも、世の終わりについて、世の終わりとマリア様の関係について、黙想しましょう。

⑴世の終わりとマリア様はどのような関係があるのか?

⑵第2に、今は世の終わりに近付いているのかどうか?世の終わりのしるしは一体何なのだろうか?

⑶第3番目に、マリア様は私たちに一体、そのような時代に生きる私たちに一体どんな事をお望みなのか?という事を黙想して、

⑷最後に遷善の決心を立てましょう。


⑴では、世の終わりとマリア様にはどのような関係があるのでしょうか?

深い関係があります。なぜかというと、この世を創られた天主が人となって、イエズス様が、人となった天主の御言葉がこの世に来られた、その救いの始めは、マリア様を通してなされました。天主はマリア様を通してのみ、この世を救おう、贖おうと思いましたが、世の終わりは同じような事が起こります。

「世の終わりには、信仰が、信仰の火がますます小さくなって、この地上から消されようとしている、ほんの少数しか残らない、というその時に、もう一度、マリア様を通して、イエズス・キリスト様の大勝利が来る」という、それがカトリックの教えであるからです。

なぜかというと、ちょうど最初に、マリア様を通してイエズス様が来られたように、最後にも、マリア様を通してイエズス様が来臨されなければならないからです。これについては多くの聖人たちが同じ事を言っています。一番有名なのは、聖ルイ・マリア・グリニョン・ド・モンフォールという聖人です。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、「この世の終わりには、恐ろしい戦いがあるだろう。悪と善の戦いがあるだろう。そして最後には、マリア様を通して、マリア様の使徒たちが、マリア様の道具が、この世において勝利を収めるだろう。善が勝利を収めるだろう」と言っています。

日本にも来られたコルベ神父様も同じ事を言います、「この世の終わりには、マリア様を通してイエズス様が勝利する。」

ファチマでも同じ事を言います。ファチマではシスタールチアを通して、「この世に天主様は最後の手段を与えている。最後の手段というのは、普通の手段を使ってももうどうしてもそれができないので、必殺兵器を、もう最後の最終兵器を使って、もしもこれが駄目ならもう代わりがない、それがマリア様だ。」


⑵それでは、マリア様と世の終わりに非常に非常に深い関係がある、という事が分かった今、では、今の現代はどういう時代なのだろうか?という事を見ると、もちろんイエズス様は、「世の終わりがいつなのか、誰も、人の子さえも知らない」と言っています。ですから、私たちは一体いつなのか分かりませんけれども、しかしその「しるし」は見る事ができます。

そのしるしというのは、「イエズス様を信じる、という信仰がだんだん弱くなっている」というしるしです。そしてそのあまりにも信仰がこの世から失われるがあまり、人々はおかしな事を信じている、狂った事を、狂気を信じている、ますます信じている、という事にあります。

聖パウロは既に書簡の中でこう言っていました、「天主がこの全てを創った、という事は明らかである。この自然の秩序を見ると、天主によって創られたという事は明らかである。しかしそれを見ても信じない人がいる。そこで彼らの目は暗んだ。知性は暗んだ。だから彼らは、自然に反する罪を犯すようになる」と言って、口で言うにも恐ろしい罪の事を、聖パウロはローマ人の書簡の中で書いています。

聖書によると、「天に復讐を呼ぶ罪」というのが4つあります。もちろん罪を犯す事は悪い事で、罪を犯す事はそれなりの罪の償いを要求します。しかしこの4つの罪だけは、普通の罪とは違って、あまりにも重大で、あまりにも極悪で、道を外れていて酷いので、天主様がこのままその目をつぶって、彼らがそのままいるのをどうしても許す事はできない、という罪があるのです。普通の罪とは次元が違う特別の罪です。これは「天に復讐を呼ぶ罪」という事で聖書にあります。

1つは、「罪のない人を殺害する事」また、「貧しい人や弱い人を圧迫する事」あるいは、「正当な賃金を支払わない事」第4は、「自然に反する罪を犯す事」。

この「自然に反する罪を犯す」という事によって、ソドムとゴモラという町は、天から火が降って無くなってしまいました。考古学上、そのような所があった、という事は分かっています。しかし、滅んでしまいました。とても豊かな農産地でした。滅んでしまいました。

今、考古学上分かっている事もあります。ポンペイという町は、ヴェスヴィオ山という山の近くにありましたが、港町で、非常に堕落した町でした。今そこに行くと、昔は教会の人が研究していたのでそういう事はあまり言わなかったのですけれども、今では一般の学者が研究しているので、どのような発掘調査があったという事を全て公開しています。すると、そこに書かれている壁画や、あるいはその生活はあまりにも腐敗していて、淫らなものが町中にあって、そのようなお店があって、絵があって、口で言うにも恥ずかしいものがたくさんありました。それがあっという間に、火山によって埋もれてしまいました。

他にもあります。イタリアから海に沈んだ都市があります。とても豊かで、とてもお金持ちの人があって、そこに行くのはリゾートでしたが、記録に残っているのは、私たちに今口にするにも恥ずかしい事が行なわれていて、私たちが知っているのは、「それが海に沈んだ」という事です。

今、この世界はそのように、良い事が悪い事であって、「罪を犯してはいけない」という事が言う事が悪い事になってしまって、そして悪をする事が、例えば聖書で「してはいけない」、聖パウロが、「そのような事をする者は、天の国には入れない」という事をもしも言ったとすると、それは、「そのような事を言うのは、人を傷付ける」とか、あるいは「そのような事を言うのは、謝罪をしなければならない」とか、あるいは「聖パウロは今地獄にいる」とか、そのような事が主張されるような世界になっています。

もちろん真理を言うのは、ある人にとってそれに直面するのは難しいかもしれません。しかし、しかし人々は、真理を必要としています。そしてその福音の真理を知って、「今まで罪の生活をしていて、口にするにも恥ずかしい罪の生活をしていたけれども、その福音の言葉を聞いて回心した。立ち直った」という方がたくさんあります。そして、「そのような事を言ってくれる人に感謝する」という人がたくさんいます。

「罪」と「罪人」は違います。区別されなければなりません。罪人は、罪を犯してしまう人は、もちろん憐れみと、御恵みと、助けを必要とします。しかし、罪は罪であり続けます。

それらを見ると、その倒錯したような世界が今来つつあるのを見ると、そのようなものが合法化されようと、法律で認められようとすると、そして「それはいけない事だ」と言う事が罰せられるつつあるようになる世界が来つつあるという事を見ると、世の終わりも近くになっていたのかもしれない、と思うようになります。

このような動きは、あっという間に来たのではありませんでした。500年かかりました。最初は、マルチン・ルターから始まりました。マルチン・ルターは、「教会の権威はいらない」と言いました。そして聖書を以て、「聖書さえ読めば、自分で自由に解釈するべきだ。その為に、この自由の為に、キリスト者はいる。だから聖書だけで良いのだ。そして私たちは救われた、と信じればそれで良いのだ。何をしても、私たちはキリストの救いの業によって義と認められるので、」マルチン・ルターによれば、ですから、「私たちは善行をする事ができない。善行には価値がない。だからミサに与る事なども、秘跡なども、あるいは良い行いなどという事も全く無駄だ。修道生活も無駄だ。誓願を立てても無駄だ。ただ聖書を自由に解釈して、自分が救われている、という事を思えば良いのだ」と主張した事から始まりました。

こうしてマルチン・ルターは、客観的な世界を否定して、自分の頭だけの世界に閉じ込もってしまいました。難しい言葉で言うと、主観の世界の中に入ってしまいました。「自分の考えた通り、信じれば良いのだ。」ですから、「教えられる必要はない。外の現実の世界とは関係ない」と言い出したのです。つまりまとめて言うと、カトリック教会を否定してしまいました。

今度は、次の革命が来ました。それがフランス革命でした。教会のみならず、キリストを否定しようとしました。「王様はいらない。王様はキリストの代理者だから。そうではなくて、キリストの代わりに、人間の自由がなければならない。」そして人間の自由こそが、人間の理性が、あたかもキリストの場を奪ってしまいました。今まで王様がやろうとしていた事は、国民が徳のある道徳的な良い生活を行なう事ができるように、促進させる事でした。国民の間で平和が保たれて、そして良い善徳の生活、良い生活を、地上での生活を送り、そしてそれが天国へと繋がる事ができるように、教会を助ける事にありました。

ところが、人間の自由がキリストに変わった時に、一番大切なのは「自由」になりました。「だから、国家の政府の役割は、人間の自由を守る事だ。一番大切なのは、お金儲けだ。自由であればあるほど、お金を儲ける事ができる。」

ですから、「そのお金儲けに邪魔しないようにする事が、国家の務めだ」と言って、「ブルジョワの世界を作ろう」と思いました。ですから、お金持ちはもっとお金持ちになって、そして力のない貧しい人はますます搾取されて、奴隷のようになっていきました。王様が今まで、「良い、徳のある生活をしよう。愛徳で助け合おう」と言った世界を、ただお金の観点から世界を作り直そうとしたので、そのような差が広がってしまったのは当然の事でした。

フランス革命のモットーは、「自由・平等・博愛」でした。しかし自由は追求されたけれども、自由を追求すれば追求するほど、平等となる事はできません。元々、「自由・平等・博愛」というのも、カトリックから来た言葉使いでしたけれども、でも内容はカトリックのものではなくなってしまいました。

「自由」というのは、「私たちが罪から解放されて、天主の前で自由に善を行なう事ができるように、その自分の罪と悪から解放された」それが自由だったのです。しかし革命の後の、フランス革命のモットーは、“天主からの解放、天主からの自由”となってしまいました。

「平等」も、「天主の前では、男も女も、ギリシャ人もユダヤ人もない。同じく天国に行ける」という平等でした。しかしフランス革命の後では、“天主のない平等”。ですから、“全てが等しく奴隷のようになる”という事を意味しました。

カトリックでは「博愛」と訳されている「兄弟愛」は、「天主、天主聖父の前での兄弟愛」でした。しかし“天主のない兄弟愛”をフランス革命は押し付けようとしました。しかし日本人が天主のない兄弟愛を訳す時に、「聖父のいない兄弟愛などあるだろうか」と思って、それが「博愛」として、あるいは「友愛」として訳されました。

その後で人々は苦しみました。貧しい人が特に苦しみました。その為に、それらの救いの助ける為の道は、元のカトリックの教えに戻る事でした。しかし人々はそそのかされて、別の道を選びました。カトリック教会を否定して、キリストを否定した後に、今度は天主さえも否定しました。共産革命でした。ボルシェビキ革命、ロシア革命でした。

そして「平等を追求する為に、全ての今までの社会秩序を破壊してしまおう。ブルジョアの世界を破壊してしまおう」と訴えました。そしてそれがロシアで100年前に成功しました。残念ながら人は、間違った方向に解決を見出そうとして、そしてますます苦しみました。共産革命の後にソ連、あるいは多くの国々が共産主義の下に陥り、人々は奴隷そのものとなってしまいました。

その時に私たちは、「本当の救いは、この世を創った救い主、イエズス・キリストの元に立ち戻る事である」という事に気が付けば良かったのですけれども、人々は今、更に別の方向に行こうとしているかのようです。教会を否定し、キリストを否定して、天主を否定して、更には、今の目の前にある現実の世界さえも否定しようとしています。

善は悪であり、悪は善であり、男も女もなく、自分の思う通りの世界を作る事ができるかのように、夢の世界を作ろうとしています。そしてその為に家庭は崩壊され、今までの秩序、善悪との基準が全く逆転しようとしています。今、そのような世界が出来つつあるかのようです。


⑶ちょうど十字架の下で、イエズス様が受難を受けた時に、イエズス様は弟子にヨハネに、マリア様をお与えになりました。それと同じように、教会が今そのような社会の中に居て、教会も、キリストも、天主も、そして現実世界をも否定しようという世界の中に居ながら、私たちにマリア様の汚れなき御心を与えようとしています。

マリア様は天主へと至る道です。私たちの避難所です。私たちがいくら何と言っても人々は受け入れられないかもしれませんが、しかしマリア様の汚れなき御心で、マリア様の御助けによって、多くの傷を負った人々や、あるいは道を間違った人たちが癒される事ができます。夢から醒める事ができます。正気の現実の世界を素直に認める事ができるようになります。聖パウロの教えをそのまま、「その通りだ」と認める事ができるようになります。イエズス様の教えを認める事ができるようになります。


⑷では今日は、マリア様に特別にお祈り致しましょう。マリア様はトゥイという所で、イエズス様からの御恵みと憐れみを私たちに下さる方として現れました。マリア様が願わくは、悪魔を崇拝するようなハロウィンは受け入れるけれども、実はその元となった諸聖人については何か知らないこの世界に、その諸聖人を生んだイエズス様の教えに、マリア様の御取り次ぎに、目覚める事ができますように、特にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

2016年聖母小黙想会 霊的講話【5】 8月12日 シュテーリン神父様「まことの信心と誤った信心」

2018年12月09日 | お説教・霊的講話
2016年8月12日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【5】
同時通訳:小野田圭志神父


昨日の話のポイントは、「マリア様が、私たちの回心について、私たちの聖化について、特に終末において、特に私たちの危険な時において、どれほど大切であるか」という事を黙想した事です。

特に昨日最後で見た、聖グリニョン・ド・モンフォールが私たちに提示する、私たちの有るべき姿、アイデアが、理想像が、「私たちが、マリア様とイエズス様の使徒として皆呼ばれているその姿」について黙想しました。終末の時代に色んな所から攻撃を受ける時にあたって、私たちカトリック信者に何が要求されているか、という事を考えると、私たちはそれに圧倒されてしまいます。では、マリア様が私たちにお求めの、そのような聖徳にどうやったら到達する事ができるでしょうか?

はい、「右手には十字架像、左手にはロザリオ、そして胸の中にはイエズス様とマリア様の聖なる御名を刻んで、」それは分かります。そのような事をいつもする事ができたら何と嬉しい事でしょうか。でも、今の私たちを見ると、それと比べたらあまりにも距離があって、あまりにも遠くにあります。どうしたらそこに到着する事ができるでしょうか?私の心の中には弱さや、あるいは怠慢や、あるいは冷たい心があるのにも関わらず、どうやったら愛に燃える炎となる事ができるでしょうか?私たちの心はどうしたら天主にそれほど愛着して、それにぴったりとくっ付いている事ができるでしょうか?そして何もこの世の事に煩わされず、この世の事を心配せず、この世のものに気をかけない事ができるでしょうか?

私の事をずっと反省してみると、あまりにも多くの被造物に愛着を持ったり、執着を持ったりして、気にかけたりしているのではないでしょうか?私たちがちょっとした難しい事や、ちょっとした困難に出会うともう、もう心配で、「あぁ、もう、これでもうだめだ!」と思ってしまうのではないでしょうか?

今の私がどのようなものであるにしろ、マリア様が今ここで私に、「こうなってもらいたい」と望んでいる姿が、今この最後のパラグラフに書かれている事です。

私が起きた時に、「私は一体、誰だろう?」と自問します。私は起きた時に、「私は日本人で、トマス小野田という名前だ」と簡単に単純に答えるわけにはいきません。「私は一体、誰だろう?」起きて、この56から59番を読まなければなりません。皆さん今度から起きたらですね、「私は一体誰なのか?」と自問する時に、「私は56番から59番」と答えます。56から59、これを覚えて下さい。ですから、「一体、自分がどうあるべきか」という事を忘れてしまったら、この番号を探して読む事ができるからです。

このような理想像に到着する手段が、まことの信心です。これが、この理想像に到達する事ができる手段が、「マリア様を通してイエズス様に、私を、自分を完全に奉献する事」です。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、まことの信心を説明する為にまず、「間違った、誤りの、偽りの信心と言われるものが何か」という事を私たちに説明します。本当の道に行く為に、間違った道を遠ざけなければなりません。間違った道を離れて、間違った道を遠ざける為には、そのどこに、何が間違って、どんなところが間違っているか、という事を知らなければなりません。ですから聖グリニョン・ド・モンフォールはまず最初に、間違った信心を知らせて、これを避けるように教えます。

92番からこれを読んで黙想しましょう。92番から94番において、間違った、誤りの信心を示します。まず私の申し上げる事を聞いて、その後でお読みになって下さい。なぜかというと、私の言う事を聞かずに皆さんが今本を読む事に熱中してしまうと、私がいくら話しても聞いてくださらないようなので、それなら私はコーヒーを飲みに行きます。(^^;)

この「誤りの、嘘の信心」という事を示しながら、実はグリニョン・ド・モンフォールは、私たちが持っている、「信仰生活に関する誤った観念」を指摘します。

もちろん間違った宗教についての事を話しているのではなくて、もしもそうであれば、本当に嘘の信仰を持っている事になります。もちろん、間違った宗教は私たちに、悪魔的な雰囲気の中で生きさせるので、私たちを暗闇の中に、監獄に閉じ込めてしまうようなものです。残念ながらこの牢獄に、多くの何百万という霊魂が閉じ込められています。

グリニョン・ド・モンフォールはカトリック信者に、真理を知っている特権を持っている人々に今、語りかけています。でも間違ったこう捉え方をしてしまって、「私は真理を知っているので、全ては私においてOKだ。この全ては問題ない」という風に誤解してしまうからです。

聖人たちは、「私たちの祈り、あるいは信心、あるいは信仰生活が、私たちを死にもたらすような道徳に反する、あるいは何らかの誤りに汚染されていないかを吟味するべきだ」と言っています。信仰生活というのは、私たちの存在において最も大切な部分です。ほんのちょっとした誤りがあっても、私たちの信仰生活の土台が崩れてしまう危険があります。

40年から過去50年間、私たちの教会やチャペルに多くの方が来ましたけれども、残念ながら多くの人はそれから、来て、また離れてしまいました。私たちよりも、この惨めなこの私たちよりももっと立派な司祭や修道者の方も来ました。しかし私たちを離れて、どこかに消え去ってしまいました。あるいはセクト的な考えに陥ってしまったり、あるいは「自分だけが、生きる、この世界に残っている唯一のカトリックである」と誤解してしまったり、あるいは「自分たちが教皇を選ぶ権利がある」あるいは「司教を勝手に作るという考えがあれば、それを作っても良いのだ」と思い込んでしまったり。

これは、「あぁ、あんな悪い人たちが、おかしな人たちがいるな」と笑う為ではなくて、私たち自身がそのような誤りに陥らないように警戒する為です。彼らの問題はどこにあったのでしょうか?それは、「私は正しい」、「私には信仰がある」、「私」、「私」。

信仰生活はいつも前進して進歩しているだろうか?私の罪はますますより少なく犯すようになり、そして徳に成長しているだろうか?信仰を再発見した時のその喜びと、その熱心はまだ同じなのだろうか?あるいは更に大きくなっているのでしょうか?それとももっと悪くなっているのでしょうか?

この聖グリニョン・ド・モンフォールは、「7つの間違いがある」と説明しています。この7つの間違った信仰生活の考え方を、聖グリニョン・ド・モンフォールは、マリア様への間違った信心という形で提示しています。でもグリニョン・ド・モンフォールが言うのは、マリア様と私たちの関係だけでなく、私たちの全ての信仰生活に関わるものの態度です。

この7つは、ちょうど7つの原罪と同じように、7つの数にカテゴリーに分類しています。でもよく詳しく見ると、この7つの1つ1つの中には、その更に分類されていて、それが3つの分類、あるいは4つに分かれています。

最初の3つの間違った信心は、私たちの「理性」に関わるものです。最後の4つは、私たちの「意志」に関わるものです。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、ヤンセニズムという異端の時代にこれを書きました。ヤンセニズムというのは、カトリックの表面を仮面を付けて、実は真実は実際のところ、プロテスタントの考えをカトリック教会に持ち込んでしまいました。

ところで現代も、同じような似通った態度が見られますので、このその聖グリニョン・ド・モンフォールの言葉を適用させるのは非常に簡単です。

まずこの間違いは7つの間違いは、「信心」と呼ばれています。このいわゆる「間違った嘘の信心」は、「自分のやっているこのようなやり方こそが、天主様へのまことの信心である」というような事を主張して、提示されています。

私はよく聞きます、「あぁ神父様、この人たちはたくさんお祈りします。ですから間違う事はありません。」「この人たちはマリア様を愛しているので、間違う事はありません、神父様。」「あぁ、メジュゴリエのマリア様は本当に美しいので、間違っているのではありません」というのは、例えの話です。「神父様、私はその時に、その時に目撃したのです。その時に居たのです。その時に私は本当にものすごい事を感動して語りました。それなのに神父様はこれを「間違った嘘の信心」と言うのですか?そんなことはありません!」

私はもちろん、どなたかが、誰かがこう御恵みを頂いた、というその個人的な御恵みや、その色んな事を非難するわけではありません。なぜかというと、天主様はどんな所でも、どのような場所でも、御恵みを与える事があります。そして私が知っている人は、ロックコンサートに入って、その様子を見て、あまりにも酷くて、これで、「これが罪を犯すように誘っている所だ」という事を理解して、「もうこんな所に行く事はできない」と回心の御恵みを受けた人を知っています。天主様は私たちの心に、どのような所でも、どのような状況においても、御恵みを与える事ができます。天主様のそのようなやり方について、私たちはあまり話すところではありません。

ただ私たちは、そのような祈りの仕方、あるいはこのような信心の仕方、あるいはこのような御出現は、客観的に、正しいのか、あるいは間違っているのか、という事を判断する事だけです。

もしも信心や御出現が間違っているとすると、それは「目的地まで到達しない」という事です。つまり、もしもゴールに到達しないという事であれば、「イエズス様やマリア様に名誉を帰さない」という事であって、客観的にそれは、「イエズス様とマリア様を屈辱する」という事です。そして客観的に、そのようなやり方は、「信徒たちを私たちを、本当のマリア様とイエズス様の信心から離してしまう」という事です。

私たちに関係する次の段落を見てみます。これは皆さんがいつもどこでも「間違った嘘の信心」をしているという事ではありません。もしも皆さんこれに適用されていないという事であれば、本当に天主様にその御恵みを感謝して、この午前、午後、一日中感謝しても、それでも足りないと思われるに違いありません。

第1の間違いは、「批判的な論評型の信心」というタイプです。この批判的な評論的な信心というのは、何かノブスオルドの信心家のようで、皆この超自然の出来事や、この昔からの信心を批判して、「これは間違っている」と論評する人々です。このような態度は、「単純な、ちょっと頭の弱い人のやっている信心だ。」あるいは「カトリックのやっている信心というのは、ちょっとオーバーだ。特に、カトリックのマリア様に対するオーバーな信心や、このやりすぎ」を批判するような人々です。この論評型の批判型の信心の後ろには、「傲慢」が隠されています。

これは実は私の問題でもあります。傲慢というのは、自分の素晴らしさを自分だけに帰するものであって、そして他の人たちを軽蔑するものです。ですから、「他の者たちは皆間違っている。私の方が正しい」とする態度です。

もしも、「私の知性」が、これを受け入れるか、受け入れないかの究極の判断基準となるとしたら、これを私たちは、この傲慢の論評型の信心の危険があります。聖伝の信者の中にも、「聖伝を信じている」と言いながら、「天主の信仰の神秘を、全て説明を受けなければ気が済まない。全て完璧な説明が欲しい」と要求する人がいます。もしもその説明が与えられないと、「それは間違っている」とそれを批判したり、「それを受け入れる事ができない、何でこうなるか分からない」という態度です。

でも、私たちの信仰の神秘というのは、「玄義」というのは神秘ですから、玄義ですから、全て数学の証明によって証明されるように、もう明確に説明し尽くす事ができるものではありません。玄義というのは、その本質的によって、私たちの知性が全てそれを完璧に説明し尽くす事ができないものです。

例えば今、例を取ると、教会の危機、教会が陥っている困難については、これは深い神秘で、なぜこのような事が天主によって許されているか、これは私たちは説明する事ができません。論評型批判型信心は、この神秘に対しても、全ての説明を求めていて、もしも説明が受けられないと、それを批判します。

「神父様、決まっているじゃないですか、全ての異端は教皇様から来ます。聖ベラルミーノはこう言います、『教皇が異端説を唱えれば、もう教皇ではない』と。ところで、過去の数名の教皇様達は、教皇らしくない事を言ったり態度を取っているのでもう教皇ではありません。ですから、実は本当は教皇様パウロ6世ではなくて、ただモンティーニさんであって、ヴォイティアさんであって、それでラッツィンガーさんであって、それから今この白いスータンを着ているのは、ベルゴリオさんでしか過ぎません。ですから、私たちだけが生き残たレムナントで、世の終わりまで私たちが信仰を守ればそれで良いのです。」

今言ったのは、間違った態度の、論評型の態度ですが、そのように言う事によって、別の、解決できない何千もの多くの問題を作っています。そしてそのような人々たちは、それぞれ教会の危機の解決策を自分で見出して、自分で提示して、そして互いに争って、つまり自分がそれぞれ一人一人が実は教皇様になってしまって、プロテスタントと同じような態度を取っています。

ここの問題がどこにあるかというと、究極は、自分の能力を超えた、自分にそれをする事ができる、という義務のない判断を自分たちがしてしまって、その傲慢に問題の根があります。自分の知性を全ての上に置いて、あたかも神格化してしまった問題です。

では、本当の答えとは何でしょうか?

まず、この今教会に、過去無かったような非常に難しい教会の危機の時代がある、時期がある、という事は理解しなければなりません。私たちは異端説や間違った説から、日本を守らなければなりません。多くの聖人たちの足跡に従って生きなければなりません。変わる事のないカトリック信仰をそのまま守らなければなりません。私たちの信じている事を実践しながら、信仰を守らなければなりません。

だからといってこの今、カトリック教会の危機を解決する為に、その解決策を私たちの頭の中で考え作り出す、という事ではありません。そして他の人々を全て裁く、生ける人と死せる人とを裁くという、主であるかのように私たちが他の人々を、「あの人はこうだ」「こうだ」「こうだ」と裁く事を避けなければなりません。

私たちは、「自称レジスタンス」という人々から過去5年困難を受けています。残念ながら、私たちの尊敬する愛するウィリアムソン司教様がなさっている、客観的に間違った言動や行動に苦しんでいます。5年間ずっと続けて、間違った告発とか批判を聞いているのを、私たちは苦しんでいます。韓国の半分の信徒の方々と、日本では何名いるか知りませんけれども、この罠にかかってしまいました。他の世界中の各地でも、何名か一緒になっています。そして1日中インターネットの上で、色んなものを読んでいます。そして全ての人を判断して、裁いています。色んな人の事について批判しています。それで祈りの生活や、信仰生活や、全てを失いつつ、そういう事に時間を費やしています。そしてこのような態度を取っている司祭や司教様の御説教というのは、ただ批判して、批判して、批判する事で、建設するものはありません。

聖グリニョン・ド・モンフォールはこの第1の所で私たちに、「批判をするのではなくて、私たちの日常の自分の務めをよりよく果たす」という事を勧めています。

この第1の点をもっと深く見ると、別の角度からも見る事ができます、それは「主観的な、私が選んだ信仰生活」という事です。例えば、カトリック教会が客観的に、私たちに与えている勧めているお祈りよりも、私が好きなお祈り、私の選んだお祈りをする、という。このような人たちは、どこかで見つけ出した個人的なお祈りの方が、教会の公的なお祈りよりももっと良い、と考えている人です。

「私はこの公的なお祈りが嫌いです。なぜかというと、私がこうやって跪きたい時に皆は立っているし、立ちたい時には跪いてるし、座っていたい時には皆が何かしているからです。しかも教会の後ろには、何かクラック・クラックと音を立てて皆さんに合図をしている係がいます。」そのような主観的な信心の方は、そのような合図の音を聞くと「あぁ、またか」「またか」と思ってしまいます。

このクラック・クラックという音は、教会が皆さんに、「あぁ、今聖福音だから立って、イエズス様の事を聞いて下さい」「あぁ、今は聖変化だから、跪いてイエズス様を礼拝して下さい」という、この「教会が一番望む態度はこうですよ」という招きをしているものですから、これが最高の一番良いものである、という事です。

この論評家の批判家の信心の別の観点は、別の点は、他の人を軽蔑する事です。例えば、「私は他の間違った牧師たち、あるいは間違った司祭たち、近代主義の司祭たち、この太っている愚かな人たちよりも私は偉いんだ」というような態度です。

ですからこのような信心家は、「あぁ、この平信徒は間違っている」「あの神父様は間違っている」「あの司教様は間違っているし、教皇様も間違っている」という態度を取ります。確かにこのような方々は、客観的に間違った事を行なったり言ったりしますけれども、だからといって、そのような論評家の信心の人は、本当に悪い、汚らしい、本当に悪い言い方をして、批判して、馬鹿にして、軽蔑します。

私たちは、「本当はそれを受けるにふさわしくない者であるにも関わらず、真理を、聖伝の真理を、ありのままの2000年の真理を受ける事ができた」という事を感謝して、跪きましょう。

確かに私たちは、誤謬は、間違いは憎みますけれども、しかし、残念ながらその間違いの中にいる人々に対しては、尊敬を抱かなければなりません。私たちはこう言わなければなりません、「もしも私が受けたこの御恵みと同じものをこの人たちが受けていたとしたならば、きっとこの人たちは私よりも、何百倍も、何千倍も、もっと良くなるに違いないだろう。」

では次に、第2の信心型を見ます。

この第2の間違いは、「小心家」94、95番です。「オドオド型」と書かれていますけれども。この「小心型、オドオド型」というのは、私の深く説明する必要のないものです。これは近代主義やプロテスタントがよく持っているやり方です。でもこの事についても、皆さん後で黙想して下さい。

第3の間違いは、表面的な、外見だけの信心(Les dévots extérieurs)です。

ここでは「チンドン屋型の信心家」と言われています。これは私たちが皆持っているものです。これは、「外的な態度の方が重要である」と信じてしまう間違いです。「質よりも量の方が大切である」と誤解する態度です。

「神父様、とても気分が良いです。昨日は27環ロザリオを唱えました。」
「あなたはカトリックですか?それとも仏教徒ですか?」

子供の頃、私は母に連れられて、夜通しの徹夜のロザリオのお祈りに行った事があります。この時に、私は子供ながらに、この誰も、私は誰も批判するのではないのですけれども、子供ながらに、このお祈りをする人たちが、この「めでたし聖寵充ち満てるマリア」と言いながら、頭の中では何も考えていなくて、ただ唱えているだけ、という風で、これは仏教のお坊さんの念仏と同じように思われました。

これには非常に大きな罠があります。もっともっともっとたくさん唱える為に、それを正当化します。巡礼に行って、徹夜のお祈りをして、このお祈りをして、という「ここで時間を使っているので、自分の生活を改める時間がない」という態度です。

この外的なものだけを強調する事によって、その内容とか、その意味を忘れてしまう危険があります。マリア様やイエズス様に大きな称号を与えますけれども、かといって自分の内面は全く空っぽで、空虚である危険があります。

例えば、たくさんの「王たるキリスト」に対するお祈りや、色んな様々な信心や、様々な歌があります。でも「王」というのは一体何なのか?とは考えた事も無い人たちもいます。その「王」という意味もよく分からないまま、「王」「王たるキリスト」と歌っても、それが何も実践できていないケースがたくさんあります。

例えば、「イエズス様は私の王」「マリア様は私の女王、元后」と言いながら、「実は王という意味は、イエズス様に従わなければならない、イエズス様のしもべである、イエズス様の御旨を果たすのだ」という事が理解できない人がいます。

もしもマリア様が本当に私たちの元后であり、女王様であるならば、例えば百貨店に、あるいはスーパーマーケットに行く時に、「女王様、私が一体何を買って、何を買うべきでないのか教えて下さい」と、「女王様の御旨は何ですか?」と聞かなければならない事を理解しているでしょうか?

男性の方は、もしも今日の1日のプログラムを作る時、あるいは休暇の計画を立てている時、あるいは何かの計画を立てる時に、「私たちの王の御旨は、王が何を御望みなのか?」という事を、いちいち1つ1つ聞くでしょうか?

この外面的で表面的だけの信心は今、癌のように広がっていて、特にこの感傷的で、この感情に訴えるカリスマ運動や、感情的なものだけの信心の危険があります。多くの人々が、「信仰生活というのは、フィーリングを感じる事である」とか、あるいは「たとえどのような犠牲を払っても、そのような感傷的に体験をするという事にある」と誤解している人がいます。

多くの人が、「神父様、私はもう天主様から愛されていません。なぜかというと、もうそのような感激を味わうことができないし、その何もフィーリングが無いからです。」

そのような感覚や、あるいはそのような感激が無くなってしまうと、もう祈りの生活をやめてしまいます。

第4は、この「ワンマン家」と書かれています。97番です。

これは、Les dévots présomptueux「本当の努力を避けて、天主様がやって下さる」と勝手に思い込む信心です。

101番には第5として「不安定な信心」 Les dévots inconstants があります。これは、満月の時には一生懸命お祈りするけれども、三日月の時にはあまりお祈りをしない、という、「気分に応じて信心をする」という事です。

第6は、「偽善的な信心」dévots hypocritesで、これは「信心」の名前に値しません。このショーを見せるだけの、劇をするだけの、見せかけだけの信心です。

でもこの事についてちょっと質問するのを許して下さい。この黙想会を司祭たちに指導する時に、この事をいつも司祭たちに質問します、「神父様たち、ここに黙想会に与っている神父様、あなたたちは、たくさん何千人もの前でミサを捧げる時と、たった一人でミサを捧げる時と、同じようにミサを捧げますか?」あるいはこの信徒の皆さん、ご自宅でお祈りする時の態度と、この他の皆さんと一緒にお祈りする時の態度とは、全く同じ態度でお祈り致しますか?皆さんは、他の方々が皆さんを見ている時には、皆さんは(敬虔な態度でお祈りしている様子)、一人の時は(ぞんざいな態度でお祈りしている様子)、皆さんもちろんこのようではないと思いますけれども、少しそのような傾向があるかもしれません。

私たちの原罪の為に、私たちは皆、劇を、この演劇をしている可能性があります。他の人々の前で私たちはショーを見せて、そして自分がどれほど信心深いか、という事を見せる傾向があります。

第7は、「自己利益を求める、エゴイスティックな信心」dévots intéressésです。必要な時にはお祈りします。お祈りする時は、何か「欲しい」。これはちょうど、お父さんが、「子供は私のことを愛していない」と文句を言うのと同じです。

でもこの子供は時々お父さんの方にニコニコしてやって来て、甘い声を出して、「お父さん、元気ですか?」するとお父さんは、「いくら欲しいのか?」子供はおこずかいが欲しくて、私たちは時々このような態度を取ります。天主様の名誉、天主様の御旨、というのはあまり興味がなくて、「私の利益、私の思いが欲しい、それの為にお祈りする」という事です。

では今から、92番から104番までの間違ったやり方をゆっくりお読みになって下さい。もしもこれを読んで、「あ、ここに、この点は私にちょっと似ているかもしれない」というところがあれば、そしたらそんな時はメモを取って、それをそれについて反省してみて下さい。そしてそれを、もしもそのような傾向があるなら、それを私たちが取り払う事ができるようになさって下さい。

では、どうしたらその誤りを取り払う事が、取り去る事できるでしょうか?それは、今から後に説明する、「まことの信心」を受け入れる事によってです。

2016年聖母小黙想会 霊的講話【4】 8月11日 シュテーリン神父様「終末の時代のマリア様の役割」

2018年12月08日 | お説教・霊的講話
2016年8月11日 聖母黙想会 シュテーリン神父様講話【4】
同時通訳:小野田圭志神父


では、ますますインマクラータの神秘の中に深く入って行きましょう。特に終末の時代において、マリア様のなさる役割について、聖グリニョン・ド・モンフォールが何と言っているかを見てみましょう。

そこで、聖グリニョン・ド・モンフォールの終末に対する見方は、私たちがいつも考えている事とは少し違っています。終末の大災害について、私たちは否定的な観点で見るのが慣わしですけれども、そしてもちろんその事については間違ってはいけません、幻想を抱いてはいけません、恐れおののくべき時代が待っています。しかし、これが終末について最も深い見方であるとは言い切れません。

最も深い意味というのは、「終末に、最後に、私の御心は汚れなき御心は凱旋するでしょう。」これが本当の意味です。

天主様はこの終末の時代に、「マリア様が一体どなたであるか?」マリア様の力を全てに示そうと御望みです。天主様はマリア様に特別の役割を任命します。これは、「最後の戦いをリードする」という役割です。イエズス様は勝利しました。ですから「イエズス様と共に勝利者である」という事が、マリア様に預けられています。イエズス様はこの最後の勝利の冠をマリア様に、御母に与えたいと思っています。

聖グリニョン・ド・モンフォールは51番と52番において、マリア様が一体何をするか、なぜそうするのか、という事について説明しています。

罪がこの世に入ってから、この世は2つの陣地に分かれました。この世の、最初の罪が入ったこの世の瞬間に、天主様の約束がなされました。この約束は「呪い」という形でなされました。「マリア様が、この女が蛇の頭を踏み砕くだろう」という予言、約束です。

聖マリア・グリニョン・ド・モンフォールはここで説明します。それは52番ですけれども、「天主は、1つの、和解する事ができない敵対を置いた」という事です。

戦いの陣地において、2つの陣があって、2つのリーダーが、2つの頭があります。キリスト教の陣地のリーダー、戦いを指導する人は、マリア様です。こうすると、なぜ悪魔がマリア様をそれほど憎んでいるかという事がよく理解できます。

なぜイエズス様ではなくて、マリア様が陣取るこの頭であるか?という事を説明します。

悪魔は絶望的に傲慢です。もしも悪魔がイエズス様と戦うなら、天主と戦うならば、「あぁ、天主様だから負けても仕方がない」と思うでしょう。

でも天主様は、「じゃあ、あなたは他の天使と戦いますか?」ルチフェルはきっとこう言うでしょう、「もちろん戦う!」大天使聖ミカエルがやって来るのです。そして大天使聖ミカエルは悪魔を天国から追放します。

「悪魔よ、一体お前は誰と戦いたいのか?」「人間の最も強い人と戦いたい。」「ではお前は、小さな貧しい女の子と戦え。」ゴリアテという巨大な男が巨人が、小さなダヴィドと戦うのと同じです。「おお、ここに小さな赤ちゃんがいるぞ。おお、ここにバカバカしいほど小さな女の子がいる。」

しかしこのマリア様は、小さなマリア様は、悪魔を踏み砕く時に、どれほど悪魔が屈辱を受ける事でしょうか。

54番では、1つの敵対ではなくて、複数の敵対について考えています。「悪魔の陣地とイエズス様の陣地の2つには、どれほどの敵対とどれほどの対立があって、和解する事ができない」という事を、聖グリニョン・ド・モンフォールは説明しています。悪魔とマリア様の対立も同じように、悪魔の軍隊とマリア様の軍隊の対立です。現代において、悪魔の軍隊はほとんど全能であるかのように力を付けています。

黙示録にはこう書かれています、「獣の軍隊は、この地上を全て支配している。全ての民族、全ての言語、全ての民を支配する。」(黙示録13章7節)マリア様のイエズス様の軍隊はますます小さくなって、ほんの残されたものだけしか残っていなくなります。預言者エリアが天主様に、「もう全ての人が皆バアルの方に行ってしまって、もうあなたを信じる者がいなくなった」と言う時に、天主様は、「7000人がまだ残っている。この7000人はまだ、このバアルの前に膝をかがめなかった人たちだ」(列王上19章18節)と言います。

士師ゲデオンが戦う時には、イスラエルが攻撃を受けた時には、ほとんどの軍隊が残っていませんでした。巨大な敵の数に比べてイスラエルは、ほんの数千人しか兵士がいませんでした。しかし天主は言いました、「それは多すぎる。『恐れる者はもう帰って良い』と言え。」(判事の書(士師記)7章2-3節)ものすごい敵の数に比べて、戦おうと思ったのは300名だけでした。

時の終わりも同じ事が起こります。謙遜なしもべたち、貧しい子供たちが残ります。この世の目には全く馬鹿馬鹿しい、考慮にも値しないような数です。「しかし、」聖グリニョン・ド・モンフォールは言います、「しかし、この小さな軍隊が、この世の勢力に対して勝利する。」人間の言葉で言えば、人間的な観点から言えば、私たちはもう負けたも同然です。しかしこの少数が、大きな悪魔の大軍に勝利を収めます。

では、それから教訓を得る事にします。マリア様の力がどれほど強いか、という事をこの世に見せつける為に、悪魔の破壊の装置が最高の度合いに達するのを、私たちが罪に陥るのを誘惑する度合いを最高度に増すのを許します。この世がかつて見た事がない、究極の最も悪魔的なサタン的な攻撃が私たちに行なわれるでしょう。しかしこれについてはもう、既にイエズス様も仰いましたし、何度も預言された事ですから、私たちはびっくりする必要はありません。天主様はこの最も深い時が来るのを許されます。全てが失われたと思われる時が来ます。それには1つの理由だけがあります。それは、「この闇に、真っ暗闇に光が、インマクラータの光が輝く、その対照を見せつける為」でした。

このグリニョン・ド・モンフォールの最後の数行は、今現代、最後の時を生きている私たちに関わる事です。どうぞ55から59番を黙想するようになさって下さい。この講話が終わったら、ここの番号の55から59番を黙想なさって下さい。

この世が見た事がない、最も危険な時がやって来ます。ですから本当に驚くべきやり方で、マリア様は私たちを助けにやって来ます。厭わしいものの憎むべきものが、母なる教会をコテンコテンにしてしまいます。全ての国々が竜のイデオロギーに落ちてしまいます。この時こそ、マリア様の助けを必要としています。もしもマリア様への信心がないのならば、マリア様がいらっしゃらないならば、このような誘惑に、このような攻撃に、私たちは立ち留まる事ができません。

他の時代であれば色々な、私たちを助ける為に色々なものが存在していました。しかし終末では、マリア様しか残っていません。カトリックの時代のアイルランドとかポーランドとか、あるいはラテンアメリカの人は、皆が信心深いカトリックとして生きていました。それが普通の事でした。1日に3回、どこでも教会の鐘が鳴って、御告げの祈りをするようにと招いています。主日毎に誰もが彼もが教会に行ってミサに与ります。毎週告解に行くのは普通の事で、皆が行っています。

カトリックの国では、家族に関する法律もカトリック的でした。聖なる司祭、聖なる人々がたくさん生きていました。街を歩けば、この国の為に、あるいは地域の為に、献身的に働く修道者や信心深い方々がたくさん働いて、それを目にする事ができました。またカトリックの書籍や、この色々な書き物がたくさんすぐに手にとって、何でも読む事ができました。熱心な教区司祭、あるいは修道者たちは、長上等は「さぁ、もっと一生懸命働きなさい」と、そのような司祭たちを応援していました。しかしそのような環境においては、救霊はより簡単に、容易にする事ができました。

しかし終末の時代においては、カトリックの文明を根こそぎ破壊してしまって、そのようなものがもはや残らないようにしてしまっています。天主の掟に従った法律を守っている国がもう無くなってしまって、ただ人間、フリーメイソンの立てたような、人間の権利だけを主張する法律が支配しています。

この建物の中にも若い人たちがたくさんいます。この彼らの為にもお祈りして下さい。この学生さんたちは、一体何の為にこの自分が生まれて来たのか、創造されたのか、そのものすごい宝を全く知らないでいます。ただ物質の事だけ、そしてあるいはこの地上の快楽だけの事を考えて、そして動物と同じような感じで生活しています。もしかしたら私たちも昔は、同じような状況に生活していたかもしれません。この学生さんたちがマリア様を通して真理への道を見出すのは、本当に奇跡です。

聖グリニョン・ド・モンフォールは「愛の炎の実り」という祈りを作ります。300年以上前に、聖グリニョン・ド・モンフォールはこう書いています、「彼らは天主の掟を破った。」聖グリニョン・ド・モンフォールは、かつてカトリックの恵みにあった国について書いています。「彼らは福音を打ち捨てた。邪悪の大きな波が世界を洪水で埋めてしまった。」「不信が玉座を占めてしまった。御身の至聖所は瀆聖された。厭わしいものの憎むべきものが聖なる所に立ってしまった。」

聖グリニョン・ド・モンフォールはおそらく、現代について何かビジョンを見たに違いありません。聖グリニョン・ド・モンフォールは18世紀の始めにこの本を書きます。1712年にこの本は書かれました。しかしこれが書かれて後150年間、これはどこかに失われてしまいました。もしも私の記憶が正しければ、この本は1859年に発見されました。

1846年に、マリア様はラサレットに御出現になります。ラサレットでマリア様は子供たちに秘密を教えます。この秘密は子供たちによって1853年に書かれました。この秘密はメラニーによって書かれました。1853年に書かれた秘密は教皇様に手渡されましたが、これは失われてしまいました。そこでラサレットの神父様たちは、「これは間違っている。これは嘘だ。これはでっち上げだ」と言ってしまいました。

ところで、1980何年かに、歴史資料としてバチカンのアーカイブを閉ざされた文章たちを公開する事を許した時に、1991年に発見された小さな紙があって、それは1853年に書かれたラサレットの秘密の文章でした。1853年にメラニーが書いた、この秘密が書かれた時には、彼女はグリニョン・ド・モンフォールのこの真の信心について知識があったはずはあり得ませんでした。

ところで、聖グリニョン・ド・モンフォールが書いた終末の時代の描写と、メラニーが書く終末の描写は、全く同じ言葉を使っています。この終末の時代については非常に大切な事です。

この終末の時代には全ては、全てのキリスト教的なものは破壊されてしまいます。多くの人々は自分の信仰を捨てて、それから目を背けてしまいます。多くの司祭はそれを、本当の宗教から遠ざかってしまいます。悪魔は、天主に捧げられた霊魂たちさえも、天主から離させてしまいます。この盲目さはあまりにも大きいので、このような聖別された人でさえも、堕落した天使の精神を受け入れてしまいます。そして悪い本はどこもかしこにも広がって、悪い影響をどこにも与えています。これがラサレットのマリア様の言葉です。

ラサレットのマリア様によれば、「偽りの平和がこの世界を支配するだろう」と。「人々は自分の快楽の事しか考えないだろう。」「邪悪な人々は色んな種類の罪を犯す事を楽しむだろう。」「悪魔は空中に色々な不思議な業を行なうだろう。」「人々はますます邪悪になるだろう。」「しかし天主様は、忠実なしもべたちを打ち捨てないだろう。」

ラサレットのマリア様は、「イエズスとマリアの使徒たち」「私の使徒たち」という言葉を使います。これは聖グリニョン・ド・モンフォールが言ったのと同じ、「イエズスとマリアの使徒たち」という言葉を使っています。

終末の時代で、この事を理解して、この事を知った人は、多くの人々の中から選ばれた人です。日本において1億何千万人いる中で、ここにいる20人30名の皆さんは、特別に選ばれた召し出しを持っている方です。「マリア様を知る」という召し出しを持っている方です。

55番をご覧下さい。このような時代に天主様は、この事をお望みになっています。「おぉ、私の御母よ、御身は私を望んでいます。私があなたの事をますます知る事をお望みになっています。御身の事をますますをお愛しする事ができるように助けて下さい。かつてなかったほどに御身を崇敬する事を望んでいます。」このように選ばれた人たちは、自分をマリア様の元に奉献して、マリア様のものとして奉献致します。

では、この意味はどういう意味なのでしょうか?「マリア様、私はあなたがどなたであるか理解するお恵みを得ました。マリア様の信じられないほどの重要性を理解する恵みを頂きました。マリア様、あなたのパーソナリティ、そしてあなたの御心のその偉大さ、素晴らしさを私の前に明らかにして下さいました。イエズス様がその事を御望みなのですから、私は今、御身を選ばなければなりません。イエズス様は全ての事を、あなたを通して私に与えようと望んでいます。イエズス様は、御身が私の母である、また私の元后である、女王であるという事を望んでいます。ですから、私はただ1つの事をしなければなりません。これを受け入れる事です。」

「母親を受け入れる」とはどういう事でしょうか?つまり、お母様の子供として生きる、という事を受け入れる事です。

「誰かを女王として認める」という事はどういう事でしょうか?それは、この方の忠実なしもべとして、忠実な騎士として、忠実な奴隷として働く、という事です。

「聖母マリア様、御身は私に何をお望みですか?この恐ろしい時代に、あなたは私に何を下さろうと望んでいるのですか?」

“その時、私はマリア様の母性的愛の甘美さと慈しみを、ひしひしと実感するでしょう。御身は私があなたに愛し返す事を許す事でしょう。”

聖グリニョン・ド・モンフォールが、「彼らは」とか、「この人たちが」という時には、皆さんは「私が」と翻訳して、自分の事として読んで下さい。そしてこの終末の兵士たちが選ぶべき剣を頂いて生きる事になります。

では56番です。ではそのような選ばれたマリア様のしもべ、マリア様の子供はどのような人でしょうか?

まず、その数は多くありません。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「この人たちだけが救われる」とは言っていません。マリア様のしもべたちが、多くの人々の為の救いの為に祈って戦うので、多くの人が救われるでしょう。しかし、この最後の最後の瞬間に救われるような人というのは、マリア様の為にたくさんの事をしたというわけではありません。

皆さん、戦いに挑むの兵士の事を考えて下さい。戦いにおいて、皆さんは戦って、戦って、戦います。そして戦いの時に、戦って、戦って、多くの人々を捕虜にします。そしてこの捕虜、敵の軍隊として戦っている人たちを捕虜として、そのような人たちを敵の罠から救ってあげるのです。

それと同じように私たちも、戦って、戦って、彼らの為に祈る事によって、敵の手から救い出す事ができます。知らず知らずにして、このような人たちは悪魔の軍隊に属してしまっています。しかし皆さんマリア様の騎士たちが、そして多くの騎士たちが、この霊魂たちの為に祈り、戦う事によって、これらを救う事ができます。最後に回心の御恵みを頂く事ができるからです。そのような助けられた霊魂たちは、皆さんの幸せな捕虜です。彼らを殺す代わりに、彼らを永遠の命へと皆さんもたらすのです。

しかしこのような人たちが、この世の救いの為に戦うのではないのです。このマリア様の勝利の為に戦うのは、300名のゲデオンの兵士たちです。このような人たちはどのような人でしょうか?

「しもべ」、「マリア様の家来」、「マリア様の子供」です。これが他の人々と区別するしるしです。イエズス様のこのしもべたちが、主の召使いたちが受けるこのものは、ちょうど詩を読んでいるかのようです。

「私は、親愛の炎を、地上の至る所に転じて歩く人となる、燃え盛る炎を地上の至る所に。なぜなら私は、マリア様の忠実な道具となって、マリアが手にしておられる鋭い矢のようになるからです。これによって御自分のマリア様の敵を打ち倒す為に使われる道具となる。そして私は大いなるこの火で浄められる。」

これは美しい映画を見ているのではありません。美しい夢を見ているのでもありません。皆さんベッドに横たわって、こう夢を見ながらヒーローになるのではありません。マリア様に本当に属するのならば、マリア様は皆さんをヒーローとします。

はい、皆さんは大いなる苦悩の火で浄められるはずです。苦しみを通らずにして天国に行く人はこの世ではありません。マリア様は皆さんの心に愛の黄金を置きます。祈りの乳香を、精神を置きます。体には苦行の没薬を与えて下さいます。黄金と乳香と没薬、これは3人の博士がイエズス様に与えた贈り物でした。これは3人の博士たちが、マリア様にまず贈った贈り物でした。マリア様は今度は、この受けた贈り物を皆さんに返して下さいます。

なぜでしょうか?なぜかというと、皆さんの心の中に、イエズス様が生まれるのを望んでいるからです。マリア様は、皆さんの中で皆さんが生きるのではなくて、イエズス様が生きるのを望んでいます。皆さんがイエズス様の生きる神秘体の一部となる為です。イエズス様と一致すれば一致するほど、皆さんは黄金と乳香と没薬を受けるのです。皆さんは、このイエズスの芳しい香りを、貧しい人、小さな人々にもたらします。しかし皆さんは死の香りを、死の匂いを、この世の富んだ人たち、傲慢な人たちにもたらす事でしょう。

「どこによってでしょうか?私はいつも家の中にいて、ほとんど外に出る事はありません。私が知っている人はもう5本の指で足ります。私の話を聞くのは私の家の壁だけです。この世の富んだ人、偉い人、傲慢な人たちの名前さえも知りません。」

でも皆さんはそれをする事になります。それが皆さんの行動です。これが、皆さんが「祈り」をする時になさっている効果です。あるいは「小さな犠牲」を捧げた時の効果です。ここで出会うこの学生さんたちや子供たちに微笑んで、彼らの為にお祈りをする時の効果です。そうする事によって、芳しいイエズス様の香りが、この霊魂たちに入り込む事でしょう。

この57と58と59を見ると、マリア様のしもべがどうなるか、という事がますますよく分かります。57からは特に、イエズス様の司祭、あるいは修道者となる霊魂たちについて表現しています。しかし、皆さん一人一人は、「この使命の一部となるように招かれている」とは何でしょうか?“これは全世界を駆け巡る雲、雷を伴う雲のようなものでしょう。”どういう事でしょうか?

これは、「聖霊が、皆さんをしてする事を望んでいる事だけを、皆さんがする」という事です。皆さんが今そうである利己主義がますます少なくなるように、マリア様は奇跡を行なって下さいます。皆さんはますます、今から何をすべきなのかはマリア様にお尋ねになる事でしょう。マリア様のお望み、マリア様のご意向をますます知るようになって、そしてそれを知ったらすぐに実行するようになるでしょう。もしも望みならば、マリア様の軍隊に属する人がどのようであるかを表現しています。

“いかなるものにも愛着せず、地上のいかなるものにも愛着せず、いかなるものにも驚かず、いかなるものにも気を留めず、ただ天主の御言葉と、永遠の命の雨を、洪水のようにこの地上に降らせるでしょう。”

このマリア様との一致を、マリア様は皆さんに望んでいます。すると皆さんはますます自由になります。

皆さんが今まで長くそうであったのですけれども、この無である自分にあまりにも愛着しすぎる、という事が無くなります。皆さんのお金とか、皆さんの都合、皆さんの快楽とかというものから解放されます。皆さんの馬鹿馬鹿しいパーソナリティとか、この「私の何とか」というものから解放されるようになります。

そして皆さんは何ものにも驚きません。なぜかというと、皆さんはもう既に、最悪の事が何かを知っているからです。皆さんは既に、十字架と犠牲をする覚悟ができてるからです。

何も気を止める事もありません。なぜかというと、マリア様において慰めがあるからです。「全ての事は早く終わってしまう」という事を、マリア様が私たちに教えてくれるからです。

ですから、このように解放されると、洪水のように、天主様の御恵みをこの地上に降らせる事ができるようになります。するとマリア様は皆さんを、この地上に嵐の御恵みを下さる為に使う事ができるようになります。

悪魔は皆さんを恐れる事でしょう。幼きイエズスの聖テレジアはこのビジョンを見ました。悪魔は幼きイエズスの聖テレジアを見ると、それを恐れて逃げ去ってしまった、というのを見ました。聖人は悪魔にとって恐ろしい力を持っています。悪魔と悪の人々に対して何も、皆さんに悪をする事ができません。

この事をよく黙想して下さい。これはマリア様が皆さんになってもらいたい、という理想の姿であるからです。これは皆さんと私の生活のプログラムです。それを少しずつ実現するように望まなければなりません。

では、どうやったらこういう風に行動する事ができるでしょうか?

求めて下さい。でもこれを、マリア様が皆さんのところに実現する事を望んでいる、という事を知って下さい。皆さんの生活において、マリア様がなさるべきその役割だからです。マリア様は罪人から聖人に変える役割を持っています。マリア様は回心と聖化の御恵みを与える役割を持っています。

でも終末の時代には、マリア様は大聖人を作る事を望んでいます。59番をご覧下さい。本当に美しくて、慰めを与えて、力を与えてくれる言葉が書かれてます。本当のイエズス・キリストの弟子。

「マリア様、御身のおかげで、御身によって、私は本当にイエズス様の真似をする事ができます。私はマリア様のおかげで、福音に従って天国への狭い道を歩く事ができます。この世のことわざ、この世の知恵、この世の考え方に従ってではなくて、イエズス様の福音に従って、理想に従って、生きる事ができるようになります。私の気絶しそうな弱々しい心を強めてくれます。誰にも邪魔されずにこの道を歩む事ができるようにしてくれます。誰も恐れる事なく、世間体を恐れる事なく、右手には十字架像、左手にはロザリオを付けて、心にはイエズス様の御名と、マリア様の御名を刻んで。」

この言葉は、ぜひ皆さん覚えて下さい、「私の理想、私の人生は、右手には十字架像、左手にあるロザリオ、そして心にはイエズス様とマリア様の御名。」

私の心臓は毎瞬間、鼓動を打っています。「イエズス、マリア、御身を愛し奉る。霊魂を救いたまえ。」「右手には十字架像、御受難のイエズス様、ミサの聖なるいけにえ。左手にはロザリオ。イエズス様の御生涯とマリア様の御生涯は、いつも私の心にある。ロザリオのこの鎖は、マリア様と私を結び付ける鎖であって、マリア様のしもべとして奴隷として、いつもくっ付いているロザリオ。」

聖ピオ十世会の本当の名前を知っていますか?外的な名称は、「聖ピオ十世司祭兄弟会」と言いますが、しかし本当の名前は、『イエズスとマリアの使徒の会』。ルフェーブル大司教様はこの名称を、「ラサレットのマリア様と、聖グリニョン・ド・モンフォールから取った」と説明しています。

このようなここに書かれた事を、実は私たちは皆さんに、行動で皆さんに示さなければなりません。ルフェーブル大司教様は、私たちがこの終末の使徒の生ける模範であるという事を望んでおられました。しかし私たちは、お互いに顔を見合わせて、「何という恥ずかしい事か。その理想から程遠い」と赤面するばかりです。

聖グリニョン・ド・モンフォールは、これを300年前に書かれました。聖グリニョン・ド・モンフォールは、「一体この時がいつ来るのか、いつ実現するのか、私は待ち望んでいる」と思って書いた事でしょう。天国から聖グリニョン・ド・モンフォールは、「遂に時がやって来た。その終末の使徒たちがここに地上に生まれて来た!」という事を見て、どれほど喜んでいる事でしょうか。これが皆さんをして、マリア様が皆さんを使って、実現する事ができる理想の姿です。マリア様はこれをできるのみならず、マリア様は皆さんがこうなる事を望んでおられます。マリア様は、皆さんがこの終末の時代に生きる、という事をお望みです。マリア様は皆さんに奇跡を起こして、皆さんが聖伝の事を知る事ができるようにされました。聖グリニョン・ド・モンフォールが話しているこの宝物を、皆さんの前に今見せています。これはどうしても明らかな、マリア様からの皆さんへの呼びかけです。

マリア様はこのお恵みを、ただ捨てるだけに皆さんに与えたのではありません。これは小さなただ本を読む為だけのものではありません。マリア様の心からの皆さんへの呼びかけです、「我が子よ、我が娘よ、あなたの番ですよ。」

では、どうしたら終末のこのような使徒になる事ができるでしょうか?このここに書かれている理想像が、私たちにおいてどうやったら実現する事ができるでしょうか?

ここから続くページにおいて、その秘訣を聖グリニョン・ド・モンフォールが説明しています。その、どうやったらそういう風になる事ができるかは、明日から黙想する事にします。

今、皆さんの心には、ものすごい熱情と大きな望みでいっぱいのはずです。皆さんが今から黙想する事はそれほど多くありません。今からこの黙想は、この55から59を黙想して下さい。しかし夕方お休みになる前に、もう一度49から59番をお読みになって下さい。

2018年10月21日 聖霊降臨後第22主日のミサ説教 「正義の徳について」

2018年12月07日 | お説教・霊的講話
2018年10月21日(主日)聖霊降臨後第22主日のミサ
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会のようこそ。
今日は2018年10月21日、聖霊降臨後第22主日です。

明日は7時からミサがあります。今日は14時半から公教要理がありますが、特に次のミサの為の聖歌の練習をしたいと思っています。16時からは晩課があります。

11月のミサは少しイレギュラーになっております。第一の主日と最後の主日になっています。


「チェザルのものはチェザルに、そして天主のものは天主に与えよ。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日ミサが始まると、聖歌隊は、“Si iniquitates observaveris, Domine, Domine, quis sustinebit?”「もしも御身が邪悪に目を止めるならば、誰がそれに耐える事ができるでしょうか?」と歌いました。

ますます教会は、最後の審判について、私たちの人生の終わりについて、この世の終わりについて、黙想を深めるように招いています。あたかも、審判の裁きの座に入ろうとする霊魂の歌を歌っているかのようです。この地上の短い逐謫(ちくたく)の身において、私たちは天主の助けを求めたいと思います。

そこで、聖パウロは私たちに、「私たちが正義の実りの実に満ち溢れるように」と勧告し、そしてイエズス様は今日の福音で、「チェザルのものはチェザルに、王に属するものは王に、そして天主に属するものは天主に与えよ。」
つまり「正義」の事について話しています。私たちの義務について、私たちの聖徳について話しています。

そこで、特に、「チェザルのものはチェザルに与える、天主のものは天主に与える、という事は、一体詳しく言うとどんな事になるのか?」という事を黙想する事を提案したいと思います。

もちろん、「天主のものを天主に与える」という事は、これは「愛徳」です。しかし別の意味で、「天主のものを天主に返す」というのは、これは「正義」でもあります。

「愛徳」というのは、たとえそれが私たちの義務ではなかったとしても、私たちはそれを、その善を愛するが故に、その善を望むが故に、愛するものを追求する事です。しかし「正義」の徳は、それがなされて当然だから行ないます。

そこで今日私の提案するのは、特に天主に対して当然なされるべき「正義」の徳についての黙想です。

「天主を愛する、たとえ義務でなかったとしても愛する」をはるかに超えて、その土台にある、「天主に当然私たちが捧げなければならない、返さなければならない義務がある」という事です。

そこで今回は、ではその天主に当然返さなければならないものは「正義」と言われますけれども、

⑴その「正義」というものは一体何か?という事を簡単に黙想します。

⑵その次に、その正義を達成する為に、天主には一体どのようなものがなされるべきか?という事を黙想して、

⑶最後に遷善の決心を取る事に致しましょう。


⑴「正義」というのは、私たちがそのなさなければならないものを、他者に対して等しく変換する事です。等しく帰属させる事です。

例えば、「誰かが1万円を受け取らなければならない。なぜならば、1万円に相当する価値のものを私は受け取ったからだ。その為に私はその人に1万円を与える。」これが正義です。

もしもある人が、1万円の価値のあるものをもらったにも関わらず、私はそれを与えなかった、あるいはちょんぼした、不足して与えた、というのは、これは正義に欠ける事になります。不正をなす事になります。

そこで、正義の徳には2つの要素がある事を知って下さい。

1つは、「当然なすべきもの」という概念です。なされるべきもの。

もう1つは、「イコール関係、等合関係、等しいもの、それに等しい事」という事です。それを他者にする事です。負い目を、義務を、等しく正確に、それだけ、多くもなく少なくもなく、それだけ返す、それだけ与える、これが正義です。

ところで、この私たちの人間生活を送る中に、社会においては、その正義を等しく等号関係で与える、という事ができない部分があります。その等合関係ができないけれども、それにあまりにも不足しているけれども、それでもできる限りをする、というところに、その対象に、「天主」があります。

天主からは全てを受けているので、私たちは全てを返しても、まだそれでも足りません。そこで、天主と私たちの関係は、正義の関係ですけれども、完全な正義ではありません。完全な等合が成り立たないからです。ですからこのような関係の事を、「宗教の関係」と言います。

もう1つあります。それは「親子」の関係です。親から私たちは命を受け、教育を受け、色々な援助を受けました。それで親にはその事を感謝して、それにお礼をしたいのですけれども、お礼をし尽くす事ができません。そこでこの親子の関係は、孝行の関係であって、ラテン語では“pietas(ピエタス)”と言います。

実はまだあるのです。この社会が成り立つ為には、この社会に徳のある人たちが、良い人たちが存在しなければなりません。その良い人たちが当然受けるべき称讃とか、あるいは感謝とか、あるいは治世者、あるいは上に立つ人たちに対しては、敬意が払われなければなりません。

ところがその私たちが、その善行や良い行ないに対して、それに等合関係の敬意を払い尽くす事ができるとは必ずしも限りません。私たちが与える事ができるのは、賞状とか、金メダルとか、その程度のものです。

ですからその等合関係が必ずしも成立していない、しかし正義は私たちに何かをする事を要求する、という事があります。

もう1つは、私たちがどうしてもしなければならない事であって、これは2つの種類があります。

「法律で決められているからしなければならない事」と、もう1つは、「法律で決められていなくても、私たちが誠実であるが為に、私たちが善徳を持っているが為に、私たちが徳のある人であるが為に、私たちが良識があるが為に、私たちが文化人であるが為に、道徳的にそうする必要性があるもの」です。

そして、その「法律でたとえ決められていなかったとしても、当然私たちがして為すべき」というものにはいくつかあります。

一番私たちがしなければならない義務というのは、「真実を語る事」です。

いつも、正確に、その事実通り、現実の通りに真実である、という事です。これは私たち皆が負っている義務です。

もしも私たちがその真実に現実に反する事を、「そうだ」と主張する事は、これは社会を崩壊させる事です。例えば、「人間はイヌと結婚するとかが当然の事である」とか等です。

あるいは「当然のものを受ける」ということです。

例えば、「善をした人は、これはその称讃を受けるべきである」とか、「悪をした人は罰せられるべきである」という事は、社会が成り立つ為に、真実を語ると共に必要な、私たちの正義をする為に必要なものです。「良いものには賞賛を褒美を、そして悪には罰則を。」これが正義です。

それほど厳しい義務、厳しく私たちが支払わなければならない、というわけではないけれども、しかし私たちが良ければ良い人であるほど、徳があれば徳があるほど、崇高であれば崇高であるほど、私たちが当然なさなければならないものもあります。必ずしもこれがなければ社会が成立せざるを得ない、というわけでもないのですけれども、しかし当然すべきものがあります。

それは、目上の人に対しては私たちは申しました、「孝行」とか「宗教」とかあるいは「敬意」などですが、同じ人には、「友情」とかあるいは「調和」とか「穏やかな関係」とか、あるいは目下に対しては子供たちに対しては、「愛情」とかあるいは必要であれば「援助」とか「助け」とか「救済」などが必要です。これが正義の徳ですけれども、特に『宗教』について私たちは見る事にします。


⑵「愛徳」は、天主を直接にその目的として愛す、それを天主を最高の善として愛する事を、その徳の行為とします。

ところが「宗教の徳」というのは、正義の徳の一部としての宗教の徳、宗教は、この全ての善の源であって、私たちが究極的に帰らなければならない、最高の究極の目的である天主へと私たちを秩序付けるものであって、そしてこの天主のその素晴らしさ、その憐れみ、その良さ善良さ、その正義、その大自然をはるかに超えるその崇高さに対して、私たちは当然なすべき感謝や、礼拝や、あるいはいけにえ、祈り、黙想などを捧げる事にあります。

ですから、「愛徳」と「宗教」の違いというのは、愛徳の直接の対象は「天主」であるとすると、宗教の直接の対象は「天主の素晴らしさ」にあります。そしてこれに対して当然なすべき礼拝を捧げる事にあります。

カトリック教会の教えの下で、全ては、法律も、経済も、社会も、教育も、家庭も、福祉も、全社会が、この天主を頂点とする秩序に基づいていました。そしてカトリック教会の教えによって、当然、「親に払うべきものは孝行。そして社会の長上に対しては敬意を。天主に対しては宗教を、真の宗教の礼拝を捧げるように。心と体を以て捧げるように。そして王でさえも、高貴な者も、貧しい者も、男も、女も、全て天主に捧げるように、礼拝を捧げるように」と指導してきました。

唯一の天主、唯一の信仰、唯一の洗礼、唯一のカトリック教会の下で、人間は幸せに生活する事ができました。

しかし、もしもこの天主へのなすべき、この当然なすべきものをされないとしたら、それを最初に大きな運動として、しない事を始めたのは、マルチン・ルターでした。「ミサを廃止しよう。そして教会の代わりに聖書にすげ替えよう。そして聖伝あるいは教導権の代わりに、自分の理性で、自分の自由解釈ですげ替えよう、取り替えよう」としたところから、社会は不幸へと道を始めてしまいました。

結局は、「信仰から切り離された人間の理性が社会を作ろう」あるいは「人間の経済的な利益だけが、全ての測りだ。だから社会は、国家は、他の人が自分の利益に邪魔をしないように、自由を守るだけで良い」等として、その反動として、共産主義が起こったり、その他のイデオロギーが起こったのは、私たちはよく知っています。


⑶では、イエズス様は私たちに、この典礼暦の終わりに、何を教えようとしているのでしょうか?

この世の終わりの裁きの日には、そして私たちの人生の終わりにも、この正義について私たちは裁かれます、「天主に捧げるものを、捧げたか、否か。」

私たちの人生はどうだったでしょうか?

マリア様にぜひ御取り次ぎを願いしましょう。私たちが主を愛して、全てに越えて主を愛し、そして天主に捧げるべき、当然捧げるべきものをできるだけ捧げる事ができますように、最高の礼拝と、祈りと、感謝と、讃美と、そして罪の償い、祈りを、黙想を捧げる事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖ピオ十世会 聖伝のミサ 2018年12月の報告:SSPX Japan Latin Traditional Mass with Vigil Prayer for Life

2018年12月06日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

12月は、新しいアジア管区長を初めて日本に迎えることができ、大変幸福でした。

特にベネディクト十六世の提案した(Veillée de prière pour toute vie naissante, Vigil Prayer for All Nascent Human Life)ですが、今年は管区長と共に「命のための祈りの集い」を東京でも開催することが出来て、嬉しく思います。

サマーズ神父様を迎えるために多くの方々が、自発的に寛大に御協力下さいました!
、幾名もの方々が朝早くからきてくださって会場作りを手伝ってくださいました。お帰りも 最後まで片付けをしてくださってとても助けられました。皆さんから自発的に戴いた、お寿司50人前、ピザ、オードブルの大皿などたくさん、多くの方々から寄せられたたくさんの種類の心こもった手作り料理の数々、ワインやお茶やジュース、手作スゥイーツ、などで管区長に大歓迎の心がにじみ出ていました。車をお持ちの方は、今回発生した大量のゴミを 全て持ち帰ってくださいました。お手伝いくださりほんとうに感謝しております。

たくさんの信徒のみなさまの寛大なご協力が集まり、サマーズ管区長様をお迎えすることができましたことをマリア様に感謝いたします。

【報告】【東京】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

9時のミサ(小野田神父)の参列者数
男: 12人(内、子供1人)
女: 8人(内、子供1人)
計: 20人(内、子供2人)

10時半のミサ(サマーズ神父)の参列者数
男: 26人(内、子供6人)
女: 28人(内、子供6人)
計: 54人(内、子供12人)

霊的講話(サマーズ神父)の参加者数
男: 21人(内、子供5人)
女: 14人(内、子供4人)
計: 35人(内、子供9人)

晩課の参加者数
男: 15人(内、子供5人)
女: 13人(内、子供4人)
計: 28人(内、子供9人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

新しい暦年の始まりに、たくさんのごミサを、ありがとうございました。
三日間で五回のトリエント・ミサ、聖伝のミサに与ることができました。
本当にお恵みでした。

初めて日本を訪れたという新しいアジア管区長様は、イギリスで学校の校長先生をしていたことがあるということ、教育者の持つ優しさと威厳がかんじられました。サマーズ神父様たちが来られると、二人の神父様たちの祈りにより会場の中はすぐ教会の雰囲気が満ちて本当の聖堂に変わったかのようでした。

管区長に就任されてまだ間もないこの日、命のための集まりが開かれた初土曜日、この待降節の始まりに、サマーズ神父様が小野田神父様と共に東京の聖ピオ十世会にいらしてくださいましたこと、とても嬉しく感謝いたしました。

12月1日土曜日夕方に、いのちのためのミサに与りました。今回は『聖マリアの汚れなき御心』の随意ミサに初土の信心としても、このミサが捧げられました。

お説教は、サマーズ神父様でした。いま無原罪聖母の祝日を前にノヴェナを毎日お祈りしていますが、その直ぐ後にはグアダルーベの聖母の記念日です、人身御供として生臭い生贄を捧げたのと同じほどの恐ろしい罪が、現代も侵されているのです、というお話に驚きました。そしてそれは妊娠中絶(堕胎)だということでした。

かつてメキシコにて小さな子どもや女性の命がその人身を切り刻まれて、夥しい血が流され人間の欲望を充たすため異教の神々へ捧げるため殺されていたという話にはゾッとしましたた。しかし、妊娠中絶(堕胎)もまた、お腹の中に宿っている人間の命を自分自身という神々に生贄として捧げることであると話していただいて、その残酷さと罪の大きさをハッキリ知ることができました。



まだ産まれていないとはいえ、人間の勝手な都合でお母さんのお腹の中に宿ったいのちが身体を傷つけられ血が流され殺されるのですから、同じことなのですね。胎児の命も天主さまがお造りになられた大切な命だいうことを再確認できました。

母の中の母である聖母マリア様のお恵みにより、生まれてこようとしているお腹の中で生きている胎児の赤ちゃんの命が守られますよう、日本にもっと広くマーチフォーライフのことが知られていきますようにと思いました。ごミサの前には、みんなで生まれる前のいのちのための祈りをロザリオを通してお捧げしました。とてもよい「いのちのためのミサ」に与ることができましたことを感謝申し上げます。

翌日は、待降節第一主日のごミサでした。私たちのこの世の人生には終わりがあること、そしてそれは良いことであること、しかしこの世にいる間に知って準備しなければならないことがあることを理解できました。確かに最終目的を知ることにより初めて、このカトリック信仰を生きることができるようになるとおもいました。

聖ヨゼフ様に聖なる死を迎えることができるお恵みを希うこと、そして、イエズス様とマリア様に聖徳に進むお恵みを希うことなど、カトリック信徒としてこの短い滞留する地上でのこの世の生活をどんなふうに過ごせばよいか、胸に刻みました。

待降節の初めに良い準備をすることができ、聖なる聖伝のミサにたくさんの信徒の皆様とともに与れましたことを感謝いたしました。

この日は午後は、管区長様の霊的講話もお話いただきました。「カトリックの家族とは何か」ということを、お話くださいました。神父様は、私たちに必要な具体的なことを語ってくださっていて、身につまされるような大事なことばかりでした。

「子ども達を育てる究極の目的・ゴールは、その子どもが自分自身と自分に委ねられた霊魂を救うことができるようにすることにある」という言葉が印象に残っております。そして、そのためには「子どもの意志を訓練する」ということが重要だと話されました。そして、どんな身分(結婚生活にしろ、修道生活にしろ)を選ぶ場合にも要求されるのは、他の人のために自分を寛大に与えることのできるよう自分を犠牲にすることをができるようになることだと教えていただきました。

良いカトリックの家庭から、良いカトリックの司祭・修道者が生まれますということで、日本からたくさんの召命が出るためにも、良いカトリックの家庭がたくさん生まれますようにと思います。

サマーズ神父様は、 世界的にも家族というものが崩壊してきたその要因に産業革命・フランス革命・プロテスタント革命があるだろうとお話されていました。

「ファチマの聖母の会」では前日に「カトリック復興の集い」を設けて、『プロテスタント主義とその政治的帰結について』という題目の講話を学びましたが、家庭の崩壊もプロテスタント主義からくる攻撃の影響が大きいのだと思いました。第二バチカン公会議による様々な変革が教会内でも起こりはじめてから半世紀以上経って、ようやくカトリック信者は、自分たちが失いつつある宝があると気付き始めているのかなと思います。

でも、ダヴィデ・パリャラーニ総長様のインタビュー記事は『両手に一つの宝を持っている』という題名でした。聖ピオ十世会には、確かに宝が保たれているように思います。

そのお話の中に「教会の危機に気がついて教えを受ける必要のある人々に対して私たちの義務として助けること」という言葉がありましたが、本当にいまこの日本の聖ピオ十世会の小教区の教会にも、この危機に気づいて聖ピオ十世会の神父様に助けを求める人が集まってくるようになっていると感じられます。

それは単に跪きとか舌でのご聖体拝領とかのことを超えた、もっと根本的なカトリック精神そのものが教会の内側から損なわれようとしているのではという危機感と思います。

トリエント公会議では、ローマ公教要理(トリエント公教要理)を作って、教会の内部へのプロテスタント主義からの影響を食い止める事が出来たのだそうです。聖ピオ十世会ではいまでも、この昔からの公教要理で学んでいますから、現在、社会に蔓延しているプロテスタント主義の様々な影響から自分たちの信仰を守ることができるのではと思います。

永遠の命へ向かうと同時にこの世を賢く生きることも必要でり、そのための智慧はカトリックの伝統に保たれているはずと思います。宝を持っている聖ピオ十世会の教導に従うなら、この短い地上での命が永遠の命へとつながるよう導いていただけると思います。

日本での宣教が進みますよう、司祭の常駐が良いぐあいに実現できますよう、ますます真剣にお祈りいたします。

最後になりましたが、昼食会は信徒の方々が持ち寄ってくださったありあまるほどの心のこもったお料理や飲み物で溢れてしまっていました。楽しいひと時を過ごすことができました。何百キロも離れたところにお住まいの姉妹の方も全部のごミサに与られ、ゆっくり皆様と歓談できたことがとても楽しかったと話してくださっていました。たくさんの信徒の皆様と力を合わせて、サマーズ管区長様をおむかえできましたことを、マリア様に感謝いたしました。

パトリック・サマーズ管区長様、小野田神父様、待降節の始まりの素晴らしい三日間をありがとうございました。

聖マリアの汚れなき御心のうちに


【参考資料】
「ルターの誤謬について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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