新・遊歩道

日常の中で気づいたこと、感じたこと、心を打ったこと、旅の記録などを写真入りで書く日記です。

安部龍太郎『ふりさけ見れば』(日経新聞小説)その③128~238

2022年03月27日 | 本・新聞小説
8世紀初め頃、唐の北方では契丹や突厥が反乱の機会をうかがっており、王朝内では門閥派の李林甫と進士派の張九齢らの熾烈な権力闘争が行われていました。李林甫は宦官と結びつき、進士派には王維や仲麻呂がいます。
そこに北方との争いに破れた安禄山の処罰問題で意見が2つに割れました。
仲麻呂はいわば国命とも言うべき自分の果たすべき役割を考えて、王維からの批判を覚悟で、張九齢を見限り李林甫に従う道を選びました。
張九齢は失脚、王維も左遷され涼州に去ります。それ以来仲麻呂はずっと親友を裏切ったという自責の念に苦しみます

舞台は日本。仲麻呂を唐に残したまま、734年吉備真備は苦難の船旅を制して日本に帰国します。
しかし朝政が藤原氏に牛耳られていることに怒りを覚えた真吉備はその勢力を崩そうと、かつて遣唐押使を務めた多治比縣守の力を得ようと画策します。そこに起こった天然痘のパンデミック。

藤原四兄弟が自家の主導権を確立するために、感染を疑われていた遣新羅使を入京させていました。
それがもとで都の住人の半数が感染し、その半分が命を落とすまでに・・・。そして自業自得、藤原四兄弟も命を落としました。

その頃唐では、吉備真備と同時に帰国したはずの平群広成が途中で嵐に巻き込まれ、今のベトナムに漂着。生き残った4人は2年をかけて洛陽にたどり着いていました。これが736年。
玄宗皇帝は3年弱の洛陽滞在から長安に戻りました。平群広成も長安に移り、仲麻呂の協力援助を得て帰国の方策を探っているところです。

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1300年前の天然痘と今のコロナのパンデミックが重なり、当時の息詰まるような空気が生々しく伝わりました。
患者への対応、治療法が余りにも具体的だったのでWikiで調べてみました。
大和朝廷は8世紀初頭には中国にならった疫病のモニタリング制を導入しています。
太政官符「疫病治療法および禁ずべき食物のこと7カ条」として、国司を通じて全国に周知徹底させようとしたそうです。


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