<新・とりがら時事放談> 旅・映画・音楽・演芸・書籍・雑誌・グルメなど、エンタメに的を絞った自由奔放コラム
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古典落語と新作落語。
何度聞いても面白いのが古典落語で、何度も聞けないのが新作落語。
だって新作落語は使い捨てみたいな噺が多いから。

大体の傾向はそういったところだろう。

古典落語はオチが分かっているのに、なぜか楽しんでいる自分がいる。
そういう事実に自分自身驚くことは少なくない。たぶん古典落語には精神的に人を癒してしまう機能があるのだろう。

それに引き換え新作落語。
オチが分かっていたら聞く気もしないし、だいたいが初めから聞く気もしないものが少なくない。

例えば有名落語家、仮に桂S枝と呼ぶとしよう。
かの師匠の新作落語は数が多い。
多いけれども内容は薄い。
小説や論文の世界ではよく見かける多作で中味なし。
でも演じる人がポピュラーな人だから、それをCDにして販売したりなんかしている。
買う人が居るのが古典の好きな私には理解できないが、理解出来ないだけに地球資源の浪費ではないかと思ってしまうことも少なくない。

とまあ、環境問題にまで、言及しそうになってしまいそうな品質なのだ。

古典は基本。
基本がしっかり出来上がっているのだから、なんど同じ内容を聞いたとしても楽しめる。
新作でも基本がしっかりしている小佐田定雄の作品には何度聞いても楽しい話が結構ある。
尤も、その基本がなんであるのかを説明するのはかなり困難ではあるが。

そういう意味で、夢路いとし喜味こいしの漫才は「古典漫才」と呼んでも過言ではなかった。
なんといっても、古典落語のように同じネタを何度聞いても面白かったのだから、凄い!という他ない。
しかも子供の頃に聞いた漫才と、大人になってから聞いた漫才を全部面白いと感じるのだから、その漫才、まさに芸術。
今も時々、仕事でイライラしたときにYouTubeなどでお世話になっている心和ませる漫才だ。

そのいとしこいしの生き残り、喜味こいしが亡くなった。
享年83歳。

まったくもって惜しいというか、なんというか。
相方でお兄さんだった夢路いとしは随分前に亡くなっていたので、最近は二人の漫才は見ることができなくなっていたのだけれども、それでも片方が存命であるのと、そうでないのは大きな違いがある。

「ぐちゃぐちゃで思い出したんやけど、君とこの嫁はんは元気か?」
「なんで『ぐちゃぐちゃ』でうちの嫁はんを思い出すんや!」

もう、生では聞けないネタになってしまった。
さよなら、古典漫才。

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