そのむかし、音の本棚というラジオドラマ番組で「タイム・トラブル・ストーリー」という連作の物語が放送されたことがある。
そのうちの一話の冒頭で道端で食べ物を求める青年が登場した。
「何か......何か食べ物を....」
青年はその場で倒れた。
続いて担ぎ込まれた病院だったか、個人宅だったかで医者が言った一言が妙に印象に残っている。
「こりゃーめずらしい。」
「めずらしいって?」
「今時行き倒れですよー!これは!」
青年は行き倒れ。
飲まず食わずで街を彷徨ってきた青年は過去の自分の家の前で倒れて、家族に助けを求めたというのが事の顛末。
青年は映画でよく描かれるパターンの「未来から来た人」だったのだが、他の映画や物語と違ってこの未来から来た青年には何の才能も知識もなく、「未来から来た人のメリット」を活かすことができなかったことが、「行き倒れ」に結びついたという、まま笑い話なのであった。
ラジオドラマは私が中学生だった1978年頃の放送だったので、日本の国もまだまだ今と比べると豊かな国だった。
経済的で豊かという意味ではなく、心の中味が今よりももっと豊かな国だったという意味だ。
だから「現代の行き倒れ」を笑い事に済ませる心の余裕が当時はあったのだが、もし今テレビやラジオで同様のことを描いたら、果たしてコメディで描けるかどうか。
疑問である。
というのも、大阪府豊中市で60代の姉妹が餓死しているのが発見される世の中。
飽食の時代とかグルメだとかテレビやラジオで言われて久しいが、大都市のど真ん中で餓死する人が出る社会というのはいったいどうなっているのか、考えてみる必要がある。
それも深刻に、早急に。
大阪府豊中市といえば人口40万人弱の中核都市。
いくつかの大企業の工場や国立大学や有名私立大学がそのキャンパスの一部分を置いているので収入はしっかりしている。
社会福祉に向ける金がない、などということはない。
公務員の給与のほうが税収より多いという鹿児島のどっかの街よりはすくなくとも豊かだ。
おまけに税収以外に大阪空港関連の補助金がどっどと付くので街中の公共施設は不必要に立派なものも少なくない。
こういう街で公職に付く人というのは、多少怠慢でもやっていけるのかも知れず、そこんところが私企業と大きく異なる非常識な点かもわからない。
今回の事件は、昨年、いわゆる100才をとうに超え死んだ老人に年金を払い続けていた怠け者と同じ。
「亡くなったのは残念。執行官が手紙を入れているので、本人から相談してくるのを待つことにした。執行官からの相談がもう少し早ければ、対応策を話し合えたかもしれない」
という新聞報道で伝えられる市の担当者の談話は、
「訪問するのが面倒だから」
ということを遠まわしに言っているとしか思えない。
豊かな国の餓死者の怪。
さもありなん、では済まされないのが腹がたつところだ。
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