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大阪梅田の映画館「松竹梅田ピカデリー」が16日で閉館する。
シネコン化していく映画館の潮流で、昔ながらの映画鑑賞のスタイルがまたひとつ消え去ることになった。

地下街「Whityうめだ」の泉の広場を地上に出たすぐのところにある梅田ピカデリーはひとつのランドマークだった。
太融寺。
阪急東通り商店街。
お初天神商店街。
とキタの中でも最もディープな雰囲気の漂うエリアがクロスするところに位置しており、周囲は一種どくとくの雰囲気がある。
なんといっても普通に見える泉の広場なんかでは時間帯によっては時々女装をしたオッサンを見かけることがあるくらいディープなところなのだ。

この梅田ピカデリーは昭和55年にオープン。
当時は新築だったので、ほかの映画館、例えば北野劇場や東映会館などと比べると、とってもモダンな映画館のように感じたのであった。
オープン当時、中学生だった私もちょうど両親とではなく自分で映画を見に行く年齢に達した時であり、この映画館でも何度か映画を見ることになった。

何を見たのか覚えている作品は少ない。

ピーター・セラーズの遺作になった「チャンス」ぐらいしか覚えていないのが辛いところだ。
邦画もいくつか観た記憶があるのだが、この映画館でこの映画、という記憶はよほどその映画館が特別な場所でない限り覚えていることはない、と今回新たに気付いた。
例えばシネラマOS劇場で鑑賞した映画はすぐにでも何本かは思い出せる。
「スターウォーズ」の最初の3作品、「未知との遭遇」「2001年宇宙の旅」「トップガン」「メリーポピンズ」「地獄の黙示録」などなど。
わざわざ「シネラマの大画面で見たい!」と思って足を運んだからこそ覚えているのだ。

梅田ピカデリーで最も印象に残っているのは、この劇場で松竹株式会社の会社説明会が開かれたことであった。

就職活動をしていた私は映画会社も訪問していた。
松竹もその一社で映画の世界に憧れていたのであったが、「就職説明会があるので来るように」と指示されたのが梅田ピカデリーなのであった。
映画会社というのは私のような芸術系の学生が憧れ目指す企業のひとつであったわけだが、何百人と集まった入社希望者の前で、松竹の人事担当者が言ったひと言は今も忘れることができないほど衝撃的な内容だった。

「松竹は『寅さん』シリーズの何本かを除いて映画は制作していませんし、今後も増やすことを考えていません。うちの会社の主な事業は『不動産』です。それでもよければ試験を受けてください。」

映画は斜陽産業の最たるもので、映画なんか作ってられるか、というのが当時の松竹の姿勢だった。
だから最大の業務は映画最盛期に獲得した劇場を主とする不動産の管理運営がメインの事業だと説明されたのだった。

「梅田ピカデリー」は映画を見た劇場という記憶よりも、「釈然としない重い気持ちで出た劇場」という記憶が強く、今もそうであり続けている。

ピカデリーが閉館するからといって大阪梅田地区の映画館のスクリーン数が減るということはないそうで、この春完全リニューアル新築オープンする超巨大なJR大阪駅ターミナルビルの中に新たなシネコンがオープンするのだという。

梅田は今も昔も映画激戦区だ。

なお、私にはミニシアター系劇場のひとつの中心である東京の恵比寿ガーデンシネマの閉館の方が「なんたるこっちゃ!」という気持ちが強い。
梅田ガーデンシネマには頑張っていただきたいと思ったのであった。


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