残り馨、消えても遺されるもの

第48話 薫衣act.3―side story「陽はまた昇る」
『Fantome』
この言葉は、警視庁のなかで特別な意味がある。
この言葉は所謂「隠語」その文字通りに隠された存在であるべき言葉。
それをなぜ、遠野教官が知っている?
―なぜ知った?
遠野教官の前歴は捜査一課。
捜査一課にはSITがいる、SITになる者たちの前歴は?
そう考えると遠野が捜一時代に「隠語」を知る可能性は高い。
それとも、職務への責任感が生んだ偶然が招きよせた、とも考えられる。
この推理2つと微笑んだ向こう側、かすかなため息が遠野教官からこぼれた。
「交換条件を出せば、教えてくれるか?」
交換条件、その意味が何を指すのか解る。
この提示が真実なのか?それはきっと「NO」だと今の自分は解かる。
この「交換条件」の情報に真実を知れば、英二が何をするかぐらい遠野教官は解かっているだろうから。
それを解ったうえでも情報を与える心算なら、遠野教官は「教唆犯」になってしまうから。
なによりも、自分の方こそ教えられない。
絶対に教えるわけにはいかない、それは初任総合初日にも伝えたこと。
あのときと同じに微笑んで、英二は真直ぐに答えた。
「遠野教官、人が背負い切れる責任と義務は限りがある。そう思いませんか?」
こんな言い方は失礼だと、解かっている。
けれど他に何を言えばいいのだろう、この言葉の通りなのに?
これは「知る」こと自体が危険の引金と知っている、それをどうして言うことが出来る?
そんな想い目に映して見つめた先で、仏頂面が小さく微笑んだ。
「俺には背負えない、そう言うことか、」
「申し訳ありません、」
ひと言を告げて英二は頭を下げた。
ゆっくり姿勢を戻し、また真直ぐ見つめた視線を困ったよう遠野が見つめ返す。
いま選択に困惑する「話すかどうするか?」そんな途惑いが見つめてくる。
すこし押したら話す?そう視てとったままに英二は笑いかけた。
「率直に言います、ファイルの閲覧はご注意ください。逆トレースされる危険が高いですから、」
これは推測から生まれた「トラップ」の台詞。
これに係るだろうか?それとも外される?逆に自分がトラップに掛けられる?
いま考え巡らす冷えた脳裏に映る視界で、厳格な顔に表情が揺らいだ。
「なぜ、そんなことを俺に言う?」
「捜査一課にはSITがありますね、」
間髪入れず仕掛けた第二のトラップに、遠野教官の目が大きくなった。
その表情に遠野が何をして「隠語」を知ってしまったのかが見えてくる。
やっぱりあの部署にも「束縛」の鎖が存在する、その鎖に無意識のまま絡まれそうな男が、目の前にいる。
―どうか止めてほしい、もう誰も、関わるな
もう関わらないでほしい、あの鎖に繋がれることは逃したいから。
どうしたら止められるのだろう?どうしたら逸らすことが出来る?いま自分が何を言えば止められる?
幾つかの可能性と考え廻る眼前、ひとつ息呑んだ遠野教官の口が開いた。
「捜一時代の同僚にも言われた、ファイルの閲覧に気を付けろ、とな、」
『ファイルの閲覧に気を付けろ』
この台詞を遠野に言う「捜査一課の同僚」は誰か。
彼が何のチームにいるのか?彼の前歴はどこにあったのか?
それはもう訊かなくても解かる、そして、なぜ彼が遠野に台詞を言ったのかも。
もう遠野教官はマークされた?
このまま放っておいたら遠野教官は、なにをする?
この男の性格から考えて、有耶無耶にすることなど出来るのだろうか。
どうしたらいい?心裡ため息こぼれる音を聴きながら英二は微笑んだ。
「履歴書の回付先をトレースした、それが切欠ですよね、」
微笑んで告げた推測のトラップ、この3つめで口を割るだろうか?
けれど遠野教官はいつもの皮肉っぽい笑み浮かべ、問い返した。
「俺がトレースをする、その動機は?」
「2つ、ですよね、」
短い答えに一度言葉を切って、真直ぐに目を見た。
目を視線で捕えたまま微笑んで、静かな低い声で英二は推測を言った。
「1つめは、警察学校の意志を無視された経緯の事実確認、2つめは自分の訓練生に何が起きているのか知りたい。
この2つを、警察学校の教官としての責任感と、ご自身のプライドから知ろうとされた。これがトレースをなさった動機ですよね?」
自分に与えられた職務への責任と義務と誇り。
これらを侵害されたなら、当然のよう理由を知りたいと思うだろう。
けれどこの「知りたい」が危険を招いてしまう、それが怖い。
そんな想いの目の前で、遠野教官が空を仰いで笑った。
「ははっ、お手上げか、」
ため息のような短い笑いに、皮肉な笑みが英二を見た。
仕方ないな?そんな諦観の顔のままで遠野教官は口を開いてくれた。
「その通りだ、宮田。俺は湯原の履歴書をトレースした、どこの誰が新宿署への配置を決めたのか、知りたかった。
俺の職務を無視されて腹も立った、警察学校の意志を完全に無視した決定に、納得が出来ない。それが最初の動機だったよ、」
低く声は朝の静寂に気配を隠す。
ふっと風が吹きぬける、濡れた髪が揺らされ冷えて脳髄がクリアになっていく。
朝陽ふる中庭には誰もいない、無人を見渡せる水場で遠野は事実を告げた。
「辿り着いた最後のファイルでは、氏名がイニシャルにされていた。代わりに、射撃の全成績が添えられてな、」
緊張のため息が言葉を切った。
わずかな沈黙、そして真直ぐ英二を見つめて苦い声が言った。
「警察学校から後の記録が添付される、それは解かる。だが、高校から大学までの8年間、大会から練習のスコアまである。
そしてファイルには、もう1人分の履歴書と経歴書、学生時代からのスコアが保管されていた。こっちは氏名欄が無かった。
ただデータ名が『F.K』とあるだけだ、それでも履歴書と経歴で誰なのか特定できる。この特定が正解だとしたら、これでは最初から」
言いかけた言葉に躊躇いが口を閉ざす。
けれど遠野は再び口を開き、英二に問いかけた。
「このファイル名が『Fantome』だ、この言葉の意味は何だ?なぜ揃って、警察官になる前のデータまで保管されている?」
ファイル『Fantome』
周太が初めて射撃にふれたのは、高校1年生の部活動。
それから大学の4年間と、警察学校6カ月間のスコア、そして卒配期間の新宿署特練と2つの大会の記録。
周太が射撃を始めてから今日まで、8年間の射撃スコア全てが『Fantome』には保管、管理されている。
『F.K』の記録も同様、大学3年生で射撃部に所属した時から殉職した当日までのスコアが残されている。
但し実戦記録だけは、通常ツールから入っても存在すら気づけない。
それでも英二と光一は実戦記録まで見ることが出来た、このデータは記憶に綴られている。
なぜ『Fantome』が作られたのか、その原点も「家」とアルバムから既に見つけたのだろう。
だからもう解っているだろうと思う、この添付データの存在が何を意味しているのか?
だから知っている、『Fantome』は隠語、隠されるべき存在。
なぜ『Fantome』は、隠されるべきなのか?
それは司法の「禁域」に棲む存在だから。
それは法治国家の矛盾が生んだ「奇形の正義」だから。
これは倫理と法治の陥穽と軋轢「必要悪」安易に踏みこむべきではない領域。
だから何も言うことは出来ない「自分が知っている」ことすら口外すべきでは無い。
だから何も言えない、黙って聴くことしか出来ない、この沈黙に佇む英二に遠野は真直ぐに訊いた。
「宮田、おまえは知っているな?俺も見てしまった、もう同じだ。ならば教えてほしい、俺は担当教官として知る責任がある、」
ファイル『Fantome』の存在を知っているか、いないか?
知っているという意味では確かに同じだろう、けれど「知っている事を知られたか」この差が大きい。
英二にはファイル閲覧権限それ自体がまだ無い。
そして光一の「特別ルート」から閲覧をしている、だから逆トレースは無い。
また英二と周太の関係を公文書で見るなら「警察学校の同期」だけ、あとは身元引受人欄の周太の母の名前しかない。
けれど、それも英二を特定して調べなかったら、おそらく判明し難い。
遠野教官は周太の担当教官、この関係は周知の事実で誰もが知る。
そしてファイル閲覧権限を持っている、けれど光一のような逆トレースの防御をしていない。
この条件では、遠野が『Fantome』を探れば即座に気づかれる、だから「捜査一課の彼」から警告がされた。
―この警告が、どうか、善意であって欲しい
その「彼」が例え束縛の一本だとしても、遠野には救い手であってほしい。
きっと『Fantome』に向きあう自分は、これまで以上の絶望と怒りに出会い利己の醜悪を見るだろう。
だからこそ「彼」が示した警告は元同僚への善意だと、遠野を守る意思なのだと信じていたい。
あの残酷な束縛を守る人々にも「人間の尊厳」を守る想いが残されていると信じたい。
どうか信じさせてほしい、祈り心に呟いて英二は綺麗に微笑んだ。
「事実を言います。遠野教官、湯原のために探らないで下さい。なにも知らないでいる、それだけが湯原を守ります、」
どうか知らないでいて欲しい「あなた」を守る為に。
そう言っても遠野教官は、きっと知ろうとするだろう。
警察学校教官の任務に誇りを懸けて、1人の警察官として、敏腕を謳われた刑事として知ろうとする。
けれど「湯原のため」教え子の為と言われたら、この男の身動きは封じられるはず。
―あの安西の事件の時も、そうだった…遠野教官は
あのとき遠野が「撃て」と周太に言ったのは、本気だった。
それは殺人の罪を犯させる為ではなく、周太を援けるために言ったことだった。
あのとき発砲を拒めば周太は、冷静な恐慌に陥っていた安西に手錠で繋がれたまま射殺されたから。
そして、あの「発砲許可」は本当は、捨て身だった。
確かに周太の射撃は今、警視庁でトップを争う精度を持っている。けれど人に向けて発砲することは競技とは違う。
当然に精神的にゆすぶられる、精神の集中を欠けば射撃は標的を狂わす、それら全てを知っても遠野は発砲を「許可」した。
あの瞬間の眼差しから知っている、この教官は誰よりも本当は「守りたい」意志が強い。
だから周太の安全を盾にするならば、これ以上の遠野の捜索は封じてしまえるはず。
この確信と見つめる先で、また1つ空仰いで遠野は溜息に笑った。
「知らないことが守る、なるほどな。そういうことも、この世界は多い、」
すこし皮肉な笑みに口許ほころばせて、けれど黒い瞳は傷むよう見つめてくれる。
透かすよう英二を見、遠野教官は訊いた。
「おまえはどうなんだ、宮田?おまえが知ることは、湯原を危険に晒さないのか?」
この人なら英二の現状に、なにか気付いているかもしれない。
そんな思いと真直ぐ見つめて英二は微笑んだ。
「どうでしょう?」
短い返事、けれど何も答えてはいない。
それでも遠野なら解るだろう「何も知らない」ことだけが守る、それが本当なのだと悟るだろう。
だから何も言わなければいい、真直ぐ見つめる目へと綺麗に笑って、英二は嘘を吐いた。
「私も、知りません」
笑顔のまま1つ礼をすると、英二は寮の入口へと踵を返した。
いつもの足取りで歩く背中を視線が見守る、その視線に自分は気づいてもいけない。
もう誰も巻きこめないから気付かない、これは光一と自分以外は誰も知ってはならないから。
どうしても周太から離れられない自分達だけしか、知る必要はない。
―もう誰も関わらないでほしい『Fantome』には
Fantome:化物
Le vaisseu fantome:さまよえるオランダ人
La Fantome de la liberte:自由の幻想
『Fantome』
この言葉で有名なのは『Le Fantome de l'Opera』
邦題は「オペラ座の怪人」恋愛を廻るミステリーを描いたフランス文学の著名な小説。
このミステリーはオペラ座の「奈落」に棲む怪人『Fantome』が紡ぎだす。
オペラ座の地下「奈落」そこは表舞台の仕掛けを動かす闇の世界。
その闇にひそやかに棲み続けているのは、オペラ座を作った天才設計技師。
この技師は醜い顔を隠すためにマスクをつけ、この醜さゆえに「奈落」に身を潜め生きている。
それでも時に「奈落」から幻影のよう現われて、彼は自己の存在を示し、警告する。
オペラ座は自分の館、巨大なカラクリ箱、支配者は「闇」に堕とされた自分だと。
そして誰かが館を暴こうとするならば、カラクリ箱の罠に嵌めこみ死へ誘う。
そんな彼を人々は『Fantome』と呼んだ、本当の名前を誰も呼ばないで。
『Fantome』
醜い素顔を隠すマスクをつけた、「奈落」に沈む異形の天才。
彼と同じようにマスクをつけた天才は、警視庁では「誰」を指す?
または、警察組織で天才と呼ばれる人間がマスクをつける「任務」は何か?
このマスクで顔を隠すほどの「任務」に負わされ「奈落」に住まわされる意味は?
奈落に沈む、本当の名前は消えて「記号」で呼ばれる、存在自体が消されていく、そして残されるものは?
―それでも周太、俺は君を忘れられない。だから離さない、ずっと
忘れられない離れられない、ならば背負えばいい。
この想い抱きしめる俤に微笑んで、英二は自室の扉を開いた。
開いた部屋は朝陽みちて明るい、ほっと息吐きながら扉を閉じた。
ぱたん、
軽い音に扉は閉じられる。
施錠して、そのまま扉に背凭れるとTシャツの胸元にふれた。
そこには今日も小さな合鍵が、そっと指先に輪郭を描いてくれる。
この大切な宝物を布越しに握りしめて、ごく低い声で英二は微笑んだ。
「…フランス文学からコードネームをつける、なんて…ね、お父さん?」
晉はフランス文学者だった。
そして射撃の名手だった、けれど拳銃を深く埋めて「射撃」の事跡を消そうとした。
その拳銃が埋められた場所は家の「奈落」だろうと、コードネームからも確信が深くなる。
これが正解ならば「コードネームと拳銃の埋葬場所」この呼応に晉の想いが切ない。
この晉が遺した皮肉のヒントに、馨は気づかないでいただろうか?
このヒントはきっと馨も「あの警察官」も気付いていはいない。
そう信じたい、そうでなければ「家」に住み続け守った晉の母の想いが無駄になる。
あの家に必ず家族が住み続け、一度も壊すことなく改修だけで住み続けてきた。
その理由の全てが「奈落」にある。
けれど「奈落」は馨も知らなかっただろう。
そして馨の息子と妻は何も知らない、晉の母が祈り願ったように彼女の子孫は何も知らない。
だから、このまま理由にも「奈落」にも、50年の束縛の全てに気付かないでいてほしい。
―全てを自分が背負うから、断ち切ってみせるから、だから気付かないで
どうか誰も何も気付かないままでいて?
これは「知らない」ことがそのまま、護ることになるのだから。
この祈りに被さるよう遠野が言った「交換条件」の記憶がよみがえる。
『銃出せ、殺すぞ』
真っ暗な教場、
自身の拳銃を突きつけられた周太、
その前で勝ち誇るよう座りこんだ、冷静な狂気。
そしてライトにきらめいた、周太の頬の一すじの涙、それを見た瞬間に生まれた感情の色彩。
あの男を自分は、赦せる?
「…ゆるせない、」
きっと自分は赦せない。
だって自分を救った存在を、あんなふうに泣かせるなんて?
そんなこと赦せない、時の経過が過ぎるほど本当は赦せなくなっていく。
時を重ね記憶を重ね、体温を重ねていく時の記憶に恋も愛も深くなる、失うことが怖くなる。
そして怖い分だけ想いの深さだけ、募らされていく「赦せない」想いは熱を高くする。
もし自分があの男と再会したら、自分は何をする?
あのとき自分は射撃の正中度は100%では無かった、けれど今は違う。
あのときは唯の訓練生でなんの力も無くて、けれど今は警察組織での立場も発言力も幾らか手に入れた。
そして「山」に立つとき、現場に立つとき、自分の出来ることは大きく広がっている。
この掌のなか既に掴んだ自由と力、これを自分はどう使いたい?
そんな想いめぐらす背中の扉を、小さなノックが叩いた。
こん、…こん、
どこか遠慮がちな叩き方は、よく知っている。
すぐに開錠して扉を開くと、黒目がちの瞳は見上げてくれた。
「英二、あの、ちょっと質問があるのだけど…朝の点呼まで、いい?」
ファイルを抱えて気恥ずかしげに微笑んでくれる。
その笑顔に幸せを見つけて英二は、そっと腕をとり部屋に導き入れた。
そして小さな施錠音に扉を閉じると、腕を伸ばし小柄な体を懐に抱きこんだ。
「周太、」
名前を呼べる、この今が愛しい。
この今の瞬間に与えられる幸せに微笑んで、英二は唯ひとりの恋人にキスをした。
優しいキスの狭間から、ふわりオレンジの香が口移される。
この香の記憶が、温かで愛しくて、離せない。
―絶対に護ってみせる、誰にも邪魔させない
抱きしめた誓いのキスふれながら、オレンジの香に祈りと微笑んだ。

今日最後の授業、射撃訓練が終わった。
射撃場から出ると緑が清々しい、硝煙の匂いも風に消えてゆく。
関根と周太と3人並んで歩きだすと、黒目がちの瞳が見上げ訊いてくれた。
「英二、ちょっと瀬尾と話してきても良い?さっき、話の途中だったから、」
「うん、いいよ。じゃあ先にトレーニングルーム行ってるな?そのあと、学習室にいるよ、」
気にせず行ってきてほしいな?そんな想いと笑いかけた。
周太と瀬尾は初任教養の時から仲が良い、卒業配置後も一緒に手話講習を受講している。
それに金曜日は瀬尾が周太に話しに部屋まで来ていたから、その話の続きがあるのだろうな?
そんなことを考えながら小柄な背中を見送ると、並んで歩く関根が照れくさげに笑った。
「たぶん瀬尾、土曜日の昼の話をするんだろな?昨夜、おまえらに話したけど、」
「5年後の話と姉ちゃんのこと?」
「うん、たぶんな?あのさ、今夜あたり瀬尾に、昨夜の結果を話してもいい?」
訊きながら気恥ずかしげに笑う顔が、幸せそうでいる。
こういう顔でずっと笑って、姉の隣にいてくれるなら良いな?
そんな願いと少しの寂しい気持に笑って、英二は頷いた。
「おまえと姉ちゃんが良いなら、話しなよ。でも、俺達のことは時期を待ってくれな、」
元から関根は勝手に話すつもりがない、そう知っている。
それでも口にした英二に、関根は真面目な顔で頷いてくれた。
「おう、今は知らない方が良いよな、きっと、」
「気を遣わせて悪いな、」
これから関根には、周太と自分の関係について気を遣わせるだろう。
それが申し訳ないな?すこし困り顔で笑いかけた先、快活な笑顔が首をふった。
「そんなこと謝るなって。お前の方こそ俺に話すために、色んな人に話しつけてくれただろ?ありがとうな、」
「たいしたことないよ、」
笑って答えながら寮の入口を潜り、廊下を歩いていく。
この関根と姉が付合うことに当って自分は、4人に相談をした。
姉は結婚前提でしか交際するつもりが無い、それなら当然に家族の問題も相手には話すだろう。
そのとき最も問題になるのは「英二と周太の婚約」、これを公にすることはケース次第でスキャンダルになる可能性が高い。
これを自分だけの判断で話すことは出来ない、だから影響の大きい4人には相談したかった。
まず後藤副隊長に英二は話した。警視庁山岳会長であり山岳救助隊副隊長の後藤は、公人として最も影響があるから。
次に青梅署警察医の吉村医師へと相談をした。非公式でも英二は警察医補佐を務める以上、上司として話しておきたかった。
それに吉村医師は英二の家庭事情から周太と光一のことまで理解してくれる、一番の助言者でもある。
この2人の大人から意見と助言を貰ったうえで、父に連絡をして許可を貰った。
そして最後に、光一に話した。
「俺は構わないね。おまえの判断を俺は信じてるよ、後は支えるだけだよね、」
そんなふうに山っ子は笑ってくれた。
自主トレーニングで登った岩壁の上、日原川に砕ける陽光を眺めながら話す時間は穏やかだった。
ゆるやかな川風は水の香が心地いい、ゆれる黒髪が艶めくはざま雪白の肌は明るんで。
いつものよう底抜けに明るい目は、楽しげに笑ってくれていた。
あの笑顔が、切ない。
「じゃ、宮田。トレーニングルームでな、」
「おう、」
笑って別れて、自室の扉を開く。
施錠しながら鞄をデスクに置くと、そのまま携帯を開き窓辺に佇んだ。
送信履歴から架けて空を見上げる、見上げた色彩は青くて、微かな夕映えが降りだしている。
いま奥多摩も晴れているだろうか?想い馳せるコールに5を数えたとき、通話が繋がった。
「おつかれ、光一、」
「こんな時間に、何かあったワケ?」
すこし焦るようなテノールが訊いてくれる。
いま16時20分、まだ駐在所は業務時間内になる。そんな時間に電話するなど普段の英二はしない。
やっぱり心配させたな?我ながらこんな行動が可笑しい、それだけ自分が朝から考えていたと思い知らされる。
この想い素直に英二は、電話の向こうに笑いかけた。
「こんな時間に、ごめんな。すこしでも早く謝りたかったんだ、光一に。それで今、授業終わってすぐ架けてる、」
「…謝る?」
短く訊いた声が、不思議そうに驚いている。
やっぱり意外なのかな、そう想われる自分に困りながら英二は微笑んだ。
「抱きたいって言って、怖がらせて、ごめん。もう勝手なことしないから、赦してよ?」
「…え、」
告げた言葉に電話の向こうが揺れる、きっといま雪白の頬は桜色になっている?
大切な俤に微笑んで、時計見ながら英二は1つ約束をねだった。
「また今夜も、10時半ごろ電話していい?」
「うん、…待ってるね、」
すこしの沈黙に、切ない想いが起きてしまう。
どれだけ不安にさせていた?この自責があまく痛い、傷みに英二は綺麗に笑った。
「ありがとう、光一。愛してるよ、俺のアンザイレンパートナー、」
「そう言ってもらうの、うれしいけどね。昼間っから、どうしちゃったワケ?」
ちょっと可笑しそうに笑ってくれる。
すこしは信じて貰えたなら良い、そんな想いと微笑んだ。
「どうもしない、正直に言ってるだけだよ。光一、またあとでな、」
「うん、またあとでね…英二、」
最後に名前、やっと呼んでくれた。
いつもどこか躊躇うよう名前を呼んでくれる、それが切なさに愛しい。
この想いの相手が自分のパートナー、警察組織でも「山」でも、そして。
―そして、周太を守るための、唯一のパートナーなんだ、
唯ひとり自分と並び立てる『血の契』結んだ相手。
誰よりも信じ頼ることが互いにできる、ザイルに生命と誇りを繋ぎあう運命の相手。
自分とよく似ている正反対、それは表裏や陰陽のよう呼応して、常に響きあう。
恋愛とすこし違う、けれど強く繋がる絆を感じあう、鏡のような唯ひとり。
こんな相手を愛さない筈がない、本性の熱が高すぎる自分だから。
「ほんとうに大切だよ、光一、」
素直な想い告げて、そっと電話を切った。

(to be continued)
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第48話 薫衣act.3―side story「陽はまた昇る」
『Fantome』
この言葉は、警視庁のなかで特別な意味がある。
この言葉は所謂「隠語」その文字通りに隠された存在であるべき言葉。
それをなぜ、遠野教官が知っている?
―なぜ知った?
遠野教官の前歴は捜査一課。
捜査一課にはSITがいる、SITになる者たちの前歴は?
そう考えると遠野が捜一時代に「隠語」を知る可能性は高い。
それとも、職務への責任感が生んだ偶然が招きよせた、とも考えられる。
この推理2つと微笑んだ向こう側、かすかなため息が遠野教官からこぼれた。
「交換条件を出せば、教えてくれるか?」
交換条件、その意味が何を指すのか解る。
この提示が真実なのか?それはきっと「NO」だと今の自分は解かる。
この「交換条件」の情報に真実を知れば、英二が何をするかぐらい遠野教官は解かっているだろうから。
それを解ったうえでも情報を与える心算なら、遠野教官は「教唆犯」になってしまうから。
なによりも、自分の方こそ教えられない。
絶対に教えるわけにはいかない、それは初任総合初日にも伝えたこと。
あのときと同じに微笑んで、英二は真直ぐに答えた。
「遠野教官、人が背負い切れる責任と義務は限りがある。そう思いませんか?」
こんな言い方は失礼だと、解かっている。
けれど他に何を言えばいいのだろう、この言葉の通りなのに?
これは「知る」こと自体が危険の引金と知っている、それをどうして言うことが出来る?
そんな想い目に映して見つめた先で、仏頂面が小さく微笑んだ。
「俺には背負えない、そう言うことか、」
「申し訳ありません、」
ひと言を告げて英二は頭を下げた。
ゆっくり姿勢を戻し、また真直ぐ見つめた視線を困ったよう遠野が見つめ返す。
いま選択に困惑する「話すかどうするか?」そんな途惑いが見つめてくる。
すこし押したら話す?そう視てとったままに英二は笑いかけた。
「率直に言います、ファイルの閲覧はご注意ください。逆トレースされる危険が高いですから、」
これは推測から生まれた「トラップ」の台詞。
これに係るだろうか?それとも外される?逆に自分がトラップに掛けられる?
いま考え巡らす冷えた脳裏に映る視界で、厳格な顔に表情が揺らいだ。
「なぜ、そんなことを俺に言う?」
「捜査一課にはSITがありますね、」
間髪入れず仕掛けた第二のトラップに、遠野教官の目が大きくなった。
その表情に遠野が何をして「隠語」を知ってしまったのかが見えてくる。
やっぱりあの部署にも「束縛」の鎖が存在する、その鎖に無意識のまま絡まれそうな男が、目の前にいる。
―どうか止めてほしい、もう誰も、関わるな
もう関わらないでほしい、あの鎖に繋がれることは逃したいから。
どうしたら止められるのだろう?どうしたら逸らすことが出来る?いま自分が何を言えば止められる?
幾つかの可能性と考え廻る眼前、ひとつ息呑んだ遠野教官の口が開いた。
「捜一時代の同僚にも言われた、ファイルの閲覧に気を付けろ、とな、」
『ファイルの閲覧に気を付けろ』
この台詞を遠野に言う「捜査一課の同僚」は誰か。
彼が何のチームにいるのか?彼の前歴はどこにあったのか?
それはもう訊かなくても解かる、そして、なぜ彼が遠野に台詞を言ったのかも。
もう遠野教官はマークされた?
このまま放っておいたら遠野教官は、なにをする?
この男の性格から考えて、有耶無耶にすることなど出来るのだろうか。
どうしたらいい?心裡ため息こぼれる音を聴きながら英二は微笑んだ。
「履歴書の回付先をトレースした、それが切欠ですよね、」
微笑んで告げた推測のトラップ、この3つめで口を割るだろうか?
けれど遠野教官はいつもの皮肉っぽい笑み浮かべ、問い返した。
「俺がトレースをする、その動機は?」
「2つ、ですよね、」
短い答えに一度言葉を切って、真直ぐに目を見た。
目を視線で捕えたまま微笑んで、静かな低い声で英二は推測を言った。
「1つめは、警察学校の意志を無視された経緯の事実確認、2つめは自分の訓練生に何が起きているのか知りたい。
この2つを、警察学校の教官としての責任感と、ご自身のプライドから知ろうとされた。これがトレースをなさった動機ですよね?」
自分に与えられた職務への責任と義務と誇り。
これらを侵害されたなら、当然のよう理由を知りたいと思うだろう。
けれどこの「知りたい」が危険を招いてしまう、それが怖い。
そんな想いの目の前で、遠野教官が空を仰いで笑った。
「ははっ、お手上げか、」
ため息のような短い笑いに、皮肉な笑みが英二を見た。
仕方ないな?そんな諦観の顔のままで遠野教官は口を開いてくれた。
「その通りだ、宮田。俺は湯原の履歴書をトレースした、どこの誰が新宿署への配置を決めたのか、知りたかった。
俺の職務を無視されて腹も立った、警察学校の意志を完全に無視した決定に、納得が出来ない。それが最初の動機だったよ、」
低く声は朝の静寂に気配を隠す。
ふっと風が吹きぬける、濡れた髪が揺らされ冷えて脳髄がクリアになっていく。
朝陽ふる中庭には誰もいない、無人を見渡せる水場で遠野は事実を告げた。
「辿り着いた最後のファイルでは、氏名がイニシャルにされていた。代わりに、射撃の全成績が添えられてな、」
緊張のため息が言葉を切った。
わずかな沈黙、そして真直ぐ英二を見つめて苦い声が言った。
「警察学校から後の記録が添付される、それは解かる。だが、高校から大学までの8年間、大会から練習のスコアまである。
そしてファイルには、もう1人分の履歴書と経歴書、学生時代からのスコアが保管されていた。こっちは氏名欄が無かった。
ただデータ名が『F.K』とあるだけだ、それでも履歴書と経歴で誰なのか特定できる。この特定が正解だとしたら、これでは最初から」
言いかけた言葉に躊躇いが口を閉ざす。
けれど遠野は再び口を開き、英二に問いかけた。
「このファイル名が『Fantome』だ、この言葉の意味は何だ?なぜ揃って、警察官になる前のデータまで保管されている?」
ファイル『Fantome』
周太が初めて射撃にふれたのは、高校1年生の部活動。
それから大学の4年間と、警察学校6カ月間のスコア、そして卒配期間の新宿署特練と2つの大会の記録。
周太が射撃を始めてから今日まで、8年間の射撃スコア全てが『Fantome』には保管、管理されている。
『F.K』の記録も同様、大学3年生で射撃部に所属した時から殉職した当日までのスコアが残されている。
但し実戦記録だけは、通常ツールから入っても存在すら気づけない。
それでも英二と光一は実戦記録まで見ることが出来た、このデータは記憶に綴られている。
なぜ『Fantome』が作られたのか、その原点も「家」とアルバムから既に見つけたのだろう。
だからもう解っているだろうと思う、この添付データの存在が何を意味しているのか?
だから知っている、『Fantome』は隠語、隠されるべき存在。
なぜ『Fantome』は、隠されるべきなのか?
それは司法の「禁域」に棲む存在だから。
それは法治国家の矛盾が生んだ「奇形の正義」だから。
これは倫理と法治の陥穽と軋轢「必要悪」安易に踏みこむべきではない領域。
だから何も言うことは出来ない「自分が知っている」ことすら口外すべきでは無い。
だから何も言えない、黙って聴くことしか出来ない、この沈黙に佇む英二に遠野は真直ぐに訊いた。
「宮田、おまえは知っているな?俺も見てしまった、もう同じだ。ならば教えてほしい、俺は担当教官として知る責任がある、」
ファイル『Fantome』の存在を知っているか、いないか?
知っているという意味では確かに同じだろう、けれど「知っている事を知られたか」この差が大きい。
英二にはファイル閲覧権限それ自体がまだ無い。
そして光一の「特別ルート」から閲覧をしている、だから逆トレースは無い。
また英二と周太の関係を公文書で見るなら「警察学校の同期」だけ、あとは身元引受人欄の周太の母の名前しかない。
けれど、それも英二を特定して調べなかったら、おそらく判明し難い。
遠野教官は周太の担当教官、この関係は周知の事実で誰もが知る。
そしてファイル閲覧権限を持っている、けれど光一のような逆トレースの防御をしていない。
この条件では、遠野が『Fantome』を探れば即座に気づかれる、だから「捜査一課の彼」から警告がされた。
―この警告が、どうか、善意であって欲しい
その「彼」が例え束縛の一本だとしても、遠野には救い手であってほしい。
きっと『Fantome』に向きあう自分は、これまで以上の絶望と怒りに出会い利己の醜悪を見るだろう。
だからこそ「彼」が示した警告は元同僚への善意だと、遠野を守る意思なのだと信じていたい。
あの残酷な束縛を守る人々にも「人間の尊厳」を守る想いが残されていると信じたい。
どうか信じさせてほしい、祈り心に呟いて英二は綺麗に微笑んだ。
「事実を言います。遠野教官、湯原のために探らないで下さい。なにも知らないでいる、それだけが湯原を守ります、」
どうか知らないでいて欲しい「あなた」を守る為に。
そう言っても遠野教官は、きっと知ろうとするだろう。
警察学校教官の任務に誇りを懸けて、1人の警察官として、敏腕を謳われた刑事として知ろうとする。
けれど「湯原のため」教え子の為と言われたら、この男の身動きは封じられるはず。
―あの安西の事件の時も、そうだった…遠野教官は
あのとき遠野が「撃て」と周太に言ったのは、本気だった。
それは殺人の罪を犯させる為ではなく、周太を援けるために言ったことだった。
あのとき発砲を拒めば周太は、冷静な恐慌に陥っていた安西に手錠で繋がれたまま射殺されたから。
そして、あの「発砲許可」は本当は、捨て身だった。
確かに周太の射撃は今、警視庁でトップを争う精度を持っている。けれど人に向けて発砲することは競技とは違う。
当然に精神的にゆすぶられる、精神の集中を欠けば射撃は標的を狂わす、それら全てを知っても遠野は発砲を「許可」した。
あの瞬間の眼差しから知っている、この教官は誰よりも本当は「守りたい」意志が強い。
だから周太の安全を盾にするならば、これ以上の遠野の捜索は封じてしまえるはず。
この確信と見つめる先で、また1つ空仰いで遠野は溜息に笑った。
「知らないことが守る、なるほどな。そういうことも、この世界は多い、」
すこし皮肉な笑みに口許ほころばせて、けれど黒い瞳は傷むよう見つめてくれる。
透かすよう英二を見、遠野教官は訊いた。
「おまえはどうなんだ、宮田?おまえが知ることは、湯原を危険に晒さないのか?」
この人なら英二の現状に、なにか気付いているかもしれない。
そんな思いと真直ぐ見つめて英二は微笑んだ。
「どうでしょう?」
短い返事、けれど何も答えてはいない。
それでも遠野なら解るだろう「何も知らない」ことだけが守る、それが本当なのだと悟るだろう。
だから何も言わなければいい、真直ぐ見つめる目へと綺麗に笑って、英二は嘘を吐いた。
「私も、知りません」
笑顔のまま1つ礼をすると、英二は寮の入口へと踵を返した。
いつもの足取りで歩く背中を視線が見守る、その視線に自分は気づいてもいけない。
もう誰も巻きこめないから気付かない、これは光一と自分以外は誰も知ってはならないから。
どうしても周太から離れられない自分達だけしか、知る必要はない。
―もう誰も関わらないでほしい『Fantome』には
Fantome:化物
Le vaisseu fantome:さまよえるオランダ人
La Fantome de la liberte:自由の幻想
『Fantome』
この言葉で有名なのは『Le Fantome de l'Opera』
邦題は「オペラ座の怪人」恋愛を廻るミステリーを描いたフランス文学の著名な小説。
このミステリーはオペラ座の「奈落」に棲む怪人『Fantome』が紡ぎだす。
オペラ座の地下「奈落」そこは表舞台の仕掛けを動かす闇の世界。
その闇にひそやかに棲み続けているのは、オペラ座を作った天才設計技師。
この技師は醜い顔を隠すためにマスクをつけ、この醜さゆえに「奈落」に身を潜め生きている。
それでも時に「奈落」から幻影のよう現われて、彼は自己の存在を示し、警告する。
オペラ座は自分の館、巨大なカラクリ箱、支配者は「闇」に堕とされた自分だと。
そして誰かが館を暴こうとするならば、カラクリ箱の罠に嵌めこみ死へ誘う。
そんな彼を人々は『Fantome』と呼んだ、本当の名前を誰も呼ばないで。
『Fantome』
醜い素顔を隠すマスクをつけた、「奈落」に沈む異形の天才。
彼と同じようにマスクをつけた天才は、警視庁では「誰」を指す?
または、警察組織で天才と呼ばれる人間がマスクをつける「任務」は何か?
このマスクで顔を隠すほどの「任務」に負わされ「奈落」に住まわされる意味は?
奈落に沈む、本当の名前は消えて「記号」で呼ばれる、存在自体が消されていく、そして残されるものは?
―それでも周太、俺は君を忘れられない。だから離さない、ずっと
忘れられない離れられない、ならば背負えばいい。
この想い抱きしめる俤に微笑んで、英二は自室の扉を開いた。
開いた部屋は朝陽みちて明るい、ほっと息吐きながら扉を閉じた。
ぱたん、
軽い音に扉は閉じられる。
施錠して、そのまま扉に背凭れるとTシャツの胸元にふれた。
そこには今日も小さな合鍵が、そっと指先に輪郭を描いてくれる。
この大切な宝物を布越しに握りしめて、ごく低い声で英二は微笑んだ。
「…フランス文学からコードネームをつける、なんて…ね、お父さん?」
晉はフランス文学者だった。
そして射撃の名手だった、けれど拳銃を深く埋めて「射撃」の事跡を消そうとした。
その拳銃が埋められた場所は家の「奈落」だろうと、コードネームからも確信が深くなる。
これが正解ならば「コードネームと拳銃の埋葬場所」この呼応に晉の想いが切ない。
この晉が遺した皮肉のヒントに、馨は気づかないでいただろうか?
このヒントはきっと馨も「あの警察官」も気付いていはいない。
そう信じたい、そうでなければ「家」に住み続け守った晉の母の想いが無駄になる。
あの家に必ず家族が住み続け、一度も壊すことなく改修だけで住み続けてきた。
その理由の全てが「奈落」にある。
けれど「奈落」は馨も知らなかっただろう。
そして馨の息子と妻は何も知らない、晉の母が祈り願ったように彼女の子孫は何も知らない。
だから、このまま理由にも「奈落」にも、50年の束縛の全てに気付かないでいてほしい。
―全てを自分が背負うから、断ち切ってみせるから、だから気付かないで
どうか誰も何も気付かないままでいて?
これは「知らない」ことがそのまま、護ることになるのだから。
この祈りに被さるよう遠野が言った「交換条件」の記憶がよみがえる。
『銃出せ、殺すぞ』
真っ暗な教場、
自身の拳銃を突きつけられた周太、
その前で勝ち誇るよう座りこんだ、冷静な狂気。
そしてライトにきらめいた、周太の頬の一すじの涙、それを見た瞬間に生まれた感情の色彩。
あの男を自分は、赦せる?
「…ゆるせない、」
きっと自分は赦せない。
だって自分を救った存在を、あんなふうに泣かせるなんて?
そんなこと赦せない、時の経過が過ぎるほど本当は赦せなくなっていく。
時を重ね記憶を重ね、体温を重ねていく時の記憶に恋も愛も深くなる、失うことが怖くなる。
そして怖い分だけ想いの深さだけ、募らされていく「赦せない」想いは熱を高くする。
もし自分があの男と再会したら、自分は何をする?
あのとき自分は射撃の正中度は100%では無かった、けれど今は違う。
あのときは唯の訓練生でなんの力も無くて、けれど今は警察組織での立場も発言力も幾らか手に入れた。
そして「山」に立つとき、現場に立つとき、自分の出来ることは大きく広がっている。
この掌のなか既に掴んだ自由と力、これを自分はどう使いたい?
そんな想いめぐらす背中の扉を、小さなノックが叩いた。
こん、…こん、
どこか遠慮がちな叩き方は、よく知っている。
すぐに開錠して扉を開くと、黒目がちの瞳は見上げてくれた。
「英二、あの、ちょっと質問があるのだけど…朝の点呼まで、いい?」
ファイルを抱えて気恥ずかしげに微笑んでくれる。
その笑顔に幸せを見つけて英二は、そっと腕をとり部屋に導き入れた。
そして小さな施錠音に扉を閉じると、腕を伸ばし小柄な体を懐に抱きこんだ。
「周太、」
名前を呼べる、この今が愛しい。
この今の瞬間に与えられる幸せに微笑んで、英二は唯ひとりの恋人にキスをした。
優しいキスの狭間から、ふわりオレンジの香が口移される。
この香の記憶が、温かで愛しくて、離せない。
―絶対に護ってみせる、誰にも邪魔させない
抱きしめた誓いのキスふれながら、オレンジの香に祈りと微笑んだ。

今日最後の授業、射撃訓練が終わった。
射撃場から出ると緑が清々しい、硝煙の匂いも風に消えてゆく。
関根と周太と3人並んで歩きだすと、黒目がちの瞳が見上げ訊いてくれた。
「英二、ちょっと瀬尾と話してきても良い?さっき、話の途中だったから、」
「うん、いいよ。じゃあ先にトレーニングルーム行ってるな?そのあと、学習室にいるよ、」
気にせず行ってきてほしいな?そんな想いと笑いかけた。
周太と瀬尾は初任教養の時から仲が良い、卒業配置後も一緒に手話講習を受講している。
それに金曜日は瀬尾が周太に話しに部屋まで来ていたから、その話の続きがあるのだろうな?
そんなことを考えながら小柄な背中を見送ると、並んで歩く関根が照れくさげに笑った。
「たぶん瀬尾、土曜日の昼の話をするんだろな?昨夜、おまえらに話したけど、」
「5年後の話と姉ちゃんのこと?」
「うん、たぶんな?あのさ、今夜あたり瀬尾に、昨夜の結果を話してもいい?」
訊きながら気恥ずかしげに笑う顔が、幸せそうでいる。
こういう顔でずっと笑って、姉の隣にいてくれるなら良いな?
そんな願いと少しの寂しい気持に笑って、英二は頷いた。
「おまえと姉ちゃんが良いなら、話しなよ。でも、俺達のことは時期を待ってくれな、」
元から関根は勝手に話すつもりがない、そう知っている。
それでも口にした英二に、関根は真面目な顔で頷いてくれた。
「おう、今は知らない方が良いよな、きっと、」
「気を遣わせて悪いな、」
これから関根には、周太と自分の関係について気を遣わせるだろう。
それが申し訳ないな?すこし困り顔で笑いかけた先、快活な笑顔が首をふった。
「そんなこと謝るなって。お前の方こそ俺に話すために、色んな人に話しつけてくれただろ?ありがとうな、」
「たいしたことないよ、」
笑って答えながら寮の入口を潜り、廊下を歩いていく。
この関根と姉が付合うことに当って自分は、4人に相談をした。
姉は結婚前提でしか交際するつもりが無い、それなら当然に家族の問題も相手には話すだろう。
そのとき最も問題になるのは「英二と周太の婚約」、これを公にすることはケース次第でスキャンダルになる可能性が高い。
これを自分だけの判断で話すことは出来ない、だから影響の大きい4人には相談したかった。
まず後藤副隊長に英二は話した。警視庁山岳会長であり山岳救助隊副隊長の後藤は、公人として最も影響があるから。
次に青梅署警察医の吉村医師へと相談をした。非公式でも英二は警察医補佐を務める以上、上司として話しておきたかった。
それに吉村医師は英二の家庭事情から周太と光一のことまで理解してくれる、一番の助言者でもある。
この2人の大人から意見と助言を貰ったうえで、父に連絡をして許可を貰った。
そして最後に、光一に話した。
「俺は構わないね。おまえの判断を俺は信じてるよ、後は支えるだけだよね、」
そんなふうに山っ子は笑ってくれた。
自主トレーニングで登った岩壁の上、日原川に砕ける陽光を眺めながら話す時間は穏やかだった。
ゆるやかな川風は水の香が心地いい、ゆれる黒髪が艶めくはざま雪白の肌は明るんで。
いつものよう底抜けに明るい目は、楽しげに笑ってくれていた。
あの笑顔が、切ない。
「じゃ、宮田。トレーニングルームでな、」
「おう、」
笑って別れて、自室の扉を開く。
施錠しながら鞄をデスクに置くと、そのまま携帯を開き窓辺に佇んだ。
送信履歴から架けて空を見上げる、見上げた色彩は青くて、微かな夕映えが降りだしている。
いま奥多摩も晴れているだろうか?想い馳せるコールに5を数えたとき、通話が繋がった。
「おつかれ、光一、」
「こんな時間に、何かあったワケ?」
すこし焦るようなテノールが訊いてくれる。
いま16時20分、まだ駐在所は業務時間内になる。そんな時間に電話するなど普段の英二はしない。
やっぱり心配させたな?我ながらこんな行動が可笑しい、それだけ自分が朝から考えていたと思い知らされる。
この想い素直に英二は、電話の向こうに笑いかけた。
「こんな時間に、ごめんな。すこしでも早く謝りたかったんだ、光一に。それで今、授業終わってすぐ架けてる、」
「…謝る?」
短く訊いた声が、不思議そうに驚いている。
やっぱり意外なのかな、そう想われる自分に困りながら英二は微笑んだ。
「抱きたいって言って、怖がらせて、ごめん。もう勝手なことしないから、赦してよ?」
「…え、」
告げた言葉に電話の向こうが揺れる、きっといま雪白の頬は桜色になっている?
大切な俤に微笑んで、時計見ながら英二は1つ約束をねだった。
「また今夜も、10時半ごろ電話していい?」
「うん、…待ってるね、」
すこしの沈黙に、切ない想いが起きてしまう。
どれだけ不安にさせていた?この自責があまく痛い、傷みに英二は綺麗に笑った。
「ありがとう、光一。愛してるよ、俺のアンザイレンパートナー、」
「そう言ってもらうの、うれしいけどね。昼間っから、どうしちゃったワケ?」
ちょっと可笑しそうに笑ってくれる。
すこしは信じて貰えたなら良い、そんな想いと微笑んだ。
「どうもしない、正直に言ってるだけだよ。光一、またあとでな、」
「うん、またあとでね…英二、」
最後に名前、やっと呼んでくれた。
いつもどこか躊躇うよう名前を呼んでくれる、それが切なさに愛しい。
この想いの相手が自分のパートナー、警察組織でも「山」でも、そして。
―そして、周太を守るための、唯一のパートナーなんだ、
唯ひとり自分と並び立てる『血の契』結んだ相手。
誰よりも信じ頼ることが互いにできる、ザイルに生命と誇りを繋ぎあう運命の相手。
自分とよく似ている正反対、それは表裏や陰陽のよう呼応して、常に響きあう。
恋愛とすこし違う、けれど強く繋がる絆を感じあう、鏡のような唯ひとり。
こんな相手を愛さない筈がない、本性の熱が高すぎる自分だから。
「ほんとうに大切だよ、光一、」
素直な想い告げて、そっと電話を切った。

(to be continued)
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