ふるさとの俤、秘密

第49話 夏橘act.1―another,side story「陽はまた昇る」
温かい湯に浸かって周太は、ほっと微笑んだ。
誰も入っていない浴槽は広くて、一番風呂はやっぱり気持ち良い。
静かな脱衣所の扉は開く気配が無く、ただシャワーの音が一基分だけ響いている。
今日はトレーニングルームが遅くなってから混みだした、だから皆まだ風呂には来ない。
「ほら周太?みんな今ごろ来たからさ、きっと一番風呂が独り占め出来るよ?」
そう英二に急かされ連れてこられて、本当に今日は一番風呂になった。
お蔭で今、湯に浸かっている自分と洗い場にいる英二の他は誰もいない。
ほんとうに英二の読み通りだったな?感心しながらも周太は湯のなかで少し困った。
…気持ち良いけど、ちょっと緊張しちゃうな?
ふたりきりで風呂に入るのは1ヶ月ぶり位だろうか?久しぶりの事に、さっきも洗い場で本当は緊張していた。
いつもどおり奥まった洗い場に座ると、英二は楽しそうに周太の髪を洗ってくれた。
いつもどおり気持ち良くて嬉しかった、けれど濯いでもらって目を開けた瞬間に真赤になってしまった。
…だってえいじったらきれいなんだから…またきれいになってるしこまるなんだか
濡れた髪の向うに見た裸身が、あんまり綺麗で困ってしまった。
端正な筋肉が象る白皙の体は、湯の熱りに桜いろ艶やかで惹きこまれそう。
惹きこまれて体の芯から「どきどき」する、そんな自分の変調に夜の兆しを感じて、心臓がひっくり返った。
それで急いで体を洗うと先に湯槽へ浸かりこんだ、あのまま見ていると困ったことになりそうだったから。
ほっと温かい湯のなか、困りながら掌で頬を叩いて周太は首傾げこんだ。
…俺だって男だから、えっちなきぶんにだってなるしなったらこまるんだから
そして本当に困っている自分はちょっとえっちだ。
もう顔が赤くなってしまいそう、もう先に出ちゃおうかな?
でも、そんなことしたらきっと、英二は落ちこんでしまうに決まっている。
困ったな、どうしよう?そんなことを考えている隣から、不意に長い腕に抱きよせられた。
「周太、風呂で2人きり、って久しぶりだね?」
幸せな笑顔が湯気のなか、心から嬉しそうに笑っている。
いつの間に湯槽に入ってきたのだろう?この笑顔は大好きだけど、今は抱きつかれたら困る。
「だめっ、えいじ。こんな公衆のばしょでいけませんっ、」
長い腕を押し退けて周太は婚約者の懐から逃れた。
けれど綺麗な腕はまた伸びて、小柄な体を後ろから抱きこんだ。
「いま誰もいないよ?ね、周太。ちょっとだけ、」
いまはちょっとだめでしょうこまっちゃうんだけど?
綺麗な低い声が耳元に囁くのも困る、気恥ずかしくて熱が一挙に昇ってしまう。
こんな裸で抱きしめられて困る、本当に困った事になりかけて周太は、なんとか逃げようともがいた。
「だめだってばえいじっ、誰かくるかもしれないでしょ?はなして、」
「大丈夫、俺、耳すごく良いの知ってるだろ?音がしたらすぐ離れるし、たぶん見られても平気だよ?」
「なにいってるのみられたらこまるでしょ?はなれて、だめっ、ほんといまだめっ」
「救助の練習って言うよ、俺。低体温の人をお湯で温めるとか…あ、周太?」
気付かれた?
そんなトーンの声と切長い目の視線に心臓ひっくり返る。
どうしよう?顔が真赤になってしまう、本当に困った事になってしまったから。
けれど綺麗な低い声は、心底うれしそうに笑いかけてくれた。
「ね、周太?俺の裸を見て、こうなっちゃってるの?」
なんにも言葉が出てこない。
こんなこと初めて、どうしよう?こんな時ってどうしたら良いの?
こんな初めてに途惑っているのに、桜いろの長い腕は楽しげに抱きしめて綺麗な声が囁いてくる。
「周太も男なんだね、こんなふうになるなんて…そこも周太も、すごく可愛い。そんなに俺の裸で、どきどきしてくれるの?」
当たり前です好きなんだから馬鹿。
そんな台詞がうかぶけれど恥ずかしくて、なんだか悔しくて言えない。
どうしよう?困惑が目の奥に熱く昇ってしまう、けれど周太は思い切って恋人をふり向いた。
「…奴隷のくせになまいきです、もういっしょにおふろはいらない、こんなはずかしいおもいするのもう嫌だからお断りします、」
恥ずかしくて泣きそう、でも風呂だから涙か雫か解らないよね?
そんなこと考えながら睨みつけた先、綺麗な笑顔が呆気にとられた。
「…怒ってるの、周太?」
ほら、こんなふうに正直に反応してくれる?
思いながら無言でそっぽ向くと、回りこんで顔をのぞきこんでくれた。
「ね、周太?無視しないで、怒らせてごめん、」
ほんとうに困った、そんな顔も英二は綺麗で見惚れてしまいそう。
こんなに困ってくれるのが嬉しい、そんな気持ち隠して知らんぷりに拗ねていると、白皙の顔は悄気てしまった。
「…周太、土曜の夜は俺も家に帰るだろ?久しぶりに風呂、一緒に入れるかなって楽しみにしてたのに…」
こんな貌されると弱いかも?
そう思うのについ、そっぽ向いて周太は生意気な口調で言った。
「久しぶりじゃないでしょ?ここでもう2週間以上も毎日一緒です、」
答えた言葉に端正な顔が、すこし元気になってくれる。
けれど困った声のまま英二は、懇願を始めてくれた。
「でも2人きりじゃないし、急いで出ちゃうだろ?ゆっくり支度も出来ないから、ベッドだって我慢してるのに」
「…っえっち、そんなこというなんてえっちへんたいちかんですあっちいって」
「そんなこと言わないで、周太?ね、俺、土曜日すごく楽しみなんだから、怒らないで?」
自分だって土曜日は、ずっと楽しみにしている。
それと同じように楽しみにしてくれている?それなら嬉しいな?
そんな気持と一緒に振向くと、きれいな切長い目が泣きそうに見てくれていた。
…あ、泣いちゃう、
心こぼれた想いに、素直に周太は微笑んだ。
「土曜日、なに食べたい?ごはん支度して待ってるね、英二、」
英二の食事を作ることは久しぶり、ちょっと頑張りたいな?
なにが食べたいって言ってくれるかな?そう見つめて笑いかけた先、幸せな笑顔がほころんだ。
「周太が作ってくれるなら、なんでも旨いよ?」
こんな貌で言われたら、なんでも作ってあげたくなる。
嬉しくて笑いかけながら、ふっと心に想いがさした。
…こういう貌、光一にもするのかな?
どうなのだろう?
こういう幸せに寛ぐ瞬間を、ふたりで見ているの?
そうだったら、やっぱり少し寂しい、けれど安心出来る。
いつも幸せに笑っていて欲しいから、この笑顔が好きだから、どうか笑っていて?
かすかな痛みと柔かな安堵を見つめながら、きれいに周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう。でもリクエスト貰える方が、うれしいよ?和とか洋とか…なにかある?」
「じゃあ和食かな、あ、あれ食べたいな?海老のロールキャベツだっけ?あと、卵が半熟の角煮、」
うれしそうに前も作った献立を言ってくれる。
この笑顔に見つけられる幸せが温かい、温もりに微笑んで周太は頷いた。
「ん、作ってあげる…英二、土曜は朝、早くここを出るんでしょ?」
「うん、そのことなんだけど、」
すこし困ったよう端正な顔が首傾げ見つめてくれる。
どうしたのかな?そう笑いかけると、すこし安心したよう英二は口を開いてくれた。
「明日の夜には俺、青梅署に帰ろうって思うんだ。さっき事例研究の時間に思いついたばかりだから、申請はまだなんだけど、」
今日の事例研究の授業で、英二は吉村医師と立会った現場の話をしてくれた。
あの話題から思いついたことなのだろうな?素直に頷いて周太は微笑んだ。
「ん、吉村先生、お忙しいよね?お手伝いに、帰ってあげて、」
「解かるんだ、周太?」
切長い目を少し大きくして、驚いたよう嬉しそうに訊いてくれる。
初夏の登山シーズンを迎える土曜だから山ヤの医師は忙しい、そんな推測が当たったことが英二の顔で解かる。
こんなふうに英二の都合が理解できたことが嬉しい。なにより、こんな貌をしてくれるの嬉しい。
嬉しいままに周太は笑いかけた。
「ん、英二のことだから…夫のことわからないと、こまるでしょ?」
言って、気恥ずかしい。
気恥ずかしさに熱がまた昇ってきてしまう、このまま逆上せたら困るな?
羞みながら周太は大好きな婚約者に、笑顔で提案をした。
「そろそろ出よう?夕飯の時間の前に、授業のおさらいしたい、」
「うん、いいよ?でも周太、1分待ってくれる?」
切長い目が困ったよう笑って、湯のなかに視線を落とす。
どうしたのかな?素直に視線を追いかけて、見てしまったことに顔が赤くなった。
「あの、英二?どうしてその、えいじそうなってるの?」
「周太が恥ずかしそうに『夫』って言うとこ、可愛くって、ついね?」
悪びれない綺麗な笑顔が笑っている。
こういうオープンな雰囲気も英二は男らしくて、かっこいいなと思ってしまう。
自分もこんなふうに堂々と出来たら良いのかな?そんな想いを周太は口にした。
「こういうことも堂々としてるの、かっこいいね?俺もそう出来たら、男らしくて良いかな」
「周太はそのままが良いよ?」
即答で笑いかけてくれると、すっと英二は湯から立ち上がった。
思わず目を逸らしながら周太も湯から上がって、白皙の背中を見あげ尋ねた。
「このままが良いの?でも、堂々としてる方がかっこいいと思うけど、」
「そうばっかりでもないよ、」
答えながら脱衣所の扉を開いてくれる。
涼しい空気にほっと息吐いた隣から、きれいな低い声が言ってくれた。
「周太は可愛いのが自然体だろ?ありのまま、って一番かっこいいよ、」
ありのままが一番。
そんなふうに言われたら、やっぱり嬉しい。
小さい頃「男なのに変」と言われていたコンプレックスが自分にはあるから。
けれど英二と出逢ってからは、こんな自分でも好きになって貰えることが増えている。
こんな自分でも良いのかな?そう認められることは呼吸が楽になる。
「ほんとに、このままでも良いの?」
「うん、このままの周太が好きだよ、ツンデレ女王さまで、可愛くて、頭が良くて凛としてて、」
話しながらバスタオルでくるんでくれる。
こんなふうに構ってもらえることが嬉しい、そして少し不安にもなる。
こんなふうに傍に居れなくなった時、どれだけ寂しいのか不安を感じてしまう。
それでも今この時間を受けとっていたい、今この与えられる幸せに周太は微笑んだ。
…今の言葉も想いも、ずっと覚えていよう
もう何度も思って、そのたびに勇気ひとつ覚悟と見つめる想い。
こんな時が重なって自分を支えてくれる、そう信じている。
そんな想いとジャージのパンツを履いた時、Tシャツが頭から被された。
「はい、着て?」
「…え、あ、」
途惑っている裡に長い指の手がTシャツを着せて、頭からバスタオルでくるまれた。
急にどうしたのかな?すこし驚いて見上げると英二も素早くTシャツとジャージを着こんだ。
その向こう側、廊下への扉が開いて内山が関根と入ってきた。
「あ、もう風呂が終わったんだ?早いな、」
さわやかな笑顔で内山が訊いてくれる。
その隣で関根が英二の顔を見、周太に笑いかけてくれた。
「ごめんな、すこし急がせただろ?」
「あ、…ん?」
なんで急がせたのだろう?関根には状況が解かるのかな?
よく解らないまま生返事していると、長い指が右掌を絡めてひいてくれた。
「大丈夫だよ、ちょうど俺たち出るところだから。じゃ、また後でな、」
きれいに笑いかけて、英二は周太の手を曳いて廊下へと出た。
こんな手を繋いだまま廊下を歩くのかな?ちょっと心配になって周太は口を開いた。
「あの、手を曳いてくれなくても大丈夫だよ?ちゃんと部屋に戻るから…はずかしいし」
「うん?手を繋ぐの恥ずかしいの、周太?じゃあ、はい、」
きれいな笑顔で英二の洗面道具を周太に渡してくる。
これを持てばいいのかな?素直に持つと長い腕は周太を抱え込んだ。
「はい、抱っこなら良いよな?」
なにいってるのこのひとったら?
「…っ、もっとだめです!」
言葉で抵抗しても降りられない。
どうしよう?困り始めたとき松岡と上野に鉢合わせた。
「お?」
ふたりの目が抱きあげる英二の腕を見る。
その視線に周太は俯いてしまった。
…この状況、どう説明するわけ?
あまりのことに頭が真白、これってどうするの?
「へえ、宮田、風呂の後もトレーニングするんだあ?すげえな、」
のんびりと、気の良い声が笑った。
声の方を見ると上野がいつもの笑顔で笑っている。
その笑顔に、きれいな低い声が楽しげに答えた。
「うん、要救助者の運搬中ってとこ、」
声に見上げると、きれいな笑顔は屈託なく楽しげに咲いている。
これが普通だよ?そんな堂々とした顔に松岡も感心げに尋ねた。
「この運び方で下山することもあるのか?」
「胸とかを怪我している時はね。背負うと圧迫しちゃうだろ?バスケット担架とか使えるなら、そっち使うけど、」
「なるほどな、これで下山ってキツイだろ?」
「うん、だからトレーニングするんだよ、」
…そういう解釈なんだ、
真白な頭に聴こえる会話に感心するうち、ふたりは「またな、」と浴室へ行ってしまった。
「ほらね、周太?堂々としてれば、問題ないだろ?」
綺麗な低い声が嬉しそうに言って、部屋の扉を開いてくれる。
抱えられたまま英二の個室に入ると、そっとベッドの上に座らせてくれた。
たしかに問題は無かった、そう素直に頷きながらも周太は質問をした。
「ん、そうだね…でも英二?どうして関根は『急がせた』なんて言ったのかな?」
英二も急いでTシャツを着せてくれたりしたけれど、なんでかな?
まだ被せられたままのバスタオルの翳から見上げると、英二は笑って答えてくれた。
「周太の裸を、俺が急いで隠すからだよ?そのあたり、関根は察してくれたんだと思うけど、」
そういうの、意識すると余計に恥ずかしいのに?
そう思ったけれど何も言えなくて、周太はバスタオルをすっぽり被りこんだ。

金曜日の授業が終わると、スーツ姿の英二と校門まで制服姿で散歩した。
初任教養の頃より長めになった髪には、フォーマルな格好が大人っぽく馴染んでいる。
やっぱり素敵だな?心裡に照れながら一緒に歩いて、門のところまで来てしまった。
「じゃあ周太、明日は8時までには帰れるようにするから。また連絡する、」
「ん、待ってるね?あ、」
答えながら視線の先に周太は首を傾げた。
その視線を英二も追いかけてくれる、そして切長い目が微笑んだ。
「周太、あれって夏みかん?」
通りの向う、黄金の実をゆらす常緑樹が壁から覗いている。
その懐かしい佇まいに周太は頷いた。
「ん、そう…きっと家のは、花も咲いてると思うよ?」
「夏みかんの花か、俺、初めて見るよ?」
楽しそうに笑いかけてくれる笑顔が眩しい。
こんなふうに想うのは、やっぱり好きだからだろうな?
そんな幸せな気恥ずかしさに微笑んだ周太に、きれいな低い声は言ってくれた。
「じゃあ周太、行ってきます。明日、帰るからね?」
行ってきます、明日、帰る。
ありふれた言葉なのに、こんなに幸せにしてくれる。そして心から祈ってしまう。
どうか無事に帰ってきて?心に願い祈りながら、周太は綺麗に笑って頷いた。
「ん、行ってらっしゃい、気を付けてね?」
見送る背中が、遠ざかっていく。
こういうのは切なくなる、けれど「明日帰る」が心を支えてくれる。
こんな切ない想いに願ってしまう、祈ってしまう。
俺が迎えてあげられなくても、帰る場所を作って?
そのためにも今夜、光一と時を過ごしてきてほしい。
この見送る切なさが英二には少しでも軽いように、英二を支えてくれるパートナーにいて欲しい。
いつか自分は「帰る」と約束できない場所に向かう、それを見送る日、英二がどれだけ哀しむのか?
それが心配で切なくて、光一に祈るよう願ってしまう。
…光一なら、英二を支えてくれるよね?
光一は幼い日、閉籠りがちだった周太の心を開いてくれた。
再会してからは周太の罪まで肩代わりしてしまった、そして幼い日の約束のまま大切にしてくれる。
そんなふうに光一は真直ぐに無垢で信じられる、山ヤとしても警察官としても光一なら英二を支えてくれる。
きっと光一がいるなら大丈夫、信頼に微笑んだとき甲州街道の角から英二は振向いてくれた。
『待っててね、』
口の動きでそう言って、きれいな笑顔を見せてくれる。
きれいに笑って、名残惜しげに見つめて、それから駅の方に角を曲がると広やかな背中は消えた。
「…行っちゃったね、」
ほっとため息に微笑んで、周太は踵を返した。
このまま今日はクラブ活動に行く、華道部で花にふれる時間があるから、良かったかもしれない。
花にふれていると心が明るくなってくれるから。
「湯原くん、」
急に声かけられて顔をあげる、そこには華道部で一緒の女性警官が5人で立っていた。
こんな集団で来られると、ちょっと怖いな?すこし困っていると背の高い女の子が口を開いた。
「ねえ、宮田くん、今日からもう外出なのね?」
「あ、はい…」
素直に頷くと、女の子たちが何か笑い合っている。
いったいなんだろう?困りながらも華道部の部屋の方へ歩き出すと、彼女たちも一緒に歩き出した。
「宮田くん、何の用事で今日からなの?」
歩きながら、さっきの女の子が尋ねてくる。
この子の名前、何だったかな?思い出せないまま周太は首を傾げた。
「所属署での仕事の為ですけど…」
「仕事?ほんとに?」
念押しに聴かれて、すこしだけ肚のなか「むっ」とする。
なんでこんなに訊いてくるのだろう?それも今日だけじゃない。
どうして本人に訊かないの?小さくため息吐いて、立ち止まると周太は正直に言った。
「本当です。あの…どうして俺に訊くんですか?」
初任総合が始まって3週間、こういうの何度めだろう?
華道部の初日からずっと、周太が1人になった隙に何かしら質問されてしまう。そしていつも困らされる。
今日もまた困りながら見た先で、背の高い女の子が少し赤くなった。
「だって、宮田くんと一番一緒にいるの、湯原くんでしょう?だから知ってるって思って、」
「聴きたいなら、本人に訊けばいいと思うけど…どうして訊きに行かないんですか?」
自分に訊かれるのは、本当に困る。
だってこの先の事を訊かれると、また赤くなってしまうから。
それに英二なら真直ぐに答えてくれるのだから、きちんと訊いてみたら良いのに?
「本人に訊くのって、恥ずかしいでしょ?だから湯原くんに訊いてるの。ねえ、宮田くん、付合っている人いる?」
また女の子は訊いてくる。
こういうの本当に困る、心がため息で溺れそうになりながら、それでも周太は答えた。
「こういうのって本人に訊いた方が良いです。俺に訊かれても、困ります、」
「あ、本当は知ってるんでしょ?ねえ、教えて、」
どうしたら質問するのを控えてくれるの?
警察学校内では恋愛禁止の規則があるのに?
こんなに大っぴらにして、彼女たちは大丈夫なのだろうか?
そんな心配をしてしまうけれど、彼女たちは元気いっぱいの好奇心と時めきの渦中にいる。
「ねえ、湯原くんには宮田くん、色々話してるよね?宮田くんがカッコよくなった理由も知ってるんでしょ?」
「そんなこと訊かれても困ります。あの、部活に遅れますよ?」
こんなこと慣れていない、ほんとうに困る。
困りながらも周太はまた歩き始めた、このままだと華道部に遅刻してしまう。
けれど背の高い女の子に制服の袖を掴まれて、止められてしまった。
「お願い、湯原くん。宮田くんに誰かいるのか、いないのかだけでも教えて?」
ここにいます。
心で答えながら周太は、困ったまま彼女の目を見つめた。
きっと彼女は英二が好きなのだろう、でも、こういう遣り方では英二の心は欠片も掴めないのに?
そんな想いに、大好きな友達の俤が心に映りこんでくれた。
…美代さんは、自分で言うものね?かっこいいよね、
美代は恥ずかしがり屋だけれど、きちんと自分の意見を言うことも出来る。
そんな美代は英二に対しても率直で、だからこそ英二も美代を認めて大切にしている。
だから解かる、こういう周りから間合いを詰めるような遣り方は、きっと英二は好まない。
そんなふうに英二は自分から尊敬できる相手じゃないと、本当には親しくならない。
…だから美代さんは、英二にとって特別な女の子なんだよね?
きちんと自分を持っている美代は、本当に素敵だと周太も想う。
だから自分も美代が大好きで、ライバルで親友と認め合えるのがいつも嬉しい。
明日は大学の講義で会えるから、この女の子たちの事も相談したら良いかもしれない?
同じ女の子ならではの解決策を知っているかもしれないし、聡明な美代は良いアドバイスをくれるだろう。
でも、今、この状況をどうしよう?
しっかり掴まれた制服の袖を、振り払うことくらいは出来るだろう。
けれどそうしたら、この女の子は傷つくかもしれない。でも急がないと華道部に遅刻してしまう。
いつも華道の時間は楽しみにしているのに、こんなふうに足止めされるのは困ってしまう。
どうしよう?途方に暮れかけたとき、からり明るい声が、ポンと肩を叩いてくれた。
「湯原、こんなとこで何やってんの?」
「あ、藤岡、」
振向いた先の笑顔に、ほっと周太は笑った。
人の好い笑顔はすぐに周太の袖に気がついて、女の子に笑いかけた。
「ちょっと失礼、ごめんな、」
笑いながら軽く彼女の手首を指1本で押すと、いとも簡単に周太の袖から外してくれた。
これは関節技なのかな?驚いてみているうちに、がっしり藤岡は周太の腕を掴んだ。
「ほら、行くよ?じゃ、皆さん、お先に、」
からり笑って、藤岡は周太の腕を掴んだまま走りだした。
並んで一緒に走りながら周太は、この人の好い同期に微笑んだ。
「ありがとう、助けてくれて、」
「だって湯原がいないとさ、俺が華道部で困っちゃうだろ?センス無いのバレバレで、」
答えてくれる内容が嬉しくなる。
こんなふうに藤岡はからっとした優しさが温かい。
部室の近くまで来て足を緩めながら、周太は笑いかけた。
「俺こそ今日、藤岡が居なかったら困ったよ?」
「そうだな?湯原1人だったら、部活の時まで囲まれちゃいそうだよな?ほんと宮田、モテるよなあ、」
廊下を歩きながら可笑しそうに笑ってくれる。
本当に英二はモテる、初任総合になってから特に。
それも当然だろうと思う、英二は卒業配置の期間で大きく成長したから。
山岳救助隊の厳しい現場に鍛錬された分だけ、英二の内面も外面も輝いた。
山ヤの警察官らしい実直さが穏やかに優しくて、精悍な体躯と表情は男らしい魅力が凛々しい。
端正な顔立ちも、山の峻厳を見つめた心映す翳が大人びて、男の艶が華やかな顔を奥深くしている。
そんな英二に見惚れる人が多いことは、よく知っている。いつも一緒に山を街中を歩くとき視線が集中するから。
そんな英二はバレンタインの時も青梅署で「新記録」を作っていた。
…だから、ここでもモテるの、納得なんだけど、ね?
それが、こんなに自分が困ることになるなんて?
婚約者が素敵になるのは素直に嬉しい、けれど自分がこんなに困ることになるのは予想外。
このまま研修中は困るのかな?そんな心配に困る原因の俤に、ふと周太は思い出したことを藤岡に尋ねた。
「昨日の事例研究の時、英二から聴いたんだけど。被害者の方の傍に本が落ちていた事件、藤岡も知ってるよね?」
「あ、その事件な?うん、知ってるよ、」
気さくに笑って頷くと、藤岡は口を開いた。
「あれって宮田が本を見つけたんだよ、あの本が捜査の切欠になったらしいな、」
…英二が見つけた?
そのことは授業の時は言っていなかった。
英二の事だから、手柄自慢になるのが嫌で言わなかったのかな?
そんな婚約者の心理を考えながら周太は訊いてみた。
「その本と同じのを、吉村先生に借りて読んだって英二が言ってて。藤岡も読んだんだろ?」
「うん、読んだよ。なんかさ、ちょっとマゾっぽかったよ?俺は、ああいう恋愛は無理かなあ、」
マゾってなんだろう?
言葉への疑問に心裡で首傾げこんだ。これも明日、美代か英二に聴いてみようかな?
そんな予定を考えながら周太は話しを続けた。
「でも被害者の人は、そんな感じだったんだよね?」
「そういう見解だな?でも、本当はどうだったんだろう、」
「本当は、って?」
どういう意味だろう?
そう何気なく訊いた周太に、藤岡が教えてくれた。
「あの本って、ページがごっそり抜けていただろ?たぶん本人が切り落としたんだけどさ、その動機がドッチの意味かによるよな、」
ページが抜けていた?
そんな事は英二は話さなかった、なぜ英二は省いたのだろう?
さっきの事例研究には関係ないと思ったのだろうか?不思議に思いながらも周太は、藤岡に訊いてみた。
「動機がどっちの意味、って?」
「うん、被害者の人がさ、そういうマゾっぽい恋愛から脱け出したくて切り落としたのかも、ってことだよ、」
「あ、そうか…でも周りの人には『別れたくない』って言ってたんだよね、」
「そうなんだよなあ?その証言があるから、マゾの恋愛に未練があるから切り落とした、って結論になったんだよね、」
話しながら部室の扉を開いて、並んで席に着いた。
机の上には、空木の純白の花枝がふっさり置かれている。
この花は実家の庭にも咲く、ちょうど今頃が綺麗な頃だろう。明日は見られるだろう花に微笑んだとき、師範の話が始まった。
「今日のお花は空木です。花言葉は秘めた恋、夏の訪れ、古風。それから、秘密。このイメージも大切に活けると素敵ですね、」
『秘密』
この言葉にふっと、ページの抜け落ちた本の記憶が蘇える。

(to be continued)
blogramランキング参加中!

にほんブログ村

第49話 夏橘act.1―another,side story「陽はまた昇る」
温かい湯に浸かって周太は、ほっと微笑んだ。
誰も入っていない浴槽は広くて、一番風呂はやっぱり気持ち良い。
静かな脱衣所の扉は開く気配が無く、ただシャワーの音が一基分だけ響いている。
今日はトレーニングルームが遅くなってから混みだした、だから皆まだ風呂には来ない。
「ほら周太?みんな今ごろ来たからさ、きっと一番風呂が独り占め出来るよ?」
そう英二に急かされ連れてこられて、本当に今日は一番風呂になった。
お蔭で今、湯に浸かっている自分と洗い場にいる英二の他は誰もいない。
ほんとうに英二の読み通りだったな?感心しながらも周太は湯のなかで少し困った。
…気持ち良いけど、ちょっと緊張しちゃうな?
ふたりきりで風呂に入るのは1ヶ月ぶり位だろうか?久しぶりの事に、さっきも洗い場で本当は緊張していた。
いつもどおり奥まった洗い場に座ると、英二は楽しそうに周太の髪を洗ってくれた。
いつもどおり気持ち良くて嬉しかった、けれど濯いでもらって目を開けた瞬間に真赤になってしまった。
…だってえいじったらきれいなんだから…またきれいになってるしこまるなんだか
濡れた髪の向うに見た裸身が、あんまり綺麗で困ってしまった。
端正な筋肉が象る白皙の体は、湯の熱りに桜いろ艶やかで惹きこまれそう。
惹きこまれて体の芯から「どきどき」する、そんな自分の変調に夜の兆しを感じて、心臓がひっくり返った。
それで急いで体を洗うと先に湯槽へ浸かりこんだ、あのまま見ていると困ったことになりそうだったから。
ほっと温かい湯のなか、困りながら掌で頬を叩いて周太は首傾げこんだ。
…俺だって男だから、えっちなきぶんにだってなるしなったらこまるんだから
そして本当に困っている自分はちょっとえっちだ。
もう顔が赤くなってしまいそう、もう先に出ちゃおうかな?
でも、そんなことしたらきっと、英二は落ちこんでしまうに決まっている。
困ったな、どうしよう?そんなことを考えている隣から、不意に長い腕に抱きよせられた。
「周太、風呂で2人きり、って久しぶりだね?」
幸せな笑顔が湯気のなか、心から嬉しそうに笑っている。
いつの間に湯槽に入ってきたのだろう?この笑顔は大好きだけど、今は抱きつかれたら困る。
「だめっ、えいじ。こんな公衆のばしょでいけませんっ、」
長い腕を押し退けて周太は婚約者の懐から逃れた。
けれど綺麗な腕はまた伸びて、小柄な体を後ろから抱きこんだ。
「いま誰もいないよ?ね、周太。ちょっとだけ、」
いまはちょっとだめでしょうこまっちゃうんだけど?
綺麗な低い声が耳元に囁くのも困る、気恥ずかしくて熱が一挙に昇ってしまう。
こんな裸で抱きしめられて困る、本当に困った事になりかけて周太は、なんとか逃げようともがいた。
「だめだってばえいじっ、誰かくるかもしれないでしょ?はなして、」
「大丈夫、俺、耳すごく良いの知ってるだろ?音がしたらすぐ離れるし、たぶん見られても平気だよ?」
「なにいってるのみられたらこまるでしょ?はなれて、だめっ、ほんといまだめっ」
「救助の練習って言うよ、俺。低体温の人をお湯で温めるとか…あ、周太?」
気付かれた?
そんなトーンの声と切長い目の視線に心臓ひっくり返る。
どうしよう?顔が真赤になってしまう、本当に困った事になってしまったから。
けれど綺麗な低い声は、心底うれしそうに笑いかけてくれた。
「ね、周太?俺の裸を見て、こうなっちゃってるの?」
なんにも言葉が出てこない。
こんなこと初めて、どうしよう?こんな時ってどうしたら良いの?
こんな初めてに途惑っているのに、桜いろの長い腕は楽しげに抱きしめて綺麗な声が囁いてくる。
「周太も男なんだね、こんなふうになるなんて…そこも周太も、すごく可愛い。そんなに俺の裸で、どきどきしてくれるの?」
当たり前です好きなんだから馬鹿。
そんな台詞がうかぶけれど恥ずかしくて、なんだか悔しくて言えない。
どうしよう?困惑が目の奥に熱く昇ってしまう、けれど周太は思い切って恋人をふり向いた。
「…奴隷のくせになまいきです、もういっしょにおふろはいらない、こんなはずかしいおもいするのもう嫌だからお断りします、」
恥ずかしくて泣きそう、でも風呂だから涙か雫か解らないよね?
そんなこと考えながら睨みつけた先、綺麗な笑顔が呆気にとられた。
「…怒ってるの、周太?」
ほら、こんなふうに正直に反応してくれる?
思いながら無言でそっぽ向くと、回りこんで顔をのぞきこんでくれた。
「ね、周太?無視しないで、怒らせてごめん、」
ほんとうに困った、そんな顔も英二は綺麗で見惚れてしまいそう。
こんなに困ってくれるのが嬉しい、そんな気持ち隠して知らんぷりに拗ねていると、白皙の顔は悄気てしまった。
「…周太、土曜の夜は俺も家に帰るだろ?久しぶりに風呂、一緒に入れるかなって楽しみにしてたのに…」
こんな貌されると弱いかも?
そう思うのについ、そっぽ向いて周太は生意気な口調で言った。
「久しぶりじゃないでしょ?ここでもう2週間以上も毎日一緒です、」
答えた言葉に端正な顔が、すこし元気になってくれる。
けれど困った声のまま英二は、懇願を始めてくれた。
「でも2人きりじゃないし、急いで出ちゃうだろ?ゆっくり支度も出来ないから、ベッドだって我慢してるのに」
「…っえっち、そんなこというなんてえっちへんたいちかんですあっちいって」
「そんなこと言わないで、周太?ね、俺、土曜日すごく楽しみなんだから、怒らないで?」
自分だって土曜日は、ずっと楽しみにしている。
それと同じように楽しみにしてくれている?それなら嬉しいな?
そんな気持と一緒に振向くと、きれいな切長い目が泣きそうに見てくれていた。
…あ、泣いちゃう、
心こぼれた想いに、素直に周太は微笑んだ。
「土曜日、なに食べたい?ごはん支度して待ってるね、英二、」
英二の食事を作ることは久しぶり、ちょっと頑張りたいな?
なにが食べたいって言ってくれるかな?そう見つめて笑いかけた先、幸せな笑顔がほころんだ。
「周太が作ってくれるなら、なんでも旨いよ?」
こんな貌で言われたら、なんでも作ってあげたくなる。
嬉しくて笑いかけながら、ふっと心に想いがさした。
…こういう貌、光一にもするのかな?
どうなのだろう?
こういう幸せに寛ぐ瞬間を、ふたりで見ているの?
そうだったら、やっぱり少し寂しい、けれど安心出来る。
いつも幸せに笑っていて欲しいから、この笑顔が好きだから、どうか笑っていて?
かすかな痛みと柔かな安堵を見つめながら、きれいに周太は微笑んだ。
「ん、ありがとう。でもリクエスト貰える方が、うれしいよ?和とか洋とか…なにかある?」
「じゃあ和食かな、あ、あれ食べたいな?海老のロールキャベツだっけ?あと、卵が半熟の角煮、」
うれしそうに前も作った献立を言ってくれる。
この笑顔に見つけられる幸せが温かい、温もりに微笑んで周太は頷いた。
「ん、作ってあげる…英二、土曜は朝、早くここを出るんでしょ?」
「うん、そのことなんだけど、」
すこし困ったよう端正な顔が首傾げ見つめてくれる。
どうしたのかな?そう笑いかけると、すこし安心したよう英二は口を開いてくれた。
「明日の夜には俺、青梅署に帰ろうって思うんだ。さっき事例研究の時間に思いついたばかりだから、申請はまだなんだけど、」
今日の事例研究の授業で、英二は吉村医師と立会った現場の話をしてくれた。
あの話題から思いついたことなのだろうな?素直に頷いて周太は微笑んだ。
「ん、吉村先生、お忙しいよね?お手伝いに、帰ってあげて、」
「解かるんだ、周太?」
切長い目を少し大きくして、驚いたよう嬉しそうに訊いてくれる。
初夏の登山シーズンを迎える土曜だから山ヤの医師は忙しい、そんな推測が当たったことが英二の顔で解かる。
こんなふうに英二の都合が理解できたことが嬉しい。なにより、こんな貌をしてくれるの嬉しい。
嬉しいままに周太は笑いかけた。
「ん、英二のことだから…夫のことわからないと、こまるでしょ?」
言って、気恥ずかしい。
気恥ずかしさに熱がまた昇ってきてしまう、このまま逆上せたら困るな?
羞みながら周太は大好きな婚約者に、笑顔で提案をした。
「そろそろ出よう?夕飯の時間の前に、授業のおさらいしたい、」
「うん、いいよ?でも周太、1分待ってくれる?」
切長い目が困ったよう笑って、湯のなかに視線を落とす。
どうしたのかな?素直に視線を追いかけて、見てしまったことに顔が赤くなった。
「あの、英二?どうしてその、えいじそうなってるの?」
「周太が恥ずかしそうに『夫』って言うとこ、可愛くって、ついね?」
悪びれない綺麗な笑顔が笑っている。
こういうオープンな雰囲気も英二は男らしくて、かっこいいなと思ってしまう。
自分もこんなふうに堂々と出来たら良いのかな?そんな想いを周太は口にした。
「こういうことも堂々としてるの、かっこいいね?俺もそう出来たら、男らしくて良いかな」
「周太はそのままが良いよ?」
即答で笑いかけてくれると、すっと英二は湯から立ち上がった。
思わず目を逸らしながら周太も湯から上がって、白皙の背中を見あげ尋ねた。
「このままが良いの?でも、堂々としてる方がかっこいいと思うけど、」
「そうばっかりでもないよ、」
答えながら脱衣所の扉を開いてくれる。
涼しい空気にほっと息吐いた隣から、きれいな低い声が言ってくれた。
「周太は可愛いのが自然体だろ?ありのまま、って一番かっこいいよ、」
ありのままが一番。
そんなふうに言われたら、やっぱり嬉しい。
小さい頃「男なのに変」と言われていたコンプレックスが自分にはあるから。
けれど英二と出逢ってからは、こんな自分でも好きになって貰えることが増えている。
こんな自分でも良いのかな?そう認められることは呼吸が楽になる。
「ほんとに、このままでも良いの?」
「うん、このままの周太が好きだよ、ツンデレ女王さまで、可愛くて、頭が良くて凛としてて、」
話しながらバスタオルでくるんでくれる。
こんなふうに構ってもらえることが嬉しい、そして少し不安にもなる。
こんなふうに傍に居れなくなった時、どれだけ寂しいのか不安を感じてしまう。
それでも今この時間を受けとっていたい、今この与えられる幸せに周太は微笑んだ。
…今の言葉も想いも、ずっと覚えていよう
もう何度も思って、そのたびに勇気ひとつ覚悟と見つめる想い。
こんな時が重なって自分を支えてくれる、そう信じている。
そんな想いとジャージのパンツを履いた時、Tシャツが頭から被された。
「はい、着て?」
「…え、あ、」
途惑っている裡に長い指の手がTシャツを着せて、頭からバスタオルでくるまれた。
急にどうしたのかな?すこし驚いて見上げると英二も素早くTシャツとジャージを着こんだ。
その向こう側、廊下への扉が開いて内山が関根と入ってきた。
「あ、もう風呂が終わったんだ?早いな、」
さわやかな笑顔で内山が訊いてくれる。
その隣で関根が英二の顔を見、周太に笑いかけてくれた。
「ごめんな、すこし急がせただろ?」
「あ、…ん?」
なんで急がせたのだろう?関根には状況が解かるのかな?
よく解らないまま生返事していると、長い指が右掌を絡めてひいてくれた。
「大丈夫だよ、ちょうど俺たち出るところだから。じゃ、また後でな、」
きれいに笑いかけて、英二は周太の手を曳いて廊下へと出た。
こんな手を繋いだまま廊下を歩くのかな?ちょっと心配になって周太は口を開いた。
「あの、手を曳いてくれなくても大丈夫だよ?ちゃんと部屋に戻るから…はずかしいし」
「うん?手を繋ぐの恥ずかしいの、周太?じゃあ、はい、」
きれいな笑顔で英二の洗面道具を周太に渡してくる。
これを持てばいいのかな?素直に持つと長い腕は周太を抱え込んだ。
「はい、抱っこなら良いよな?」
なにいってるのこのひとったら?
「…っ、もっとだめです!」
言葉で抵抗しても降りられない。
どうしよう?困り始めたとき松岡と上野に鉢合わせた。
「お?」
ふたりの目が抱きあげる英二の腕を見る。
その視線に周太は俯いてしまった。
…この状況、どう説明するわけ?
あまりのことに頭が真白、これってどうするの?
「へえ、宮田、風呂の後もトレーニングするんだあ?すげえな、」
のんびりと、気の良い声が笑った。
声の方を見ると上野がいつもの笑顔で笑っている。
その笑顔に、きれいな低い声が楽しげに答えた。
「うん、要救助者の運搬中ってとこ、」
声に見上げると、きれいな笑顔は屈託なく楽しげに咲いている。
これが普通だよ?そんな堂々とした顔に松岡も感心げに尋ねた。
「この運び方で下山することもあるのか?」
「胸とかを怪我している時はね。背負うと圧迫しちゃうだろ?バスケット担架とか使えるなら、そっち使うけど、」
「なるほどな、これで下山ってキツイだろ?」
「うん、だからトレーニングするんだよ、」
…そういう解釈なんだ、
真白な頭に聴こえる会話に感心するうち、ふたりは「またな、」と浴室へ行ってしまった。
「ほらね、周太?堂々としてれば、問題ないだろ?」
綺麗な低い声が嬉しそうに言って、部屋の扉を開いてくれる。
抱えられたまま英二の個室に入ると、そっとベッドの上に座らせてくれた。
たしかに問題は無かった、そう素直に頷きながらも周太は質問をした。
「ん、そうだね…でも英二?どうして関根は『急がせた』なんて言ったのかな?」
英二も急いでTシャツを着せてくれたりしたけれど、なんでかな?
まだ被せられたままのバスタオルの翳から見上げると、英二は笑って答えてくれた。
「周太の裸を、俺が急いで隠すからだよ?そのあたり、関根は察してくれたんだと思うけど、」
そういうの、意識すると余計に恥ずかしいのに?
そう思ったけれど何も言えなくて、周太はバスタオルをすっぽり被りこんだ。

金曜日の授業が終わると、スーツ姿の英二と校門まで制服姿で散歩した。
初任教養の頃より長めになった髪には、フォーマルな格好が大人っぽく馴染んでいる。
やっぱり素敵だな?心裡に照れながら一緒に歩いて、門のところまで来てしまった。
「じゃあ周太、明日は8時までには帰れるようにするから。また連絡する、」
「ん、待ってるね?あ、」
答えながら視線の先に周太は首を傾げた。
その視線を英二も追いかけてくれる、そして切長い目が微笑んだ。
「周太、あれって夏みかん?」
通りの向う、黄金の実をゆらす常緑樹が壁から覗いている。
その懐かしい佇まいに周太は頷いた。
「ん、そう…きっと家のは、花も咲いてると思うよ?」
「夏みかんの花か、俺、初めて見るよ?」
楽しそうに笑いかけてくれる笑顔が眩しい。
こんなふうに想うのは、やっぱり好きだからだろうな?
そんな幸せな気恥ずかしさに微笑んだ周太に、きれいな低い声は言ってくれた。
「じゃあ周太、行ってきます。明日、帰るからね?」
行ってきます、明日、帰る。
ありふれた言葉なのに、こんなに幸せにしてくれる。そして心から祈ってしまう。
どうか無事に帰ってきて?心に願い祈りながら、周太は綺麗に笑って頷いた。
「ん、行ってらっしゃい、気を付けてね?」
見送る背中が、遠ざかっていく。
こういうのは切なくなる、けれど「明日帰る」が心を支えてくれる。
こんな切ない想いに願ってしまう、祈ってしまう。
俺が迎えてあげられなくても、帰る場所を作って?
そのためにも今夜、光一と時を過ごしてきてほしい。
この見送る切なさが英二には少しでも軽いように、英二を支えてくれるパートナーにいて欲しい。
いつか自分は「帰る」と約束できない場所に向かう、それを見送る日、英二がどれだけ哀しむのか?
それが心配で切なくて、光一に祈るよう願ってしまう。
…光一なら、英二を支えてくれるよね?
光一は幼い日、閉籠りがちだった周太の心を開いてくれた。
再会してからは周太の罪まで肩代わりしてしまった、そして幼い日の約束のまま大切にしてくれる。
そんなふうに光一は真直ぐに無垢で信じられる、山ヤとしても警察官としても光一なら英二を支えてくれる。
きっと光一がいるなら大丈夫、信頼に微笑んだとき甲州街道の角から英二は振向いてくれた。
『待っててね、』
口の動きでそう言って、きれいな笑顔を見せてくれる。
きれいに笑って、名残惜しげに見つめて、それから駅の方に角を曲がると広やかな背中は消えた。
「…行っちゃったね、」
ほっとため息に微笑んで、周太は踵を返した。
このまま今日はクラブ活動に行く、華道部で花にふれる時間があるから、良かったかもしれない。
花にふれていると心が明るくなってくれるから。
「湯原くん、」
急に声かけられて顔をあげる、そこには華道部で一緒の女性警官が5人で立っていた。
こんな集団で来られると、ちょっと怖いな?すこし困っていると背の高い女の子が口を開いた。
「ねえ、宮田くん、今日からもう外出なのね?」
「あ、はい…」
素直に頷くと、女の子たちが何か笑い合っている。
いったいなんだろう?困りながらも華道部の部屋の方へ歩き出すと、彼女たちも一緒に歩き出した。
「宮田くん、何の用事で今日からなの?」
歩きながら、さっきの女の子が尋ねてくる。
この子の名前、何だったかな?思い出せないまま周太は首を傾げた。
「所属署での仕事の為ですけど…」
「仕事?ほんとに?」
念押しに聴かれて、すこしだけ肚のなか「むっ」とする。
なんでこんなに訊いてくるのだろう?それも今日だけじゃない。
どうして本人に訊かないの?小さくため息吐いて、立ち止まると周太は正直に言った。
「本当です。あの…どうして俺に訊くんですか?」
初任総合が始まって3週間、こういうの何度めだろう?
華道部の初日からずっと、周太が1人になった隙に何かしら質問されてしまう。そしていつも困らされる。
今日もまた困りながら見た先で、背の高い女の子が少し赤くなった。
「だって、宮田くんと一番一緒にいるの、湯原くんでしょう?だから知ってるって思って、」
「聴きたいなら、本人に訊けばいいと思うけど…どうして訊きに行かないんですか?」
自分に訊かれるのは、本当に困る。
だってこの先の事を訊かれると、また赤くなってしまうから。
それに英二なら真直ぐに答えてくれるのだから、きちんと訊いてみたら良いのに?
「本人に訊くのって、恥ずかしいでしょ?だから湯原くんに訊いてるの。ねえ、宮田くん、付合っている人いる?」
また女の子は訊いてくる。
こういうの本当に困る、心がため息で溺れそうになりながら、それでも周太は答えた。
「こういうのって本人に訊いた方が良いです。俺に訊かれても、困ります、」
「あ、本当は知ってるんでしょ?ねえ、教えて、」
どうしたら質問するのを控えてくれるの?
警察学校内では恋愛禁止の規則があるのに?
こんなに大っぴらにして、彼女たちは大丈夫なのだろうか?
そんな心配をしてしまうけれど、彼女たちは元気いっぱいの好奇心と時めきの渦中にいる。
「ねえ、湯原くんには宮田くん、色々話してるよね?宮田くんがカッコよくなった理由も知ってるんでしょ?」
「そんなこと訊かれても困ります。あの、部活に遅れますよ?」
こんなこと慣れていない、ほんとうに困る。
困りながらも周太はまた歩き始めた、このままだと華道部に遅刻してしまう。
けれど背の高い女の子に制服の袖を掴まれて、止められてしまった。
「お願い、湯原くん。宮田くんに誰かいるのか、いないのかだけでも教えて?」
ここにいます。
心で答えながら周太は、困ったまま彼女の目を見つめた。
きっと彼女は英二が好きなのだろう、でも、こういう遣り方では英二の心は欠片も掴めないのに?
そんな想いに、大好きな友達の俤が心に映りこんでくれた。
…美代さんは、自分で言うものね?かっこいいよね、
美代は恥ずかしがり屋だけれど、きちんと自分の意見を言うことも出来る。
そんな美代は英二に対しても率直で、だからこそ英二も美代を認めて大切にしている。
だから解かる、こういう周りから間合いを詰めるような遣り方は、きっと英二は好まない。
そんなふうに英二は自分から尊敬できる相手じゃないと、本当には親しくならない。
…だから美代さんは、英二にとって特別な女の子なんだよね?
きちんと自分を持っている美代は、本当に素敵だと周太も想う。
だから自分も美代が大好きで、ライバルで親友と認め合えるのがいつも嬉しい。
明日は大学の講義で会えるから、この女の子たちの事も相談したら良いかもしれない?
同じ女の子ならではの解決策を知っているかもしれないし、聡明な美代は良いアドバイスをくれるだろう。
でも、今、この状況をどうしよう?
しっかり掴まれた制服の袖を、振り払うことくらいは出来るだろう。
けれどそうしたら、この女の子は傷つくかもしれない。でも急がないと華道部に遅刻してしまう。
いつも華道の時間は楽しみにしているのに、こんなふうに足止めされるのは困ってしまう。
どうしよう?途方に暮れかけたとき、からり明るい声が、ポンと肩を叩いてくれた。
「湯原、こんなとこで何やってんの?」
「あ、藤岡、」
振向いた先の笑顔に、ほっと周太は笑った。
人の好い笑顔はすぐに周太の袖に気がついて、女の子に笑いかけた。
「ちょっと失礼、ごめんな、」
笑いながら軽く彼女の手首を指1本で押すと、いとも簡単に周太の袖から外してくれた。
これは関節技なのかな?驚いてみているうちに、がっしり藤岡は周太の腕を掴んだ。
「ほら、行くよ?じゃ、皆さん、お先に、」
からり笑って、藤岡は周太の腕を掴んだまま走りだした。
並んで一緒に走りながら周太は、この人の好い同期に微笑んだ。
「ありがとう、助けてくれて、」
「だって湯原がいないとさ、俺が華道部で困っちゃうだろ?センス無いのバレバレで、」
答えてくれる内容が嬉しくなる。
こんなふうに藤岡はからっとした優しさが温かい。
部室の近くまで来て足を緩めながら、周太は笑いかけた。
「俺こそ今日、藤岡が居なかったら困ったよ?」
「そうだな?湯原1人だったら、部活の時まで囲まれちゃいそうだよな?ほんと宮田、モテるよなあ、」
廊下を歩きながら可笑しそうに笑ってくれる。
本当に英二はモテる、初任総合になってから特に。
それも当然だろうと思う、英二は卒業配置の期間で大きく成長したから。
山岳救助隊の厳しい現場に鍛錬された分だけ、英二の内面も外面も輝いた。
山ヤの警察官らしい実直さが穏やかに優しくて、精悍な体躯と表情は男らしい魅力が凛々しい。
端正な顔立ちも、山の峻厳を見つめた心映す翳が大人びて、男の艶が華やかな顔を奥深くしている。
そんな英二に見惚れる人が多いことは、よく知っている。いつも一緒に山を街中を歩くとき視線が集中するから。
そんな英二はバレンタインの時も青梅署で「新記録」を作っていた。
…だから、ここでもモテるの、納得なんだけど、ね?
それが、こんなに自分が困ることになるなんて?
婚約者が素敵になるのは素直に嬉しい、けれど自分がこんなに困ることになるのは予想外。
このまま研修中は困るのかな?そんな心配に困る原因の俤に、ふと周太は思い出したことを藤岡に尋ねた。
「昨日の事例研究の時、英二から聴いたんだけど。被害者の方の傍に本が落ちていた事件、藤岡も知ってるよね?」
「あ、その事件な?うん、知ってるよ、」
気さくに笑って頷くと、藤岡は口を開いた。
「あれって宮田が本を見つけたんだよ、あの本が捜査の切欠になったらしいな、」
…英二が見つけた?
そのことは授業の時は言っていなかった。
英二の事だから、手柄自慢になるのが嫌で言わなかったのかな?
そんな婚約者の心理を考えながら周太は訊いてみた。
「その本と同じのを、吉村先生に借りて読んだって英二が言ってて。藤岡も読んだんだろ?」
「うん、読んだよ。なんかさ、ちょっとマゾっぽかったよ?俺は、ああいう恋愛は無理かなあ、」
マゾってなんだろう?
言葉への疑問に心裡で首傾げこんだ。これも明日、美代か英二に聴いてみようかな?
そんな予定を考えながら周太は話しを続けた。
「でも被害者の人は、そんな感じだったんだよね?」
「そういう見解だな?でも、本当はどうだったんだろう、」
「本当は、って?」
どういう意味だろう?
そう何気なく訊いた周太に、藤岡が教えてくれた。
「あの本って、ページがごっそり抜けていただろ?たぶん本人が切り落としたんだけどさ、その動機がドッチの意味かによるよな、」
ページが抜けていた?
そんな事は英二は話さなかった、なぜ英二は省いたのだろう?
さっきの事例研究には関係ないと思ったのだろうか?不思議に思いながらも周太は、藤岡に訊いてみた。
「動機がどっちの意味、って?」
「うん、被害者の人がさ、そういうマゾっぽい恋愛から脱け出したくて切り落としたのかも、ってことだよ、」
「あ、そうか…でも周りの人には『別れたくない』って言ってたんだよね、」
「そうなんだよなあ?その証言があるから、マゾの恋愛に未練があるから切り落とした、って結論になったんだよね、」
話しながら部室の扉を開いて、並んで席に着いた。
机の上には、空木の純白の花枝がふっさり置かれている。
この花は実家の庭にも咲く、ちょうど今頃が綺麗な頃だろう。明日は見られるだろう花に微笑んだとき、師範の話が始まった。
「今日のお花は空木です。花言葉は秘めた恋、夏の訪れ、古風。それから、秘密。このイメージも大切に活けると素敵ですね、」
『秘密』
この言葉にふっと、ページの抜け落ちた本の記憶が蘇える。

(to be continued)
blogramランキング参加中!

