記憶、想い馨らせて
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第48話 薫衣act.4―side story「陽はまた昇る」
歩いていく廊下ふる陽射しがオレンジ色にあざやぎだす。
いま18時15分すぎ、まだ明るい光に陽の長さが思い知らされる。
もう夏が近い、それは避けられないことなのに、つい心が傷んでしまう。
夏が来たら本配属、それから?
そればかり考えてしまう、そして覚悟を確かめている。
この初任研修が始まって1週間、もう何度このことを考えてきただろう?
ほっと溜息ついた湯上りの頬を、横から関根が小突いた。
「やっぱり宮田、ここに傷痕があるな?」
小突かれた場所は、痛くもなんともない。
けれど熱るときに現れる細い小さな傷痕が、そこに刻まれている。
やっぱりまだ残ってるんだ?考えながら英二は答えた。
「湯上りだからな、周太も見える?」
タオルで髪拭いながら笑いかけると、黒目がちの瞳が見上げてくれた。
すこし見つめて、それから周太は微笑んだ。
「ん、見える、竜の爪痕…かっこいいよ?」
そんなこと君に言われたら嬉しいです、もっと言って?
また恋の奴隷モードになって、けれど我に返った。
いま関根も一緒に歩いているのに、こんなのは拙いだろう。
さっきも風呂でちょっと拙かったな?記憶に我ながら笑った英二に、ふっと関根が尋ねた。
「正直なとこさ、やっぱり俺は、宮田のお母さんには反対されるよな」
「どうして、そう思う?」
どんなふうに関根は考え、そう思っているのだろう?
訊き返した英二に、すこし困った顔でも快活に笑って答えてくれた。
「育ちが違うからさ、俺と英理さん。そういうの、気にするだろうな、って思って、」
たしかに関根の育ちは姉との差が大きい、それを母は気にして反対する可能性が高い。
名門女子大を姉は優秀な成績で卒業し、英国に本社を置く名門食品メーカーに就職した。
通訳としてエグゼクティブセレクタリーとして勤務する姉、聡明で優しくて、明るい華やかな美貌がまばゆいと弟の目からも思う。
そんな姉を母は理想通り自慢の娘だと思い、とても頼りにして甘えている。だから姉の相手も理想通りを求めたいだろう。
息子が予想外の人生を選んでしまった今は、尚更に。
―ごめん、関根、
ちいさな罪悪感が胸を噛む。
けれど今の人生を後悔するなんて自分には出来ない、今が幸せだから。
この今も隣を歩いてくれる人に出逢ったことを、心から幸福だと想っているから。
それでも自分が家を継いでいたなら、姉の相手に対する母のハードルは下げられていただろうか?
こんな想いに沈みかけた隣から、おだやかな声が言ってくれた。
「確かに、お母さん気にするかも。でも、関根なら大丈夫、って思うな」
「マジ?ほんとに湯原、そう思う?」
快活な目が真直ぐに黒目がちの瞳を見つめた。
どうして周太はそう思ってくれるのだろう?英二も見つめた先、瞳笑ませて周太は問いかけをした。
「関根は、お母さんとも向き合って大切にしよう、って思う?時間懸っても、お母さんを受けとめたい?」
「おう、もちろんだ、」
即答して関根は爽やかに笑ってくれた。
「だってさ、大好きな人を生んでくれた人だろ?まあ、俺は短気なとこあるから、腹立てる時もありそうだけど。
それでも大切にしたいよな?こういう俺だし、時間が懸るだろなって覚悟はしてる。解かって貰えるまで、がんばりたいよ」
こいつ、本当に良いヤツだな?
そんな想いに笑顔ほころんでしまう。
こういう覚悟が出来る相手なら、きっと姉も母も幸せにしてくれる。
そんな予兆が嬉しい隣から、穏やかな声は言祝いでくれた。
「ん、関根なら大丈夫だね?そういう気持ち、きっと喜んでくれると思う、」
「そっか、ありがとうな。湯原に言われると自信持てるよ、」
快活な笑顔が幸せそうに笑っている。
そして少し声低めて関根は、率直に周太に尋ねた。
「あのさ、正直なとこ、宮田のお母さんって、怖い?」
「ん、ちょっと、ね?でも、」
素直に答えて周太は困ったよう首傾げこんだ。
けれど黒目がちの瞳に優しい微笑を見せて、言葉を続けてくれた。
「本当は寂しがりで、繊細な人だと思う。すこし不器用で、頑固に見えるけど…本当は、人を好きになりたい人だよ、だから大丈夫、」
どうして君は、そんなに優しい?
あの母をそんなふうに気付いて、真直ぐ見てくれる?
そんなふうに息子の自分すら見ていない、けれど婚約者は母の寂しさを思い遣っている。
このひとの優しさは、剱岳山頂で見つめた大らかな青と白を想い出さす。
標高2,999m剱岳。
あの蒼穹の点にあったのは、氷雪と空と海が魅せる青と白の世界だった。
雪山おおう氷雪は冷厳の死を蹲らせ、永遠の眠り誘う吐息を潜めている。
けれど氷雪も春迎えれば雪代水となって、世界を生の歓びに潤していく。
こんなふうに山の雪は生命と終焉を廻る、死の存在すら生命の糧に変わり、死と生が一環の和に廻らされる。
だから心も同じではないかと思えた。
心の氷壁も融けることが出来たなら、温かな想い育む可能性があるのではないか?
両親の間には冷たい壁が凍りついている、けれど今から温かい絆が始まっていく可能性もある?
あの蒼穹の点で見つめた青と白の世界に、そんな希望を想った。
あの想いを今、周太は言葉に変えて微笑んでくれる。
―やっぱり君を愛している、
そっと心告げる想い微笑んで歩くうち、個室の前に戻ってきた。
自室に入って扉を閉める、その足元を黄昏の光が浸しこんだ。
「…懐かしいな、」
ひとり言こぼれて、微かに英二は笑った。
こんな太陽のいろにすら「山」を想いだし、懐かしくて堪らない。
こんなふうに黄昏を迎える瞬間の、山の光と影の世界に帰りたくなる。
雪山で見た黄昏は、白銀にふる黄金と薄紅が輝いていた。
赦された瞬間に赦された人間しか見ることの出来ない、雄渾な壮麗が充たす高峰の世界。
冴え渡る冷厳の大気、太陽の黄金充ちる瞬間と光、氷雪の感触と凍れる風圧、銀砂に輝く星々の静謐。
あの全てが今、恋しい。あの場所に帰りたくて堪らない、自分の立つべき場所がどこなのか思い知らされる。
こんなふうにコンクリートの街並みを見下ろす場所にいる今、すぐに帰れたらいいのに?
「今すぐ、連れて帰れたら…な、」
ひとり言に願いこぼれて、ほろ苦い。
今すぐ本当は浚ってしまいたい、隣の部屋の扉を開いて、抱きかかえ連れ去って、恋しい場所に帰りたい。
今日も朝に向きあった「50年の束縛」重たい軛から、遠く連れ去って一緒に帰りたい。
そして美しい世界だけを見つめさせてあげたい、黒目がちの瞳に笑顔だけを映したい。
けれど、叶わぬ願いだと知っている。そんな「知っている」に疑問がまた心軋ませる。
どうして「一発の銃弾」は撃たれてしまった?
どうして50年前に惨劇は起きてしまった?
その全てが書かれている「記録」の最後を今、光一が読んでいる。
そして自分も今週末には知るだろう、いま抱いている哀しみの原点が見え始める。
けれど、なぜ?
「…なぜだ?」
かすかな呟きに唇ふるえた。
この哀しみが生み出した「今」が孕んでいる矛盾に「なぜだ?」と問いかけたい。
もし50年前の銃声が無ければ「今」自分が抱きしめる幸せは無い、この矛盾の皮肉が痛い。
こんな皮肉は痛い哀しい、なぜ人は、幸せと哀しみが交ぜ織られてしまうのだろう?
そんな疑問に息詰まった背後で、扉が小さく叩かれた。
こん、…こん、
遠慮がちなノックの音が、やさしい。
やさしい音に導かれるまま開錠する、そして開かれた扉から黒目がちの瞳が笑ってくれた。
「英二、ごはん行こう?」
ごはん行こう?
こんなありふれた言葉が、自分には愛しい。
この言葉をこの声が聴かせてくれる、それが日常になり続ける日が欲しい。
そんな願い見つめながら、愛するひとに笑いかけた。
「うん、飯行こう。隣に座ってね、周太、」
「ん、」
素直に頷いてくれる微笑、すこし赤くなる首筋が幸せにしてくれる。
この瞬間の幸せを、ずっと繋げていきたい。
そのために今、自分が何をするべきか?
―…捜一時代の同僚にも言われた、ファイルの閲覧に気を付けろ、とな
今朝、知らされた遠野教官が見た現実。あの確認をする必要がある?
それから他のヒントは無かったろうか?
考え巡らせながら英二は、黄昏の廊下を大切な笑顔と歩き出した。
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22時半、ベッドに座りこみ壁に背凭れる。
デスクライトのあわい光と月明かりの部屋で、コール0に通話は繋がれた。
「おつかれ、光一。待っててくれたんだ、」
「うん。ちょっと悔しいけどね、待ってた、」
きれいなテノールが微笑んでいる。
どこか心ほぐれたような気配が寛ぐ、もしかしてそうかな?理由の予想に英二は笑った。
「光一、俺が周太から怒られたこと、聴いたんだろ?」
「当たり、」
からり即答して明るく笑った。
そんな様子から、どれだけ不安にさせていたのか解かってしまう。
この償いをどうしたらいい?考えながら英二は素直に謝った。
「夕方に電話で言った通りだ、今まで怖がらせて、ごめん。全然解かっていなかった、不安にさせて、ごめん、」
「うん…」
頷いてくれる気配が、物言いたげにゆれる。
ゆれる想いが愛しい、そんな感覚に透明なテノールがためらうよう訊いた。
「あのさ、…おまえが欲情するのって、俺の体が目的?…それとも、」
言いかけた言葉が、ため息の沈黙に呑みこまれる。
この問いかけの傷みが心刺さる、そんな痛みに本音を知らされるまま、答えた。
「おまえが好きだよ、光一の心も体も好きで、欲しくなってエロくなる。山っ子が欲しい、」
好きだから欲しい。
それしか理由なんてない、この本音に裂かれる痛みが甘い。
裂かれるまま甘くなる傷に、透明な声がすこし笑ってくれた。
「俺のこと、全部が欲しいって、想ってくれるんだ?」
「うん、想ってる、」
即答する声が自分に響く。
ほら、もう本音が零れだした、こんな自分は狡い。
けれど本音なら潔く狡くいれば良い、甘い傷裂く開き直りに英二は告げた。
「おまえに見惚れてるよ。山っ子の誇りにも、明るい目にも、きれいな体にも見惚れてる。だからごめん、つい手が出てる、俺、」
「おまえって、ほんとエロだもんね?俺のことも、エロの餌食にしたいワケ?」
「うん、したい。でも無理矢理にはしない、信じていいよ?」
「つい手が出てる、って言ったよね?そんなんでさ、俺と一緒に寝てても踏みとどまれるワケ?…山だとふたりきり、だし、」
最後の言葉が、不安に揺らいだ。
山でふたりきり眠る、これはアンザイレンパートナーである以上、当然のこと。
この「当然」の時間に身の安全が保障されるのか?それは山っ子にとって最大の問題だろう。
このことに自分は幾つもの責任と義務と、権利がある。その全てを見つめて英二は綺麗に笑った。
「そうだな、俺も自分で信用できない。だけど、抱く時には俺、ちゃんと光一の準備してから入れるから。安心して?」
「…っ、」
息呑んだ気配に、つい少し笑ってしまう。
こんなこと自分が言うなんて、きっと驚かせたろうな?そんな予想の耳元で、ひっくり返った声が文句を言った。
「なに宮田の癖にろこつなこと言ってんのさ、馬鹿っ」
呼び方まで狼狽えているな?
こんな狼狽えることは珍しい、けれど笑ってくれている気配が嬉しい。
うれしい想いに英二は綺麗に笑った。
「そうだな、『宮田』なら言わないかもな?でも、『英二』は言うんだよ。エロ別嬪だから、」
公人の顔をしている自分はストイックで生真面目な堅物。
けれど私人の自分は恋の奴隷として婚約者に跪き、アンザイレンパートナーを『血の契』に繋ぐほど熱情が高い。
こんな二面性の自分に我ながら呆れそうだ?そう笑った英二にテノールの声も笑ってくれた。
「ほんとエロ別嬪だね、セクハラだよね?そんなに俺に、欲情しちゃうワケ?」
まだ困ったような声、それでも明るい。
本当は、顔を見て話さないと不安を消しきるのは難しいだろう。
それでも今すぐ少しでも楽にしたい、この願いに英二は正直に話した。
「うん、おまえ自分でも言っただろ?可愛いイヴにアダムは首ったけ、だからエデンに行ったら、もう仕方ないよな?」
「そうだけど、ねえ、俺、もう覚悟しなきゃダメ?いつヤられても、仕方ないってコト?」
「ちゃんと待ってるよ、光一がしたくなるの。それでも自制心が折られた時は、ごめん、ってことだから、」
「ごめん、って先に謝ってるワケ?で、ごめんになっちゃったら責任もって、その…準備してくれるんだね?」
気恥ずかしげな「?」が可愛い。
こんなふうに「可愛い」と想いだしている、こんな感情の推移に英二は微笑んだ。
「うん、じっくり準備する。時間かければ痛く無いし、わりと俺、上手いみたいだから大丈夫、」
「ねえ…時間かければ、ホントに痛くないワケ?」
また気恥ずかしげに「?」が尋ねてくれる。
いつもエロオヤジな悪戯っ子が「?」と訊くことが可笑しくて、こっちが悪戯っ子になって英二は答えた。
「うん、ちょっと痛いかもしれないけどね。でも準備も気持ちいいと思うよ、いつも喜んで貰ってるから、俺、」
「そんなに気持ちイイもん?でも…やっぱり痛いんだよね?血とか出るんだろ?」
痛いのは怖い、そんな不安が伝わってくる。
それも無理ないだろうと思う、「最初は痛くて出血もある」話を光一にしたのは英二自身だから。
初めて冬富士に登ったとき、周太との初めての夜を告白した中でその話をしてしまったから。
でもあれは自分の経験不足だった、それを正直に英二は伝えた。
「前に富士で話したけどさ、初めて周太にした時は俺が下手だった所為なんだ。俺、あのとき冷静じゃ無かったし。
あの夜しか無いと思ったから、時間かけて準備してあげられなかったんだ。でも光一とは、ちゃんと時間かけて出来るだろ?」
あのときは、ふたりの時間がまだあるなんて、思えなかった。
けれど、そんな焦りが周太を傷つけた。あの罪は今も痛くて堪らない、身勝手だった自分が悔しい。
それでも周太は、傷みも英二が与えたものなら嬉しいと言ってくれる。
―どうしてそんなに純粋なの?どうしてそんなに、愛してくれる?
想いに背凭れた壁の向こう、恋しさが微笑んだ。
そんな想いにもう1人の愛しい相手が、電話の向こうで羞みながら訊いてくれる。
「あのさ…時間かける、ってどのくらいなワケ?」
「光一の体が、受入れられるようになるまで、」
「それじゃあさ、…最初から出来なくても、イイんだね?」
「うん、良いよ。光一の体を傷つけたくないから、無理はしない。入れる時も最初は少しずつ、馴染むの待つ感じで入れるから、」
「っ、だからろこつすぎだって馬鹿、」
言ってテノールが可笑しそうに笑いだした。
その声が明るい、それが嬉しくて一緒に英二は笑った。
ひとしきり電話をはさんで笑い合って、光一は言ってくれた。
「ありがと、安心できた」
「そっか、よかった、」
これでもう怖がられないで済むかな?
なんとか戻った信頼に笑いかけ、それから英二は現実へと微笑んだ。
「今朝、また訊かれたよ?」
この一言で、光一なら解かる。
そんな信頼に電話むこうの気配が笑って、頷いてくれた。
「ふうん、そっか。まあ、当然かもね?で、来週末と夏の予定はどう?」
やっぱり理解してくれた、この呼吸がいつも安心できる。
ふたり結んだ「血の契」その絆が離れている今も、色濃く相手に繋がれる実感が温かい。
いつもながらの記号化された「秘匿」の対話、この信頼感に英二は笑いかけた。
「うん、今朝もう決まったよ。夏は7月の盆明けの週末、どうかな?」
「OKだね。今日、スケジュール貰ってきたんだよね、俺、」
「あ、それ見ながら話してるんだ?」
「そ。じゃあ、ここに決定しとくからね、」
これで「奈落」を探す日程は定められた。
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日曜の早朝、ブナ林は鎮まっていた。
まだ6時前の夜明け過ぎ、山は目覚めきらない。
ただ梢わたる風音が森の香をふらせていく、その下でテノールの声が笑った。
「朝の自主トレは久しぶりだね、この時期もさ、気持ちイイだろ?」
「うん、空気が気持ち良いよ。いま平日は離れてるから、なおさらそう思う、」
微笑んで見上げた梢は、若葉がまた鮮やかになっている。
まばゆい緑の色からは、ふるよう清澄な香が深い森を潤していく。
今あふれる山の色彩に香に、やっと呼吸が出来る。
「やっぱり俺、もう山が居場所になってるな、」
本音こぼれて英二は笑った。
いま警察学校での日々も楽しい、けれどこうして山にいることが嬉しくて堪らない。
そして想ってしまう、ここに周太も連れて来れたら良いのに?
そんな想い佇んだ隣から、光一が楽しげに笑ってくれた。
「いま、周太も一緒なら良いな、とか思っただろ?」
「あれ、わかる?」
「そりゃね、ちょっとエロ顔になってるからさ、」
きれいな笑顔と底抜けに明るい目が優しい。
この優しさと明るさに、自分はいつもどれだけ救われてきている?
この笑顔は大らかで無垢で、温かい。そんな相手に自分はなにを負わせているだろう?
そんな想いに立ち止まった英二を、雪白の貌は振向いて訊いてくれた。
「うん?どうした、」
立ち止まって見つめてくれる瞳が、透明な暁の光と笑う。
いま山の朝に佇んだ姿は本当に「山の申し子」この美しい存在に山ヤの心は憧れずにいられない。
憧れ惹かれるまま歩みよって、透明な瞳に英二は微笑んだ。
「愛してるよ、光一。それから、ごめん、」
「なに謝ってんの?」
訊いて光一は明るく笑ってくれる。
そんな無垢な笑顔に心が共鳴して、英二も笑った。
「いろいろ、謝りたいんだ。昨夜は救助が入って、ゆっくり話せなかったけど、」
「ホント昨夜は、お疲れさまだよね?ま、無事に済んで良かったけどさ、」
笑いながら光一は、そこの倒木に座りこんだ。
やさしい木洩陽ふる下、すこし目を細めながら見上げて、笑いかけてくれた。
「この辺でイイよね?」
「うん、いいよ、」
登山道から逸れた仕事道の奥、静かなブナの森。
暁の静謐に佇んだ隣に英二も座ると、カーゴパンツのポケットから光一は一冊の本を取りだした。
「最終章のコト、話すよ?」
テノールの声が告げ、白い手は古い本のページを開いた。
(to be continued)
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第48話 薫衣act.4―side story「陽はまた昇る」
歩いていく廊下ふる陽射しがオレンジ色にあざやぎだす。
いま18時15分すぎ、まだ明るい光に陽の長さが思い知らされる。
もう夏が近い、それは避けられないことなのに、つい心が傷んでしまう。
夏が来たら本配属、それから?
そればかり考えてしまう、そして覚悟を確かめている。
この初任研修が始まって1週間、もう何度このことを考えてきただろう?
ほっと溜息ついた湯上りの頬を、横から関根が小突いた。
「やっぱり宮田、ここに傷痕があるな?」
小突かれた場所は、痛くもなんともない。
けれど熱るときに現れる細い小さな傷痕が、そこに刻まれている。
やっぱりまだ残ってるんだ?考えながら英二は答えた。
「湯上りだからな、周太も見える?」
タオルで髪拭いながら笑いかけると、黒目がちの瞳が見上げてくれた。
すこし見つめて、それから周太は微笑んだ。
「ん、見える、竜の爪痕…かっこいいよ?」
そんなこと君に言われたら嬉しいです、もっと言って?
また恋の奴隷モードになって、けれど我に返った。
いま関根も一緒に歩いているのに、こんなのは拙いだろう。
さっきも風呂でちょっと拙かったな?記憶に我ながら笑った英二に、ふっと関根が尋ねた。
「正直なとこさ、やっぱり俺は、宮田のお母さんには反対されるよな」
「どうして、そう思う?」
どんなふうに関根は考え、そう思っているのだろう?
訊き返した英二に、すこし困った顔でも快活に笑って答えてくれた。
「育ちが違うからさ、俺と英理さん。そういうの、気にするだろうな、って思って、」
たしかに関根の育ちは姉との差が大きい、それを母は気にして反対する可能性が高い。
名門女子大を姉は優秀な成績で卒業し、英国に本社を置く名門食品メーカーに就職した。
通訳としてエグゼクティブセレクタリーとして勤務する姉、聡明で優しくて、明るい華やかな美貌がまばゆいと弟の目からも思う。
そんな姉を母は理想通り自慢の娘だと思い、とても頼りにして甘えている。だから姉の相手も理想通りを求めたいだろう。
息子が予想外の人生を選んでしまった今は、尚更に。
―ごめん、関根、
ちいさな罪悪感が胸を噛む。
けれど今の人生を後悔するなんて自分には出来ない、今が幸せだから。
この今も隣を歩いてくれる人に出逢ったことを、心から幸福だと想っているから。
それでも自分が家を継いでいたなら、姉の相手に対する母のハードルは下げられていただろうか?
こんな想いに沈みかけた隣から、おだやかな声が言ってくれた。
「確かに、お母さん気にするかも。でも、関根なら大丈夫、って思うな」
「マジ?ほんとに湯原、そう思う?」
快活な目が真直ぐに黒目がちの瞳を見つめた。
どうして周太はそう思ってくれるのだろう?英二も見つめた先、瞳笑ませて周太は問いかけをした。
「関根は、お母さんとも向き合って大切にしよう、って思う?時間懸っても、お母さんを受けとめたい?」
「おう、もちろんだ、」
即答して関根は爽やかに笑ってくれた。
「だってさ、大好きな人を生んでくれた人だろ?まあ、俺は短気なとこあるから、腹立てる時もありそうだけど。
それでも大切にしたいよな?こういう俺だし、時間が懸るだろなって覚悟はしてる。解かって貰えるまで、がんばりたいよ」
こいつ、本当に良いヤツだな?
そんな想いに笑顔ほころんでしまう。
こういう覚悟が出来る相手なら、きっと姉も母も幸せにしてくれる。
そんな予兆が嬉しい隣から、穏やかな声は言祝いでくれた。
「ん、関根なら大丈夫だね?そういう気持ち、きっと喜んでくれると思う、」
「そっか、ありがとうな。湯原に言われると自信持てるよ、」
快活な笑顔が幸せそうに笑っている。
そして少し声低めて関根は、率直に周太に尋ねた。
「あのさ、正直なとこ、宮田のお母さんって、怖い?」
「ん、ちょっと、ね?でも、」
素直に答えて周太は困ったよう首傾げこんだ。
けれど黒目がちの瞳に優しい微笑を見せて、言葉を続けてくれた。
「本当は寂しがりで、繊細な人だと思う。すこし不器用で、頑固に見えるけど…本当は、人を好きになりたい人だよ、だから大丈夫、」
どうして君は、そんなに優しい?
あの母をそんなふうに気付いて、真直ぐ見てくれる?
そんなふうに息子の自分すら見ていない、けれど婚約者は母の寂しさを思い遣っている。
このひとの優しさは、剱岳山頂で見つめた大らかな青と白を想い出さす。
標高2,999m剱岳。
あの蒼穹の点にあったのは、氷雪と空と海が魅せる青と白の世界だった。
雪山おおう氷雪は冷厳の死を蹲らせ、永遠の眠り誘う吐息を潜めている。
けれど氷雪も春迎えれば雪代水となって、世界を生の歓びに潤していく。
こんなふうに山の雪は生命と終焉を廻る、死の存在すら生命の糧に変わり、死と生が一環の和に廻らされる。
だから心も同じではないかと思えた。
心の氷壁も融けることが出来たなら、温かな想い育む可能性があるのではないか?
両親の間には冷たい壁が凍りついている、けれど今から温かい絆が始まっていく可能性もある?
あの蒼穹の点で見つめた青と白の世界に、そんな希望を想った。
あの想いを今、周太は言葉に変えて微笑んでくれる。
―やっぱり君を愛している、
そっと心告げる想い微笑んで歩くうち、個室の前に戻ってきた。
自室に入って扉を閉める、その足元を黄昏の光が浸しこんだ。
「…懐かしいな、」
ひとり言こぼれて、微かに英二は笑った。
こんな太陽のいろにすら「山」を想いだし、懐かしくて堪らない。
こんなふうに黄昏を迎える瞬間の、山の光と影の世界に帰りたくなる。
雪山で見た黄昏は、白銀にふる黄金と薄紅が輝いていた。
赦された瞬間に赦された人間しか見ることの出来ない、雄渾な壮麗が充たす高峰の世界。
冴え渡る冷厳の大気、太陽の黄金充ちる瞬間と光、氷雪の感触と凍れる風圧、銀砂に輝く星々の静謐。
あの全てが今、恋しい。あの場所に帰りたくて堪らない、自分の立つべき場所がどこなのか思い知らされる。
こんなふうにコンクリートの街並みを見下ろす場所にいる今、すぐに帰れたらいいのに?
「今すぐ、連れて帰れたら…な、」
ひとり言に願いこぼれて、ほろ苦い。
今すぐ本当は浚ってしまいたい、隣の部屋の扉を開いて、抱きかかえ連れ去って、恋しい場所に帰りたい。
今日も朝に向きあった「50年の束縛」重たい軛から、遠く連れ去って一緒に帰りたい。
そして美しい世界だけを見つめさせてあげたい、黒目がちの瞳に笑顔だけを映したい。
けれど、叶わぬ願いだと知っている。そんな「知っている」に疑問がまた心軋ませる。
どうして「一発の銃弾」は撃たれてしまった?
どうして50年前に惨劇は起きてしまった?
その全てが書かれている「記録」の最後を今、光一が読んでいる。
そして自分も今週末には知るだろう、いま抱いている哀しみの原点が見え始める。
けれど、なぜ?
「…なぜだ?」
かすかな呟きに唇ふるえた。
この哀しみが生み出した「今」が孕んでいる矛盾に「なぜだ?」と問いかけたい。
もし50年前の銃声が無ければ「今」自分が抱きしめる幸せは無い、この矛盾の皮肉が痛い。
こんな皮肉は痛い哀しい、なぜ人は、幸せと哀しみが交ぜ織られてしまうのだろう?
そんな疑問に息詰まった背後で、扉が小さく叩かれた。
こん、…こん、
遠慮がちなノックの音が、やさしい。
やさしい音に導かれるまま開錠する、そして開かれた扉から黒目がちの瞳が笑ってくれた。
「英二、ごはん行こう?」
ごはん行こう?
こんなありふれた言葉が、自分には愛しい。
この言葉をこの声が聴かせてくれる、それが日常になり続ける日が欲しい。
そんな願い見つめながら、愛するひとに笑いかけた。
「うん、飯行こう。隣に座ってね、周太、」
「ん、」
素直に頷いてくれる微笑、すこし赤くなる首筋が幸せにしてくれる。
この瞬間の幸せを、ずっと繋げていきたい。
そのために今、自分が何をするべきか?
―…捜一時代の同僚にも言われた、ファイルの閲覧に気を付けろ、とな
今朝、知らされた遠野教官が見た現実。あの確認をする必要がある?
それから他のヒントは無かったろうか?
考え巡らせながら英二は、黄昏の廊下を大切な笑顔と歩き出した。
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22時半、ベッドに座りこみ壁に背凭れる。
デスクライトのあわい光と月明かりの部屋で、コール0に通話は繋がれた。
「おつかれ、光一。待っててくれたんだ、」
「うん。ちょっと悔しいけどね、待ってた、」
きれいなテノールが微笑んでいる。
どこか心ほぐれたような気配が寛ぐ、もしかしてそうかな?理由の予想に英二は笑った。
「光一、俺が周太から怒られたこと、聴いたんだろ?」
「当たり、」
からり即答して明るく笑った。
そんな様子から、どれだけ不安にさせていたのか解かってしまう。
この償いをどうしたらいい?考えながら英二は素直に謝った。
「夕方に電話で言った通りだ、今まで怖がらせて、ごめん。全然解かっていなかった、不安にさせて、ごめん、」
「うん…」
頷いてくれる気配が、物言いたげにゆれる。
ゆれる想いが愛しい、そんな感覚に透明なテノールがためらうよう訊いた。
「あのさ、…おまえが欲情するのって、俺の体が目的?…それとも、」
言いかけた言葉が、ため息の沈黙に呑みこまれる。
この問いかけの傷みが心刺さる、そんな痛みに本音を知らされるまま、答えた。
「おまえが好きだよ、光一の心も体も好きで、欲しくなってエロくなる。山っ子が欲しい、」
好きだから欲しい。
それしか理由なんてない、この本音に裂かれる痛みが甘い。
裂かれるまま甘くなる傷に、透明な声がすこし笑ってくれた。
「俺のこと、全部が欲しいって、想ってくれるんだ?」
「うん、想ってる、」
即答する声が自分に響く。
ほら、もう本音が零れだした、こんな自分は狡い。
けれど本音なら潔く狡くいれば良い、甘い傷裂く開き直りに英二は告げた。
「おまえに見惚れてるよ。山っ子の誇りにも、明るい目にも、きれいな体にも見惚れてる。だからごめん、つい手が出てる、俺、」
「おまえって、ほんとエロだもんね?俺のことも、エロの餌食にしたいワケ?」
「うん、したい。でも無理矢理にはしない、信じていいよ?」
「つい手が出てる、って言ったよね?そんなんでさ、俺と一緒に寝てても踏みとどまれるワケ?…山だとふたりきり、だし、」
最後の言葉が、不安に揺らいだ。
山でふたりきり眠る、これはアンザイレンパートナーである以上、当然のこと。
この「当然」の時間に身の安全が保障されるのか?それは山っ子にとって最大の問題だろう。
このことに自分は幾つもの責任と義務と、権利がある。その全てを見つめて英二は綺麗に笑った。
「そうだな、俺も自分で信用できない。だけど、抱く時には俺、ちゃんと光一の準備してから入れるから。安心して?」
「…っ、」
息呑んだ気配に、つい少し笑ってしまう。
こんなこと自分が言うなんて、きっと驚かせたろうな?そんな予想の耳元で、ひっくり返った声が文句を言った。
「なに宮田の癖にろこつなこと言ってんのさ、馬鹿っ」
呼び方まで狼狽えているな?
こんな狼狽えることは珍しい、けれど笑ってくれている気配が嬉しい。
うれしい想いに英二は綺麗に笑った。
「そうだな、『宮田』なら言わないかもな?でも、『英二』は言うんだよ。エロ別嬪だから、」
公人の顔をしている自分はストイックで生真面目な堅物。
けれど私人の自分は恋の奴隷として婚約者に跪き、アンザイレンパートナーを『血の契』に繋ぐほど熱情が高い。
こんな二面性の自分に我ながら呆れそうだ?そう笑った英二にテノールの声も笑ってくれた。
「ほんとエロ別嬪だね、セクハラだよね?そんなに俺に、欲情しちゃうワケ?」
まだ困ったような声、それでも明るい。
本当は、顔を見て話さないと不安を消しきるのは難しいだろう。
それでも今すぐ少しでも楽にしたい、この願いに英二は正直に話した。
「うん、おまえ自分でも言っただろ?可愛いイヴにアダムは首ったけ、だからエデンに行ったら、もう仕方ないよな?」
「そうだけど、ねえ、俺、もう覚悟しなきゃダメ?いつヤられても、仕方ないってコト?」
「ちゃんと待ってるよ、光一がしたくなるの。それでも自制心が折られた時は、ごめん、ってことだから、」
「ごめん、って先に謝ってるワケ?で、ごめんになっちゃったら責任もって、その…準備してくれるんだね?」
気恥ずかしげな「?」が可愛い。
こんなふうに「可愛い」と想いだしている、こんな感情の推移に英二は微笑んだ。
「うん、じっくり準備する。時間かければ痛く無いし、わりと俺、上手いみたいだから大丈夫、」
「ねえ…時間かければ、ホントに痛くないワケ?」
また気恥ずかしげに「?」が尋ねてくれる。
いつもエロオヤジな悪戯っ子が「?」と訊くことが可笑しくて、こっちが悪戯っ子になって英二は答えた。
「うん、ちょっと痛いかもしれないけどね。でも準備も気持ちいいと思うよ、いつも喜んで貰ってるから、俺、」
「そんなに気持ちイイもん?でも…やっぱり痛いんだよね?血とか出るんだろ?」
痛いのは怖い、そんな不安が伝わってくる。
それも無理ないだろうと思う、「最初は痛くて出血もある」話を光一にしたのは英二自身だから。
初めて冬富士に登ったとき、周太との初めての夜を告白した中でその話をしてしまったから。
でもあれは自分の経験不足だった、それを正直に英二は伝えた。
「前に富士で話したけどさ、初めて周太にした時は俺が下手だった所為なんだ。俺、あのとき冷静じゃ無かったし。
あの夜しか無いと思ったから、時間かけて準備してあげられなかったんだ。でも光一とは、ちゃんと時間かけて出来るだろ?」
あのときは、ふたりの時間がまだあるなんて、思えなかった。
けれど、そんな焦りが周太を傷つけた。あの罪は今も痛くて堪らない、身勝手だった自分が悔しい。
それでも周太は、傷みも英二が与えたものなら嬉しいと言ってくれる。
―どうしてそんなに純粋なの?どうしてそんなに、愛してくれる?
想いに背凭れた壁の向こう、恋しさが微笑んだ。
そんな想いにもう1人の愛しい相手が、電話の向こうで羞みながら訊いてくれる。
「あのさ…時間かける、ってどのくらいなワケ?」
「光一の体が、受入れられるようになるまで、」
「それじゃあさ、…最初から出来なくても、イイんだね?」
「うん、良いよ。光一の体を傷つけたくないから、無理はしない。入れる時も最初は少しずつ、馴染むの待つ感じで入れるから、」
「っ、だからろこつすぎだって馬鹿、」
言ってテノールが可笑しそうに笑いだした。
その声が明るい、それが嬉しくて一緒に英二は笑った。
ひとしきり電話をはさんで笑い合って、光一は言ってくれた。
「ありがと、安心できた」
「そっか、よかった、」
これでもう怖がられないで済むかな?
なんとか戻った信頼に笑いかけ、それから英二は現実へと微笑んだ。
「今朝、また訊かれたよ?」
この一言で、光一なら解かる。
そんな信頼に電話むこうの気配が笑って、頷いてくれた。
「ふうん、そっか。まあ、当然かもね?で、来週末と夏の予定はどう?」
やっぱり理解してくれた、この呼吸がいつも安心できる。
ふたり結んだ「血の契」その絆が離れている今も、色濃く相手に繋がれる実感が温かい。
いつもながらの記号化された「秘匿」の対話、この信頼感に英二は笑いかけた。
「うん、今朝もう決まったよ。夏は7月の盆明けの週末、どうかな?」
「OKだね。今日、スケジュール貰ってきたんだよね、俺、」
「あ、それ見ながら話してるんだ?」
「そ。じゃあ、ここに決定しとくからね、」
これで「奈落」を探す日程は定められた。
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日曜の早朝、ブナ林は鎮まっていた。
まだ6時前の夜明け過ぎ、山は目覚めきらない。
ただ梢わたる風音が森の香をふらせていく、その下でテノールの声が笑った。
「朝の自主トレは久しぶりだね、この時期もさ、気持ちイイだろ?」
「うん、空気が気持ち良いよ。いま平日は離れてるから、なおさらそう思う、」
微笑んで見上げた梢は、若葉がまた鮮やかになっている。
まばゆい緑の色からは、ふるよう清澄な香が深い森を潤していく。
今あふれる山の色彩に香に、やっと呼吸が出来る。
「やっぱり俺、もう山が居場所になってるな、」
本音こぼれて英二は笑った。
いま警察学校での日々も楽しい、けれどこうして山にいることが嬉しくて堪らない。
そして想ってしまう、ここに周太も連れて来れたら良いのに?
そんな想い佇んだ隣から、光一が楽しげに笑ってくれた。
「いま、周太も一緒なら良いな、とか思っただろ?」
「あれ、わかる?」
「そりゃね、ちょっとエロ顔になってるからさ、」
きれいな笑顔と底抜けに明るい目が優しい。
この優しさと明るさに、自分はいつもどれだけ救われてきている?
この笑顔は大らかで無垢で、温かい。そんな相手に自分はなにを負わせているだろう?
そんな想いに立ち止まった英二を、雪白の貌は振向いて訊いてくれた。
「うん?どうした、」
立ち止まって見つめてくれる瞳が、透明な暁の光と笑う。
いま山の朝に佇んだ姿は本当に「山の申し子」この美しい存在に山ヤの心は憧れずにいられない。
憧れ惹かれるまま歩みよって、透明な瞳に英二は微笑んだ。
「愛してるよ、光一。それから、ごめん、」
「なに謝ってんの?」
訊いて光一は明るく笑ってくれる。
そんな無垢な笑顔に心が共鳴して、英二も笑った。
「いろいろ、謝りたいんだ。昨夜は救助が入って、ゆっくり話せなかったけど、」
「ホント昨夜は、お疲れさまだよね?ま、無事に済んで良かったけどさ、」
笑いながら光一は、そこの倒木に座りこんだ。
やさしい木洩陽ふる下、すこし目を細めながら見上げて、笑いかけてくれた。
「この辺でイイよね?」
「うん、いいよ、」
登山道から逸れた仕事道の奥、静かなブナの森。
暁の静謐に佇んだ隣に英二も座ると、カーゴパンツのポケットから光一は一冊の本を取りだした。
「最終章のコト、話すよ?」
テノールの声が告げ、白い手は古い本のページを開いた。
(to be continued)
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