青の色彩、空も山も想いすらも

第50話 青嵐act.1―side story「陽はまた昇る」
机にオレンジの光、射す。
ゆるやかな黄昏は学習室を充たし、広げた資料はオレンジ色に染まりだす。
ふと目をあげた窓に金色の雲が流れていく、その色彩がすこし黒ずんでいた。
こんな空のときは湿度が高く上空の風が強い、きっと雨が降る。この予測に英二は内心、溜息を吐いた。
―今夜は雨か、奥多摩はどうだろう?
夜間の天候不順は、特にテント泊の場合は影響が大きい。けれど今、奥多摩は勧告が出ているからテント泊は少ないだろう。
それでも今5月、寒気と暖気が交差する季節の変わり目は界雷と、それに伴う集中豪雨や雹も怖い。
単に雨が降るだけでも翌朝の濃霧と地盤の緩みに注意が必要になる、雨後の山は土が水含んで崩れやすい。
そうすると滑落、道迷いなど遭難の可能性も高くなる。
―明日は出動、無いと良いな…あまり、単独で現場に行かせたくない
いま英二は警察学校で初任総合の研修中でいる。
だからパートナーの光一は単独行での救助活動になってしまう。
いま同じ理由で単独の大野と臨時で組んではいる、けれど大野と光一では体格が違い過ぎてザイルパートナーにはなれない。
たしかに、光一は英二の配属前は単独だったから馴れている、それでも心配にはなる。
「…このあと、雨かな?」
穏やかな声に話しかけられて、英二は振向いた。
振向いた先で黒目がちの瞳は微笑んで、すこし心配そうに周太は言ってくれた。
「雨だと、遭難とか心配だね?…光一なら大丈夫だろうけど、」
自分が考えていたままが、言葉に変えられた。
それに驚きながらも嬉しくて、英二は婚約者に微笑んだ。
「周太。俺の考えが、解かるの?」
「ん、なんとなく、ね…」
優しい笑顔で頷いて、ふっと周太は言葉を呑みこんだ。
なんだか気恥ずかしげな顔、けれど羞みながら婚約者は続けてくれた。
「だって…わからないとこまるでしょ?」
ほんとうは「夫のことなら解らないと」って言っているよね?
こんなの嬉しい、こっちこそ困ってしまう。
嬉しくて愛しくて、キスしたくなりそうで困る、ここは学習室なのに?
でもキスしたい、どうしよう?
そんな幸せな「困る」が意識を廻ってしまう。
ちょっと自室に戻ろうって誘おうかな?そんな考えに口開きかけた時、声が掛けられた。
「おつかれさま、湯原。ちょっと良い?」
やっぱり、来たな?
婚約者の名字を呼んだ声に、英二は目をあげた。
あげた視線の向こう佇んだ精悍な笑顔に、つい心裡しかめっ面をしてしまう。
俺が一昨日から気にすることを話しに来たな?そんな予想の隣、素直に周太が笑いかけた。
「おつかれさま、内山…なに?」
「今度の外泊日のことなんだけど。ごめん、宮田、勉強の邪魔して、」
邪魔してるの、それだけじゃないんだけど?
そんな内心の声を押えて、英二は笑いかけた。
「いや、大丈夫。今度の外泊日、って今週末の土曜?」
「うん。湯原と昼飯、一緒しようって約束したんだ。この間の事例研究のこと、詳しく教えてほしくてさ」
素直に答えて内山は笑ってくれる。
いま言っている「この間の事例研究のこと」は、周太が話した痴漢冤罪の話だろう。
あのボールペンを使う遣り方は面白いと自分も思った、きっと勉強熱心な内山なら詳しく訊きたいだろう。
そう納得しながらも、つい考えがめぐりだす。
―ふたりきりで、飯するんだよな…阻止できないかな、なんか良い理由ないかな
やっぱり阻止したい、それが本音。
けれど、それを周太に言うことは流石に子供っぽい。
「湯原、週末は実家に帰るんだよな、どこなら都合良い?」
「ん…内山は、どこが良いかな?」
「俺から誘ったんだ、湯原に合わせるよ、」
この今も内山の表情からは、単純に話したいだけだと解かる。
それでも自分はどうしても嫌だ、そんなワガママが心に起きている自覚が痛い。
そんな自覚に我ながら微笑んだ時、やさしいボーイソプラノが声をかけてくれた。
「宮田くん、今、話しかけても良い?」
「うん?」
声に振向くと、瀬尾と関根が並んで立っていた。
ふたり揃って何の用かな?そう目で訊いた英二に、関根が快活に尋ねた。
「あのさ、山岳救助隊の自主トレ、参加させて欲しいなって話してたろ?アレ、外泊日の時なら予定が合うかな、って思ってさ」
―それ、名案。
心のつぶやきに「阻止する方法」が纏まった。
纏まった考えに英二は微笑んだ。
「今度の土日だったら、ちょうど副隊長も一緒に自主トレするんだ。それに参加すると、勉強になると思うけど?」
「あ、それ参加したい、俺。あの名ガイドで護衛官の方でしょ?」
瀬尾が即答に身を乗り出してくれる。
この反応は予想通り、思ったとおりが嬉しくて英二は笑った。
「そう、後藤副隊長は最高の奥多摩ガイドで、最高の山ヤの警察官なんだ。どうせなら、副隊長と話してみたいだろ?」
「話したいな、俺。後藤さんの本、持って行ったらサインとか頂けるかな?」
この反応も、警察マニアと言われるほど警察官に憧れていた瀬尾らしい。
もうこれで日程は決まりだろうな?そんな考えと英二は頷いた。
「うん、副隊長は気さくな方だからね。すごく照れるだろうとは思うけど、」
「勲章とか貰ってる人だろ?それなのに気さくなのって良いよな、俺も会ってみたい、今週末にしようぜ?」
快活な笑顔で関根も賛成してくれる。
この笑顔が、自分のワガママを叶えてくれると良いな?そう見た先で関根の大きな手が、ぽん、と小柄な肩を叩いた。
「湯原、おまえも参加するよな?自主トレ、」
「ん?…自主トレ?」
内山との会話を中断させて、周太は関根に首傾げた。
なにのことかな?そう見つめる黒目がちの瞳に関根は、快活に誘ってくれた。
「山岳救助隊の自主トレ、一緒に参加しようって約束しただろ?アレ、今週末に決まったから。良いよな?」
約束の、ダブルブッキング。
どちらを周太は選ぶだろう?この場合の優先順位は、どっち?
この「賭け」に不安を隠し見つめた先、困ったよう周太は首を傾げこんだ。
「…今週末になったんだ?」
「おう。救助隊の副隊長、今週末は宮田たちと自主トレするらしいんだ。そのとき参加したほうが勉強になるだろ?」
後藤副隊長は周太の父の友人で、幼い日の周太を救けてくれた。
そんな後藤を周太は尊敬し、好きで、「お元気?」とよく英二にも訊いてくれる。
その後藤から山岳訓練を受けられるチャンスを、周太はどうするだろう?
「あ、後藤さんから、指導してもらえるの?」
行きたいな?
そう黒目がちの瞳が明るんだのを、英二は見た。
このまま頷かせてしまいたい、そんな想い正直に英二はきれいに笑いかけた。
「そうなんだ。副隊長、光一と俺のコンビネーションをチェックしたいって言ってさ。個人指導してくれるんだ、」
「光一との?…それ、本格的な訓練じゃないの?参加して、邪魔にならないかな?」
遠慮がちなトーン、けれど「行きたいな」が強まっている。
このあいだ川崎に帰った夜、すこし周太は光一に嫉妬してみせた。だから光一を出せば周太は来てくれる?
そんな計算に良心を呵責しながらも、英二は答えに微笑んだ。
「邪魔になんかならないよ?副隊長、周太に会いたがっていたし。きっと来てくれたら喜ぶよ、でも、」
いったん言葉を切って、英二は小さく溜息吐いた。
そして内山へと顔を向けて、精悍な目へと真直ぐ笑いかけた。
「内山との約束があるんだろ、今度の土曜日って?自主トレは後から決めたんだしさ、」
後から決めたけど、こっちを優先してよ?
そんなワガママ勝手を心に呟いてしまう。
こんな自分こそが嫉妬深い、狡い自分に我ながら呆れてもいる。
けれど自分は周太に2枚のカードを切った、「光一」と「後藤副隊長」この2人は引力が強い。
「ん、そうだよね?…後から、だし…」
迷うよう周太が言った、そのトーンが「残念だけど、」と曇っている。
こんなに困らせていること、罪悪感。けれど英二はもう1枚のカードを捲って見せた。
「そうだな?でね、周太。日曜は吉村先生も参加してくださるんだ、質問あれば聴いてくるよ?」
「え、吉村先生も?…もしかして、遭難現場の講習とかするの?」
すごく行きたい、
そんな素直な想いが黒目がちの瞳に映りこむ。
きっと周太の意志は大方「自主トレ」に傾きかけている、その傾きに英二は最強のカードを切った。
「うん、危険箇所や最新の応急処置をね。こっちの講習には、美代さんも参加するらしいよ、」
言いながら英二は携帯を開くと、さっき受信したばかりのメールを呼びだした。
開いた画面を周太に見せて、きれいに英二は微笑んだ。
「たぶん、周太にもメール入ってると思うよ?」
From :小嶌美代
Subject:今週の日曜日
本 文 :こんにちは、おつかれさまです。
日曜の吉村先生の講習会、私も参加します。よろしくお願いします。
湯原くんも参加するよね?もし声かけていないなら、絶対に誘ってほしい!
私もメールします。
「英二、美代さんに、お願いされてるね?」
嬉しそうに、困ったように、周太は微笑んでいる。
そんな雰囲気を心で喜びながら、英二はすこし困った笑顔で頷いた。
「だな?でも、美代さんには悪いけど、仕方ないよ、」
気にしないで?
そう笑いかけた視線の先、その隣で精悍な笑顔が口を開いた。
「湯原、俺の方はいつでも良いから。今週末は、青梅署に行ってきなよ、」
そう言ってくれるよな、内山?
そんな予想通りの展開に英二は微笑んだ。
微笑んだ前で、遠慮がちに周太が内山に尋ねた。
「いいの?…でも、先に内山と約束したのに、」
「気にするな。美代さんって子も、待ってるんだろ?お世話になってる方も多いみたいだし、そっち行く方が良いよ、」
やっぱり内山って良いヤツ。
こんなゲンキンな感想に心笑ってしまう。
それでも穏やかな笑顔のまま見守る先で、嬉しそうに周太が微笑んだ。
「ありがとう、内山。今週末は、奥多摩に行かせてもらうね?」
大成功。
そんな心の声に我ながら呆れて、けれど本音、嬉しくて仕方ない。
勝手な嫉妬とワガママで邪魔をしてしまった、そんな自分に呆れてもいる。
けれどそれ以上に、週末も一緒にいられることが幸せで。

消灯前の点呼が終わり、いったん自室に戻ると携帯を開く。
発信履歴から呼びだした番号に架けて、コール0すぐ繋がった。
「おつかれ、光一。そっちの天気どう?」
開口一番、天候を訊いてしまう。
山では天候の変化が生死の分岐点を作りだす、だから気になる。
「おつかれさん、いま雨が降り出したよ。明日は霧かもね、」
からりテノールが笑って答えてくれる。
その明るさに寛いで英二は笑った。
「そっか、明日は気を付けろよ?でさ、土日の自主トレの件なんだけど、」
「周太と同期が2人、参加したいんだろ?」
さらっと言われて驚いて、けれどすぐ納得できる。
いつも周太は消灯前の時間に光一と電話する、それで先に話してくれたのだろう。納得に英二は頷いた。
「そうなんだ、大丈夫かな?」
「問題ないね、ま、一部は見学になるかもだけどさ。コースどうするか、考えとくよ」
笑って請け負ってくれる、そんな信頼感が嬉しい。
嬉しく微笑んで英二は訊いてみた。
「ボルダリングはどう?忍者返しの岩だったら、周りに色んなレベルのがあるし、」
「うん、俺と同じ意見だね。じゃ、それで決まりな、」
テノールの声が賛同をしてくれる。
そしてすぐ、次の提案をしてくれた。
「でさ?どうせだったら、夜は避難小屋に皆で泊まるの、どう?」
「お、それいいな…」
いい考えだな?
そう素直に頷きかけて、ひとつ懸念を英二は口にした。
「なあ?埼玉県警から連絡があった強盗犯、まだ捕まっていないんだろ?無人小屋の宿泊制限は、まだ?」
「だね。でもまあ、コッチも全員、警察官だしね?」
ちょっと悪戯っ子なトーンで言ってくれる。
なにを考えているか解るな、可笑しくて英二はすこし笑った。
「光一、単独のときは深追いするなよ?」
「はいはい、拳銃ちゃんと持ち歩いてるよ、業務中はね、」
からり笑う声は元気に明るい。
この明るさに少し救われる自分がいる、今、罪悪感が本当は痛いから。
いま初任総合の研修中で、毎日を周太の隣に過ごしている。その幸せな時間に表裏する時間を考えてしまうから。
自分が周太と幸せな時間、光一は独りになる。その孤独と寂寥に罪悪感が痛い。
こんなに痛がっても仕方ないと解っている、それでも光一の想いが心映るよう感じられてしまう。
こんな想いをするのは『血の契』だからだろうか?この絆に微笑んで英二は口を開いた。
「光一、今日は夕飯、旨かった?」
「うん?まあね、麻婆茄子で旨かったけど。ソッチはなんだった?」
「よかったな、光一の好物だったんだ。こっちは焼き魚だったよ、周太が鰆だ、って教えてくれた、」
「旨いよね、アレも。でさ、周太の様子はどう?」
愉しげな会話の中に、ふっと緊張が走る。
いま光一が訊いたことの意味を見つめながら、英二は記号で話した。
「うん、いつもどおり可愛いよ、でも俺、ちょっと今日は意地悪したかもな、」
「いつもどおりなら良かったね。で、意地悪ってなに?」
いつもどおり。
この言葉の意味は「まだ『Fantome』の謎は解かっていない」ということ。
そんな意味に安堵した気配のテノールに、英二は微笑んだ。
「同期とサシで飯食うの、邪魔しちゃったんだ、」
現状の「解かっていない」を保ちたいから、出来るだけ他の人間と2人きりは阻止したい。
もう既に周太は藤岡と2人きりのとき、何げない会話からヒントを得てしまった。
あんなふうに周太は聡明で鋭い、だから今回も「2人きり」は避けたい。
―ま、単純に「ふたりきりで飯なんかいかないで!」って、嫉妬も大きいけど
こんな本音と理由とに笑ってしまう。
笑った向こう側で光一が、可笑しそうに訊いてくれた。
「なるほどね、それで自主トレ参加なんだね?」
「やっぱり解っちゃうよな?」
「まあね。おまえも大概、嫉妬深いからね。で、その同期ってどんなヤツなワケさ?」
さらり笑って「確認」を訊いてくれる。
この確認に英二はポイントだけを答えた。
「周太と首席争いしてるヤツだよ、東大出身でね、ほんとはキャリアになりたかったらしい、」
東大出身、キャリア。
この2つに、ひっかかる。
あの50年前の事件の発端に見た事実と重なりだす、そんな2つだから。
だから尚更に内山と2人きりにしたくなくて、ずっと土曜日から考えてきた。
―ごめん、内山…おまえを疑うわけじゃないんだ、でも
いま周太も聴講生として通学する晉と馨の母校、そこにある可能性は?
晉に「隠匿」を勧め、事実協力を惜しまなかったのは?
馨に警察学校を奨めたのは?
それらを知ってしまう危険性は、すべて潰してしまいたい。
単に英二と同じ所属署、それだけの藤岡ですら危険性を作ってしまった、何げない会話に。
それも英二のミステイクが発端だと解っている、あんなふうに自分が他にミスを犯していないか100%の自信は無い。
だからこそ、どんなに小さな可能性でも「危険」なら遠ざけてしまいたい。
「ふうん、東大でキャリアねえ。ま、おまえの嫉妬も悪くないんじゃない?」
的外れじゃないね?
そう告げてくれる言外に、英二は微笑んだ。

ボルダリング『Bouldering』
フリークライミングの一種で、2mから4m程度の岩や石をザイルなどの確保無しで登攀する。
確保無しで登るから必要な装備が少なく、手軽にはじめられる。
このボルダリングのフィールドとして御岳渓谷は名高い。
「宮田、おまえ、すげえ速いな?」
白狐岩から降りてきた英二に、驚いたよう関根が褒めてくれる。
こういうの照れるな?ちょっと困り顔で、けれど素直に英二は微笑んだ。
「ありがと、でも国村のがすごいよ?」
言いながら指さした先、英二と入れ替わりで救助隊服姿が岩肌にとりついた。
するり身軽なこなしに登りあげ、あっと言う間に高度を稼いでいく。
そして頂上に立つと、またすぐ降りて英二の隣で光一は笑った。
「はい、お待たせ。あんなカンジで登ってみて?」
からり明るいテノールで関根に指示をする。
白狐岩を見上げチョークを手に付けながら、素直に関根は訊いた。
「国村さん、いつもこんな感じで宮田と登るんですか?」
「だね。でさ、敬語じゃなくって良いからね。俺たち、タメだしさ、」
「それ、助かる。俺、敬語ってちょっと疲れるんだよな、」
普段の気さくな話し方になって、関根は笑っている。
そんないつもの快活な笑顔に、テノールが率直に言った。
「へえ、良い笑顔するね。こういうとこ、宮田の姉さんは惚れたってコト?」
「あ、そのへんも知ってるんだ?やべ、ちょっと照れてきた、」
「ふうん。もしかして、初彼女ってトコ?」
「当たり。だからさ、あんまイジメないでくれよな?」
「それは約束できないね、俺ってエロオヤジだからさ。さて、スタンバイはいいね?」
いつもの気さくな調子で光一が笑っている。
救助隊制帽のした底抜けに明るい目は愉しげで、渓谷の風に目を細めて指示を出した。
「スタートしたすぐのホールド、そこに立つのがちょっと難しいよ。ま、焦らずにルートよく見て登ってね、」
「おう、じゃ、行くな、」
快活な笑顔を見せて、関根は岩に向き直った。
そして英二と光一が付けたチョークの痕へと手足を運び、白狐岩を登りだした。
初めてにしては軽い身のこなしが着実に岩肌を進んでいく、その背中に感心したよう光一が笑った。
「ふうん、関根くんって巧いね?ボルダリングは初心者だろ?」
「うん、今日が初めてだって言ってたけど、」
答えながら英二は心裡、遠野教官の人選眼に感心した。
光一のザイルパートナーが欲しい、その要望に後藤副隊長が提示した条件に遠野は英二と関根を選んだ。
その選択は正しいと、今日の関根を見ていて解かってしまう。
―関根、もう光一とタメ口で喋って、笑わせている
快活で真直ぐな関根は、明るいけれど気難しい光一と相性が良いのだろう。
もし自分ではなく関根だったら、今頃どうなっていたのかな?
そんな考えと佇んだ英二に、涼やかな風が吹きかけた。
風は、樹木と水の香ふくんで、どこか優しい。
―ここに卒配されて、よかった
素直な想い微笑んだ向こう、さあっと山から吹き下ろす風は清流を渡り、頬撫でていく。
駆け抜ける風は渓谷からまた山に戻り、新緑きらめかせ山肌ゆらがせる。
緑の風、五月晴れの青、そして渓谷は砕ける流に碧が輝いていた。
「瀬尾くん、ほら、ここに手を掛けるんだよ、」
「はいっ、」
後藤副隊長が指導する声と、瀬尾の返事する声が聴こえてくる。
声に振向くと白狐岩の一つ下流の岩上、周太が心配そうに下を覗きこんでいた。
そこをめざし登りあげていく瀬尾の、懸命な横顔が紅潮に染まっている。
そうして小柄な体は岩の頂上に手を掛けて、周太の隣に立った。
「出来たよ、俺にも…ね、出来た、」
息弾ませたボーイソプラノが、嬉しそうに笑うのが風に聞えた。
(to be continued)
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第50話 青嵐act.1―side story「陽はまた昇る」
机にオレンジの光、射す。
ゆるやかな黄昏は学習室を充たし、広げた資料はオレンジ色に染まりだす。
ふと目をあげた窓に金色の雲が流れていく、その色彩がすこし黒ずんでいた。
こんな空のときは湿度が高く上空の風が強い、きっと雨が降る。この予測に英二は内心、溜息を吐いた。
―今夜は雨か、奥多摩はどうだろう?
夜間の天候不順は、特にテント泊の場合は影響が大きい。けれど今、奥多摩は勧告が出ているからテント泊は少ないだろう。
それでも今5月、寒気と暖気が交差する季節の変わり目は界雷と、それに伴う集中豪雨や雹も怖い。
単に雨が降るだけでも翌朝の濃霧と地盤の緩みに注意が必要になる、雨後の山は土が水含んで崩れやすい。
そうすると滑落、道迷いなど遭難の可能性も高くなる。
―明日は出動、無いと良いな…あまり、単独で現場に行かせたくない
いま英二は警察学校で初任総合の研修中でいる。
だからパートナーの光一は単独行での救助活動になってしまう。
いま同じ理由で単独の大野と臨時で組んではいる、けれど大野と光一では体格が違い過ぎてザイルパートナーにはなれない。
たしかに、光一は英二の配属前は単独だったから馴れている、それでも心配にはなる。
「…このあと、雨かな?」
穏やかな声に話しかけられて、英二は振向いた。
振向いた先で黒目がちの瞳は微笑んで、すこし心配そうに周太は言ってくれた。
「雨だと、遭難とか心配だね?…光一なら大丈夫だろうけど、」
自分が考えていたままが、言葉に変えられた。
それに驚きながらも嬉しくて、英二は婚約者に微笑んだ。
「周太。俺の考えが、解かるの?」
「ん、なんとなく、ね…」
優しい笑顔で頷いて、ふっと周太は言葉を呑みこんだ。
なんだか気恥ずかしげな顔、けれど羞みながら婚約者は続けてくれた。
「だって…わからないとこまるでしょ?」
ほんとうは「夫のことなら解らないと」って言っているよね?
こんなの嬉しい、こっちこそ困ってしまう。
嬉しくて愛しくて、キスしたくなりそうで困る、ここは学習室なのに?
でもキスしたい、どうしよう?
そんな幸せな「困る」が意識を廻ってしまう。
ちょっと自室に戻ろうって誘おうかな?そんな考えに口開きかけた時、声が掛けられた。
「おつかれさま、湯原。ちょっと良い?」
やっぱり、来たな?
婚約者の名字を呼んだ声に、英二は目をあげた。
あげた視線の向こう佇んだ精悍な笑顔に、つい心裡しかめっ面をしてしまう。
俺が一昨日から気にすることを話しに来たな?そんな予想の隣、素直に周太が笑いかけた。
「おつかれさま、内山…なに?」
「今度の外泊日のことなんだけど。ごめん、宮田、勉強の邪魔して、」
邪魔してるの、それだけじゃないんだけど?
そんな内心の声を押えて、英二は笑いかけた。
「いや、大丈夫。今度の外泊日、って今週末の土曜?」
「うん。湯原と昼飯、一緒しようって約束したんだ。この間の事例研究のこと、詳しく教えてほしくてさ」
素直に答えて内山は笑ってくれる。
いま言っている「この間の事例研究のこと」は、周太が話した痴漢冤罪の話だろう。
あのボールペンを使う遣り方は面白いと自分も思った、きっと勉強熱心な内山なら詳しく訊きたいだろう。
そう納得しながらも、つい考えがめぐりだす。
―ふたりきりで、飯するんだよな…阻止できないかな、なんか良い理由ないかな
やっぱり阻止したい、それが本音。
けれど、それを周太に言うことは流石に子供っぽい。
「湯原、週末は実家に帰るんだよな、どこなら都合良い?」
「ん…内山は、どこが良いかな?」
「俺から誘ったんだ、湯原に合わせるよ、」
この今も内山の表情からは、単純に話したいだけだと解かる。
それでも自分はどうしても嫌だ、そんなワガママが心に起きている自覚が痛い。
そんな自覚に我ながら微笑んだ時、やさしいボーイソプラノが声をかけてくれた。
「宮田くん、今、話しかけても良い?」
「うん?」
声に振向くと、瀬尾と関根が並んで立っていた。
ふたり揃って何の用かな?そう目で訊いた英二に、関根が快活に尋ねた。
「あのさ、山岳救助隊の自主トレ、参加させて欲しいなって話してたろ?アレ、外泊日の時なら予定が合うかな、って思ってさ」
―それ、名案。
心のつぶやきに「阻止する方法」が纏まった。
纏まった考えに英二は微笑んだ。
「今度の土日だったら、ちょうど副隊長も一緒に自主トレするんだ。それに参加すると、勉強になると思うけど?」
「あ、それ参加したい、俺。あの名ガイドで護衛官の方でしょ?」
瀬尾が即答に身を乗り出してくれる。
この反応は予想通り、思ったとおりが嬉しくて英二は笑った。
「そう、後藤副隊長は最高の奥多摩ガイドで、最高の山ヤの警察官なんだ。どうせなら、副隊長と話してみたいだろ?」
「話したいな、俺。後藤さんの本、持って行ったらサインとか頂けるかな?」
この反応も、警察マニアと言われるほど警察官に憧れていた瀬尾らしい。
もうこれで日程は決まりだろうな?そんな考えと英二は頷いた。
「うん、副隊長は気さくな方だからね。すごく照れるだろうとは思うけど、」
「勲章とか貰ってる人だろ?それなのに気さくなのって良いよな、俺も会ってみたい、今週末にしようぜ?」
快活な笑顔で関根も賛成してくれる。
この笑顔が、自分のワガママを叶えてくれると良いな?そう見た先で関根の大きな手が、ぽん、と小柄な肩を叩いた。
「湯原、おまえも参加するよな?自主トレ、」
「ん?…自主トレ?」
内山との会話を中断させて、周太は関根に首傾げた。
なにのことかな?そう見つめる黒目がちの瞳に関根は、快活に誘ってくれた。
「山岳救助隊の自主トレ、一緒に参加しようって約束しただろ?アレ、今週末に決まったから。良いよな?」
約束の、ダブルブッキング。
どちらを周太は選ぶだろう?この場合の優先順位は、どっち?
この「賭け」に不安を隠し見つめた先、困ったよう周太は首を傾げこんだ。
「…今週末になったんだ?」
「おう。救助隊の副隊長、今週末は宮田たちと自主トレするらしいんだ。そのとき参加したほうが勉強になるだろ?」
後藤副隊長は周太の父の友人で、幼い日の周太を救けてくれた。
そんな後藤を周太は尊敬し、好きで、「お元気?」とよく英二にも訊いてくれる。
その後藤から山岳訓練を受けられるチャンスを、周太はどうするだろう?
「あ、後藤さんから、指導してもらえるの?」
行きたいな?
そう黒目がちの瞳が明るんだのを、英二は見た。
このまま頷かせてしまいたい、そんな想い正直に英二はきれいに笑いかけた。
「そうなんだ。副隊長、光一と俺のコンビネーションをチェックしたいって言ってさ。個人指導してくれるんだ、」
「光一との?…それ、本格的な訓練じゃないの?参加して、邪魔にならないかな?」
遠慮がちなトーン、けれど「行きたいな」が強まっている。
このあいだ川崎に帰った夜、すこし周太は光一に嫉妬してみせた。だから光一を出せば周太は来てくれる?
そんな計算に良心を呵責しながらも、英二は答えに微笑んだ。
「邪魔になんかならないよ?副隊長、周太に会いたがっていたし。きっと来てくれたら喜ぶよ、でも、」
いったん言葉を切って、英二は小さく溜息吐いた。
そして内山へと顔を向けて、精悍な目へと真直ぐ笑いかけた。
「内山との約束があるんだろ、今度の土曜日って?自主トレは後から決めたんだしさ、」
後から決めたけど、こっちを優先してよ?
そんなワガママ勝手を心に呟いてしまう。
こんな自分こそが嫉妬深い、狡い自分に我ながら呆れてもいる。
けれど自分は周太に2枚のカードを切った、「光一」と「後藤副隊長」この2人は引力が強い。
「ん、そうだよね?…後から、だし…」
迷うよう周太が言った、そのトーンが「残念だけど、」と曇っている。
こんなに困らせていること、罪悪感。けれど英二はもう1枚のカードを捲って見せた。
「そうだな?でね、周太。日曜は吉村先生も参加してくださるんだ、質問あれば聴いてくるよ?」
「え、吉村先生も?…もしかして、遭難現場の講習とかするの?」
すごく行きたい、
そんな素直な想いが黒目がちの瞳に映りこむ。
きっと周太の意志は大方「自主トレ」に傾きかけている、その傾きに英二は最強のカードを切った。
「うん、危険箇所や最新の応急処置をね。こっちの講習には、美代さんも参加するらしいよ、」
言いながら英二は携帯を開くと、さっき受信したばかりのメールを呼びだした。
開いた画面を周太に見せて、きれいに英二は微笑んだ。
「たぶん、周太にもメール入ってると思うよ?」
From :小嶌美代
Subject:今週の日曜日
本 文 :こんにちは、おつかれさまです。
日曜の吉村先生の講習会、私も参加します。よろしくお願いします。
湯原くんも参加するよね?もし声かけていないなら、絶対に誘ってほしい!
私もメールします。
「英二、美代さんに、お願いされてるね?」
嬉しそうに、困ったように、周太は微笑んでいる。
そんな雰囲気を心で喜びながら、英二はすこし困った笑顔で頷いた。
「だな?でも、美代さんには悪いけど、仕方ないよ、」
気にしないで?
そう笑いかけた視線の先、その隣で精悍な笑顔が口を開いた。
「湯原、俺の方はいつでも良いから。今週末は、青梅署に行ってきなよ、」
そう言ってくれるよな、内山?
そんな予想通りの展開に英二は微笑んだ。
微笑んだ前で、遠慮がちに周太が内山に尋ねた。
「いいの?…でも、先に内山と約束したのに、」
「気にするな。美代さんって子も、待ってるんだろ?お世話になってる方も多いみたいだし、そっち行く方が良いよ、」
やっぱり内山って良いヤツ。
こんなゲンキンな感想に心笑ってしまう。
それでも穏やかな笑顔のまま見守る先で、嬉しそうに周太が微笑んだ。
「ありがとう、内山。今週末は、奥多摩に行かせてもらうね?」
大成功。
そんな心の声に我ながら呆れて、けれど本音、嬉しくて仕方ない。
勝手な嫉妬とワガママで邪魔をしてしまった、そんな自分に呆れてもいる。
けれどそれ以上に、週末も一緒にいられることが幸せで。

消灯前の点呼が終わり、いったん自室に戻ると携帯を開く。
発信履歴から呼びだした番号に架けて、コール0すぐ繋がった。
「おつかれ、光一。そっちの天気どう?」
開口一番、天候を訊いてしまう。
山では天候の変化が生死の分岐点を作りだす、だから気になる。
「おつかれさん、いま雨が降り出したよ。明日は霧かもね、」
からりテノールが笑って答えてくれる。
その明るさに寛いで英二は笑った。
「そっか、明日は気を付けろよ?でさ、土日の自主トレの件なんだけど、」
「周太と同期が2人、参加したいんだろ?」
さらっと言われて驚いて、けれどすぐ納得できる。
いつも周太は消灯前の時間に光一と電話する、それで先に話してくれたのだろう。納得に英二は頷いた。
「そうなんだ、大丈夫かな?」
「問題ないね、ま、一部は見学になるかもだけどさ。コースどうするか、考えとくよ」
笑って請け負ってくれる、そんな信頼感が嬉しい。
嬉しく微笑んで英二は訊いてみた。
「ボルダリングはどう?忍者返しの岩だったら、周りに色んなレベルのがあるし、」
「うん、俺と同じ意見だね。じゃ、それで決まりな、」
テノールの声が賛同をしてくれる。
そしてすぐ、次の提案をしてくれた。
「でさ?どうせだったら、夜は避難小屋に皆で泊まるの、どう?」
「お、それいいな…」
いい考えだな?
そう素直に頷きかけて、ひとつ懸念を英二は口にした。
「なあ?埼玉県警から連絡があった強盗犯、まだ捕まっていないんだろ?無人小屋の宿泊制限は、まだ?」
「だね。でもまあ、コッチも全員、警察官だしね?」
ちょっと悪戯っ子なトーンで言ってくれる。
なにを考えているか解るな、可笑しくて英二はすこし笑った。
「光一、単独のときは深追いするなよ?」
「はいはい、拳銃ちゃんと持ち歩いてるよ、業務中はね、」
からり笑う声は元気に明るい。
この明るさに少し救われる自分がいる、今、罪悪感が本当は痛いから。
いま初任総合の研修中で、毎日を周太の隣に過ごしている。その幸せな時間に表裏する時間を考えてしまうから。
自分が周太と幸せな時間、光一は独りになる。その孤独と寂寥に罪悪感が痛い。
こんなに痛がっても仕方ないと解っている、それでも光一の想いが心映るよう感じられてしまう。
こんな想いをするのは『血の契』だからだろうか?この絆に微笑んで英二は口を開いた。
「光一、今日は夕飯、旨かった?」
「うん?まあね、麻婆茄子で旨かったけど。ソッチはなんだった?」
「よかったな、光一の好物だったんだ。こっちは焼き魚だったよ、周太が鰆だ、って教えてくれた、」
「旨いよね、アレも。でさ、周太の様子はどう?」
愉しげな会話の中に、ふっと緊張が走る。
いま光一が訊いたことの意味を見つめながら、英二は記号で話した。
「うん、いつもどおり可愛いよ、でも俺、ちょっと今日は意地悪したかもな、」
「いつもどおりなら良かったね。で、意地悪ってなに?」
いつもどおり。
この言葉の意味は「まだ『Fantome』の謎は解かっていない」ということ。
そんな意味に安堵した気配のテノールに、英二は微笑んだ。
「同期とサシで飯食うの、邪魔しちゃったんだ、」
現状の「解かっていない」を保ちたいから、出来るだけ他の人間と2人きりは阻止したい。
もう既に周太は藤岡と2人きりのとき、何げない会話からヒントを得てしまった。
あんなふうに周太は聡明で鋭い、だから今回も「2人きり」は避けたい。
―ま、単純に「ふたりきりで飯なんかいかないで!」って、嫉妬も大きいけど
こんな本音と理由とに笑ってしまう。
笑った向こう側で光一が、可笑しそうに訊いてくれた。
「なるほどね、それで自主トレ参加なんだね?」
「やっぱり解っちゃうよな?」
「まあね。おまえも大概、嫉妬深いからね。で、その同期ってどんなヤツなワケさ?」
さらり笑って「確認」を訊いてくれる。
この確認に英二はポイントだけを答えた。
「周太と首席争いしてるヤツだよ、東大出身でね、ほんとはキャリアになりたかったらしい、」
東大出身、キャリア。
この2つに、ひっかかる。
あの50年前の事件の発端に見た事実と重なりだす、そんな2つだから。
だから尚更に内山と2人きりにしたくなくて、ずっと土曜日から考えてきた。
―ごめん、内山…おまえを疑うわけじゃないんだ、でも
いま周太も聴講生として通学する晉と馨の母校、そこにある可能性は?
晉に「隠匿」を勧め、事実協力を惜しまなかったのは?
馨に警察学校を奨めたのは?
それらを知ってしまう危険性は、すべて潰してしまいたい。
単に英二と同じ所属署、それだけの藤岡ですら危険性を作ってしまった、何げない会話に。
それも英二のミステイクが発端だと解っている、あんなふうに自分が他にミスを犯していないか100%の自信は無い。
だからこそ、どんなに小さな可能性でも「危険」なら遠ざけてしまいたい。
「ふうん、東大でキャリアねえ。ま、おまえの嫉妬も悪くないんじゃない?」
的外れじゃないね?
そう告げてくれる言外に、英二は微笑んだ。

ボルダリング『Bouldering』
フリークライミングの一種で、2mから4m程度の岩や石をザイルなどの確保無しで登攀する。
確保無しで登るから必要な装備が少なく、手軽にはじめられる。
このボルダリングのフィールドとして御岳渓谷は名高い。
「宮田、おまえ、すげえ速いな?」
白狐岩から降りてきた英二に、驚いたよう関根が褒めてくれる。
こういうの照れるな?ちょっと困り顔で、けれど素直に英二は微笑んだ。
「ありがと、でも国村のがすごいよ?」
言いながら指さした先、英二と入れ替わりで救助隊服姿が岩肌にとりついた。
するり身軽なこなしに登りあげ、あっと言う間に高度を稼いでいく。
そして頂上に立つと、またすぐ降りて英二の隣で光一は笑った。
「はい、お待たせ。あんなカンジで登ってみて?」
からり明るいテノールで関根に指示をする。
白狐岩を見上げチョークを手に付けながら、素直に関根は訊いた。
「国村さん、いつもこんな感じで宮田と登るんですか?」
「だね。でさ、敬語じゃなくって良いからね。俺たち、タメだしさ、」
「それ、助かる。俺、敬語ってちょっと疲れるんだよな、」
普段の気さくな話し方になって、関根は笑っている。
そんないつもの快活な笑顔に、テノールが率直に言った。
「へえ、良い笑顔するね。こういうとこ、宮田の姉さんは惚れたってコト?」
「あ、そのへんも知ってるんだ?やべ、ちょっと照れてきた、」
「ふうん。もしかして、初彼女ってトコ?」
「当たり。だからさ、あんまイジメないでくれよな?」
「それは約束できないね、俺ってエロオヤジだからさ。さて、スタンバイはいいね?」
いつもの気さくな調子で光一が笑っている。
救助隊制帽のした底抜けに明るい目は愉しげで、渓谷の風に目を細めて指示を出した。
「スタートしたすぐのホールド、そこに立つのがちょっと難しいよ。ま、焦らずにルートよく見て登ってね、」
「おう、じゃ、行くな、」
快活な笑顔を見せて、関根は岩に向き直った。
そして英二と光一が付けたチョークの痕へと手足を運び、白狐岩を登りだした。
初めてにしては軽い身のこなしが着実に岩肌を進んでいく、その背中に感心したよう光一が笑った。
「ふうん、関根くんって巧いね?ボルダリングは初心者だろ?」
「うん、今日が初めてだって言ってたけど、」
答えながら英二は心裡、遠野教官の人選眼に感心した。
光一のザイルパートナーが欲しい、その要望に後藤副隊長が提示した条件に遠野は英二と関根を選んだ。
その選択は正しいと、今日の関根を見ていて解かってしまう。
―関根、もう光一とタメ口で喋って、笑わせている
快活で真直ぐな関根は、明るいけれど気難しい光一と相性が良いのだろう。
もし自分ではなく関根だったら、今頃どうなっていたのかな?
そんな考えと佇んだ英二に、涼やかな風が吹きかけた。
風は、樹木と水の香ふくんで、どこか優しい。
―ここに卒配されて、よかった
素直な想い微笑んだ向こう、さあっと山から吹き下ろす風は清流を渡り、頬撫でていく。
駆け抜ける風は渓谷からまた山に戻り、新緑きらめかせ山肌ゆらがせる。
緑の風、五月晴れの青、そして渓谷は砕ける流に碧が輝いていた。
「瀬尾くん、ほら、ここに手を掛けるんだよ、」
「はいっ、」
後藤副隊長が指導する声と、瀬尾の返事する声が聴こえてくる。
声に振向くと白狐岩の一つ下流の岩上、周太が心配そうに下を覗きこんでいた。
そこをめざし登りあげていく瀬尾の、懸命な横顔が紅潮に染まっている。
そうして小柄な体は岩の頂上に手を掛けて、周太の隣に立った。
「出来たよ、俺にも…ね、出来た、」
息弾ませたボーイソプラノが、嬉しそうに笑うのが風に聞えた。
(to be continued)
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