萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第50話 青嵐act.3―side story「陽はまた昇る」

2012-07-17 23:57:49 | 陽はまた昇るside story
見つめる。現実と夢と、想い



第50話 青嵐act.3―side story「陽はまた昇る」

薄暗い朝靄のなか、蹲った男の頭部を押えた手から血がこぼれていく。
凶器らしきものは持っていない、さっと様子を見取って光一は英二に訊いた。

「小屋に移す?」
「いや、なるべく動かさない方が良い。頭部だから、」

頭部の損傷が打撃によるものだと、脳への損傷が怖い。
そして男性には微かな震えが見られる、もし痙攣なら脳が損傷した可能性が高い。

「救急用具を取ってくる、」

言って、小屋へと振向くと周太が立っていた。
いつの間に背後にいたのだろう?
すこし驚いた英二に、その掌に抱えた救急用具一式とヘッドライトを差出し、言ってくれた。

「手伝う、指示出して、」
「ありがとう、」

微笑んで頷くと、拳銃をホルスターに納めて英二は救急用具とライトを受けとった。
渡してくれる周太の顔は緊張に堅い、こうした怪我人の現場自体が初めだから無理もないだろう。
こういう時は仕事させる方が人間は落着く、顔をのぞきこんで英二は周太に指示を出した。

「周太、ツェルトを持ってきてくれ。保温する、」
「はい、」

頷いてすぐ小屋の中に取りに戻ってくれる。
その足音を聴きながらヘッドライトを装着すると、英二は片膝をついて救急用具のケースを開いた。
感染防止用グローブを嵌めていく隣、手帳を広げながら光一も片膝ついて英二に微笑んだ。

「始めるよ?」
「よろしくお願いします、」

お互い山岳救助隊員の顔になって、男性に向き直った。
気配に男性がこちらを見てくれる、その目を見つめて光一は事情聴取を始めた。

「声が聴こえますか?どうされました?」

光一の声に反応して、ゆっくり男性の目が瞬く。
すこし荒い息を吐きながら、男性は口を開いてくれた。

「急に殴られて…財布を盗られました、」

秩父山系の強盗犯が、奥多摩に来た。

瞬時に脳裏閃く可能性に、そっと息を呑んだ。
もう4月から危ぶまれていた犯罪発生が、現実になったかもしれない。
心裡に息を呑んで用具のセッティングをしていく隣、冷静なテノールの声は男性に尋ねた。

「あなたの住所と、お名前を教えて頂けますか?」
「Tと申します、家は杉並区荻窪…あの、あなた方は、」
「青梅署所属の山岳救助隊です、今は夜間の入山は規制されていますが、なぜこの時間に?」
「はい…朝陽を撮影したかったんです、それで夜、日原林道に車を停めて…小雲取の山頂で男がいて…話しかけられて、殴られて」

彼の目的と状況は整合する、おそらく嘘は無い。
犯人の手口も秩父山系の強盗犯と似ている、おそらく同一人物だろうか?考えながら英二は仕度と観察を進めた。

「Tさん、犯人の特徴は?」
「50代位の男です、登山客のように見えました…ヘッドライトの灯りだけですが、」
「右と左、どちらに足音は遠ざかりましたか?」
「左です…七ツ石山の方へ、」

男の答えは整然として言葉も明瞭、意識障害は少ないことが看てとれる。
見た目の出血は激しいけれど脳への打撃は大丈夫かもしれない、すこし安心しながら英二は、光一に声を掛けた。

「始めていいですか?」
「よろしくね、先に無線を入れるよ。受傷は頭部だね、」
「はい、打撲の裂傷だから、動かすのは慎重にした方が良い。そのこと伝えてくれますか?」
「了解、処置よろしくね、」

返事しながら光一は無線を繋いだ。
無線連絡の会話を聴きながら感染防止グローブを嵌め終えると、英二は負傷者に笑いかけた。

「すみません、脈拍を見せて下さい。右手からよろしいですか?」
「はい…お願いします、」

彼の右手をとり脈拍の確認を始める。その拍動がやや弱く、掌は冷たく汗ばんでいる。受傷と襲われたショックだろう。
顔面は鼻血は出ているけれど、殴られた痕跡が青痣に見えるから打撲が原因だと考えた方が良い。
耳からの出血も無く吐瀉の形跡もまだ無い、これなら脳までの打撃は重度では無いだろう。
けれど時折に震えがはしる、今の気温は10度以下と低い為の震えか、痙攣なのか判別し難い。
観察をしながら脈拍を15秒計測し終えたとき、ツェルトを抱えた周太が傍に片膝をついた。

「ツェルトを掛けます。あと、数値を教えて、」

震える被害者の体にツェルトを掛けると、登山ジャケットのポケットから手帳とペンを出してくれる。
いつもなら光一が計測メモを担当するけれど、今は無線連絡に忙しい。
この1ヶ月ほど周太は英二から現場の救急法を教わっている、きっと代わりが務まるだろう。
そう判断して英二はパートナーとして周太に微笑んだ。

「では、よろしくお願いします。脈拍29、」

言われた数値を周太のペンがメモしてくれる。
それをのぞきこむと、きちんと×4の数値を書いてくれていた。
こうした計測では15秒の回数に4を掛けて毎分での数値を記録する、その基本を周太は実践してくれた。
この1ヶ月に学んだことが身に着いているな?嬉しく微笑んで英二はリフィリングテストを始めた。
右手示指の爪先端を5秒間つまみ、ぱっと放す。その爪床のピンク色が戻るのに4秒かかった。

「4秒、」

短く周太に計測値を告げ、心裡に英二は溜息を吐いた。
リフィリングテストは毛細血管再充満時間の計測方法として、循環の初期評価に使う。
脱水や外傷、ショック、低体温などで組織還流が影響を受けた場合、爪床の色調が戻るのに2秒以上かかる。
そして彼は4秒、受傷状態とショックが思い遣られる。それでも英二は負傷者に微笑んだ。

「はい、大丈夫です。いちばん痛い所は、どこですか?」
「頭です…あと、肩を少し、」
「解かりました、では頭から看させて下さい、」

問いかけながら頭部の髪をかき分け看ると、大きく裂傷が開いている。
感染防止グローブの指先から血液が滲みだす、まだ受傷後の時間経過が少ない。
こんな様子からも彼の証言が嘘ではないと解かる、軽く頷いて英二は周太をふり向いた。

「周太、念のためグローブを付けておいて、」

指示を出しながら仕度しておいた清拭綿を取ると、そっと傷の周りを拭った。
裂傷の周りが腫れあがり打撲の痕跡が看てとれ、清拭綿には赤さびた汚れが付着した。
この色調と粒子は、おそらく金属製の錆だろう。

―斧か何かで、殴ったんだ、

凶器の内容は逮捕時の証拠として重要、その凶器が何かは受傷状態から解かりやすい。
この今も看て取れた凶器に凶暴性が想われて、密やかに奥歯を噛みしめてしまう。
ツェルトを抱えてきた藤岡に目配せすると、そっと英二は告げた。

「おそらく犯人は金属製の鈍器を持っている、そう国村に伝えて、」
「了解、」

すぐ意味を察して頷くと、無線交信中の光一へと藤岡は伝言してくれる。
無線で話しながらも光一は頷いて、犯人の凶器についての報告も入れた。

「被害者の受傷状態から、犯人は金属製の鈍器を持っている可能性があります…はい、…解かりました、」

きっと犯人は血染めの凶器を所持したまま、まだ山内のどこかにいるだろう。
おそらく逃走したであろう七ツ石山方面だと奥多摩小屋がある、そこの宿泊客たちが外へ出ていないと良い。
思わず小さなため息吐いた時、藤岡が小屋の壁際にテントマットとツェルトを敷いてセッティングしてくれた。

「宮田、処置が終わったら移すだろ?」
「うん、ありがとう、」

声に振向いて頷いた向こう側、関根と瀬尾がシュラフを片づけ出発の準備をしてくれている。
出来る協力をしてくれる様子に微笑んで、セットしておいたシュリンジを取ろうとした時、周太が手渡してくれた。

「はい、」
「ありがとう、」

ずっと傍らで英二の手元を見、処置を予測してくれている。
こんなふうに周太が助手を務めてくれる日があると思わなかった、この予想外に微笑んで英二は被害者に声を掛けた。

「すみません、頭の怪我を洗いますね、」
「…はい、」

シュリンジで創傷内の洗浄していく、思ったより傷は浅いが腫れている。
やはり強打されているけれど、骨の陥没は無いらしい。これなら脳への打撃も少ないだろう、そうであってほしい。
祈りながら厚手のガーゼパッドで保護すると、止血リンク中央に患部が来るよう当て、しずかにネットをかぶせた。
この受傷具合を周太は横から見、手帳に書きこんでくれる。その様子を嬉しく思いながら、英二は被害者に微笑んだ。

「もうじき救急隊も来ます、がんばってください」
「…はい、」

痛みに顔を歪めながらも、少しだけ彼は笑ってくれた。
この様子なら脳の損傷は無さそうだ、観察しながら英二は血の付着したグローブを外し、使った清拭綿と廃棄袋へ入れた。
すぐ新しいグローブに嵌めかえて肩の受傷状態を確認する、こちらは軽い打撲の様で腫れも痣も出ていない。

「頭と肩の他に、痛い所はありますか?」
「大丈夫です、」

返答が確りしてきた、震えも大分治まっている、これなら大丈夫だろう。
すこしほっとしたとき、処置を終えた様子に気づいた藤岡が声をかけてくれた。

「移動していい?」
「うん、頭部を動かさないよう注意してくれ、」

頷くと関根と瀬尾も来て、藤岡を手伝って被害者を動かしてくれる。
ツェルトの上に移動すると彼の体を、慣れた手つきで藤岡がツェルトに包んで保温してくれた。
感染防止グローブを外しながら英二は、周太に指示を出した。

「頭高仰臥位にしてくれる?あの畳んであるツェルトを入れてあげて、」

頭部の怪我や脳血管障害などの場合、意識と呼吸共にある傷病者は頭を持ち上げて上向きに寝かせる。
この頭高仰臥位をするために、予め藤岡が畳んだツェルトを用意してくれてあった。
それを周太と藤岡とで、負傷者の頭部下に入れてくれる。

「こんな感じでいい?」
「うん、ありがとう、」

微笑んで頷きながら英二は、感染防止グローブを廃棄袋に入れた。
廃棄袋は二重のビニール袋になっており、輪ゴムで漏れないように固く縛る。
こんなふうに血液等が付着したものは医療用廃棄物扱いとして処分する。
用意の消毒シートで爪の中まで拭いてから救急道具を片づけを終えると、ちょうど無線を切った光一が言った。

「宮田、犯人の逃走ルートだけでも確認に行くよ、」
「わかった、」

返事しながら小屋に戻ると救急道具をザックへと仕舞い込む。
そして、いつも救助隊で使う引継用紙を出して、すばやくポイントだけ記入すると周太に渡した。

「周太、もし救急隊の方が見えたら、これを書いて渡してくれる?」
「ん、空いてる所を埋めればいいんだね?」

生真面目な目が書類を見つめながら聴いてくれる。
きっと周太なら用紙の趣旨を理解して記載出来るだろう、信頼に英二は微笑んで頷いた。

「そうだよ、さっき周太がメモしていた内容を書けば大丈夫、頼むな、」

笑いかけて小屋の外へ出ると、光一も藤岡との打ち合わせを終えた所だった。
その傍らで瀬尾が被害者に話しながらスケッチブックを広げ、隣から関根がLED灯で手許を照らしている。
似顔絵を書いているのだろうか?そう見ていると光一が七ツ石山方面を指さした。

「じゃ、まず小雲取から行くよ、」
「うん、」

歩きだし見渡した尾根は、夜明けの空に彩られ始めていた。
黄金と朱の赤い色彩まばゆい暁がふる、明るみだした山は目覚めだす。
いま日曜の朝、いつもなら朝陽を撮影するハイカーで賑わうはずが、今は無人に静まっている。
この静寂の底に今、犯罪は潜んで山内どこかを彷徨っていく。

「…山で血を流させるなんてさ、」

低いテノールの呟きが怒りのまま、山風に翻った。



被害者の証言通り、小雲取山頂から七ツ石山方面へ向かう足跡がある。
けれど、昨日からの晴天続きで乾いた尾根道は、踏み跡が浅く消えやすい。
これでは鑑識が足跡を採取する前に、風などで消えてしまう可能性が高い。

「さすがに鑑識の道具までは、持ってないしね、」

からり笑って光一は手帳を取出すと、足跡をスケッチして特徴をメモしていく。
英二も携帯のカメラ機能で撮影し、メジャーを出すと足跡の長さと幅を計測した。

「26.5cmだと普通の靴なら25.5cmだから、身長はそんなに高くも無いかな、」
「だね、50代位だったら平均的かな、」

手帳をポケットに納めながら立ち上がると、また歩き出す。
やはり足跡は不明瞭で、ほとんど肉眼では解からない。
途中、奥多摩小屋に立ち寄り様子を尋ねると、小屋主が教えてくれた。

「連絡をもらう前に足音を聞いたよ。今、勧告が出ているのに危ないと思ってな、窓から見たら人影が見えた。
朝靄ではっきりは見えなかったが、そんなに大柄でも無かったよ。七ツ石山の方へと歩いて行ったようだが、普通の速さだったな」

やはり七ツ石山方面に犯人は逃走したらしい。
ともかく奥多摩小屋には被害が出ていないことに安堵しながら、しばらくハイカーを留めるよう依頼して小屋を出た。
そこに英二の無線が受信し、すぐ出ると救助隊副隊長の後藤からだった。

「おう、宮田。いま、おまえさんたち何所だい?」
「はい、奥多摩小屋で聴きとりを終えた所です。七ツ石山方面に向かったと、ご主人からの目撃情報です」
「そうか、解かった。でな、消防のヘリが飛んでくれるぞ。5時40分に五十人平だ、運べそうかい?」

被害者の運搬について後藤は訊いてくれる。
雲取山頂避難小屋から奥多摩小屋前の五十人平ヘリポートまで平均的スピードなら30分程。
今の時刻は4時52分、48分間で人員も6名いるなら大丈夫だろう、すぐ判断して英二は山頂へ踵を返した。

「はい、スタンバイ出来ます、」
「頼んだよ、いま山岳救助隊と刑事課で山狩りに入った。おまえさんたちは、搬送が終了したら唐松谷林道から下山してくれ、」

歩きながら短い連絡に切ると、光一は藤岡と無線で話している。
聴覚の鋭い光一は後藤との無線内容を聴きとっていたのだろう、すぐ無線を終えると英二をふり向いた。

「藤岡たちがすぐ動かせるよう、スタンバイしてくれる。周太なら藤岡のサポート入れるよね?」
「うん、ひと通りは頭に入ってるはずだ。現場は今回が初だけど、」

歩くと言うより走って尾根を登りあげ、5時17分、雲取山避難小屋に英二たちは着いた。
すでに小屋の前では連結ザックによる搬送準備が出来ている、その傍らに膝まづくと英二はサムスプリントを出した。

「失礼します。念のため、頸椎固定をしますね、」

声をかけながら、サムスプリントの全長約15cmの部分を折り曲げる。
ここを顎先に当て、長い方を首の隙間から通して緩く巻く。次に喉の上と両耳の隙間をつまんで潰し、隙間を埋め込む。
これで頸椎固定が出来、頭部への衝撃を減らすことが出来る。

「よし、じゃ運ぶからね。関根くんと藤岡、瀬尾くんと周太で向かい合いに。じゃ、いくよ、」

光一の指示で連結ザックを持ち上げると、五十人平へと歩き始めた。
関根たち3人にとって現場での救助活動は初めてで、もちろん連結ザックでの担架も初めてになる。
それでも順調に運んで五十人平ヘリポートへ着いた。
すでに五十人平では奥多摩小屋の小屋主が発煙筒を焚き、ライトを空に向けてくれている。
間もなくにプロペラの音が聞こえだし、ホバリングの風が届き始めた。

「3人は小屋のなかに入って、」

光一の指示を聞いて、周太が畳んだ用紙を英二に渡してくれる。
さっき渡していった引継書を周太は纏めておいてくれた、英二は頷きながら微笑んだ。

「ありがとう、周太」
「もし不備があったら、ごめんね、」

すこし緊張した面持ちで微笑むと、踵返して関根と瀬尾と奥多摩小屋の中に入っていった。
すぐにホバリングの風圧が大きく翻りだす。ツェルトで被害者を保護しながら待機するうち、ヘリコプターは降り立った。
救急隊員に引継書を渡し口頭でも説明をする、もう顔馴染みの隊員は引継書の筆跡に軽く首を傾げた。

「これ、宮田くんと違う筆跡が混ざっているね?」
「はい、同期が書いてくれました、」
「そうなんだ?でも上手くまとめてくれてあるね、ありがとうって伝えてください、」

笑って救急隊員は被害者を収容すると、ヘリコプターに戻って行った。
朝陽きらめく機体を見送って、光一が後藤副隊長に無線を繋ぐ。
短い連絡が終わる頃、奥多摩小屋の扉が開いて小屋主が声をかけてくれた。

「おつかれさま、みんな朝飯もまだだろう?握飯だけど、食って行ってくれ」

言われて空腹を思い出す。
左手首のクライマーウォッチは5時45分、起きてから1時間半ほどが経過していた。
ありがたく礼を述べて小屋に入ると、3人とも座って握飯を頬張っている。
運ばれてきた握飯を受けとり、一緒に座って食べ始めると関根がほっと息吐いた。

「俺、この1時間ちょっとでさ、今までの現場を全部合わせた以上に、体験した気がするよ」
「うん?そうなんだ?」

指に付いた米粒を舐めとりながら、光一が相槌を打ってくれる。
その相槌を快活な大きい目を向けて、関根は素直に頷いた。

「前に遠野教官が怪我したのは見たけどさ、あそこまで血塗れの人間を直接見たのは、初めてだよ、俺。
応急処置の現場も初めてだし、しかも山の中だろ?道具も満足にないのに搬送して、ヘリをあんな近くで見たのも初だよな。
でさ、おまえらマジで足速いよな?さっき戻ってくるとき、すげえスピードで駆け上がってきたろ?すげえ現場だよな、ここ、」

素直な驚きを率直に言って、関根は握飯の残りを口に入れた。
その隣で瀬尾も食べ終えると、ザックを開きながら微笑んだ。

「それ、俺も思ったよ。ほんとに厳しい現場だな、って。俺の署も事件が多いけど住宅街だし、軽犯罪が多いから」
「そういうの、取締りとか大変だよね?」

テルモスの茶を飲みながら光一が相槌をする。
テノールの声に応えながら瀬尾はスケッチブックを取出した。

「でも命の危険までは少ないから。それで、これ、役に立ちますか?」

開いたページには、50代男性の似顔絵が描かれていた。

「これ、瀬尾くんが描いたの?」
「さっき国村さん達を待っている間に、被害者の方から聴いてね、」

ペンで精密画のよう描かれた顔は解かりやすい。
よく特徴を掴んだ顔立ちと表情にインパクトがある、これなら特定しやすいだろう。
けれど「ヘッドライトの灯りだけですが、」と被害者は話していた、それでこうも細部が描けるだろうか?不思議に思って英二は訊いた。

「瀬尾、被害者の方は、暗がりで顔がよく解からなかったんだよな?よくこんなふうに描けたな?」
「うん。だからね、暗がりで描いてみせたんだ、」

ボーイソプラノの声が笑って、教えてくれた。

「関根くんにLED灯を持ってもらって、スケッチブックに当る光を、ヘッドライトに照らされた時の雰囲気に再現したんだ。
それなら被害者の方が目撃した条件と同じになるから、雰囲気的な特徴が思い出しやすくなるな、って思ってね、そう描いてみたよ」

優しい笑顔が話すことに昨夜、光一から訊いた話に「暗がりか?」と考え込んだ瀬尾が思い出される。
きっとあの時から考えていたのだろうな?そう思った隣で周太が教えてくれた。

「瀬尾、ゆうべ『暗がりだから顔がハッキリ解からない』って光一に聴いてから、考えていたらしい…すごいよね?」
「うん、すごい。これ、きっと役に立つと思う。光一、どう?」

先輩であり上司でもある光一に、英二は尋ねてみた。
底抜けに明るい目は微笑んで頷くと、テノールの声は瀬尾に言った。

「この似顔絵、奥多摩交番に着いたら預らせて貰えるかな?手配書に使うことになると思う、」
「はい、もちろん。役に立ったら良いんだけど、」

嬉しそうに頷いた瀬尾の顔は、すこし誇らしげで男の顔だった。
このことが瀬尾の似顔絵捜査官の夢に繋がると良いな、そんな想いで見た向こう光一がからり笑った。

「役に立つよ。たぶんね、今日は犯人見つからないだろうからさ。きっと手配書が必要になるからね、」

きっと言う通りだろうと英二も思ってしまう。
今日、犯人が逃走した石尾根は幾つもの分岐があり、ルートの限定は正直なところ難しい。
しかも仕事道や水源林巡視路に入られたら尚更解からない、それを山岳救助隊と刑事課だけでは網羅しきれないだろう。
ただ、この山塊周辺に犯人の行動範囲を封じ込めることなら、出来るかもしれない。


この日、犯人は見つからなかった。



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