風よ、どこへと
第51話 風伯act.1―another,side story「陽はまた昇る」
ヘルメットを脱いで、周太は軽く頭を振った。
籠っていた熱気が解放されて、ふわり髪に風が透ってくれる。
5月終りの正午前、機動隊の出動服で走るのは暑い。けれどこの暑さに慣れることも大事だと解る。
…現場で熱中症とかなったら、困るよね?でも、暑いは暑いね
木洩陽の光も影もトーンが明るい。こんなふうに明暗が鮮やかなら、もう夏だな?
そんな感想がさらり心に言える自分に、周太は少し驚いた。
…あ、覚悟が肚に落ちてきたかな?
それなら自分も幾分か「大人の男」になれたのだろう。
父の殉職で記憶を失って以来、精神年齢の一部が子供のままな自分にとって、この自覚は嬉しい。
ほっと息吐いて空を見上げると、屋上や教場からグラウンドを見下ろしている視線がある。
女性が多いギャラリーは、きっと周太がよく知っている人の名前を話題にしているだろう。
「周太、」
綺麗な低い声に名前呼ばれて、振向くと嬉しそうに英二が笑いかけてくれる。
ポリカーボネートの盾を軽々持ちながら、ヘルメットを外したダークブラウンの髪が風にほどけた。
さらり揺れる綺麗な髪が白皙の額を覆って、それを掻き上げる長い指から髪がこぼれる。
無骨な出動服姿なのに、なんだか英二が着ていると別の物みたい?
…なんか、勇者とかそういう感じ?
子供の頃にクラスメイトの家にあった、ゲームの主人公たち。
絵本にも出てくるような、頼もしく美しい青年の貴人と、英二は似ている。
やっぱり、かっこいいな?ぼんやり見惚れていると、端正な貌が不意にアップになった。
「周太?どうした、ぼんやりして。具合悪い?」
「え、」
声に我に返ったとき、前髪を掻き上げられ額に額よせられた。
ふれる肌の温もりが優しくて嬉しい、けれど、ここはグラウンドなのに?
…どうしよう?みんな見てるのに?
ほら、視線が屋上から教場から降ってくる。
ただでさえ英二は注目を受けやすい、それなのにこんなことしたら何て思うのだろう?
「うん、熱は無いな?ちょっと暑かったから、周太、疲れちゃった?」
「あ…ん、」
額をまだくっつけながら、綺麗な低い声が笑ってくれる。
いつも英二は自然にスキンシップをして、こんなふうに衆目の中でも堂々とふれてしまう。
それは初任総合で戻ってきた警察学校の日常でも、ほとんど変わりないまま接してくれる。
こういうのは嬉しい、けれど心配にもなって困ることも多い。
…だって英二、もうクライマーの専門枠で正式任官して…立場だってあるのに、
警視庁山岳会のエースで次期会長と嘱望される光一、そのパートナーとして英二は選ばれた。
最初は英二のことを誰もが危ぶんだ、山岳経験が乏しくて実績が何もない英二では、光一と不釣り合い過ぎたから。
けれど英二は、卒業配置の7ヶ月で認められるようになっている。
山ヤの警察官として英二は、救急法から法医学までを現場で身に着けた。
それは青梅署警察医の吉村医師があっての専門知識たち、けれど吉村の知己を得たのは英二の姿勢と努力だった。
それを周太は奥多摩に行くたび、奥多摩の人達に接するたびに聴くことが多い。
そしてこの間、雲取山頂で見た現場での英二の姿に、心を引っ叩かれた。
あのとき見た英二の姿は頼もしくて、自分の同期と思えなかった
そして冬、積雪期登山訓練で英二は山ヤとしての実績を造り上げた。
年明けの冬富士からスタートして北岳バットレス、谷川岳滝沢第三スラブ、穂高滝谷に槍ヶ岳北鎌尾根、それから剱岳。
どれも国内では最高難度と言われるような雪山で、英二は光一のペースに遅れず踏破して行った。
たった4カ月の記録、けれどあの4カ月が英二を山ヤとして山岳会のメンバーに認めさせた。
警察学校入校から1年と2ヶ月、英二はそれ以上の実績を積んでいる。
そんな英二の姿は婚約者として眩しい、誇らしい気持ちにも嬉しくて、英二の前途を寿ぎたい。
けれど、同じ男として同期としては、すこし焦りを感じるのも本音でいる。
…男同士だと、こういうの複雑なのかな?…女の子だとまた、違うのかな?
もし自分が女の子だったら、もっと違う感想や感情があるのかな?
そんな事を考えながら並んで歩いていると、擦違いざま女性警官の声が聞えた。
「…かっこいいね、宮田くん、頼もし…」
ほら、やっぱり皆そう思うんだよね?
そのあたりは自分も同じ、けれど本人への嫉妬からは女性なら自由だろう。
きっと純粋に褒めて憧れて、素直な賞賛だけでいられるだろうな?
そんなことを考えながらロッカーで装備を外し、着替え始めた。
「周太、なんか口数が少ない?やっぱり少し、暑かったからかな、」
綺麗な低い声が訊いてくれる、その顔が心配そうで誰かに似ている。
誰だったかな?思い出そうとしながら周太は、微笑んだ。
「だいじょうぶ、俺も体力はあるほうだから、」
「そうだな?周太って持久力とかあるよな、俺に付合えるんだから、」
言いながら紺色のTシャツを脱いで、その熱気が周太の頬を撫でる。
いつもの深い森のような香に汗の匂いが混じる、この香に不意打ちされて、心臓が変な鼓動を1つ打った。
この混じった香には、つい想い出されてしまうから。
…だって、この匂いって…よるのときとおんなじなんだから
こんな場所でこんなこと想い出して、恥ずかしい。
ほら首筋がもう熱くなりだした、早く着替えて外に出よう。
そんな想いに押されて急いでTシャツを脱いだ時、すっと端正な貌が周太の瞳をのぞきこんだ。
…なんだろう?
驚いて無意識に、持ったTシャツを引き寄せて体を隠してしまう。
こんなふうに、英二は同性なのに、裸を見られることが恥ずかしくなってしまった。
そして今、目の前の白皙の裸を見ることも恥ずかしい。困って俯いた耳元に、綺麗な低い声が囁いた。
「…夜、俺に付合える位の体力、だね?周太…」
こんなところでなんてこというのこのひと?
「…っ、」
あっという間に熱が額まで昇って、ほらもう顔が真赤だ。
「…ばかっばかえいじっ」
なんとか憎まれ口が唇から出て、背中を向けると急いで手を動かした。
すぐ着替え終えて、ネクタイを簡単に締めると、脱いだものを纏め持って廊下へと出る。
いつもなら英二と一緒に出るけれど、今は恥ずかしくてさっさと行ってしまいたい。
…ばかばか英二の馬鹿、あんなところであんなこというなんて…
どうしてあんなに英二って、えっちなんだろう?
でも光一も似たり寄ったりで、男ってあんなものなのかな?
じゃあ自分はどうしてあんなふうに話せないのだろう、すぐ顔も真赤になるし?
…やっぱり、記憶喪失の所為なのかな?それで精神年齢が止まってるって吉村先生は教えてくれたけど…
それなら記憶喪失にならなかったら、自分もえっちな話を楽しめたのだろうか?
それも何だか考えられない、こういうことって本当に難解で難問で難しい?
このままだと本当に考えすぎの熱が出そうで、周太は軽く頭を振った。
「湯原くん、」
高い声に呼び止められて、周太はふり向いた。
視線の先には女性警察官が4人で笑っている、この雰囲気は何なのか予想がついてしまう。
…きっと「宮田さんって彼女いますか?」だろうな?
そう訊かれたら「周りに訊いて回られるの嫌いみたいです、」って答えれば大丈夫。
まるで「おまじない」のよう思い出す目の前で、楽しげな笑顔が尋ねてきた。
「宮田くん、本当にかっこよくなったよね。彼女っているのかな?」
ほら、やっぱり訊かれた。
これで通算何度目になるのだろう?そんなことを考えながら周太は微笑んだ。
「あの…そういうの、周りに訊いて回られるのは嫌いらしいんです。だから、俺に訊かれると困ります、」
言われて、驚いたよう彼女たちの笑顔が止まる。
それから少し小声で会話交わしだす、そんな様子を見て周太は軽く会釈した。
「すみません、じゃあ、」
踵返して歩き始める、けれど彼女たちは追いかけてこない。
ほんとうに美代から教わった「おまじない」は効果てきめんでいる。
…美代さんって、やっぱり頭良いんだな?訊いてみて良かった、
聡明な友達の笑顔が懐かしくなる。
この間は吉村医師の講習会で一緒になれて、楽しかった。
今度の週末はまた大学の講義でも会えるな?そんな楽しい予定を考えながら歩いていると、呼び止められた。
「湯原、」
振向くと内山がこちらに歩いてくる。
その向こうをふり向きながら、さっきの女性警察官たちが逆方向へ歩いていく。
いま内山と一緒に歩き始めたら、もう彼女たちも追いかけては来れないだろうな?ほっとして周太は同期に笑いかけた。
「おつかれさま、内山、」
「おつかれさま、事例研究の話なんだけど。もし湯原の都合悪かったら、いつでも良いよ。談話室とかでもいいし、」
精悍な笑顔で提案してくれる。
元は周太が予定を変えたのに、気遣ってくれるのが申し訳ないな?心から詫びと微笑んで周太は口を開いた。
「そのことなんだけど、今度の土曜日は公開講座に俺は行くんだ…それで一緒に行く友達が、お昼かお茶を一緒してもらったら、って、」
「え、いいのか?俺も一緒して、」
周太の提案に、嬉しそうに内山が笑ってくれる。
喜んで貰えそうで良かった、嬉しくて周太も微笑んだ。
「ん、良かったら一緒して?お茶のときは、勉強しながらなんだけど。でも内山が一緒だと教えて貰えるから、友達も喜んでるよ?」
「あ、勉強するのにカフェとか行くのか?俺で良かったら勉強の相談、乗れるけど、」
楽しそうに精悍な顔がほころんで、明るい。
美代の提案が良い方を当てたらしい、また大好きな友達の聡明さに感心した時、隣から腕を引っ張られた。
見上げると、大好きな端正な貌が困ったよう、凝っとこちらを見つめている。
「…あ、英二。おつかれさま?」
追いかけて来てくれたのかな?
そんな様子が嬉しくて笑いかけると、長い腕が伸ばされ周太へと絡んだ。
「周太、熱があるんだろ?行こう、」
綺麗な低い声が告げるまま、風浚われるよう足が床から離される。
ふわり、体重を失うよう体持ち上げられて、視界が高くなる。
そして周太の体は軽々と、横抱きに抱え上げられた。
「ちょうど昼休みだし、部屋に戻って少し休もうな?周太、」
「あ…あの、えいじ?」
いったいえいじはどうしたの?
驚いて見つめた切長い目は内山を見遣りながら、綺麗な低い声が笑いかけた。
「ごめん、内山。ちょっと周太、熱っぽいんだ、話を中断して悪いな、」
「いや、構わないけど。ごめん、湯原。気づかないで、」
素直に内山が謝ってくれる、けれど本当は別に熱なんてないのに?
抱えられた腕の中から周太は、内山に謝った。
「ううん、あの、ごめんね?」
「行くよ、周太、」
まだ内山に謝りたかったのに、さっさと英二は周太を抱えて歩き出してしまった。
英二はどうしたのだろう?そんな想いに見つめた顔は前を向いたまま、困ったよう泣いているような目でいる。
…そんなに心配をかけているのかな?
つい最近、周太は熱を出して教場で倒れた。
あのときは疲労と知恵熱が原因だから一晩で回復している、それでも英二は心配してくれた。
食事から着替え、体を拭いたりと世話を看て、切長い目は喜びと不安が混じったよう微笑んで。
あんな顔をしてくれえる英二、それなのに今ロッカーで置き去りにしたことが申し訳なくなって、周太は素直に謝った。
「あの、英二?ごめんね、置いて行っちゃって、」
本当にごめんね?
そう見つめた先で切長い目がこちらを見て、困ったよう笑ってくれた。
「こっちこそ、ごめんね周太、」
「…どうして謝ってくれるの?」
どうしてかな?不思議で訊いたけれど、英二は笑っただけで黙っている。
なんだかいつもと少し違う雰囲気に、途惑ってしまう。
…ほんとうは、怒っているのかな?
なんだかすこし、不安になってしまう。けれど抱えてくれる腕も懐も温かくて、優しい。
この優しさが嬉しくて、頼もしい胸に周太は頭を凭らせた。
「心配かけて、ごめんね、英二?今は熱、無いから大丈夫だよ。でも…だっこうれしいよ、」
「うん。ありがとう、周太、」
抱えて歩きながら幸せに微笑んで、部屋の扉を開いてくれる。
ぱたんと閉じて鍵かけて、周太を抱えたままベッドに腰掛けると、英二は困ったよう笑ってくれた。
「ごめんね、周太?俺って心が狭い、ほんと子供だ、」
「どうして、そんなこと言うの?」
いつも優しくて穏やかに落着いた英二が、子供だなんて?
確かに時おりゴールデンレトリバーみたいな時はある、けれど充分に大人の男だと想うのに?
それなのにどうして?そう見つめた周太の額に、そっと額付けてくれる。
すこし俯き加減になる視線の近く、端正な唇が微笑んだ。
「周太のことになると俺、ワガママになる。だから、子供だよ、」
微笑んだ唇が上向いて、やわらかな温もりが唇ふれる。
深く穏やかで、すこしほろ苦いような香は、あまい唇の熱に忍びこむ。
どこか陰翳のある香は森に似て、それは内面から昇るよう英二の心を映し燻らす。
この香の唇こそが、自分の止まっていた時を動かした。
この香に与えられる口づけは、13年の孤独を砕いて崩れさせ、希望を見せた。
もう幾度この香に自分は、あまい幸せの温もりを与えられたのだろう?
「…周太、好きだよ、」
そっと離れた唇が囁いて、また熱のキスにふれてくれる。
抱きしめる長い腕の強さも温もりも、強い風くるむよう浚いこんで瞬間に時を忘れさす。
そうしてただ心には、今この温かな時の幸せだけが、優しいままに抱きしめる。
ふわり、温もりに包まれる。
ゆっくりと温もりが、優しく喉から首筋まで包んでいく。
ふれる温もりから昇らす香は森のよう深くて、ほろ苦く甘く、穏やかに頬撫でる。
風ふれるような温もりは優しくて、生まれつき少し弱い喉には心地いい。
…あたたかくて気持ちいい…やさしくて、やわらかくて…あんしん
夢の現に、温もりがただ優しい。
深い浅い眠りにうかぶ泡沫のような、感覚と想いが揺らいでいる。
このまま温もりに包まれて、安らかな眠りの泉に沈みこんでいたい。
けれど温もりは喉から離れて、掠れる声に名前を呼ばれた。
「…っ、し、ゅうた、」
とても懐かしい声が、哀しげに名前を呼んだ。
どうしてそんな声で呼ぶの?そんな問いかけが、眠りの底へと浮びだす。
そして閉じた睫へと、一滴の温もりが降り零れた。
…あたたかい…涙?
温かな雫が睫を透って、瞳に届く。
どこか甘くて切ない感覚に、ゆっくりと睫が披かれる。
披かれていく視界に映りこんだのは薄い闇と、涙に濡れた白皙の頬、そして苦しげでも美しい恋人の泣顔。
…泣いているの、英二?
泣かないで?
そんな想いに手を伸ばし、涙の頬に掌ふれた。
「…えいじ?泣いてるの?」
呼びかけた名前に、ゆっくり濃い睫が披かれる。
披かれた瞳から涙はあふれていく、けれど言葉は出てこない。
「どうしたの?…なぜ、泣くの?」
涙の目を見つめて問いかけながら、腕を伸ばし広い肩を掌に包みこむ。
ふれる温もりと香が嬉しくて、微笑んで見つめる先の美しい泣顔からは、ゆるやかに涙ふりかかる。
どこか甘いような涙を見つめて、そして端正な唇が苦しげに言葉を押し出した。
「周太、俺は今、きみのこと…っ、」
嗚咽に、言葉が途切れる。
それでも英二は正直なまま、言葉を押し出してくれた。
「俺は今…君を殺そうとした、…君を、離したくなくて、」
英二が周太を殺そうと、願う。
とても不思議なことに想えて、けれど怖いとも想えない。
そんな想いに呼応するよう夢現の温もりが、今も喉元に安らぎを名残らせている。
あの温もりは優しかった、あの温もりくれる愛するひとに、ただ寄り添っていたい。そんな想いへと綺麗な低い声が、告白に泣いた。
「ずっと傍にいたくて、どこにも行かせたくなくて…ずっと見つめていたくて離れたくないから、だから首に手を掛けて君を殺そうとしたんだ、」
綺麗な低い声が、泣いている。
美しい切長い目から生まれる熱い涙は、周太の瞳へと降りかかり、頬つたう。
涙の底から見つめ合って、けれど肩に回した周太の腕から英二は、身を離した。
「ごめん、」
ひとこと告げた声が、哀しくて。
泣き濡れた横顔、ベッドから床におろされる長い脚、立ち上がる広やかな背中。
スローモーションのよう重たく揺れながら、扉へと白いシャツの背中が遠ざかる。
…いかないで、
心に響く想い素直に、ベッドから降りてしまう。
その向こう開錠音が聞こえて、ドアノブに掛けられた白皙の手が見えた。
「英二、」
呼びかけた名前に、大きな手の動きが止まってくれる。
その白皙の手へと自分の掌を重ねて、愛する背中へと周太は抱きついた。
「行かないで、英二…俺のこと、離さないで、」
声、ちゃんと出てくれた。
このまま声よ、この人の心に届いて今、この人を掴まえさせて?
どうか離れないで済むように、惹きとめて抱きしめて、掴まえていたい。
願いのままに周太は抱きしめて、ひろやかな背中に頬よせて、呼びかけた。
「離さないって約束したよね?だから約束を守って、愛しているなら言うこと聴いて、」
どくん、
頬よせた背中の奥から、大きく鼓動が応えてくれる。
どうか鼓動のままに呼びかけに応えてほしい、祈るよう周太は言葉を続けた。
「お願い、愛してるんでしょ?だったら言うこと聴いて、こっちを見て、英二、」
広い背中が微かに震えて、ドアノブから掌がすべり落ちていく。
自由になった掌でも背中抱きしめた、そして綺麗な低い声は応えてくれた。
「…周太、俺は君を見て、いいの?」
哀しい、けれど縋ってくれる声。
この声を振向かせる権利を自分は、この恋人から与えられている。
この与えられた権利のままに周太は、愛しい命令に願いを込めた。
「良いって言ってるでしょ?言うこと聴けないの?命令なんだから、」
『命令』
この言葉はきっと、優しい約束の手綱。
この優しさを自分は与えられている、だから今も使いたい。
どうか応えて、振向いて?この祈りこめた腕のなか、ゆっくり英二は体ごと振向いてくれた。
「英二、」
願いに応えてくれた歓びに、名前を呼びかける。
呼ばれて見つめてくれる切長い目は潤んで、薄い月明りにも煌めいて、涙あふれだす。
こんなに綺麗な目で泣いてくれる、この愛しさに微笑んで周太は手を伸ばし、涙を指で拭った。
「英二、また泣いてる…泣き虫、」
微笑んで見上げて、綺麗な涙を拭っていく。
そして涙のままに英二は、ゆっくり床へと崩れ落ちた。
「…あ、」
喘ぐよう声こぼれて、涙があふれだす。
座りこんだ床へと涙は墜ちて、嗚咽が零れだした。
「っ…ぅっ、……っ、」
押し殺した声、それでも微かに嗚咽は唇こぼれてしまう。
嗚咽ふるえる肩が小刻みに揺れる、その肩の姿に懐かしい記憶が優しくふれる。
ちょうど一年ほど前、この警察学校寮の狭い部屋で自分は、初めてこの肩を抱きしめた。
あの瞬間の記憶なぞるように腕を伸ばすと、ひろやかな肩を周太は精いっぱいに抱きしめた。
「泣いて、英二、」
どうか泣いて?まだ今なら抱きしめていられるから。
そんな想いを隠すよう微笑んだ腕のなか、逞しい肩が震えた。
「…っ、周太っ、」
名前を呼んだまま、この体にしがみついてくれる。
お願い離さないでと縋りつく想いが、全身を浸すよう強く抱いて縋ってくれる。
この愛しい束縛に抱かれるまま寄添って、最愛の婚約者に周太は微笑んだ。
「英二、泣いて?俺の腕で泣いて、何年先も、ずっと、」
どうか離さないで、この腕に泣いて?
どうか他に還らないで、この腕へと必ず戻ってきてほしい。
本当はそう今も言ってあげたい、願いたい、けれど言えない。
本当に自分には「何年先も」があるのか、約束が出来ないと自分で解っているから。
これから迎える2度の異動、その後は無事なまま戻れるのか解からないから。
もしも万が一に自分が消えたなら?その可能性がある以上は、言えない。
…言えない。きっと、言ったら英二は後を追ってしまう…そんなことさせたくない
だから今も、英二が何をしたかったのか、解かってしまう。
さっき夢現のはざま感じた温もりは、どこまでも優しくて安らかだったから。
だから解かってしまう、英二の心も英二の願いも、首に掛けた掌が語ってくれたから。
…ね、英二?一緒に死ぬことで、ずっと離れないで護ろうとしたのでしょう?
英二が周太の首に手を掛けた、それは、英二自身も一緒に死ぬつもりだった。
ふたり引き離されないために、唯その為だけに、英二は自身の命まで捨てようとした。
生きていたら離れてしまう「いつか」が来る、だから、このまま「今」で時を止めようとして。
この今なら一緒にいられる、だから、この今の瞬間を永遠に留めてしまうために。
でも英二、お願い、生きて?
生きて、幸せになってほしい。
たとえ自分が戻れなくなっても、どうか幸せを諦めないで?
どうか離される「いつか」を迎えても、そのまま逢えなくても、どうか生き抜いて?
そしてどうか夢を叶えて?世界中の最高峰から最高の笑顔を見せて、輝く夢に生きてほしい。
…どうか、愛してくれるのなら生きていて?あなたの笑顔が大切だから、笑っていて…
この願いの祈り籠めて、周太は最愛の涙を抱きしめた。
(to be continued)
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第51話 風伯act.1―another,side story「陽はまた昇る」
ヘルメットを脱いで、周太は軽く頭を振った。
籠っていた熱気が解放されて、ふわり髪に風が透ってくれる。
5月終りの正午前、機動隊の出動服で走るのは暑い。けれどこの暑さに慣れることも大事だと解る。
…現場で熱中症とかなったら、困るよね?でも、暑いは暑いね
木洩陽の光も影もトーンが明るい。こんなふうに明暗が鮮やかなら、もう夏だな?
そんな感想がさらり心に言える自分に、周太は少し驚いた。
…あ、覚悟が肚に落ちてきたかな?
それなら自分も幾分か「大人の男」になれたのだろう。
父の殉職で記憶を失って以来、精神年齢の一部が子供のままな自分にとって、この自覚は嬉しい。
ほっと息吐いて空を見上げると、屋上や教場からグラウンドを見下ろしている視線がある。
女性が多いギャラリーは、きっと周太がよく知っている人の名前を話題にしているだろう。
「周太、」
綺麗な低い声に名前呼ばれて、振向くと嬉しそうに英二が笑いかけてくれる。
ポリカーボネートの盾を軽々持ちながら、ヘルメットを外したダークブラウンの髪が風にほどけた。
さらり揺れる綺麗な髪が白皙の額を覆って、それを掻き上げる長い指から髪がこぼれる。
無骨な出動服姿なのに、なんだか英二が着ていると別の物みたい?
…なんか、勇者とかそういう感じ?
子供の頃にクラスメイトの家にあった、ゲームの主人公たち。
絵本にも出てくるような、頼もしく美しい青年の貴人と、英二は似ている。
やっぱり、かっこいいな?ぼんやり見惚れていると、端正な貌が不意にアップになった。
「周太?どうした、ぼんやりして。具合悪い?」
「え、」
声に我に返ったとき、前髪を掻き上げられ額に額よせられた。
ふれる肌の温もりが優しくて嬉しい、けれど、ここはグラウンドなのに?
…どうしよう?みんな見てるのに?
ほら、視線が屋上から教場から降ってくる。
ただでさえ英二は注目を受けやすい、それなのにこんなことしたら何て思うのだろう?
「うん、熱は無いな?ちょっと暑かったから、周太、疲れちゃった?」
「あ…ん、」
額をまだくっつけながら、綺麗な低い声が笑ってくれる。
いつも英二は自然にスキンシップをして、こんなふうに衆目の中でも堂々とふれてしまう。
それは初任総合で戻ってきた警察学校の日常でも、ほとんど変わりないまま接してくれる。
こういうのは嬉しい、けれど心配にもなって困ることも多い。
…だって英二、もうクライマーの専門枠で正式任官して…立場だってあるのに、
警視庁山岳会のエースで次期会長と嘱望される光一、そのパートナーとして英二は選ばれた。
最初は英二のことを誰もが危ぶんだ、山岳経験が乏しくて実績が何もない英二では、光一と不釣り合い過ぎたから。
けれど英二は、卒業配置の7ヶ月で認められるようになっている。
山ヤの警察官として英二は、救急法から法医学までを現場で身に着けた。
それは青梅署警察医の吉村医師があっての専門知識たち、けれど吉村の知己を得たのは英二の姿勢と努力だった。
それを周太は奥多摩に行くたび、奥多摩の人達に接するたびに聴くことが多い。
そしてこの間、雲取山頂で見た現場での英二の姿に、心を引っ叩かれた。
あのとき見た英二の姿は頼もしくて、自分の同期と思えなかった
そして冬、積雪期登山訓練で英二は山ヤとしての実績を造り上げた。
年明けの冬富士からスタートして北岳バットレス、谷川岳滝沢第三スラブ、穂高滝谷に槍ヶ岳北鎌尾根、それから剱岳。
どれも国内では最高難度と言われるような雪山で、英二は光一のペースに遅れず踏破して行った。
たった4カ月の記録、けれどあの4カ月が英二を山ヤとして山岳会のメンバーに認めさせた。
警察学校入校から1年と2ヶ月、英二はそれ以上の実績を積んでいる。
そんな英二の姿は婚約者として眩しい、誇らしい気持ちにも嬉しくて、英二の前途を寿ぎたい。
けれど、同じ男として同期としては、すこし焦りを感じるのも本音でいる。
…男同士だと、こういうの複雑なのかな?…女の子だとまた、違うのかな?
もし自分が女の子だったら、もっと違う感想や感情があるのかな?
そんな事を考えながら並んで歩いていると、擦違いざま女性警官の声が聞えた。
「…かっこいいね、宮田くん、頼もし…」
ほら、やっぱり皆そう思うんだよね?
そのあたりは自分も同じ、けれど本人への嫉妬からは女性なら自由だろう。
きっと純粋に褒めて憧れて、素直な賞賛だけでいられるだろうな?
そんなことを考えながらロッカーで装備を外し、着替え始めた。
「周太、なんか口数が少ない?やっぱり少し、暑かったからかな、」
綺麗な低い声が訊いてくれる、その顔が心配そうで誰かに似ている。
誰だったかな?思い出そうとしながら周太は、微笑んだ。
「だいじょうぶ、俺も体力はあるほうだから、」
「そうだな?周太って持久力とかあるよな、俺に付合えるんだから、」
言いながら紺色のTシャツを脱いで、その熱気が周太の頬を撫でる。
いつもの深い森のような香に汗の匂いが混じる、この香に不意打ちされて、心臓が変な鼓動を1つ打った。
この混じった香には、つい想い出されてしまうから。
…だって、この匂いって…よるのときとおんなじなんだから
こんな場所でこんなこと想い出して、恥ずかしい。
ほら首筋がもう熱くなりだした、早く着替えて外に出よう。
そんな想いに押されて急いでTシャツを脱いだ時、すっと端正な貌が周太の瞳をのぞきこんだ。
…なんだろう?
驚いて無意識に、持ったTシャツを引き寄せて体を隠してしまう。
こんなふうに、英二は同性なのに、裸を見られることが恥ずかしくなってしまった。
そして今、目の前の白皙の裸を見ることも恥ずかしい。困って俯いた耳元に、綺麗な低い声が囁いた。
「…夜、俺に付合える位の体力、だね?周太…」
こんなところでなんてこというのこのひと?
「…っ、」
あっという間に熱が額まで昇って、ほらもう顔が真赤だ。
「…ばかっばかえいじっ」
なんとか憎まれ口が唇から出て、背中を向けると急いで手を動かした。
すぐ着替え終えて、ネクタイを簡単に締めると、脱いだものを纏め持って廊下へと出る。
いつもなら英二と一緒に出るけれど、今は恥ずかしくてさっさと行ってしまいたい。
…ばかばか英二の馬鹿、あんなところであんなこというなんて…
どうしてあんなに英二って、えっちなんだろう?
でも光一も似たり寄ったりで、男ってあんなものなのかな?
じゃあ自分はどうしてあんなふうに話せないのだろう、すぐ顔も真赤になるし?
…やっぱり、記憶喪失の所為なのかな?それで精神年齢が止まってるって吉村先生は教えてくれたけど…
それなら記憶喪失にならなかったら、自分もえっちな話を楽しめたのだろうか?
それも何だか考えられない、こういうことって本当に難解で難問で難しい?
このままだと本当に考えすぎの熱が出そうで、周太は軽く頭を振った。
「湯原くん、」
高い声に呼び止められて、周太はふり向いた。
視線の先には女性警察官が4人で笑っている、この雰囲気は何なのか予想がついてしまう。
…きっと「宮田さんって彼女いますか?」だろうな?
そう訊かれたら「周りに訊いて回られるの嫌いみたいです、」って答えれば大丈夫。
まるで「おまじない」のよう思い出す目の前で、楽しげな笑顔が尋ねてきた。
「宮田くん、本当にかっこよくなったよね。彼女っているのかな?」
ほら、やっぱり訊かれた。
これで通算何度目になるのだろう?そんなことを考えながら周太は微笑んだ。
「あの…そういうの、周りに訊いて回られるのは嫌いらしいんです。だから、俺に訊かれると困ります、」
言われて、驚いたよう彼女たちの笑顔が止まる。
それから少し小声で会話交わしだす、そんな様子を見て周太は軽く会釈した。
「すみません、じゃあ、」
踵返して歩き始める、けれど彼女たちは追いかけてこない。
ほんとうに美代から教わった「おまじない」は効果てきめんでいる。
…美代さんって、やっぱり頭良いんだな?訊いてみて良かった、
聡明な友達の笑顔が懐かしくなる。
この間は吉村医師の講習会で一緒になれて、楽しかった。
今度の週末はまた大学の講義でも会えるな?そんな楽しい予定を考えながら歩いていると、呼び止められた。
「湯原、」
振向くと内山がこちらに歩いてくる。
その向こうをふり向きながら、さっきの女性警察官たちが逆方向へ歩いていく。
いま内山と一緒に歩き始めたら、もう彼女たちも追いかけては来れないだろうな?ほっとして周太は同期に笑いかけた。
「おつかれさま、内山、」
「おつかれさま、事例研究の話なんだけど。もし湯原の都合悪かったら、いつでも良いよ。談話室とかでもいいし、」
精悍な笑顔で提案してくれる。
元は周太が予定を変えたのに、気遣ってくれるのが申し訳ないな?心から詫びと微笑んで周太は口を開いた。
「そのことなんだけど、今度の土曜日は公開講座に俺は行くんだ…それで一緒に行く友達が、お昼かお茶を一緒してもらったら、って、」
「え、いいのか?俺も一緒して、」
周太の提案に、嬉しそうに内山が笑ってくれる。
喜んで貰えそうで良かった、嬉しくて周太も微笑んだ。
「ん、良かったら一緒して?お茶のときは、勉強しながらなんだけど。でも内山が一緒だと教えて貰えるから、友達も喜んでるよ?」
「あ、勉強するのにカフェとか行くのか?俺で良かったら勉強の相談、乗れるけど、」
楽しそうに精悍な顔がほころんで、明るい。
美代の提案が良い方を当てたらしい、また大好きな友達の聡明さに感心した時、隣から腕を引っ張られた。
見上げると、大好きな端正な貌が困ったよう、凝っとこちらを見つめている。
「…あ、英二。おつかれさま?」
追いかけて来てくれたのかな?
そんな様子が嬉しくて笑いかけると、長い腕が伸ばされ周太へと絡んだ。
「周太、熱があるんだろ?行こう、」
綺麗な低い声が告げるまま、風浚われるよう足が床から離される。
ふわり、体重を失うよう体持ち上げられて、視界が高くなる。
そして周太の体は軽々と、横抱きに抱え上げられた。
「ちょうど昼休みだし、部屋に戻って少し休もうな?周太、」
「あ…あの、えいじ?」
いったいえいじはどうしたの?
驚いて見つめた切長い目は内山を見遣りながら、綺麗な低い声が笑いかけた。
「ごめん、内山。ちょっと周太、熱っぽいんだ、話を中断して悪いな、」
「いや、構わないけど。ごめん、湯原。気づかないで、」
素直に内山が謝ってくれる、けれど本当は別に熱なんてないのに?
抱えられた腕の中から周太は、内山に謝った。
「ううん、あの、ごめんね?」
「行くよ、周太、」
まだ内山に謝りたかったのに、さっさと英二は周太を抱えて歩き出してしまった。
英二はどうしたのだろう?そんな想いに見つめた顔は前を向いたまま、困ったよう泣いているような目でいる。
…そんなに心配をかけているのかな?
つい最近、周太は熱を出して教場で倒れた。
あのときは疲労と知恵熱が原因だから一晩で回復している、それでも英二は心配してくれた。
食事から着替え、体を拭いたりと世話を看て、切長い目は喜びと不安が混じったよう微笑んで。
あんな顔をしてくれえる英二、それなのに今ロッカーで置き去りにしたことが申し訳なくなって、周太は素直に謝った。
「あの、英二?ごめんね、置いて行っちゃって、」
本当にごめんね?
そう見つめた先で切長い目がこちらを見て、困ったよう笑ってくれた。
「こっちこそ、ごめんね周太、」
「…どうして謝ってくれるの?」
どうしてかな?不思議で訊いたけれど、英二は笑っただけで黙っている。
なんだかいつもと少し違う雰囲気に、途惑ってしまう。
…ほんとうは、怒っているのかな?
なんだかすこし、不安になってしまう。けれど抱えてくれる腕も懐も温かくて、優しい。
この優しさが嬉しくて、頼もしい胸に周太は頭を凭らせた。
「心配かけて、ごめんね、英二?今は熱、無いから大丈夫だよ。でも…だっこうれしいよ、」
「うん。ありがとう、周太、」
抱えて歩きながら幸せに微笑んで、部屋の扉を開いてくれる。
ぱたんと閉じて鍵かけて、周太を抱えたままベッドに腰掛けると、英二は困ったよう笑ってくれた。
「ごめんね、周太?俺って心が狭い、ほんと子供だ、」
「どうして、そんなこと言うの?」
いつも優しくて穏やかに落着いた英二が、子供だなんて?
確かに時おりゴールデンレトリバーみたいな時はある、けれど充分に大人の男だと想うのに?
それなのにどうして?そう見つめた周太の額に、そっと額付けてくれる。
すこし俯き加減になる視線の近く、端正な唇が微笑んだ。
「周太のことになると俺、ワガママになる。だから、子供だよ、」
微笑んだ唇が上向いて、やわらかな温もりが唇ふれる。
深く穏やかで、すこしほろ苦いような香は、あまい唇の熱に忍びこむ。
どこか陰翳のある香は森に似て、それは内面から昇るよう英二の心を映し燻らす。
この香の唇こそが、自分の止まっていた時を動かした。
この香に与えられる口づけは、13年の孤独を砕いて崩れさせ、希望を見せた。
もう幾度この香に自分は、あまい幸せの温もりを与えられたのだろう?
「…周太、好きだよ、」
そっと離れた唇が囁いて、また熱のキスにふれてくれる。
抱きしめる長い腕の強さも温もりも、強い風くるむよう浚いこんで瞬間に時を忘れさす。
そうしてただ心には、今この温かな時の幸せだけが、優しいままに抱きしめる。
ふわり、温もりに包まれる。
ゆっくりと温もりが、優しく喉から首筋まで包んでいく。
ふれる温もりから昇らす香は森のよう深くて、ほろ苦く甘く、穏やかに頬撫でる。
風ふれるような温もりは優しくて、生まれつき少し弱い喉には心地いい。
…あたたかくて気持ちいい…やさしくて、やわらかくて…あんしん
夢の現に、温もりがただ優しい。
深い浅い眠りにうかぶ泡沫のような、感覚と想いが揺らいでいる。
このまま温もりに包まれて、安らかな眠りの泉に沈みこんでいたい。
けれど温もりは喉から離れて、掠れる声に名前を呼ばれた。
「…っ、し、ゅうた、」
とても懐かしい声が、哀しげに名前を呼んだ。
どうしてそんな声で呼ぶの?そんな問いかけが、眠りの底へと浮びだす。
そして閉じた睫へと、一滴の温もりが降り零れた。
…あたたかい…涙?
温かな雫が睫を透って、瞳に届く。
どこか甘くて切ない感覚に、ゆっくりと睫が披かれる。
披かれていく視界に映りこんだのは薄い闇と、涙に濡れた白皙の頬、そして苦しげでも美しい恋人の泣顔。
…泣いているの、英二?
泣かないで?
そんな想いに手を伸ばし、涙の頬に掌ふれた。
「…えいじ?泣いてるの?」
呼びかけた名前に、ゆっくり濃い睫が披かれる。
披かれた瞳から涙はあふれていく、けれど言葉は出てこない。
「どうしたの?…なぜ、泣くの?」
涙の目を見つめて問いかけながら、腕を伸ばし広い肩を掌に包みこむ。
ふれる温もりと香が嬉しくて、微笑んで見つめる先の美しい泣顔からは、ゆるやかに涙ふりかかる。
どこか甘いような涙を見つめて、そして端正な唇が苦しげに言葉を押し出した。
「周太、俺は今、きみのこと…っ、」
嗚咽に、言葉が途切れる。
それでも英二は正直なまま、言葉を押し出してくれた。
「俺は今…君を殺そうとした、…君を、離したくなくて、」
英二が周太を殺そうと、願う。
とても不思議なことに想えて、けれど怖いとも想えない。
そんな想いに呼応するよう夢現の温もりが、今も喉元に安らぎを名残らせている。
あの温もりは優しかった、あの温もりくれる愛するひとに、ただ寄り添っていたい。そんな想いへと綺麗な低い声が、告白に泣いた。
「ずっと傍にいたくて、どこにも行かせたくなくて…ずっと見つめていたくて離れたくないから、だから首に手を掛けて君を殺そうとしたんだ、」
綺麗な低い声が、泣いている。
美しい切長い目から生まれる熱い涙は、周太の瞳へと降りかかり、頬つたう。
涙の底から見つめ合って、けれど肩に回した周太の腕から英二は、身を離した。
「ごめん、」
ひとこと告げた声が、哀しくて。
泣き濡れた横顔、ベッドから床におろされる長い脚、立ち上がる広やかな背中。
スローモーションのよう重たく揺れながら、扉へと白いシャツの背中が遠ざかる。
…いかないで、
心に響く想い素直に、ベッドから降りてしまう。
その向こう開錠音が聞こえて、ドアノブに掛けられた白皙の手が見えた。
「英二、」
呼びかけた名前に、大きな手の動きが止まってくれる。
その白皙の手へと自分の掌を重ねて、愛する背中へと周太は抱きついた。
「行かないで、英二…俺のこと、離さないで、」
声、ちゃんと出てくれた。
このまま声よ、この人の心に届いて今、この人を掴まえさせて?
どうか離れないで済むように、惹きとめて抱きしめて、掴まえていたい。
願いのままに周太は抱きしめて、ひろやかな背中に頬よせて、呼びかけた。
「離さないって約束したよね?だから約束を守って、愛しているなら言うこと聴いて、」
どくん、
頬よせた背中の奥から、大きく鼓動が応えてくれる。
どうか鼓動のままに呼びかけに応えてほしい、祈るよう周太は言葉を続けた。
「お願い、愛してるんでしょ?だったら言うこと聴いて、こっちを見て、英二、」
広い背中が微かに震えて、ドアノブから掌がすべり落ちていく。
自由になった掌でも背中抱きしめた、そして綺麗な低い声は応えてくれた。
「…周太、俺は君を見て、いいの?」
哀しい、けれど縋ってくれる声。
この声を振向かせる権利を自分は、この恋人から与えられている。
この与えられた権利のままに周太は、愛しい命令に願いを込めた。
「良いって言ってるでしょ?言うこと聴けないの?命令なんだから、」
『命令』
この言葉はきっと、優しい約束の手綱。
この優しさを自分は与えられている、だから今も使いたい。
どうか応えて、振向いて?この祈りこめた腕のなか、ゆっくり英二は体ごと振向いてくれた。
「英二、」
願いに応えてくれた歓びに、名前を呼びかける。
呼ばれて見つめてくれる切長い目は潤んで、薄い月明りにも煌めいて、涙あふれだす。
こんなに綺麗な目で泣いてくれる、この愛しさに微笑んで周太は手を伸ばし、涙を指で拭った。
「英二、また泣いてる…泣き虫、」
微笑んで見上げて、綺麗な涙を拭っていく。
そして涙のままに英二は、ゆっくり床へと崩れ落ちた。
「…あ、」
喘ぐよう声こぼれて、涙があふれだす。
座りこんだ床へと涙は墜ちて、嗚咽が零れだした。
「っ…ぅっ、……っ、」
押し殺した声、それでも微かに嗚咽は唇こぼれてしまう。
嗚咽ふるえる肩が小刻みに揺れる、その肩の姿に懐かしい記憶が優しくふれる。
ちょうど一年ほど前、この警察学校寮の狭い部屋で自分は、初めてこの肩を抱きしめた。
あの瞬間の記憶なぞるように腕を伸ばすと、ひろやかな肩を周太は精いっぱいに抱きしめた。
「泣いて、英二、」
どうか泣いて?まだ今なら抱きしめていられるから。
そんな想いを隠すよう微笑んだ腕のなか、逞しい肩が震えた。
「…っ、周太っ、」
名前を呼んだまま、この体にしがみついてくれる。
お願い離さないでと縋りつく想いが、全身を浸すよう強く抱いて縋ってくれる。
この愛しい束縛に抱かれるまま寄添って、最愛の婚約者に周太は微笑んだ。
「英二、泣いて?俺の腕で泣いて、何年先も、ずっと、」
どうか離さないで、この腕に泣いて?
どうか他に還らないで、この腕へと必ず戻ってきてほしい。
本当はそう今も言ってあげたい、願いたい、けれど言えない。
本当に自分には「何年先も」があるのか、約束が出来ないと自分で解っているから。
これから迎える2度の異動、その後は無事なまま戻れるのか解からないから。
もしも万が一に自分が消えたなら?その可能性がある以上は、言えない。
…言えない。きっと、言ったら英二は後を追ってしまう…そんなことさせたくない
だから今も、英二が何をしたかったのか、解かってしまう。
さっき夢現のはざま感じた温もりは、どこまでも優しくて安らかだったから。
だから解かってしまう、英二の心も英二の願いも、首に掛けた掌が語ってくれたから。
…ね、英二?一緒に死ぬことで、ずっと離れないで護ろうとしたのでしょう?
英二が周太の首に手を掛けた、それは、英二自身も一緒に死ぬつもりだった。
ふたり引き離されないために、唯その為だけに、英二は自身の命まで捨てようとした。
生きていたら離れてしまう「いつか」が来る、だから、このまま「今」で時を止めようとして。
この今なら一緒にいられる、だから、この今の瞬間を永遠に留めてしまうために。
でも英二、お願い、生きて?
生きて、幸せになってほしい。
たとえ自分が戻れなくなっても、どうか幸せを諦めないで?
どうか離される「いつか」を迎えても、そのまま逢えなくても、どうか生き抜いて?
そしてどうか夢を叶えて?世界中の最高峰から最高の笑顔を見せて、輝く夢に生きてほしい。
…どうか、愛してくれるのなら生きていて?あなたの笑顔が大切だから、笑っていて…
この願いの祈り籠めて、周太は最愛の涙を抱きしめた。
(to be continued)
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