“Destin” ― 運命、真想の交錯
第49話 夏橘act.3―another,side story「陽はまた昇る」
明るい学食の窓際、木洩陽がガラスを透して食卓に揺れる。
きらきら光る影絵を定食のトレイに見ながら、周太は熱くなる頬に掌を当てた。
こんなところでまた赤くなってしまう、我ながら困っていると美代が笑いかけてくれた。
「私もね、昔からよく光ちゃんのこと、訊かれるのよ。女の子たちに囲まれたりしちゃってね、男の子もあったのよ?」
やっぱりそうなんだ?周太はすこしほっとした。
同じように美代も困っている、それに何だか安心しながらきいてみた。
「そういう時、どんなふうに答えるの?」
「正直に言っちゃうの、」
どんなふうに言うのかな?
そう首傾げた周太に、きれいな目は明るく悪戯っ子に笑んだ。
「直接本人に訊いた方がいいですよ、陰で聞いて回られるのは嫌いみたいですから、って答えるの。
そうしたら、嫌われたくないから聞いてこなくなるのよ。きっと、私から光ちゃんに言われたら、って思うだろうし、ね?」
陰で聞いて回られるのは嫌い。
そう言われたら二度と聞けなくなるだろう、納得に感心して周太は笑った。
「それ、いいね?俺も同じように言わせてもらうね?…やっぱり美代さんに訊いて良かった、」
「あ、こういうの褒められるの、なんか照れちゃうね?」
気恥ずかしげに笑いながら美代は丼飯に箸をつけた。
そんな美代と周太を見て青木樹医が愉しげに口を開いた。
「光ちゃんも、やっぱりかっこいい人なんですね?」
「はい、見た目は、きれいです。ね?」
答えた美代が悪戯っこの目で相槌を求めてくる。
この「見た目は」の強調が可笑しくて周太は笑ってしまった。
「ん、光一は本当に、きれいだね、」
「ね?もう、最近は特によ?でも最近は中身も、美人ぽくなったかな?」
愉しげに笑って美代が相槌を打ってくれる。
ふたりを見て青木樹医も快活な笑顔で尋ねた。
「随分と美形の方みたいですね。その方は最近、恋でもしたんですか?」
「その通りです、」
さらり明るく美代は答えた。
けれど光一の恋愛は所謂「普通」ではない、ちょっと話し難い事になる。
それでも美代は明瞭に口を開いた。
「光ちゃんは一番の友達に恋愛しています。ちょっと妬けるくらい純情で、きれいで羨ましいです、」
美代らしいストレートな言い方は、純粋な称賛が明るい。
その明るさに樹医はひとつ瞬いて率直に尋ねた。
「その友達は、男性ですか?」
「はい、」
真直ぐ答えて、きれいな明るい目は青木に微笑んだ。
美代の答えに、青木准教授はまたひとつ瞬いて、すこし考えるよう首傾げた。
とくん、
鼓動が心を叩く。
青木先生は、男性同士の恋愛をどう考えるのだろう?
そんな不安と緊張が首筋を熱くする、赤くなってくるのが自分で解かる。
…先生が、男同士の恋愛を、気持ち悪がったら…きっと、哀しくなるよね、
そんな想いが、食卓の下で掌を固く握り合わせる。
周太自身こそが男同士でも英二と婚約をしている、だから今、青木樹医の意見が気になってしまう。
こんなふうに不安と緊張を抱くほど自分はもう、この若い学者を尊敬し始めているから拒絶が怖い。
『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』
あの青い本に書いてくれた詞書、樹木の深い知識と記録と想いたちは、読むたび周太の心を響かせる。
青木樹医に初めて出会った冬から半年、会うのは交番での初対面から今日で6回目。この本を贈られて4ヶ月になる。
この一冊の専門書を自分は毎日、すこしでも読んできた。だから本を通して毎日、この樹医と会っている気がしてならない。
だから6回目でも想ってしまう、この先生からずっと学んでいけたら良いのに?そう願い始めている。
いつか自分は父がいた部署に異動するだろう。
いつも留守がちだった父の多忙を思うと、きっと通学の許可は難しい。それでも、なんとか無理をしても許可が欲しい。
それくらい自分は植物学の世界に希望と夢を見ている、この「今」に導いた青木樹医に学んでいたい。
父の殉職から記憶を失い、夢まで忘れた自分を植物学の世界に戻してくれた、この教師に学びたい。
父の軌跡を追う、その為だけに13年間を生きてしまった。
いつか父の軌跡に立つときは孤独になる、そう解っているから心鎖した、別離が辛いと知り過ぎたから。
母を支えること、父の想いと真実を探すために警察官になること、それだけが生きる目的だった。
目的以外のことは遮断され、切り落とされ、ひとつずつ父の記憶と共に消えていった。
そして忘れ果てた「自分」のこと。
自分が何を本当は好きで、どんな夢を見ていたのか?
自分が望んだ人生は何だったのか?本当な何になりたかったのか?
こんな迷子の自分は、伴侶と愛する英二のことすら「夢」に生きることを羨み妬み、その卑屈な想いに苦しんだ。
けれど青木樹医に贈られた一冊の本が、大きく自分の心を開かせ、植物学の夢を思い出させてくれた。
『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』
この運命の一冊と過ごした4ヶ月、どんなに自分は幸せだったろう?
この一冊が蘇えらせた夢を、父の死に一度は滅んで忘れた夢を、もう、二度と見失いたくはない。
ひとりの男として人間として、唯ひとつ見つけた夢と希望を失いたくない。
…やっと出会えたんだ、本物の植物の魔法使いに、樹医に…青木先生は俺の心にも魔法を懸けて、植物の夢を蘇らせたんだ
この樹医との出会いも、きっと運命の出会い。
だからこそ、この教師の意見が気になってしまう。
ほんとうに運命の教師で、ずっと長く学んでいくのなら、英二のことを話す日が来るだろうから。
なんて答えてくれるのだろう?不安と緊張に見つめた食卓の向こう、眼鏡の奥の目は穏やかな快活に微笑んだ。
「男同士の恋愛は、昔から日本にはありますからね?男女の恋愛よりも純情だと、聴いたことがあります」
いつもの知的で明快な笑顔は、実直な目をなごませている。
そして穏やかに明るい声はきちんと話してくれた。
「日本では昔から、男は戦場に行ったでしょう?そこでは命懸けの瞬間が日常です、だからお互いに強い絆がほしい。
男同士だから子供が出来ない分、絆は互いの心と体しかありません。それだけに命と誇りと、友情を懸けた、純粋で勁い恋愛になるんです。
そういう、ただ心の全てを懸けた恋愛は、まばゆいでしょうね?だから小嶌さんが言うように、光ちゃんが綺麗になったことは、とても納得です」
フラットな心が真直ぐ光一を、「男同士の恋愛」を見つめている。
こんなふうに話してもらえることは嬉しい、ほっと肩の力が抜けて心ほどかれていく。
食卓の下に組んだ掌もすこし緩められる、そんな隣から実直な目は「大丈夫よ?」と周太に微笑んで、美代は口を開いた。
「先生は、男同士の恋愛も認められると、おっしゃるんですね?」
「はい。私自身は経験がありませんが、自然なことかなとも考えます」
気さくに青木樹医は笑って、食べ終えた丼と箸をトレーに置いた。
そのまま食卓に肘をつき、長い指の掌を軽く組んで顎を載せると、准教授は口を開いた。
「歴史学で教鞭をとる友人と、この話を議論した事があります。そのとき思ったのは本能と、感情の対峙だということです。
子供が出来ない恋愛は、種の保存からすれば矛盾する感情でしょう?ですから、とても精神性が高い世界だとも言えます。
だから男同士の恋愛は高次元だと日本では考えられいたんです。ですが近代化の過程で、西洋のキリスト教的な考えが入ったでしょう?
それで日本でも、男同士はNGという風潮が生まれました。けれど、長崎など一部の地域には伝統の常識として残った、それぐらい馴染んでいる、」
こうした背景は周太自身、すこしWEBで読んだことがある。
あの初めての夜が明けて実家に帰ったとき、リビングのパソコンで調べてみたから。
あのとき自分と英二だけではないのだと知って、どこか安堵した自分がいた。それを今、尊敬する人が整理して話してくれる。
こういうのは素直に嬉しいな、そう見つめている前で知的な眼差しが微笑んだ。
「だから自然なこと、と私には思えたんです。むしろ近代化以降の、この百年が異端かもしれない、」
この百年が異端、その結論が自分には優しい。
ほっとする想いに周太は唇をひらいた。
「もし自分の身近なひとが、男同士で恋愛していたら。どんなふうに先生は接しますか?」
「普通でしょうね?ちょっと眩しく思うかな、」
さらり答えて青木樹医は微笑んだ。
そして眼鏡の奥で快活な瞳を温かに笑ませて、いつもの論理的トーンで話してくれた。
「植物学者の見解としては、同性の恋愛は、種の保存という意味では困った事でしょうね。
けれど、ひとりの個人としては賛成したいです。男女であれ同性であれ、一生懸命に誰かを想って大切に出来ることは、幸せですから。
さっき話した通り男同士の恋愛は、命と誇りと、心の全てを懸けた恋愛です。そんな打算の無い姿は、同じ男として眩しいと思うんです」
あくまでもフラットな青木樹医らしい見解が温かい。
やっぱりこの先生は好きだなと、また信頼と尊敬が穏やかに育っていく。
この信頼に、ほんとうは正直に自分のことも話せたら良いのにと、ひとつ希望が起きあがる。
けれど、このことは自分一人で勝手に決められる問題ではないことも、よく解っているから出来ない。
…関根に話すのだって、英二もお姉さんも、あんなに慎重だったから、ね、
あのとき関根に受け入れてもらえて本当にうれしかった。
だから、この尊敬する樹医にもいつか話すことが出来たらと、そっと心に望みが起きている。
いつかきちんと話すことが出来たら良いな?そう思えることだけでもう、幸せが嬉しい。
嬉しい想いに微笑んだ周太の隣で、美代も嬉しそうに笑った。
「女の私から見ても、まぶしいです。だって先生?光ちゃんは本当に綺麗で、まぶしいんです、」
言って、きれいな明るい目が「あなたもよ?」と周太に微笑んだ。
この眼差しの温もりに解ってしまう、きっと美代は周太の為に青木樹医に質問してくれた。
…光一のことを訊くことで、先生の考えを訊いてくれた。そうでしょう、美代さん?
きっとそうだろうな?
想いながら周太は、膳の上のものを食べ終えた。
みんな食事が済んで下膳すると、青木樹医と別れて美代とふたり駅に向かって歩き始めた。
新緑豊かなキャンパスを出ると、周太は隣を歩く美代に尋ねた。
「ね、美代さん?さっき先生に光一のこと話したの、俺の為でしょ?…先生が男同士のこと、どう考えるか訊いたの、って」
「うん、私も訊いてみたかったの、先生ならって思ったし。でも、ね?もしかして、嫌だった?」
心配そうに実直な眼差しが周太を見つめてくれる。
こんな気遣いも美代はストレートで、裏表ない所が周太を気楽にさせてくれる。嬉しい想いに周太は笑った。
「ううん、俺もね、いつか先生には訊いてみたと思う…ちょっと急で驚いたし、緊張はしたけど。でも、うれしかったよ?」
「ほんと?じゃあ、良かった。私も緊張したの、でも良い機会かな、って思って訊いちゃったの。だけど、勝手にごめんなさい、」
率直に謝って美代は、立ち止まると頭を下げてくれた。
そんなにしなくて良いのに?少し困って、でも周太は思いついて笑いかけた。
「謝らないでいいよ?それよりね、俺、母の日のプレゼントを先週は買えなかったんだ。今日こそ渡したいから、一緒に選んでくれる?」
本当は先週の講義の後で実家に帰る時、母に贈り物を買う予定だった。
けれど何が良いのか迷った挙句、結局は花束しかプレゼントできなかった。
だから今日は何かを見つけられたらいいな?そんな希望を思う周太に、美代は明るく笑ってくれた。
「あれ?そうだったの?もしかして、何にするか決まらなかったの?」
「ん、そうなんだ…だから美代さんと選んで貰ったら、決められると思ってね、今日は来たんだけど、」
「お安い御用よ?でも、一生懸命考えて選びます。いつも湯原くんには勉強教わってるし、お母さんにもお世話になってるから、ね?」
楽しそうに笑って頷いてくれる、この明るい綺麗な目の友達の実直な純粋さが嬉しい。
この実直な目と心が真直ぐ青木樹医に訊いて、今、周太のなかに信頼と温もりを贈ってくれた。
ほんとうに美代と友達になれて良かった、周太は感謝に微笑んだ。
ふるい木造門を開くと、ふわり橘の香が庭を廻った。
きっと咲いているかな?楽しみに門を閉めて、爽やかな香の源へと足を向けた。
歩いていく庭の木立から木洩陽ふりそそぎ、影絵を芝生に明滅させていく。あざやかな皐月の花に芍薬も咲き誇る。
名残の藤も薄紫の房をゆらせ風に花ふりこぼす、見上げた青空には針槐の白い花が緑とまばゆい。
初夏に華やぐ花々と陽光を歩いてゆく、そして大きな常緑の梢を周太は見上げ、きれいに笑った。
「今年も、咲いてくれたね?きれいだね…ありがとう、」
濃い鮮やかな緑の梢には、黄金の大きな実と純白の小花が輝いている。
陽射しに輝く夏蜜柑の木は、梢ひろやかな緑陰の芝生へ星の小花を散らし佇む。
静かな午後の初夏、橘の香は陽光に温められ豊麗に立ち昇っていく。
この香は懐かしい、大好きな香。この香をくれる白い小花も可愛らしくて好きだ。
この花が実らす黄金の実を、明日は大好きな人と一緒に摘み取って、家に伝わる菓子を一緒に作る。
…きっと楽しくて、すごく幸せだね?
嬉しい気持ちに夏みかんの幹に掌ふれて、それから周太は玄関の方へと歩き始めた。
芝生を横切って歩いていく、そのスーツの足元を白い花枝が撫でて、花がこぼれだす。
「…空木の花、」
白い花に、革靴の足が止まる。
この花に纏わる昨夜の思考と記憶が心に起きあがる、そして頭脳が動き出す。
『Le Fantome de l'Opera』
父の書斎に遺された、ふるい紺青色の表装の仏文学小説、ページが抜け落ちた本。
あの空白のページに隠されているのは、空木の花言葉に同じかもしれない?
「…秘密、」
ぽつり花言葉がひとりごと零れて、白い花にふれ落ちる。
きっと花言葉は英二の想いも映していると、この「秘密」の確信が昨夜のまま心に落ちる。
だから「ページが抜け落ちた本」に気付いたことを英二にも、決して言うことは出来ない。
まだ理由は解からない、なぜ英二が「ページが抜け落ちた本」を周太にも秘密にしたがるのか?
けれど秘密にするだけの理由があることも、それが周太の為だろうことも、信じられる。
…きっと俺を護るためだね、英二…知らないことが俺を護る、そうでしょう?
それでも自分は「秘密」を知らないままで済ませていいのだろうか?
だって『Le Fantome de l'Opera』の空白は、祖父と父の遺志が籠められている。
それを唯一の跡取りで長男である自分が「知らない」ままで居て良いの?
…英二が護ってくれることに、ただ甘えていることは…出来ない、俺には
きっと「知らない」ことが周太を護ることだと英二は判断をした、そのために「秘密」にしてくれている。
それが解かるから、自分は「知らない」で居ればいい、誰に対しても。
けれど、本当に知らないままでいることは、出来ない。
「…お母さん、まだ帰ってこないよね?」
いま左手首のクライマーウォッチは16時半。
今日は仕事から17時半に一旦帰ってきて、支度をしてから友人と温泉に行くと言っていた。
だからあと1時間は時間がある、独りきり書斎に籠れる時間がある。
「…ん、」
小さく頷いて周太は玄関へと歩き出した。
玄関の扉を開き、真直ぐ台所に向かってエコバッグの中身を冷蔵庫に入れる。
それから洗面室で手洗いうがいを済ませて2階に上がり、自室に入ると鞄と紙袋を置き、ジャケットを脱いだ。
そしてデスクの近くにある本棚から紺青色の本を取出して、そのまま隣の書斎に入った。
「…あ、」
書斎机の花瓶に、白い花が揺れている。
さっき庭に咲いていた空木、その空洞の枝に「秘密」をこめて、この部屋にも純白に咲く。
なんだか花に隠喩されているみたい?けれど隠喩の花はこの庭に育った花、だから思う、庭を愛した人たちの遺志を花は伝えている?
「…お父さんも、お祖父さんも、俺に探してほしい?」
そっと花に笑いかけて、周太は書棚の前に立った。
壁一面に作られた重厚な書棚には端正に本が並ぶ、その背表紙はフランス語表記が9割。
そのなかの紺青色の一冊に周太は手を伸ばし、掴んだ。
…軽い、
いま掌に掴んだ本は、軽い。もう片方の掌に持つ本と重みが全く違う。
この書斎に遺された紺青色の一冊は、大きくページが抜け落ちている為に本来の重みが消えている。
この重みの違いに「ページが抜け落ちた」秘密の重さを想ってしまう、これを知る覚悟が静かに目を醒ます。
覚悟と見つめる2冊を書斎机に据えながら、静かに周太は父達の椅子に腰かけた。
2冊の『Le Fantome de l'Opera』古い本と自分の本。
いま目の前にある2冊には、恋愛に交錯する謎を描いたミステリー小説が、フランス語で綴られている。
そのミステリーにきっと祖父と父の軌跡が重なる部分がある、それを「秘密」にするためページは切り落とされた。
だから、古い本のページが抜け落ちた「空白」を読み返し、残されたページとの差異を考えれば「遺志」が浮かび上がるはず。
きっと、古い本のページが抜け落ちた「空白」に、祖父と父の遺志が隠されている。
そんな考えの許、紺青色の本を2冊とも開く。
古い本の落丁ページを確認する、それを自分の本と照合し、落丁の始まりと終わりのページに栞を挟んだ。
古い本に遺されているのは、最初と最後のシーンだけ。
この部分には出てこない、けれど本編には出てくる内容や人物に「遺志」がある?
…最初と最後に出てくるのは、歌姫と幼馴染の恋人…ふたりの再会と、その後、
そっと自分の本を閉じる、その手元に白い花がひとつ降りかかる。
降りこぼれた花を掌に載せて、花翳の写真立てに周太は微笑んだ。
「…お父さん?これは『秘密』なんだよって、言いたい?…大丈夫、俺は何も知らないから…秘密は守られるよ?」
これは「周太が知る」ことすら秘密。
この本のことに気付いたと、英二にも知られてはならない、永遠の秘密にすること。
この責任と義務を自分が背負うことも「秘密」のなかに隠せばいい、きっと自分が「知る」ことは誰にも危険だから。
けれど知らないでは済ませられない、だって自分は唯一人だから。
「お父さんと、お祖父さんの血を引くのは、俺だけだね?…だから、俺は知らないといけない、そうでしょう?」
笑いかけた白い花の下の写真立てで、きれいな笑顔で父は佇んでいる。
若々しいけれど寂しげで綺麗な笑顔、この笑顔が自分は大好きで、一緒にいられる時間は宝物だった。
いつも穏かで優しかった父の声、きれいなキングス・イングリッシュで大好きな『Wordsworth』を読んでくれた。
あの流暢な発音と声は、今も耳の記憶に遺されている。
「この花、押花にするね?」
想い微笑んで、抽斗を開くとインクの吸いとり紙を1枚出した。
そっと掌の花を薄い紙に載せると、丁寧に紙を半折に重ねて花を挟み、自分の本に綴じこんだ。
そして古い本を手に、周太は席を立ちあがった。
明るい窓際に立ち、ページの抜け落ちた部分を陽射しに開く。
遅い午後でも明るい初夏の光は、紙と糸が織りなす形状を鮮やかに晒してしまう。
照らし出される背表紙の内側を凝視する、そして見出した真相は言葉にこぼれた。
「…刃物の、痕跡…」
糸と糊で綴じられていた部分は、鋭利な切断面が遺る。
ページを意図的に落丁させた、その痕跡が眼の底に鮮やいだ。
「ね、お父さん?これ…おじいさんの本なのでしょう?それを切り落としたなんて、よほどの理由があるね?」
これを切り落としたのは、父。
この確信が切断面から解ってしまう、だって、こんな切断面を幼い頃に見たことがある。
これはきっと、あの刃物で切られている。この確信に周太は写真立てに振り向いた。
「トラベルナイフで、切ったでしょう?お父さん、」
山や川でキャンプをしたとき、焚付に使う古雑誌を父は切った。
いつも背表紙の糸綴じをトラベルナイフで切断して、器用に雑誌をばらしていた。
あのときと同じように父がこの本も切断した、それが目の前の切断面から解ってしまう。
父のトラベルナイフは自分が受継ぎ、英二と山で過ごす時に自分で使っている、だから切断面の癖も解かる。
抜け落ちたページに隠された「秘密」の存在。今まで、ずっと気付かなかった。
けれど今なら解る。トラベルナイフの癖と、英二が事例を隠した態度から、解かってしまった。
『遺体の傍に、文庫本が落ちていたんだ。その本は普通の状態だった』
木曜日の事例研究で、英二は嘘を吐いた。
けれど金曜日、藤岡との会話に事例の真実と「ページが抜け落ちた本」のメッセージを知った。
―…あの本ってページがごっそり抜けていただろ?たぶん本人が切り落としたんだけどさ、
その動機がドッチの意味か…脱け出したくて切り落としたのか…未練があるから切り落とした
父がページを切り落とした「動機」は、どちらの意味?
この空白のページに隠された「秘密」から、脱け出したかった?未練があった?
この「秘密」はきっと父と祖父の軌跡が隠されている、それを知ることは危険と秘匿の道だろう。
この危険も秘匿も重い、それを英二は解かっている、きっと英二は父達の軌跡をもう知っている。
だから英二は「ページが抜け落ちた本」のことを隠した、周太に悟られないために。
…ね、英二?俺の肩代わりをする気でしょう?…嫌いな嘘を吐いても、俺を護ろうとしてるね
こんなに英二は、自分を護ろうとしてくれる。
だからこそ、英二だけに背負わせて自分は何も知らないなんて、出来ない。
これは本来なら自分が背負うべき苦しみ、それを愛するひとに背負わせて、知らないでいるなんて出来ない。
自分こそ、愛するひとを護りたいから。
…英二、お願い…幸せに笑っていてほしいんだ、俺がどうなっても、何があっても
ずっと13年間を孤独の底に沈んだ自分を、救ったのは英二。
唯ひとり恋愛で想っている、唯ひとり体も許して、素肌ふれあい想いを確かめた最愛のひと。
ふたり過ごした時間は全てが幸せで、傷みも涙も全てが幸せだった、この幸せに自分は笑顔を取り戻せた。
もう諦めていた夢も、暗がりでも希望を見出す術も、全てを与えてくれた。
だから何があっても、護りたい。
あなたを護りたい。
この願いの為に本当は、なんども離れようとした、別れようとした、忘れて嫌いになりたかった。
それでも離れられなくて別れられなくて、どんなに嫌いになったと想いこもうとしても、出来なかった。
だから覚悟した、何があっても自分がこの人を護りぬこうと決めた。
その為に自分が泣くことになっても構わない、英二が笑ってくれるならそれでいい。
だから光一に英二の傍にいて欲しいと願ってしまう。
幼い日から光一は、ずっと周太を一途に想い続け救ってくれる。
そんな光一なら英二を任せられる、そう信じているから。
こういうのは本当は寂しい、けれど英二の笑顔を護れるのなら、寂しさがなんだというの?
そして解かっている、英二も周太を同じように想ってくれていると知っている。
だからこそ尚更に護りたい、自分よりも大切な人だから。
…ね、英二?あなたも、同じように想ってくれてるね?…幸せだよ、でも、ね?
最愛の婚約者の想いの真実と、自分の運命の交錯が、この本に見えてしまう。
それと同時に父達の軌跡がなぜ秘密にされるのか?その重たさも解かってしまう。
愛する人々を廻る想いと真実の交錯が、この本の「空白」に運命の顔をして隠れている。
『Le Fantome de l'Opera』
紺青色の表装の、フランス語のページが抜け落ちた、この運命の一冊に。
(to be continued)
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第49話 夏橘act.3―another,side story「陽はまた昇る」
明るい学食の窓際、木洩陽がガラスを透して食卓に揺れる。
きらきら光る影絵を定食のトレイに見ながら、周太は熱くなる頬に掌を当てた。
こんなところでまた赤くなってしまう、我ながら困っていると美代が笑いかけてくれた。
「私もね、昔からよく光ちゃんのこと、訊かれるのよ。女の子たちに囲まれたりしちゃってね、男の子もあったのよ?」
やっぱりそうなんだ?周太はすこしほっとした。
同じように美代も困っている、それに何だか安心しながらきいてみた。
「そういう時、どんなふうに答えるの?」
「正直に言っちゃうの、」
どんなふうに言うのかな?
そう首傾げた周太に、きれいな目は明るく悪戯っ子に笑んだ。
「直接本人に訊いた方がいいですよ、陰で聞いて回られるのは嫌いみたいですから、って答えるの。
そうしたら、嫌われたくないから聞いてこなくなるのよ。きっと、私から光ちゃんに言われたら、って思うだろうし、ね?」
陰で聞いて回られるのは嫌い。
そう言われたら二度と聞けなくなるだろう、納得に感心して周太は笑った。
「それ、いいね?俺も同じように言わせてもらうね?…やっぱり美代さんに訊いて良かった、」
「あ、こういうの褒められるの、なんか照れちゃうね?」
気恥ずかしげに笑いながら美代は丼飯に箸をつけた。
そんな美代と周太を見て青木樹医が愉しげに口を開いた。
「光ちゃんも、やっぱりかっこいい人なんですね?」
「はい、見た目は、きれいです。ね?」
答えた美代が悪戯っこの目で相槌を求めてくる。
この「見た目は」の強調が可笑しくて周太は笑ってしまった。
「ん、光一は本当に、きれいだね、」
「ね?もう、最近は特によ?でも最近は中身も、美人ぽくなったかな?」
愉しげに笑って美代が相槌を打ってくれる。
ふたりを見て青木樹医も快活な笑顔で尋ねた。
「随分と美形の方みたいですね。その方は最近、恋でもしたんですか?」
「その通りです、」
さらり明るく美代は答えた。
けれど光一の恋愛は所謂「普通」ではない、ちょっと話し難い事になる。
それでも美代は明瞭に口を開いた。
「光ちゃんは一番の友達に恋愛しています。ちょっと妬けるくらい純情で、きれいで羨ましいです、」
美代らしいストレートな言い方は、純粋な称賛が明るい。
その明るさに樹医はひとつ瞬いて率直に尋ねた。
「その友達は、男性ですか?」
「はい、」
真直ぐ答えて、きれいな明るい目は青木に微笑んだ。
美代の答えに、青木准教授はまたひとつ瞬いて、すこし考えるよう首傾げた。
とくん、
鼓動が心を叩く。
青木先生は、男性同士の恋愛をどう考えるのだろう?
そんな不安と緊張が首筋を熱くする、赤くなってくるのが自分で解かる。
…先生が、男同士の恋愛を、気持ち悪がったら…きっと、哀しくなるよね、
そんな想いが、食卓の下で掌を固く握り合わせる。
周太自身こそが男同士でも英二と婚約をしている、だから今、青木樹医の意見が気になってしまう。
こんなふうに不安と緊張を抱くほど自分はもう、この若い学者を尊敬し始めているから拒絶が怖い。
『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』
あの青い本に書いてくれた詞書、樹木の深い知識と記録と想いたちは、読むたび周太の心を響かせる。
青木樹医に初めて出会った冬から半年、会うのは交番での初対面から今日で6回目。この本を贈られて4ヶ月になる。
この一冊の専門書を自分は毎日、すこしでも読んできた。だから本を通して毎日、この樹医と会っている気がしてならない。
だから6回目でも想ってしまう、この先生からずっと学んでいけたら良いのに?そう願い始めている。
いつか自分は父がいた部署に異動するだろう。
いつも留守がちだった父の多忙を思うと、きっと通学の許可は難しい。それでも、なんとか無理をしても許可が欲しい。
それくらい自分は植物学の世界に希望と夢を見ている、この「今」に導いた青木樹医に学んでいたい。
父の殉職から記憶を失い、夢まで忘れた自分を植物学の世界に戻してくれた、この教師に学びたい。
父の軌跡を追う、その為だけに13年間を生きてしまった。
いつか父の軌跡に立つときは孤独になる、そう解っているから心鎖した、別離が辛いと知り過ぎたから。
母を支えること、父の想いと真実を探すために警察官になること、それだけが生きる目的だった。
目的以外のことは遮断され、切り落とされ、ひとつずつ父の記憶と共に消えていった。
そして忘れ果てた「自分」のこと。
自分が何を本当は好きで、どんな夢を見ていたのか?
自分が望んだ人生は何だったのか?本当な何になりたかったのか?
こんな迷子の自分は、伴侶と愛する英二のことすら「夢」に生きることを羨み妬み、その卑屈な想いに苦しんだ。
けれど青木樹医に贈られた一冊の本が、大きく自分の心を開かせ、植物学の夢を思い出させてくれた。
『樹木の生命―千年の星霜と年輪の軌跡―』
この運命の一冊と過ごした4ヶ月、どんなに自分は幸せだったろう?
この一冊が蘇えらせた夢を、父の死に一度は滅んで忘れた夢を、もう、二度と見失いたくはない。
ひとりの男として人間として、唯ひとつ見つけた夢と希望を失いたくない。
…やっと出会えたんだ、本物の植物の魔法使いに、樹医に…青木先生は俺の心にも魔法を懸けて、植物の夢を蘇らせたんだ
この樹医との出会いも、きっと運命の出会い。
だからこそ、この教師の意見が気になってしまう。
ほんとうに運命の教師で、ずっと長く学んでいくのなら、英二のことを話す日が来るだろうから。
なんて答えてくれるのだろう?不安と緊張に見つめた食卓の向こう、眼鏡の奥の目は穏やかな快活に微笑んだ。
「男同士の恋愛は、昔から日本にはありますからね?男女の恋愛よりも純情だと、聴いたことがあります」
いつもの知的で明快な笑顔は、実直な目をなごませている。
そして穏やかに明るい声はきちんと話してくれた。
「日本では昔から、男は戦場に行ったでしょう?そこでは命懸けの瞬間が日常です、だからお互いに強い絆がほしい。
男同士だから子供が出来ない分、絆は互いの心と体しかありません。それだけに命と誇りと、友情を懸けた、純粋で勁い恋愛になるんです。
そういう、ただ心の全てを懸けた恋愛は、まばゆいでしょうね?だから小嶌さんが言うように、光ちゃんが綺麗になったことは、とても納得です」
フラットな心が真直ぐ光一を、「男同士の恋愛」を見つめている。
こんなふうに話してもらえることは嬉しい、ほっと肩の力が抜けて心ほどかれていく。
食卓の下に組んだ掌もすこし緩められる、そんな隣から実直な目は「大丈夫よ?」と周太に微笑んで、美代は口を開いた。
「先生は、男同士の恋愛も認められると、おっしゃるんですね?」
「はい。私自身は経験がありませんが、自然なことかなとも考えます」
気さくに青木樹医は笑って、食べ終えた丼と箸をトレーに置いた。
そのまま食卓に肘をつき、長い指の掌を軽く組んで顎を載せると、准教授は口を開いた。
「歴史学で教鞭をとる友人と、この話を議論した事があります。そのとき思ったのは本能と、感情の対峙だということです。
子供が出来ない恋愛は、種の保存からすれば矛盾する感情でしょう?ですから、とても精神性が高い世界だとも言えます。
だから男同士の恋愛は高次元だと日本では考えられいたんです。ですが近代化の過程で、西洋のキリスト教的な考えが入ったでしょう?
それで日本でも、男同士はNGという風潮が生まれました。けれど、長崎など一部の地域には伝統の常識として残った、それぐらい馴染んでいる、」
こうした背景は周太自身、すこしWEBで読んだことがある。
あの初めての夜が明けて実家に帰ったとき、リビングのパソコンで調べてみたから。
あのとき自分と英二だけではないのだと知って、どこか安堵した自分がいた。それを今、尊敬する人が整理して話してくれる。
こういうのは素直に嬉しいな、そう見つめている前で知的な眼差しが微笑んだ。
「だから自然なこと、と私には思えたんです。むしろ近代化以降の、この百年が異端かもしれない、」
この百年が異端、その結論が自分には優しい。
ほっとする想いに周太は唇をひらいた。
「もし自分の身近なひとが、男同士で恋愛していたら。どんなふうに先生は接しますか?」
「普通でしょうね?ちょっと眩しく思うかな、」
さらり答えて青木樹医は微笑んだ。
そして眼鏡の奥で快活な瞳を温かに笑ませて、いつもの論理的トーンで話してくれた。
「植物学者の見解としては、同性の恋愛は、種の保存という意味では困った事でしょうね。
けれど、ひとりの個人としては賛成したいです。男女であれ同性であれ、一生懸命に誰かを想って大切に出来ることは、幸せですから。
さっき話した通り男同士の恋愛は、命と誇りと、心の全てを懸けた恋愛です。そんな打算の無い姿は、同じ男として眩しいと思うんです」
あくまでもフラットな青木樹医らしい見解が温かい。
やっぱりこの先生は好きだなと、また信頼と尊敬が穏やかに育っていく。
この信頼に、ほんとうは正直に自分のことも話せたら良いのにと、ひとつ希望が起きあがる。
けれど、このことは自分一人で勝手に決められる問題ではないことも、よく解っているから出来ない。
…関根に話すのだって、英二もお姉さんも、あんなに慎重だったから、ね、
あのとき関根に受け入れてもらえて本当にうれしかった。
だから、この尊敬する樹医にもいつか話すことが出来たらと、そっと心に望みが起きている。
いつかきちんと話すことが出来たら良いな?そう思えることだけでもう、幸せが嬉しい。
嬉しい想いに微笑んだ周太の隣で、美代も嬉しそうに笑った。
「女の私から見ても、まぶしいです。だって先生?光ちゃんは本当に綺麗で、まぶしいんです、」
言って、きれいな明るい目が「あなたもよ?」と周太に微笑んだ。
この眼差しの温もりに解ってしまう、きっと美代は周太の為に青木樹医に質問してくれた。
…光一のことを訊くことで、先生の考えを訊いてくれた。そうでしょう、美代さん?
きっとそうだろうな?
想いながら周太は、膳の上のものを食べ終えた。
みんな食事が済んで下膳すると、青木樹医と別れて美代とふたり駅に向かって歩き始めた。
新緑豊かなキャンパスを出ると、周太は隣を歩く美代に尋ねた。
「ね、美代さん?さっき先生に光一のこと話したの、俺の為でしょ?…先生が男同士のこと、どう考えるか訊いたの、って」
「うん、私も訊いてみたかったの、先生ならって思ったし。でも、ね?もしかして、嫌だった?」
心配そうに実直な眼差しが周太を見つめてくれる。
こんな気遣いも美代はストレートで、裏表ない所が周太を気楽にさせてくれる。嬉しい想いに周太は笑った。
「ううん、俺もね、いつか先生には訊いてみたと思う…ちょっと急で驚いたし、緊張はしたけど。でも、うれしかったよ?」
「ほんと?じゃあ、良かった。私も緊張したの、でも良い機会かな、って思って訊いちゃったの。だけど、勝手にごめんなさい、」
率直に謝って美代は、立ち止まると頭を下げてくれた。
そんなにしなくて良いのに?少し困って、でも周太は思いついて笑いかけた。
「謝らないでいいよ?それよりね、俺、母の日のプレゼントを先週は買えなかったんだ。今日こそ渡したいから、一緒に選んでくれる?」
本当は先週の講義の後で実家に帰る時、母に贈り物を買う予定だった。
けれど何が良いのか迷った挙句、結局は花束しかプレゼントできなかった。
だから今日は何かを見つけられたらいいな?そんな希望を思う周太に、美代は明るく笑ってくれた。
「あれ?そうだったの?もしかして、何にするか決まらなかったの?」
「ん、そうなんだ…だから美代さんと選んで貰ったら、決められると思ってね、今日は来たんだけど、」
「お安い御用よ?でも、一生懸命考えて選びます。いつも湯原くんには勉強教わってるし、お母さんにもお世話になってるから、ね?」
楽しそうに笑って頷いてくれる、この明るい綺麗な目の友達の実直な純粋さが嬉しい。
この実直な目と心が真直ぐ青木樹医に訊いて、今、周太のなかに信頼と温もりを贈ってくれた。
ほんとうに美代と友達になれて良かった、周太は感謝に微笑んだ。
ふるい木造門を開くと、ふわり橘の香が庭を廻った。
きっと咲いているかな?楽しみに門を閉めて、爽やかな香の源へと足を向けた。
歩いていく庭の木立から木洩陽ふりそそぎ、影絵を芝生に明滅させていく。あざやかな皐月の花に芍薬も咲き誇る。
名残の藤も薄紫の房をゆらせ風に花ふりこぼす、見上げた青空には針槐の白い花が緑とまばゆい。
初夏に華やぐ花々と陽光を歩いてゆく、そして大きな常緑の梢を周太は見上げ、きれいに笑った。
「今年も、咲いてくれたね?きれいだね…ありがとう、」
濃い鮮やかな緑の梢には、黄金の大きな実と純白の小花が輝いている。
陽射しに輝く夏蜜柑の木は、梢ひろやかな緑陰の芝生へ星の小花を散らし佇む。
静かな午後の初夏、橘の香は陽光に温められ豊麗に立ち昇っていく。
この香は懐かしい、大好きな香。この香をくれる白い小花も可愛らしくて好きだ。
この花が実らす黄金の実を、明日は大好きな人と一緒に摘み取って、家に伝わる菓子を一緒に作る。
…きっと楽しくて、すごく幸せだね?
嬉しい気持ちに夏みかんの幹に掌ふれて、それから周太は玄関の方へと歩き始めた。
芝生を横切って歩いていく、そのスーツの足元を白い花枝が撫でて、花がこぼれだす。
「…空木の花、」
白い花に、革靴の足が止まる。
この花に纏わる昨夜の思考と記憶が心に起きあがる、そして頭脳が動き出す。
『Le Fantome de l'Opera』
父の書斎に遺された、ふるい紺青色の表装の仏文学小説、ページが抜け落ちた本。
あの空白のページに隠されているのは、空木の花言葉に同じかもしれない?
「…秘密、」
ぽつり花言葉がひとりごと零れて、白い花にふれ落ちる。
きっと花言葉は英二の想いも映していると、この「秘密」の確信が昨夜のまま心に落ちる。
だから「ページが抜け落ちた本」に気付いたことを英二にも、決して言うことは出来ない。
まだ理由は解からない、なぜ英二が「ページが抜け落ちた本」を周太にも秘密にしたがるのか?
けれど秘密にするだけの理由があることも、それが周太の為だろうことも、信じられる。
…きっと俺を護るためだね、英二…知らないことが俺を護る、そうでしょう?
それでも自分は「秘密」を知らないままで済ませていいのだろうか?
だって『Le Fantome de l'Opera』の空白は、祖父と父の遺志が籠められている。
それを唯一の跡取りで長男である自分が「知らない」ままで居て良いの?
…英二が護ってくれることに、ただ甘えていることは…出来ない、俺には
きっと「知らない」ことが周太を護ることだと英二は判断をした、そのために「秘密」にしてくれている。
それが解かるから、自分は「知らない」で居ればいい、誰に対しても。
けれど、本当に知らないままでいることは、出来ない。
「…お母さん、まだ帰ってこないよね?」
いま左手首のクライマーウォッチは16時半。
今日は仕事から17時半に一旦帰ってきて、支度をしてから友人と温泉に行くと言っていた。
だからあと1時間は時間がある、独りきり書斎に籠れる時間がある。
「…ん、」
小さく頷いて周太は玄関へと歩き出した。
玄関の扉を開き、真直ぐ台所に向かってエコバッグの中身を冷蔵庫に入れる。
それから洗面室で手洗いうがいを済ませて2階に上がり、自室に入ると鞄と紙袋を置き、ジャケットを脱いだ。
そしてデスクの近くにある本棚から紺青色の本を取出して、そのまま隣の書斎に入った。
「…あ、」
書斎机の花瓶に、白い花が揺れている。
さっき庭に咲いていた空木、その空洞の枝に「秘密」をこめて、この部屋にも純白に咲く。
なんだか花に隠喩されているみたい?けれど隠喩の花はこの庭に育った花、だから思う、庭を愛した人たちの遺志を花は伝えている?
「…お父さんも、お祖父さんも、俺に探してほしい?」
そっと花に笑いかけて、周太は書棚の前に立った。
壁一面に作られた重厚な書棚には端正に本が並ぶ、その背表紙はフランス語表記が9割。
そのなかの紺青色の一冊に周太は手を伸ばし、掴んだ。
…軽い、
いま掌に掴んだ本は、軽い。もう片方の掌に持つ本と重みが全く違う。
この書斎に遺された紺青色の一冊は、大きくページが抜け落ちている為に本来の重みが消えている。
この重みの違いに「ページが抜け落ちた」秘密の重さを想ってしまう、これを知る覚悟が静かに目を醒ます。
覚悟と見つめる2冊を書斎机に据えながら、静かに周太は父達の椅子に腰かけた。
2冊の『Le Fantome de l'Opera』古い本と自分の本。
いま目の前にある2冊には、恋愛に交錯する謎を描いたミステリー小説が、フランス語で綴られている。
そのミステリーにきっと祖父と父の軌跡が重なる部分がある、それを「秘密」にするためページは切り落とされた。
だから、古い本のページが抜け落ちた「空白」を読み返し、残されたページとの差異を考えれば「遺志」が浮かび上がるはず。
きっと、古い本のページが抜け落ちた「空白」に、祖父と父の遺志が隠されている。
そんな考えの許、紺青色の本を2冊とも開く。
古い本の落丁ページを確認する、それを自分の本と照合し、落丁の始まりと終わりのページに栞を挟んだ。
古い本に遺されているのは、最初と最後のシーンだけ。
この部分には出てこない、けれど本編には出てくる内容や人物に「遺志」がある?
…最初と最後に出てくるのは、歌姫と幼馴染の恋人…ふたりの再会と、その後、
そっと自分の本を閉じる、その手元に白い花がひとつ降りかかる。
降りこぼれた花を掌に載せて、花翳の写真立てに周太は微笑んだ。
「…お父さん?これは『秘密』なんだよって、言いたい?…大丈夫、俺は何も知らないから…秘密は守られるよ?」
これは「周太が知る」ことすら秘密。
この本のことに気付いたと、英二にも知られてはならない、永遠の秘密にすること。
この責任と義務を自分が背負うことも「秘密」のなかに隠せばいい、きっと自分が「知る」ことは誰にも危険だから。
けれど知らないでは済ませられない、だって自分は唯一人だから。
「お父さんと、お祖父さんの血を引くのは、俺だけだね?…だから、俺は知らないといけない、そうでしょう?」
笑いかけた白い花の下の写真立てで、きれいな笑顔で父は佇んでいる。
若々しいけれど寂しげで綺麗な笑顔、この笑顔が自分は大好きで、一緒にいられる時間は宝物だった。
いつも穏かで優しかった父の声、きれいなキングス・イングリッシュで大好きな『Wordsworth』を読んでくれた。
あの流暢な発音と声は、今も耳の記憶に遺されている。
「この花、押花にするね?」
想い微笑んで、抽斗を開くとインクの吸いとり紙を1枚出した。
そっと掌の花を薄い紙に載せると、丁寧に紙を半折に重ねて花を挟み、自分の本に綴じこんだ。
そして古い本を手に、周太は席を立ちあがった。
明るい窓際に立ち、ページの抜け落ちた部分を陽射しに開く。
遅い午後でも明るい初夏の光は、紙と糸が織りなす形状を鮮やかに晒してしまう。
照らし出される背表紙の内側を凝視する、そして見出した真相は言葉にこぼれた。
「…刃物の、痕跡…」
糸と糊で綴じられていた部分は、鋭利な切断面が遺る。
ページを意図的に落丁させた、その痕跡が眼の底に鮮やいだ。
「ね、お父さん?これ…おじいさんの本なのでしょう?それを切り落としたなんて、よほどの理由があるね?」
これを切り落としたのは、父。
この確信が切断面から解ってしまう、だって、こんな切断面を幼い頃に見たことがある。
これはきっと、あの刃物で切られている。この確信に周太は写真立てに振り向いた。
「トラベルナイフで、切ったでしょう?お父さん、」
山や川でキャンプをしたとき、焚付に使う古雑誌を父は切った。
いつも背表紙の糸綴じをトラベルナイフで切断して、器用に雑誌をばらしていた。
あのときと同じように父がこの本も切断した、それが目の前の切断面から解ってしまう。
父のトラベルナイフは自分が受継ぎ、英二と山で過ごす時に自分で使っている、だから切断面の癖も解かる。
抜け落ちたページに隠された「秘密」の存在。今まで、ずっと気付かなかった。
けれど今なら解る。トラベルナイフの癖と、英二が事例を隠した態度から、解かってしまった。
『遺体の傍に、文庫本が落ちていたんだ。その本は普通の状態だった』
木曜日の事例研究で、英二は嘘を吐いた。
けれど金曜日、藤岡との会話に事例の真実と「ページが抜け落ちた本」のメッセージを知った。
―…あの本ってページがごっそり抜けていただろ?たぶん本人が切り落としたんだけどさ、
その動機がドッチの意味か…脱け出したくて切り落としたのか…未練があるから切り落とした
父がページを切り落とした「動機」は、どちらの意味?
この空白のページに隠された「秘密」から、脱け出したかった?未練があった?
この「秘密」はきっと父と祖父の軌跡が隠されている、それを知ることは危険と秘匿の道だろう。
この危険も秘匿も重い、それを英二は解かっている、きっと英二は父達の軌跡をもう知っている。
だから英二は「ページが抜け落ちた本」のことを隠した、周太に悟られないために。
…ね、英二?俺の肩代わりをする気でしょう?…嫌いな嘘を吐いても、俺を護ろうとしてるね
こんなに英二は、自分を護ろうとしてくれる。
だからこそ、英二だけに背負わせて自分は何も知らないなんて、出来ない。
これは本来なら自分が背負うべき苦しみ、それを愛するひとに背負わせて、知らないでいるなんて出来ない。
自分こそ、愛するひとを護りたいから。
…英二、お願い…幸せに笑っていてほしいんだ、俺がどうなっても、何があっても
ずっと13年間を孤独の底に沈んだ自分を、救ったのは英二。
唯ひとり恋愛で想っている、唯ひとり体も許して、素肌ふれあい想いを確かめた最愛のひと。
ふたり過ごした時間は全てが幸せで、傷みも涙も全てが幸せだった、この幸せに自分は笑顔を取り戻せた。
もう諦めていた夢も、暗がりでも希望を見出す術も、全てを与えてくれた。
だから何があっても、護りたい。
あなたを護りたい。
この願いの為に本当は、なんども離れようとした、別れようとした、忘れて嫌いになりたかった。
それでも離れられなくて別れられなくて、どんなに嫌いになったと想いこもうとしても、出来なかった。
だから覚悟した、何があっても自分がこの人を護りぬこうと決めた。
その為に自分が泣くことになっても構わない、英二が笑ってくれるならそれでいい。
だから光一に英二の傍にいて欲しいと願ってしまう。
幼い日から光一は、ずっと周太を一途に想い続け救ってくれる。
そんな光一なら英二を任せられる、そう信じているから。
こういうのは本当は寂しい、けれど英二の笑顔を護れるのなら、寂しさがなんだというの?
そして解かっている、英二も周太を同じように想ってくれていると知っている。
だからこそ尚更に護りたい、自分よりも大切な人だから。
…ね、英二?あなたも、同じように想ってくれてるね?…幸せだよ、でも、ね?
最愛の婚約者の想いの真実と、自分の運命の交錯が、この本に見えてしまう。
それと同時に父達の軌跡がなぜ秘密にされるのか?その重たさも解かってしまう。
愛する人々を廻る想いと真実の交錯が、この本の「空白」に運命の顔をして隠れている。
『Le Fantome de l'Opera』
紺青色の表装の、フランス語のページが抜け落ちた、この運命の一冊に。
(to be continued)
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