萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第48話 薫衣act.5―side story「陽はまた昇る」

2012-07-03 23:48:42 | 陽はまた昇るside story
時の記憶、馨、そして鎮魂の歌を



第48話 薫衣act.5―side story「陽はまた昇る」

ブナの梢ふる木洩陽が、倒木の苔にゆれている。
払暁に降りた露が山を息付かせ、あわい靄がながれて山裾に下っていく。
山岳救助隊服の膝に手を組んで、ゆっくり見あげた梢から生まれたばかりの光が照えた。
光に制帽の蔭から目を透かし、英二は微笑んだ。

「明るいな、山の朝は、」
「うん、」

いつもの農業青年スタイルが隣で笑ってくれる。
光あざやかな緑陰に白い手はページを開き、そこに綴られるフランス語を暁の光に顕わした。

『 La chronique de la maison 』

周太の祖父、湯原晉博士が書き遺した「記録」小説。
その舞台はパリ郊外、ある「家」の惨劇が隠されていく過程と背景が描かれる。
なぜ「家」に惨劇が起き、なぜ隠匿されていったのか?その全てを記すページを前に光一は口を開いた。

「先週も言った通り、第四章には50年前の事件に対する心情がメインだ。で、この心理描写のとこにヒントが詰め込まれているね、」
「心理描写に、ヒント?」

どういうことだろう?
そう見つめた英二に光一は教えてくれた。

「この第一章は事件自体の記録、第二章は事件の処理についての記録がメインだろ?この2つの章が事件の顛末記録だよね。
この2つに絡まる主人公の心理状態を、第四章では回顧録みたいに書いている。で、事件関係者への心情も描かれているんだよね」

回顧録、事件関係者への心情。
この2つの言葉に英二は納得して微笑んだ。

「そこに例の警察官と、事件の犯人についても書かれているんだ?」
「そ、犯人のことはね、犯行の動機について書きながら、気持を書いている」

短い返事に小さく笑い、頷いてくれる。
そして透明なテノールは「記録」を話し始めた。

「まず犯人だけど、殺された父親の部下だった男なんだ。この男は退役軍人でね、戦後に職を失って困っていた。
それを援けられて就職したんだけどさ、軍人だろ?そこは技術が必要な会社だったから、男は仕事に付いていけなかった。
で、結局は解雇されちゃった。だけど男は自分の力不足を認められない、軍人のプライドが邪魔してね。そして逆恨みの犯行に及んだ、」

ほっと溜息に言葉が途切れる。
こぼれた吐息の香を感じながら、英二は確認をした。

「退役軍人だから、男は拳銃を持っていたってことか、」
「そういうこと。だから曾じいさんを撃った銃と、じいさんが持っている銃は、同じタイプだったろうね、」

低くテノールが答えて、細い目が静かに微笑んだ。
見つめてくれる静かな哀惜に英二も微笑んで、穏やかに口を開いた。

「だから…事件の偽装がしやすかったんだ?同じタイプの銃を使ったら、当然、銃創も弾痕も差が少ないもんな。
今の鑑識技術なら弾道とか、銃創の火傷の痕とか、いろんな点から不自然が解かるけど…でも、50年前だったら一見は解からない」

1962年、川崎の古い住宅街を、銃声に似た2発の破裂音が響いた。
通報を受けた川崎警察署は界隈を巡回、ちょうど知人宅に訪問中だった警視庁所属の警察官も捜査に加わった。
そして住宅街にある雑木林から、男性の遺体が発見された。男性は無職50代、こめかみに銃創があり拳銃を手にしていた。
銃弾は脳を貫通したらしく左から右へと抜けた弾痕がみられ、銃弾は雑木林に落ちていた。
この持っていた拳銃と弾丸は、元軍人だった本人が隠し持っていた物だった。
生活苦による退役軍人の拳銃自殺、それが行政検死の結論だった。

これが新聞記事に残された事件の記録。
この事件当日は周太の曽祖父、湯原敦の誕生日当日だった。
この日に敦は殺害された「生活苦による退役軍人の拳銃自殺」の事件とほぼ同時刻に。
そして、敦の死の記録は「心不全」として、新聞記事にも過去帳にも残されている。

1962年、今から半世紀前。
半世紀50年、この時の経過は今と「原点」を隔てる。
この50年の間に科学は法医学は、どれだけ進歩しただろう?そんな現実の経緯に光一も頷いてくれた。

「そういうことだね。しかもさ、例の警察官は鑑識が得意だ、って書いてあるんだよね。そいつが行政見分してるわけだから、ね?」

もう言わなくても解かるよね?
そんなふうに明るい目は微笑んでいる、その眼差の信頼に英二は小さく笑いかけた。

「警視庁のキャリアが判断した、それで現場の誰もが思考をストップさせた、ってことか、」
「その通りだね。こうして片方の殺人事件は、自殺認定されちゃったってワケ。もう片方もまあ、似たり寄ったりだよね、」

組織の現実、人間の弱さ。
これらが2つの事件を歪め、法治国家と利己の陥穽に堕ちていく。
そんな経緯がもう垣間見えて苦い、苦み広がる想いの隣からテノールも皮肉に嗤った。

「小さな人間が長いものに巻かれるのはさ、時代が変わっても変わらないね?」

警察組織の『キャリア』
それは警察社会の上層部に昇ることが保障された、警察庁所属の国家公務員たち。

彼らは全国の警察署へと配属されて経験を積み、警察の重要ポストに就任する。
いつか将来には自分たちの上司になる、そんな相手に対して異議を立てることは勇気がいるだろう。
こんな苦い納得を噛んだ隣で、ぱらり風がめくるページを白い手は止め、ひとつの言葉を指し示した。

「ここ、『bootlicking』ってあるだろ?『へつらう』って意味だよ。きっと同じように思ったんだろね、周太のじいさんも、」
「そっか…、」

『bootlicking』この言葉を綴った晉の胸中は、どんなふうだったろう?
そんな想いに吐息こぼれた隣で、光一が提案してくれた。

「ここ、ちょっと読んでみるね?」

提案しながら底抜けに明るい目は、寂しげな哀惜に笑んだ。
そしてフランス語に綴られる想いを、透明なテノールの声は晉の母国語で読み上げた。

「人間のへつらう心が、私の罪を覆い隠してくれた。それは屈辱、けれど父の名誉を守るために、私は屈辱に跪いた。
あのときは、それしか選択肢が無いと思った。まだ幼い息子、若い妻、そして深窓の令嬢として育った母。この愛する家族を守りたかった。
すべてが家族への愛だった、けれど、どんなに美しい理由だとしても、殺人を犯すことが人に赦されるのか?この問に、私の答えはない。
なぜなら事件よりも前に、私は多くの人をSomnusの許へと送りこんでいるのだから。歪められた正義と忌まわしい名前の許、拳銃を操って、」

『歪められた正義と忌まわしい名前』

この一文が心を刺した。
この一文が自分達の推測を「現実」だと告げてくる。
もしこの『名前』が推測の通りなら、昨夜もすこし読んだ日記帳の先が見えてしまう。

「この『Somnus』はね、ローマ神話の眠りを司る神だよ。永遠の眠りをね、」

静かなテノールが言葉の意味を告げる。
「永遠の眠りに送りこむ」この意味に、推測がまた現実の澹へ浮かんでしまう。
馨が遺した20年間の想いが、どんな絶望に堕ちこんでいくのかが、今もう心を刺してくる。
もう推測に覚悟も見つめて来たこと、それでも傷む隣で静かなテノールは翻訳を続けた。

「私はもう1つの名前を埋葬した、私の拳銃と共に。けれど、この眠りを妨げようとする者が存在することを、私は知っている。
その存在こそをSomnusの許へ送ってしまえたら?そんな願いに罪を重ねそうな自分がいる、これが私の本性なのか、血統なのか?
もう1人の過去の私を蘇らせようとする、私の学友で戦友の男。あの男はきっと、私の原罪を悦んで、私の子孫に及ぼそうとしていく。
私の原罪が作りだした鎖、硝煙と血に纏わりつかれる香、死の眠りに誘う名前。この束縛を私は、断ち切ることが出来るだろうか?
どうか私の血に連なる者よ、この束縛を越えてほしい。連鎖を絶ち、自分の人生を探し、明るい光に生きる君を、私は祈り続けている」

言葉は終わり、山風がブナの森を馳せぬけた。
風がめくるページを白い手は押え、繊細な指先は4つの単語を順に示した。

Un autre nom、
Mon pistolet、
Lignée、
Le péché original

「もう1つの名前、私の拳銃、血統。それから、原罪」

この4つの言葉が意味するものが、哀しい。
この言葉に繋がれている俤が恋しくて、熱が瞳にのぼり視界がゆっくり滲みだす。
滲んだ瞳の先に4つの単語を見つめる、そして伝わる晉の想いに英二は微笑んだ。

「これは、警告なんだな…自分の息子と、その子供への。息子はフランス語が読めるから、」

哀しい警告を遺さざるを得なかった、晉の想い。
この記録を遺した「事実」に鬩ぎあうのは、誇りと屈辱、家族への愛、父の名誉、そして「原罪」
ひとつの心の鬩ぎあいが生み出したフランス語の文章は、贖罪と警告と、愛情に充ちている。
これを書き遺した晉の祈りが響いていく心に、透明なテノールが考えを告げた。

「だからフランス語で書いたんだろうね。それも限定出版だ、これなら仏文に興味がある人間しか、まず読まないよね。
それに大学の記念出版で小説だから『記録』を書いたなんて、普通は考えない。でも、もし束縛に直面したら、本人だけは気づける、」

テノールが告げる、32年前に書かれた『記録』の意図。
きっとそう意味だろうと頷けてしまう、哀惜と現実の重みが今に重なっていく。
重ねられる時の記憶に佇んだブナ林を風ゆらす、風めくるページを白い指は再び指し示した。

『Un autre nom』

「この『もう1つの名前』がなにか、ってさ?もう解ってるよね、俺たち、」

“私はもう1つの名前を埋葬した、私の拳銃と共に”
“私の原罪が作りだした鎖、硝煙と血に纏わりつかれる香、死の眠りに誘う名前”

この2つの文章が自分の推測を裏付けてくれる、そんな確信に英二は隣を見た。
見つめる隣、新緑の風に黒髪なびかせながら、光一は黙って微笑んでくれる。
微笑と見つめ返す無垢の瞳に、救助隊制帽の蔭から笑いかけて英二は答えた。

「うん、『Fantome』だな、」

最初の『Fantome』は、晉。

それが現実だと、馨の日記も晉の記録も、告げている。
そして遠野教官も見てしまったファイルの名前も、告げてくる。
もう、目を逸らせない、誤魔化しも出来ない。それが現実なのだと言うのなら、受けとめるしかない。
そんな覚悟を見つめながら英二は、白い手が持つ本のページを捲った。そして想ったとおりの単語を見つけて、ちいさく微笑んだ。

「このUn prologue、序章にヒントがあるよな?ここ『Un nom comme le tireur』って書いてある。これって、狙撃手の名前、とかだろ?」
「うん、そうだね。『tireur』が銃撃者、って意味なんだ、」

問いかけに、ゆっくり光一は頷いた。
そして前後の文章を翻訳してくれた。

「従軍した私は、狙撃手としての名前を付けられた。それは『幻影のような存在』を意味する、私が愛する言語の名前だった、」

晉は学生射撃の名手として狙撃手に指名され、フランス文学者だったことから、フランス語のコードネームを付けられた。
そして『Fantome』は生まれた、「天才狙撃手」を意味するコードネームとして。
この経緯を現す一文に英二は哀しみと微笑んだ。

「あの戦争のとき、敵性語とか言って英語とか、避けていたんだよな?でも、あえてフランス語名なんだな、フランス文学者だから、」
「暗号として使われるならね、外国語の方が通信傍受されたとき、却って解かり難かったかも。それにしても、ね?」

言葉を切って光一は、すこし首を傾げこんだ。
そして寂しげに細い目は笑んで、透明なテノールが言った。

「幻影のような存在『Fantome』だなんてね、『Le Fantome de l'Opera』の怪人そのまんま、だよね?」

狙撃手は相手から捕捉できない場所から狙撃する、幻影のような存在。
それはフランス文学の名著『Le Fantome de l'Opera』で現れる怪人とよく似ている。
この幻影を自分は抱いている、この想いに救助隊服の胸元ふれて、英二は哀惜に微笑んだ。

「そうだな、狙撃手は幻みたいだな?…視た瞬間にはもう、命は奪われて見えなくなるんだから、」

指先ふれる合鍵の輪郭に、50年の束縛がなぞられる。
この束縛を眠らすことを晉は、どれだけ祈っただろう、願っていただろう?
この祈りの為に晉は「もう1つの名前を埋葬した、私の拳銃と共に」地中深い秘匿に埋めて『Fantome』の事跡を消そうとした。
けれど晉の願いと裏腹に、この秘匿がファイル『Fantome』を生み出した。

「ファイル名『Fantome』にはさ、『S.Y』と『F.K』の資料が保管されていたけど。もう、あの『F.K』の意味、解かるよね?」

テノールの声が傷ましい想いに訊いてくる。
やっぱり同じように光一も考えている、そんな想いと英二は頷いた。

「うん、Fは『Fantome』、Kは『馨』だろうな、」

コードネーム『Fantome』の鎖が馨に繋がれてしまった、晉の願い叶わずに。
この過去の現実に、なぜ晉が息子の射撃部入部を反対したのか解かってしまう。
この皮肉な運命の廻り記すページを、英二は長い指先に広げた。

「この第一章のとこ…自首したら、正当防衛も認められたよな、」

ため息の先に映るページには、晉が犯した罪が記されている。
その罪をフランス語の綴りに見つめて、透明なテノールが言葉に変えた。

「一発の銃声に、私は抽斗を開いて拳銃を掴んだ。そして窓から見た光景は、東屋に倒れ込んでいく父の姿。
スローモーションのように、男が父の胸元から銃を離す。その男を私は狙撃した、書斎の窓から頭に狙いを定めて…トリガーを弾いた、」

即死だった。

終戦を迎え『Fantome』は、元のフランス文学者に戻った。
それなのに、戦後17年を経た日、ただ一発の銃弾に『Fantome』は甦ってしまった。
戦時中は軍人としての任務のなか狙撃をしたから合法、けれど戦後に晉は民間人として狙撃をしてしまった。
その罪の証拠のように、家の東屋の柱には黒い染みが遺されている。

「あの柱のトコ、削って持ち帰ったヤツ。俺、預っていたよね?」

透明なテノールが英二の考えを見つめるよう訊いてくれる。
視線だけで頷くと、細い目が寂しげに微笑んだ。

「あれ、ちょっと考えた試薬で試した。やっぱり血液だと思うね、それで柱の上部と下とで、血の種類が違うみたい。
SNPs鑑定なら断定できるけど、そこまでは出来ないからね。あくまで推測になっちゃうんだけどさ、人間の血液ではあると思う、」

50年前、あの家の東屋で流された2種類の血液。
晉が犯した罪の証拠が50年を経た今、こうして明かされていく。
それは父親を殺された怒りからだった、それでも罪は罪、違法行為であることは否めない。
けれどもし自首が出来ていたなら、正当防衛も認められたかもしれないのに?

―それでも、出来なかったんだ…自分のお父さんの為に、

“けれど父の名誉を守るために、私は屈辱に跪いた。あのときは、それしか選択肢が無いと思った…愛する家族を守りたかった”

晉が抱え込んだ闇の昏さと重さが、哀しい。
そして馨もきっと、父親と同じ理由で『Fantome』を選ばされた。
そんな哀しい推測が出来てしまう。

“もう1人の過去の私を蘇らせようとする、私の学友で戦友の男。あの男はきっと、私の原罪を悦んで、私の子孫に及ぼそうとしていく”

50年前に生まれた重たい闇、それを利用した「あの男」の影がさす。
絡みつく闇に惹きこまれいく馨の傷み、その17年間が紺青色の日記帳に綴られる。
この「読む」作業は決して楽ではない、綴られる運命が行きつく涯を既に知っている自分達には。
それは晉の記録も同じこと、これを最初に独り読んだ光一の想いが、自分にも解る。

「ありがとう、光一。実験も翻訳も、助かったよ。ごめんな、」

隣に英二は綺麗に笑いかけた。
笑いかけた先、すこし首傾げこんだ無垢な笑顔が笑って訊いてくれた。

「謝ることなんかない、って言ったよね?俺はやりたいからやってる、それだけ、」

底抜けに明るい目が温かい、この眼差しは最高峰ですら自分を温めてくれる。
こんなふうに自分を受けとめてくれる、この大らかな優しさが愛しい。
そんな想い素直に英二は口を開いた。

「さっきも言ったけど。光一に俺、謝りたいんだ、」

告げた言葉に透明な瞳が、すこし大きくなった。



(to be continued)

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