萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第49話 夏閑act.2―side story「陽はまた昇る」

2012-07-07 23:48:24 | 陽はまた昇るside story
閑寂、時の狭間



第49話 夏閑act.2―side story「陽はまた昇る」

金曜日の夕方、下り列車は空いていた。
みんな逆方向に都心へ向かうか、最寄で週末前のひと時を過ごすのだろう。
お蔭で思ったよりは混雑に巻きこまれずに、河辺駅へと英二は降り立った。

「…空気、違うな、」

ほっと息吐いたプラットフォーム、黄昏が透けるまま染めていく。
見上げる空は透明に眩い、空も太陽もここは違う、同じ「東京」けれど大気の色彩が違っている。
こんなふうに都内でも場所によって異なることを、1年前の自分は知らなかった。

この一年で、自分はどれだけ多くに出会い、知ったのだろう?
山、空のいろ、人の生と死の姿、警察組織の現実、そして自分の道。
どれもが今の自分を作りあげた全て、この全てに出会えた原点は唯ひとりの人だった。

―周太、もう君が恋しいよ?

ほんの1時間前まで一緒にいた、ここより少し昏い空の下で一緒に笑っていた。
それなのにもう、逢いたい。

どうして自分は、こんなに求めてしまう?

ずっと考え続けてきたこと、けれど答えなんて解からない。
ただ恋に墜ちて愛してしまった、それが自分の全てになってしまっただけ。
だから自分の全てを懸けることも、ごく自然に想えて今、ここにいる。

これから青梅署寮の自室で馨の日記を読みたい、すこし気になる事がある。
それから光一に頼んでおいた「調べごと」の結果を訊いて、考えをまとめたい。
明日の朝になったら吉村医師の手伝いをして、いくつか質問もしたい。
そのあと御岳駐在所のパソコンで、光一と探りたいことがある。

―俺は、間に合うのだろうか?

ふっと心よぎる不安が翳を挿す。
もう初任総合は3週間が終わった、本配属まで時間は1ヶ月と2週間。
それから周太の異動まで、一体どれだけ時間が残されているのだろう?

そして自分は、どこまで周太のトレースについていける?

はたり、

涙が、プラットフォームに墜ちた。
コンクリート零れた黒い染みに、一滴、また一滴、涙が墜ちていく。
これは自分の涙?そう気づいた途端に嗚咽が咽喉を突きあげた。

「…っぐ、」

本当は今、毎日が泣きたい。

周太の隣で過ごす日々は幸せで、けれど幸せな一瞬が訪れるたび「異動」が近づく。
たとえ周太が異動しても行ける異動先までは必ず付いていく、少しでも離れたくない。
それでも一度は、一定の期間は、必ず引き離されてしまう時がやってくる。

その瞬間までに自分は出来る限りの手駒を揃えたい、離される間も周太を護ることが出来るように。
どんなに引き離されても「離れていても必ず守る」と約束した通り、自分は周太を護りぬく。
そう何度も覚悟して、けれど本当は不安で泣きたくて、それでも涙呑みこんでいる。

『異動』その行先は何所へ?

たった二文字に不安と焦燥が胸を灼く、今が幸せな分だけ怖くなる。
いま毎日が、周太の隣が幸せであるほどに、失う恐怖が募りゆく。

もう本当に、攫ってしまえたらいいのに?

「…っ、ぅ…」

叶えてはいけない望みに、涙、止まらない。

ほら、こんなに自分は泣き虫で、本当は弱い。
今の自分は立場も力も幾らか手にし、初任総合を通して同期にも一目置かれだした。
そして警察組織の謎と秘密すらも必要の半分くらいは掴めている、人脈も順調に築けているだろう。
そんな自分を誰もが「強い」と思っている、頼もしいとストイックだと今は賞賛すらされる。
けれど本当は、唯ひとりの人を失うことが怖くて、こんな場所ですら泣いている。

「…っ…ぐ…」

泣き止まないと、寮に帰られない。
こんな姿を誰にも見せられない、泣く理由を知られたくないから。
どうして周太を失う危険があるのか?その理由は秘密でなくては護れない、だからこのまま帰れない。
止まない涙に顔を上げる、その先にベンチが見える。

すこし、座っていこう。
涙が治まるまで、ここに居ればいい。
そんな想いと一緒に英二は、プラットフォームの片隅に座りこんだ。

『ベンチ』

新宿にある奥多摩の森で、いつも周太と座っていたベンチ。
それから川崎の家に映される奥多摩の森に、馨が遺したベンチの陽だまりで周太と寛いで。
そして今、奥多摩の駅にあるベンチに自分は独り、黄昏のなか座りこんでいる。

“いつ「異動」の瞬間が来る?”

このフレーズが頭を廻って、消えない。
あの新宿のベンチに、川崎のベンチに、独り座ることが永遠になったら?
そんな考えたくない痛みが勝手に頭を廻ってしまって、刻まれた心の血が涙に変わる。
消えない傷みに堪えていた涙が押し出されていく、こんなに自分が泣くなんて想わなかった。

いつから自分はこんなに弱い?
どうして恋愛は人を強くする分だけ弱くするのだろう?
どうしてこんなにも独りになることが恐怖になって心脅かす?

「…周太、俺を置いて行かないで…」

願いが呟きになって涙と零れ落ちる。
座りこんで見つめるスーツの膝に、涙の痕が浸食して止まらない。
この涙はきっと尽きることが無い、きっと「いつか」周太を幸せに攫う日まで終わらない。
いったい自分はこの先、何度こうして泣くのだろう?

「…っぅ、」

こぼれだす嗚咽に片膝を抱えて、腕の翳に顔を隠す。
こんなに弱い自分は「異動」の瞬間を、どんな想いで迎えることになるだろう?
いつ訪れるか解らない瞬間が怖い、こんなふうに「明日」が怖いと思ったことは無かった。

「…でも、明日は…君の隣で眠れるから…帰れるから…」

『明日は帰る』

そう言って、1時間とすこし前に笑顔で別れた。
あの言葉が今はある、婚約という名の将来の約束もある、それでも涙は止まない。
あの言葉通りに明日は帰って、そのまま攫って遠くに行けたら良いのに?

けれどそれは出来ない「50年の束縛」は逃げても終わらない。
この「50年の束縛」を周太は知らなくても解かっている、だから父の軌跡を追う道を選んだ。
そして信じるままに潔く立ち、昏い道にも真直ぐ希望を見つめて、父の想いを拾い集めようとしている。
失われたパズルのピースを探すように、父の想いというパズルを解くため、父と同じ束縛の道を周太は自ら選んだ。

―周太、どうしてそんなに潔い?…そんな君が好きだよ、でも…君自身で見つけなかったら意味が無い、そう解るけれど、でも

男としての誇り、唯ひとり父の息子である矜持。
どこまでも誇り高い男として周太は警察官の道を選んだ、誇りの為に幼い日から独り泣いてきた。
どんなに泣いても逃げないで周太はここまで来た、そんな努力と誇りの道を曲げることなんか出来やしない。
本当は草花を樹木を慈しむ掌、それなのに、本当は嫌いな拳銃を握りしめても真直ぐ父の想いを見つめている。
こんなにも真直ぐ誇りに佇む人を、どうして止めることが出来る?

―止められないって解ってる、でも、どうして?

どうして自分が愛するひとは、こんな運命にいるのだろう?

どうして自分はもっと賢明じゃない?
もっと力があったなら、もっと運命は違うかも知れないのに?
愛するひとの運命を、もっと危険に晒さずに済むかもしれないのに?
こんなふうに「明日」に怯えて泣く自分が悔しい、どうしたら自分は愛するひとを一瞬でも早く救えるだろう?
どうしたら自分は必ず間に合って、救うことが出来る?

「…っん…ぅ、」

涙、止まらない。
俯いて腕と膝に埋めたままの頭に、黄昏が強く照りつける。
その光が足元を黄金に染めていくのが、俯けた瞳にも膝の向うに見える。
アナウンスと喧騒が降りるプラットフォーム、固いコンクリートすら透明な光染まって黄昏まばゆい。
こぼれていく涙の染みをも照らしだす光のいろに、ふっと英二は微笑んだ。

「…きれいだ、」

ここは透明な光ふる場所、緑薫らす山風が吹きよせる時間。
この奥多摩の透明な光のなかに、愛するひとを永遠に攫ってしまいたい。
愛する山の世界に今すぐ連れ去って、この腕のなかに隠せてしまえたら良いのに?

―でも、出来ない…

心こぼれた想いに、涙が墜ちた。

努力だけでは曲げられない、それが運命なのかもしれない。
けれど諦めることなんか出来る訳が無い、こんな自分は諦めが悪くて欲しいものは掴んで離さない。
それでも、この願いだけは、恋し愛する人のことだけは、どんなに掴んでも一度は離されると解かっている。
運命の顔をした「50年の束縛」が無理矢理に掌を押し開いて、愛するひとを一度は攫って行ってしまう。
この願いだけが欲しくて叶えたくて、自分はここに居るのに?

「なに、やってんのさ?」

不意に、透明なテノールが頭上で笑った。

「こんなとこで立ち止まってんじゃないよ、ほら、行くよ?」

ふわり花のような香が頬撫でて、泣いている腕がやわらかに掴まれる。
そのまま引き上げられ立ち上がる、その隣から底抜けに明るい目が笑ってのぞきこんだ。

「泣いてるとこも別嬪だね、俺のアンザイレンパートナーはさ?眼福だよ、ア・ダ・ム、」
「…光一、」

呼びかけた名前に、制服姿のままの光一が笑ってくれる。
掴まれた腕を引っ張られて階段を昇る、そして洗面室に連れこんで白い手は蛇口の栓を開いた。

「ほら、顔、洗って?そのまんまじゃ、帰れないだろ?」
「うん、」

素直に頷いた英二に微笑んで、白い手を伸ばすと鞄を預ってくれる。
気遣いに感謝しながら英二は、ざぶり顔を水で洗った。
顔ふれていく冷たさに「帰ってきた」と実感ふれる、府中もこんなには水が冷たくは無い。
掌と顔に流れる涙と冷水、皮膚の細胞から冷たく引き締められる、心に冷静が戻りだす。

―泣いている暇なんか、無い

クリアになった心が笑って、英二は蛇口を閉じた。
ざあっと水が閉じられて、雫が顔から洗面ボウルに滴り落ちる。
いま見つめる雫にはもう、涙はない。

「はい、」

白い手が綺麗なハンカチを差し出してくれる。
端正な折目に微笑んで、英二は素直に受け取った。

「ありがとう、」

きちんと顔を拭って、視線を上げる。
そして見た鏡の中から、真直ぐな赤い目が見つめ返していた。
哀しむよう怒るよう赤い目、けれど瞳の冷静は穏やかに勁い。
これなら大丈夫、ふっと微笑んだ英二に透明なテノールが笑ってくれた。

「よし、落着いたね?じゃ、帰るよ、」

隣から笑いかけながら、白い手がハンカチを取ってくれた。
振向いた先、底抜けに明るい目は温かに笑んで、改札へと歩き出してくれる。
並んで歩き出すと、英二は隣に笑いかけた。

「よく居場所、解かったな?」
「そりゃね、」

文学青年のような秀麗な貌に、底抜けに明るい笑顔が咲いてくれる。
この笑顔が今も、独り沈みかけた自分を探しに来て救ってくれた、それが嬉しい。
嬉しいまま微笑んだ英二の額を、とん、と白い指で小突いて光一は笑った。

「こんな時間になっても寮に帰っていないなんてね、おまえの場合、駅でボケッとしている以外にないだろ、」

言われて左手のクライマーウォッチを見ると、18時半を過ぎていた。
見つめた時の経過に、この時計を贈った俤を見つめながら英二は微笑んだ。

「俺、1時間も座ってたんだな、」
「そういうコト。寄り道禁止、って言っとけば良かったかね?」

笑いながら改札を抜け、コンコースから通りへ降りて行く。
見上げた空はもう、紺青色の夜が降り始めていた。見回すと稜線も闇に沈みだしていく。
訪れる夜に「明日」が胸を刺す、それでも英二は笑って自分のアンザイレンパートナーに提案した。

「晩飯、外に行かない?」
「うん、いいよ。なに食いたい?」

からり笑って答えてくれる。
その笑顔が制服姿のままなことに、すぐに気付いて駆けつけてくれたと解かってしまう。
涙に囚われ絶望に沈みかけた自分を、この笑顔が探し出し救ってくれた。素直な感謝に英二は微笑んだ。

「光一が食いたい物が食いたい、」

答えに、すこし細い目が大きくなる。
けれどすぐに笑って、テノールが答えた。

「じゃ、ちょっと外出許可を書いてよね?」
「うん、行き先はどこ?」

すこし遠くに行く、そんな意味の言葉に英二は尋ねた。
尋ねられて、底抜けに明るい目は悪戯っ子に微笑んだ。

「富士山、」



山中湖に着いたのは20時を過ぎていた。
富士山頂から吹きおろす風は湖面を渡り、雪の冷厳のまま冷やり頬撫でる。
湖岸に停めた四駆の傍、最高峰を眺めながら手を動かして、携帯コンロの鍋へと買ってきた材料を入れていく。
いつも山でするよう白い手は迷わない、鮮やかな手並みの隣で英二はノンアルコールビールをクーラーバッグから出した。

「酒は帰ってからな?研修中だから俺は飲めないけど、ごめんな、」
「飲めないヤツの前で呑むのも、楽しいかもね?」

明るい素直な笑顔で、光一は頷いてくれる。
こんな素直な笑顔を初めて見たのは、氷雪に鎖された槍ヶ岳の北鎌尾根だった。
そして笑顔と同時に涙を見た、あのとき自分は生まれて初めて「慟哭」に立ち会った。
心から求め合った相手を喪ったなら、あんなふうに人は泣く。その姿に哀切が自分を切り裂いた。

周太が「異動」する瞬間は、あんなふうに自分も泣く?

そんな考えが心翳して、軽く頭をふる。
どう泣くのかなんて、その瞬間になれば解かること。今から哀しんでも仕方ない、微笑んで英二は缶を光一に手渡した。

「はい、乾杯、」

軽く缶をぶつけ合って、口をつける。
ひと息に半分ほど飲干して、からり光一が笑った。

「うん、ノンアルコールでもね、やっぱ最高峰を間近に見ながらって、旨いよね、」
「これが光一が食いたかった物なんだ?」
「そ、旨いだろ?」

嬉しそうに笑って缶にまた口付けている。
ひとくち英二も飲みこんで、冷たい泡が咽喉を降りて行くのを感じながら缶を傍らに置いた。
そしてミリタリージャケットのポケットに掌を入れて、小さな箱包みを取出した。

「はい、光一、」

笑いかけて箱包みを白い手に渡す。
シックな包装にかけられたリボンに、笑って光一は首傾げこんだ。

「くれるワケ?でも、なんで?」

どうしてだろう?
そう目で訊きながら嬉しそうに笑ってくれる、その笑顔に英二は綺麗に笑った。

「誕生日プレゼントだよ。10日遅れたけれど、誕生日おめでとう、光一、」

言葉に、底抜けに明るい目が大きくなる。

「10日遅れだけど、誕生日プレゼント、なんだ?」
「うん。この間の日曜、学校に戻る前に新宿に行って、周太と見つけてきたんだ。遅くなって、ごめん、」

本当は先週の土曜に贈りたかった。
けれどその前の日曜は姉と関根との約束があって、買物の時間が無かった。
遅くなった分、寂しい想いをさせてしまったかもしれない。そんな心配と見つめた隣で、底抜けに明るい目が笑ってくれた。

「開けてみてイイ?」
「もちろん、」

笑って答えると、嬉しそうに白い手はリボンをほどいた。
器用な白い手は素早く丁寧に包みを解いていく、そしてLEDランプにかざして箱を開いた。
その箱の中身に、透明な目が止まった。

「…これ、」

テノールが一瞬止まる。
ひとつ呼吸して、透明な目で真直ぐ英二を見ると光一は口を開いた。

「これ『MANASLU』だろ?…それも、最高モデルのヤツ、」

CASIO・PROTREK『MANASLU』PRX7000T
世界最高峰ヒマラヤの登頂を視野に入れて作られた、クライマーウォッチの最高峰。
8,000m峰の全14座登頂クライマーの意見から生まれたトップクライマー仕様の腕時計。

「うん、『MANASLU』だよ、」
「これ…もしかして、おまえが選んだ?」

素直に頷いた英二に、透明な視線と声が尋ねる。
受けとめて、英二は正直な答えに笑いかけた。

「うん、俺が選んだ。光一に最初にプレゼントするなら、これを贈りたかったんだ」

Manaslu標高8,163m マナスル。
ヒマラヤ山脈に属すネパールの高峰、8,000m峰第8座。
山名はサンスクリット語で「精霊の山」を意味する「Manasa」、1956年に初登頂を日本隊が達成した。
このマナスルが日本人が初登頂を果たした8,000m峰の唯一の山になる。

「最高峰のクライマーウォッチは、最高峰の男に相応しいだろ?それに『Manaslu』だから、光一には一番似合うって想った。
光一は8日生まれでマナスルは8,000峰第8座だ、それにマナスルは8,000m峰の初登頂を日本人が掴んだ、唯一の山だろ?そして、」

光一は5月8日の日中南時、東京最高峰の雲取山頂に生まれた。
夏の初め8番目の日に生まれた光一が、首都の天辺から最初に見つめたのは母国最高峰の富士山だった。
こんなふうに光一は最高峰と「8」に縁が深い、だから8,000峰第8座マナスルは相応しいと想った。

そして何よりもマナスルは、光一の両親がアンザイレンのまま眠りについた山だから。

「そして、ご両親が眠られた山で、光一が最高のクライマーになる決心をした山だ。光一の運命の山だから、俺は『MANASLU』を選んだ」
「…運命の山、」

融けるような呟きに英二を見つめ、無垢な瞳は白い手の箱を見た。
LEDランプに輝くサファイアガラスに瞳が映りこむ、それを透明な眼差しは見つめている。

『Manaslu』

11年前の4月、光一が決意と覚悟と、自分の運命を独り見つめた山。
まだ光一は13歳になる前だった、それでも祖父に付添われネパールまで両親を迎えに行き、両親が遺した夢と遺骨を抱いて帰国した。
そして葬式の日に血縁の矛盾に対峙する哀切のなか、両親の誇りを護ることに自分の夢を重ねて、運命を決めた。

―…おやじとおふくろは、誇り高い山ヤだ。それを、否定されたことが悔しかった…俺の宝物を、山を、あいつら…赦せないんだよ
 だから俺、あいつら見返してやりたくてさ、…だから、警視庁にも任官したんだ。警視庁のトップクライマーになったら、えばれる
 それで、世界ファイナリストになって、最高峰に立ってさ?あいつらに、頭下げさせてやりたい、そんな動機もあるんだよ、俺は…
 おやじとおふくろに貰った能力でね、あいつらを見返して、山のこと認めさせたいんだよ。あいつら、後悔させてやりたくって、さ

まだ中学1年生の光一は本当は苦しんだ、それでも運命は峻厳の姿に聳え立った。
国内ファイナリストだった両親の誇りと夢、それを自分が抱いている夢と共に背負い、蒼穹の点を超えていく。
この道程には最初のザイルパートナーである雅樹の魂をアンザイレンに繋ぎ、遺志を叶えていく。
そんな運命の全てを、第8座マナスルの氷雪に光一は見つめている。

「…俺の運命の山…俺に一番似合う、ほんとにそう思う?」

囁くよう透明な声の問いかけが、最高峰の風に融けていく。
どこか不思議なトーン、ふっと惹きこまれながらも英二は綺麗に笑った。

「うん、想うよ、」

答えながら、光一の白い手首からクライマーウォッチを外す。
そして小さな箱から『MANASLU』を手に取ると、英二は『血の契』の相手に微笑んだ。

「光一、時計を贈る意味って、知ってる?」
「意味?」

なんだろう?
首傾げこんで透明な目が問いかける、その目に英二は正直なまま微笑んだ。

「『俺の傍にいて』って意味だよ。だから恋人に贈ったり、結納の贈り物にもする。時計は記憶を刻むし、いつも身に付けるから」

この意味と贈る理由、解かってくれるかな?
そんな思いと見つめた先から、透明なテノールが問いかけた。

「そういう意味で、周太と選んで、贈ってくれるワケ?」
「うん、光一には傍にいて欲しいから。俺も周太も、」

素直に答えて笑いかけた先、透明な目が静かに微笑んだ。

「ふたりとも、俺は最高峰の男で『MANASLU』…マナスルに相応しい、って想ってくれるんだね?俺に、傍にいて欲しいんだね?」
「そうだよ、だから選んだ。光一は俺の『血の契』で唯一のアンザイレンパートナーだから」

即答して英二は微笑んだ。
微笑んで見つめた雪白の頬に、ひとすじ光がこぼれて微笑が広がった。

「じゃあさ?俺がマナスルに登頂する時は、おまえが必ずアンザイレンしてくれるね?…この約束は、絶対に守るってことだね?」

どうかお願い、「Yes」を聴かせてよ?

真直ぐに約束と成就を望む眼差しが英二を見抜く。
どこまでも透明な山っ子の瞳に、正直に英二は頷いた。

「マナスルは必ず一緒に登りたい。何があっても、俺が光一のアンザイレンパートナーを務める。専属レスキューとしてね、」

この約束は、これだけは、必ず果たさないといけない。
たとえ周太の為に命懸けるのだとしても、『Manaslu』だけは共に登らなくてはいけない。
光一のマナスル登頂は、光一の両親の慰霊登山なのだから。

「絶対の約束だね?…最優先事項にしてくれるね?」

透明なテノールが念を押す。
これに頷いたら自分は、この為に生きることになる。
それは周太に誓う約束への裏切りになるかもしれない、けれど山ヤならこの約束を断ることは出来ない。
山ヤとして偉大な先輩、そして自分のザイルパートナーの両親、その慰霊登山を断ったら山ヤと言えない。

自分こそが周太の運命の相手、生涯の伴侶でいたい。
けれどそれ以前に自分が自分で無くなったら、愛される資格は無い。
人は自分が「自分」であるからこそ引力が生まれて、愛し合えるのだろうから。
そして自分が「自分」であるベースは何者であることか?その問いかけに正直なまま、英二は綺麗に笑った。

「最優先だよ、俺は山ヤだから。パートナーの慰霊登山には必ず一緒に行く、ご両親は俺にとっても尊敬する先輩だから」

自分は「山ヤ」
山に生きることが、きっと最初から定まっている。
肚に落ちる納得と微笑んだ瞬間、ふっと頬の傷痕に熱を感じたのは、気のせいだろうか?
そんな想い佇んで見つめる真中で、底抜けに明るい目が幸せに笑ってくれた。

「うん、ありがと。おまえはね、きっと最高の山ヤになるよ、」

心からの喜びと言祝ぎに明るんだ無垢の瞳がまばゆい。
惹きこまれるよう眼差しが英二を見つめ、すこし羞んだ笑顔になって光一は訊いてくれた。

「でさ…おまえが最初に、嵌めてくれるワケ?」

答えは「Yes」だよね?
そう笑ってくれる笑顔に英二は綺麗に笑った。

「光一が嫌じゃなかったらね、『お初』は俺が戴きたいよ?」
「なんか、おまえが言うとマジエロいね?」

言いながら光一は、左手首を差し出してくれる。
夜目にも雪白まばゆい手首に、英二は手にしたクライマーウォッチを嵌めこんだ。

「あれ?バンドもピッタリだね、よく俺の手首の太さ、解かったね?」

不思議そうに言いながらも、光一は嬉しげに笑った。
この不思議は簡単な理由、さらり英二は笑って正直に答えた。

「ほら、御岳の家でキスした時、光一の手首を掴んだろ?それで解かっていたから、」

4月の終わり、光一の実家に泊まったとき。
悪戯心が起きてベッドの上、光一を組み伏せカットソーを捲りあげて、素肌の腰にキスをした。
あのとき掴んだ手首の感覚があざやかに残っている、それで時計のバンド調整が出来た。
そんな正直な答えに、雪白の貌が夜目にも薄紅あざやかに艶めいて微笑んだ。

「マジ、エロ別嬪だよね?でも、覚えていてくれて嬉しいよ。ありがと、…英二、」

気恥ずかしげでも幸せそうに笑って、光一は富士山を見た。
その視界に左手首をかざし見る、そして透明なテノールは謳うよう笑った。

「最高峰の竜の爪痕を持つ男と、竜の涙のひとが願いをこめて、最高峰の時計で山っ子の誕生を言祝いだね?これで決まりだね、」

ざあっ、

言葉の背後の森から風が吹きつける。
美しい旋律の声が、湖を渡る風に融けて最高峰へと吹上げていく、風に黒髪が靡き乱される。
山っ子の言葉に呼応するよう、風は起きて夜を蒼穹の点へと駆け抜けた。



(to be continued)

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