「光」 歩みだす道標
第58話 双壁side K2 act.2
旋律の余韻が、エンジン音に融けて消える。
フロントガラスに映る助手席、安らかな寝息がやわらかい。
あまいオレンジの香、やさしい鼓動の気配、そっと身じろぐ体温の温もり。
その全てが今、生きて傍にいるのだと教えてくれる。そんな感覚が嬉しくて、切ない。
「…護るよ、ずっとね」
そっと笑いかけて指を伸ばし、カーステレオのスイッチを押す。
ボリュームをすこし低める傍ら小さな機械音が鳴り、カウントの表示が戻る。
そして鼓動のような旋律が、静かに響きだす。
……
満たした水辺に響く 誰かの 呼んでる声
静かな眠りの途中 闇を裂く天の雫
手招く光のらせん その向こうにも 穏やかな未来があるの?
Come into the light その言葉を信じてもいいの?
Come into the light きっと夢のような世界…
……
『その言葉を信じてもいいの?』
そう問いかけたい相手の俤を、フロントガラスの寝顔に見つめてしまう。
今頃は巡回も後半だろう、大岳山から折り返して綾広の滝あたりだろうか?
―英二、おまえの言ったこと…信じていい?
また心に繰りかえすのは、縋るような願い。
この願いをもう幾度リフレインさせているだろう?
もう2週間以上ずっと想ってしまう、あの瞬間たちの言葉がまた今、高速道路のフロントガラスに蘇える。
―…写真から憧れて追いかけてる、おまえに恋してるよ?唯ひとりのアンザイレンパートナーで血の契で、恋人だ…両想いだよ
英二と周太と、ふたりの同期たちと8人で飲んだ翌日の夜、英二に告げられた言葉。
飲み会は北岳のバットレスで岩壁登攀の訓練をした日だった、だから山の昂揚感が言わせた言葉かもしれない。
それとも、飲み会で「テスト」を光一にさせた贖罪と嫉妬が、あんな言葉を英二に言わせたのかもしれない。
―東大くんを誘惑したときから、あいつ…すこし変わったよね
あのとき内山を自分は「テスト」目的で転がした、それは誘惑ゴッコの悪ふざけだった。
いつも英二にしては遊んできた悪ふざけ、それを初心で真面目そうな内山仕様でしてみせた。
けれど、英二にとっても刺激が強すぎた?そんなふう感じてしまう度に、あの夜の言葉を信じていいか解からない。
―…両想いだよ、恋人だ
本当に?
―…こんな俺だけど恋人になってよ、秘密を背負わせることになるけど、俺と恋愛してよ、最高峰で、この世の天辺で恋愛しよう?
英二、本当に?
そう何度も心で問いかける、あの夜の俤を想い毎日に見つめる。
いつもの朝、いつもの自主トレ、いつもの夕食に風呂、そして夜に眠るとき。
どの瞬間も今まで通りに英二は笑ってくれる、そんな今まで通りに解からない、本気なのか解からない。
―だって英二はね、周太を誰より想っているんだ…あのときも正直に言ってくれた、周太の為に俺と恋愛したいって…でも、
周太を護るために俺の恋人でいてよ?
もし俺が周太に狂っても、光一が傍にいたら止められる。
俺が周太を閉じ籠めそうになっても、光一なら俺を世界に連れ出せる。
こんなの俺の身勝手だよ、でも俺は光一じゃなきゃダメなんだ、憧れて追いかけてる光一の言うことしか俺は聴けない、他に誰もいない
―言ってくれた、憧れて追いかけてるって…俺だけだって言ってくれた、でも、
あなたが言った「両想いの恋人だ」その言葉を、信じてもいいの?
そう何度も心で問いかけて、あの夜の俤といつもの笑顔に見つめてしまう。
いつもの綺麗な笑顔に見つめている、あの夜の言葉と想いと、匂いと温もりに願いを見てしまう。
ずっと自分が探してきた願いを、本当に叶えてくれるのか?そんな期待と願いに縋るようにアンザイレンパートナーを見つめている。
「…っ、」
かすかな嗚咽が喉こみあげて、そっと飲み下す。
フロントガラス見つめる目の奥かすかに熱い、けれど真直ぐ前を見つめたままカーステレオが一巡りして、旋律が消えた。
静謐の戻った車内、やさしい寝息と鼓動と、オレンジの香が懐かしい幼い日の瞬間を蘇らせて、山桜の木洩陽が夏の陽に映りだす。
「…周太?あいつの言うこと、信じたら…君のためになるかな…」
そっと想いこぼれて、ため息が墜ちる。
もう何度も覚悟してきたこと、その覚悟を現実にしようと決めて雅樹の墓に逢ってきた。
あのとき雅樹は聴いてくれていた、そんな確信を抱きしめて見つめる想いに、再び旋律が流れだす。
どこか水の湧くような音の連なり、ヴォーカルの綴る詞たち、その織り成す歌にそっと光一は口ずさんだ。
……
手招く光のらせん その向こうにも 穏やかな未来があるの?
Come into the light その言葉を信じてもいいの?
Come into the light きっと夢のような世界…
こぼれる涙も知らず 鼓動に守られてる
優しい調べの中を このまま泳いでたい
冷たい光の扉 その向こうにも 悲しくない未来があるの?
Come into the light その言葉を信じてもいいの?
Come into the light きっと夢のような世界…
Come into the light 遥かな優しさに出会えるの?
Come into the light 喜びに抱かれて眠れるの?
Come into the light 争いの炎は消えたよね?
Come into the light きっと夢のような世界…
……
低く歌う隣、やわらかな寝息と鼓動が静かに息づく。
少年だった冬の日、出逢った瞬間に見つめた純粋な気配が今、運転する隣で安心して眠ってくれる。
フロントガラスに映る寝顔は優しく微笑んで、幸せな夢みるよう安らぎが温かい。この静かな温もりが自分にとって、ずっと救いだった。
「…よろこびに抱かれて、眠れるの?…」
そっと歌詞を唇リフレインさせて、15年を待ち続けた想いを見つめる。
この隣に眠る人がもし、14年間ずっと信じたよう「女性」なら、このまま攫ってしまえばいい。
すべてを懸けて誘惑すればいい、女性なら結婚して自分の妻に迎え護り続けることを、自分にも許されるから。
けれど今フロントガラスに映った喉元には微かでも喉仏がある、その現実に夢を終わらせる意志が心をノックする。
そして、新しい夢と現実への瞬間が今、この走っていく道の向こうに姿を現しだす。
霊峰、富士。
生まれた祖国の最高峰が今、大きく窓の向こうへ現れる。
その頂に見つめるのは母の俤と父の夢、そして雅樹との約束が輝いている。
あの山を母は愛して故郷の山頂から見つめ、その瞬間に自分はこの世に生を受けた。
そして父が駈けた高峰への夢を知り、雅樹と共に山への夢を約束して今、もう明後日には夢の場所の1つへと自分は向かう。
その夢の連れは今、この隣で眠るひとを誰より愛しながら、自分に憧れ恋していると告げてくれた。
「その言葉を信じても…いいの?」
そっと呟き零れだす願いに、すがりたい。
あの夜に告げてくれた言葉たちに、すがって信じてしまいたい。
信じて、願い続けた想いを叶えてしまいたいと心は泣いて、幼い頃のよう我儘を言う。
『俺の専属アンザイレンパートナーになってよ?俺なら2時間で登れるね、アイガーなら3時間だ。ね、だから俺だけ見てよ?』
幼い日の声が笑い、懐かしい俤が幸せに微笑んでくれる。
優しい透けるよう綺麗な笑顔、細身でも広やかな肩は筋肉がTシャツを透かせ頼もしい。
その肩に抱きついて、すこし日焼けした頬に頬を寄せて、心からの敬愛と甘えに自分はねだった。
「雅樹さん、俺と生涯のアンザイレンパートナーになってよ?ね、きっと俺は天才だから、一緒に登ったらイイ夢いっぱい見られるよ?」
明るい夏の光ふる木洩陽、綺麗な優しい青年は微笑んだ。
長い睫の切長い目、明るい瞳が自分を見つめて、白い長い指がそっと伸ばされる。
やわらかな大きな温もりが髪ふれて頭を撫で、深く綺麗な声が穏やかなトーンで「願い」に微笑んだ。
「光一、僕もお願いしたいよ?光一が大人になったら、僕をアンザイレンパートナーにしてくれる?ずっと一緒に山に登りたいんだ、」
雅樹からも約束を望んでくれた、それが嬉しかった。
嬉しくて見つめて笑いかける、その想いの真中で山ヤの医学生は言ってくれた。
「僕だったら医者としても光一を支えられる、どんな高い山でも一緒に登って光一の体を護ってあげる、だから僕をパートナーに選んで?
きっと光一は最高のクライマーになる、だから僕は最高のビレイヤーになりたい。医者として光一の安全を護りながら一緒に夢を見たい、」
きらめく梓川の流れ、木洩陽ゆれる明るい木蔭で笑顔は輝く。
いつも大好きだった優しい笑顔は、真直ぐ自分を見つめて約束をねだってくれた。
「光一、僕を最高峰の夢に連れて行って?光一の夢を一緒に生きたいんだ、光一が大人になる時を僕は待っている、」
僕は待っている、そう雅樹は言ってくれた。それが誇らしくて嬉しかった。
あのとき23歳だった雅樹は医学部5回生、けれど既にダブルスクールで救命救急士資格も取得していた。
そしてクライマーの実績も積み始めていた雅樹は、山に人々に愛されながら医者とクライマーの将来を嘱望されていた。
そういう雅樹に憧れて愛していた、その人が本気で8歳の自分を信じて約束を求めてくれる、それが誇らしくて幸せだった。
「ほんと?雅樹さん、本当に俺と約束してくれるんだね?俺のアンザイレンパートナーとして、俺を待っていてくれるんだね?」
「うん、待っているよ。僕はね、光一は最高のクライマーになる男だって本当に想ってる、だから待っていたいんだ、」
確かめる約束への想いに、深い綺麗な声は微笑んだ。
綺麗な笑顔で笑いかけ、明るい眼差しが真直ぐ光一の瞳を見つめて、大好きな声は言ってくれた。
「僕は光一を信じている、きっと光一は最高のクライマーになれる。光一は最高峰に生まれた男だって、僕は誰より知っているから信じてる。
光一を抱っこして産湯をしたのは僕だ、あのとき山と命の関係と、自分が医者になる意味を僕は知ったんだ。だから僕は光一を信じるんだよ?」
雲取山、この国の首都最高峰で自分は生まれた。
その日は良く晴れて、日中南時の太陽が最高点に輝いた時、自分は生まれた。
あのとき雲取山頂からは日本最高峰が明瞭に見えて、青い富士山をバックにした出生の写真が今もある。
生まれたばかりの自分を抱きあげるその腕は、明るい涙に笑ってくれる優しい少年の頼もしい腕。
あの写真の笑顔はそのまま大人になって、夏の光ふる木蔭に光一を見つめ、問いかけてくれた。
「僕が医者になろうって決めたきっかけ、前に話したと思うけど。光一は憶えてる?」
「当然だね、本仁田山で話してくれたコトだよね?あの山で自殺した人に会ったからだ、」
即答しながら8歳の自分は、青年への敬愛を想っていた。
雅樹は小学校6年生のとき、父の吉村医師と共に本仁田山に登った現場で自殺遺体の回収に立ち会った。
この経験から医者になろうと決めたのだと、その運命の現場を一緒に見ながら話してくれた。そんな雅樹を自分は心から尊敬している。
ほんとうに尊敬している、大好きだ、そんな想い真直ぐ見つめて笑いかけた先、綺麗な笑顔ひとつ頷くと雅樹は教えてくれた。
「山で自殺された方を見た、あの時から山の世界が違って見えるようになったよ。山を死場所に選んだ気持も、病気の存在も哀しかった。
山は楽しいね?でも危険も多くて遭難する方もある、山の危険を利用して自殺する人もいる。そういう方が奥多摩でも多いのが哀しいよ。
僕はね、山が人を死なせる現実が哀しくて、医者になるって決めたんだ。だから山でも通用する、父と同じ救命救急の専門医を目指したんだ」
山は時に人を死なせる。
低温、滑落、転落、落石、野生獣との遭遇、天候変化による体調悪化。
そうした不慮は時に山を行く人を掴み、死に誘っていく。その現実を雅樹は悼んで医者を志した。
この意志を語りながら梓川のほとり、夏の光に微笑んで雅樹は想いを言葉にしてくれた。
「山と人間を廻る『死』の関係に反抗したくて、僕は山ヤの医者になるって夢を決めたよ。だけど、この夢は傲慢かもしれない。
だって僕はただの人間なんだ、それなのに『山の死』っていう自然の意志が決めるようなことに反抗しようって、なんだか偉そうだよね?
だから僕は少し迷ってもいたんだ、だけど光一が生まれた瞬間に立ち会って、僕の医者になりたい理由が解かったんだよ?あのときにね、」
透明な碧い梓川のせせらぎに、綺麗な深い声が響く。
涼やかに梢ゆらす山風は青年の髪をきらめかせ、輝かしい夏の陽に雅樹はまばゆく笑ってくれた。
「山はね、人間に命を与える場所でもある。そう想えたんだ、生まれた光一を抱っこして体温を感じた瞬間、自然とそう想って涙が出たよ。
山は人間を生かす力もある、だから山に登る人って元気なんだなって気がついたんだ。そしてね、心から山を愛しているって想っていたんだ。
山を愛してる、命を生かす力を手助け出来る医者になりたい。そう想って僕は遭難救助の勉強も本気で始めたんだ、光一に逢えたからね、」
まばゆい夏の木洩陽のなか、告げてくれる夢と意志は、まぶしかった。
そして誇らしくて嬉しかった、嬉しくて自分は大好きな人へと訊いてみた。
「じゃあさ、俺が生まれたから雅樹さん、山ヤの医者に夢が持てるってコト?山を愛してるって想えるってワケ?」
「そうだよ、光一。だから光一のこと僕は、すごく大切なんだ、」
綺麗な笑顔ほころばせて、応えてくれる。
その優しい明るい眼差しは光一を見つめ、深い声は約束してくれた。
「僕にとってね、山と医者の夢を明るく照らしてくれた光が、光一なんだ。いちばん大切でいちばん信じている、だから待っているよ?
光一が最高のクライマーになることを僕は知っている、最高峰の夢を一緒に叶えてくれることを信じている、光一は僕の希望と夢の光だから、」
君は光、いちばん大切でいちばん信じている、待っている。
どの言葉も輝いて響いた、嬉しくて、誇らしくて、幸せだった。
この言葉たちに気がついて、大好きな人を抱きしめ瞳を見つめて、自分は訊いた。
「俺の名前、光一って考えたのって雅樹さんだけどね、それって今、言ってくれたコトが俺の名前の意味?」
自分が生まれたとき、吉村医師と居合わせた助産師を手伝ってくれたのは、当時中学生の雅樹だった。
そのことから両親は雅樹に名づけを依頼したと聴いている、けれど名前の意味をきちんと聴いたことは無い。
もし今の話の通りだったら嬉しい、そう見つめる想いの真中で大好きな人は、すこし気恥ずかしげに笑ってくれた。
「うん、そうだよ。生まれたのが日中南時の瞬間で太陽が一番高い時だったのと、僕には一番大切な光だって想ったから光一なんだ。
生まれた国の首都の最高峰で、生まれた国の最高峰の山を見て生まれた、最高峰の男だから光一。そういう意味で僕、君の名前を付けたよ、」
最高峰と光、その2つの意味を贈ってくれた。
こめてくれた意味も想いも誇らしくて、嬉しくて幸せで、自分は大切なひとに抱きついた。
「ありがとう、雅樹さんっ。俺ね、最高峰の男になるからね?雅樹さんの光になって、雅樹さんを夢に連れて行ってあげるからね?
約束だよ、俺は雅樹さんをアンザイレンパートナーにして世界中の山に行くよ?最高のクライマーになって、最高の山に連れて行くね、」
約束、そう告げて笑いかけた自分を、微笑んで雅樹は抱きとめてくれた。
すこし日に焼けた笑顔は眩しそうに見つめてくれる、そして白い長い小指を光一に差し出してくれた。
「ありがとう、光一。僕は信じて待ってるよ、僕と光一の男同士で山ヤ同士の約束だ、」
「うん、男で山ヤの約束だね?俺が大人になったら、一生、ずっと専属のアンザイレンパートナーだね、」
見つめた笑顔は綺麗で、その笑顔を独り占め出来る約束が誇らしかった。
その誇らしい気持ちごと小指を絡めて、指切りげんまんして約束を結んだ。
「絶対だよ、雅樹さん?俺、信じちゃったからね、絶対に約束を護ってよ?」
「うん、僕も信じてるよ、光一、」
約束に微笑んでくれる眼差しは、優しく穏やかで、真剣だった。
まだ8歳の子供である自分に生涯の夢を託してくれた、その想いが誇らしい。
この誇りを抱ける幸せに笑って、名付け親で先生で、保護者でもあるアンザイレンパートナーにねだった。
「ね、雅樹さん、喉かわいちゃったよ?さっき川に浸けたオレンジジュース、そろそろ飲めるんじゃない?」
「そうだね、もう冷えたと思うよ?」
そんな会話の後、オレンジジュースを飲みながら「いつか」登りに行く計画と雅樹が登った山の話をした。
綺麗な笑顔が語ってくれる山の物語は楽しくて、時に厳しく険しくて、少しも飽きなかった。
どの話も山と人間への愛情がまぶしかった、それを語る笑顔は輝いて生きていた。
その笑顔が大好きで、大好きで大好きで、もう離れたくないと願っていた。
―このひとが大好き、ずっと一緒にいたい、もっと近づきたい
深く響いていく光と想いに、雅樹の笑顔を見つめていた。
そして昼の微睡に安らいだ寝顔へと、その唇に自分の唇を重ねて、願いを祈った。
『ずっと一緒に山へ登れますように、ずっと一緒に生きていけますように、ふたり夢を叶えられますように』
眠る雅樹にくちづけて、ふれる温もりと優しい香に祈っていた。
いつも雅樹をくるむ山桜と似た馥郁はキスにも香って、オレンジジュースの香ごとあまやかだった。
あまくて温かで、幸せで、もっと幸せを味わいたくて、少しだけ唇を舌で舐めたとき鼓動が跳ねた。
―大好き、大好き、このひとが大好き、
心に何度も呟いていく想いに、瞳の奥が熱くなった。
その熱に途惑って、けれど幸せな気持で静かに離れた瞬間、長い睫の瞳が披いた。
夢見るよう自分を見上げて、すこし眩しそうに見つめてくれながら、きれいな声が静かに零れた。
「僕、寝ちゃってたんだね…夢だったんだ、」
覗きこんでいる自分に微笑んで、すこし残念そうに雅樹はため息を吐いた。
その眼差しに鼓動が響きだして、少し息苦しくなりそうな想いのまま自分は訊いてみた。
「どんな夢、見た?」
「うん、ちょっと恥ずかしいな、」
気恥ずかしそうに白皙の貌は笑ってくれる、その笑顔にまた鼓動が心をノックする。
自分の心臓に途惑いながら、けれど大好きな笑顔が嬉しくて見つめる想いの真中で、雅樹は幸せに微笑んだ。
「山の神さまが僕に、キスしてくれた夢を見たよ?あまくて、花の香がするキスだった、」
告げられた言葉と眼差しに、鼓動ひとつで心が微笑んだ。
なにか嬉しくて幸せで、その想い正直に自分は大好きな人へと笑いかけた。
「俺が雅樹さんにキスしたんだよ?」
言葉に、明るい切長い目が大きくなった。
長い睫ひとつ瞬いて、白皙の頬は薄紅ほころんで額まで染めあがる。
端正な眉が困ったよう顰められ、けれどすぐ羞んだ笑顔が幸せに咲いた。
「僕、キスって初めてだよ?僕のファーストキスは光一になっちゃったね、」
綺麗な笑顔ほころばせ、あわい日焼けの腕を伸ばしてくれる。
そっと肩をくるんで抱きよせて、宝物のよう大切に自分を抱え込んでいく。
優しい深い馥郁が頬を撫でて、Tシャツを透かす体温ふれあい幸せが微笑んだ。
「やったね、雅樹さんの初めてを俺が貰っちゃったね?ね、俺もファーストキスなんだから、」
「そうじゃなかったら僕、びっくりするよ?」
可笑しそうに言って、笑ってくれる貌が嬉しい。
嬉しいまま至近距離の笑顔に笑いかけて、大好きな人の頬に掌ふれて、おねだりに笑いかけた。
「ね、雅樹さん、キスして?今度は雅樹さんから俺にキスしてよ、」
「え、」
困ったよう声を零して、切長い目ひとつ瞬いた。
桜いろの紅潮まばゆい笑顔は、またすこし鮮やかに色を魅せていく。
途惑っていく笑顔、それでも優しい笑顔は抱きしめたまま起きあがって、座らせてくれる。
どうしたのだろう?そう見上げる自分に雅樹は視線の高さを合わせるよう向きあって、言ってくれた。
「光一、キスって大事にするものだって僕は想うよ?だから、そんなに簡単にはしちゃダメなんだ、それを解かってくれる?」
優しい穏やかな笑顔、けれど揺るがない強い信念を持つ心が明るい瞳に笑っている。
こういう眼差しが大好きで憧れて、けれど今の言葉に少し哀しくなって、想ったまま謝った。
「解かってるよ?キスは本当に好きな人とだけって、オヤジとおふくろにも聴いてる、だからしたんだ、でも嫌だったなら、ごめん…っ、」
ごめんね、そう言った途端に熱が瞳こぼれた。
自分はしたかった、でも雅樹は嫌だった?そう想った途端に心が傷みだす。
痛くて苦しくて、喉の奥ふさがれていく痛みを呑みこんだ時、頬を掌の温もりがくるんだ。
「嫌じゃないよ、光一。だから泣かないで大丈夫、」
大好きな声の言葉に、ひとつ瞬いて涙を頬へ落とす。
滲んでしまう視界に優しい笑顔が映ってくれる、その涙を長い指は拭いながら雅樹は言ってくれた。
「僕も本当に光一が好きだから、嫌だなんて少しも思えないよ?だけど光一はまだ子供で、まだ恋愛って解らないよね、だからキスも」
「だったらキスしてよ?」
大好きな声を遮って、大好きな瞳を真直ぐ見つめる。
確かに恋愛なんてよく解からない、けれどキスしたい気持ちは本物なのに?
その想いのままに見つめて、我儘な心のまま正直にアンザイレンパートナーに訴えた。
「男と山ヤの約束って言ってくれたよね、俺のことガキ扱いしないで本気で約束してくれたんだよね?だったらキスも同じだね、
本気で約束するならキスしてよ、俺を本気で待ってるんなら、アンザイレンパートナーにしくれるんなら、俺が一番大切ならキスしてよ?
俺は雅樹さんの光で一番なんだよね?だったら俺以外に大好きな人なんていないよね?だったら俺にだけキスしてよ、ガキ扱いしないでよ、」
言葉と見つめる涙の向う、端正な貌から笑顔が消えていく。
いつも穏やかな笑顔の雅樹、けれど今はただ真剣な眼差しだけが見つめかえす。
今までに見たことのない貌が少し怖くなる、それでも信じたい想いに見つめて、真直ぐ想いを告げた。
「俺だって本気だ、本気で雅樹さんが大好きだからアンザイレンパートナーになりたい、大好きで独り占めしたいから専属って言ったね。
ね、解かってよ?まだガキでも俺は本気だ、本気で大好きだからキスしたんだ、ずっと雅樹さんと一緒に山登ってたい、大好きだ、大好きなんだ、」
お願いだから解かってよ?
そう見つめた涙を、長い指がそっと拭ってくれる。
その指に鼓動ふるえて心を敲く、それでも見上げる端正な貌が、静かに微笑んだ。
「光一。大好きだよ、本気で、」
綺麗な深い声が告げて、綺麗な笑顔がゆっくり近づいてくる。
見つめる眼差しに切長い目が微笑んで、長い睫やわらかに閉じながら吐息ふれあう。
そっと瞳を閉じた瞬間に、唇へ山桜の香と温もりがキスをした。
「…大好きだよ、」
そっと想いこぼれたフロントガラスに、夏の光と富士の頂点がまばゆい。
まばゆい8歳の夏、あの日に見つめた光も風も、香も温度も、想い全てに色褪せない。
あのとき見つめた夢、幸福、大好きな笑顔とキス、その全ては今も心あざやかに生きている。
―この想いは一生消せない、消せる訳がないね、だって俺の夢の全てだ
心映る想いに、涙ひとすじ頬伝っていく。
その想いに見つめるフロントガラス、助手席に眠るひとの気配は優しい。
この想いと名前を贈ってくれた雅樹、それを喪った傷は深くて痛くて、苦しすぎた。
心から笑えなくなりかけた深い傷、それを癒してくれた雅樹の「山桜」その化身が今、隣で眠っている。
このまま傍にいてほしい、けれど、雅樹との約束を叶えさす「新しい約束」を結ぶ今、もう終わらせて夢に向かう。
「さよならだね、ドリアード?…君を待つ時間はもう、さよならだね、」
静かな想いに微笑んで、ゆっくり森へと景色は変わる。
そして富士を見上げる木洩陽に、四駆を停めると光一は隣に笑いかけた。
「周太、ちょっと起きて、降りて見ない?」
【歌詞引用:L’Arc~en~Ciel「TRUST」】
(to be continued)
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