「経」 時を積むなら、君は

第58話 双壁side K2 act.9
夕凪の風が、そっと髪を冷やして吹きぬける。
眼前に広がらすマッターホルン氷河、その凍れる水は遥か遠い時間を閉じこめる。
蒼い銀色にうずくまる太古の水、そこに20年前の記憶は遺されているだろうか?
―雅樹さん、あと11時間後にスタートするからね、
心裡に呼びかけ悠久の氷に微笑んで、光一は大氷壁を見上げた。
マッターホルン北壁の下部3分の1を占める氷雪の壁、その取付点はどこからでも登れそうに見える。
けれど実際のルートは限定的で、右手のツムット氷河寄りに登れば傾斜は急で上部から落石の直撃を受ける位置となる。
だからと言って早めに左側を登ってしまえば氷壁上方での、不安定なトラバースを右へとる事態となってしまう。
こんなふうにマッターホルン北壁は、取付位置の判断から登頂の明暗は別れていく。
「英二、雪田に入ってからココまで何分?」
笑いかけて隣の左手首を掴み、クライマーウォッチの文字盤を隠す。
いつもカップ麺を作る時と同じよう隠した時計、そんな光一に微笑んで英二は応えてくれた。
「ちょうど10分じゃないかな?」
「よし、」
笑って掌を開くと文字盤はPM4:40を示している。
スタートからジャスト10分、そのタイムを記憶に入れて光一はからり笑った。
「おまえの体内時計、アルプスでも精度はバッチリだね?この感覚を憶えておいてよ、スタートのときは真っ暗だからね、」
限定された取付ポイントの判断、それをスタート時には夜明け前の闇中で行わねばならない。
だから事前の偵察でタイムと方向感覚を計っておき、登攀時の判断ミスによるタイムロスを防ぐ。
この意図への理解にアンザイレンパートナーは頷いて、白い息と綺麗に笑った。
「うん、地形と高度と時間、この感覚を暗い所でも同じ判断をするんだな、」
確認しながら英二は、そっと濃やかな睫を閉じた。
静かな氷河の風のなか、白皙の貌は鎮まって意識を研ぎ澄ませていく。
いつもどおり穏やかな貌のまま鋭利になっていく気配に、光一は機嫌よく微笑んだ。
―英二、夜明け前の闇をイメージして、感覚を記憶してるね?
こういう事を自発的に英二は気がつき実行していく、そこに素質とセンスが解かる。
きっと後藤も個人指導する折々に英二のこうした様子を見、能力と努力への信頼を不動にした。
『宮田の素質だったら、雅樹くんレベルの一流ビレイヤーになれるはずだ』
英二の個人指導を初めて2週間後、後藤はそう言ってくれた。
この「雅樹レベルで一流ビレイヤー」という意味は「最高のビレイヤー」と謂うに等しい。
雅樹がビレイヤーを務めていた相手は、光一と、国内ファイナリストクライマーを謳われた父の明広だけだった。
38歳を前に早逝した父は世界ファイナリストになれたと惜しまれている、そんな父のビレイヤーを雅樹は務めた。
そして雅樹自身も単独行で多くのバリエーションルートを踏破し、大学の山岳会では必ずリードを務めていた。
―そういう雅樹さんレベルだって、後藤のおじさんに言わせたんだよね、こいつはさ?
質朴な性質の後藤は、簡単には賛辞を言わない。
それでも経験1年に満たない英二に「雅樹レベル」と言ったのは、余程の事だろう。
その後藤の想いに共鳴するように、懐かしい声が梓川の夏に笑って約束を告げる。
―…光一は最高のクライマーになる、だから僕は最高のビレイヤーになりたい。医者として光一の安全を護りながら一緒に夢を見たい
16年前の夏に贈ってくれた「最高のビレイヤー」の約束は今、隣に佇むアンザイレンパートナーが叶えようとしている。
あと11時間後にスタートするマッターホルン北壁シュミッドルートの登頂、そこに英二が共に登っていく。
この近づいてくる瞬間への昂揚と祈りは、鎮まりかえる意識の底でも止むことは無い。
―雅樹さん、英二のコト護ってくれるね?俺のコト本気で大好きなら約束ごと守ってよ、
祈りに呼びかけて見上げる蒼い壁、そこに16年を見つめた山図のルートが描かれる。
あの軌跡を自分は辿るだけ、そんな想い微笑んで光一は英二を振り向いた。
「英二、山図のルートと現場の照合は出来た?」
「ああ、最初の300mはダブルピッケルで登りあげるんだよな?」
「だね。で、あのミックス帯だ。氷が白から蒼く変わってるだろ?あの蒼から硬くなるね、力加減も変るから気を付けてよ、」
「おう、ハーケン抜くとき、割らないようにするよ」
高低差1,124mの岩壁を見上げ、ルートの確認を語り合う。
日常の自主訓練で登る越沢バットレスは80m、そして北岳バットレスは600m、谷川岳一ノ倉沢は1,000m。
どれも英二は着実に踏破し、一ノ倉沢や穂高の滝谷ではビレイヤーを務めて経験を積んできた。
今朝のリッフェルホルンで受けた岩壁登攀テストでも、ガイドに褒められ無事に合格している。
どこの岩壁でも目標タイム通りに英二は登攀している、だから今回も大丈夫だと信じたい。
―誰よりも俺が、英二を信じているね。だって俺がアンザイレンパートナーで、先生で先輩なんだ
英二と話しながらも覚悟を肚に見つめている。
雅樹と自分の関係と同じように、自分が英二を教えてパートナーに育てていく。
そう決めた11月最後の日からずっと「責任」の覚悟に立って英二と登ってきた、そして今回の責任は今まで以上に大きい。
そして、責任の大きさだけ喜びも、きっと大きい。その希望を見つめながら光一はアンザイレンパートナーに笑いかけた。
「英二、明日はきっとイイ日だね?」
「そうだな、きっと良い日だな?」
綺麗な低い声が笑ってくれる、その笑顔はいつも通り美しい。
見つめる貌に不安な欠片は無い、昨日のブライトホルンでは揺れていた「迷い」も今は消えている。
もう北壁を前にして意識も心も集中に入った、そんな貌に安堵して光一はヘルンリ小屋へと踵を返した。
「さ、戻ろっかね。そろそろ他のメンツも揃う頃だね、」
「うん、」
頷いてくれる笑顔と一緒に、氷河のなかを戻っていく。
7月の午後17時過ぎ、マッターホルンは真昼の青空に聳え立つ。
けれど北壁は陽光の蔭に氷雪の冷厳が支配する、この涼やかな空気が自分は好きだ。
いま凍土の風を8年ぶり2度目に感じて嬉しくなる、その隣から綺麗な低い声が穏やかに明るんだ。
「風が気持ち良いな、頭がクリアになる、」
「だね?雪や氷の風はさ、冷たさが優しいね、」
自分と同じだ、それが嬉しく笑った隣も一緒に笑ってくれる。
こんなふう英二は呼吸を自分に合せてくれる、それは登攀中も日常も変わらない。
その「合せる」ことが英二にとっても自然らしいことが、いつも嬉しい。そして唯ひとりのパートナーだと確信してしまう。
こうしてずっと一緒に山を話して、登って、共に生きていけたら良い。そんな想い微笑んで光一は小屋の扉を開いた。
ふわり温かな匂いが頬を撫でて靴の下は感触が変る、その向こうから快活な笑顔が笑ってくれた。
「お久しぶりです、国村さん、」
声にふり向くと第七機動隊第一小隊の加藤と村木が椅子に座っている。
久しぶりに会う笑顔へ頷いて、登山グローブを外しながら歩み寄ると2人は立ちあがった。
そんな様子に笑いかけ、いつも山でするよう光一は右手をだし握手を結んだ。
「お久しぶりです、加藤さん、村木さん。春の合同訓練以来ですね?」
「あのとき以来だな、第2小隊長就任おめでとうございます、」
ふたり笑って順次に握手して、祝辞を言ってくれる。
その言葉に帰国後の現実が迫って心裡、そっと溜息が微笑んだ。
―そうだ、俺、昇進するんだっけね?…英二と同僚じゃなくなるんだ
いま隣で穏やかに微笑んでいる、大好きなアンザイレンパートナー。
そんな英二とは既に階級2つの差がある、そして8月の異動で役席にまで差が開く。
もうじき英二と1ヶ月は離れて、後から英二が異動してきた時にはもう、上司と部下になっている。
こんなふうに組織での立場が変ることなんて最初から解かっていた、それでも寂しさが込みあげる子供が、もう心に拗ねている。
―こんなの8歳のガキと変わらないね、俺って進歩がないねえ?
そっと心に自嘲しながらも、傍らの英二を少し前に押す。
そして七機第1小隊の2人へと自分のアンザイレンパートナーで補佐官の男を紹介した。
「青梅署山岳救助隊の宮田です。合同訓練で見かけていると思いますが、私のザイルパートナーを務めています、」
公式の場と相手に、自分のパートナーを公認として紹介する。
この今の瞬間が誇らしい、その幸せだけ見つめ微笑んだ隣は端正な礼をした。
「御岳駐在所所属の宮田です、今回はよろしくお願い致します、」
「こちらこそよろしく、宮田くん。第一小隊の加藤だ、」
笑って加藤が手を差し出して英二と握手する。
同じよう村木とも握手した英二の笑顔に、加藤が笑いかけた。
「訓練でも見かけて思ったけど、宮田くんは本当にイケメンだな。背も高いけど、何センチ?」
「183cmです、」
必要なことだけ答えて端正に微笑んでいる、その笑顔は確かに「イケメン」だな?
そんな感想に眺めながら光一は小屋番に声をかけ、打合せスペースの場所を確認した。
短いフランス語の会話で食堂テーブルの片隅に許可を得て、振向くと加藤が微笑んだ。
「国村さん、打合せの前にちょっと、」
「はい、じゃあ2人に場所のこと伝えてきますね、」
多分アレかな?
そう見当をつけながら光一は、英二たちに場所の指示をした。
そのまま外のテラスへ出ると、真剣な目で加藤は尋ねてきた。
「国村さん、明日の北壁はスタカットとコンテ、どちらで登るつもりだ?」
この危惧はされるだろうと思っていた。
予想通りの展開に笑って光一は、正直に答えた。
「練習のとき以外は宮田、コンティニュアスでしか登った事がありません、」
スタカットとコティニュアス、いずれもザイルを繋留し合うアンザイレンでの複数登攀の方式を指す。
スタカットは複数隔時登攀のことで、常に1人だけが移動し他方は安全確保「ビレイ」を停止状態で務めて交互に登る。
コンティニュアスは「コンテ」とも略す複数同時登攀を謂い、アンザイレンして同時に歩行・登攀するためスピードが速い。
但し、コンテはリーダーとビレイヤーが同時に動くため、停止したビレイヤーの体重で固定し支えるスタカットより確保が難しい。
そのため片方が滑落等を起こせば他方も巻添いになりやすく、アンザイレンパートナーの双方に高度な技術が要求される。
―この技術力を育てる「経験値」のコト、英二は言われちゃうんだよね、
山岳救助隊は迅速な遭難救助が求められるため、現場ではコンティニュアスも当然使う。
そして英二の場合、救助隊員の業務上とプライベートの両方で光一と登攀し、ほぼ毎日コンティニュアスの訓練を積んでいる。
だから回数で言えば決して英二の経験は少なくない、それでも年数で考えてしまえば当然のよう危ぶまれるだろう。
そんな予想と微笑んだ先で、加藤の表情は険しくなった。
「確かに宮田くんは一年未満の経験でも三スラや滝谷を登ってきた、タイムも良いと聴いている。でも今回はマッターホルン北壁なんだぞ?
高低差1km以上のビッグウォールだ。標高も四千を超えている、日本の山とは高度も気圧も違う。宮田くんとコンテは無謀じゃないのか?」
ほら、やっぱり言われると思った。
こんな懸念があるから吉村医師と後藤副隊長に相談して策を講じてある。
この8ヶ月で綿密に描いてきた予防線に、笑って光一は飄々と答えた。
「標高四千については冬富士の気圧で2回、試してあります。高低差1kmは三スラとかで経験させました、身体適性もテスト済みです。
持久力なら宮田は三スラも滝谷も剱岳でも、重量100kg近くを背負って登っているんですよ。後藤副隊長の個人指導や自主トレでもね、」
いつも英二は救命救急用具一式を持ち歩いている、その中には洗浄用の水も通常の倍を携行するため重たい。
加えて訓練のときは他にも、折畳式スコップなど救助用の装備も生真面目に背負いこんで歩いている。
こうした荷重で体力を鍛えることを日常的に行い、その一環で光一の事も抱えてしまう。
『俺は光一の専属レスキューだからさ、光一を運ぶことに慣れた方が良いだろ?」
そう言って訓練以外でも、背負って寮の階段や廊下を移動する時がある。
そんなとき光一がバンド式の重りを腕や足に装着していることを、英二は気がついていない。
それは三スラや滝谷でも同じで、2本目を登る時には英二のザックに重りを幾分か足してしまう。
そうして少しずつ英二の荷重を増やさせて、ビレイヤーとして必要な筋力と瞬発力を鍛えさせてある。
―お蔭で体力馬鹿になったよね?自分が何キロ背負ってるか解んないまんま、ね
いつも英二は荷重が増えても気がつかいない、ごく自然に100kgを背負って歩いている。
それが英二の「ヌケている」可愛い所だろうな?そんな感想と笑った前、加藤が溜息を吐いた。
「三スラとかで100kg背負って、それで国村さんに付いて登るなんてな?よく一年未満でそんなこと出来る、」
「ですよね?しかも宮田、一度もフォールしたことないんですよ?ダイナミックビレイの練習の時は、ワザとしますけどね、」
事実のまま笑った先、加藤の目が大きくなる。
アルパインクライミングなら「フォール」墜落する経験をしているだろう。
けれど英二は初めて白妙橋で訓練したときから、制動確保の練習以外では一度もフォールしていない。
真似て覚えるのが巧く器用な上に努力家の英二は、失敗というものをし難いのだろう。そこも好きで笑った向かい、加藤が微笑んだ。
「俺が口出しするのは余計だな?何かあればチームリーダーの俺が責任とります、良い記録で登ってくれ、」
「ありがとうございます、」
素直に礼を言って光一は軽く頭を下げた。
加藤は年次も年齢も先輩だけれど、階級は巡査部長で警部補の自分より下になる。
だから過剰な礼をとることは出来ない、そういう規律に笑って光一は加藤に宣言した。
「でもね、宮田に関する責任を負うのは俺の権利です。加藤さんでも手出しはさせませんよ?」
英二は自分だけのアンザイレンパートナー、だから誰にも触れさせないよ?
この想い率直に笑った光一に、1つ瞬くと加藤は愉快に笑ってくれた。
「なるほどな?そういうとこ国村さんはカッコいいよ、岩崎さんにも聴いてはいるけど、」
「あ、ウチの所長が何か告げ口しています?恥ずかしいですね、」
笑いながら小屋の入口へ踵返し、テラスを歩き出す。
その足取りをゆっくりにしながら、すこし声を低めて加藤は教えてくれた。
「岩崎さんは心底から褒めてますよ、だから第一小隊の印象は良いけど、第二は違うと思う。それ以上に宮田くんへの評価は不安定です。
俺と同じように『経験』のことで宮田くんの実力と立場に疑問を感じているのが、七機の現状なんだ。五日市署と高尾署は解からないが、」
それも仕方の無いことだろう、自分も英二が青梅署に卒配された当初は「なんで?」と思った。
みんな考えるコトは同じなのだな?そんな感想に笑って光一は、宣言した。
「その辺の疑問についてはね、ふたつの北壁で応えますよ?宮田自身がね、」
答えに笑って小屋の扉を開くと、五日市と高尾のメンバーも席に付いている。
そこへ加藤と加わり席に着き、いつものよう指を組んで光一は思案と打ち合わせを見つめた。

マッターホルンの闇に、ハーケンの歌が響く。
銀の星ふる紺碧の夜、はるかな虚空と鋭鋒の壁に金属音の歌が笑う。
その誇らかな歌声に今、偉大な岩壁へとメインザイルを繋ぐ点が刻まれていく。
コンコン、カンッ、キンキン、キンッ。
音と手ごたえが変って、ハーケンが利いたと伝わらす。
カラビナをセットして確保支点を作り、そしてザイルを軽く引く。
赤いザイルの向こう動きが止まり、ハーケンの叩かれる聲が明るく響きだす。
キンキン、カンッ
ハーケンが抜かれる音が足元の闇から謳う、そしてザイルが動きだす。
繋がれたアンザイレンザイルに伝わらす鼓動、吐息、そして生きている意志が温かい。
この今の瞬間を共に「山」で生きている、その喜びがハーケンの歌になって響いていく。
―英二、俺は信じてる、おまえは俺の全力でも絶対に付いてくる、ずっと俺と山で生きられる
心の真中から、願いが叫ぶ。
その叫びに応えるよう足許ひろがる闇の彼方、気配は温かい。
今日は英二の登山ザックも軽量化させた、普段より体は軽く動きやすいだろう。
その推測に添うようアンザイレンザイルの向こうは、リズミカルな動きでビレイしながら登ってくる。
―英二なら大丈夫だね、必ず俺と約束の天辺に行ける、
願うまま三点確保に登りあげ、この体はいつも通りに軽く岩壁を行く。
願いを叫ぶ心、けれど故郷の山々を登るのと同じに想いは謳う、そして山を感じる体は肌から笑う。
希薄な大気、冷厳の風と凍える山肌、そして秘める闇まとう「山」の意志。その全てが今、心地良い。
―ね、マッターホルン?アルプスの女王さまなら、教えてよ?
岩壁に意識を添わせながら、想うまま山に笑う。
この山にずっと聴きたかった問いかけに、喜びと心は微笑んだ。
―俺のアンザイレンパートナーが20年前、女王さまにキスしたね?とびっきり別嬪の山ヤの医学生だよ、覚えてるよね?
同じキスを俺にも教えてよ?女王さまのてっぺんに着いたら俺にキスして、約束を叶えさせてよ?雅樹さんの約束を俺に祝福して?
“Tu es un amant de montagne” 山の恋人
そうリッフェルホルンのガイドは自分に言祝いだ。
このアルプスで生まれた山ヤが「山の恋人」と認めるのなら、アルプスの女王も応えてくれる。
この両想いは愉しくて、いま登らす凍れる岩壁に女王の冷たい黒髪を視、その向こうに気高い吐息がふれる。
故郷の山から遠く離れた名峰連なるアルプス、その女王と謳われる山を今、登って口説いて恋愛に誘う。
―マッターホルン、20年前は雅樹さんと恋したね?その雅樹さんが唯ひとり恋した人間は俺なんだ、だから今、俺と恋してよ?
雅樹が恋した山の1つ、マッターホルンへ「秘密」と誘う。
あの夏に贈ってもらった山図には、雅樹の夢と憧憬がデータになって端正に綴られる。
この山を記した筆跡の努力が愛しい、あの努力も夢も憧憬も、全てを自分に贈ってくれた雅樹を今も想う。
あの美しい山ヤの医学生が自分に贈ってくれた、その全てを抱く心の真中から光一は「山」の恋愛に笑った。
―どうして女王さまが恋した山ヤが俺と惚れあったのか、今、登ってて解かるよね?ほら、俺のザイルと繋がってる男を感じてよ?
雅樹さんとソックリで全然違うだろ?雅樹さんは真っ新で天使みたいに純粋だったね、でも英二の純粋は激しくってLuciferみたいだ。
アルペングリューエンみたいに眩しくて、冷たくて熱くって、怖くて優しい。そんな山ヤは女王さま好きだろ?あいつも俺と惚れあってるよ、
そういう俺のコト気になるだろ?だからマッターホルン、俺とキスして恋してよ?8年前より本気のキスして、俺とあいつを祝福して?
呼びかけながらハーケンを撃ちこみ、ランニングビレイをとる。
ポイントごとの性格に合せて振るうハンマーに、マッターホルンはハーケンを受容れていく。
素直な岩壁へと微笑んで、その頬を優しく撫でる冷気を感じ、山懐の闇を抱きながら蒼い垂壁を登りあげる。
視界の後方180度、太陽の目覚めは遠く黎明の星は銀いろ降らす。この輝ける紺碧に聳える点に向かい、ヘッドライトの彼方へ駈ける。
―英二、おまえを信じてる。俺が奔っても離れないね、ほら天辺に行くよ?おまえを最高峰へ連れていく、約束を叶えさせてよ
こんなスピードで登攀することは、ずっと単独行だけだった。
滝沢第三スラブ、滝谷、北岳、他にも数々の岩壁を独り、約束を信じて登ってきた。
いつか雅樹が帰ってきてくれる、いつかアンザイレンを組んで一緒に約束を叶えてくれる。
そう信じて、その約束を叶えるために最高のクライマーになりたくて、ずっと独りきり登って訓練した。
そうして16年を自分は「約束」に縋るよう生きた、あの山桜に願いを懸けて叶わぬ夢を諦めきれずに、時を止めていた。
―16年だ、俺は8歳のガキのまんまだったね、雅樹さん?でも今は24歳だよ、大人になった俺を見てよ、大人の俺と約束を叶えてよ?
いまハンマーをふるう掌は、あの頃の倍に大きい。
いま登っていく身長もずっと高い、あの頃の雅樹より3cmも大きい。
もう今なら自分は「雅樹」とアンザイレンを組める、もう心の時間も8歳から動きだした。
この春3月の北鎌尾根、今この赤いアンザイレンザイルに繋がれる男が自分に「光」をくれて、臆病な眠りを覚ましてくれた。
そして時間は目覚めて時は動き、今、永く新しい約束に向かって登っていく。
『光一が大人になったら、僕をアンザイレンパートナーにしてくれる?ずっと一緒に山に登りたいんだ』
あの夏の約束へ今、24歳の自分は最高のパートナーと共に、16年を超えて辿り着く。
(to be continued)
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第58話 双壁side K2 act.9
夕凪の風が、そっと髪を冷やして吹きぬける。
眼前に広がらすマッターホルン氷河、その凍れる水は遥か遠い時間を閉じこめる。
蒼い銀色にうずくまる太古の水、そこに20年前の記憶は遺されているだろうか?
―雅樹さん、あと11時間後にスタートするからね、
心裡に呼びかけ悠久の氷に微笑んで、光一は大氷壁を見上げた。
マッターホルン北壁の下部3分の1を占める氷雪の壁、その取付点はどこからでも登れそうに見える。
けれど実際のルートは限定的で、右手のツムット氷河寄りに登れば傾斜は急で上部から落石の直撃を受ける位置となる。
だからと言って早めに左側を登ってしまえば氷壁上方での、不安定なトラバースを右へとる事態となってしまう。
こんなふうにマッターホルン北壁は、取付位置の判断から登頂の明暗は別れていく。
「英二、雪田に入ってからココまで何分?」
笑いかけて隣の左手首を掴み、クライマーウォッチの文字盤を隠す。
いつもカップ麺を作る時と同じよう隠した時計、そんな光一に微笑んで英二は応えてくれた。
「ちょうど10分じゃないかな?」
「よし、」
笑って掌を開くと文字盤はPM4:40を示している。
スタートからジャスト10分、そのタイムを記憶に入れて光一はからり笑った。
「おまえの体内時計、アルプスでも精度はバッチリだね?この感覚を憶えておいてよ、スタートのときは真っ暗だからね、」
限定された取付ポイントの判断、それをスタート時には夜明け前の闇中で行わねばならない。
だから事前の偵察でタイムと方向感覚を計っておき、登攀時の判断ミスによるタイムロスを防ぐ。
この意図への理解にアンザイレンパートナーは頷いて、白い息と綺麗に笑った。
「うん、地形と高度と時間、この感覚を暗い所でも同じ判断をするんだな、」
確認しながら英二は、そっと濃やかな睫を閉じた。
静かな氷河の風のなか、白皙の貌は鎮まって意識を研ぎ澄ませていく。
いつもどおり穏やかな貌のまま鋭利になっていく気配に、光一は機嫌よく微笑んだ。
―英二、夜明け前の闇をイメージして、感覚を記憶してるね?
こういう事を自発的に英二は気がつき実行していく、そこに素質とセンスが解かる。
きっと後藤も個人指導する折々に英二のこうした様子を見、能力と努力への信頼を不動にした。
『宮田の素質だったら、雅樹くんレベルの一流ビレイヤーになれるはずだ』
英二の個人指導を初めて2週間後、後藤はそう言ってくれた。
この「雅樹レベルで一流ビレイヤー」という意味は「最高のビレイヤー」と謂うに等しい。
雅樹がビレイヤーを務めていた相手は、光一と、国内ファイナリストクライマーを謳われた父の明広だけだった。
38歳を前に早逝した父は世界ファイナリストになれたと惜しまれている、そんな父のビレイヤーを雅樹は務めた。
そして雅樹自身も単独行で多くのバリエーションルートを踏破し、大学の山岳会では必ずリードを務めていた。
―そういう雅樹さんレベルだって、後藤のおじさんに言わせたんだよね、こいつはさ?
質朴な性質の後藤は、簡単には賛辞を言わない。
それでも経験1年に満たない英二に「雅樹レベル」と言ったのは、余程の事だろう。
その後藤の想いに共鳴するように、懐かしい声が梓川の夏に笑って約束を告げる。
―…光一は最高のクライマーになる、だから僕は最高のビレイヤーになりたい。医者として光一の安全を護りながら一緒に夢を見たい
16年前の夏に贈ってくれた「最高のビレイヤー」の約束は今、隣に佇むアンザイレンパートナーが叶えようとしている。
あと11時間後にスタートするマッターホルン北壁シュミッドルートの登頂、そこに英二が共に登っていく。
この近づいてくる瞬間への昂揚と祈りは、鎮まりかえる意識の底でも止むことは無い。
―雅樹さん、英二のコト護ってくれるね?俺のコト本気で大好きなら約束ごと守ってよ、
祈りに呼びかけて見上げる蒼い壁、そこに16年を見つめた山図のルートが描かれる。
あの軌跡を自分は辿るだけ、そんな想い微笑んで光一は英二を振り向いた。
「英二、山図のルートと現場の照合は出来た?」
「ああ、最初の300mはダブルピッケルで登りあげるんだよな?」
「だね。で、あのミックス帯だ。氷が白から蒼く変わってるだろ?あの蒼から硬くなるね、力加減も変るから気を付けてよ、」
「おう、ハーケン抜くとき、割らないようにするよ」
高低差1,124mの岩壁を見上げ、ルートの確認を語り合う。
日常の自主訓練で登る越沢バットレスは80m、そして北岳バットレスは600m、谷川岳一ノ倉沢は1,000m。
どれも英二は着実に踏破し、一ノ倉沢や穂高の滝谷ではビレイヤーを務めて経験を積んできた。
今朝のリッフェルホルンで受けた岩壁登攀テストでも、ガイドに褒められ無事に合格している。
どこの岩壁でも目標タイム通りに英二は登攀している、だから今回も大丈夫だと信じたい。
―誰よりも俺が、英二を信じているね。だって俺がアンザイレンパートナーで、先生で先輩なんだ
英二と話しながらも覚悟を肚に見つめている。
雅樹と自分の関係と同じように、自分が英二を教えてパートナーに育てていく。
そう決めた11月最後の日からずっと「責任」の覚悟に立って英二と登ってきた、そして今回の責任は今まで以上に大きい。
そして、責任の大きさだけ喜びも、きっと大きい。その希望を見つめながら光一はアンザイレンパートナーに笑いかけた。
「英二、明日はきっとイイ日だね?」
「そうだな、きっと良い日だな?」
綺麗な低い声が笑ってくれる、その笑顔はいつも通り美しい。
見つめる貌に不安な欠片は無い、昨日のブライトホルンでは揺れていた「迷い」も今は消えている。
もう北壁を前にして意識も心も集中に入った、そんな貌に安堵して光一はヘルンリ小屋へと踵を返した。
「さ、戻ろっかね。そろそろ他のメンツも揃う頃だね、」
「うん、」
頷いてくれる笑顔と一緒に、氷河のなかを戻っていく。
7月の午後17時過ぎ、マッターホルンは真昼の青空に聳え立つ。
けれど北壁は陽光の蔭に氷雪の冷厳が支配する、この涼やかな空気が自分は好きだ。
いま凍土の風を8年ぶり2度目に感じて嬉しくなる、その隣から綺麗な低い声が穏やかに明るんだ。
「風が気持ち良いな、頭がクリアになる、」
「だね?雪や氷の風はさ、冷たさが優しいね、」
自分と同じだ、それが嬉しく笑った隣も一緒に笑ってくれる。
こんなふう英二は呼吸を自分に合せてくれる、それは登攀中も日常も変わらない。
その「合せる」ことが英二にとっても自然らしいことが、いつも嬉しい。そして唯ひとりのパートナーだと確信してしまう。
こうしてずっと一緒に山を話して、登って、共に生きていけたら良い。そんな想い微笑んで光一は小屋の扉を開いた。
ふわり温かな匂いが頬を撫でて靴の下は感触が変る、その向こうから快活な笑顔が笑ってくれた。
「お久しぶりです、国村さん、」
声にふり向くと第七機動隊第一小隊の加藤と村木が椅子に座っている。
久しぶりに会う笑顔へ頷いて、登山グローブを外しながら歩み寄ると2人は立ちあがった。
そんな様子に笑いかけ、いつも山でするよう光一は右手をだし握手を結んだ。
「お久しぶりです、加藤さん、村木さん。春の合同訓練以来ですね?」
「あのとき以来だな、第2小隊長就任おめでとうございます、」
ふたり笑って順次に握手して、祝辞を言ってくれる。
その言葉に帰国後の現実が迫って心裡、そっと溜息が微笑んだ。
―そうだ、俺、昇進するんだっけね?…英二と同僚じゃなくなるんだ
いま隣で穏やかに微笑んでいる、大好きなアンザイレンパートナー。
そんな英二とは既に階級2つの差がある、そして8月の異動で役席にまで差が開く。
もうじき英二と1ヶ月は離れて、後から英二が異動してきた時にはもう、上司と部下になっている。
こんなふうに組織での立場が変ることなんて最初から解かっていた、それでも寂しさが込みあげる子供が、もう心に拗ねている。
―こんなの8歳のガキと変わらないね、俺って進歩がないねえ?
そっと心に自嘲しながらも、傍らの英二を少し前に押す。
そして七機第1小隊の2人へと自分のアンザイレンパートナーで補佐官の男を紹介した。
「青梅署山岳救助隊の宮田です。合同訓練で見かけていると思いますが、私のザイルパートナーを務めています、」
公式の場と相手に、自分のパートナーを公認として紹介する。
この今の瞬間が誇らしい、その幸せだけ見つめ微笑んだ隣は端正な礼をした。
「御岳駐在所所属の宮田です、今回はよろしくお願い致します、」
「こちらこそよろしく、宮田くん。第一小隊の加藤だ、」
笑って加藤が手を差し出して英二と握手する。
同じよう村木とも握手した英二の笑顔に、加藤が笑いかけた。
「訓練でも見かけて思ったけど、宮田くんは本当にイケメンだな。背も高いけど、何センチ?」
「183cmです、」
必要なことだけ答えて端正に微笑んでいる、その笑顔は確かに「イケメン」だな?
そんな感想に眺めながら光一は小屋番に声をかけ、打合せスペースの場所を確認した。
短いフランス語の会話で食堂テーブルの片隅に許可を得て、振向くと加藤が微笑んだ。
「国村さん、打合せの前にちょっと、」
「はい、じゃあ2人に場所のこと伝えてきますね、」
多分アレかな?
そう見当をつけながら光一は、英二たちに場所の指示をした。
そのまま外のテラスへ出ると、真剣な目で加藤は尋ねてきた。
「国村さん、明日の北壁はスタカットとコンテ、どちらで登るつもりだ?」
この危惧はされるだろうと思っていた。
予想通りの展開に笑って光一は、正直に答えた。
「練習のとき以外は宮田、コンティニュアスでしか登った事がありません、」
スタカットとコティニュアス、いずれもザイルを繋留し合うアンザイレンでの複数登攀の方式を指す。
スタカットは複数隔時登攀のことで、常に1人だけが移動し他方は安全確保「ビレイ」を停止状態で務めて交互に登る。
コンティニュアスは「コンテ」とも略す複数同時登攀を謂い、アンザイレンして同時に歩行・登攀するためスピードが速い。
但し、コンテはリーダーとビレイヤーが同時に動くため、停止したビレイヤーの体重で固定し支えるスタカットより確保が難しい。
そのため片方が滑落等を起こせば他方も巻添いになりやすく、アンザイレンパートナーの双方に高度な技術が要求される。
―この技術力を育てる「経験値」のコト、英二は言われちゃうんだよね、
山岳救助隊は迅速な遭難救助が求められるため、現場ではコンティニュアスも当然使う。
そして英二の場合、救助隊員の業務上とプライベートの両方で光一と登攀し、ほぼ毎日コンティニュアスの訓練を積んでいる。
だから回数で言えば決して英二の経験は少なくない、それでも年数で考えてしまえば当然のよう危ぶまれるだろう。
そんな予想と微笑んだ先で、加藤の表情は険しくなった。
「確かに宮田くんは一年未満の経験でも三スラや滝谷を登ってきた、タイムも良いと聴いている。でも今回はマッターホルン北壁なんだぞ?
高低差1km以上のビッグウォールだ。標高も四千を超えている、日本の山とは高度も気圧も違う。宮田くんとコンテは無謀じゃないのか?」
ほら、やっぱり言われると思った。
こんな懸念があるから吉村医師と後藤副隊長に相談して策を講じてある。
この8ヶ月で綿密に描いてきた予防線に、笑って光一は飄々と答えた。
「標高四千については冬富士の気圧で2回、試してあります。高低差1kmは三スラとかで経験させました、身体適性もテスト済みです。
持久力なら宮田は三スラも滝谷も剱岳でも、重量100kg近くを背負って登っているんですよ。後藤副隊長の個人指導や自主トレでもね、」
いつも英二は救命救急用具一式を持ち歩いている、その中には洗浄用の水も通常の倍を携行するため重たい。
加えて訓練のときは他にも、折畳式スコップなど救助用の装備も生真面目に背負いこんで歩いている。
こうした荷重で体力を鍛えることを日常的に行い、その一環で光一の事も抱えてしまう。
『俺は光一の専属レスキューだからさ、光一を運ぶことに慣れた方が良いだろ?」
そう言って訓練以外でも、背負って寮の階段や廊下を移動する時がある。
そんなとき光一がバンド式の重りを腕や足に装着していることを、英二は気がついていない。
それは三スラや滝谷でも同じで、2本目を登る時には英二のザックに重りを幾分か足してしまう。
そうして少しずつ英二の荷重を増やさせて、ビレイヤーとして必要な筋力と瞬発力を鍛えさせてある。
―お蔭で体力馬鹿になったよね?自分が何キロ背負ってるか解んないまんま、ね
いつも英二は荷重が増えても気がつかいない、ごく自然に100kgを背負って歩いている。
それが英二の「ヌケている」可愛い所だろうな?そんな感想と笑った前、加藤が溜息を吐いた。
「三スラとかで100kg背負って、それで国村さんに付いて登るなんてな?よく一年未満でそんなこと出来る、」
「ですよね?しかも宮田、一度もフォールしたことないんですよ?ダイナミックビレイの練習の時は、ワザとしますけどね、」
事実のまま笑った先、加藤の目が大きくなる。
アルパインクライミングなら「フォール」墜落する経験をしているだろう。
けれど英二は初めて白妙橋で訓練したときから、制動確保の練習以外では一度もフォールしていない。
真似て覚えるのが巧く器用な上に努力家の英二は、失敗というものをし難いのだろう。そこも好きで笑った向かい、加藤が微笑んだ。
「俺が口出しするのは余計だな?何かあればチームリーダーの俺が責任とります、良い記録で登ってくれ、」
「ありがとうございます、」
素直に礼を言って光一は軽く頭を下げた。
加藤は年次も年齢も先輩だけれど、階級は巡査部長で警部補の自分より下になる。
だから過剰な礼をとることは出来ない、そういう規律に笑って光一は加藤に宣言した。
「でもね、宮田に関する責任を負うのは俺の権利です。加藤さんでも手出しはさせませんよ?」
英二は自分だけのアンザイレンパートナー、だから誰にも触れさせないよ?
この想い率直に笑った光一に、1つ瞬くと加藤は愉快に笑ってくれた。
「なるほどな?そういうとこ国村さんはカッコいいよ、岩崎さんにも聴いてはいるけど、」
「あ、ウチの所長が何か告げ口しています?恥ずかしいですね、」
笑いながら小屋の入口へ踵返し、テラスを歩き出す。
その足取りをゆっくりにしながら、すこし声を低めて加藤は教えてくれた。
「岩崎さんは心底から褒めてますよ、だから第一小隊の印象は良いけど、第二は違うと思う。それ以上に宮田くんへの評価は不安定です。
俺と同じように『経験』のことで宮田くんの実力と立場に疑問を感じているのが、七機の現状なんだ。五日市署と高尾署は解からないが、」
それも仕方の無いことだろう、自分も英二が青梅署に卒配された当初は「なんで?」と思った。
みんな考えるコトは同じなのだな?そんな感想に笑って光一は、宣言した。
「その辺の疑問についてはね、ふたつの北壁で応えますよ?宮田自身がね、」
答えに笑って小屋の扉を開くと、五日市と高尾のメンバーも席に付いている。
そこへ加藤と加わり席に着き、いつものよう指を組んで光一は思案と打ち合わせを見つめた。

マッターホルンの闇に、ハーケンの歌が響く。
銀の星ふる紺碧の夜、はるかな虚空と鋭鋒の壁に金属音の歌が笑う。
その誇らかな歌声に今、偉大な岩壁へとメインザイルを繋ぐ点が刻まれていく。
コンコン、カンッ、キンキン、キンッ。
音と手ごたえが変って、ハーケンが利いたと伝わらす。
カラビナをセットして確保支点を作り、そしてザイルを軽く引く。
赤いザイルの向こう動きが止まり、ハーケンの叩かれる聲が明るく響きだす。
キンキン、カンッ
ハーケンが抜かれる音が足元の闇から謳う、そしてザイルが動きだす。
繋がれたアンザイレンザイルに伝わらす鼓動、吐息、そして生きている意志が温かい。
この今の瞬間を共に「山」で生きている、その喜びがハーケンの歌になって響いていく。
―英二、俺は信じてる、おまえは俺の全力でも絶対に付いてくる、ずっと俺と山で生きられる
心の真中から、願いが叫ぶ。
その叫びに応えるよう足許ひろがる闇の彼方、気配は温かい。
今日は英二の登山ザックも軽量化させた、普段より体は軽く動きやすいだろう。
その推測に添うようアンザイレンザイルの向こうは、リズミカルな動きでビレイしながら登ってくる。
―英二なら大丈夫だね、必ず俺と約束の天辺に行ける、
願うまま三点確保に登りあげ、この体はいつも通りに軽く岩壁を行く。
願いを叫ぶ心、けれど故郷の山々を登るのと同じに想いは謳う、そして山を感じる体は肌から笑う。
希薄な大気、冷厳の風と凍える山肌、そして秘める闇まとう「山」の意志。その全てが今、心地良い。
―ね、マッターホルン?アルプスの女王さまなら、教えてよ?
岩壁に意識を添わせながら、想うまま山に笑う。
この山にずっと聴きたかった問いかけに、喜びと心は微笑んだ。
―俺のアンザイレンパートナーが20年前、女王さまにキスしたね?とびっきり別嬪の山ヤの医学生だよ、覚えてるよね?
同じキスを俺にも教えてよ?女王さまのてっぺんに着いたら俺にキスして、約束を叶えさせてよ?雅樹さんの約束を俺に祝福して?
“Tu es un amant de montagne” 山の恋人
そうリッフェルホルンのガイドは自分に言祝いだ。
このアルプスで生まれた山ヤが「山の恋人」と認めるのなら、アルプスの女王も応えてくれる。
この両想いは愉しくて、いま登らす凍れる岩壁に女王の冷たい黒髪を視、その向こうに気高い吐息がふれる。
故郷の山から遠く離れた名峰連なるアルプス、その女王と謳われる山を今、登って口説いて恋愛に誘う。
―マッターホルン、20年前は雅樹さんと恋したね?その雅樹さんが唯ひとり恋した人間は俺なんだ、だから今、俺と恋してよ?
雅樹が恋した山の1つ、マッターホルンへ「秘密」と誘う。
あの夏に贈ってもらった山図には、雅樹の夢と憧憬がデータになって端正に綴られる。
この山を記した筆跡の努力が愛しい、あの努力も夢も憧憬も、全てを自分に贈ってくれた雅樹を今も想う。
あの美しい山ヤの医学生が自分に贈ってくれた、その全てを抱く心の真中から光一は「山」の恋愛に笑った。
―どうして女王さまが恋した山ヤが俺と惚れあったのか、今、登ってて解かるよね?ほら、俺のザイルと繋がってる男を感じてよ?
雅樹さんとソックリで全然違うだろ?雅樹さんは真っ新で天使みたいに純粋だったね、でも英二の純粋は激しくってLuciferみたいだ。
アルペングリューエンみたいに眩しくて、冷たくて熱くって、怖くて優しい。そんな山ヤは女王さま好きだろ?あいつも俺と惚れあってるよ、
そういう俺のコト気になるだろ?だからマッターホルン、俺とキスして恋してよ?8年前より本気のキスして、俺とあいつを祝福して?
呼びかけながらハーケンを撃ちこみ、ランニングビレイをとる。
ポイントごとの性格に合せて振るうハンマーに、マッターホルンはハーケンを受容れていく。
素直な岩壁へと微笑んで、その頬を優しく撫でる冷気を感じ、山懐の闇を抱きながら蒼い垂壁を登りあげる。
視界の後方180度、太陽の目覚めは遠く黎明の星は銀いろ降らす。この輝ける紺碧に聳える点に向かい、ヘッドライトの彼方へ駈ける。
―英二、おまえを信じてる。俺が奔っても離れないね、ほら天辺に行くよ?おまえを最高峰へ連れていく、約束を叶えさせてよ
こんなスピードで登攀することは、ずっと単独行だけだった。
滝沢第三スラブ、滝谷、北岳、他にも数々の岩壁を独り、約束を信じて登ってきた。
いつか雅樹が帰ってきてくれる、いつかアンザイレンを組んで一緒に約束を叶えてくれる。
そう信じて、その約束を叶えるために最高のクライマーになりたくて、ずっと独りきり登って訓練した。
そうして16年を自分は「約束」に縋るよう生きた、あの山桜に願いを懸けて叶わぬ夢を諦めきれずに、時を止めていた。
―16年だ、俺は8歳のガキのまんまだったね、雅樹さん?でも今は24歳だよ、大人になった俺を見てよ、大人の俺と約束を叶えてよ?
いまハンマーをふるう掌は、あの頃の倍に大きい。
いま登っていく身長もずっと高い、あの頃の雅樹より3cmも大きい。
もう今なら自分は「雅樹」とアンザイレンを組める、もう心の時間も8歳から動きだした。
この春3月の北鎌尾根、今この赤いアンザイレンザイルに繋がれる男が自分に「光」をくれて、臆病な眠りを覚ましてくれた。
そして時間は目覚めて時は動き、今、永く新しい約束に向かって登っていく。
『光一が大人になったら、僕をアンザイレンパートナーにしてくれる?ずっと一緒に山に登りたいんだ』
あの夏の約束へ今、24歳の自分は最高のパートナーと共に、16年を超えて辿り着く。
(to be continued)
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