「言語」その軌跡への道標

第58話 双璧act.8―another,side story「陽はまた昇る」
扉を開くと、テーブルにはテキストとノートが広がっていた。
グラスと料理の皿を隅に寄せ、オレンジいろ照らす食卓へと3人で頭を寄せあっている。
どうやら美代の受験勉強を皆で取り組んでいるらしい、その明るい真剣に周太は笑いかけた。
「遅れてすみません、」
「あ、湯原くん、援けて?」
すぐ美代が顔をあげて隣の座布団をポン、と叩いてくれる。
個室の扉を閉じて靴を脱ぎ、素直に周太は美代指定の席に座りこんだ。
「どうしたの、美代さん?」
「あのね、この長文なんだけど、意味がよく解からなくって、」
話しながら示してくれる問題は、英語の長文読解だった。
それは意訳と直訳が入り乱れ、言い回しに慣れていないと解かり難い。
幾らか英語が苦手らしい美代にとって、こういう出題は見た瞬間に固まってしまうだろう。
…でも美代さん、本が好きだから国語は得意なんだよね?
美代の読解力は高い、それが学力の高さにも直結している。
それを活かした解法を身につけたら良いだろうな?考えながら周太は隣に微笑んだ。
「美代さん、そのルーズリーフを一枚くれる?」
「うん、お願いします、」
素直に手渡してくれる紙を受けとり、テキストを傍に寄せる。
胸ポケットのペンを取ると、周太は英文の綴りを2行ごと空けながら写し始めた。
写したアルファベットの一行に合わせ和訳を書きこみ、熟語ごと意訳に赤、直訳に青のラインを引く。
そうして読み進むうち、引用された詩の一節に心止められた。
When,in a blessed season
With those two dear ones-to my heart so dear-
When in the blessd time of early love,
Long afterward I roamed about In daily presence of this very scene,
Upon the naked pool and dreary crags,
And on the melancholy beacon, fell
The spirit of pleasure and youth’s golden gleam-
And think ye not with radiance more divine
From these remembrances, and from the power They left behind?
自然の情景に心を重ねた一篇の詩、これを自分は知っている。
陽だまりふるテラス、ラタンの安楽椅子で父が読み聞かせてくれた。
そして父に遺された歳月を、喪った幸せの瞬間たどらせ幾度も読んだ、英国の詩。
…ワーズワスだね、お父さん?
ひとりごと心に呟いて、記憶の声が笑ってくれる。
明瞭なcut glassの発音が詩を読みあげ、次には母国の言葉に変えて語りゆく。
懐かしい深いテノールが詠う母語の訳、その記憶を追いかけ周太は綴った。
祝福された季節に
愛しい私の想い人ふたりと連れ立った―心より愛する人と
若き愛の祝福された季節、
あの同じ場所を、歳月を経て毎日のよう歩く時、
底も露わな池と、荒涼たる岩山と、
そして切なき山頂の道しるべに、
あふれる喜びの心と、若き黄金の輝きとがふり注いだ。
あれよりも神秘なる光輝を得られると、
数多の記憶と遺された力から 考えられるだろうか?
…祝福された季節、ふたりと連れ立った…切なき、山頂の道しるべ
綴った言葉に、届いたばかりの一文がふれてくる。
夜の街路樹の下に読んだ、スイスの空から贈られた言葉が今、切ない。
あの言葉に輝きを綴ってくれた英二の心は光一と共に、この自分の心も山頂へ連れ立ってくれたろうか?
From :宮田英二
subject:北壁2
添付ファイル:アイガー山頂とメンヒの銀嶺
本 文 :アイガー北壁、3時間かからず登れました。無事にクライネシャデックのBCまで戻ったよ。
今11時前、ふたりとも元気です。これからBCを回収してグリンデルワルトに戻ります。
そしたら風呂入って昼飯だよ。スイスの食事も旨いけど、周太の飯が恋しい。
ふたりはマッターホルンに続いてアイガーでも北壁登頂を成し遂げた。
世界記録に迫るタイムで北壁を登り、ふたり共に頂点に立った瞬間がメールの画像にまばゆい。
贈られた添付ファイル、ベルニーズアルプスの銀嶺は白銀の祝福に輝き、ひろやかな蒼穹は輝く。
きっと光一は愛用のカメラを背負って登り、父親の遺愛したレンズに夢と英二を映して笑ってくれた。
…きっと幸せな笑顔だね?ふたり一緒に登って、写真を撮って
ふたり山頂の雪へアイゼンの足跡を記し、祝福の瞬間に輝いた笑顔を写真の永遠に綴じこめた。
その栄光がふたりをクライマーとして、山岳救助隊員としての評価と立場を変えていく。
けれど、そんなことよりも夢を叶えて山頂で笑ってくれた、それが素直に嬉しい。
…よかったね、本当に
そっと心に微笑んで試験問題を和訳していく、その心は温かく静まっている。
それでも、やっぱり心かすかな痛みがある。この傷みが幼い子のよう我儘に泣いて、切ない。
ふたりが2つの北壁を終えた今、この後にふたりが見つめ合う瞬間が訪れるだろう。
その瞬間には英二の心から自分は消える、その覚悟が穏やかに傷み、泣く。
…でも笑っていたい、男の妻だからこそ出来るって笑っていたい、それが俺の誇りだから
女性の妻ならば、子供の「母」として夫を家庭に繋ぎ留める為に、嫉妬する権利と義務がある。
けれど自分は「男」母に成ることは出来ない、嫉妬して夫を留めるたらそれは自分勝手な我儘でしかない。
だって同じ男だからこそ英二の想いも解かってしまう、もし夢を懸け憧れた相手に恋されたなら何を想うか?
この理解をこそ自分の誇りにしたい、他の誰も英二の想いを解からなくても「同性の妻」として、自分だけは理解したい。
…英二の想いを理解していたい、同性の妻だからこそ出来る理解だって、誇りに胸を張っていたい
どんなに鍛えても華奢な骨格は変わらず小柄な自分、幼い日は女の子と間違われていた。
今も子供じみて成年とも認めてもらえ難い、そんな自分でも「男」の誇りがある。
だから、同じ「男」として今、恋する人の想いを理解して微笑んでいたい。
その勇気を見つめて周太はペンを止め、ルーズリーフを差し出した。
「はい、お待たせ…これね、意訳と直訳を使い分けることがコツなんだ、」
「ありがとう、あ、すごい解かり易いね?こういうふうに読むのね、」
嬉しそうに受け取って、楽しげに目を通してくれる笑顔が嬉しい。
その向かいから手塚も覗きこみながら、笑ってメニューのタッチパネルを渡してくれた。
「すごいな、きれいな文章になってる。湯原って英語も得意なんだ?」
「ん…父がね、外国の本を好きだから、」
メニューを開き答えながらも首筋を熱が昇りだす。
また赤くなりそう?いつもながら困っていると、青木准教授が笑いかけてくれた。
「辞書も使わずに訳しましたね、英語を使い慣れている感じで驚きました。入試のとき、センター試験も二次も高得点だったでしょう?」
「センターは英語でしたけど、二次はフランス語だったんです。選択者が少ないので、」
素直に答え微笑んで、パネルに並ぶカクテルから甘そうなものを探していく。
オレンジブロッサムって前に飲んで美味しかったな?決めてパネルから注文する前から明朗な声が訊いた。
「センターって、もしかして湯原って、大卒?」
すこし驚いたよう眼鏡の奥から見つめてくれる。
そういえば年齢の話も何もまだしていない、なんだか気恥ずかしくなりながら周太は頷いた。
「ん、そうだけど…」
「そうだったんだ、ごめん湯原?俺、高卒の社会人で年下だって思ってた、」
素直に謝って、照れくさげに愛嬌の笑顔ほころんだ。
年齢を解かっても話し方や呼び方は変わらない、そんな態度が嬉しくて周太は微笑んだ。
「謝らなくて良いよ?俺、職場でも高卒だって間違われてるから。童顔だし、背も高くないからね、」
素直に事実を言って、けれど少しも嫌じゃない。
そんな自分にコンプレックスが消え始めたと解かって嬉しい、微笑んだ周太に手塚は明るく笑ってくれた。
「そっか、でも勘違いごめんな?フランス語も英語も出来るなんてすごいな、トリリンガルってカッコいいよ、」
トリリンガルってほどでも無いのに?
言われた言葉にすこし驚いて、傍らの枝豆を摘みながら周太は正直に言った。
「そんなでも…聴くのと読み書きだけだよ?話すのはしたことないし、」
「聴けて書けるなら話せるんじゃない?湯原、こんど仏文の先生のとこ一緒に行ってみようよ?隣のキャンパスだしさ、」
楽しげに笑って提案してくれる、その言葉に心ことんと響く。
この提案通りにしたら、自分が知りたいことが解るかもしれない?
…仏文の先生なら、お祖父さんのこと何か知っているかもしれない?
東京大学文学部言語文化学科フランス語フランス文学研究室
この研究室が現在の東京大学におけるフランス文学専攻になる。
祖父の晉は東京大学第3類仏文専攻の教授だった、だから研究室の教員は祖父の後輩にあたる。
もしかしたら祖父の教え子である可能性も高い、そんな期待に周太は鼓動ひとつと頷いた。
「ん、行ってみたいな。手塚は第二外国語、フランス語を取ったの?」
「そうだよ、でも成績ボッコボコでさ?それで先生に、顔を憶えられちゃってるんだ、俺」
悪びれず応える笑顔はすっきり明るく聡明で「成績ボッコボコ」だと思えない。
なんだか意外な一面だな?可笑しくて笑った隣から美代が教えてくれた。
「あのね、手塚くんは理科全体での首席入学なのよ?それで受験のこと相談したの、」
東京大学の入学試験の枠は文科と理科で各一類から三類の計6類に区分され、二次試験は前期と後期の2回に試験日が設けられる。
その理科で首席ならセンター試験も二次試験も満点近いだろう、そんな秀才でも気さくで自然体の手塚が嬉しくて周太は笑いかけた。
「すごいね、手塚。本当に優秀なんだね。教えてもらって良かったね、美代さん、」
「大したこと無いって、俺は。その問題も上手く教えられないだろ?」
素直な賞賛に笑いかけた向こう、困ったよう眼鏡の奥で明るい目が笑ってくれる。
東大理系でトップに立つ男、そんな一面があるのに手塚の笑顔は実直に素朴で温かい。
飾ること無い自然体の笑顔のまま、秀才は気恥ずかしそうにも明るく笑ってくれた。
「きちんと教えられる湯原や、社会人しながら大学受験する小嶌さんの方が、ずっと優秀だろ?なのに褒められると困るよ、」
本当に照れくさくって困るな?
そんな貌で笑う教え子に微笑んで、青木准教授は可笑しそうに教えてくれた。
「普通、理科でトップなら医学部に行くでしょう?なのに手塚くん、農学部に来ちゃったんです。それで有名なんですよ、」
東京大学は入学当初、入試枠と同様に文科と理科で計6類に区分されて1年半の前期課程教育を受ける。
これを修了すると各学部へと分かれ、理科最難関と言われる医学部は理科三類、農学部は理科二類からの進学者が多い。
こうした学部の学内ランクがある、それなのに首席の手塚が医学部を選ばず農学部へ進学した。そんな事実へと本人は衒いなく笑った。
「だって俺、人間の解剖とか無理ですって。もう鹿の解体とかでアウト、最初っから森林生物科学がターゲットだし、」
明るく笑って言ってくれる、その笑顔は質朴なまま底抜けに明るい。
同じ東大生でも同期の内山とは雰囲気が違う、こう気さくな手塚が愉しくて嬉しくなる。
いろんな話をしてみたいな?そんな想い微笑んだとき、扉が開いてグラスが運ばれてきた。
それを受けとる隣、美代は机の上を片づけると、隅によせた料理を並べながら明るく微笑んだ。
「勉強会、ありがとうございました。こういう訳で私、8時半で帰らせてもらいますね?でも、あと1時間半は楽しんじゃいます、」
「たまには気分転換も必要ですよ、勉強は。私も8時半で帰りますね、」
気さくに笑って青木も取り皿を配ってくれる。
そんな席で割り箸を銘々に渡しながら、周太は訊いてみた。
「青木先生は、フランス文学の先生でお知り合いはいらっしゃいますか?」
「はい、ワンゲルOB会の先輩が教授をしています。そうだ、ご紹介させて下さいますか?」
言って、青木准教授はひとくちビールを飲んだ。
それから愉しそうに笑って、周太へと提案をしてくれた。
「彼は今、講義のテキストに使うフランスの原書を、日本語と英語に訳す助手を探しているんです。でも中々ちょうど良い方が居なくて。
きっと湯原くんなら適任だと思うんです、少ないけどバイト代も出すから心当たりがあれば、と言われているのですが、いかがでしょう?」
愉しげな笑顔から言われた提案に、鼓動がまた響く。
とくん、裡から響いた音に考えがうかんで、顕われる希望が微笑んだ。
この与えてもらった提案が「パズル」のピースを与えるかもしれない?この考え素直に周太は応えた。
「あの、僕は職場の決まりでバイト代は受け取れないんです。でも、フランス語の勉強をさせて頂くという理由ならお手伝い出来ます。
ただ仕事の関係で、お手伝いできる時間の都合が限られると思うんです。講義の後とか仕事の合間になりますが、よろしいでしょうか?」
警察官は公務員、当然のようアルバイトは出来ない。
けれど勉強目的での無償なら問題は無い、そう条件を出した向うから准教授は頷いてくれた。
「ええ、大丈夫だと思いますよ?勉強目的って聴いたら先輩も喜ぶと思います、また確認してお知らせしますね、」
祖父と父を辿る「パズル」のピースが与えられる?
その希望を青木の言葉に聴いて、周太は微笑んで頭を下げた。
「はい、よろしくお願いします、」
フランス文学専攻の教員と、直接知り合う機会が与えられるかもしれない。
この幸運なチャンスに希望を見つめて、心裡ひとりごとが微笑んだ。
…大学の繋がりから解かるかもしれない、お祖父さんとお父さんのこと…警察の世界だけじゃなくて、学問の世界から、
警察組織で父のことを調べる時、父が所属した部署の特殊性から機密に抵触しやすい。
そのリスクが不透明で、警察内部での自由な調査はあまり望めそうにない。
けれど、大学関係者から祖父の軌跡を辿るならリスクは少なくて済む。
…そう、お祖父さんから調べたら良いよね?大学の知り合いとかから…お祖父さんの小説を持っている人にも会えるかもしれない、
『La chronique de la maison』
大学の記念出版として刊行された、祖父が著したミステリー小説。
パリ郊外の屋敷を舞台に描き、仏文学者らしくフランス語で全文を記述してある。
もう絶版になり発行部数自体も少なくて、どれも個人所有か図書館の貴重書扱いにされ入手は難しい。
それでも祖父が記したものを読んでみたくて、東京大学の図書館で寄贈された一冊を一度閲覧した。
その寄贈本には父とも似た流麗な文体で、アルファベットのサインと詞書が肉筆で添えられている。
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
祖父は「何」を探し物と言い、誰を「君」と呼んでいる?
普通“recherche”は「研究」と訳す。
けれど推理小説であることを考えれば、意訳して「探し物」の方が通りやすい。
そう考えてきたけれど、祖父が研究者だったなら「研究」の意味もあるのかもしれない。
いったい探し物とは、研究とは、何を示すのだろう?あの詞書を誰に問いかけるのだろう?
…いちばん身近な相手は、息子であるお父さんだけど
詞書たちを記す古典的ブルーブラック・インクも、実家の書斎にある万年筆と同じ色だった。
あの本が発行された三十数年前、家の書斎でインクを補充した万年筆で祖父は綴ったのだろう。
その当時に祖父が「探し物」と呼ぶ何か事情がある、その事情を祖父の知人から得る証言で遡及したい。
…きっと事実を辿れるはず、だって「証拠」の小説がある「現場」の大学は、俺が通っている学校なんだから
祖父の遺作小説「証拠」は東京大学附属図書館にある、この「現場」である大学で自分は学んでいる。
このことは、祖父を知り「証拠」の意味を探す恰好のチャンスを得ている事だろう、この幸運を活かしたい。
その初動として学内のフランス文学関係者から知己を得たい、そう考え廻らせながらも周太は隣の友達へと謝った。
「美代さん、いま勝手にお手伝いのこと決めちゃったけど、ごめんね?でも受験勉強の手伝いも俺、ちゃんとするから、」
「謝らないで?ちゃんと手伝ってもらうつもりで聴いてたもの、私、」
本当に気にしないで?
そう綺麗な明るい目が笑ってくれる、その向かいから手塚も言ってくれた。
「もし良かったらさ、俺も小嶌さんの勉強手伝うよ?土曜ならバイト無いから講義の後は時間あるよ、湯原が忙しい時とか声かけて?」
「ほんと?そう言ってくれると心強いな、ありがとう。でも受験のこと、他の人には内緒にしてね?」
美代は家族の反対を押して、内緒で大学受験に挑もうとしている。
その為にも内緒にして欲しいのだろう、そんな美代に手塚は篤実な笑顔で応えてくれた。
「誰にも言わないよ、だってな?小嶌さんと仲良くすると俺、他のヤツらに嫉妬されて大変だろうしさ。小嶌さんって人気なんだよ?」
「あら、私なんかに恐縮しちゃうね?でも私は本命がちゃんといますから、ね?」
そうでしょ?そんなふう明るい目が周太に笑いかけてくれる。
その笑顔の意味が今は少し傷みながら、それでも笑って頷いた周太を見て手塚が笑った。
「やっぱり小嶌さんって湯原が本命なんだ?お似合いだよ、おふたりさん、」
「はい、ある意味で本命です。でも手塚くんの言う意味とは、ちょっと違うかも?」
明るい目が悪戯っ子に笑い、率直に答えてくれる。
その言葉たちに眼鏡の奥ひとつ瞬いて、素直に手塚は訊いてきた。
「あれ、違うんだ?ふたりは付合ってるんじゃないわけ?」
「ずっと付きあう予定よ?もっと大切な意味でね、」
可笑しくて堪らない、そんなふう明るく笑って可愛い声が応える。
いま言ってくれる「大切な意味」が今夜は尚更に嬉しくて、独りじゃない実感が温かい。
もう縋ることは出来ない「恋愛」それ以外で繋がり合える相手が傍にいてくれる、この幸せに周太は微笑んだ。
…今、美代さんが隣に居てくれて嬉しい、先生まで居る…今夜、手塚に誘って貰えて良かった
もう何度も覚悟してきた「今夜」なのに、本音は泣きたくて仕方ない。
それでも泣きたくない意地がある、この想い支えてくれる友達の存在が素直に嬉しい。
こんな自分の今が嬉しくて微笑んだ隣から、愉しそうに美代は笑いかけてくれた。
「ね、宮田くんからメールあったでしょ?なんて返事したの、」
「…あ、美代さんにも光一から連絡あった?」
携帯を開きながら言った名前に、ほっと心で溜息こぼれる。
あと9時間もすればスイスは夜を迎える、そのとき自分は何を想うのだろう?
この来るべき現実と想いを見つめる視界へと、楽しそうに美代はメールを見せてくれた。
「見て?光ちゃんってね、いつもこうなのよ?」
From :国村光一
subject:無題
本 文 :アイガーとも相思相愛だよ、
たった1行のメール本文、けれど光一らしくて愉しい。
こういう光一だから自分は好きだ、だから「今夜」の覚悟も祈りも温かい。
もう決めた想いの寂しさと幸せのまま笑って、周太は自分のメールを美代に披露した。
「英二からのは恥ずかしいから見せれないけど、ごめんね、」
「あ、憎たらしいね?でも納得よ、」
笑ってくれながら画面を覗きこんでくれる。
その横顔に、ちくんと心が刺されて「秘密」に小さく溜息こぼれた。
…美代さんは知らない方が良いことだね、英二と光一のこと
美代は光一の幼馴染で姉代わり、そして英二に恋をしている。
そんな美代から見れば、憧れ恋する相手が幼馴染と恋愛関係を持つことになる。
ショックが無いとは決して言えない、それに美代の性格なら周太を気遣い光一に反発する可能性もある。
何よりも、英二と光一が担う立場に懸る「秘密」を、誰に言うことも出来るわけがない。この秘匿に周太は微笑んだ。
「憎たらしくても納得してね、これも俺の特権だから、」
この秘密を抱えることは「妻」である自分の特権、だから大切に守りたい。
この特権の重みと切ない幸福に微笑んだ隣、可笑しそうに笑ってくれた。
「ほんと特権って感じよね?こればっかりは仕方ないね?」
「ん、仕方ないよ?」
笑って答えながら携帯を閉じて、ポケットに仕舞いこむ。
その向かいから手塚が笑いかけた。
「ふたりの内緒話、終った?」
内緒話って言われると何か恥ずかしいな?
そんな感想に首筋が熱くなりそうでいると、美代が楽しげに答えてくれた。
「はい、終了です。青木先生、付属の演習林のこと教えて戴けますか?」
「良いですよ、」
気さくに青木樹医は笑って頷き、話しだしてくれる。
それを聴きながら左手首のクライマーウォッチを見、時刻を気にしてしまう。
デジタル表示は19時57分、あと9時間後には生まれるだろう「秘密」を密やかに周太は見つめた。
…いまスイスの夜は21時すぎ…夜になったら光一は告白して、ふたりは本当に恋人になる、ね
スイスから帰国後すぐ8月一日、警視庁山岳救助隊のエースとして光一は第七機動隊第二小隊長に着任する。
英二も9月には第二小隊へ異動する、そして光一のザイルパートナー且つ補佐役として公認され、二人は上司と部下になる。
この人事異動に対しても、三大北壁の二つをトップクラスの記録で完登した実績が信頼となって、二人の立場を強化していくだろう。
その全ては「若く実力と実績を伴うクリーンな新指導者」であることに起因する、そこに二人の恋愛関係という要素はリスクが高い。
警察組織の指導的立場を担うと嘱望される二人、そのパートナーシップに恋愛関係は「公人」として認められ難すぎて、言えない。
…これを知ることは責任が大きいんだ、だから美代さんは知るべきじゃない…だって美代さんは部外者でいられるから
確かに美代は英二に恋している、けれどまだ憧憬に近い片恋で何の責任も無い。
光一も幼馴染としては深い付合いがある、けれど恋愛という側面での絆は何も無い。
だから美代は「恋愛」という意味では、英二と光一に対して責任が何もない、だから知る理由も無い。
けれど自分は違う、英二の婚約者として「妻」としての連帯責任がある、その自覚のもとに自分は光一の背中を押した。
英二と光一、ふたりの恋愛は公認されない「リスク」が高い恋愛だろう。
けれど二人は互いに唯一の夢を追うパートナー、より深い絆を求めるのは必然かもしれない。
その必然と自分の願いを懸けて光一の背中を押した、ふたりが心から幸せに笑うなら構わないと信じたから。
そして、この「秘密」を自分だけは英二の「妻」である責任と権利で共に背負える、それが誇らしく嬉しい。
…お母さんにも話せない、このことだけは
そっと「秘密」に微笑んで、オレンジの香をグラスから呑みこむ。
ふわり甘い香とアルコールの香に、ただ幸せだった瞬間の綺麗な笑顔が懐かしい。
ただ英二だけを見つめていた時間、まだ英二を独り占めしていた浅い春までの優しい時間たち。
あの頃を名残らす柑橘の香は甘くて、かすかな酒の気配ほろ苦くて、ほろ苦い甘い香の記憶が心を掴む。
『周太、俺の幸せは周太の隣だけでしか見つけられない…愛してる、ずっと』
いつも言ってくれた言葉、けれど次は聴かせて貰えるの?
この今も言葉の記憶は甘くて、けれど苦く切ないのは我儘だろうか。
いつも告げながら眼差しは自分だけを映し熱かった、けれど独り占めの時は終わる。
もう何度も、幾度も考えて見つめて、いちばんだと考え出した答えと現実。それでも今、オレンジが苦い。
そんな想いを隠して笑いあう食卓は、大学付属の森について話題が飛び交っていく。
「田無にもありますけど秩父演習林の方が合うと思いますよ?奥多摩に近いですしね。あとは北海道に千葉、伊豆、愛知、」
「富士の研究所も良いですよね、山中湖のところ、」
「あそこは宿泊施設もあるんだよ?先生、今度のフィールドワークにどうですか?」
付属演習林の話題は楽しくて今の心を温めてくれる。
笑って聴きながら箸を動かして、けれど口にした厚焼き玉子に記憶の声が笑った。
『周太の甘い玉子焼きって好きだな、なんか幸せな気分になれて。また作ってくれる?』
朝の光ふるダイニング、懐かしい家の日常の風景。
そこに座って笑う笑顔のダークブラウン綺麗な髪は、すこし濡れている。
起きて朝のシャワーを使った名残の濡れ髪、ふっと香る石鹸に夜と暁に抱きしめあえた幸福が面映ゆい。
…でも、もう俺だけのものじゃない、あの幸せは
穏やかな白皙の寝顔、長い睫は頬に翳落として端正な唇は微睡む。
朝、目覚めて見つめ合う笑顔、夜の幸福を惜しむように抱きしめてくれる腕の温もり。
ふれる鼓動の頼もしい響き、抱きあげてくれる腕に甘え委ねる安堵と幸福、その全てが大切な自分の世界。
けれどもう、自分だけの世界じゃない。
もう英二は自分ひとりの恋人じゃない、もうあの幸せは独り占めじゃない。
あの全てを次にいつ与えられるのか?それすらも今の自分は解からない、だからこそ自分は英二を光一に託したかった。
…こんなふうに想うことを英二にさせたくないから、英二を絶対に独りにしたくない…だからお願い光一、英二を離さないで?
英二は、孤独に弱い。
初任科総合の2ヶ月間、英二は少しずつ壊れていった。
警察学校で共に過ごす時間は楽しくて、けれど終わりが近づくごと英二の眼差しが変っていく。
いつも穏やかで優しい切長の目、けれど夜に眠る衿元へと長い指は掛けられボタンを外し、規則違反を犯しても肌を求める。
その指と眼差しが哀しくて、愛しくて切なくて拒みたくなかった、そうして受容れる夜のなか「瞬間」が来てしまった。
『俺は今…君を殺そうとした、…君を、離したくなくて』
ずっと傍にいたくて、どこにも行かせたくなくて
ずっと見つめていたくて離れたくないから、だから首に手を掛けて君を殺そうとしたんだ
そう言って泣いてくれた貌が哀しくて愛しくて、それでも離れねばならない未来に考えるようになった。
どうしたら英二を孤独にしないで済むのか?そう考えれば必ず光一の俤がうかんでくれた。
だから今夜、光一に英二を託したくて自分は夜の支度まで光一に持たせた。
それが意地で決意で、愛情の証だと信じたから。
…だからこれでいいんだ、でも哀しいのは仕方ない、かな?
もう独り占めの幸福は終わる、それでも英二が笑って幸せでいるなら、光一が幸せならそれで良い。
けれど想ってしまう、我儘な願いと小さなプライドと、心の深くから叫ぶよう恋い慕う。
あの笑顔を、寝顔を、いつ自分は次に見られるの?
「ごめんね、ちょっと中座します、」
微笑んでグラスを置いて、立ち上がる。
すぐ気がついた美代の眼差しは明るくて、楽しげに笑いかけてくれた。
「いってらっしゃい、でも帰りまでには戻ってきてね?」
いつもと変わらない明るい目、明るい声。
その普段どおりの温もりに今、支えられるよう周太は綺麗に笑った。
「うん、すぐ戻るよ?」
笑って頷いて、扉を開いて個室を出る。
そっと閉めた扉の向こう、青木樹医の声が楽しげに続けた。
「夜間の作業訓練もあるんです。林道には民家や釣場にキャンプ場もあります、そのために緊急の場合は夜間でも出動があるので、」
そういう仕事もあるんだな?
そんな感想と微笑んで廊下を歩き奥の窓に立つ、その眼下に夜は広がった。
…いま、スイスは真昼だね?
ふっと8時間の時差を想い、涙ひとつ頬伝う。
いま自分は夜に佇んで、けれど真昼の明るい世界がこの瞬間にある。
夜と昼に隔てられた8時間、この夜空の彼方へ続く場所の幸福を祈りながら、けれど涙は頬こぼれる。
…かっこわるいね…やっぱり泣き虫ワガママだね、俺
自分に少し笑って涙を指で拭う、その目線に夜は月を見せる。
白銀まばゆい遠い光、その輝きに遥かな銀嶺の遠さを感じて今、独りが切ない。
こんな想いのときに飲もうと誘ってもらって良かった、もし寮で独りきりなら辛すぎるから。
そんな想いと涙を拭い、呼吸ひとつで微笑むと周太は踵を返した。

【引用詩文:William Wordsworth『The Prelude Books XI,257-388 [Spots of Time]』】
(to be continued)
blogramランキング参加中!

にほんブログ村

第58話 双璧act.8―another,side story「陽はまた昇る」
扉を開くと、テーブルにはテキストとノートが広がっていた。
グラスと料理の皿を隅に寄せ、オレンジいろ照らす食卓へと3人で頭を寄せあっている。
どうやら美代の受験勉強を皆で取り組んでいるらしい、その明るい真剣に周太は笑いかけた。
「遅れてすみません、」
「あ、湯原くん、援けて?」
すぐ美代が顔をあげて隣の座布団をポン、と叩いてくれる。
個室の扉を閉じて靴を脱ぎ、素直に周太は美代指定の席に座りこんだ。
「どうしたの、美代さん?」
「あのね、この長文なんだけど、意味がよく解からなくって、」
話しながら示してくれる問題は、英語の長文読解だった。
それは意訳と直訳が入り乱れ、言い回しに慣れていないと解かり難い。
幾らか英語が苦手らしい美代にとって、こういう出題は見た瞬間に固まってしまうだろう。
…でも美代さん、本が好きだから国語は得意なんだよね?
美代の読解力は高い、それが学力の高さにも直結している。
それを活かした解法を身につけたら良いだろうな?考えながら周太は隣に微笑んだ。
「美代さん、そのルーズリーフを一枚くれる?」
「うん、お願いします、」
素直に手渡してくれる紙を受けとり、テキストを傍に寄せる。
胸ポケットのペンを取ると、周太は英文の綴りを2行ごと空けながら写し始めた。
写したアルファベットの一行に合わせ和訳を書きこみ、熟語ごと意訳に赤、直訳に青のラインを引く。
そうして読み進むうち、引用された詩の一節に心止められた。
When,in a blessed season
With those two dear ones-to my heart so dear-
When in the blessd time of early love,
Long afterward I roamed about In daily presence of this very scene,
Upon the naked pool and dreary crags,
And on the melancholy beacon, fell
The spirit of pleasure and youth’s golden gleam-
And think ye not with radiance more divine
From these remembrances, and from the power They left behind?
自然の情景に心を重ねた一篇の詩、これを自分は知っている。
陽だまりふるテラス、ラタンの安楽椅子で父が読み聞かせてくれた。
そして父に遺された歳月を、喪った幸せの瞬間たどらせ幾度も読んだ、英国の詩。
…ワーズワスだね、お父さん?
ひとりごと心に呟いて、記憶の声が笑ってくれる。
明瞭なcut glassの発音が詩を読みあげ、次には母国の言葉に変えて語りゆく。
懐かしい深いテノールが詠う母語の訳、その記憶を追いかけ周太は綴った。
祝福された季節に
愛しい私の想い人ふたりと連れ立った―心より愛する人と
若き愛の祝福された季節、
あの同じ場所を、歳月を経て毎日のよう歩く時、
底も露わな池と、荒涼たる岩山と、
そして切なき山頂の道しるべに、
あふれる喜びの心と、若き黄金の輝きとがふり注いだ。
あれよりも神秘なる光輝を得られると、
数多の記憶と遺された力から 考えられるだろうか?
…祝福された季節、ふたりと連れ立った…切なき、山頂の道しるべ
綴った言葉に、届いたばかりの一文がふれてくる。
夜の街路樹の下に読んだ、スイスの空から贈られた言葉が今、切ない。
あの言葉に輝きを綴ってくれた英二の心は光一と共に、この自分の心も山頂へ連れ立ってくれたろうか?
From :宮田英二
subject:北壁2
添付ファイル:アイガー山頂とメンヒの銀嶺
本 文 :アイガー北壁、3時間かからず登れました。無事にクライネシャデックのBCまで戻ったよ。
今11時前、ふたりとも元気です。これからBCを回収してグリンデルワルトに戻ります。
そしたら風呂入って昼飯だよ。スイスの食事も旨いけど、周太の飯が恋しい。
ふたりはマッターホルンに続いてアイガーでも北壁登頂を成し遂げた。
世界記録に迫るタイムで北壁を登り、ふたり共に頂点に立った瞬間がメールの画像にまばゆい。
贈られた添付ファイル、ベルニーズアルプスの銀嶺は白銀の祝福に輝き、ひろやかな蒼穹は輝く。
きっと光一は愛用のカメラを背負って登り、父親の遺愛したレンズに夢と英二を映して笑ってくれた。
…きっと幸せな笑顔だね?ふたり一緒に登って、写真を撮って
ふたり山頂の雪へアイゼンの足跡を記し、祝福の瞬間に輝いた笑顔を写真の永遠に綴じこめた。
その栄光がふたりをクライマーとして、山岳救助隊員としての評価と立場を変えていく。
けれど、そんなことよりも夢を叶えて山頂で笑ってくれた、それが素直に嬉しい。
…よかったね、本当に
そっと心に微笑んで試験問題を和訳していく、その心は温かく静まっている。
それでも、やっぱり心かすかな痛みがある。この傷みが幼い子のよう我儘に泣いて、切ない。
ふたりが2つの北壁を終えた今、この後にふたりが見つめ合う瞬間が訪れるだろう。
その瞬間には英二の心から自分は消える、その覚悟が穏やかに傷み、泣く。
…でも笑っていたい、男の妻だからこそ出来るって笑っていたい、それが俺の誇りだから
女性の妻ならば、子供の「母」として夫を家庭に繋ぎ留める為に、嫉妬する権利と義務がある。
けれど自分は「男」母に成ることは出来ない、嫉妬して夫を留めるたらそれは自分勝手な我儘でしかない。
だって同じ男だからこそ英二の想いも解かってしまう、もし夢を懸け憧れた相手に恋されたなら何を想うか?
この理解をこそ自分の誇りにしたい、他の誰も英二の想いを解からなくても「同性の妻」として、自分だけは理解したい。
…英二の想いを理解していたい、同性の妻だからこそ出来る理解だって、誇りに胸を張っていたい
どんなに鍛えても華奢な骨格は変わらず小柄な自分、幼い日は女の子と間違われていた。
今も子供じみて成年とも認めてもらえ難い、そんな自分でも「男」の誇りがある。
だから、同じ「男」として今、恋する人の想いを理解して微笑んでいたい。
その勇気を見つめて周太はペンを止め、ルーズリーフを差し出した。
「はい、お待たせ…これね、意訳と直訳を使い分けることがコツなんだ、」
「ありがとう、あ、すごい解かり易いね?こういうふうに読むのね、」
嬉しそうに受け取って、楽しげに目を通してくれる笑顔が嬉しい。
その向かいから手塚も覗きこみながら、笑ってメニューのタッチパネルを渡してくれた。
「すごいな、きれいな文章になってる。湯原って英語も得意なんだ?」
「ん…父がね、外国の本を好きだから、」
メニューを開き答えながらも首筋を熱が昇りだす。
また赤くなりそう?いつもながら困っていると、青木准教授が笑いかけてくれた。
「辞書も使わずに訳しましたね、英語を使い慣れている感じで驚きました。入試のとき、センター試験も二次も高得点だったでしょう?」
「センターは英語でしたけど、二次はフランス語だったんです。選択者が少ないので、」
素直に答え微笑んで、パネルに並ぶカクテルから甘そうなものを探していく。
オレンジブロッサムって前に飲んで美味しかったな?決めてパネルから注文する前から明朗な声が訊いた。
「センターって、もしかして湯原って、大卒?」
すこし驚いたよう眼鏡の奥から見つめてくれる。
そういえば年齢の話も何もまだしていない、なんだか気恥ずかしくなりながら周太は頷いた。
「ん、そうだけど…」
「そうだったんだ、ごめん湯原?俺、高卒の社会人で年下だって思ってた、」
素直に謝って、照れくさげに愛嬌の笑顔ほころんだ。
年齢を解かっても話し方や呼び方は変わらない、そんな態度が嬉しくて周太は微笑んだ。
「謝らなくて良いよ?俺、職場でも高卒だって間違われてるから。童顔だし、背も高くないからね、」
素直に事実を言って、けれど少しも嫌じゃない。
そんな自分にコンプレックスが消え始めたと解かって嬉しい、微笑んだ周太に手塚は明るく笑ってくれた。
「そっか、でも勘違いごめんな?フランス語も英語も出来るなんてすごいな、トリリンガルってカッコいいよ、」
トリリンガルってほどでも無いのに?
言われた言葉にすこし驚いて、傍らの枝豆を摘みながら周太は正直に言った。
「そんなでも…聴くのと読み書きだけだよ?話すのはしたことないし、」
「聴けて書けるなら話せるんじゃない?湯原、こんど仏文の先生のとこ一緒に行ってみようよ?隣のキャンパスだしさ、」
楽しげに笑って提案してくれる、その言葉に心ことんと響く。
この提案通りにしたら、自分が知りたいことが解るかもしれない?
…仏文の先生なら、お祖父さんのこと何か知っているかもしれない?
東京大学文学部言語文化学科フランス語フランス文学研究室
この研究室が現在の東京大学におけるフランス文学専攻になる。
祖父の晉は東京大学第3類仏文専攻の教授だった、だから研究室の教員は祖父の後輩にあたる。
もしかしたら祖父の教え子である可能性も高い、そんな期待に周太は鼓動ひとつと頷いた。
「ん、行ってみたいな。手塚は第二外国語、フランス語を取ったの?」
「そうだよ、でも成績ボッコボコでさ?それで先生に、顔を憶えられちゃってるんだ、俺」
悪びれず応える笑顔はすっきり明るく聡明で「成績ボッコボコ」だと思えない。
なんだか意外な一面だな?可笑しくて笑った隣から美代が教えてくれた。
「あのね、手塚くんは理科全体での首席入学なのよ?それで受験のこと相談したの、」
東京大学の入学試験の枠は文科と理科で各一類から三類の計6類に区分され、二次試験は前期と後期の2回に試験日が設けられる。
その理科で首席ならセンター試験も二次試験も満点近いだろう、そんな秀才でも気さくで自然体の手塚が嬉しくて周太は笑いかけた。
「すごいね、手塚。本当に優秀なんだね。教えてもらって良かったね、美代さん、」
「大したこと無いって、俺は。その問題も上手く教えられないだろ?」
素直な賞賛に笑いかけた向こう、困ったよう眼鏡の奥で明るい目が笑ってくれる。
東大理系でトップに立つ男、そんな一面があるのに手塚の笑顔は実直に素朴で温かい。
飾ること無い自然体の笑顔のまま、秀才は気恥ずかしそうにも明るく笑ってくれた。
「きちんと教えられる湯原や、社会人しながら大学受験する小嶌さんの方が、ずっと優秀だろ?なのに褒められると困るよ、」
本当に照れくさくって困るな?
そんな貌で笑う教え子に微笑んで、青木准教授は可笑しそうに教えてくれた。
「普通、理科でトップなら医学部に行くでしょう?なのに手塚くん、農学部に来ちゃったんです。それで有名なんですよ、」
東京大学は入学当初、入試枠と同様に文科と理科で計6類に区分されて1年半の前期課程教育を受ける。
これを修了すると各学部へと分かれ、理科最難関と言われる医学部は理科三類、農学部は理科二類からの進学者が多い。
こうした学部の学内ランクがある、それなのに首席の手塚が医学部を選ばず農学部へ進学した。そんな事実へと本人は衒いなく笑った。
「だって俺、人間の解剖とか無理ですって。もう鹿の解体とかでアウト、最初っから森林生物科学がターゲットだし、」
明るく笑って言ってくれる、その笑顔は質朴なまま底抜けに明るい。
同じ東大生でも同期の内山とは雰囲気が違う、こう気さくな手塚が愉しくて嬉しくなる。
いろんな話をしてみたいな?そんな想い微笑んだとき、扉が開いてグラスが運ばれてきた。
それを受けとる隣、美代は机の上を片づけると、隅によせた料理を並べながら明るく微笑んだ。
「勉強会、ありがとうございました。こういう訳で私、8時半で帰らせてもらいますね?でも、あと1時間半は楽しんじゃいます、」
「たまには気分転換も必要ですよ、勉強は。私も8時半で帰りますね、」
気さくに笑って青木も取り皿を配ってくれる。
そんな席で割り箸を銘々に渡しながら、周太は訊いてみた。
「青木先生は、フランス文学の先生でお知り合いはいらっしゃいますか?」
「はい、ワンゲルOB会の先輩が教授をしています。そうだ、ご紹介させて下さいますか?」
言って、青木准教授はひとくちビールを飲んだ。
それから愉しそうに笑って、周太へと提案をしてくれた。
「彼は今、講義のテキストに使うフランスの原書を、日本語と英語に訳す助手を探しているんです。でも中々ちょうど良い方が居なくて。
きっと湯原くんなら適任だと思うんです、少ないけどバイト代も出すから心当たりがあれば、と言われているのですが、いかがでしょう?」
愉しげな笑顔から言われた提案に、鼓動がまた響く。
とくん、裡から響いた音に考えがうかんで、顕われる希望が微笑んだ。
この与えてもらった提案が「パズル」のピースを与えるかもしれない?この考え素直に周太は応えた。
「あの、僕は職場の決まりでバイト代は受け取れないんです。でも、フランス語の勉強をさせて頂くという理由ならお手伝い出来ます。
ただ仕事の関係で、お手伝いできる時間の都合が限られると思うんです。講義の後とか仕事の合間になりますが、よろしいでしょうか?」
警察官は公務員、当然のようアルバイトは出来ない。
けれど勉強目的での無償なら問題は無い、そう条件を出した向うから准教授は頷いてくれた。
「ええ、大丈夫だと思いますよ?勉強目的って聴いたら先輩も喜ぶと思います、また確認してお知らせしますね、」
祖父と父を辿る「パズル」のピースが与えられる?
その希望を青木の言葉に聴いて、周太は微笑んで頭を下げた。
「はい、よろしくお願いします、」
フランス文学専攻の教員と、直接知り合う機会が与えられるかもしれない。
この幸運なチャンスに希望を見つめて、心裡ひとりごとが微笑んだ。
…大学の繋がりから解かるかもしれない、お祖父さんとお父さんのこと…警察の世界だけじゃなくて、学問の世界から、
警察組織で父のことを調べる時、父が所属した部署の特殊性から機密に抵触しやすい。
そのリスクが不透明で、警察内部での自由な調査はあまり望めそうにない。
けれど、大学関係者から祖父の軌跡を辿るならリスクは少なくて済む。
…そう、お祖父さんから調べたら良いよね?大学の知り合いとかから…お祖父さんの小説を持っている人にも会えるかもしれない、
『La chronique de la maison』
大学の記念出版として刊行された、祖父が著したミステリー小説。
パリ郊外の屋敷を舞台に描き、仏文学者らしくフランス語で全文を記述してある。
もう絶版になり発行部数自体も少なくて、どれも個人所有か図書館の貴重書扱いにされ入手は難しい。
それでも祖父が記したものを読んでみたくて、東京大学の図書館で寄贈された一冊を一度閲覧した。
その寄贈本には父とも似た流麗な文体で、アルファベットのサインと詞書が肉筆で添えられている。
“Je te donne la recherche” 探し物を君に贈る
祖父は「何」を探し物と言い、誰を「君」と呼んでいる?
普通“recherche”は「研究」と訳す。
けれど推理小説であることを考えれば、意訳して「探し物」の方が通りやすい。
そう考えてきたけれど、祖父が研究者だったなら「研究」の意味もあるのかもしれない。
いったい探し物とは、研究とは、何を示すのだろう?あの詞書を誰に問いかけるのだろう?
…いちばん身近な相手は、息子であるお父さんだけど
詞書たちを記す古典的ブルーブラック・インクも、実家の書斎にある万年筆と同じ色だった。
あの本が発行された三十数年前、家の書斎でインクを補充した万年筆で祖父は綴ったのだろう。
その当時に祖父が「探し物」と呼ぶ何か事情がある、その事情を祖父の知人から得る証言で遡及したい。
…きっと事実を辿れるはず、だって「証拠」の小説がある「現場」の大学は、俺が通っている学校なんだから
祖父の遺作小説「証拠」は東京大学附属図書館にある、この「現場」である大学で自分は学んでいる。
このことは、祖父を知り「証拠」の意味を探す恰好のチャンスを得ている事だろう、この幸運を活かしたい。
その初動として学内のフランス文学関係者から知己を得たい、そう考え廻らせながらも周太は隣の友達へと謝った。
「美代さん、いま勝手にお手伝いのこと決めちゃったけど、ごめんね?でも受験勉強の手伝いも俺、ちゃんとするから、」
「謝らないで?ちゃんと手伝ってもらうつもりで聴いてたもの、私、」
本当に気にしないで?
そう綺麗な明るい目が笑ってくれる、その向かいから手塚も言ってくれた。
「もし良かったらさ、俺も小嶌さんの勉強手伝うよ?土曜ならバイト無いから講義の後は時間あるよ、湯原が忙しい時とか声かけて?」
「ほんと?そう言ってくれると心強いな、ありがとう。でも受験のこと、他の人には内緒にしてね?」
美代は家族の反対を押して、内緒で大学受験に挑もうとしている。
その為にも内緒にして欲しいのだろう、そんな美代に手塚は篤実な笑顔で応えてくれた。
「誰にも言わないよ、だってな?小嶌さんと仲良くすると俺、他のヤツらに嫉妬されて大変だろうしさ。小嶌さんって人気なんだよ?」
「あら、私なんかに恐縮しちゃうね?でも私は本命がちゃんといますから、ね?」
そうでしょ?そんなふう明るい目が周太に笑いかけてくれる。
その笑顔の意味が今は少し傷みながら、それでも笑って頷いた周太を見て手塚が笑った。
「やっぱり小嶌さんって湯原が本命なんだ?お似合いだよ、おふたりさん、」
「はい、ある意味で本命です。でも手塚くんの言う意味とは、ちょっと違うかも?」
明るい目が悪戯っ子に笑い、率直に答えてくれる。
その言葉たちに眼鏡の奥ひとつ瞬いて、素直に手塚は訊いてきた。
「あれ、違うんだ?ふたりは付合ってるんじゃないわけ?」
「ずっと付きあう予定よ?もっと大切な意味でね、」
可笑しくて堪らない、そんなふう明るく笑って可愛い声が応える。
いま言ってくれる「大切な意味」が今夜は尚更に嬉しくて、独りじゃない実感が温かい。
もう縋ることは出来ない「恋愛」それ以外で繋がり合える相手が傍にいてくれる、この幸せに周太は微笑んだ。
…今、美代さんが隣に居てくれて嬉しい、先生まで居る…今夜、手塚に誘って貰えて良かった
もう何度も覚悟してきた「今夜」なのに、本音は泣きたくて仕方ない。
それでも泣きたくない意地がある、この想い支えてくれる友達の存在が素直に嬉しい。
こんな自分の今が嬉しくて微笑んだ隣から、愉しそうに美代は笑いかけてくれた。
「ね、宮田くんからメールあったでしょ?なんて返事したの、」
「…あ、美代さんにも光一から連絡あった?」
携帯を開きながら言った名前に、ほっと心で溜息こぼれる。
あと9時間もすればスイスは夜を迎える、そのとき自分は何を想うのだろう?
この来るべき現実と想いを見つめる視界へと、楽しそうに美代はメールを見せてくれた。
「見て?光ちゃんってね、いつもこうなのよ?」
From :国村光一
subject:無題
本 文 :アイガーとも相思相愛だよ、
たった1行のメール本文、けれど光一らしくて愉しい。
こういう光一だから自分は好きだ、だから「今夜」の覚悟も祈りも温かい。
もう決めた想いの寂しさと幸せのまま笑って、周太は自分のメールを美代に披露した。
「英二からのは恥ずかしいから見せれないけど、ごめんね、」
「あ、憎たらしいね?でも納得よ、」
笑ってくれながら画面を覗きこんでくれる。
その横顔に、ちくんと心が刺されて「秘密」に小さく溜息こぼれた。
…美代さんは知らない方が良いことだね、英二と光一のこと
美代は光一の幼馴染で姉代わり、そして英二に恋をしている。
そんな美代から見れば、憧れ恋する相手が幼馴染と恋愛関係を持つことになる。
ショックが無いとは決して言えない、それに美代の性格なら周太を気遣い光一に反発する可能性もある。
何よりも、英二と光一が担う立場に懸る「秘密」を、誰に言うことも出来るわけがない。この秘匿に周太は微笑んだ。
「憎たらしくても納得してね、これも俺の特権だから、」
この秘密を抱えることは「妻」である自分の特権、だから大切に守りたい。
この特権の重みと切ない幸福に微笑んだ隣、可笑しそうに笑ってくれた。
「ほんと特権って感じよね?こればっかりは仕方ないね?」
「ん、仕方ないよ?」
笑って答えながら携帯を閉じて、ポケットに仕舞いこむ。
その向かいから手塚が笑いかけた。
「ふたりの内緒話、終った?」
内緒話って言われると何か恥ずかしいな?
そんな感想に首筋が熱くなりそうでいると、美代が楽しげに答えてくれた。
「はい、終了です。青木先生、付属の演習林のこと教えて戴けますか?」
「良いですよ、」
気さくに青木樹医は笑って頷き、話しだしてくれる。
それを聴きながら左手首のクライマーウォッチを見、時刻を気にしてしまう。
デジタル表示は19時57分、あと9時間後には生まれるだろう「秘密」を密やかに周太は見つめた。
…いまスイスの夜は21時すぎ…夜になったら光一は告白して、ふたりは本当に恋人になる、ね
スイスから帰国後すぐ8月一日、警視庁山岳救助隊のエースとして光一は第七機動隊第二小隊長に着任する。
英二も9月には第二小隊へ異動する、そして光一のザイルパートナー且つ補佐役として公認され、二人は上司と部下になる。
この人事異動に対しても、三大北壁の二つをトップクラスの記録で完登した実績が信頼となって、二人の立場を強化していくだろう。
その全ては「若く実力と実績を伴うクリーンな新指導者」であることに起因する、そこに二人の恋愛関係という要素はリスクが高い。
警察組織の指導的立場を担うと嘱望される二人、そのパートナーシップに恋愛関係は「公人」として認められ難すぎて、言えない。
…これを知ることは責任が大きいんだ、だから美代さんは知るべきじゃない…だって美代さんは部外者でいられるから
確かに美代は英二に恋している、けれどまだ憧憬に近い片恋で何の責任も無い。
光一も幼馴染としては深い付合いがある、けれど恋愛という側面での絆は何も無い。
だから美代は「恋愛」という意味では、英二と光一に対して責任が何もない、だから知る理由も無い。
けれど自分は違う、英二の婚約者として「妻」としての連帯責任がある、その自覚のもとに自分は光一の背中を押した。
英二と光一、ふたりの恋愛は公認されない「リスク」が高い恋愛だろう。
けれど二人は互いに唯一の夢を追うパートナー、より深い絆を求めるのは必然かもしれない。
その必然と自分の願いを懸けて光一の背中を押した、ふたりが心から幸せに笑うなら構わないと信じたから。
そして、この「秘密」を自分だけは英二の「妻」である責任と権利で共に背負える、それが誇らしく嬉しい。
…お母さんにも話せない、このことだけは
そっと「秘密」に微笑んで、オレンジの香をグラスから呑みこむ。
ふわり甘い香とアルコールの香に、ただ幸せだった瞬間の綺麗な笑顔が懐かしい。
ただ英二だけを見つめていた時間、まだ英二を独り占めしていた浅い春までの優しい時間たち。
あの頃を名残らす柑橘の香は甘くて、かすかな酒の気配ほろ苦くて、ほろ苦い甘い香の記憶が心を掴む。
『周太、俺の幸せは周太の隣だけでしか見つけられない…愛してる、ずっと』
いつも言ってくれた言葉、けれど次は聴かせて貰えるの?
この今も言葉の記憶は甘くて、けれど苦く切ないのは我儘だろうか。
いつも告げながら眼差しは自分だけを映し熱かった、けれど独り占めの時は終わる。
もう何度も、幾度も考えて見つめて、いちばんだと考え出した答えと現実。それでも今、オレンジが苦い。
そんな想いを隠して笑いあう食卓は、大学付属の森について話題が飛び交っていく。
「田無にもありますけど秩父演習林の方が合うと思いますよ?奥多摩に近いですしね。あとは北海道に千葉、伊豆、愛知、」
「富士の研究所も良いですよね、山中湖のところ、」
「あそこは宿泊施設もあるんだよ?先生、今度のフィールドワークにどうですか?」
付属演習林の話題は楽しくて今の心を温めてくれる。
笑って聴きながら箸を動かして、けれど口にした厚焼き玉子に記憶の声が笑った。
『周太の甘い玉子焼きって好きだな、なんか幸せな気分になれて。また作ってくれる?』
朝の光ふるダイニング、懐かしい家の日常の風景。
そこに座って笑う笑顔のダークブラウン綺麗な髪は、すこし濡れている。
起きて朝のシャワーを使った名残の濡れ髪、ふっと香る石鹸に夜と暁に抱きしめあえた幸福が面映ゆい。
…でも、もう俺だけのものじゃない、あの幸せは
穏やかな白皙の寝顔、長い睫は頬に翳落として端正な唇は微睡む。
朝、目覚めて見つめ合う笑顔、夜の幸福を惜しむように抱きしめてくれる腕の温もり。
ふれる鼓動の頼もしい響き、抱きあげてくれる腕に甘え委ねる安堵と幸福、その全てが大切な自分の世界。
けれどもう、自分だけの世界じゃない。
もう英二は自分ひとりの恋人じゃない、もうあの幸せは独り占めじゃない。
あの全てを次にいつ与えられるのか?それすらも今の自分は解からない、だからこそ自分は英二を光一に託したかった。
…こんなふうに想うことを英二にさせたくないから、英二を絶対に独りにしたくない…だからお願い光一、英二を離さないで?
英二は、孤独に弱い。
初任科総合の2ヶ月間、英二は少しずつ壊れていった。
警察学校で共に過ごす時間は楽しくて、けれど終わりが近づくごと英二の眼差しが変っていく。
いつも穏やかで優しい切長の目、けれど夜に眠る衿元へと長い指は掛けられボタンを外し、規則違反を犯しても肌を求める。
その指と眼差しが哀しくて、愛しくて切なくて拒みたくなかった、そうして受容れる夜のなか「瞬間」が来てしまった。
『俺は今…君を殺そうとした、…君を、離したくなくて』
ずっと傍にいたくて、どこにも行かせたくなくて
ずっと見つめていたくて離れたくないから、だから首に手を掛けて君を殺そうとしたんだ
そう言って泣いてくれた貌が哀しくて愛しくて、それでも離れねばならない未来に考えるようになった。
どうしたら英二を孤独にしないで済むのか?そう考えれば必ず光一の俤がうかんでくれた。
だから今夜、光一に英二を託したくて自分は夜の支度まで光一に持たせた。
それが意地で決意で、愛情の証だと信じたから。
…だからこれでいいんだ、でも哀しいのは仕方ない、かな?
もう独り占めの幸福は終わる、それでも英二が笑って幸せでいるなら、光一が幸せならそれで良い。
けれど想ってしまう、我儘な願いと小さなプライドと、心の深くから叫ぶよう恋い慕う。
あの笑顔を、寝顔を、いつ自分は次に見られるの?
「ごめんね、ちょっと中座します、」
微笑んでグラスを置いて、立ち上がる。
すぐ気がついた美代の眼差しは明るくて、楽しげに笑いかけてくれた。
「いってらっしゃい、でも帰りまでには戻ってきてね?」
いつもと変わらない明るい目、明るい声。
その普段どおりの温もりに今、支えられるよう周太は綺麗に笑った。
「うん、すぐ戻るよ?」
笑って頷いて、扉を開いて個室を出る。
そっと閉めた扉の向こう、青木樹医の声が楽しげに続けた。
「夜間の作業訓練もあるんです。林道には民家や釣場にキャンプ場もあります、そのために緊急の場合は夜間でも出動があるので、」
そういう仕事もあるんだな?
そんな感想と微笑んで廊下を歩き奥の窓に立つ、その眼下に夜は広がった。
…いま、スイスは真昼だね?
ふっと8時間の時差を想い、涙ひとつ頬伝う。
いま自分は夜に佇んで、けれど真昼の明るい世界がこの瞬間にある。
夜と昼に隔てられた8時間、この夜空の彼方へ続く場所の幸福を祈りながら、けれど涙は頬こぼれる。
…かっこわるいね…やっぱり泣き虫ワガママだね、俺
自分に少し笑って涙を指で拭う、その目線に夜は月を見せる。
白銀まばゆい遠い光、その輝きに遥かな銀嶺の遠さを感じて今、独りが切ない。
こんな想いのときに飲もうと誘ってもらって良かった、もし寮で独りきりなら辛すぎるから。
そんな想いと涙を拭い、呼吸ひとつで微笑むと周太は踵を返した。

【引用詩文:William Wordsworth『The Prelude Books XI,257-388 [Spots of Time]』】
(to be continued)
blogramランキング参加中!

