「始」時、既に動き、

第58話 双壁side K2 act.11
アイガーの北壁は今回、見送ることも考えよう。
今、そう英二は言った。
たった今、そうアンザイレンパートナーは自分に告げた。
これは現実の言葉なのだろうか?それとも変な白昼夢でも見ている?
「なに言ってんだよ、おまえ?」
言葉が押し出され、目の前の男を見つめる。
ただ驚きを真直ぐ見つめるまま、言葉は続いた。
「明後日は天気も、イイはずだね?」
「そうだな、明後日は晴れだろうな?」
笑いかけ頷きながら切長い目は、窓ガラスの向こうを見上げる。
その横顔は穏やかでも決然とした意志が堅い、眼差しは冷静でいる。
こういう貌のときは英二の判断は的確だろう、けれど言われた言葉への疑念が傷む。
―天気が良いって解かってるなら何故、アイガー北壁を見送るなんて言うワケ?
アイガー北壁は今日のマッターホルンより「風」による危険が怖い。
その風についての懸念が明後日なら少ないと予測している、それなのに何故?
解からない疑念と見つめた先、振向いた白皙の貌は光一に向きあい、切なく微笑んだ。
「でも光一、きっと、明日の午前中にツェルマットを発つことは出来ない。高尾署の人たちを置いていけない、」
仲間を置いて先には進めない。
そう告げられる意味は解かっている、それでも自分は明後日に懸けたい。
もし明日アイガー北壁のベースキャンプに入れなければ、明後日の登攀は不可能になる。
だから明日は発ちたい。もう16年ずっと見つめ続けた約束が叶う、この希望を目の前にして捨てるのは、嫌だ。
「嫌だね、」
たった一言、けれど16年の全てがこもる。
16年を超えて約束と夢を「山」に叶える、その為に自分達は出逢ったと信じている。
それなのに「山」を優先しないなんて無い、そう信じたい男を真直ぐ見つめ、光一は言い張った。
「アイガーの北壁は、明後日を逃したら今回のアタックは無理だね。きっと風がヤバくなる、明日アイスメーアに行くよ、」
「だめだ、」
即答に切り捨てた貌が、16年前の貌に重なる。
穏やかでも断固とした拒絶、堅い意志に動かないと告げる否定。
その否定を信じたくない、だって自分の専属ビレイヤーでアンザイレンパートナーの筈なのに?
―どうして解かってくれない?
ぽつんと心に呟く声に、瞳の底へと熱が湧く。
なぜ英二が否定するのか?その意味も言われている事も解かっている。
それでも今は我儘を言わせて欲しい、只の山ヤで居られる事は暫く遠くなるから。
―これを最後のワガママって決めてるのに、解かってよ?
昇進したらもう、こんな勝手は出来ない。
この今が過ぎて8月になれば、何十年と続く指導者の道に自分は立つ。
そうなったら自分の意志だけでは物事を動かせない、だから今が最後の我儘だと覚悟している。
何より「山」と約束を自由に優先出来るのは今が最後、だから今だけは全てより自分を優先してほしい。
―英二、おまえだけは俺を見てよ?ただの山っ子でいたいって本音を見ていてよ、
他の誰に理解されなくてもいい、唯ひとりには解ってほしい、受け留めていてほしい。
自分と共に「山」で生きられる唯一のアンザイレンパートナーには、本音を解かってほしい。
そう伝えたいのに喉が塞がれ声が出ないまま、端正な笑顔は静かに口を開いた。
「光一、俺たちは警視庁山岳会の遠征訓練でココに来たんだろ?だったら山ヤの警察官のルールを護らないといけない。
いつもの俺と光一だけのプライベートの訓練とは違う、今回は山ヤの警察官として、訓練の任務で北壁に登りに来ているんだ。
チームで登っているんだ、だからチーム全員の安否を確保してから次の山に進むべきだ。同じメンバーとして高尾署の帰りを待とう、」
そんなこと、おまえだけは言わないで?
やっと出逢えたアンザイレンパートナーのおまえだけには言われたくない。
もう16年ずっと待ち続けていた唯ひとり、誰より自分を優先してくれる専属ビレイヤーでパートナー。
それなのに自分以外を優先しないでよ?この自分の最後の我儘を聴いて約束を叶えてほしい、そう想うまま声が出た。
「そんなこと今はどうでもいい、俺は1人の山ヤとして、俺のアンザイレンパートナーと北壁を駆けあがりに来たんだ、」
そんなこと「今」だけはどうでもいいと、嘘でも頷いてよ?
いま本音を真直ぐ見つめて告げる、ただ山ヤとして生きたい瞬間の願い見つめる。
山と夢と約束、この3つへの想いだけ見つめて光一はアンザイレンパートナーに言った。
「今日、一発目が無事に終わったね、この運に乗っかって明後日も終わらせる。北壁は運がなきゃ登れないんだからね、
あの壁で風が吹かないなんて保証はチッともありゃしない、でも明後日は吹かない筈だね?こんな運は滅多に無いんだよ。
ここで手を引っ込めて、次に登れるなんて思ったら間違いだね。そしたらもう、おまえは二度とアタック出来ないかもしれない、」
アイガー北壁の別称は『死の壁』または『人を食う壁』と謂う。
真夏でも太陽の照らさない翳を抱き、急勾配の断崖からは岩石落下も頻発する。
そして高度1,800mの懐は風を抱きこみ、バックネットのよう凶暴な嵐を捕えて突然の豪風を巻き起こす。
―風だ、あの山は風を着ている。風の衣を着ない瞬間しか登れない、
突発的な気象変化「風」がアイガー北壁を難攻の高嶺にする。
この「風」に対する想いが心の真中で叫びだす、16年の哀しみが込みあげそうになる。
それでも無言で飲み下し見つめる向うから、綺麗な低い声は穏やかに言った。
「そうだな、光一の言う通りだ。アイガーの北壁は運が無かったら登れない、その運はマッターホルン以上かもしれないな、」
その通りなのだと受けとめ、頷いてくれる。
頷いてくれるなら我儘を聴いてほしい、この想い真直ぐ見つめてパートナーに告げた。
「そういう運は与えらえたら、キッチリ掴まないと次は解からない。それに山ヤなんざ自助が原則だ、おまえもさっき言ったよね?
高尾のヤツらだって俺たちと同じ、山のレスキューのプロなんだ。自分でなんとかする技術とプライドは、存分に持っているはずだね。
だったら信じて任せて、俺たちは自分のヤるべきことしてりゃイイ。俺たちは北壁を二発同時に抜くために来たんだ、明日は行くよ、」
信じて任せて、それぞれの領分に務める。
そんな山の「自助」という掟に従って今、単純に山ヤで居させてほしい。
こんな我儘はもうじき言えない立場になる、だから今だけは唯の山ヤだけでいたいのに?
だから今だけは唯のアンザイレンパートナーとして、俺を最優先してよ?そう見つめた真中で、冷静が口を開いた。
「あと数日で光一は七機に異動だ、そうしたら光一は小隊長になる。光一はリーダーとして自分のチーム全員を護る責任を負うんだ。
そういう立場で見られることは、異動が決まった瞬間から始まっているよ?きっと今回のメンバー全員がそういう目で光一を見てる。
もし高尾署の下山を見届けなかったら、リーダーとしての誇りを捨てたことになる。それは警視庁山岳会の次のトップから降りることだ、」
告げられる言葉に知らされる、もう、我儘は赦されない立場に自分はいる?
その宣告を今、自分のアンザイレンパートナーに告げられた?
―でも俺は山ヤだ、警察官より何より、
いちばん大切なものは唯ひとつだけ。
その想い真直ぐ見つめた先で、英二も本音のままに微笑んだ。
「光一、周太のお父さんのこと忘れないでほしい。もし警視庁山岳会の力が強ければ、お父さんは死なずに済んだかもしれない。
そうしたら周太だって、こんなことにならなかったんだ。夢を見つめて好きな植物学を勉強して、今頃はもう樹医の卵になれたんだ。
でも現実は違う、こういう現実を俺は終わらせたいんだ。そのために俺は今、光一にお願いしているんだよ?光一にしか出来ないから、」
光一の他には誰も出来ない、山ヤの警察官として出来ること。
そう言ってくれる切長い目が祈り、この心を軋ませながら笑いかけた。
「山ヤの世界は仲間意識が強いよな、だから山ヤの警察官で最高の立場に立てば、警察組織で光一は強い発言力を持てるはずだ。
そうしたら、あの男にも対抗出来るだけの力を手に入れられる。あの男に勝つには、警察庁に対しても発言出来る力が必要になんだ。
それには山ヤとしての成功だけじゃ足りないんだ、警察組織のリーダーとしても成功しないと出来ない。だから明日は高尾署を待ってくれ、」
―いま、力を手に入れられるって、言ったね?あの男に勝つにはって…
いま言われた『あの男』に、現実が迫る。
いま言われる『警察組織のリーダー』に、自分の存在価値が傷む。
この二つの想いに肚の底、静かに怒りと苛立ちが瞳を披いて、真直ぐ英二を見据えた。
―結局は俺のコト、周太の為に利用するってコトなんだね?
見据えた男へと、音のない声が怒りを孕む。
自分も周太を護りたいと願っている、けれど自発の願いと利用される事は別だ。
そして想ってしまう、アンザイレンパートナーとしての誇りが怒りに変化する。
―山での約束も全部が、おまえの都合に俺を利用するためってワケ?
じゃあ言ってくれた言葉は、何なんだ?
それなら結んでくれた約束の意味は、利用する餌なのか?
唯ひとりのアンザイレンパートナー、その想いすら全て利用するだけ?
「光一、警視庁山岳会の強いリーダーになってくれ。そして日本の警察すべての山ヤのリーダーになってほしいんだ。
そうすれば光一の補佐として俺は力を掴んで、あの男を追い詰められる。こんなこと身勝手だって解ってる、それでも頼みたい。
こんなこと光一は本当は望んでないって解ってる、こんなお願いを俺がするのは勝手過ぎる、分を超えてるって事も解かってるんだ。
でも、俺だけでは出来ないんだ、天才の光一が一緒じゃなかったら無理だ、だからお願いしてるんだ。だから明日は高尾署を待ってくれ、」
なんて人間の世界は惨酷なほど、束縛したがるのだろう?
ずっと見つめた約束の場所に明後日は立つ、その願いに今日まで努力もしてきた。
それを遮っても英二が望む目的のために、権力を掴むため自分を利用したいと今、言われている。
自分のアンザイレンパートナーが、自分のビレイヤーが、信じた「約束」を捨てて利用の都合を押しつける。
たった8時間前に見ていた現実は、今はもう、嘘なのか幻なのか?
―今日、北壁で見たものは、結局は利用目的の嘘ってことかよ?
北壁を登っていくアンザイレンザイル、そこに繋がれた想いは純粋だった。
雅樹も共に登ってくれたと笑った、山頂の写真を必死で心配してくれた、それなのに今は何だ?
あのとき暁の明星に耀いた、誇らかな自由に立っていたアンザイレンパートナーは幻だったのだろうか?
そして、自分が最愛だと思ったこの感情は、結局は諦めるべき夢に潰える?
「ひとつ教えろ、」
もう夢は終わる?それなら思い切りたいから教えてほしい。
この意志のままに真直ぐ英二を見つめて、光一は問いかけた。
「今日、北壁を登っているとき、おまえは何を考えていた?」
正直に言え、全ての思惑を。
夏の初めの夜にくれた告白、自分を憧れと言ったのも利用目的だったなら、そう言えばいい。
自分と雅樹の約束を想いを操るのなら、利用する目的に自分を遣うのなら、そう言えばいい。
いま容赦ない諦観の怒りに告げた宣言の前、切長い目は真直ぐ光一を見つめて透る声が言った。
「絶対に光一の夢を叶えてあげたい、俺が光一のアンザイレンパートナーでいたい、ただ光一の信頼に応えたい。それだけだった、」
それならば、なぜ今この信頼に応えない?
いま罅割れだす心を見つめたまま、光一は詰問した。
「おまえ、今言っていたことと違うじゃないか?」
「うん、違ってる、」
綺麗な低い声は応え、切長い目が見つめてくる。
いつもどおり美しい声と眼差し、その全ては美しい悪魔で自分を騙すのか?
ただ真実と真意を知りたい、そう見つめた向こうで英二は静かに微笑んだ。
「あのときは本当に他は全て、どうでも良かったんだ、」
告げられた言葉とアンザイレンパートナーだったはずの男を見つめる。
真直ぐ自分を見つめる長身は窓の光に照らされて、銀嶺の輝き映す白皙の貌まばゆい。
ゆるやかに傾いていく太陽、その煌めき光る約束の頂を前にして英二は、綺麗に笑った。
「俺はね、光一しか見えてなかった。他は全部忘れてたんだ、ただの山ヤで男として、光一だけを見つめて追いかけて、登ったんだ、」
―そんなことザイルで解かってる、なのになぜ?
ただ純粋な想いだけが北壁の瞬間にあったと、繋がれたザイルに解かっている。
蒼い冷厳の垂壁に生命と誇りを繋ぎ、呼吸と鼓動をザイルに伝え合った2時間の世界。
ただ山に向きあう時間は言葉が要らない共鳴に、響き続けた想いに心身を託し合える信頼が温かかった。
それを真実と言うのなら、なぜ今は違うと言うのか?その疑問のまま光一は追及した。
「なぜ今は他のこと、そんなに拘る?」
「周太のこと護りたいから。俺は帰る場所を失いたくない、」
即答された本音が、心を刺した。
綺麗な低い声が真直ぐ告げた「帰る場所」が誰か知っている。
その場所は14年間ずっと自分が待っていた相手、そして16年前は雅樹とふたりで護っていたのに?
それなのに今はもう自分のものじゃない、今は「英二」が自分を突き放す理由になって孤独が自分を包みだす。
―やっぱり夢なんて独りで見るモンでさ、俺は独りぼっちで生きるのかね?雅樹さんが死んだ時にもう、独りって決まって、さ…
さっき告げてくれた言葉は、英二には光一が世界の全てだと言った。
それなのに帰りたい場所は周太だと告げて、周太を護るために自分を利用すると言うの?
そんな想いに凍れる山頂が心を占めていく、あの場所へ独りきりで行って帰りたくないと、もう願いだす。
―もう、人間になんて見切りをつけてさ、時間を1年前に戻せばいいかね?…また単独行の山ヤになってさ、
去年の今ごろは単独行だった、まだ「英二」がいるなんて知らなかった。
真直ぐに雅樹の約束を信じて山に生きていた、「山の約束」が自分の全てで現実だった。
あの頃のよう独りに戻ってしまえばもう、こんなふうに傷つくこともなくなるだろう。
―いっそ、その方が楽かもね…人間なんて心変わりするのが、普通なんだしさ?期待する方が馬鹿かもね、
もう終わらせた16年の夢は、雅樹が生き帰る夢は永久の眠りについた。
もう山桜のドリアードも取り戻せない、それでも自分には「山」と山に懸けた約束がある。
こんな変わりやすい人間の心を充てにするよりも、永久に佇む「山」に向きあう方がどれだけ楽だろう?
―雅樹さんは特別だった、あんなに山と愛し合える人はいない、だから山に還っちゃったんだ…だから俺は独りぼっちだ、もう、
もうあんな人には逢えない、もう自分のアンザイレンパートナーとして生きる人はいない。
いつか雅樹のような相手に再び出逢えたら、今度こそ共に山で生きたいと願っていた、けれど不可能だ。
もう期待するのは止めてしまえば良い。そう諦めて切り捨てかけた瞬間、哀しい眼差しと声が心を引っ叩いた。
「ごめん、光一。俺は本当に勝手で狡いよ、でも本当の気持ちなんだ。北壁で俺は光一だけを見つめて想ってた、他は何も無い、」
ほら、またそんな言葉で俺を繋ぎとめる?
そんな綺麗な眼差しで見つめて、心捉えようとする?
―もう止めてよ、期待させないでよ?
もう見なければいい、聴かなければいい、この部屋から出て行けばいい。
そう想うのに見つめてしまう、声を求めて聴覚は澄んで、鼓動も吐息も聴こえている。
そんな想いの真中に英二は微笑んで、綺麗な頬に涙ひとつ零れた。
「…あ、」
微かな低い声の短音、それにすら心は惹かれて聴く。
ゆっくりと手の甲が涙を拭う、その動きにすら心ごと見つめている。
ただ見つめている向う、窓ふる光に照らされながら美貌の山ヤは静かに微笑んだ。
「ずっと憧れて見てきたよ、おまえのこと。だから解かるんだ、天才の光一には俺なんか釣り合わない、俺は大した才能も無い。
ごめん、本当は俺は光一のパートナーに相応しくない。自分だけじゃ何も出来ない癖に高望みばかりする、そういう狡いヤツなんだ。
それどころか俺は、光一の才能を利用しようとしてる。自分勝手で狡いのが俺なんだ、こんな俺は光一のパートナーには相応しくない、」
どれが本気で、どれが嘘を言ってるのか、解からない。
この全てが本音だと言うのなら、自分は英二にとって何の存在だと言うのだろう?
この疑問の答えを知りたくて見つめている、その心へと英二の笑顔は眩しげに見つめ、言ってくれた。
「でも憧れてる、光一は俺が生きたい世界の全てだ。俺が憧れる山ヤはおまえだよ、だからパートナーとして登れることが本当に幸せだった、」
これは本音だ。
この想いが北壁の2時間、アンザイレンザイルに祈ってくれた。
だから信じられる、いま言ってくれた言葉は本音と確信して相手を見つめる。
見つめた先で切長い目は涙きらめく、その哀しげな貌と声に心が応えて言葉が昇る。
―そう想ってくれるんなら過去形にしないでよ、続けようって俺にねだってよ?
いま「だった」と過去形で英二は言った、それを覆したいと心は願いだす。
いま告げられてきた言葉に傷ついた、それでも信じたい本音が声に変っていく。
やっぱり信じていたい、そう本音に唇が披きかけた瞬間、英二は綺麗に微笑んだ。
「光一は俺の夢だ、」
短い言葉、けれど出逢ってからの瞬間すべて響く。
それなのに、そのまま踵返すと英二は扉を開き、出ていった。
ぱたん、
扉が閉じて、静寂が起きる。
その扉に嗚咽の気配ゆれて、息を止めて見つめてしまう。
見つめる扉の前に靴音は鳴り、遠ざかりだす音に唇から言葉こぼれた。
「…しあわせ、だった?」
ぽつん、言葉こぼれて涙、ひとつ絨毯に落ちた。
「英二?…俺はもう過去なワケ?」
ぽつり、ぽつん、涙と言葉がこぼれて扉を見つめる。
扉の向こうで靴音は遠ざかる、いつも寮で聞きなれたリズミカルな音が速まり、遠のく。
「どの言葉を信じたら良いんだよ…ねえ、英二?」
問いかける扉を透かして靴音は階段を下り、遠くへと消えていく。
そして扉はもう、開いてくれない。
「英二?」
呼びかけた名前、けれど応えてくれる人はもういない。
それなのに森と似た香は頬撫でて、綺麗な低い声の残像が聞えだす。
―…光一しか見えてなかった。他は全部忘れてたんだ、ただの山ヤで男として、光一だけを見つめて追いかけて、登ったんだ
「だったら…全部忘れたまんま、俺だけ見てよ?」
ずっと憧れて見てきたよ、おまえのこと。だから解かるんだ、天才の光一には俺なんか釣り合わない
「なんで釣合わないとか、勝手に決めるんだよ?」
光一は俺が生きたい世界の全てだ。俺が憧れる山ヤはおまえだよ、だからパートナーとして登れることが本当に幸せだった
「俺が生きたい世界の、全て…?」
反芻した言葉に、ことりと納得が心へ落ちた。
なぜ英二が自分を利用しても周太を護るのか?その「利用」の意味が何なのか?
ずっと英二は周太を護るため「英二自身の全て」を懸けてきた、その「全て」とは今の英二にとって何だろう?
「…俺?」
英二の全てが光一だから、光一を懸けても周太を護りたい?
世界の全て、だから同一だと見つめるほどに自分を想ってくれる?
そう考えたなら納得がいく、なぜ憧れて共に生きることが幸せなのに利用してしまうのか?
この得心に今、告げられなかった想いが明確に形をとって、言葉は幸せに笑って泣いた。
「おまえだってね、俺の世界の全てだよ…英二?」
山に生きる自分にとって世界の全ては「山」、だから山で共に生きられる相手しか一緒にいられない。
それが出来るのは雅樹だけだった、けれど雅樹は消えてしまった、そして15年を経て再び出逢えた唯ひとり。
この自分が「山」で生きるペースに合わせくれる唯ひとり、それを失うなら世界は全て、消えてしまう?
「…っ、英二!」
呼んだ名前が背中を押して、ルームキーを握らせ扉を開く。
出た廊下にはもう足音は消えた、それでも気配を追いかけ階段を駆け下りる。
手すりを飛越し下り、ロビーを横切りエントランスから外へ出て、明るんだ視界に瞳を細め見まわした。
「英二、」
もう一度名前を呼んで、逸る足どりに求める姿を探す。
ホテルの近くからカフェを覗きながら歩く、書店で店員に声をかけ訊く。
黒のミリタリージャケットを着た長身の男、ダークブラウンの髪に白皙の映える黒い瞳の日本人。
同じ特徴をアウトドアショップでも尋ね、氷河へ向かう道で訊いて、駅の改札でも尋ねたのに、いない。
―どこだよ、どこにいる?英二、どこ?誰か教えて、ねえ!
心の真中がもう、叫びだす。
求める人の貌を見たい、今すぐ逢いたい、けれど見つからない。
探して、探して歩き回って、けれど見つからない現実に16年前が傷みだす。
『雅樹さん、雅樹さんっ…どこ、どこにいるの、ねえ!雅樹さんっ、帰ってるんでしょぉ!返事してっ…』
泣きながら探した、あわい雪化粧した山桜の森。
必ず帰ると言ってくれた約束に、縋って泣いて探し回った。
あのときの記憶に惹かれるよう光一は、フィンデルンへ向かう森に駈け出した
―雅樹さん、たすけてよ?あいつに逢わせて、今度こそ掴まえたい、もう離したくないよ、
お願いだから、あいつを俺に返して?
唯ひとり共に生きられるアンザイレンパートナーを、俺に帰らせて?
どうか再び共に山の天辺に立たせて?約束も夢も共に叶えて生きたい。
あのときみたいに帰ってこないなんて、もう逢えないなんて、絶対に嫌だ。
―さっき独りに戻ればイイなんて思ったの、あんなの嘘だ!
もう独りになんて戻れない、だって今日が幸せすぎた。
約束の場所で一緒に笑えた、蒼穹の点に共に立てた、あの温もりを離せない。
もう一緒に登れる喜びを、笑顔を、涙も幸せも知ってしまった今はもう、独りになんて戻れない。
「…英二!」
駆け抜ける森に叫んだ名前、けれど声は帰らない。

(to be continued)
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第58話 双壁side K2 act.11
アイガーの北壁は今回、見送ることも考えよう。
今、そう英二は言った。
たった今、そうアンザイレンパートナーは自分に告げた。
これは現実の言葉なのだろうか?それとも変な白昼夢でも見ている?
「なに言ってんだよ、おまえ?」
言葉が押し出され、目の前の男を見つめる。
ただ驚きを真直ぐ見つめるまま、言葉は続いた。
「明後日は天気も、イイはずだね?」
「そうだな、明後日は晴れだろうな?」
笑いかけ頷きながら切長い目は、窓ガラスの向こうを見上げる。
その横顔は穏やかでも決然とした意志が堅い、眼差しは冷静でいる。
こういう貌のときは英二の判断は的確だろう、けれど言われた言葉への疑念が傷む。
―天気が良いって解かってるなら何故、アイガー北壁を見送るなんて言うワケ?
アイガー北壁は今日のマッターホルンより「風」による危険が怖い。
その風についての懸念が明後日なら少ないと予測している、それなのに何故?
解からない疑念と見つめた先、振向いた白皙の貌は光一に向きあい、切なく微笑んだ。
「でも光一、きっと、明日の午前中にツェルマットを発つことは出来ない。高尾署の人たちを置いていけない、」
仲間を置いて先には進めない。
そう告げられる意味は解かっている、それでも自分は明後日に懸けたい。
もし明日アイガー北壁のベースキャンプに入れなければ、明後日の登攀は不可能になる。
だから明日は発ちたい。もう16年ずっと見つめ続けた約束が叶う、この希望を目の前にして捨てるのは、嫌だ。
「嫌だね、」
たった一言、けれど16年の全てがこもる。
16年を超えて約束と夢を「山」に叶える、その為に自分達は出逢ったと信じている。
それなのに「山」を優先しないなんて無い、そう信じたい男を真直ぐ見つめ、光一は言い張った。
「アイガーの北壁は、明後日を逃したら今回のアタックは無理だね。きっと風がヤバくなる、明日アイスメーアに行くよ、」
「だめだ、」
即答に切り捨てた貌が、16年前の貌に重なる。
穏やかでも断固とした拒絶、堅い意志に動かないと告げる否定。
その否定を信じたくない、だって自分の専属ビレイヤーでアンザイレンパートナーの筈なのに?
―どうして解かってくれない?
ぽつんと心に呟く声に、瞳の底へと熱が湧く。
なぜ英二が否定するのか?その意味も言われている事も解かっている。
それでも今は我儘を言わせて欲しい、只の山ヤで居られる事は暫く遠くなるから。
―これを最後のワガママって決めてるのに、解かってよ?
昇進したらもう、こんな勝手は出来ない。
この今が過ぎて8月になれば、何十年と続く指導者の道に自分は立つ。
そうなったら自分の意志だけでは物事を動かせない、だから今が最後の我儘だと覚悟している。
何より「山」と約束を自由に優先出来るのは今が最後、だから今だけは全てより自分を優先してほしい。
―英二、おまえだけは俺を見てよ?ただの山っ子でいたいって本音を見ていてよ、
他の誰に理解されなくてもいい、唯ひとりには解ってほしい、受け留めていてほしい。
自分と共に「山」で生きられる唯一のアンザイレンパートナーには、本音を解かってほしい。
そう伝えたいのに喉が塞がれ声が出ないまま、端正な笑顔は静かに口を開いた。
「光一、俺たちは警視庁山岳会の遠征訓練でココに来たんだろ?だったら山ヤの警察官のルールを護らないといけない。
いつもの俺と光一だけのプライベートの訓練とは違う、今回は山ヤの警察官として、訓練の任務で北壁に登りに来ているんだ。
チームで登っているんだ、だからチーム全員の安否を確保してから次の山に進むべきだ。同じメンバーとして高尾署の帰りを待とう、」
そんなこと、おまえだけは言わないで?
やっと出逢えたアンザイレンパートナーのおまえだけには言われたくない。
もう16年ずっと待ち続けていた唯ひとり、誰より自分を優先してくれる専属ビレイヤーでパートナー。
それなのに自分以外を優先しないでよ?この自分の最後の我儘を聴いて約束を叶えてほしい、そう想うまま声が出た。
「そんなこと今はどうでもいい、俺は1人の山ヤとして、俺のアンザイレンパートナーと北壁を駆けあがりに来たんだ、」
そんなこと「今」だけはどうでもいいと、嘘でも頷いてよ?
いま本音を真直ぐ見つめて告げる、ただ山ヤとして生きたい瞬間の願い見つめる。
山と夢と約束、この3つへの想いだけ見つめて光一はアンザイレンパートナーに言った。
「今日、一発目が無事に終わったね、この運に乗っかって明後日も終わらせる。北壁は運がなきゃ登れないんだからね、
あの壁で風が吹かないなんて保証はチッともありゃしない、でも明後日は吹かない筈だね?こんな運は滅多に無いんだよ。
ここで手を引っ込めて、次に登れるなんて思ったら間違いだね。そしたらもう、おまえは二度とアタック出来ないかもしれない、」
アイガー北壁の別称は『死の壁』または『人を食う壁』と謂う。
真夏でも太陽の照らさない翳を抱き、急勾配の断崖からは岩石落下も頻発する。
そして高度1,800mの懐は風を抱きこみ、バックネットのよう凶暴な嵐を捕えて突然の豪風を巻き起こす。
―風だ、あの山は風を着ている。風の衣を着ない瞬間しか登れない、
突発的な気象変化「風」がアイガー北壁を難攻の高嶺にする。
この「風」に対する想いが心の真中で叫びだす、16年の哀しみが込みあげそうになる。
それでも無言で飲み下し見つめる向うから、綺麗な低い声は穏やかに言った。
「そうだな、光一の言う通りだ。アイガーの北壁は運が無かったら登れない、その運はマッターホルン以上かもしれないな、」
その通りなのだと受けとめ、頷いてくれる。
頷いてくれるなら我儘を聴いてほしい、この想い真直ぐ見つめてパートナーに告げた。
「そういう運は与えらえたら、キッチリ掴まないと次は解からない。それに山ヤなんざ自助が原則だ、おまえもさっき言ったよね?
高尾のヤツらだって俺たちと同じ、山のレスキューのプロなんだ。自分でなんとかする技術とプライドは、存分に持っているはずだね。
だったら信じて任せて、俺たちは自分のヤるべきことしてりゃイイ。俺たちは北壁を二発同時に抜くために来たんだ、明日は行くよ、」
信じて任せて、それぞれの領分に務める。
そんな山の「自助」という掟に従って今、単純に山ヤで居させてほしい。
こんな我儘はもうじき言えない立場になる、だから今だけは唯の山ヤだけでいたいのに?
だから今だけは唯のアンザイレンパートナーとして、俺を最優先してよ?そう見つめた真中で、冷静が口を開いた。
「あと数日で光一は七機に異動だ、そうしたら光一は小隊長になる。光一はリーダーとして自分のチーム全員を護る責任を負うんだ。
そういう立場で見られることは、異動が決まった瞬間から始まっているよ?きっと今回のメンバー全員がそういう目で光一を見てる。
もし高尾署の下山を見届けなかったら、リーダーとしての誇りを捨てたことになる。それは警視庁山岳会の次のトップから降りることだ、」
告げられる言葉に知らされる、もう、我儘は赦されない立場に自分はいる?
その宣告を今、自分のアンザイレンパートナーに告げられた?
―でも俺は山ヤだ、警察官より何より、
いちばん大切なものは唯ひとつだけ。
その想い真直ぐ見つめた先で、英二も本音のままに微笑んだ。
「光一、周太のお父さんのこと忘れないでほしい。もし警視庁山岳会の力が強ければ、お父さんは死なずに済んだかもしれない。
そうしたら周太だって、こんなことにならなかったんだ。夢を見つめて好きな植物学を勉強して、今頃はもう樹医の卵になれたんだ。
でも現実は違う、こういう現実を俺は終わらせたいんだ。そのために俺は今、光一にお願いしているんだよ?光一にしか出来ないから、」
光一の他には誰も出来ない、山ヤの警察官として出来ること。
そう言ってくれる切長い目が祈り、この心を軋ませながら笑いかけた。
「山ヤの世界は仲間意識が強いよな、だから山ヤの警察官で最高の立場に立てば、警察組織で光一は強い発言力を持てるはずだ。
そうしたら、あの男にも対抗出来るだけの力を手に入れられる。あの男に勝つには、警察庁に対しても発言出来る力が必要になんだ。
それには山ヤとしての成功だけじゃ足りないんだ、警察組織のリーダーとしても成功しないと出来ない。だから明日は高尾署を待ってくれ、」
―いま、力を手に入れられるって、言ったね?あの男に勝つにはって…
いま言われた『あの男』に、現実が迫る。
いま言われる『警察組織のリーダー』に、自分の存在価値が傷む。
この二つの想いに肚の底、静かに怒りと苛立ちが瞳を披いて、真直ぐ英二を見据えた。
―結局は俺のコト、周太の為に利用するってコトなんだね?
見据えた男へと、音のない声が怒りを孕む。
自分も周太を護りたいと願っている、けれど自発の願いと利用される事は別だ。
そして想ってしまう、アンザイレンパートナーとしての誇りが怒りに変化する。
―山での約束も全部が、おまえの都合に俺を利用するためってワケ?
じゃあ言ってくれた言葉は、何なんだ?
それなら結んでくれた約束の意味は、利用する餌なのか?
唯ひとりのアンザイレンパートナー、その想いすら全て利用するだけ?
「光一、警視庁山岳会の強いリーダーになってくれ。そして日本の警察すべての山ヤのリーダーになってほしいんだ。
そうすれば光一の補佐として俺は力を掴んで、あの男を追い詰められる。こんなこと身勝手だって解ってる、それでも頼みたい。
こんなこと光一は本当は望んでないって解ってる、こんなお願いを俺がするのは勝手過ぎる、分を超えてるって事も解かってるんだ。
でも、俺だけでは出来ないんだ、天才の光一が一緒じゃなかったら無理だ、だからお願いしてるんだ。だから明日は高尾署を待ってくれ、」
なんて人間の世界は惨酷なほど、束縛したがるのだろう?
ずっと見つめた約束の場所に明後日は立つ、その願いに今日まで努力もしてきた。
それを遮っても英二が望む目的のために、権力を掴むため自分を利用したいと今、言われている。
自分のアンザイレンパートナーが、自分のビレイヤーが、信じた「約束」を捨てて利用の都合を押しつける。
たった8時間前に見ていた現実は、今はもう、嘘なのか幻なのか?
―今日、北壁で見たものは、結局は利用目的の嘘ってことかよ?
北壁を登っていくアンザイレンザイル、そこに繋がれた想いは純粋だった。
雅樹も共に登ってくれたと笑った、山頂の写真を必死で心配してくれた、それなのに今は何だ?
あのとき暁の明星に耀いた、誇らかな自由に立っていたアンザイレンパートナーは幻だったのだろうか?
そして、自分が最愛だと思ったこの感情は、結局は諦めるべき夢に潰える?
「ひとつ教えろ、」
もう夢は終わる?それなら思い切りたいから教えてほしい。
この意志のままに真直ぐ英二を見つめて、光一は問いかけた。
「今日、北壁を登っているとき、おまえは何を考えていた?」
正直に言え、全ての思惑を。
夏の初めの夜にくれた告白、自分を憧れと言ったのも利用目的だったなら、そう言えばいい。
自分と雅樹の約束を想いを操るのなら、利用する目的に自分を遣うのなら、そう言えばいい。
いま容赦ない諦観の怒りに告げた宣言の前、切長い目は真直ぐ光一を見つめて透る声が言った。
「絶対に光一の夢を叶えてあげたい、俺が光一のアンザイレンパートナーでいたい、ただ光一の信頼に応えたい。それだけだった、」
それならば、なぜ今この信頼に応えない?
いま罅割れだす心を見つめたまま、光一は詰問した。
「おまえ、今言っていたことと違うじゃないか?」
「うん、違ってる、」
綺麗な低い声は応え、切長い目が見つめてくる。
いつもどおり美しい声と眼差し、その全ては美しい悪魔で自分を騙すのか?
ただ真実と真意を知りたい、そう見つめた向こうで英二は静かに微笑んだ。
「あのときは本当に他は全て、どうでも良かったんだ、」
告げられた言葉とアンザイレンパートナーだったはずの男を見つめる。
真直ぐ自分を見つめる長身は窓の光に照らされて、銀嶺の輝き映す白皙の貌まばゆい。
ゆるやかに傾いていく太陽、その煌めき光る約束の頂を前にして英二は、綺麗に笑った。
「俺はね、光一しか見えてなかった。他は全部忘れてたんだ、ただの山ヤで男として、光一だけを見つめて追いかけて、登ったんだ、」
―そんなことザイルで解かってる、なのになぜ?
ただ純粋な想いだけが北壁の瞬間にあったと、繋がれたザイルに解かっている。
蒼い冷厳の垂壁に生命と誇りを繋ぎ、呼吸と鼓動をザイルに伝え合った2時間の世界。
ただ山に向きあう時間は言葉が要らない共鳴に、響き続けた想いに心身を託し合える信頼が温かかった。
それを真実と言うのなら、なぜ今は違うと言うのか?その疑問のまま光一は追及した。
「なぜ今は他のこと、そんなに拘る?」
「周太のこと護りたいから。俺は帰る場所を失いたくない、」
即答された本音が、心を刺した。
綺麗な低い声が真直ぐ告げた「帰る場所」が誰か知っている。
その場所は14年間ずっと自分が待っていた相手、そして16年前は雅樹とふたりで護っていたのに?
それなのに今はもう自分のものじゃない、今は「英二」が自分を突き放す理由になって孤独が自分を包みだす。
―やっぱり夢なんて独りで見るモンでさ、俺は独りぼっちで生きるのかね?雅樹さんが死んだ時にもう、独りって決まって、さ…
さっき告げてくれた言葉は、英二には光一が世界の全てだと言った。
それなのに帰りたい場所は周太だと告げて、周太を護るために自分を利用すると言うの?
そんな想いに凍れる山頂が心を占めていく、あの場所へ独りきりで行って帰りたくないと、もう願いだす。
―もう、人間になんて見切りをつけてさ、時間を1年前に戻せばいいかね?…また単独行の山ヤになってさ、
去年の今ごろは単独行だった、まだ「英二」がいるなんて知らなかった。
真直ぐに雅樹の約束を信じて山に生きていた、「山の約束」が自分の全てで現実だった。
あの頃のよう独りに戻ってしまえばもう、こんなふうに傷つくこともなくなるだろう。
―いっそ、その方が楽かもね…人間なんて心変わりするのが、普通なんだしさ?期待する方が馬鹿かもね、
もう終わらせた16年の夢は、雅樹が生き帰る夢は永久の眠りについた。
もう山桜のドリアードも取り戻せない、それでも自分には「山」と山に懸けた約束がある。
こんな変わりやすい人間の心を充てにするよりも、永久に佇む「山」に向きあう方がどれだけ楽だろう?
―雅樹さんは特別だった、あんなに山と愛し合える人はいない、だから山に還っちゃったんだ…だから俺は独りぼっちだ、もう、
もうあんな人には逢えない、もう自分のアンザイレンパートナーとして生きる人はいない。
いつか雅樹のような相手に再び出逢えたら、今度こそ共に山で生きたいと願っていた、けれど不可能だ。
もう期待するのは止めてしまえば良い。そう諦めて切り捨てかけた瞬間、哀しい眼差しと声が心を引っ叩いた。
「ごめん、光一。俺は本当に勝手で狡いよ、でも本当の気持ちなんだ。北壁で俺は光一だけを見つめて想ってた、他は何も無い、」
ほら、またそんな言葉で俺を繋ぎとめる?
そんな綺麗な眼差しで見つめて、心捉えようとする?
―もう止めてよ、期待させないでよ?
もう見なければいい、聴かなければいい、この部屋から出て行けばいい。
そう想うのに見つめてしまう、声を求めて聴覚は澄んで、鼓動も吐息も聴こえている。
そんな想いの真中に英二は微笑んで、綺麗な頬に涙ひとつ零れた。
「…あ、」
微かな低い声の短音、それにすら心は惹かれて聴く。
ゆっくりと手の甲が涙を拭う、その動きにすら心ごと見つめている。
ただ見つめている向う、窓ふる光に照らされながら美貌の山ヤは静かに微笑んだ。
「ずっと憧れて見てきたよ、おまえのこと。だから解かるんだ、天才の光一には俺なんか釣り合わない、俺は大した才能も無い。
ごめん、本当は俺は光一のパートナーに相応しくない。自分だけじゃ何も出来ない癖に高望みばかりする、そういう狡いヤツなんだ。
それどころか俺は、光一の才能を利用しようとしてる。自分勝手で狡いのが俺なんだ、こんな俺は光一のパートナーには相応しくない、」
どれが本気で、どれが嘘を言ってるのか、解からない。
この全てが本音だと言うのなら、自分は英二にとって何の存在だと言うのだろう?
この疑問の答えを知りたくて見つめている、その心へと英二の笑顔は眩しげに見つめ、言ってくれた。
「でも憧れてる、光一は俺が生きたい世界の全てだ。俺が憧れる山ヤはおまえだよ、だからパートナーとして登れることが本当に幸せだった、」
これは本音だ。
この想いが北壁の2時間、アンザイレンザイルに祈ってくれた。
だから信じられる、いま言ってくれた言葉は本音と確信して相手を見つめる。
見つめた先で切長い目は涙きらめく、その哀しげな貌と声に心が応えて言葉が昇る。
―そう想ってくれるんなら過去形にしないでよ、続けようって俺にねだってよ?
いま「だった」と過去形で英二は言った、それを覆したいと心は願いだす。
いま告げられてきた言葉に傷ついた、それでも信じたい本音が声に変っていく。
やっぱり信じていたい、そう本音に唇が披きかけた瞬間、英二は綺麗に微笑んだ。
「光一は俺の夢だ、」
短い言葉、けれど出逢ってからの瞬間すべて響く。
それなのに、そのまま踵返すと英二は扉を開き、出ていった。
ぱたん、
扉が閉じて、静寂が起きる。
その扉に嗚咽の気配ゆれて、息を止めて見つめてしまう。
見つめる扉の前に靴音は鳴り、遠ざかりだす音に唇から言葉こぼれた。
「…しあわせ、だった?」
ぽつん、言葉こぼれて涙、ひとつ絨毯に落ちた。
「英二?…俺はもう過去なワケ?」
ぽつり、ぽつん、涙と言葉がこぼれて扉を見つめる。
扉の向こうで靴音は遠ざかる、いつも寮で聞きなれたリズミカルな音が速まり、遠のく。
「どの言葉を信じたら良いんだよ…ねえ、英二?」
問いかける扉を透かして靴音は階段を下り、遠くへと消えていく。
そして扉はもう、開いてくれない。
「英二?」
呼びかけた名前、けれど応えてくれる人はもういない。
それなのに森と似た香は頬撫でて、綺麗な低い声の残像が聞えだす。
―…光一しか見えてなかった。他は全部忘れてたんだ、ただの山ヤで男として、光一だけを見つめて追いかけて、登ったんだ
「だったら…全部忘れたまんま、俺だけ見てよ?」
ずっと憧れて見てきたよ、おまえのこと。だから解かるんだ、天才の光一には俺なんか釣り合わない
「なんで釣合わないとか、勝手に決めるんだよ?」
光一は俺が生きたい世界の全てだ。俺が憧れる山ヤはおまえだよ、だからパートナーとして登れることが本当に幸せだった
「俺が生きたい世界の、全て…?」
反芻した言葉に、ことりと納得が心へ落ちた。
なぜ英二が自分を利用しても周太を護るのか?その「利用」の意味が何なのか?
ずっと英二は周太を護るため「英二自身の全て」を懸けてきた、その「全て」とは今の英二にとって何だろう?
「…俺?」
英二の全てが光一だから、光一を懸けても周太を護りたい?
世界の全て、だから同一だと見つめるほどに自分を想ってくれる?
そう考えたなら納得がいく、なぜ憧れて共に生きることが幸せなのに利用してしまうのか?
この得心に今、告げられなかった想いが明確に形をとって、言葉は幸せに笑って泣いた。
「おまえだってね、俺の世界の全てだよ…英二?」
山に生きる自分にとって世界の全ては「山」、だから山で共に生きられる相手しか一緒にいられない。
それが出来るのは雅樹だけだった、けれど雅樹は消えてしまった、そして15年を経て再び出逢えた唯ひとり。
この自分が「山」で生きるペースに合わせくれる唯ひとり、それを失うなら世界は全て、消えてしまう?
「…っ、英二!」
呼んだ名前が背中を押して、ルームキーを握らせ扉を開く。
出た廊下にはもう足音は消えた、それでも気配を追いかけ階段を駆け下りる。
手すりを飛越し下り、ロビーを横切りエントランスから外へ出て、明るんだ視界に瞳を細め見まわした。
「英二、」
もう一度名前を呼んで、逸る足どりに求める姿を探す。
ホテルの近くからカフェを覗きながら歩く、書店で店員に声をかけ訊く。
黒のミリタリージャケットを着た長身の男、ダークブラウンの髪に白皙の映える黒い瞳の日本人。
同じ特徴をアウトドアショップでも尋ね、氷河へ向かう道で訊いて、駅の改札でも尋ねたのに、いない。
―どこだよ、どこにいる?英二、どこ?誰か教えて、ねえ!
心の真中がもう、叫びだす。
求める人の貌を見たい、今すぐ逢いたい、けれど見つからない。
探して、探して歩き回って、けれど見つからない現実に16年前が傷みだす。
『雅樹さん、雅樹さんっ…どこ、どこにいるの、ねえ!雅樹さんっ、帰ってるんでしょぉ!返事してっ…』
泣きながら探した、あわい雪化粧した山桜の森。
必ず帰ると言ってくれた約束に、縋って泣いて探し回った。
あのときの記憶に惹かれるよう光一は、フィンデルンへ向かう森に駈け出した
―雅樹さん、たすけてよ?あいつに逢わせて、今度こそ掴まえたい、もう離したくないよ、
お願いだから、あいつを俺に返して?
唯ひとり共に生きられるアンザイレンパートナーを、俺に帰らせて?
どうか再び共に山の天辺に立たせて?約束も夢も共に叶えて生きたい。
あのときみたいに帰ってこないなんて、もう逢えないなんて、絶対に嫌だ。
―さっき独りに戻ればイイなんて思ったの、あんなの嘘だ!
もう独りになんて戻れない、だって今日が幸せすぎた。
約束の場所で一緒に笑えた、蒼穹の点に共に立てた、あの温もりを離せない。
もう一緒に登れる喜びを、笑顔を、涙も幸せも知ってしまった今はもう、独りになんて戻れない。
「…英二!」
駆け抜ける森に叫んだ名前、けれど声は帰らない。

(to be continued)
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