萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第58話 双壁side K2 act.3

2012-12-03 23:49:24 | side K2
「涙」 哀切、愛惜、それから



第58話 双壁side K2 act.3

フロントガラス煌く木洩陽に、単独峰は蒼い。
森の樹間、梢のむこうに富士は緑の額縁から姿を顕わす。
大らかな裾野をひき白雲を靡かせ聳える、この雄渾な夏富士へと綺麗な笑顔ほころんだ。

「富士山、きれいだね、」

シートベルトを外す隣、嬉しそうに微笑んでくれる。
その笑顔が嬉しい、けれど今から話す緊張と自責が喉を詰まらせ返事が出ない。
それでも笑いかけて扉を開くと、森の濃やかな空気が頬ふれて鼓動ひとつ心を敲いた。

―英二の香、

ふっと心よぎらす香が、夜の時を想わせる。
いつもの狭い寮のベッド、お互い180cmを超える体ふれあわせ眠りにつく。
窮屈だと英二はいつも笑う、けれど狭いことが本当は自分は嬉しい。
狭ければ、自然と寄添いあえるから。

―今頃は御岳駐在に戻ったよね、それとも神社の駐屯所かな

いまどうしている?
そんなふう気がつけば考えてしまう、こんな相手はずっといなかった。
こうして離れている時間すら想うのは、こんなにも切なく感じるのは、なぜ?

―苦しい、こんなに物欲しげな自分が…でも離れられない

遠い16年前の夏、穂高連峰を縦走したのは今頃だった。
あのとき雅樹にキスした瞬間から、前以上に雅樹を想う時間は多く温かくなっていた。
奥多摩の山を見るたび穂高の夢を想い、多摩川の流れに梓川の約束が微笑んで、山桜の下で雅樹に逢える週末を待っていた。
それは楽しい時間だった、心待ちに訪れる週末は幸せだった、再会を約束して別れる瞬間は寂しくても「次」を信じられた。
それなのに、こうして英二と離れている只ひと時が、苦しい。

―なぜ苦しい?今日だって夜には逢えるのに…すぐ逢えるのに

ほんの数時間を離れるだけ、それなのに苦しい。
今すぐ逢いたいと思ってしまう、こんな依存するような自分に途惑う、そして不安になる。
そんな想いに溜息を見つめて振り返る、その視線の先、やわらかな黒髪が木洩陽へと緑に輝いた。

「…ドリアード、」

秘密の名前こぼれた向う、長めの前髪に緑の光ゆれる。
あわいブルーのパーカーを風にそよがせて、黒目がちの瞳が梢に微笑む。
きらきら明るい綺麗な瞳、木洩陽ふるなめらかな頬、穏やかで綺麗な優しい笑顔。
懐かしい冬、少年の日に見つめた桜の精霊が大人の姿になって、夏の木洩陽と幸せに笑っている。

―やっぱり君はドリアードだね…雅樹さんが恋したのは、君なの?

もう15年ずっと見つめた想いが今、最高峰の森でまばゆい。
見つめる横顔は、ただ幸せそうに森へ呼吸して最高峰を仰ぎ見る、その貌に驚きはない。
さっき新宿で車に乗せて、行先も告げぬまま眠りこんだ周太を連れてきた。それでも驚いた風もなく周太はいる。

―ここに連れてくること、予想していたのかね?

それもドリアードなら不思議は無いかもしれない?
そんな考えに微笑んだ心は緊張ゆるめられて、楽しげな横顔へと笑いかけた。

「もしかして周太、富士山に来るって解かってた?」
「ん…なんとなく、ね、」

穏やかな声が応えてくれる、その言葉が何だか嬉しい。
嬉しくて笑いかけた自分へと優しい笑顔も笑って、それが幸せに温かい。
けれど、こんなふう笑いあえるのも今が最期かもしれない。その覚悟ひとつ見つめて光一は口を開いた。

「周太。俺たち異動するんだ、第七機動隊の山岳レンジャーにね。俺は8月一日で、英二は9月一日だよ、」

告げた言葉に、黒目がちの瞳が驚いたよう瞬いた。
その話は初めて聴くな?そう見つめてくれる瞳に光一は話した。

「すこし前に決まったばかりなんだ、で、あいつはね?周太に伝えるタイミングは、結局のトコ俺に丸投げちゃってるんだよね。
あいつ忙しいんだ、俺が異動した後1ヶ月間は俺の代わりと後任者の育成をするからね、その準備もあるのに、北壁の遠征訓練もだろ?
しかも吉村先生の手伝いもある、青免も取らなきゃダメだしでね。英二が周太にちゃんと話せるのは、異動した後になるかもしれないね、」

英二は初任総合が終わったばかりの2年目、けれど既に多くの仕事を担当する。
御岳駐在所駐在員、山岳救助隊員、青梅署警察医の助手、そんな立場を生真面目に笑顔でこなす。
そこに引継ぎとパトカー運転免許の取得も加わって、遠征訓練も控える今は込み入った話をする余裕がない。
そして訓練から帰国すればすぐ8月一日は訪れて、自分は第七機動隊へ次期小隊長として異動し、英二は後任育成の忙しい時が始まる。
その後1ヵ月間はお互い時間も精神的にも余裕が無いだろう、そして1ヵ月が終った時、自分たちは部下と上司になっている。

―もう、とことん英二と向き合うんなら北壁の直後しかない、俺には…だから今、終らせないといけないね

ずっと考えて覚悟してきたこと。
この覚悟を今、目の前にいるひとへ聴いてほしい、そして終らせたい。
ふたつの北壁が終れば新しい時間を始める、それには「待つ」ことを終らせないといけない。
本当は甘えていたい、それでも新しい約束に自分は生きたい。この覚悟のままに15年の支えを断ち切るよう、光一は微笑んだ。

「俺、異動前に…北壁が終わったら抱かれたいんだ、英二に…上司と部下になる前に、対等なうちに抱かれたい、」

自分の言葉に、心の一部が命を消す。

ずっと大切にしてきた夢のひとつが今、息を止めて砕けてゆく。
もう告げてしまった「明日」への意志、それが15年の恋を終わらせる。その為にも怒られたい。
いま告げた言葉に怒ってほしい、罵ってほしい、そして16年を縋り続けた夢に諦めさせてほしい。
その想い見つめる真中、黒目がちの瞳に涙の翳が深く顕われ、けれど瞬きひとつで温もりが微笑んだ。

「ん、良かった…きっとね、すごく幸せだよ、」

温かい、優しい声の言祝ぎが、心を引っ叩いた。

―どうして?

どうして、そんな優しい言葉を言うの?
どうして君は微笑んでくれる?どうして温かく見つめてくれるの?
確かに君は前にも言ってくれた、英二に恋愛して良いと認めてくれた、けれど。

―プラトニックなら赦してくれるって想ってたけど、体は別じゃないの?

心が恋することは、誰にも止められない。だから赦してくれるとは想った。
けれど肉体関係は止めようとすれば出来る、だから自分も拒み続けていたのに?
それなのに今、自分は踏み越えてしまおうと言った、そんな身勝手を君は祝福するの?
こんなこと言う自分にどうして笑ってくれる?途惑い心が軋みあげ痛くて、光一は問いかけた。

「周太、どうして…?」

どうして君はそんなに綺麗?

問いかけながら、息絶えたばかりの夢に泉が生まれる。
いま砕いたはずの夢、それなのに欠片すら綺麗で心が泣き出していく。
綺麗で、心は奪われたまま喘ぐ傷みが喉つまらせる、それでも優しい笑顔に「告白」を訴えた。

「どうして罵らないんだよ…俺は、君の婚約者を浮気させるって言ってるんだよ?こんなこと言う俺のこと、もっと怒ってよ?
俺、自分が嘘つきになるの嫌で、泣きつきに来たんだ。こんなの卑怯だよ?解かってるだろ、俺は君を、秘密に巻き込もうってしてるね。
君のコト裏切る真似して、面倒な秘密まで押しつけるんだよ?…君の恋人を俺の体で、惑わせて…恋愛をねだろうって…なのに、どうして」

どうして?

どうして君は罵らない?
どんなに責められても良いと覚悟してきたのに?
純潔な君にとってこの選択は辛くないはずがない、それなのにどうして笑えるの?
そう見つめて問いかける自分を純粋な瞳が見つめてくれる、その眼差しの温もりが今は哀しいまま光一は告げた。

「あいつと俺が恋愛関係になるなんてね、本当は赦されない事だ。これから上司と部下として警察の世界を生きるんだ、俺たちは。
司法の番人ってヤツが役職超えて恋愛沙汰なんざ、今の日本警察じゃ問題沙汰だね、こんな秘密バレたら俺もあいつも終わりだよ?
それに君も巻き込むんだ、君に嘘吐くの嫌だって、君にまで秘密を押しつけて…それでも俺、あいつが好き、で…あいつだけ、で…っぅ、っ」

告げていく現実が、この心を抉る。
自分の選択が惹きこむ秘密と危険、それを英二が共に背負う事は構わない。
英二は全てを背負っても自分を抱きたいと願ってくれる、だからこそ自分も応えたいと願い覚悟を見つめてきた。
こんなふうに互いが背負う事は「恋愛」なら当然だろう、そんな危険の共有すら幸せだと想っている、後悔なんて欠片も無い。
けれど、いちばん護りたい存在をも巻き込んでいく自分が哀しい、このひとの婚約者に「唯ひとり」を見つめた自分が、苦しい。
哀しくて、苦しいまま見つめる視界が熱と滲みだし、頬伝う雫と言葉がこぼれた。

「もう、あいつと離れたくない…でも1ヶ月離れるんだ、そのあとはもう…上司と部下だ、もう全部が対等じゃなくなる、だから…
今度、北壁を2つ俺と一緒に登ったら、俺とあいつは対等になれるよ?だけど…異動する前までだけだ、どこも対等って言えるのは。だから、
あいつが嫌だって言えるうちに知りたい、本気で抱くほど俺を好きなのか知りたい、でも…君を傷付けるんだ…ね、罵ってよ…俺を怒ってよ?」

どうかお願い、俺を罵って怒って、傷つけて?
君を傷付けるのに自分が赦されるなんて思っていない、山の化身を傷付ける自分が赦せない。
雅樹が恋した山桜のドリアード、君がいるから雅樹は奥多摩に通い、そして自分のことも愛してくれた。
あの大切な人に出逢わせてくれた存在を自分は傷つける、それが雅樹への裏切りとも想えるまま赦せない。
雅樹にも自分にも大切な君、それなのに自分の願いが傷付けてしまう、その自責と熱情のはざまで光一は泣いた。

「周太が本当に大事で、なのに…あいつに愛されたいよ、一瞬でもいいから俺だけ見てほしいって想ってる…でも君を泣かせるのは嫌だ」

あの輝いた夏の幸福をもう一度だけ、一瞬でも良いから自分に与えて?

そんな願いにずっと泣いてきた、唯ひとりのアンザイレンパートナーを「雅樹」を探し求めて苦しんだ。
夢を懸けた名前を自分にくれた人、いちばん信じて愛して山の夢を贈ってくれた、あの美しい人を求め泣いていた。
その涙は君に出逢い救われた、ただ一瞬のような一度の出逢いでも山桜の時は永遠だった、この「永遠」に縋って生きられた。
あの雪の森に笑いあった穏やかな時、白銀まばゆい山桜の約束、この優しい記憶に癒されながら15年を生きてきた。
そんな支えをくれた君を裏切ろうとする、そんな自分をどうか責めてほしい、罵って罰してほしい。

―愛されたい、だから、その前に君から嫌われて自分を罰したいんだ…こんな俺を責めてよ?

英二が告白してくれた夜、あのとき英二はこの恋愛を「裏切りではない」と言ってくれた。
英二と自分が恋愛することで周太を護っていける、そう言ってくれた通りなのかもしれない。
けれど無傷のまま幸福を掴めるなんて、そんなに都合の良いこと想えない。だって今すでに心痛むのに?
それでも諦められない英二への想いが涙こぼれさす、その哀しい痛みへと優しい掌が伸ばされ涙ぬぐい、きれいな聲が微笑んだ。

「光一は俺のこと、信じて待っていてくれたでしょ?あの森でずっと…それで俺の罪まで肩代わりしてくれて。それに比べたら、ね?」

この冬1月の森、周太が犯した威嚇発砲の罪を自分は肩代わりした。
けれどそんなことが何だと言うのだろう?元はと言えば自分が原因で、周太に罪を犯させたのに?

―違う、周太。俺が元から全部、悪いんだよ?俺のワガママが君を追い詰めたんだ、

あのとき冬富士の雪崩で自分は怪我を負った、それが発端だった。
それが山っ子のプライドに障って秘密にしたかった、その秘密を護るため英二を脅迫した。
その脅迫が「英二を強姦すること」だった、それが周太を哀しませ追い詰めて、自分に銃口を向けさせてしまった。

―俺のプライドと、嫉妬が君を追い詰めただけ…だから威嚇発砲は、元から俺の罪なんだ、

あのとき既に「周太が山桜のドリアード」だと確信していた、あとは周太の記憶次第で確定だと思っていた。
だから英二が羨ましかった、男同士でも周太との結婚を真剣に考える笑顔がまぶしくて、そう出来ない自分が悔しかった。
そんな嫉妬と羨望が英二へのセクシャルな悪ふざけにもなっていた、ドリアードと想い交せる体に憧れて触れたかった。
そうして触れるうちに懐かしくなった、もう消えてしまった夏の温もりと空気を英二に見つけて、触れることが好きになった。
そんなスキンシップに英二は困りながらも一緒に笑ってくれた、いつも穏やかで綺麗な笑顔で見つめて受け留めてくれた。
周太のことで脅迫したときも真剣に受けとめて約束をくれた。そんな全てが深い信頼になって、本当に好きだと想い始めた。

―あの威嚇発砲があったから、本気で英二を信じられるって想えたんだ…それで好きになっちゃって、ごめんね…

どれも自分が発端だった、それなのに周太は「待っていてくれた」「肩代わりしてくれた」と感謝してくれる。
こんなふうに純粋な周太、強い優しさを抱いている穏やかな強靭は懐かしい人に似ていて、だからこそ信じてしまう。
雅樹が愛した山桜のドリアード、そう信じることで癒される時間をくれた人。この想い見つめる15年の夢は綺麗に笑ってくれた。

「秘密を背負わせてくれて、嬉しいよ?俺も一緒に秘密を背負えるんだって信じてもらえて、認めてもらえて本当に嬉しいんだよ?
なによりね、光一が幸せになろうって思ってくれたことが嬉しいよ?大好きな人と幸せな時間を過ごしてくれることが、嬉しいんだ。
しかもね、その相手が俺の大切な人で、光一がその人を幸せにしてくれるんだよ?ふたりがお互い幸せに出来るのなら、俺は幸せだよ」

どうして君は、そんなに綺麗?

ただ自分と英二の幸せだけを願ってくれる、その眼差しがまばゆい。
こんなふうに言われるなんて想わなかった、けれど納得もしている、だからこそ哀しい。

―俺の幸せを本気で願ってくれるなんて、雅樹さんと同じだね…やっぱり君は雅樹さんのドリアードだね

同じ願いを、同じよう穏やかな温もりに包んで贈ってくれる、それが嬉しくて哀しい。
あんまり優しくて強さが眩しくて、綺麗で、砕いたはずの夢が綺麗すぎて哀しくなってしまう。
優しい言葉くるまれるほどに哀しい、この愛惜に見つめるうち気がついてしまう、今なにがあるのか?
この「今」に周太が抱く願いと覚悟を見つめて、15年を懸けた我儘と一緒に光一は真直ぐ問いかけた。

「周太…俺はね、周太が幸せじゃなかったら嫌なんだ。だから本当のこと言ってよ、俺のこと罵ってもいい…本音を聴かせてよ?
何か周太は覚悟してるよね?それって俺が英二とえっちすることだけじゃない、もっと他にあるね?だからそんなふうに言って…教えてよ、」

なにか周太は覚悟している、そんな決意が黒目がちの瞳に映っている。
この決意が不安にさせる、見つめる笑顔の透けるよう明るい気配が鼓動ひとつ、大きく打つ。
この決意があるからこそ、尚更に英二を自分に託そうとする?そんな想い見つめた先で綺麗な笑顔ほころんだ。

「覚悟なら警察官になるって決めた時してるよ?それよりも光一、俺のお願いをちゃんと聴いて?英二を幸せにする約束をして?」

どうか約束を今、聴かせて?
そう笑いかけてくれる笑顔は純粋なまま優しくて、15年前と変わらない。
ずっと記憶で見つめ続けた大好きな笑顔、その笑顔への色褪せない想いに光一は微笑んだ。

「うん…君のお願いも約束も、聴かないなんて俺には出来ないよ?だって君は、俺の山桜のドリアードなんだ、唯ひとりの、」
「ん、俺は光一のドリアードだね?だから言う事きちんと聴いて、」

大好きな笑顔が笑いかけて、黒目がちの瞳は無垢な眼差しでいる。
こんな瞳をしながら周太の運命は、あまりに苛酷な現実が多すぎて涯に待つ分岐が解からない。
この現実の全てを周太は知らない、それでも無意識に気がついているから英二を託すのだろうか?
たぶん周太なら「無意識」を裏付ける理由も見つけている、そんな考えの視界で綺麗な笑顔が願ってくれた。

「光一はね、どこでも英二と一緒に行けるでしょう?でも、俺には出来ないんだ。俺ね、ちょっと気管支が弱いみたいなの。
だから英二が夢見ている高い山とか雪の深い所は、俺が一緒に行くことは出来ない。そういうの英二は寂しがるところあるでしょ?
だから光一に英二と一緒にいてほしいよ?英二が孤独にならないように、ずっと笑ってくれているように、いつも一緒にいてあげてほしい、」

本気でそんなこと、言うの?
君は運命を知っているの?だからそんなこと言うの?

「お願い、光一。英二を幸せにしてあげて?山でも、それ以外でも、英二が望む通り受けとめて?夜も独りにしないで抱きとめて?
光一も幸せに笑ってほしい。本当に大好きな人と抱きあって体温を感じ合うのはね、すごく幸せなことだよ?だから光一も幸せになって、」

どうか、あなたも幸せでいて?
そうシンプルに願ってくれる眼差しは綺麗で、透明なほど綺麗で不安になる。
不安で、けれど願ってくれる想いが温かくて優しくて、瞳に生まれた熱が頬へこぼれた。

「…周太、それが君のお願いだって信じていいの?」

本当に、信じればいいの?
信じて英二と抱きあえば、君は本当に喜ぶの?
もし自分が英二と抱きあうのなら君を待つ時間も終わる、それを君は望むと言うの?

―もし英二に抱かれるんなら本当に終る、信じて待っていた時間を諦めることになる

16年前の晩秋の記憶、独り見つめた絶望と山桜に懸けた夢の真実。
その全てを終わらせて「新しい約束」を結ぶことを、雅樹の山桜は望むのだろうか?
大切な伴侶を自分に差し出しても夢終わらせる事を願い、そして自分の幸福を祈ってくれる?

「周太、聴かせてよ?俺が英二とえっちすること、本気で君は喜んでくれるってコト?…それが君の幸せになるって、本気で言えるの?」
「ん、幸せだよ?」

穏やかな声が応えて、黒目がちの瞳は真直ぐ見上げ微笑んだ。
その優しい掌が静かに頬へ伸ばされる、そして涙を指で拭ってくれる。
どこまでも優しい温もりが頬ふれる、この温もり愛しいまま掌に頬に指くるんで笑いかけた。

「ほんとうに君は綺麗だね?強くて眩しい…なにも変わってないんだね、初めて逢ったときから君は…本当にドリアードなんだね…」

また零れる涙に微笑んで、掌に包んだ優しい指にキスをする。
唇ふれる温もりは優しくて「生きた人間」なのだと教えて、夢が終わると心に響く。
それでも変らない想い見つめる笑顔は優しくて、穏やかなトーンで周太は言ってくれた。

「ん、そうだね…きっと光一の山桜のドリアードだよ?だから言うこと聴いて、俺のこと大切だったら言うこと聴いて?」
「何でも聴く、君と山と、あいつから離れること以外なら何でも…だから言って、ドリアード?」

ドリアード、こんな「山の秘密」に名前を呼んで、涙あふれだす。
この名を教えてくれた懐かしい俤、大好きな俤を待ち続けた16年の夢が今、涙に融けていく。
ずっと待ち続け信じていたかった夢がもうじき終わる、その愛惜が、縋りたい想いが涙になって墜ちていく。
本当に信じていた、夢のようでも馬鹿だと思っても信じていた、山桜のドリアードなら、山の神なら叶えてくれると待っていた。

―ずっと君を待っていた、君になら出来るって想ってた…生き返らせることが出来るって、信じて待っていたんだ、

あの夏の幸せを、雅樹を生き返らせることが「山」になら出来る、そう信じて自分は待っていた。







(to be continued)

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第58話 双璧act.6―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-03 04:36:48 | 陽はまた昇るanother,side story
憧憬の温度、それぞれの夢に今、



第58話 双璧act.6―another,side story「陽はまた昇る」

今日、光一と北壁を登ったのは本当は俺じゃない、雅樹さんだよ。
あの山の点に立つべきは雅樹さんだ、俺じゃない。

そう告げた綺麗な低い声は黙りこんで、電話に繋がれた沈黙が静かに響く。
この沈黙に英二の心が映りだし、懐かしい憧憬の瞬間が起きあがる。

―…湯原、見てよ。これが警視庁の山岳救助隊なんだ、

湯原、そう英二は自分を呼んでいた。
まだ初任科教養だった時、警察学校の図書室で資料を一緒に見せてくれた。

「青梅署の救助隊だって書いてあるけど、雪の山だろ?ちょっと東京っだって思えないよな、」
「ん…奥多摩は結構、雪が降るよ…八王子とか立川とか、第八、九方面は」

相槌を打ちながら一緒に眺めた資料には、真白な雪の尾根と真青な空が映っていた。
空には救助ヘリコプターの姿、そして雪の上には青いウィンドブレーカーの背中が真直ぐに立っていた。
青地に白く染め抜いた「警視庁」を背負い雪に立つ背中は、誇らかに自由で、大らかな頼もしい雰囲気があった。
その背中を長い指は示して、綺麗な低い声が楽しげに笑って教えてくれた。

「この人の背中、かっこいいだろ?俺、こういう背中になりたいから、山ヤの警察官になろうって思うんだ。厳しいだろうけど諦めない、」

山ヤの警察官、その言葉に記憶が微かに揺らされた。
あのときはそれが不思議で、けれど今にしたら理由がよく解かる。だって自分は子供の頃に後藤と会っている。
初めて会った当時の後藤は40歳前、警視庁山岳救助隊のエースであり、山岳界では模範とするべき山ヤとして認められていた。
そんな後藤の背中を意識の深くでは憶えていたのだろう、まだ記憶喪失のままでも「山ヤの警察官」のイメージはすぐ出来た。
そして、英二が山ヤの警察官の背中に憧れたことが至極当然に想えて、きっと英二には似合うだろうと感じていた。
そんな英二の憧憬「背中の写真」を撮影したのは後藤で、撮影されたのは後藤の秘蔵っ子である光一だった。

…あの背中は光一だった、光一だから英二は憧れて山ヤの警察官になったんだ、

あのとき純粋な憧れだけが英二の笑顔に輝いていた。
ただ背中の写真しか知らない相手への素直な賞賛、そして夢が明るく笑っていた。
けれど今の英二は泣きそうな気配に唇噛むよう微笑んで、電話の向こう溜息の気配が伝わらす。
ただ哀しくて悔しい、そんな溜息には山ヤとして男としての誇りと、焦燥感を生む向上心が輝いている。
そして、あのときと変わらない純粋な憧憬と、その憧憬があでやかに花ひらいた「恋愛」の情熱まばゆい。
この純粋な想い達があるなら大丈夫、そんな想いに周太は婚約者へと静かに微笑んだ。

「そうかもしれないね、でも英二…光一は本当に英二のこと大好きだよ、そんなこと言ったら哀しむよ?…光一を傷つけないで?」

ごくシンプルなことだけ伝えて、何が大切かを想いださせたい。
どうか独り決めしないで?この願いとベッドの上に座りこみ携帯電話に頬よせる。
けれど電話の向こうは遠い青空の下、涙ひとつの気配と一緒に哀しげな声が微笑んだ。

「ありがとう、周太。だけど光一はもう、俺のこと愛想尽かしたかもしれない。そしたらごめんな、」

そんなことあるわけがないのに?
けれど今の英二は自信を失くして、沈んでいく心は盲になっている。
その視野を広げて気付かせてあげたい、その願いに周太は笑いかけた。

「そんなこと言わないで、謝らなくて良いから…その代り英二、約束して?」
「約束?」

言葉に微笑んで、訊き返してくれる。
いま少し笑ってくれた、その分だけ少し心に余裕が空いただろう。
そう感じて周太は一番伝えたい想いを祈り、言葉に変えて恋人へと笑いかけた。

「光一の言いたいこと、ちゃんと全部を聴いて?光一の気持ちを素直に受けとめて、心も体も全部、ね…そう約束して?」

告げた声はいつも通りでいる、それが嬉しい。
この言葉の意味を真直ぐ理解してくれるだろうか?そんな期待の向こうから綺麗な低い声が問いかけた。

「周太、教えて?周太がいま言ったことって、光一が望んだらセックスしてってこと?」
「はい、そうです、」

問いかけに答える声は、ちゃんと微笑んだ。
その微笑に電話の向こうが和んでくれる、その素直な反応が嬉しいまま周太は笑いかけた。

「でもね、しても俺に何も言わなくて良いからね?…ふたりが幸せだったら、それで良いから…ね、約束してくれる?
光一の話を聴いて受けとめて?本当の気持ちで向きあって、ふたりで夢を追いかけて?そう約束して英二、俺のお願いを聴いて?」

お願いを聴いて?
そう自分に言われたら、きっと英二には断れない。
この「お願い」が英二の背中を押してくれる、そう願っている。
大切なふたりには、どうか想い支えあって夢を叶えてほしい、その為なら自分はどうでもいい。

…もう俺はどうでもいい、もう大丈夫だから、ふたりには沢山もらったから大丈夫だから

ただ素直に感謝が心で呟いて、もう充分に想いは充たされ温かい。
弱虫で泣き虫の我儘な自分、けれど光一も英二も自分を想ってくれる、いつも沢山の約束で愛してくれる。
いつも変わらない2人の率直な真心と温もり、それが自分は独りで生きているのではないと気付かせてくれた。
ふたりが贈ってくれる優しい記憶と信頼感、その全てが、この自分を支え相手も受け留める強さを育んだ。
だからもう大丈夫、ふたりが互いを見つめ合う瞬間にも自分は、孤独に泣かない。

…もう俺は、いつも独りじゃないって心から信じられる、だから大丈夫、だから…お願い、英二?

だからお願い、英二?今度は自分から、想いを贈らせて。

どうか光一を受け留めて幸せにして欲しい、自分が出来ない分も。
そして英二にもっと幸せになってほしい、自分には出来ないことが光一には出来るから。
この自分を支えてくれるほど強く美しい二人なら、お互い支え合う時きっと不可能も可能に出来る。
だから見つめ合ってほしい、そして夢の全てを叶えてもっと輝いてほしい、本当に大切な2人には幸せでいてほしいから。
そんな想いに心深く見つめる俤は、はるか遠い国からも大好きな声で自分を求めねだってくれた。

「周太、お願い聴いたら俺のこと、もっと好きになってくれる?ずっと傍にいてくれる?」

もっと好きになってほしい、ずっと傍にいて待っていてほしい。
そんなシンプルで単純な幸せを求めてくれる、こんな時にまで自分を乞うてくれる。
その願いがただ嬉しくて、想い寄せてくれる温もり信じて周太は笑いかけた。

「ん、すきになる…だから言うこと聴いて?それで無事に帰ってきて?家も掃除して、おふとん干しておくから、」

日曜日の週休は、日帰りでも実家に帰ろう。
異動を控えて慌ただしい時だけど、だからこそ今、掃除をしてふとんを干したい。
そうして英二が帰ってきても居心地良いようしてあげたい、そんな普通の願いへと英二はねだってくれた。

「周太の作ってくれた飯、食べたい。約束してよ、周太?また俺に飯、作るって約束して?そうしたら言うこと聴くよ、」
「ん、…約束する、だから光一と話してね?この電話を切ったらすぐに、ね?」

喜んでもらえる食事を、心ゆくまで食べさせてあげたいな?
そんな素直な願いに微笑んで約束を結びながら、そっと婚約者の背中を押している。

…この電話を切ったらすぐに、って言ったら英二は、すぐに行動してくれる

時間を区切られたら英二は言われた通り、きちんと電話の後すぐ光一と話すだろう。
本質が生真面目で物堅い英二は時間感覚も鋭敏、だから朝に水を浴びながら時間割を決める習慣がある。
きっと今も時間を決めたから大丈夫だろうな?そんな考え微笑んだ向こうから、綺麗な低い声は明るく笑ってくれた。

「うん、すぐ話すよ。ありがとう周太、大好きだよ?ここから今、周太にキスしたい、」

キスしたい、そう大好きな大切な婚約者が言ってくれる。
この言葉こそ信じて受けとめたい、本当はずっと声を聴いていたい。
そんな本音にすこし困りながら微笑んで、周太は気恥ずかしさと一緒に婚約者へ笑いかけた。

「ん、俺も大好きだよ?…またきすしてね、おやすみなさい」
「うん、キスするよ。おやすみ周太、夢で逢ったらキスさせてね?」

電話と8時間の時差越しに笑い合って、そっと通話を切った。
ほっと息吐いて携帯電話を閉じ、ゆっくり部屋は静謐に浸されだす。
部屋の明りをデスクライトに絞り、ほの明るい優しい夜にベッドへ座りこむ。
その耳元にIpodのイヤホンを繋いで、スイッチを押すと手元の本を開いて灯りへ向ける。
栞を挟んだページを捲ると雪山がそこに広がらす、そしてイヤホンから穏やかな旋律があふれた。

……

I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy I'll be your hope I'll be your love
Be everything that you need.  I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
I will be strong I will be faithful 
‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning
I want to stand with you on a mountain…I want to lay like this forever

Then make you want to cry The tears of joy for all the pleasure and the certainty
That we're surrounded by the comfort and protection of The highest powers In lonely hours The tears devour you
I want to stand with you on a mountain…I want to lay like this forever

Oh, can you see it baby? You don't have to close your eyes 
'Cause it's standing right before you All that you need will surely come

I love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
I want to stand with you on a mountain

……

やさしいアルトヴォイスが歌う、夢を見つめ寄添いあう恋愛。
この英語の曲を初めて聴いた、青梅署単身寮の一室を記憶に想いだす。
あの部屋に香っていた深い森と似た恋しい気配、泣きながら微睡んだ白いシーツのベッド。
そして、抱きしめた山岳救助隊服に染みついた山の土と、愛しい汗の匂いが今、そっと懐かしく慕わしい。

…大好きだよ、英二?だから幸せになって、誰よりも夢に輝いて生きて?

心に想う祈りへと、想い出の曲は優しく歌ってくれる。
この歌詞に想いこめてくれた優しい婚約者、その人が幸福を得られるのなら自分は嬉しい。
そのためなら幾度でも涙を呑みこむ、幾らでも強くなれる、そう自分を信じられるだけ充分愛してもらった。
この大らかな勇気ひとつに心温めて、大切なふたりが明後日に向かう「壁」アイガー北壁の困難と栄光を今、ページに捲る。
そこに描かれていく高峰の現実には自分は立てないと実感が傷む、本当は、この目で頂点の世界を見たい想いが心で叫ぶ。

…きっとお父さんも見ていた世界なんだ、これが…でも、俺には行けない

たぶん小学校1年生の頃だろう、父と一緒に高い山へ登った記憶がある。
晴れた初夏の日和は涼やかだった、高山植物の花々を嬉しく観察しながら登って、けれど森林限界を超えた途端に歩けなくなった。
ついさっきは元気だったのに?もどかしい想いごと父に背負われ下り始め、けれど灌木が生える所まで来ると呼吸が楽になった。
そんな自分の様子に父は病院で検査を受けさせてくれた、それ以来のど飴をいつもポケットに入れてくれるようになった。
そして、標高2,500mを超える山に行く時は、いつも途中までしか登らなかった。

…あのときの検査、たぶん英二が受けたテストと同じなんだ

スイスに発つ前、英二は高地の適性テストを幾つか被験している。
この検査項目の全てが英二は優良だった、これらのテストを受ける度に英二は電話で話してくれた。
その話を聴くごと幼い記憶が呼び戻されて、自分の体は高地の適性が低いことに気付かされた。

…だから、お父さんと穂高に登ったときも涸沢までだったんだね…きっと、お母さんなら検査結果を知ってるんだろうな

検査を受けた当時は深く考えなかった、単純に、好きな蜂蜜オレンジのど飴をいつも持てる事が嬉しかった。
標高の高い山に連れて行ってもらえる時も、頂上まで登らず灌木が生える所で引き返しても不満や疑問は無かった。
元から自分が山登りを好きな理由は植物観察だったから、大きな木や珍しい高山の植物を見られるなら満足だった。
けれど、今は違う。父の軌跡を追いかけたい今は、英二と光一の夢に出逢った今は「山」に別の願いを持ってしまった。

…俺も高い山の天辺に登りたい、お父さんたちの夢の世界を見てみたい…だから山での応急処置も勉強したのに

たとえ北壁のような難しいルートは無理でもノーマル・ルートで頂上に行ける、そう思っていた。
6,000m峰などの難関は無理だろう、それでもアルプスの4,000m級までなら登れるだろうから、いつか行きたいと想った。
愛する人達が夢見る「高峰」その世界を少しでも見てみたい、厳寒期は無理でも夏なら行ける、そう信じていた。
たぶん検査を受けた頃よりは体力も格段に高くなっている、それでも体質はそう簡単には変わらない。

…だから英二と約束した北岳も、頂上は行けないかもしれない…約束ごめんね、英二

おそらく自分が高峰の頂点に立つことは、難しい。
そんなふうに、真剣な努力にも限界がある「体」の現実に気づかされた。
だからこそ光一に英二を託したかった、光一なら英二の夢と努力に応えられるから。
この叶わぬ夢への想いも託せる大切なふたり、いま夢に登らす祈りをIpodのアルトヴォイスが歌う。

“Oh, can you see it baby? You don't have to close your eyes 
 'Cause it's standing right before you All that you need will surely come…
  I love you more with every breath… I want to stand with you on a mountain ”

どうか愛しい人、ちゃんと見つめて?目を瞑っては駄目。
あなたに必要なもの全てに辿りつく未来が、あなたの目の前にあるのだから…
息をするごともっと愛するから…山の上にあなたと立ちたい

…だいすき、光一も英二も。お願いだから無事に夢を叶えて?信じて待ってるから…心だけでも俺を、最高峰に連れて行って

優しい記憶の旋律、明後日の夢と栄光を描く文章、ふたつに包まれながら周太は温かい眠りに微睡んだ。




正午の鐘が鳴り、講堂はざわめきが生まれだす。
テキストを仕舞う音、話す声、感想用紙を回す気配。
講義が終わった空気が起きていく片隅で、そっと周太はクライマーウォッチを見た。

…そろそろ起きたかな?あと1時間でスタートだね…体調はどうかな、

午前5時、英二と光一はアイガー北壁の登攀をスタートする。
時差8時間のスイスだから日本時間13時に、ふたりは巨大な凍れる壁を登りだす。

“Eeger” アイガー北壁は「死の壁」と呼ばれる。

標高3,975m、北壁の標高差1,800mは東京タワー5個分相当の垂直な壁。
自分には想像できないような高い壁、そこを2人は3時間で登ろうとしている。
1時間につき600m、1分で10mを標高2,000mを超えた希薄な空気のなか登攀していく。
それは誰にでも出来ることではない、選ばれた体と能力と努力が揃って初めて叶う。その挑戦権を2人は持っている。

…俺には出来ない、その世界に行くことは。だけど時計が一緒に登ってくれるね?

いま見つめている自分の左手首のクライマーウォッチは、元は英二の宝物だった。
これを英二が買い求めたのはちょうど1年前、初任科教養在籍中の外泊日に新宿で見つけた。

―…山では便利でほしかったんだ…俺、出来れば青梅署に行きたいんだ…湯原。俺はね、山岳救助隊員になりたいんだ

買いたての山時計をつけた笑顔は、自由な誇りが輝いていた。
この時計を英二は大切にしながら青梅署に卒業配置され、山ヤの警察官として生きる道に立った。
そんな英二の夢と努力を刻んだ時計が欲しくて、交換してもらおうとクリスマスにクライマーウォッチを贈った。
そして今、自分の腕に英二の初めてのクライマーウォッチは時を刻んで、元の持主が見つめる瞬間を夢見ている。

…いまごろ英二の時計は午前4時を過ぎたね?光一の時計も、

光一のクライマーウォッチ『MANASUL』は、英二と周太とで誕生日に贈った。
あの腕時計は特別仕様で標高8,000mでも耐えられる造りになっている、そして名前が光一にとって意味深い。
光一の両親はトップクライマーだった、けれど11年前4月、世界第8峰マナスルでふたりとも遭難死した。
光一の両親を眠らせた山、マナスル。その名を冠したクライマーウォッチに時を見つめ光一は北壁を登る。

…光一、きっとご両親も一緒にいるよ?田中さんも、雅樹さんも一緒だよ?…どうか無事に夢を叶えて

明るい光ふる大学の講堂で、蒼い巨壁の時を見つめる。
あと1時間で大切な人たちは夢へ登っていく、その涯にある蒼穹の点が輝くことを祈る。
山を愛した父が遺した古い本、そこに描かれていたアイガー北壁の現実を想い、今この瞬間にある1,800mの壁に願う。

どうか山、若い二人の山ヤを受け容れてほしい。
ふたりは山の静穏のために日々を懸け、泥と血に塗れることも厭わず生命と尊厳を救う。
そして山への敬愛を抱いて高みを目指し、登り、遥か遠く高い点から世界を見て空に笑っている。
そんな二人をどうか山、その大きな悠久の体を登らせてあげてほしい、風にも低温にも掴まえず「山」で生かせてほしい。

…お父さん、もうじき英二たちが登るよ?護って、お願い

そっと心に祈りを見つめ、傍らのブックバンドを見てしまう。
いつものテキストと蒼い表装の専門書、それからカバーをした古い本を挟んである。

Heinrich Harrer『白い蜘蛛』

アイガー北壁を初登頂した、オーストリア人の学者ハラーが遺した登攀記録。
このタイトルの「白い蜘蛛」はアイガー北壁にある雪田、大きな氷壁が蜘蛛の形と似ていることに由来する。
その氷壁は危険個所だとハラーは記していた、この「蜘蛛のよう危険」だと言う意味も兼ねた題名になっている。
別名に「人を食う壁」とも言われるアイガー北壁、その数多と死んでいったクライマー達の悲劇と、完登の栄光がそこにある。

…どうか栄光がふたりを、英二と光一を迎えますように

名誉とかは知らない、けれど夢に光輝く幸せを願いたい。
そんな想いに佇んだ隣から、優しい手が感想用紙を渡してくれた。

「湯原くん、今、心はアイガーに行ってたね?」

可愛い声が微笑んで、きれいな明るい目が笑いかけてくれる。
いつもの明るい笑顔、けれど綺麗な瞳の奥には緊張が泣きそうでいる。
この気持ちは自分と同じ、そんなふう同じ想いを共有できる友達に周太は綺麗に微笑んだ。

「ん、一緒に冒険する気持ちだよ?美代さんも一緒に行くでしょ?」
「うん、心は冒険に行くよ?湯原くんと一緒なら楽しいね、」

きれいな明るい目が楽しげに笑ってくれる。
すこし緊張を解いた笑顔が嬉しい、嬉しくて周太はペンを取りながら笑いかけた。

「ん、きっと楽しいね…でもね、俺と美代さんは植物学でも冒険に行かないとね?」
「ね、私たちにも冒険があります。今日の感想はポイント、どこにしようかな、」

明るい目は愉しげに笑い美代もペンを取った。
お互い感想用紙に向きあって、夏の光ふる窓辺に講義の感想を綴っていく。
今日は葉と光線の関係が面白かったな?オジギソウの体内時計の実験をしてみたいな?そんな考えめぐらせペンは綴る。
そうして書いていく感想に「実験して確かめたい」と記されていることが前より増えた。

…俺、本当にこの勉強が好きなんだ、

記していく感想に本音を見て、そっと心から微笑こぼれる。
こんなふう自分にも見つめたい夢がある、そんな現実が幸せで温かい。
そして「いつか」夢を歩く現実に辿り着きたい、スイスに発つ直前に英二がくれた約束を叶えたい。

―…大学のこと話す時とか、本を読んでいる時の周太って幸せそうでさ。きっと周太の向いている道なんだろうって俺は思うよ?
   お父さんのことが終ったら、周太は大学院に入ったら良いって俺は考えてる。学費とか俺が出すから…
   辞職したらすぐ、俺の嫁さんになって下さい。そして大学院に入って樹医になってください

結婚と進学、ふたつの夢を周太に贈って英二は、高峰の夢へと出立した。
その夢に今このとき英二は登りだす、光一と共に危険と夢を超えて遠い異郷の山を行く。
その同じ瞬間を自分は美代と共にキャンパスで、植物学と大学受験の勉強をしているだろう。
こんなふうに自分たち四人は道が違う、これからまた変化もするだろう、それでも互いに想いあっていける。

…幸せだな、今、本当に

ほっと心に想い、ペンをシャツの胸ポケットに挿した。
ぐるり首回して隣を見ると、美代はもう机を片づけて笑ってくれた。

「はい、僅差で湯原くんがラストよ?私の方が書き終るの、早かったね、」
「あ、ごめんね?お待たせしちゃって、」

謝りながら机を片づけて席を立ち、扉の方へと歩き出す。
そして開いた扉の向こう、まばゆい木洩陽に青空はきらめいた。

「先生と手塚、待たせちゃってるね?急いだつもりだったけど、」
「いつもより早かったわよ、でも、待たせてるのは変わらないね?」
「ん、そうだね?あ、模試はどうしたの?」
「申し込めたの、8月と9月と。今から緊張しそう、」

笑いあいながら大きな緑陰を歩いていく、その足元は影が濃い。
もう夏は陽射しを強めて季節はうつろう、そんな光のいろに遠いふたりの俤を見てしまう。
あと40分で、英二と光一はアイガー北壁「死の壁」へと登りだす。その緊張を想い周太は空を見上げた。

…どうか今日は、アイガーに風を吹かせないで?

祈り見つめる空は青い、夏の太陽まばゆく目を細めさす。
この空は遥か8時間の時差を繋いで、ふたりの立つ山へと続いていく。
この空に繋がれて祈りを届かせたい、そう願う隣でも空を見上げて明朗な声が笑ってくれた。

「大丈夫、光ちゃんのお天気予報は200%の正解率だから。きっとアイガーも良い天気よ?宮田くんも晴れ男だって言うし、ね?」
「ん、そうだね…大丈夫だね、ありがとう、」

隣の笑顔に笑いかけ、いつもの入口を降りて学食へと向かう。
温かい食事の匂いが近づいて、食卓の並ぶ風景へ入ると愛嬌のある笑顔が手を挙げてくれた。

「湯原、小嶌さん、」

よく透る声が呼んでくれる、その前から楽しげな笑顔も振向いてくれた。
夢を追う友達と尊敬する樹医が自分達を待っている、嬉しくて周太は隣に笑いかけた。

「美代さん、先に鞄とか置いてから、ご飯とりに行こうよ?」
「そうね、まずは先生に感想、渡しちゃうほうが良いしね?」

笑い合いながら、ふたり一緒に席へ向かった。








【歌詞引用:savage garden「Truly, madly, deeply」】



(to be continued)

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