「還」 廻らす時の想い、
第58話 双壁side K2 act.5
ずっと幼い日、春の雪ふる年があった。
奥多摩の遅い春に山桜は咲いていた、けれど地上の花に白い天の花は降り、山も里も白く輝いた。
そんな土曜日の朝早く、ふたり手を繋いで雪の森を歩き、あの山桜へ逢いに行った。
「ほら、雅樹さん?ちゃんと咲いてるね、山桜。俺の言った通りだね、」
純白まばゆい光の花が、豊麗の春を拓いて満開に咲き誇る。
暁の梢から光の梯子ふる、澄明な空気は涼やかで、新雪に凍れる森は朝の瞳を覚ましていく。
ざくり、登山靴に雪を踏みわけて、明るいグレーのダッフルコート羽織った笑顔は白い息と微笑んだ。
「そうだね、雪にも負けなかったね?ドリアードが住んでいるからかな、この山桜には、」
綺麗な落着いた声が微笑んで、白い長い指の手が大きな幹にそっとふれる。
天を抱く大いなる枝に花は輝く、ゆるやかな風にそっと花は舞いおりて、綺麗な笑顔と黒髪を飾った。
山桜ふる花びらと香、艶めく黒髪、しなやかな長身に暁まばゆい白皙の、美しい笑顔の青年。
そんな姿こそ桜の神のようで、見惚れながら大好きな笑顔へと自分は尋ねた。
「雅樹さん、この山桜にはドリアードが住んでいるって、いつも言うよね?木の精霊ってコトは解かるけど、どんなヤツなの?」
「うん、森の護り神って言ったら良いのかな?」
深い綺麗な声で笑って、長い腕を伸ばしてくれた。
嬉しくて手を伸ばすと抱きあげてくれる、そして同じ目線になると優しい切長い目が微笑んだ。
「綺麗な女の子だよ、小柄で水色の服を着て、短い髪はやわらかくて緑色に輝いている。花や木が大好きで、大きな樹に住んでいるんだ、」
まるで見たことあるかのよう?
そんな語り口に嬉しくなって、雅樹の首へと腕を回しながら自分は尋ねた。
「緑って、木の葉っぱの色だね?服が水色なのは、木が水を蓄えるからなんだろ?」
「うん、きっとそうだって想うよ?木が人間の姿になっているのがドリアードだからね、木と同じ性格なんだと思う、」
頷いて笑いかけてくれる、その笑顔に時おり白い花は降る。
自分のことを話してもらって喜んでいる?そんなふう山桜に想うなか、深い声は教えてくれた。
「ドリアードは木が命なんだ。自分が住んでいる木と、生きるのも死ぬのも一緒なんだよ。だから自分の木と森を大切にして生きている。
そういうドリアードが住んでいる森は豊かだよ、きれいな水と空気を作ってくれるからね。だから僕は、この山桜と森を大切にしたいんだ。
この桜がここに生きていることは、祖父も祖母も知らない。僕だけが知っている、だから僕はこの桜の守りをする為に、毎週帰ってくるんだ、」
山桜の森は、雅樹の祖父の地所だった。
古くから吉村家が代々大切にしてきた森、そう自分も聴いている。
そのことに気がついて思い当たったことを、そのまま雅樹に質問した。
「ね、雅樹さんがこの木を見つけたのってね?もしかして、吉村のじいさんと手入れに来たとき迷子になったとか、そういうコト?」
「当たり、やっぱり光一は頭が良いね?」
なんだか恥ずかしそうに笑ってくれる、その貌が可愛いと想った。
あのとき雅樹は18歳だった、初々しい医学生の頼もしい腕は軽やかに自分を抱えてくれていた。
それでも「かわいい、」と感じてまた好きになって、一瞬前より大好きな気持ちと笑いかけると雅樹は教えてくれた。
「ドリアードはね、人間の男に恋するんだよ?好きになった相手には姿を顕わすんだ、それで両想いになれたら自分の木に連れて行く。
そうして幸せな時間を過ごしてね、永遠に恋する約束をするんだよ?それはすごく幸せでね、男は時間も忘れて帰ることを忘れちゃうんだ、」
まるで神隠しみたいだな?
そんなふう祖父の昔話を想いだしながら、さっき思ったことを訊いてみた。
「あのさ?雅樹さんの話聴いてるとね、まるでドリアードに逢ったコトあるみたいだよね?でも帰ってきているけど、やっぱり逢った?」
「うん、逢ったよ。この桜を見つけた時にね、」
素直に即答して、綺麗な笑顔ほころんだ。
その笑顔に納得できる、こんな綺麗な笑顔の男なら精霊だって惚れるだろうな?
そんな想い見惚れた切長い目は花の梢を見あげて、ふわり懐かしそうに微笑んだ。
そして光一の瞳へ少し気恥ずかしそうに笑うと、綺麗な深い声は1篇の詩を口遊んだ。
……
牧場に見えるのは 森の精ドリアード
花に囲まれてくつろぐ姿が美しい
色あざやかな帽子の翳には
緑なす乱れ髪が揺れている
その姿を一目見てより恋に悩み
心は騒ぎ 涙はあふれ
わが苦悩はいやましに募り募って
その流し目に苛まれるばかり
わが瞳には甘き毒が注がれて
その毒が魂の奥深く流れこみ
私は深い痛手をこうむるのだ
麗しき六月の百合のように
陽差しに灼かれ 頭を垂れて
青春の盛りをいたずらに過ごしゆく
……
花のなか佇んで、緑の髪なびかせる美しい精霊。
その光景が詩に見えて、綺麗で、光一は大好きな人に尋ねた。
「きれいな詩だね、雅樹さんが作ったの?」
「ううん、ピエール・ド・ロンサールっていうフランスの人が作ったんだ。明広さんに借りた本で読んだんだよ、」
すこし恥ずかしげに綺麗な笑顔ほころばせ教えてくれる。
そういえば父はフランス文学とやらを大学でやったと言っていた、同じ本を自分も読んでみたいな?
そんな考え廻らす隣、雅樹は山桜を見上げながら懐かしそうに語り始めた。
「僕が小学校にあがった春だったよ。あのときも春の雪が降ってね、祖父が森の見回りに行くって言うから付いてきたんだ。
そうしたら僕、野うさぎと会っちゃってね?つい追いかけて、森の奥まで来ちゃったんだよ。そして、いつのまにか山桜の前にいたんだ。
今日みたいに雪のなかだった、真白な花と緑の葉っぱが綺麗でね。すごいなって見惚れていて、気がついたら女の子が近くで桜を見ていた、」
春の雪、7歳になる雅樹が出逢った「山桜」の瞬間。
いま深い声に紡がれるシーンが綺麗で、なにか愛しかった。
この愛しい想いと見つめる綺麗な笑顔は、楽しげに教えてくれた。
「自分と同じくらいの年恰好でね、水色の服を着て、短い髪が木洩陽にきらきら光って緑いろに輝いているのが、本当に綺麗だった。
綺麗で見惚れていたら、僕に気がついて笑いかけてくれてね、この木が好きなの?って聴いてくれたよ。その笑顔が綺麗で可愛かった。
なんだか僕、すごく幸せな気分で頷いたんだ。この桜きれいだね、大好きだよって。そうしたら、同じだねって嬉しそうに笑ってくれたんだ。
それから桜を見ながらお喋りしたよ、僕が登った山の話とか、山で見た花の話とか。どの話もね、本当に楽しそうに笑顔で聴いてくれたんだ、」
水色の服を着た可愛い少女と、7歳だった雅樹。
ふたり山桜を見上げて雪のなか話すシーンは綺麗で楽しくて、けれど幾らか嫉妬しそうだった。
自分が大好きな雅樹が他の話を楽しげにする、それが妬けて少し拗ねた口調で言ってみた。
「ね、雅樹さん?ドリアードとのお喋りはね、さぞ楽しかったと思うけどさ?俺と話すのと、どっちが楽しい?」
「え?」
すこし驚いたよう切長い目が自分を見、綺麗な貌がすこし首傾げた。
明るい瞳ひとつ瞬いて、すぐ幸せに微笑んで深い声は言ってくれた。
「光一?光一だったら僕と山の神さまと、どっちとお喋りする方が楽しい?」
「そんなの比べらんないよね?だって、人間と神さまなんだから次元ってヤツが違うね、」
即答して、すぐ気がつかされた。
自分は雅樹に愚問をしたかもしれない?そんな恥ずかしい想いと訊いてみた。
「あのさ、雅樹さんも同じってコト?ドリアードって山の神さまみたいなモンで、俺とは比べらんない別次元ってコト?」
「うん、その通りだよ、」
綺麗な笑顔は楽しそうに笑って頷いてくれる。
ちゃんと自分は正解を言えた、嬉しくて微笑んだ隣から雅樹は教えてくれた。
「さっき話したけど、ドリアードに恋した男は時間も忘れて帰らないんだ。それはね、山で亡くなる人と同じかなって僕は想う
山を愛して山に登って、そのまま山で亡くなって帰らない。そういうの、木の精霊に恋したまま帰らない男と似てるなって、想うんだ。
だからね、山で遭難死することは山に恋しすぎて帰れない気持ちを、山が受け容れたっていう場合もあるかもしれないね、相思相愛で、」
山と恋しすぎて帰れなくなって、山で命を終える。
そんなふう語った雅樹の貌は、若い山ヤの憧憬が明るく輝いていた。
透けそうなほど明るい笑顔は綺麗で、けれど言葉たちの切なさに鼓動が響いて、大好きな笑顔に自分は抱きついた。
「ダメだね、雅樹さん。勝手に山で死んじゃったりしないでよね?ドリアードのトコ行かないでよ、俺の傍にいてよ、だって約束したね?
5月が来たら、俺が4歳になったら一緒に山、登ってくれるんだろ?年長組になったら富士山だって登るんだよね?もっと沢山、一緒だよね?」
まだ3歳だった、けれどもう山の約束を始めていた。
その約束をどうしても叶えてほしくて、抱きしめた笑顔を見つめて自分はねだった。
「ね、だから言ってよ?ドリアードより俺を選んでよ?ね、雅樹さん、俺だけを見てよね、いちばんを俺って言って約束を護ってよ?
俺とパートナー組んで一緒に山登ってよ、俺のことホント大好きだったら、いちばん好きなら、いつか俺だけのパートナーになってよ、ね?」
お願いだからYesと言って?
その願いに見つめて強請って、熱くなった瞳から涙こぼれた。
「俺のこと大好きなんだよね?俺がいちばんだよね、山の神さまより俺を好きって言って?山で死なないでよ、俺のトコ帰ってきて、ずっと」
「うん、」
短く応えて、綺麗な笑顔ほころんだ。
泣きだした自分の髪を大きな掌が撫でて、深い綺麗な声が言ってくれた。
「約束するよ、光一。僕は必ず光一の所に帰ってくる、今日みたいに奥多摩に帰ってきて、光一と一緒に山へ登るよ?光一が大好きだから、」
約束に微笑んでくれる頭上、ゆるやかな風に白い花は万朶と舞い降らす。
きらきら暁に花びらはきらめいて、光の梯子に森は輝き世界は白銀へと明るんだ。
まばゆい冬と優しい春の森深く、大きな山桜が蒼穹に輝く許で、美しい山ヤの医学生の笑顔は生きていた。
「…約束だよね、雅樹さん?俺のとこに帰ってきてるよね、今、一緒にいるよね?」
そっと想いこぼれた自分の聲に、頬ひとすじ熱が伝う。
手の甲で頬と目許を拭い、呼吸ひとつで落ち着くと光一はデスクライトの下に山図を広げた。
“Matterhorn North Face Route.Schmidt”
高低差1,124m、マッターホルン北壁シュミッドルート。
標高4,478mの頂点へ向かう岩壁を辿らす垂直の道は、寮室の狭いデスク一杯に広がっている。
この道を初めて登ったのは8年前だった、けれど頭脳で幾度と登ったのか解らない、その初登は8歳の夏だった。
『俺の専属アンザイレンパートナーになってよ?俺なら2時間で登れるね、アイガーなら3時間だ。ね、だから俺だけ見てよ?』
穂高連峰を縦走した夏、梓川のキャンプ場で雅樹に告げた言葉。
あの言葉から始まったマッターホルン北壁とアイガー北壁の夢、それからグランドジョラス北壁、そして最高峰の夢。
きらめく夏の記憶と約束たち、その最初に叶えるべき1番目の約束が今、デスクライトに光っている。
―絶対に約束の記録で登れる、英二とならね。まだ経験に不安はある、それでも英二の才能に懸けたい、
英二の山岳経験は、1年にも満たない。
初めての登山が1年程前の警察学校である山岳訓練だった、それが切欠で英二は山ヤの警察官を志した。
それから外泊日にはジムでの岩壁登攀のトレーニングに通っている、けれど本チャン、山での初登攀は卒業配置後だった。
青梅署山岳救助隊で行った白妙橋での登攀訓練、初めてだと言う英二に救助隊隊長の田村がマンツーマン指導をした。
まず1本目が終わり、そして2本目になった時にはもう、英二は光一のスピードを追いかけ始めていた。
―あのとき驚いたね、初心者に俺が追われるなんてさ?
あれは11月初めだった、だから10ケ月も経っていない。
そして英二と初めて一緒に山を登ったのは10月、川苔山で藤岡も一緒に自主トレーニングした時だった。
あのときも最初の歩きだしは上手くなかった、けれど10分もすると英二は光一の呼吸に合わせるよう登っていた。
そんな英二の様子に本当は驚いた、驚きながら英二が自分のザイルパートナーとして御岳駐在に配属された理由に気がついた。
本来、駐在員が山岳救助隊を兼務する青梅署には卒業配置での配属は無い。それなのに山は素人の英二が配属されて疑問だった。
その疑問の解答は、寮と山で英二と過ごして知った才能と性格、そして体格と身体能力に明解だった。
―後藤のおじさん、最初っから俺のアンザイレンパートナー候補として、受け入れを決めたね
ずっと後藤は、光一が単独行であることを心配してくれていた。
雅樹が亡くなった後は両親がザイルパートナーを交替で務めてくれた、両親の死後は親戚で山ヤの田中老人がザイルを組んだ。
けれど高齢の田中と大柄な自分がザイルを組める時間は短くて、高校生になると両親の友人である後藤がパートナーになってくれた。
ただ、山岳救助隊副隊長を務め警視庁随一の山ヤである後藤は多忙で、ザイルを組んで登れるのは海外遠征か近場の練習の時だけだった。
身長180cmを超える体は日本人では大柄で、アンザイレンザイルを組む相手は体格だけで既に選択が狭められる。
そのうえ自分の登攀スピードに追い付ける相手はまずいなくて、身長179cmでトップクライマーの後藤しか身近にいなかった。
そんな現実に仕方なく単独行で山を廻っていた、それでも田中老人がザイルを組まなくても一緒に登るときもあった。
日本中の山を知る田中とは同行するだけでも楽しくて、田中の人柄も大好きだった。けれど、幾度も想っていた。
『雅樹さんが生きていたら、もっと難しい山でもザイルを組んで、もっと速く自由に登れるのに』
雅樹は身長181cm、細身筋肉質だった。その体格バランスは大人になった光一の体と釣合った。
なにより雅樹はクライマーの素質が高い、マッターホルン北壁を雅樹は19歳のとき6時間48分で完登している。
それは大学の山岳会で行った遠征訓練での記録で、ベテランの先輩とザイルを組み、雅樹がリードを務め登攀した。
マッターホルン北壁は現在ですら3日懸るケースもある、下山時にはヘルンリルートのソルベイヒュッテで1泊するのも普通だ。
けれど雅樹は下山も2時間かけていない、垂壁を7時間ずっと登り続けた後にこのタイムは持久力の充実度も窺える。
今から20年前に完登7時間弱と下山2時間弱、これは当時の装備や条件を考えたら遅い記録ではない。
―きっと雅樹さん、今の装備なら、今の俺と組んでいたら全く違う記録だった、
もしも雅樹が生きていたら、クライマーとして沢山の記録を作っただろう。
そして救命救急のERで医師になって、山間部の医療に取り組み多くの生命を救う道に生きていた。
父親の吉村医師が言うように「山と医学の男」として雅樹は夢を叶え、輝いて生きられるはずだった。
そんな雅樹の志を繋ぐかのように、英二は山岳救助隊で応急処置を主担当しながら警察医助手まで務めている。
―クライマーと医療と、両方で似ているんだ、英二は
どうしてだろう?
どうして英二は、会ったことがない雅樹と同じように生きる?
そんな相似が不思議になる、それは性格や言動にも感じる時がある。
けれど英二は哲学的思考が強くて考えすぎる為に根暗な性分がある、そこが雅樹と全く違う。
―雅樹さんは論理的でロマンチストだったね、だから考え方も明快で明るかったんだ、
雅樹は聡明で物静か、けれど根が底抜けに明るい。
何事も的確に分析した上で良い方向に判断する、そんな怜悧な明るさがあった。
その分析力がルートファインディングの巧みさになって、的確で迅速な登攀に繋がっていた。
そういう技術力と知識の全てを、雅樹は惜しみなく自分に教えてくれた。その一部が今、広げる山図になっている。
マッターホルン北壁シュミッドルートを描く図面、そこにはメモの書込みが多い。
これらのメモは半分が雅樹から教わったもの、残り半分は16年間に自分が調べたデータになる。
そのデータには父と母が登った記録も反映されている、そんなふうに大切な人たちの想いが山図に温かい。
―絶対に出来るね、俺には。そうだよね、マッターホルン?
いま見つめる図面の山に笑いかけて、傍らのアルバムをそっと開く。
丁寧に開かれたページには、懐かしい青いウェア姿の笑顔が綺麗に咲いている。
この笑顔は青梅署診察室のデスクでも、綺麗な写真立てから父親の仕事を見つめて暮らす。
雪山の頂上で笑っている美しい山ヤの医学生、この写真を撮影したのは自分の父、明広だった。
― K2に登った時だよね、オヤジの仕事につきあってさ、
父の明広は家業の農家を祖父と営みながら、山岳専門の写真家だった。
この仕事のために世界中で名峰を登った結果として、父の記録は積まれている。
国内ファイナリストクライマーと言われていた父、けれど本人はそんな意図もなかった。
「単に山が好きなだけだね、佳い貌の山を撮りたいから登るんだ、」
そう言って笑いながら父は、いつも国内外の名峰へとカメラを背負って登っていた。
うまく都合が合えば親しい蒔田とザイルを組んでいた、けれど蒔田は後藤と同様に山岳救助隊員として忙しい。
だから海外や難度の高い山の時は、医学生で救命救急士資格を持つ雅樹をパートナーに登ることも多かった。
「イザって時に体の面倒も見てもらえるしさ、雅樹くんと俺なら技術はモチロン、体格や体力のバランスも悪くないからね、」
そんなふうに言う父は身長178cm、細身でも農業と山で鍛えた筋骨が強健な体躯だった。
年齢的にも父と雅樹は10歳違いで、自分と雅樹の15歳差よりも近い。だから確かに父の言う通りだと思った。
けれど雅樹は自分だけのパートナーにしたいのに?そう思ってはいつも、ふたりの山行が決るたびに父と雅樹に訴えていた。
「イイかい、オヤジ?俺はね、オヤジに雅樹さんを貸してあげてるだけだからね?ホントは俺のパートナーなんだからね、」
「解かってるよ、光一。ほんとオマエって生意気で可愛いね、」
言いながら節くれた指で息子の額を小突き、からり父は笑ってくれた。
そんな父の笑顔が嬉しくて、けれど雅樹を連れて行かれることに自分は拗ねた。
「オヤジに可愛いって言われても嬉しくないね。ね、雅樹さん?ちゃんと俺のトコ帰ってきてね?約束だよ?」
「大丈夫、ちゃんと帰ってくるよ。光一と、約束したからね、」
そう言って笑ってくれる笑顔が綺麗で、独り占めしたくて仕方なかった。
そんな気持ち正直に笑って、ひろやかな背中に抱きついて笑顔に頬よせた。
「そうだよ、約束だよ?俺のこと可愛いかったら帰ってきてよね、雅樹さん、いちばん俺が可愛いでしょ?」
「うん、いちばん可愛いよ。光一は生意気に可愛いくって、いちばん好きだよ、」
生意気に可愛い、そんな表現を雅樹もしては笑っておんぶしてくれた。
大らかな背中は温かくて幸せで、伝わる鼓動は頼もしくて、自分を一番だと想ってくれる事が嬉しかった。
「ねっ、俺がいちばん可愛いね?雅樹さん、生意気ってイイでしょ?」
この背中がいちばん好き。
その想い素直にしがみついている自分のことを、いつも父は呆れ半分と和やかに笑ってくれた。
「こら、光一?俺が生意気可愛いって言っても悪タレた癖にね、雅樹くんだと大喜びってなんだい?俺が父親だっていうのにさ、」
そんな会話を毎回のよう交わして、それから父と雅樹はふたりザイルを組んで多くの高峰を登っていた。
こうした機会を生かして雅樹は、自身と父を被験体にして「緯度と標高の変化に対する人体の馴化」を研究テーマにしていた。
そのため講義を休む事も許可され易くて、トップクライマーである父との山行を雅樹は医学と山の両面で楽しみにしていた。
そうやって雅樹とアンザイレンを組める父が羨ましくて、雅樹との山行から帰ってきた父をいつも悪戯の餌食にしていた。
「ま、オヤジのお蔭で雅樹さん、いろんな山に登れたんだけどね?でも、今だって俺は拗ねちゃってるね、俺は我儘なんだ、」
ひとりごと写真に笑いかけ、そっとアルバムを閉じた。
【引用詩文:Pierre de Ronsard「カサンドラへのソネット」第51番「森の精ドリアード」Dedans des Prez je vis une Dryade】
(to be continued)
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