萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第58話 双壁side K2 act.13

2012-12-17 01:07:14 | side K2
「想」 Ragnarokkr, 忘れ得ぬ人へ



第58話 双壁side K2 act.13

重厚な扉を開くと、ひろやかな窓の光に書架が明るんだ。

落着いた白とダークブラウンの図書室は静かで、光一の他は誰もいない。
壁を廻らす書架を眺めていく、そこに目当ての背表紙を見つけて指を掛ける。
そっと引き出すと、モノクロに艶めく花と微笑が布張装丁に美しい。
やっぱり置いてあったな?そう満足に笑ってページをめくった。

『CHLORIS―Chronicle of Princesse Nadeshiko』

艶やかな黒髪を風に靡かす、振袖まとう佳人が花と佇む写真たち。
このモデルは14歳から二十歳までの、英二が務めていた。

「お美しいですね、媛?」

モデル時代の名前で呼んで、写真に笑いかける。
艶やかな振袖姿に黒髪こぼす白皙の肌、濃やかな睫の陰翳に黒い瞳は謎めく。
ただ美少女ではない、静謐に耀く炎のような深い美貌はタイトル通り「CHLORIS」花の女神に相応しい。

―今じゃスッカリ男に成っちゃったけど、別嬪の空気は一緒だね?

華麗と陰翳が交わす謎、静穏と熱情に生まれる深奥、真直ぐで強い眼差しの耀き。
それは暁の明星によせた名前 “Lucifer” 至高の天使か魔王のよう惹きこんで離せない。
この佳人は花々の麗幻が魅せる写真から、今、現実の山を駈ける姿で変わらず生きている。

―こういうヤツと俺、アンザイレンパートナーしながら告白し合っちゃてるんだ、ね

見つめる写真の俤は、確かに英二でいるのに雅樹とは全く違う。
見間違うほど似ているけれど正反対、そんな本質を写真は真直ぐ映しだす。
そこに見える自分の『血の契』の素顔に溜息こぼれて、そっと写真集を閉じた。

「…ほんと危険な別嬪だね、」

ひとりごと本音こぼれて、美しい本を元の場所に戻して指を離す。
そのまま書架を見上げ、興味を惹かれるままページを開いて一冊を選びとる。
そんな視界に映った木製の耀きに惹き止められて、振り向き光一は微笑んだ。

「あれ、こんな場所になんて意外だね?」

笑って窓辺へと歩みよる、そこにアップライトピアノはひっそりと佇む。
ライブラリーのような静謐が趣旨の部屋には珍しいな?そんな感想に木肌の蓋へとふれる。
そのまま静かに持ち上げると、軽やかに蓋は開かれ深紅の鍵盤カバーが現れた。

かたん、

ちいさな音に背中押されるよう天鵞絨の椅子に座りこむ。
深紅のフェルトを巻き取っていく、現れる白と黒の鍵盤に窓の木洩陽ゆれる。
きらめく光の明滅に指ふれて、心映った旋律が鍵盤を奏で始めた。

ターン、タタ…

高いトーンから流れ、音は連なり優しいトーンに変る。
ゆるやかな連符、ふくらます音、そして低く穏やかに声が歌になった。

……

眠れなくて 窓の月を見あげた
思えばあの日から 空へ続く階段をひとつずつ歩いてきたんだね
何もないさ どんなに見渡しても確かなものなんて
だけど嬉しい時や哀しい時に あなたがそばにいる
地図さえない暗い海に浮かんでいる船を
明日へと照らし続けてるあの星のように

胸にいつの日にも輝く あなたがいるから
涙枯れ果てても大切な あなたがいるから

……

いま謳う「あなた」への想いが、そっと心に温かい。
姿見えないひと、体温も消えたひと、けれど記憶の声も笑顔も温かい。
それでも今、この自分を世界の全てと告げる唯ひとり『血の契』に心の一部は奪われた。

―英二、ずっと山に生きたい、おまえと

心裡ひとりごと祈り、微笑んで鍵盤が最後の音を謳う。
静かな余韻を指先にふれて、ゆっくり離した向うから拍手が鳴った。

「あ?」

拍手にふり向くと、茶色い髪の男がソファに座っている。
青い目を愉しげに笑ませる男は、フランス語で微笑んだ。

「tres bien!」
「Je vous remercie.」

丁寧に礼を述べて笑いかけながら、深紅のカバーで鍵盤を覆う。
いつの間に男は居たのだろう?考えながら静かに蓋を閉じて立ち上がる。
そのまま部屋を出ようとした横顔に、男は問いかけてきた。

「Est-ce que tu connais Kanako Toki ?」

問いかけに、心を鼓動が引っ叩く。
大好きな名前と大嫌いな名字に揺らされる、けれど微笑んだままの視界で男は愉しげに笑った。

「Ton piano est semblable. Bien que tu ressembles a Shinnichiro de son plus jeune frere, est-ce que tu es une famille ?」

ressembles、似ている。
そう言われた名前に、心臓が怒りに掴まれ息を呑む。
それでも呼吸ひとつに微笑んで、光一は嘘で答えた。

「Je ne le sais pas. Au revoir」

もう忘れてしまいたい名前に背を向けて、光一は扉を開いた。
すぐ後ろ手に閉じて、歩き出す足は徐々に速くなる。

―知らない、そんな名前は俺は知らない、なんでこんなとこで?

泣きそうな想いと廊下を歩き、階段を昇っていく。
履いている革靴の音が絨毯を透かして鳴ってしまう、その音の狭間へ春4月の記憶が跳びこんだ。

―…君は、光一君だろ?僕のこと覚えている、そうだよね?

憶えてなんかいない、おまえなんか知らない。

―…光一君、姉さんそっくりだね。同じように綺麗で、カサブランカが似合う。

おまえなんかに言われたくない、あんな花はいらない。

―…会えて、嬉しかった

おまえなんかに会いたくない、おまえなんか知らない。

―…ごめん、光一君

「あやまるんなら墓に来んなよっ…」

ちいさく叫んだ聲に頭ひとつ振り、階段から廊下を歩きだす。
すぐ見慣れた扉の前に着いて、ノックも無しに開いて入ると鍵を掛けた。

「お帰り、光一。面白そうな本は見つかった?」

綺麗な低い声が、穏やかに訊いて迎えてくれる。
その声にほっと微笑んで、窓辺の安楽椅子に寛ぐ肩へと後ろから腕を回した。
そのまま本を英二の前にページを広げ、凭れた肩に顎を載せて光一は微笑んだ。

「面白そうだよ?だから一緒に読もうね、ア・ダ・ム、」
「なに、二人羽織りで読むのかよ?」

可笑しそうに笑って白皙の手は、持っていた本を閉じてくれる。
そして光一の手にある本のページを繰りながら、綺麗な低い声は尋ねてくれた。

「光一、どうした?」
「え?」

短く訊き返しながら、心臓が息づまる。
なにか気づいてくれた?その期待に少し笑った隣、振向いて切長い目が微笑んだ。

「なんか寂しそうだったから、どうしたのかなって想ってさ。どうした?」

やっぱり気づいちゃうんだね?
気づいてもらって嬉しい、けれど今は言いたくない。
今はマッターホルンを見上げる窓辺にいる、それなのに忘れたい名前で壊したくない。
大切な約束の場所を少しも壊したくなくて、今の幸せだけ見つめて光一は笑った。

「うん、ちょっと腹が減っちゃったからじゃない?そろそろ夕飯の時間かね、」
「パン食ってからまだ2時間だし、約束の時間まで30分あるけど?」

笑って左手首の文字盤を示してくれる。
もうじき17時半、加藤たちとの約束には確かに早い。それでも光一はねだった。

「食事の前にラウンジで一杯飲みたいね、プレゼンテーションでタダだしさ、」
「まだ明るいのに飲むって、なんか申し訳ないな?」

生真面目な性質のまま首傾げ、笑ってくれる。
その笑顔が嬉しくて、笑って体を起こすと光一は本をデスクに置いた。
そのままクロゼットへ立ち、黒いジャケットを出して羽織るとパートナーに笑いかけた。

「さ、俺は準備完了だよ?媛の御仕度はいかがですか?」
「その呼び方、久しぶりだな?人前では絶対に呼ぶなよ、」

笑って英二も立ちあがり、クロゼットからジャケットと革靴を出した。
長い腕をチャコールグレイに通していく、その仕草にふっと深い森の香が優しい。
この香が好きだ、そう素直に笑って光一は大好きな人に教えた。

「ライブラリーにね、おまえの写真集があったよ?やっぱり人気なんだね、おまえってさ、」
「写真集のこと、絶対にチームの人に話すなよ?」

きっちり釘刺しながら革靴に履き替え、笑いかけてくれる。
穏やかな笑顔は写真より幸せそうで美しい、この笑顔を今は自分だけに向けてくれる。
この独り占めの瞬間に笑って光一は、扉の鍵を開いて廊下へと出た。

「写真集の存在くらいはイイんじゃないの?アレ見たって誰なんて解んないね、」
「光一、その件はもう今から黙ってて?」
「今は大丈夫だね、周り日本人なんかいないしさ?日本語じゃなに言ってんのかバレないね、」

笑って話しながら降りて行く階段、チェックインの客が増えている。
昨日も見かけたハイカーらしい姿も多い、けれど高尾署の2人は未だ見えない。
無事に戻ってほしい、そんな願いに見渡した隣から穏やかに言ってくれた。

「高尾署の方、今日中に戻ってきてほしいな?本人のためにも、俺たちの為にもさ、」
「うん、だね?」

微笑んで頷きながら、ポケットの無線機を出して見る。
けれど受信の兆候も無いままで、ちいさく息吐いてまた戻した。
このまま今日中に連絡が無ければ明日はここを動けない、その場合は延泊することになる。
念のために予備日として1日多く確保はしてある、けれど念のためにホテルへ確認しておく方が良いかもしれない。
そう考えをまとめて光一はパートナーを振り向いた。

「英二、ちょっとコンシェルジュのトコに寄ってイイ?」
「うん、延泊の確認?」

すぐ気がついて、穏やかな笑顔は訊いてくれた。
きっと英二も同じことを考えてくれていた、そんな同じが嬉しくて軽く肩をぶつけた。

「当たり、さすが俺の別嬪パートナーだね?ア・ダ・ム、」
「光一、その呼び方も人前では控えてくれな?」

また笑顔でたしなめられて、つい悪戯っ子が肚で笑いだす。
これがダメなら何か無いかな?考えながら光一はコンシェルジュのデスクへと向かった。
明日の延泊を最終決定する刻限、延泊の場合は同じ部屋なのか、夕食のラストオーダーの時間。
そうした必要事項を確認し終えると、もう18時前だった。

「光一、もう時間だし、テーブルに着いてアペリティフを頼んだらどうかな、」
「だね、もうみんな来ちゃうだろうしね?」

英二の提案に素直に頷いて、ダイニングで予約名を告げ席に着いた。
明るい光ふる窓からマッターホルンは優雅に聳える、その東壁の雲は薄まっていく。
夕刻を過ぎて気温が下がりだした、この冷却に山が吐く水蒸気も収束を見せている。

「雲が切れそうだね、」

見上げる山に、2つの希望を見つめる。
このまま雲が晴れたくれたら良い、その願いへと綺麗な低い声が微笑んだ。

「これなら下山も出来るな、ソルベイ小屋からでも22時には着けるかもしれない、」
「うん、」

頷きながら二人の無事と明後日の北壁登頂を想う。
そんな食卓へとソムリエがワインリストを差出し、笑いかけてくれた。

「Good evening. In celebration of the northern face climbing, let me present champagne from our hotel.」

北壁を登頂した祝いにシャンパンをと言ってくれる。
こういうのは嬉しいな?素直に笑った向かい、綺麗な笑顔で英二が応えてくれた。

「Thank you for kindness.」
「If we can delight you, we are glad. Shall I bring it now?」

人の好い笑顔ほころばせ、今すぐ持ってこようかと提案してくれる。
北壁登頂の祝い酒ならと考え見た向かい、切長い目が微笑んだ。

「光一の好きなタイミングで良いよ?」
「うん、ありがとね、」

素直に頷いて笑いかけた先、穏やかな信頼が笑ってくれる。
祝い酒のタイミングを自分に委ねた、その意図に「始まっている」と伝わらす。
もう自分は警視庁山岳会の次期リーダーとして判断する、それを英二も同じよう考えているだろう。
そんなふう一緒に向きあってくれるパートナーが嬉しくて、笑って光一はソムリエに答えた。

「Please bring it after a friend gathered. Because another six people come. Please get two glasses of white merlot to an aperitif.」

あと6人がこの席に着けるはず。
この確信にオーダーするとソムリエは笑って頷き、戻って行った。
その背中を見送りながら、端正な顔ほころばせてパートナーは微笑んだ。

「きっと高尾署の人たち、喜んでくれるよ?」
「だと良いけどね、」

笑って応えた向こう、穏やかな笑顔が優しく温かい。
こんな貌を見られたのが嬉しくて、光一は綺麗に微笑んで窓の山頂を見た。

―でもね、雅樹さん?ほんとは俺、英二を独り占めして祝杯しちゃいたいね。それくらい俺は我儘だって、雅樹さんなら解かっちゃうよね?

こんなワガママも、願いごとで叶うかな?
そんな想いに見上げるアルプスの女王は、蒼穹の点に輝く「約束」まばゆかせて、愛おしい。
あの場所に雅樹の想いを抱いて英二と立てた、その想い微笑んだテーブルへとワインと一緒に七機と五日市署の4人が着いた。
英二と立って迎えると、今回の最年長でリーダーの加藤が謝ってくれた。

「国村さん、待たせてしまって申し訳ない、」
「いいえ、自分が早めに来たんです。こちらこそ先に飲み始めてすみません、」

謝り合って着席しながら想ってしまう。
いつもの事だけれど、警察組織の上下関係は中々に面倒だ?

―階級に役職に、年次と年齢があるもんね?

加藤は巡査部長で大卒任官の31歳、今年が9年目になる。
光一は最年少の24歳で高卒任官6年目、けれど階級は警部補で加藤より1階級上になる。
山のキャリア年数で言えば高校から始めた加藤は16年目、対して光一は20年を超えてしまう。
そして警察組織では階級と役職のウエイトが大きい、だから今回のチームでは警部補の光一が最上位になる。
年齢も年次も加藤が上、けれど階級と山のキャリアは光一が上になってしまい、なんだか立場関係がややこしい。

―こんなのどうでもイイって言っちゃいたいけど、ねえ?

内心で呆れ半分に笑ってしまう、けれど態度の方針は覚悟を決めている。
アイガー北壁を廻る英二との対立に考えた通り、光一は指導権の掌握に微笑んだ。

「今日と明後日の北壁について、食いながら話したいですね?正直なとこ腹減ってるんです。高尾署には申し訳ないけど、先に始めませんか?」

この意向は誰もが望むだろう、その代弁として自分が言っている。
そんな自覚に先輩たちへ笑いかけた隣、綺麗な低い声は穏やかに提案してくれた。

「ではメニューを持ってきて貰いますね、よろしいでしょうか?」

言って、視線はもうギャルソンに微笑んで呼びかける。
すぐ気がついて来てくれる様子に、加藤が気さくに頷いてくれた。

「ああ、お願いします。俺も正直なところ腹減ったので助かります、」

加藤の言葉に他の3人も頷いてくれる。
この雰囲気に微笑んで英二はメニューを依頼し、オーダーを取りまとめてくれた。
その慣れた容子に感心しながらも、光一はすこし懸案しながら微笑んだ。

―こんなに手馴れた雰囲気だと、やっぱり英二はデート経験相当だってコトだろね?

本当に色々と博学なパートナーだ?
何だか可笑しくて笑いながら光一は七機のコンビへと尋ねた。

「加藤さん、村木さん、前回よりタイムを更新されたんですよね?スピードが上がったコツを教えて戴けますか?」
「はい、」

加藤が返事して光一を見てくれる。
そして幾分か姿勢を正すと、野太い声はコンパクトに説明した。

「ハーケンの本数を計画的に絞ったこと、ルートの事前調査と偵察が綿密になったからだと思います、」
「ルートの確認ポイントは、どこに重点を置かれました?」

教えてもらう、そんな態度で訊いていく。
これなら加藤は光一に対して話しやすく、意見も聴きやすいだろう。

―幾ら階級と山の経験が上だって言っても、7歳も年下じゃあ「命令」なんざ素直に聴けるワケないね、

確かに階級とキャリアが上なら、従わざるを得ないだろう。
けれど上辺だけの服従では役に立たない、信頼から快く意向に添ってもらう方が現場での動きが違う。
そういう上司の態度を後藤副隊長の姿から学んだ、それを肚括って実行していくしかない。

―…いいかい、光一?人間の上に立つのはな、人間の気持ちが良く解かっているヤツがすることだ
   どんな相手も懐に抱え込めるようになれ、大きな心ですべて受けとめて、それから正せる男になっていくんだよ

第七機動隊第二小隊長への昇進が決った時、後藤が贈ってくれた言葉たち。
あの訓戒を活かす時はもう今、この瞬間に始まっている。そんな想いにディナーミーティングは進んでいく。
それぞれが北壁で見た光景と課題点を話しながら食事に笑いあう。そうして料理が半分ほど減ったとき、テーブルに2人案内されてきた。

「遅くなって申し訳ありません、無線機が故障して連絡も出来ず、すみませんでした」

日本語で詫びた男たちは、高尾署のコンビだった。
その姿を見た瞬間いつもの調子で肚が怒りだし、山ヤの警察官であるプライドが毒づいた。

―ホント遅いよねえ?山岳レスキューの癖に何時間かかってんのさ、ソンナじゃ要救助者が死んじまうね?税金無駄遣いって言われちまうよ、

もし警察のレスキュー本人が訓練で問題を起こせば、訓練の存続すら危ぶまれる現実もはらむ。
現に富山県警山岳警備隊は、厳寒期訓練での殉職で雪中訓練廃止の危機を迎えたことがある。
そうした問題を首都警察である警視庁が起こせば、もっと問題が大きいだろう。
そんな危惧に怒りたくなる、けれど堪えなければリーダーとして立てない。

―やれやれ、苛々しちまうね?後藤のおじさんって、やっぱり人格者ってヤツなんだね?

この立場に真剣に向き合って今、後藤副隊長の偉大さが身を以て解かる。
何事も経験だと言うけれど、それは本当だな?そんな感想に苛立ちを見つめている隣、綺麗な低い声が微笑んだ。

「ご無事で良かったです、あの雲だと無線も難しいですよね?今、席を用意してもらいますね、」

穏やかで包むような、綺麗な低い英二の声。
そのトーンと言葉の温もりに、後藤の言葉が心をノックした。

―…どんなに正しいことを言ってもな、相手が受容れないと意味が無いだろう?
   こっちから受容れて相手が受容れやすくするんだ。この受容れが宮田は巧いんだよ。
   だから光一が怒鳴りつけた遭難者も、宮田がフォローするようになってからは、御礼状くれるだろう?
   相手に恨みを残さないで大切なことを残してやることが必要なんだよ。それが組織をまとめるリーダーには必要だよ

深い声が諭してくれる、その想いにそっと呼吸ひとつする。
そうして見た高尾署の二人は、少し赤くなった雪焼けの顔は疲れても目は明るい。
それでも遅れたことへの緊張と謝罪が見える、その空気に気がついたとき自然と心が笑った。

―良かった、無事で元気だね?疲れて腹も減ったろうな、早く一緒に祝杯をやりたいね、

ふっと肩から脳から余分な力が落ちて、視野が広くなる。
その心へとアンザイレンパートナーの言葉の意味、ひとつずつに気がついた。

『ご無事で良かったです、あの雲だと無線も難しいですよね?今、席を用意してもらいますね、』

あの雲のなかは雷電と降雪だろう、こうした天候の急変に遭えば連絡どころか生命の確保すら容易くない。
そんな困難に遭った2人を早く席に着かせて酒と食事で癒し、明後日のアイガーに向けて備えることが任務だろう。
なによりも「無事でよかった」このシンプルな喜びが温かで、光一は高尾署の二人へと陽気に笑いかけた。

「おつかれさまでした、まず飯にしてください。食いながら話しましょう、ちょうど明後日のミーティングしようかってトコです、」

笑いかけた先、2人の貌が明るく笑ってくれる。
その空気にテーブルへと愉しい空気が充ちて、後藤の訓戒が肚に響いた。

―…おまえが尊敬する山は、どんなものも受容れていくだろう?受容れて育む力を光一も備えるんだよ、
   そうやって大きな男になれ。これがな、光一が山ヤの警察官として生きる意味で、誇りなんだよ、

大きな男、山のような男、そんな言葉に懐かしい俤が重ならす。
そして気づかされる、後藤の言うような男こそ「雅樹」だった。

―ね、雅樹さん、俺も雅樹さんみたいになれるかな?

心裡に問いかけて見上げた窓、アルプスの女王にあわく薔薇色が耀きだす。
アルペングリューエンの兆しが励ましに想えて微笑んだ、その前にグラスが運ばれた。
金色に細やかな泡たち昇る酒に香が華やぐ、その色と香りに微笑んだ隣から英二が笑いかけてくれた。

「国村さん、北壁の登頂祝いのシャンパンですよ?」

綺麗な低い声にふり向くと、いつものよう切長い目が微笑んでくれる。
穏やかで静謐の優しい、けれど熱情を深く見つめる瞳にふたつの愛しさ見つめて、光一は笑った。

「じゃ、乾杯しましょうかね?今日の北壁と、明後日のアイガーにね、」

そんなふう飲んだシャンパンは、別嬪の味だった。



戻った部屋の窓、ガラスの向こうは黄昏の時がゆるやかに降りていた。
見上げる氷食鋭鋒の天辺、アルペングリューエンの華あざやかに耀きだす。
空を山を染めだす薔薇色うれしくて、笑って光一は冷蔵庫を開いた。

「太陽と山のショータイムだね?英二、アレ飲も?」

グラスとワインボトルを出して、ベランダへの窓を開く。
その横顔へと綺麗な低い声が笑いかけてくれた。

「光一、さっきテーブルでカッコよかったよ?こういう上司と仕事したいって俺、想ってた、」

夕食のテーブルでのことを褒めて、切長い目が幸せに笑ってくれる。
また「光一」と名前で呼んでくれる笑顔が嬉しくて、光一は誇らかな想い素直に笑った。

「ありがとね、でも俺さ?あの二人がテーブルに来た時、おまえが口火を切ってくれたから話しやすくなったんだ。
俺にとって英二は最高の補佐役で、最高のアンザイレンパートナーだよ?別嬪で体力馬鹿で、頭も良くって言うこと無しだね」

本当に英二のお蔭だと思う。高尾署のふたりが食卓へ現れた時、本音は怒りたい気持ちもあったから。
山ヤなら自助が当たり前、それは山岳レスキューなら尚更に職人的クライマーとして必要だと自分に課している。
そんな自律心につい山の失敗を責めたくなる、けれど英二の言葉に立場と山の現実を思い出し、自分を食い止められた。
本当におまえのお蔭だよ?この感謝と笑いかけた先、綺麗な笑顔が咲いて言ってくれた。

「ありがとう、俺のことそんなふうに言ってくれて。光一、ジャケット脱いでこっちに着替えたら?」

笑って椅子に掛けたパーカーを取り、手渡してくれる。
言われた通りジャケットから着替えると、クロゼットに踵返してハンガーに掛けて仕舞う。
そのまま英二もカーディガンに羽織り替えて、ベランダの椅子へと並んで座ってくれた。
長い指の手は器用にボトルからコルクを抜き、グラスへとあわい金色を注いでくれる。
この光景に一昨夜が重なって今、1つ終えた実感とダイニングの願いごとが笑った。

―今から俺、英二を独り占めして祝杯だね?雅樹さん、

そんな想いに嬉しいまま、グラスへと口付ける。
マッターホルン登頂を控えた夜この場所で、同じよう座ってこの香を楽しんだ。
あのとき約束したよう無事に下山後の一杯を呑めている、この幸せと一緒に隣へ笑いかけた。

「マッターホルンときっちりキス出来て、良かったね?」
「ああ、嬉しかったよ、」

グラスに口つけながら微笑んでくれる、その唇をつい見てしまう。
いま自分で言った「キス出来て」に山頂で交わしたキスを想い、トランクの紙袋が心に映る。
スイスに発つ直前に周太が贈ってくれた紙袋に、ふっと首筋が熱くなってパーカーの衿元を寄せた。

―アレ思い出しただけで赤くなるなんて、俺もホント初心だね?…意外だよね、雅樹さん?

なんだか気恥ずかしくて自分で可笑しい、そして黄昏にほっとする。
この薔薇色の光の中なら紅潮も解からないだろうな?そんな思案に愛しい夏を想ってしまう。
そして気づかされる、あの頃は体も本当に子供だったから、今ほど赤くなることも少なかったのだろう。
幾らマセていても体の年齢は子供だったな?この自覚が可笑しくて笑った隣、綺麗な低い声が訊いてくれた。

「光一、寒い?パーカーの衿、つめてるけど、」
「いや?気分だから平気だね、心配ありがとね、」

笑って応えながら、パートナーの気遣いが嬉しい。
嬉しい想いに見上げる空、アルプスの女王に薔薇色の炎が融けていく。
太陽は標高4,000mに最後の光を投げかけて、ゆっくり西へ眠りに帰りだす。
白い光、あわい金色の紅から紫へと稜線の空は刻々と移ろわせ、まばゆい落陽は鎮まり中天から夜が降る。
華のよう燃える赤い光、穏やかに深い紫の闇、「今日」の終焉が魅せる壮麗に記憶の言葉で微笑んだ。

「Ragnarokkr、ソンナ感じだよね、」

幼い日、雅樹が話してくれたアルペングリューエンに因んだ古い異国の物語。
懐かしい物語の記憶に笑った隣、綺麗な低い声が訊いてくれた。

「それ、神々の黄昏って意味だった?」
「そ、北欧神話のクライマックス。天上の楽園が炎で焼かれて、コアの部分だけが残るんだ、」

本当に大切な「結晶」の部分だけが、天の炎にも残り蘇える。
この雄渾な再生の物語に、富士山麓に眠らせた夢がそっと槍ヶ岳の残像を見せた。

―アルペングリューエンには雅樹さんのコト蘇らせれるから、槍の天辺には来てくれたね?

英二が叶えてくれた雅樹の慰霊登山、そのラストシーンの山頂で英二の口は「僕」と言った。
英二は雅樹が自身を「僕」と言っていたことを知らない、だから自分は密やかに信じている。
あの山頂では英二の体を雅樹が借りて、光一と共に三角点に触れ、途絶えた登頂を叶えた。
こんなことは非科学的だろう、けれど自分は確かに「僕」と言ったのを聴いた。

―これこそ「山の秘密」だよね、雅樹さん?

いま見上げるアルプスの女王に輝く光へ微笑んで、隣を振り向いた。
隣は穏かに微笑んで見つめてくれる、その静かな温もりが綺麗で光一は笑った。

「お、なんかイイ笑顔だね?別嬪だよ、その顔。眼福だね、」
「喜んでもらえるなら嬉しいよ、その楽園ってヴァルハラって名前?」

綺麗な低い声が訊いてくれて、すこし意外で驚かされる。
いつも救急医療か山の関係する本ばかり英二は読む、そんな嗜好の別面が愉快で訊いてみた。

「お、知ってるね?おまえも結構、本読んでるケドさ、神話とかお伽話みたいなモンも興味あるんだ?」
「祖母のとこにいる人がさ、小さい頃から読み聞かせてくれたんだ、」

言いながら少し気恥ずかしげに笑う、その解答に英二の生い立ちが垣間見える。
きっと「祖母のとこにいる人」はこういう意味だろうな?見当をつけて光一は言ってみた。

「へえ、乳母ってやつだね?おまえってマジの坊ちゃんなんだね、」
「そうみたいだな、俺も社会に出るまで気付いてなかったけど、」

やっぱりそうなんだ?納得しながら英二の経歴と、英二の母と姉の様子にも合点がいく。
鋸尾根の雪崩に遭った英二を見舞った二人は、服装品も身ごなしも全てに家柄の良さがあった。
あれがスタンダードだと思って育ったのだろうパートナーの生い立ちに、光一は受容と質問で頷いた。

「ずっと坊ちゃん学校行ってたら、気付かないの当然だね。同じタイプのヤツが多いんだろ?そういう私立とかって、」
「うん、似たような感じだったな、今思うと。俺みたいに世間知らずじゃないかな、エスカレーターで内部進学すると、」
「ホントに箱入りってヤツなんだね?そういうの、おまえの性格でも楽しかったワケ?」

この質問への答えは決まっているね?
そんな確信の向こうから、アンザイレンパートナーは正直に笑った。

「それなりには楽しかったよ、でも正直なとこ違和感っていうのかな?なんとなく居場所が無いって感じる事が多かったよ、」
「だろね?」

頷きながら、言われた言葉に哀しみが響く。
いま言われている「違和感」に「居場所が無い」ことが、この2週間ほど英二が揺らいでいる根源だろう。
この3日前にブライトホルンでも英二は考え込んでいた、その哀しみの片鱗へと光一は心から笑いかけた。

「おまえの居場所はコッチ側なんだから、良かったよね、箱から出てこられてさ、」

本当に、出て来てくれて良かった。
この自分の隣へと来てくれて良かった、そう募らす想いが温かい。
温もりに笑って傾けたグラス、あまやかに広がった花の香が涼やかに喉を下りていく。
飲みながら見つめるグラスの向こう、アルプスの黄昏はベランダをも薔薇色に染めあげ輝かす。
華に透けていく光の雄渾、この瞬間にグラスから唇を離した隣で、きれいな低い声が微笑んだ。

「きれいだな、」
「だろ?こっから見る夕焼け、好きなんだよね、」

同じように綺麗だと思ってくれる、それが嬉しい。
嬉しくて笑いかけた先、端正な白皙の貌はアルペングリューエンを映しながら、密やかな静謐に微笑んだ。

「光一のファーストキスって、どんなだった?」

問いかけに、自分のパートナーを見つめて心が立ち止まる。
真直ぐ見つめる切長い目、その静かで穏やかな瞳の底へ熱情が自分を映す。
その眼差しに、16年前に告げられた愛しい深い声が、どこまでも真摯な無垢の記憶から目を覚ます。

『光一。大好きだよ、本気で、』

まばゆい8歳と23歳の夏、あの時が自分たちの永遠で、約束と夢と、自分を造りあげた全て。






【引用歌詞:L’Arc~en~Ciel「あなた」】

(to be continued)

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