萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

第58話 双壁side K2 act.6

2012-12-06 04:54:51 | side K2
「跡」 辿らす先、



第58話 双壁side K2 act.6

革の匂いに、ふっと森木立の香がふれる。

ゆるやかな震動が助手席に心地いい、その微睡に勤務後の疲れゆるまらす。
夜の高速道路を走るライトが瞑る瞼にゆれて、消えて、また閃いては明滅する。
なめらかなレザーシートに身を委ねる浅い眠り、ゆったり寛がす意識がほどけていく。
こんなふうに自分が助手席に微睡めることは珍しい、この16年ぶりの感覚に光一は微笑んだ。

―雅樹さんの運転だけだったのに、ね…安定した走りで落着けちゃうね、英二らしい…

いま運転席でハンドルを捌いていく雰囲気は、慣れたふう落着いている。
けれど新車の四駆は持主にとっても数日乗ったに過ぎない、それでも危なげがない。
やっぱり自分のアンザイレンパートナーは何をやらせても器用らしい?
そんな信頼に微笑んだ想いへと、カーステレオの旋律がやわらかい。

……

I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy I'll be your hope I'll be your love
Be everything that you need.  I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
I will be strong I will be faithful 
‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning
I want to stand with you on a mountain…I want to lay like this forever

Then make you want to cry The tears of joy for all the pleasure and the certainty
That we're surrounded by the comfort and protection of The highest powers In lonely hours The tears devour you
I want to stand with you on a mountain…I want to lay like this forever

Oh, can you see it baby? You don't have to close your eyes 
'Cause it's standing right before you All that you need will surely come

I love you more with every breath Truly, madly, deeply, do
I want to stand with you on a mountain

……

やさしいアルトヴォイスが歌う詞に、そっと心が掴まれる。
まるで自分の願いを謳われているようで、隠したはずの秘密がほころんでしまう。
そしてまた、大切なひとが歌うようにも聴こえて、深く優しい声の記憶が微睡に微笑んだ。

―…お願い、光一。英二との夜は、ずっと幸せでいて?大好きな人に抱きしめてもらう幸せを、一瞬でも無駄にしないで幸せでいて?

もう諦めていた、大好きな人に抱きしめられる幸せなんて。
もう16年前に諦めた、けれど諦めきれなくて「山桜」に夢を見て叶わぬ願いを抱いていた。
もう眠りについた雅樹の体温と一緒に途絶えた約束、その全てを生き返らせることは出来ない。
けれど、今、隣の運転席にいる男なら、その諦めた夢の全てを繋いで叶えることが出来るかしれない。

“I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy I'll be your hope I'll be your love
  Be everything that you need.  I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do…
‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning I want to stand with you on a mountain”

僕が君の見つめる夢になろう 君が抱く祈りになって 君が諦めた願いも叶える 君の希望になり 君の愛になろう
君が必要とするもの全てになるよ 息をするごと君への愛は深まっていく 本当に心から激しく深く愛している…
君への想いは新しい始まり、生きる理由と、より深い意味を充たす引き金になる 君と一緒に山の上に立ちたい

―この歌、俺が英二に言われたいことばっか言ってくるね?…あのころ言われたみたいに、ね…

眠りに微笑んで身じろぎ、顔を運転席へと向ける。
かかる前髪に視線を隠し、そっと睫を透かせた向う白皙の貌は優しい。
フロントガラス越しのライトに照らされる端正な横顔、その眼差しを見つめながら旋律の音を採っていく。

―…この曲をピアノで弾いてよ?光一のピアノも声も好きなんだ、

そんなふう前にリクエストしてIpodにもダビングしてくれた。
もう幾度か聴いて頭脳に譜面は描いてある、その確認を今もしている。

―ピアノで弾いたら綺麗だろうね、この曲…歌もそえて

微睡ながら聴いている、そして旋律は終わり、また始めに戻る。
青梅署を出てすぐに自分は目を瞑った、それから同じ旋律はリンクしていく。
ずっとリフレインするよう流していくアルトヴォイスの旋律に、英二は何を想うのだろう?

―この曲、周太との想い出があるみたいだった…だから英二も歌詞に、想い入れあるね

自分が英二に言ってほしいと想う言葉を、鏤められた優しい旋律。
この曲になぞらえて英二は、周太に想いを告げたのかもしれない?
そう気がついた心が、ふっと傷んで吐息こぼれて、思わず瞳が披かれた。

「おはよう、光一。あと1時間くらいで空港だよ、」

すぐ気がついて、綺麗な低い声が微笑んだ。
ほら、こんなふうに気付くから期待もしたくなるってもんだ?
そんな想いに笑って、街路灯きらめく闇の向うへと光一は応えた。

「運転中も別嬪だね、眼福だよ?」



広げた山図に、光と影が明滅して筆跡を瞬かす。
明るんでは蒼い翳よぎらす紙面に描かれたメモと山、この全てをもうじき現実に見る。
あと72時間後に自分は図面が描く頂点に、生きた風と光のなかで佇むだろう。

―雅樹さん、もうじき着くよ?

そっと図面の俤に微笑んで、窓の木洩陽がトンネルの闇に変る。
昏い車窓に映る貌が視界の端に微笑む、その笑顔に俤がふっと重なって鼓動が跳ねた。

―似てる、ね…

途惑い、けれど手元は山図を畳んで専用ケースを開く。
そのケースにはもう1枚、同じ山図があわいセピア色の気配と収まっている。
この図面の持主と、今この向かいに座る男の俤が重なって、16年前の夏から深い綺麗な声が微笑んだ。

―…光一、これが僕のマッターホルン北壁だよ?こうやってデータを集めて、山をよく知ることが登山の始まりなんだ、

懐かしい声に穏かな笑顔がよみがえり、御岳の家で一緒に留守番した日へ心が戻る。
あの日、祖父母は町の懇親旅行に出掛け、両親は山岳会の講習に泊まりで長野へと行っていた。
それで大学の夏休みだった雅樹が一緒に留守番をしてくれて、3日間のふたり暮らしを家で楽しんだ。
その1日目、屋根裏部屋の床の上に広げた図面を長い指は追いながら、実際に登った時の話をしてくれた。

“Matterhorn North Face Route.Schmidt” 

そう記された登山図には、端正な綴りでメモが書きこまれている。
丁寧な筆跡はルートの特徴を掴んでポイントごとに記し、時系列の日付も記載して地形変化や天候の推移も示す。
整備された詳細データと雅樹自身が現場で気付いた点、その両方が整然と記されルートファインディングの基盤を作ってある。
こんなふうにデータを集めて山に登る術を初めて目の当たりにして、賛嘆に憧れるままねだった。

「雅樹さん、この山図を俺に頂戴?これ見ながら俺も出来るように勉強したいね、一緒に登る時も俺がちゃんと持ってくから、ね、頂戴?」

大人になったら雅樹とアンザイレンザイルを繋ぎ、世界中の名峰を一緒に登りつくす。
その約束を実現するには雅樹のように、データを集計して「山を知る」ことが必要だと思った。
大人になったら必ず約束を叶えたい意志と、雅樹の夢と努力の痕跡を欲しくてねだった自分に、きちんと雅樹は言ってくれた。

「うん、光一にならあげる。でもね、これからも僕はマッターホルンと向きあいたいから、同じように写したのをあげるよ、」
「だったらコッチを俺に頂戴?これが欲しいんだ、」

すぐに提案して見あげた向こう、切長い目がひとつ瞬いた。
そしてすぐ優しく笑って、頷いて言ってくれた。

「うん、あげる。じゃあ写してくるから、来週まで待っていてくれる?真っ新のも一緒にあげるから、」

その約束通りに雅樹は翌週末、古い山図を同じ新品とセットにして光一に贈ってくれた。
あのときの2枚が今も、この手元のケースに納められている。

―雅樹さん、約束通りに持って来たよ、今回も…ね、今も一緒にいるよね?

静かに心で呼びかけ、ケースの蓋を閉じた。
登山ザックのポケットに納める向かい、窓越しに向かいの微笑から視線を感じる。
よく似ている、けれど全く違うアンザイレンパートナーへと光一は笑いかけた。

「このトンネルを抜けるとね、いきなり見上げる感じだよ?キッチリ見ようね、」
「うん、楽しみだな、」

笑ってふたり車窓に顔を向ける。
その昏い視界が薄明るくなり、明度が急激に増していく。
そして闇は払われ広やかな青が視界を満たし、その頂に黒と白の壁が現れた。
いま見つめていた登山図の現実、その姿へと光一は愉快に笑った。

「あの黒い壁が北壁だよ、」

蒼穹に聳える黒い壁、その峻厳の翳は高みを指して聳え立つ。
アルプスの女王と謳われる山は午後の雲をまとい、淑やかに姿を隠すよう佇みながら見下ろす。
標高4,478mマッターホルン、三大北壁の1点が示す蒼穹の高みに、自分はパートナーと立ちに行く。



見覚えのある扉を開くとシックなインテリアの向こう、マッターホルンが窓から笑った。
懐かしい8年前と同じ光景に、機嫌よく光一はアンザイレンパートナーを振り向いた。

「見てよ、マッターホルン正面席だね?よかったな、」
「うん、きれいだ、」

綺麗な低い声が笑って、白皙の笑顔は山に見惚れる。
トランクと登山ザックを下し、ひろやかな背中を見せて長身は窓辺に佇んだ。
上品なチャコールグレーのジャケットと伸びやかな黒いスラックスの脚、その落着いた後姿に白昼夢を光一は見た。

―雅樹さんがマッターホルンを見てる

窓を見上げる白皙の横顔、山に魅入られる切長い目、穏やかな思慮の空気。
遠い日に見ていた人が今、懐かしい背中を見せて夢のひとつへと佇んでいる。

―…光一、僕を最高峰の夢に連れて行って?光一の夢を一緒に生きたいんだ、光一が大人になる時を僕は待っている、
   きっと光一は最高のクライマーになれる。光一は最高峰に生まれた男だって、僕は誰より知っているから信じてる

きらめく夏の声が、白昼夢に優しく笑ってくれる。
その声に共鳴するようアルトヴォイスの旋律が、見つめる背中に響きだす。

“I'll be your dream I'll be your wish I'll be your fantasy I'll be your hope I'll be your love
 Be everything that you need.  I'll love you more with every breath Truly, madly, deeply, do…
‘cause I am counting on A new beginning A reason for living A deeper meaning I want to stand with you on a mountain”

 光一が生まれた瞬間に立ち会って、僕の医者になりたい理由が解かったんだよ…山は人間に命を与える場所でもある…
 山を愛してる、命を生かす力を手助け出来る医者になりたい…僕にとって山と医者の夢を明るく照らしてくれた光が、光一なんだ。
 いちばん大切でいちばん信じている、待っているよ…最高峰の夢を一緒に叶えてくれることを信じている、光一は僕の希望と夢の光だから

懐かしい声が深く穏やか笑う、ずっと、ずっと聴きたかった言葉と想い。
あの言葉と想いたちを今、この約束の場所でも告げてくれる?
その背中に幼い頃のよう抱きつきたくて、一歩踏み出す。

―生き返ってくれた?

約束を叶えるために、山桜が願いを叶えてくれた?
いつも約束は必ず守ってくれた、だから今も約束を叶えに来た?
ずっと信じていたかった夢、それを諦め、終わらせてから自分はここに来た、けれど叶うの?

“I'll be your wish I'll be your fantasy” 僕は君の祈りになり、諦めた願いも叶えよう

やさしい旋律の言葉を、背中に見つめる。
もう諦めたはずの願いへと踏みだし、背中へと掌を伸ばす。
けれど、窓ふる夏の光は背中を見せて佇むその髪を、ダークブラウンに透かし艶めかせた。

―違う、

艶めいた髪の色が、雅樹じゃない。
雅樹はもっと黒い髪だった、こんなに明るいダークブラウンじゃない。

―雅樹さんじゃない、英二だね、ここに居るのは…でも、どうして?

どうして英二は、いつもこうなのだろう?

いつも山を前にした英二の貌は懐かしい俤そっくりに美しい、それが不思議でならない。
英二と雅樹に血縁関係は無い、それなのに生き写しに想える瞬間がある、それが時を経るごと増えてきた。
この春3月の槍ヶ岳北方稜線、北鎌尾根を登った雅樹の慰霊登山。あのときから尚更に英二と雅樹は重なっていく。

―どうして?雅樹さん…英二と雅樹さんになんの関係があるワケ?…ドリアードのことがあるから?

雅樹が愛した山桜の化身ドリアード「周太」は英二の血縁者だった。
お互いの祖母が従姉妹だった、この事実を周太はまだ知らない、英二も知って1ヶ月だろう。
周太と英二は性格も風貌も全く似ていない、けれど周太の父親は確かに英二と似た所があった。
まだ9歳だった周太との初対面、あのとき見た周太の父親の切長い目と笑顔は、英二と似ている。

―そういう英二と雅樹さんが似てるって、不思議だね?コレも山の不思議かね、

こんな不思議を愉快に笑って、光一はトランクを開き荷物整理を始めた。
このホテルをベースにブライトホルン、リッフェルホルンのテスト登山を経てマッターホルン北壁へ向かう。
北壁前夜にヘルンリヒュッテに入る以外、3泊5日をここに滞在する。だから窓の眺めには拘りたかった。
それで事前にホテルへ部屋の確認をしてある、お蔭で希望通りに上層フロアーを割り当ててもらえた。

―せっかく傍にいるんだ、マッターホルン見とかなきゃ損だね、

8年ぶりの山に笑って、機嫌よく着替えをクロゼットに吊るしチェストへ納める。
その隣へと長身の影さして、綺麗な低い声が笑いかけてくれた。

「光一のパッキング、巧いな。ここを発つ時は俺、真似してみようかな、」
「そ?」

笑って相槌打った隣、英二もトランクを広げ始めた。
見遣ると英二の方こそ綺麗に納められている、そこに救命救急ケースは入っていない。
あの救急用具を英二は、いつも携行するのと同様に今回も登山ザックに入れて機内に持ち込んでいた。
英二の持つセットは医師も使う仕様で金属製の器具も含まれる、だから手荷物検査でも携行する説明を英二は係員にしていた。

―アレ、吉村先生が英二に贈ったんだよね…だから雅樹さんのとお揃いなんだよね、

空港で説明する姿を見たとき、切なかった。
いつも雅樹が携行していた救命救急セット、それと同じケースを英二が持っている。
それだけでも本当は切ない時がある、けれど今、あの中に英二は分解した拳銃も納めている。

―仕方ないって解ってるね、でも雅樹さんと同じのに、雅樹さんと似ている英二がってトコが、ね

本来、人命を救う為に使われる医療器具。
そのケースに殺人道具の拳銃を入れ、救助隊員の英二が持っている。
その救急ケースも、持っている男も、雅樹の俤を映すことが本音は、やっぱり切ない。
いつも医療と山に真摯な想いで向きあう雅樹だった、そんな雅樹はどんな想いで見ているだろう?
そう廻ってしまう考えと手元を動かしていく隣、英二はもう片付け終わってトランクを閉じた。

「光一、片付け終わったら散歩する?それとも少し寝る?」

クロゼットにトランクを仕舞いながら、綺麗な低い声が笑いかけてくれる。
端正な笑顔は穏かで美しい、まさか拳銃を不法所持しているなど誰も想像できないだろう。
綺麗な穏やかな貌の英二、けれど反面するよう激しい熱情の貌がある、そんな陰翳が謎めいて惹かれる。
そして雅樹とは別人なのだと実感できる、そんな実感に安堵しながら光一は笑って応えた。

「まず俺は風呂、入りたいね。さっぱりしてから今日のコト考えたいよ、あ?」

答えた手許、紙袋が目に飛び込んで声が出た。
ごく普通の茶色い紙袋、けれど「中身」に鼓動ひとつ意識を小突かれた。

―ダメだね、今、これ考えちゃうのはまだ早いね、北壁に集中したいんだからね、

軽く頭を振り、紙袋の中身を意識から降り落とす。
こんなに動揺する初心が自分でも意外で、途惑い困りながらも可笑しい。
そんな傍らに深い森がふわり香って、切長い目が光一の瞳を覗きこんだ。

「どうした、光一?今、あ?って言ったけど、」

解ってないだろうけどオマエのせいだね?

つい心で毒づきながらも、ゆっくり首筋が熱くなりだしていく。
こういう無意識の転がしが一番性質が悪い、独り相撲のよう恥ずかしがらされる。
こんなふう困ることは英二に逢うまで知らなかった、そんな初めてが愉快で光一は笑った。

「ワイン買いに行きたいね、って思い出したんだよ?風呂の後、散歩つきあってね、」





【歌詞引用:savage garden「Truly, madly, deeply」】


(to be continued)

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第58話 双璧act.7―another,side story「陽はまた昇る」

2012-12-06 01:30:53 | 陽はまた昇るanother,side story
この今、扉を開いて



第58話 双璧act.7―another,side story「陽はまた昇る」

明るい陽は窓からふる、その光線と輝度に季節の眩さがわかる。
ガラス越しに木洩陽が空のトレイに揺れる、その光に思い出した質問を周太は投げかけた。

「先生、光と暗闇を経験することで植物の体内時計は計られますよね?日照の長さは季節ごと変化しますけど、これと関係しますか?」
「良い所に気がつきましたね、湯原くん?そこを今度の講義で話す予定です、今話すとネタバレしますけど、どうします?」

愉しげに青木准教授が言ってくれる、その笑顔に嬉しくなる。
そして「今度の講義」に期待と少しの不安が想いだされてしまう。

…今度は異動した後なんだ、大学は続けられるって許可は貰えたけど

聴講生になるとき新宿署に届け出をだした、そして今回の異動に際しても第七機動隊へと許可申請をしてある。
この件については現在勤務する新宿東口交番所長の若林からも口添えしてくれて、今までどおり通学できると言って貰えた。
けれど実際に七機での勤務が始まらないと何とも言えない?そんな考え廻らせた途惑いに、美代が笑いかけてくれた。

「湯原くん、今度の楽しみにとっておいても良い?」

今度も一緒に受講できるよね?
そう問いかけてくれる明るい目に、まだ異動の話を出来ていない。
いつ話そうかな?考えながら周太は微笑んで頷いた。

「ん、いいよ?美代さん、さっきの質問したら?」
「ありがとう、じゃあ先生、光の識別の話ですけど、」

明朗な声が質問を始めた隣、思いついて周太は食卓のトレイをまとめ始めた。
片づけた方が資料やノートも広げやすい、そう思って4人分を2つに分けて重ねて立ち上がる。
その向かい、気さくな笑顔が一緒に立って片方のトレイに手を掛けて微笑んだ。

「湯原、半分持っていくよ、」

軽々と片手で持ち、手塚が一緒に歩き出してくれる。
青木と美代の「ありがとう」に送られて、並んで下膳口に向かう生真面目で明るい横顔へ周太は笑いかけた。

「ありがとう、手塚も質問あるよね?邪魔したみたいでごめん、」
「いや、湯原と小嶌さんが来る前にしたからさ?ノート、写してく?コピーとってもいいよ、」
「あ、嬉しいな。ありがとう、水木沢のところ写させてもらていい?」

話しながら一緒にトレイを片づけて、さっきの席に戻っていく。
その隣から楽しそうに手塚が笑いかけてくれた。

「湯原ってイラスト、上手いよな?森の雰囲気とか葉っぱをスケッチしてあったやつ。あれ、フィールドワーク中に描いたんだろ?」
「ん、そうだけど…あんなので褒められるとちょっと恥ずかしいよ?」

褒めてもらえるのは嬉しいけれど気恥ずかしくて、首筋から熱が昇ってくる。
丹沢のフィールドワーク中、青木樹医の説明を聴きながら幾つかイラストを描いた。
あとで写真と照合するために特徴だけ掴んで描いた、あれでは下書きとも言えない位に雑なのに?
もう赤くなりそうな衿元にそっと掌を当てた隣、明快な声は笑ってくれた。

「恥ずかしくないよ?特徴を把握して描くのってさ、フィールドワークの時は良いよな?俺も今度から写真だけじゃなくて、絵も描くよ、」
「手塚こそ絵、上手だと思う。あの水木沢のイラスト、きれいだね?」

さっき見せてもらった手塚のノートは、地元である木曽の水源林についてイラスト入りでまとめられていた。
きちんと彩色もされた図解は解かり易くて、なにより絵としても綺麗で良いなと思う。
そんな感想と素直に笑いかけた周太へと、愛嬌ある笑顔は照れくさそうに言ってくれた。

「ありがとな、俺、絵を褒められると嬉しいんだ。先にコピー機、行こうか?」
「ん、そうしたいな、」

笑い合って席に戻って、すぐ手塚は鞄を開いてくれる。
その横から周太は青木准教授と美代へと声をかけた。

「先生、手塚のノートをコピーさせて貰ってきたいんですけど、中座してよろしいですか?」
「はい、遠慮なくどうぞ?手塚くんのノート、いつも素晴らしいですよね、」

頷いてくれながら青木は手塚に笑いかけてくれる。
大らかな笑顔に手塚は照れくさげに笑って、軽く頭を下げた。

「ありがとうございます、小嶌さんもコピー要る?よかったら、」
「あ、貰えると嬉しいな。コピー代、渡すね、」

嬉しそうに美代も笑って、財布を出そうとする。
それを見て青木がポケットから鍵を出しながら、気さくに提案してくれた。

「大丈夫ですよ、研究室のコピー機を使って下さい。代わりにね、私にも一部頂いて良いですか?」
「うわ、先生にさしあげるのって恥ずかしいですね?俺のなんか要ります?」

提案に照れくさげに笑いながら手塚は、素直に鍵を受けとった。
そんな教え子に青木准教授は可笑しそうに微笑んだ。

「もちろん欲しいです。1つでも多くの知識を吸収していくことは、学者の端くれとして大切ですからね?」

そんなふう笑ってくれる笑顔に送りだされて、食堂から外に出た。
建物の蔭から出た視界まぶしくて目を細める、その彼方に青空は広がっていく。
よく晴れた夏のブルーに遠い遥かな山を見て、周太は左手のクライマーウォッチに目を落とした。

『PM3:34』

デジタル表示の時刻に、また空を見上げてしまう。
左手がそっとシャツの胸ポケットふれて、小さな袋の輪郭を握りこむ。
春3月に英二が雪崩に遭った後、不思議な白椿に祈りこめて縫った英二と揃いの御守袋。
この御守をいつもは鞄に入れている、けれど今日はずっと持っていたくて胸ポケットに入れてきた。
雪崩からも生還した日の白澄椿、その花の不思議な縁に祈り、大切な人たちの「今」を想ってしまう。

…もうじき頂上に着く目標時間だね?…アイガーは晴れてる?風、吹かないで…

日本時刻15時34分、マイナス8時間の時差にスイスは午前7時34分。
遥かな異郷の朝を今、大切な人たちが登っていく。

…もう白い蜘蛛は抜けたよね、今頃は頂上雪田…?

昨夜も読んだアイガー北壁の登頂記『白い蜘蛛』そのルートを辿り、緑のキャンパスを歩いて行く。
ふたりは今回もタイムアタックをしている、そのことをマッターホルン北壁後に後藤からの電話で知らされた。

「周太くん、あいつらはね?ただ北壁を登るんじゃなくって、世界記録に近づく挑戦をしてるんだ。アイガーは目標3時間だよ、」

このことは、光一も英二も教えてくれなかった。
それは二人の上司である山岳救助隊副隊長の後藤も同じだった。

「俺もね、さっきの報告電話で言われたんだよ?一昨日の夜、いきなり光一が宮田に誘いかけたらしい、2時間切るぞってな」
「いきなりですか?…あ、でも光一は元から?」

たぶん光一は元から計画していた、そう思える要素は考えれば幾らでもある。
けれど英二には急だったろうな?そんな心配をした周太に後藤は教えてくれた。

「ああ、そうだろうよ。周太くんも知っているだろう?吉村の息子の雅樹くん。彼との約束を果たすつもりなんだよ、光一のヤツ。
子供のときに光一な、雅樹くんと約束をしていたんだよ。マッターホルンは2時間、アイガーは3時間で北壁を一緒に完登してようって。
それを光一は叶えるつもりだよ?宮田をな、雅樹くんに匹敵するアンザイレンパートナーだって認めて、一緒に約束を登ろうとしてるんだ、」

話してくれた後藤の声は、慈愛と愛惜と、深い祈りが温かかった。
あの声からも解かる、雅樹がどんなに山ヤとしてクライマーとして認められ、今も惜しまれるのか?

…そういう雅樹さんに匹敵するって英二、認められているんだね?だから大丈夫だよね、お父さん?

キャンパスの木立の向こう、アルプスの青空を見つめて祈ってしまう。
どうか夢と約束を叶えてほしい、そして自分の心も一緒に喜ばせてほしい、最高峰の夢を自分も見たい。
そんな祈りと願いに空を見上げる隣から、そっと明朗な声が問いかけてくれた。

「湯原、なんか心配ごとでもある?」
「え、」

声に隣を振り向くと、生真面目な顔が微笑んでくれる。
実直で温かい笑顔にほっと心ほどかれて、素直に周太は頷いた。

「今ね、難しい山に登ってる人がいるんだ。その人たちのこと考えてた。ごめんね、ぼんやりして、」
「いや、謝んないでよ?難しい山なら心配で当たり前だろ、」

気さくに笑ってくれながら、手塚は校舎の入口を潜った。
並んで入る視界がふっと暗くなって、乾いた匂いに空気が涼しく変わる。
どこか重厚な静謐のなか一緒に階段を昇りだし、明朗な声は訊いてくれた。

「どこの山?」
「アイガーって知ってる?スイスの山なんだけど、」

何げなく応えながら、踊場の窓から空を見上げる。
今ごろは頂上かな、もう写真は撮ったかな、そんな考えに隣から驚いたよう訊いてくれた。

「アイガーって、映画とかにもなってるよな?三大北壁だろ、まさか北壁に登ってる?」
「ん、そうだよ?遠征訓練で行ってるんだ、」

北壁を手塚も知ってるんだな?
なんだか嬉しくて笑いかけた向こう、眼鏡の奥ひとつ瞬いて笑ってくれた。

「そうかあ、すごい知り合いがいるんだな、湯原?親戚とか、それとも友達?」

質問に、鼓動が一拍大きく響いた。
この質問への答えはどうしたら良いのだろう?そう考えて、けれど直ぐ素直に言葉が微笑んだ。

「ん、身内だよ?すごく大切なんだ、」

ふたりとも身近で大切な人、そう真実を答えた心が温かい。
温もり嬉しくて微笑んだ周太へと、扉に鍵を挿しながら手塚は笑ってくれた。

「じゃあ心配だよな、でも大丈夫だよ?なんか湯原の笑顔、すごく良い貌してるから。良いことが起きる時の雰囲気っていうか、」
「そう?ありがとう、」

温かい言葉へと素直に笑った視界、研究室の扉が開かれる。
ふわり古い紙の匂いとコーヒーの残り香が頬を撫で、インクの気配が懐かしい。
そういえば青木樹医も万年筆を遣っていた、その記憶に3月終わりの雪の日、特別公開講座を想いだす。
あのときが自分と美代のスタートラインだったな?微笑んだ周太に、コピー機の電源を入れながら手塚はノートを渡してくれた。

「はい、湯原。他にも読みたいページあったら、コピーして良いよ、」

その申し出は嬉しいな?
嬉しくて素直にページを捲りながら、周太は綺麗に笑った。

「ありがとう、遠慮なく見せてもらうね、」
「うん、遠慮なく見てよ。俺、この本ちょっと読んでるから、」

気さくに笑って書架から1冊を取ると、置いてあったレポート用紙片手に手塚は机に向かった。
その実直な横顔に学問への想いが見える、そんなふう自分と同じ想いを抱く空気が嬉しい。
こういう相手に会えた今の幸せに微笑んで、周太は丁寧にノートを開きコピーを始めた。

…あのときここから始まったんだ、植物学の夢を勉強することは、

特別公開講座の日、春の雪が降った。
美代と待ち合わせをして地下鉄を降り、初めてこの大学の門を潜る。
ちょうど昼時にあたる頃、職場のJAから真直ぐ来た美代が提案して学食に座った。
大学の学食に来てみたかったの、そう言って美代は内緒の夢を周太に明かしてくれた。

―…私、実は大学に行こうかな、って今、計画中なの…両親は反対だから、もう内緒で受験しようと思って

だから内緒で勉強を教えて?そう約束を求められて嬉しかった。
ふたり一緒に夢を追い笑いあえる、その幸せは温かくて楽しくて、あの日から宝物になった。
新しい繋がりに笑いあい、雪ふるキャンパスを並んで歩いて、樹医の本と期待を抱きしめて講堂の扉を開く。
高い天井ひろやかな木が香る席に着き、そして樹医の言葉たちに樹木の謎を解く学術の世界を初めて見つめた。
そのあと研究室で色んな話を青木にした、警察官の道は義務感で選んだこと、嫉妬とコンプレックス、植物学と樹医への憧れを話した。
英二達のように誇りと夢に生きたいと願う焦燥感、その全てを青木は聴いて受け留めてくれた、そして聴講生の道を示してくれた。

―…義務で立った道で誇りを見つけられた。それなら好きなことの学問で、君だけの夢が見つかるかもしれない
  私自身は無力で何も出来ません。けれど、学問の力は強く広いと私は知っています。だから君を学問に導くことは出来ます
  君は私の恩人です、私に出来る恩返しはこれが一番だと思います。私で良かったら、夢を見つける手伝いをさせてくれませんか?

青木の言葉の全てが、真剣に向き合う想いが嬉しかった。
青木と会うこと自体まだ3回目だった、それでも自分を信じて「一緒に夢を探そう」と言ってくれた。
樹医の言葉と想いは自分にとって光だった、嬉しくて、この言葉に懸けてみたいと肚の底から願っていた。
そして母と英二に相談をして、新宿署へも許可を申請してから聴講生として青木の学生になった。

…自分が夢に生きることが、英二の大切なブナを手助けできたら幸せだって、あのとき想ったね…今もそう、

あれから4ヶ月、自分は植物学の世界に親しんだ。
月2、3回の週末にふれる講義と青木樹医との会話、美代の大学受験勉強。
そうした「学問」に楽しむ時間は、4ヶ月の間にゆっくり自分の夢と心と、思考を育んできた。
幼い日から愛している植物の世界を学ぶ時間、それが今「自分の世界」を創りだし、心に背骨が入り始めている。

…きっと今、心が静かなのは自分の世界があるからだね、

今も英二を想う恋愛は深まり、光一への願いも色褪せない。
それでも以前のような「縋りたい」は消えている、そんな今、気づけることがある。
以前の自分は英二を独占したくて、いつも英二と一緒にいられる光一が羨ましい気持ちが強かった。
けれど今は「英二と光一が恋愛関係に繋がること」の肯定が出来る、この変化の理由が今ようやく見える。

…俺は依存していたんだ、英二の愛情に…英二が恋してくれることだけが、俺の支えだったから

父の殉職から13年間、ずっと孤独に生きることを選んで来た。
何も父のことを知らず、祖父達のことも解からない、その欠けたパズルを集めたくて父の軌跡を追ってきた。
その涯には「司法の闇」に居た父の姿が垣間見える、それは孤独な立場だと知って尚更に他人を遮断した。
重たい秘密に鎖される孤独の道が父の軌跡、その重荷を自分以外に背負わせたくなくて、孤独を選んだ。

けれど、英二に出逢って孤独は崩れた。無条件で受けとめられる温もりは幸せで、もう離れられなくなった。
そんな自分を英二は喜んで抱きとめてくれた、ただ英二だけを見つめて委ねれば幸せだった。
そのまま生きればいい?そう想っていた、でも、そんな生き方は出来ないと気がついた。
いつか「妻」になることを「護られ依存する」ことだと思っていた、けれど違う。

…だって俺は男なんだ、同じ「妻」でも女性と違う男としての支え方がある

自分は「男」英二と同じ1人の男性として自立した存在、だから「女の妻」とは違う。
そのことを2週間前に初めて自分が英二を抱いた、あのときから考え始めて気がついた。
確かに自分は男として英二よりずっと未熟で、肉体的にも能力的にも劣っているかもしれない。
けれど、こんな自分にも男として英二を抱くことが出来る、それは「同性」として対等だから出来た。
だから気がついた、どんなに自分の方が劣っていても「同じ男」として対等なら、依存することは違う。

…同じ男なんだ、家庭の役割も女性の妻とは同じじゃない…女性と同じには権利も義務も担えないんだ

女性の妻なら家庭に専念する役割分担の仕方もある、でもそれは「子供」を出産して育てるために必要なこと。
女性なら夫が他に恋人を持つことを拒絶するのが普通、でもそれは夫の心を家庭に向けて「子供」を護るための手段。
こんなふうに、子供を安全に養育する「母」として妻は、敢えて依存することで夫を家庭に繋ぎ留める権利と義務がある。
けれど自分は女性じゃない、子供を産み家族を広げる可能性が0%の自分が依存して家庭に籠るなら「家庭」に存在するのは自分だけ。
独りきりで家庭を創ろうとしても結局は自分だけの都合しか家庭に反映出来ない、そして心の視野を狭く閉じ込めてしまうだろう。
そうしたら自分の世界は夫だけになって脆く弱い孤独に堕ちてしまう、それでは夫を、英二を支えることなど出来はしない。

…女の人みたいには英二を支えられない、でも、俺にしか出来ない支え方があるから、ね?

自分は母になることは出来ない、だから英二が恋人を持つことを拒絶して家庭だけに留める権利も義務も、自分には無い。
むしろ英二が望むままに広い世界へ送りだして、帰ってくるごと家庭に迎えられる穏やかな、温もりの幸せを贈りたい。
外の広い世界へ出かけるほど、きっと小さくても大らかな優しさに安らげる場所が必要になる。その温かい場所で自分がありたい。
もし自分が植物学の夢を通して広く世界を見つめ、誇りを抱いて生きられたなら大きな心の人になれる、そして築いた家庭はきっと温かい。
だからこそ、広い世界に英二を連れ出してくれる光一に、アンザイレンパートナーとして恋人として英二を託したいと想えた。
こんな自分を心から大切に想ってくれる光一なら、きっと英二を幸せに笑わせて大切に護ってくれる、そう信じられるから。

…きっとアイガーの北壁をふたりは無事に登れた、そして無事に下山して…光一の願いも叶う、ね

そんな確信に微笑んだ手許、ノートを捲りコピーをとっていく。
丁寧にページを繰っていく指は落着いて、心は静穏に寛ぎ温かい。そんな自分にほっとする。
もう、英二と光一が夜を過ごす事への納得は肚に端坐して動かない、それでも取り乱すかもしれないと少し不安もある。
元が甘えん坊で泣き虫の弱虫で我儘な自分、そんな自分が今夜を無事に見つめられるのだろうか?

「湯原、今日ってこの後、忙しい?」
「え、」

不意に声かけられて振向くと、愛嬌のある笑顔が笑ってくれる。
いま考えていた2人を全く知らない、そんな手塚の存在に何か寛いで周太は微笑んだ。

「夕方まで美代さんと勉強して、その後は特にないけど、」
「じゃあ、コピーが終わったらもう用事は無いな?」

そう言って手塚は窓を顎で示してくれる。
それに素直なまま外を見ると、空は薄紅と黄金に染まり始めていた。

「あ…もう夕方なの?」

驚いて左手首を見ると、クライマーウォッチは18時を示している。
ノートを読みながらも考えごとをして、手許は単純作業に没頭するまま時の経過に気付かなかった。
また変に集中してしまったらしい、美代の受験勉強を見る約束もあるのに時間を忘れてしまった。
どうしよう?困りながら周太は電源を落し、コピーした3束を携えるとノートを返した。

「ノートありがとう。ごめんね、すっかり待たせちゃって、」
「いや、俺もさっきまで没頭しちゃってたんだ、気付かなくってごめんな?」

可笑しそうに笑って受けとってくれる手の、もう片方には数十枚のレポート用紙を持っている。
その枚数に手塚の集中力がうかがえて、嬉しくて周太は綺麗に笑いかけた。

「よかった、同じだね?」
「ははっ、そうだな?同じタイプっぽいな、」

明るく笑って頷くと、手塚は本を書架に戻した。
戸締りを確認してから部屋を出、きちんと施錠すると明り灯る廊下を歩き出す。
その隣からレポート用紙片手に、愛嬌の温かい笑顔は気さくに提案してくれた。

「湯原、晩飯一緒しようよ?今日はバイト無いから、時間もゆっくり出来るんだ、」

自分のこと、そんなふうに誘ってくれるの?
予想外に驚いて、けれど素直に嬉しくて周太は明るく微笑んだ。

「ん、いいよ。その前に俺、5分だけ寮に戻ってもいい?外出申請書の変更を出さないと行けないんだ、」
「そっか、湯原って寮に入ってるんだ?」

相槌打ちながら、考えるよう眼鏡の奥ひとつ瞬いた。
すぐ愛嬌ある笑顔ほころんで、明朗な声が楽しそうに聴いてくれた。

「湯原、明日って用事ある?あと、酒は飲める?」
「ちょっと実家に日帰りするけど?酒は少しなら飲めるよ、」

明日は週休だから、昼前に実家へ帰って布団を干して掃除をしたいな?
それで昼食を母に作ってあげたい、そんな予定を思い微笑んだ隣から明るい顔が愉快に笑った。

「よし、湯原?外出申請じゃなくって外泊にしなよ、オールで飲もう。湯原の都合が良いエリアってある?」

ちょっと思いがけない方向になったな?
また予想外に驚かされる、そして楽しくなってしまう。
自分と同じ夢を真面目に取り組む手塚となら、夜通し話してみたい。そう自然と思うまま周太は微笑んだ。

「ん、いいよ。俺は新宿に近いと助かるけど、先生と美代さんにも声かけるんでしょ?」
「もちろん、先生の飲みって楽しいんだ。小嶌さんとも話してみたい、」

愉しい予定を話しながら階段を降り、ホールを横切って外に出る。
その視界いっぱいに、薄紅いろの黄昏がキャンパスを染めあげた。

「きれい、」

こぼれた賞賛の向こう、植込みの巨樹と校舎は夕陽きらめき影は長い。
あわい紅、黄金、白金、色彩豊かな雲がなびいて空を夜へ向かわせ輝かす。
古い建物と瑞々しい夏木立の織りなす学舎は静かな喧騒と、まばゆい光の陰影に佇んでいる。
光と影に彩られる重厚なキャンパス、この大学に祖父の晉は学問の夢と生きていた。

…お祖父さんはここに居たんだ、ここで学んで、教えて、

東京大学文学部仏文科教授 湯原晉

祖父はパリ第3大学の名誉教授も兼任し、日本とフランスを往還しながら文学を見つめていた。
父や夫としても立派な人だった、そんなふうに祖父をよく知る英二の祖母も教えてくれる。
まだ写真ですら会ったことがない俤を、数十年の時を超えて今、学舎に見つめてしまう。
この今を自分が学問の夢を見つめて学ぶ、その同じ場所に祖父は確かに生きていた。

…フランス文学と植物学で分野は全然違う、でも同じ場所で同じように学問を想っているね、お祖父さん?

見つめる「学問」に過去と現在が時を超え繋がれていく、その一すじが慕わしく、温かい。



外出と外泊の手続きを済ませ、鞄一つと寮から出て歩きだす。
店の場所を知らせるメールを開こうとして、周太はもう1件の受信に気がついた。

…来た、

鼓動ひとつノックして、心が遥か異郷の空を見つめる。
高差1,800mの蒼い翳、その頂点まばゆい稜線が残照の空に現われだす。
蒼穹に聳える大いなる壁、ナイフリッジの連なる銀嶺、その麓へ拡がらす緑の草地。
真昼の太陽きらめく空から届いた便りを、夜を迎える街路樹の下そっと周太は開封した。





(to be continued)

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