「信」 共に生き、共に登って、
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第58話 双壁side K2 act.16
縁側を風吹きぬけて、柿の木から木洩陽ゆらめく。
涼やかな夕風に前髪あおられる、頬撫でる心地良さに目を細め、門を見る。
ふるい頑丈な門柱から影は蒼く伸び、座りこむ木肌もすこし温くなった。その感覚に時の経過を知って光一は笑った。
―もうじき帰って来るね?
うれしい予兆と縁側から降りて、登山靴の足で横切る庭の木洩陽やさしい。
桔梗の青紫と白が風ゆらぐ、ほおずきの花と早生実の朱色は陽光はじいて、向日葵の黄色が青空映える。
真夏の17時は青空あかるくて、けれど時刻はもう夕暮れだから帰ってくるはず。
そう門から通りを見た耳へと、聴き慣れたエンジン音が届いた。
「帰ってきた、」
笑って縁側に戻るとザックを掴む、その背中へとエンジン音は近づいてタイヤの音も聞えだす。
もうじき門から四駆が入ってくる、そう振向いた視界に紺色の車体が現われて停まった。
「雅樹さんっ、」
名前を呼びかけた先、運転席の扉は開いて長い脚が庭に降りる。
Tシャツとカーゴパンツ姿の長身が扉を閉める、その腰へと思い切り抱きついた。
「お帰りなさい、雅樹さんっ!」
「光一、ただいま、」
綺麗な笑顔ほころんで、長い腕を伸ばし抱き上げてくれる。
ぐんと視界が高くなって夏蜜柑の枝を越し、ずっと青空が近い。
半袖から覗く日焼けと白皙の境界線がまぶしくて、光一は大好きな人の首元に抱きついた。
「アイガーの雪と太陽は、まぶしかったね?」
「うん、まぶしくって綺麗だったよ。おかげで僕、ちょっと焼けたんじゃないかな?」
愉しげに笑って答えてくれる、その快活な笑顔に幸せになる。
嬉しくて楽しくて、想い素直なまんま自分は早速ねだった。
「さ、雅樹さん。吉村のジイさん家に行こうね?」
「その前に僕、奏子さん達にも挨拶したいな。光一も明広さんに、お帰りなさいって言わないとね?」
笑顔で答えてくれながら、今降りた四駆を雅樹は振向いた。
その視線を追いかけた先の助手席、呑気に眠りこむ父の顔が見えて呆れてしまった。
「なに、オヤジってば雅樹さん運転してるのに、自分だけ寝てたってワケ?自分の仕事に付きあわせた癖にさ、ほんとガキだね、」
今回のアイガー北壁登頂は、山岳写真家の父が雑誌からの依頼で撮影目的だった。
それで雅樹をまたザイルパートナーに指名して、雅樹の研究に役立つだろうと口説き連れて行っている。
ちょうど大学も夏休みだったし雅樹も喜んで同行した、それでも父の都合が発端なのにと呆れながらも可笑しい。
―人間ってさ、体は大人でもガキなこともあるね?ガキで大人の俺とは逆だね、
前者の見本な父に笑ってしまう、こういう自由な父が自分は大好きで、嬉しくて可笑しい。
いつも父が雅樹と連れ立つ理由は、医学部2回生で救急法の資格を持ちクライマーの資質も豊かなことに因る。
まだ二十歳の雅樹、けれど理知的な分析力と穏やかで強靭な精神は頼もしくて、山ヤとして男として信頼も厚い。
そんな10歳下の友人を父は心から頼っている、そんな様子が安心しきった寝顔にも見えて子供のようで可笑しい。
可笑しくて笑いながら雅樹に抱きついて、そんな自分と一緒に笑いながら雅樹は教えてくれた。
「明広さん、昨夜は僕の家に泊まっただろ?父も家に居たから、兄も一緒に3人で夜通し宴会してたんだよ、アイガー北壁おめでとうって。
それで昨夜は明広さん寝ていないから、帰ったら現像の仕事もあるし寝て下さいって僕が言ったんだよ。僕はちゃんと寝たから大丈夫だし、」
愉しそうに笑って答えてくれる、その笑顔は透明なほど優しい。
いつも人の好い雅樹、そんな無垢が大好きで嬉しくて、だからこそ父が羨ましくて悪戯心が起きだした。
「なるほどね?じゃあ俺、オヤジを起こして家に入れるからさ、ちょっと降ろしてくれる?」
「うん、光一が起こしてあげたら明広さん、きっと喜ぶね、」
疑いの欠片も無い貌で笑って降ろしてくれる、その笑顔にすこし罪悪感がちくりと刺す。
それが尚更に嫉妬を煽ってしまう、雅樹とアンザイレンしてアイガー北壁を登った父が羨ましくて、タダで済ませない。
そんな気持ち素直に助手席の扉を音も無く開けて、カーゴパンツのポケットからオナモミの実を3つ取出した。
この3個とも父の衿元に入れてTシャツの奥へ落としこむと、呑気な寝顔の前で拍手ひとつ大きく打った。
ぱあん!
音に二重瞼の目が瞠かれて、驚いた貌をする。
そこへ間髪入れずに父の耳元、祖父の声真似で怒鳴りつけた。
「熊だっ、明広!」
「えっ、?」
がばり起きあがった父が、寝惚けたままに狼狽えだす。
祖父と違って猟銃を使えない父は熊が怖い、その恐怖と掴めない状況に周囲を見まわしている。
大柄な父がオドオドする様子は熊みたい?面白くて愉快で笑いが弾けた。
「あははっ、オヤジが寝惚けた熊みたいだね?お帰りなさい、あははっ!」
笑った視界の向こう、困り顔の雅樹が笑いを堪えている。
生真面目でもユーモアが好きな雅樹を喜ばせられた、それも嬉しくて笑っていると節くれた指に額を小突かれた。
「なんだい、光一の悪戯か。また今回もやられちゃったね、あれ?」
欠伸しながら飄々と笑ってくれる、その笑顔がすぐ顰めて首傾げた。
さっき父のTシャツに3個入れたオナモミ、あの草の実が棘で肌を不快にさせるだろう。
呑気に寝ていたお仕置きだね?そんな想い笑って踵返すと、雅樹に走りよって抱きついた。
「雅樹さん、ちょっと茶を飲んだら、すぐ吉村のジイさん家に行こうよ。吉村のジイさんもバアさんも雅樹さんのコト、心配してたよ?」
「うん、父達にも聴いたよ。うちのお祖父さん、何回か新宿の家にも電話くれたらしいね、」
笑って抱き上げてくれながら、雅樹は父の方を見て首傾げこんだ。
その視線を覗きこんで遮断して、父に構わず自分は促した。
「ね、俺ちょっと喉かわいちゃったよ、早く家に入ろ?おふくろ達も雅樹さんのこと待ってるね、」
「それなのに光一、ザック持って登山靴まで履いてるの?」
玄関へと歩きながら笑った言葉に、きっと雅樹は気付いてくれたと嬉しくなる。
嬉しい気持ち素直なまんま、気付いてくれたろう事に笑いかけた。
「おふくろ達に捕まっちゃうと、雅樹さんを独り占めするの遅くなるだろ?だから気付かれないうちに、行っちゃおうかなってね」
「そんなことされたら僕、奏子さん達に失礼な男だって思われちゃうよ、あれ?」
返事してくれながら、ふと気づいたよう雅樹が父を振り返りかける。
その貌へと頬よせ抱きついて、父の様子に気づかれないよう甘えて微笑んだ。
「大丈夫だね、おふくろなら俺がワガママ言ったってコト、ちゃんと解るね。ね、アイガーの話を今夜は聴かせてよね?」
「うん、たくさん話したい事があるよ。途中で光一、眠っちゃうかもしれない、」
「大丈夫だね、絶対に全部、ちゃんと聴くからね、」
会話に笑いあいながら玄関を潜った庭先、父はTシャツを脱いで笑っていた。
あのオナモミは秘密の場所に育つ特大サイズだから、さぞ痛痒かったろうな?
そんな5歳の記憶に笑って今、24歳の自分がアイガー北壁を登る。
―神々のトラバース、白い蜘蛛は落石注意で素早く、頂上雪田は転ぶな、そしてアイガーのキスだね、
雅樹が語ってくれたアイガーを想い、この先のポイントを想定する。
自分でも7年前に同じルートを登攀した、頭脳では何度も山図に道を辿らせデータを見つめ登っている。
初登した17歳の時は後藤とアンザイレンを組んだ、その後藤から「雅樹に匹敵する」と言われた英二と今、登っていく。
―雅樹さん、まだ及ばないとこ多いけど英二、ビレイヤーなら雅樹さんと近づいてるね?まだ1年も経ってないのにさ、あいつ天才だね?
ザイルに繋がれるパートナーへ賞賛が笑い、父が撮影したビデオを思い出す。
それは父と雅樹がザイルを組んだ7年間、高校2年生から23歳までの雅樹がクライミングする姿が遺されている。
山ヤの医師を志す雅樹の研究資料になればと7年ずっと撮り続け、コピーテープを光一にも贈ってくれた。
あのビデオを16年間、もう幾度なのか忘れるほど観て雅樹の動きも呼吸も記憶している。
だから自分には解る、まだ10ヶ月でも英二は雅樹のクライミングに近づいていく。
―来年にはもっと速く登れるね、その次はもっと良いクライミングが出来る、おまえとなら。そうだね、英二?
問いかけ笑って、岩つかむ左手を視界の端に見る。
手首にはクライマーウォッチ『MANASUL』が時を刻み、タイムと高度を示す。
予定より少し速いペースで昇ってきた、このハイペースも英二の澱みないビレイのお蔭だろう。
一昨日のマッターホルン北壁に続いて今日も、全く光一のペースを乱すことなく英二はハーケンを回収し、登ってくる。
その姿をトップの自分は見られない、それでも動きが赤いザイルに伝わり意識野の映像あざやかに見えている。
―ね、雅樹さんなら解かるね?あいつ巧いよ、後藤のおじさんと訓練してるとこ見たけど雅樹さんと似てる、ビデオ観たことないのにね?
こういうところも英二は不思議だ。
性格の根っこが雅樹と正反対、けれど思慮深い静謐は似ていて雰囲気や立ち姿がそっくりでいる。
全くの他人であるはずの二人、それでも二人とも同じに光一のアンザイレンパートナーになった。
この二人への感情は全く違うようで似ている、そんな想い見つめながらザイルの向うへ微笑んだ。
―さて、雅樹さん、英二。アイガーを口説き落とせるかどうか、こっからだね?
ふたりのパートナーに笑いかけ、狭い急峻な岩棚へと踏み込んでいく。
アイガー北壁終盤の第1関門「神々のトラバース」この急勾配のバンドで西へ平行移動をする。
慎重に素早い足許、岩壁を傷付けないよう通り抜けていくと、垂壁の窪みに氷壁地帯が広がらす。
―久しぶりだね、白い蜘蛛。今朝も美人だね、ちょっと通らせて?
常冬の北壁に住む「白い蜘蛛」夏にも吹き荒れるまま永久に凍りついた雪は、蜘蛛になって巣を構えている。
山の守主として住まう白銀の蜘蛛、彼女の機嫌が悪い時に訪れたなら落石を砲弾にして侵入者を拒んでしまう。
けれど今日という日と夜明け間もない今は通してくれるはず、そんな確信にハンマーをふるいハーケンを謳わせた。
コンコン、カンッ、キン、キンッ。
白銀の蜘蛛にハーケンが歌う、永い星霜を佇む者への畏敬を謳いだす。
太古の悠久を凍らす「白い蜘蛛」その年月の記憶に19年前を教えてほしい、そして自分に伝えてほしい。
あの大好きな山ヤはどんな喜びを謳い、ハーケンとアイゼンの軌跡を刻んでアイガーのキスを受けとったのか?
―白い蜘蛛、俺に教えてよ?19年前の山ヤの医学生のことを聴かせて、別嬪で明るくて優しい男だよ?変テコな写真家と登っていったね、
どうか大好きな人の「山」の時間を教えてほしい、そして自分に祝福のキスをして?
そんな想い誇らかにハーケンは謳い、赤いザイルに軌跡を描かせ蒼い壁へとアイゼンが立つ。
ハンマーを振りピッケルとザイルを操る、その指先は凍えることなく動いて三点確保で脚と登っていく。
末端の血流を支配するポイントに英二は薄手のカイロを貼ってくれた、お蔭で爪先まで冷えることなく自由に山を掴める。
こんなふう細やかな手法も英二は考えられる、そんなパートナーを誇らしく笑って静かな蒼白の世界を通過した。
―ありがとね、白い蜘蛛。このあと俺のパートナーがおじゃまするよ、19年前の医学生に負けない別嬪の山ヤだよ、通してやってね?
いま落石は起きることなく通過が出来た、どうか英二が通る時も静かに通してほしい。
その願いに笑って白銀の山守へとパートナーを頼み、そっと岩壁を撫でて祈ると次へ向かいだす。
このアイガーもマッターホルンと同様、氷で岩を固めた地質の為に北壁以外の地点でも落石が多い。
不意に風を吹かす気まぐれと同じに氷は溶けて抱擁をほどき、放れた岩は落石となってクライマーを拒む。
そんな気まぐれを起こす山を雅樹は「ピュアで依怙地な怒りんぼう」と穏やかに笑って話してくれた。
「アイガーの北壁ってね、山を真っ二つに割った断面みたいだろ?きっと北壁はね、アイガーの心を素のまま曝け出した所だって思ったよ。
だから相手を選んでしまうのかもしれないね?心は、誰にでも踏みこませるものじゃないから。そういうの、ピュアなほうが怒りやすいんだ、」
温かい懐に包んでくれる布団の中、綺麗な深い声が語ったアイガー北壁。
あのとき20歳の雅樹が見つめたアイガーの心と今、自分は向き合っていく。
―アイガー、あなたは雅樹さんには素顔を見せたんだね?だって言ってた、あの日は無風で落石も無かったってね。それは今も同じだね?
凍れる岩を透して笑いかけ登る先、頂上へ抜けるクラックは凍れる岩壁と氷雪が繰り返す。
太陽は朝に呼ばれて高度をあげていく、けれど蒼い陰翳の世界は陽光から遠く空気も凍てつく。
永久の時が育ます冷厳と岩壁に、人智の彼方から「山」の鼓動がゆっくり充ちていく。
―不思議だね、雅樹さん。本当に山は不思議で大きくて、きれいだね、
ふれる岩壁に19年の星霜と繋がり、二十歳の時を登った雅樹の背中に笑いかける。
この瞬間をアンザイレンザイルに繋ぎあい、共に登って行ける英二の存在に喜びは温かい。
そんな温もりくれる山が愛しくて、ハーケンを撃つ岩肌を少しでも傷少なく保ちたいと願う。
こうして登っていく記憶の対峙に16年が癒されていく、そんな優しい瞬間を与える「山」と恋しあう。
―ね、アイガー?ずっと俺の為に待っていてくれたね、雅樹さんの記憶を今日の為に抱いてくれてたね?英二と一緒に登る今日を信じて、
ゴーグル越しに垂壁の彼方、蒼穹の光と頂に笑いかける。
確実に昇っていく蒼い冷厳は悠久の記憶が眠る場所、そんな深い懐から天辺は近づいていく。
そして大いなる陰翳の時間は終わりを告げて、青と白の耀く頂上雪田をアイゼンは踏んだ。
―…アイガーの雪と太陽は、まぶしかったね?
うん、まぶしくって綺麗だったよ。おかげで僕、ちょっと焼けたんじゃないかな?
見つめた白銀まばゆい世界に、幼い自分の声と大好きな声が笑う。
あのとき話してくれた光景に今、自分は佇んでパートナーの鼓動をザイル越し感じている。
どこか懐かしく微笑んで雪田の急斜にピッケル立て、蒼穹と銀嶺の境界線に目を細めさす。
ゴーグルを透かして眩しい青と白、いま天へ昇っていく白銀の竜の背に光一は笑った。
「まぶしくって、綺麗だね?アイガーの背中は、」
笑った視界がすこし滲んで涙、ひとつだけ頬伝って落ちた。
そのまま音も無く雪へと吸われて消えていく、その彼方へ蒼いウェアの幻が立ってくれる。
今の自分より4歳若かった雅樹の背中、けれど自分より広やかに頼もしい背中が山頂から笑う。
あの背中に追いつきたくて16年、ずっと山を一番にして自分は生きてきた。
「今、天辺に行くよ?雅樹さん、」
大らかな明るさへ笑って一歩、確実にアイゼンを踏みだし登りはじめる。
ピッケルを携え万が一の時に備えて氷雪を踏んでいく、その頭上から夏の陽光は降りそそぐ。
いま7月の太陽は光が強い、けれど標高三千を超えた世界は永遠の雪に彩られ壮麗なまま佇む。
この下界は緑豊かな季を生命が謳歌する、その同じ瞬間にここでは氷雪きらめき無垢なる光が目映い。
―こことアッチは異世界だね、でも同時に存在している。不思議で大きくて、怖くて綺麗だ、
アイゼンに踏む雪に想い廻らせ、いつものペースで進んでいく。
その胸に腰に繋がれるアンザイレンザイルにパートナーも動き、もう頂上雪田へ着くと解かる。
このまま無事にふたりで天辺へ辿りつきたい、そして約束の夢を一緒に笑い合って山とキスしたい。
そんな願いと踏みしめていく背後、ふっと空気が揺れて光一は咄嗟にピッケルを雪面に立てた。
―英二!
意識が叫んで振り返る、腕はピッケルを握りしめ重心を深く落し込む。
その視線の先でナイフリッジの大気が煽られ、深紅のウェア姿が横転し滑りだした。
「っ、嫌だっ!」
叫んだ心ごとダブルピッケルで体を支え、体重を錘にして腰を落とす。
無意識のまま腕が動いてザイルを繰りだす、ダイナミックビレイにアンザイレンザイルを制動する。
急にザイルを止めれば滑落者のハーネスが引き攣れ、皮膚から筋肉、骨まで痛めつけてしまう。
その衝撃を緩めながらザイルを止めて滑落を終わらせていく、その手ごたえ確実に生まれだす。
けれど、握りしめるザイルの一本がその彼方、かちりと冷たい音に金具が外された。
―チェストのザイルを外した?
かすかな金属音と手応え、けれど瞬間に状況が解かる。
その判断に光一は氷原の下方へ、思い切り怒鳴りつけた。
「ザイルを外すなっ!」
肚から怒鳴った声に、ザイルが的確に止まりだす。
滑落スピードは緩やかになり、深紅のウェアは白銀に留まっていく。
そうしてザイルは完全に停止し、光一は大きく喘いだ。
「…止まった、…ぁ、」
ザイルを掴んだまま姿勢を立て、ピッケルを雪面から抜き取る。
赤いウェアとザイルを見つめたままザイルを手繰り斜面を下っていく、その視界で深紅が起きあがる。
白銀の上に赤い花が咲いたよう座りこみ、黒いグローブの掌は雪を払い丁寧に体を確かめだす。
―無事だ、意識も体もちゃんとしてる、無事だ、
安堵が喉を詰まらせるよう込みあげながら、けれど怒りたくて仕方ない。
その想いに唇引き結んだまま深紅の花を見つめ、傍らに立つと頭ごなし怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎っ!」
ぶつけた声に、白皙の貌が見上げてくれる。
その左頬が赤らんで痛々しい、風に倒された衝撃で打ったのだろう。
それでもゴーグルも割れずヘルメットも装着されている、この無事を見つめる向う綺麗な低い声が謝った。
「ごめん、こんなところで転んで。俺の不注意でタイム遅くして、すまない」
「そんなこと言ってんじゃないよっ!」
そんなことで怒鳴ったんじゃないのに?
この誤解が悔しくて哀しいまま、パートナーの隣に座りこむ。
どうして解かってくれないと、もどかしい想いごと深紅の肩を掴んで向かい合う。
ゴーグル越しに真直ぐ見つめて、切長い目の意識が無事な事を確認すると、肚から怒鳴りつけた。
「アンザイレン外すんじゃないよっ!馬鹿野郎っ、何のためにザイル繋いでんだよっ!」
お互いに援け合うため繋ぎあっている筈なのに?
おまえのこと、俺には救けられないと判断したから、外そうとした?
そんなに俺は頼りないのか、俺のこと独りぼっちに置き去りにするつもりなのか?
―もう置いて行かないでよ、俺のこと独りにしないでよ、もう嫌だ!
心が叫びだして奥深く、8歳の子供がもう泣きだしている。
泣き声に16年前の晩秋が蘇る、黎明の暗闇と哀切が今また心を引き裂きだす。
あのとき無力な子供だと思い知らされた、大切な人を救えなかった無念と懺悔が蝕んで、今また痛い。
「ごめん、」
綺麗な低い声が謝って、その声に心が引き戻される。
それでも喉には重たく冷たい塊が苦しい、そんな想いにゴーグル越しから切長い目が微笑んだ。
「光一を巻き込むの、どうしても嫌だったんだ。俺は光一のサポートをするビレイヤーだ、光一の無事を守るっていうプライドがあるんだ。
だから巻き込みたくなくて俺、ザイルを外そうって思ったんだ。だけど、ごめんな?絶対に止めてくれるって光一のこと、信じるべきだな、」
自分の無事を守るプライド、その言葉は嬉しい。
けれど、だったら何故と想ってしまう、ねだってしまう。そんな願いに怒鳴り声が叫んだ。
「そうだよっ…信じろよ!俺のこと信じて約束を守れよっ…」
雅樹が消えて思い知った孤独が今、もう怖い。
信じあって結んだ約束が途切れる、その孤独が怖くて不安で苦しい。
どうか信じてほしい、自分の力をもっと信じて認めて傍にいてほしい、もう置いて行かれたくない。
どうかお願い、俺の無事を守ってくれるんなら、ずっと生きて傍にいてよ?
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(to be continued)
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第58話 双壁side K2 act.16
縁側を風吹きぬけて、柿の木から木洩陽ゆらめく。
涼やかな夕風に前髪あおられる、頬撫でる心地良さに目を細め、門を見る。
ふるい頑丈な門柱から影は蒼く伸び、座りこむ木肌もすこし温くなった。その感覚に時の経過を知って光一は笑った。
―もうじき帰って来るね?
うれしい予兆と縁側から降りて、登山靴の足で横切る庭の木洩陽やさしい。
桔梗の青紫と白が風ゆらぐ、ほおずきの花と早生実の朱色は陽光はじいて、向日葵の黄色が青空映える。
真夏の17時は青空あかるくて、けれど時刻はもう夕暮れだから帰ってくるはず。
そう門から通りを見た耳へと、聴き慣れたエンジン音が届いた。
「帰ってきた、」
笑って縁側に戻るとザックを掴む、その背中へとエンジン音は近づいてタイヤの音も聞えだす。
もうじき門から四駆が入ってくる、そう振向いた視界に紺色の車体が現われて停まった。
「雅樹さんっ、」
名前を呼びかけた先、運転席の扉は開いて長い脚が庭に降りる。
Tシャツとカーゴパンツ姿の長身が扉を閉める、その腰へと思い切り抱きついた。
「お帰りなさい、雅樹さんっ!」
「光一、ただいま、」
綺麗な笑顔ほころんで、長い腕を伸ばし抱き上げてくれる。
ぐんと視界が高くなって夏蜜柑の枝を越し、ずっと青空が近い。
半袖から覗く日焼けと白皙の境界線がまぶしくて、光一は大好きな人の首元に抱きついた。
「アイガーの雪と太陽は、まぶしかったね?」
「うん、まぶしくって綺麗だったよ。おかげで僕、ちょっと焼けたんじゃないかな?」
愉しげに笑って答えてくれる、その快活な笑顔に幸せになる。
嬉しくて楽しくて、想い素直なまんま自分は早速ねだった。
「さ、雅樹さん。吉村のジイさん家に行こうね?」
「その前に僕、奏子さん達にも挨拶したいな。光一も明広さんに、お帰りなさいって言わないとね?」
笑顔で答えてくれながら、今降りた四駆を雅樹は振向いた。
その視線を追いかけた先の助手席、呑気に眠りこむ父の顔が見えて呆れてしまった。
「なに、オヤジってば雅樹さん運転してるのに、自分だけ寝てたってワケ?自分の仕事に付きあわせた癖にさ、ほんとガキだね、」
今回のアイガー北壁登頂は、山岳写真家の父が雑誌からの依頼で撮影目的だった。
それで雅樹をまたザイルパートナーに指名して、雅樹の研究に役立つだろうと口説き連れて行っている。
ちょうど大学も夏休みだったし雅樹も喜んで同行した、それでも父の都合が発端なのにと呆れながらも可笑しい。
―人間ってさ、体は大人でもガキなこともあるね?ガキで大人の俺とは逆だね、
前者の見本な父に笑ってしまう、こういう自由な父が自分は大好きで、嬉しくて可笑しい。
いつも父が雅樹と連れ立つ理由は、医学部2回生で救急法の資格を持ちクライマーの資質も豊かなことに因る。
まだ二十歳の雅樹、けれど理知的な分析力と穏やかで強靭な精神は頼もしくて、山ヤとして男として信頼も厚い。
そんな10歳下の友人を父は心から頼っている、そんな様子が安心しきった寝顔にも見えて子供のようで可笑しい。
可笑しくて笑いながら雅樹に抱きついて、そんな自分と一緒に笑いながら雅樹は教えてくれた。
「明広さん、昨夜は僕の家に泊まっただろ?父も家に居たから、兄も一緒に3人で夜通し宴会してたんだよ、アイガー北壁おめでとうって。
それで昨夜は明広さん寝ていないから、帰ったら現像の仕事もあるし寝て下さいって僕が言ったんだよ。僕はちゃんと寝たから大丈夫だし、」
愉しそうに笑って答えてくれる、その笑顔は透明なほど優しい。
いつも人の好い雅樹、そんな無垢が大好きで嬉しくて、だからこそ父が羨ましくて悪戯心が起きだした。
「なるほどね?じゃあ俺、オヤジを起こして家に入れるからさ、ちょっと降ろしてくれる?」
「うん、光一が起こしてあげたら明広さん、きっと喜ぶね、」
疑いの欠片も無い貌で笑って降ろしてくれる、その笑顔にすこし罪悪感がちくりと刺す。
それが尚更に嫉妬を煽ってしまう、雅樹とアンザイレンしてアイガー北壁を登った父が羨ましくて、タダで済ませない。
そんな気持ち素直に助手席の扉を音も無く開けて、カーゴパンツのポケットからオナモミの実を3つ取出した。
この3個とも父の衿元に入れてTシャツの奥へ落としこむと、呑気な寝顔の前で拍手ひとつ大きく打った。
ぱあん!
音に二重瞼の目が瞠かれて、驚いた貌をする。
そこへ間髪入れずに父の耳元、祖父の声真似で怒鳴りつけた。
「熊だっ、明広!」
「えっ、?」
がばり起きあがった父が、寝惚けたままに狼狽えだす。
祖父と違って猟銃を使えない父は熊が怖い、その恐怖と掴めない状況に周囲を見まわしている。
大柄な父がオドオドする様子は熊みたい?面白くて愉快で笑いが弾けた。
「あははっ、オヤジが寝惚けた熊みたいだね?お帰りなさい、あははっ!」
笑った視界の向こう、困り顔の雅樹が笑いを堪えている。
生真面目でもユーモアが好きな雅樹を喜ばせられた、それも嬉しくて笑っていると節くれた指に額を小突かれた。
「なんだい、光一の悪戯か。また今回もやられちゃったね、あれ?」
欠伸しながら飄々と笑ってくれる、その笑顔がすぐ顰めて首傾げた。
さっき父のTシャツに3個入れたオナモミ、あの草の実が棘で肌を不快にさせるだろう。
呑気に寝ていたお仕置きだね?そんな想い笑って踵返すと、雅樹に走りよって抱きついた。
「雅樹さん、ちょっと茶を飲んだら、すぐ吉村のジイさん家に行こうよ。吉村のジイさんもバアさんも雅樹さんのコト、心配してたよ?」
「うん、父達にも聴いたよ。うちのお祖父さん、何回か新宿の家にも電話くれたらしいね、」
笑って抱き上げてくれながら、雅樹は父の方を見て首傾げこんだ。
その視線を覗きこんで遮断して、父に構わず自分は促した。
「ね、俺ちょっと喉かわいちゃったよ、早く家に入ろ?おふくろ達も雅樹さんのこと待ってるね、」
「それなのに光一、ザック持って登山靴まで履いてるの?」
玄関へと歩きながら笑った言葉に、きっと雅樹は気付いてくれたと嬉しくなる。
嬉しい気持ち素直なまんま、気付いてくれたろう事に笑いかけた。
「おふくろ達に捕まっちゃうと、雅樹さんを独り占めするの遅くなるだろ?だから気付かれないうちに、行っちゃおうかなってね」
「そんなことされたら僕、奏子さん達に失礼な男だって思われちゃうよ、あれ?」
返事してくれながら、ふと気づいたよう雅樹が父を振り返りかける。
その貌へと頬よせ抱きついて、父の様子に気づかれないよう甘えて微笑んだ。
「大丈夫だね、おふくろなら俺がワガママ言ったってコト、ちゃんと解るね。ね、アイガーの話を今夜は聴かせてよね?」
「うん、たくさん話したい事があるよ。途中で光一、眠っちゃうかもしれない、」
「大丈夫だね、絶対に全部、ちゃんと聴くからね、」
会話に笑いあいながら玄関を潜った庭先、父はTシャツを脱いで笑っていた。
あのオナモミは秘密の場所に育つ特大サイズだから、さぞ痛痒かったろうな?
そんな5歳の記憶に笑って今、24歳の自分がアイガー北壁を登る。
―神々のトラバース、白い蜘蛛は落石注意で素早く、頂上雪田は転ぶな、そしてアイガーのキスだね、
雅樹が語ってくれたアイガーを想い、この先のポイントを想定する。
自分でも7年前に同じルートを登攀した、頭脳では何度も山図に道を辿らせデータを見つめ登っている。
初登した17歳の時は後藤とアンザイレンを組んだ、その後藤から「雅樹に匹敵する」と言われた英二と今、登っていく。
―雅樹さん、まだ及ばないとこ多いけど英二、ビレイヤーなら雅樹さんと近づいてるね?まだ1年も経ってないのにさ、あいつ天才だね?
ザイルに繋がれるパートナーへ賞賛が笑い、父が撮影したビデオを思い出す。
それは父と雅樹がザイルを組んだ7年間、高校2年生から23歳までの雅樹がクライミングする姿が遺されている。
山ヤの医師を志す雅樹の研究資料になればと7年ずっと撮り続け、コピーテープを光一にも贈ってくれた。
あのビデオを16年間、もう幾度なのか忘れるほど観て雅樹の動きも呼吸も記憶している。
だから自分には解る、まだ10ヶ月でも英二は雅樹のクライミングに近づいていく。
―来年にはもっと速く登れるね、その次はもっと良いクライミングが出来る、おまえとなら。そうだね、英二?
問いかけ笑って、岩つかむ左手を視界の端に見る。
手首にはクライマーウォッチ『MANASUL』が時を刻み、タイムと高度を示す。
予定より少し速いペースで昇ってきた、このハイペースも英二の澱みないビレイのお蔭だろう。
一昨日のマッターホルン北壁に続いて今日も、全く光一のペースを乱すことなく英二はハーケンを回収し、登ってくる。
その姿をトップの自分は見られない、それでも動きが赤いザイルに伝わり意識野の映像あざやかに見えている。
―ね、雅樹さんなら解かるね?あいつ巧いよ、後藤のおじさんと訓練してるとこ見たけど雅樹さんと似てる、ビデオ観たことないのにね?
こういうところも英二は不思議だ。
性格の根っこが雅樹と正反対、けれど思慮深い静謐は似ていて雰囲気や立ち姿がそっくりでいる。
全くの他人であるはずの二人、それでも二人とも同じに光一のアンザイレンパートナーになった。
この二人への感情は全く違うようで似ている、そんな想い見つめながらザイルの向うへ微笑んだ。
―さて、雅樹さん、英二。アイガーを口説き落とせるかどうか、こっからだね?
ふたりのパートナーに笑いかけ、狭い急峻な岩棚へと踏み込んでいく。
アイガー北壁終盤の第1関門「神々のトラバース」この急勾配のバンドで西へ平行移動をする。
慎重に素早い足許、岩壁を傷付けないよう通り抜けていくと、垂壁の窪みに氷壁地帯が広がらす。
―久しぶりだね、白い蜘蛛。今朝も美人だね、ちょっと通らせて?
常冬の北壁に住む「白い蜘蛛」夏にも吹き荒れるまま永久に凍りついた雪は、蜘蛛になって巣を構えている。
山の守主として住まう白銀の蜘蛛、彼女の機嫌が悪い時に訪れたなら落石を砲弾にして侵入者を拒んでしまう。
けれど今日という日と夜明け間もない今は通してくれるはず、そんな確信にハンマーをふるいハーケンを謳わせた。
コンコン、カンッ、キン、キンッ。
白銀の蜘蛛にハーケンが歌う、永い星霜を佇む者への畏敬を謳いだす。
太古の悠久を凍らす「白い蜘蛛」その年月の記憶に19年前を教えてほしい、そして自分に伝えてほしい。
あの大好きな山ヤはどんな喜びを謳い、ハーケンとアイゼンの軌跡を刻んでアイガーのキスを受けとったのか?
―白い蜘蛛、俺に教えてよ?19年前の山ヤの医学生のことを聴かせて、別嬪で明るくて優しい男だよ?変テコな写真家と登っていったね、
どうか大好きな人の「山」の時間を教えてほしい、そして自分に祝福のキスをして?
そんな想い誇らかにハーケンは謳い、赤いザイルに軌跡を描かせ蒼い壁へとアイゼンが立つ。
ハンマーを振りピッケルとザイルを操る、その指先は凍えることなく動いて三点確保で脚と登っていく。
末端の血流を支配するポイントに英二は薄手のカイロを貼ってくれた、お蔭で爪先まで冷えることなく自由に山を掴める。
こんなふう細やかな手法も英二は考えられる、そんなパートナーを誇らしく笑って静かな蒼白の世界を通過した。
―ありがとね、白い蜘蛛。このあと俺のパートナーがおじゃまするよ、19年前の医学生に負けない別嬪の山ヤだよ、通してやってね?
いま落石は起きることなく通過が出来た、どうか英二が通る時も静かに通してほしい。
その願いに笑って白銀の山守へとパートナーを頼み、そっと岩壁を撫でて祈ると次へ向かいだす。
このアイガーもマッターホルンと同様、氷で岩を固めた地質の為に北壁以外の地点でも落石が多い。
不意に風を吹かす気まぐれと同じに氷は溶けて抱擁をほどき、放れた岩は落石となってクライマーを拒む。
そんな気まぐれを起こす山を雅樹は「ピュアで依怙地な怒りんぼう」と穏やかに笑って話してくれた。
「アイガーの北壁ってね、山を真っ二つに割った断面みたいだろ?きっと北壁はね、アイガーの心を素のまま曝け出した所だって思ったよ。
だから相手を選んでしまうのかもしれないね?心は、誰にでも踏みこませるものじゃないから。そういうの、ピュアなほうが怒りやすいんだ、」
温かい懐に包んでくれる布団の中、綺麗な深い声が語ったアイガー北壁。
あのとき20歳の雅樹が見つめたアイガーの心と今、自分は向き合っていく。
―アイガー、あなたは雅樹さんには素顔を見せたんだね?だって言ってた、あの日は無風で落石も無かったってね。それは今も同じだね?
凍れる岩を透して笑いかけ登る先、頂上へ抜けるクラックは凍れる岩壁と氷雪が繰り返す。
太陽は朝に呼ばれて高度をあげていく、けれど蒼い陰翳の世界は陽光から遠く空気も凍てつく。
永久の時が育ます冷厳と岩壁に、人智の彼方から「山」の鼓動がゆっくり充ちていく。
―不思議だね、雅樹さん。本当に山は不思議で大きくて、きれいだね、
ふれる岩壁に19年の星霜と繋がり、二十歳の時を登った雅樹の背中に笑いかける。
この瞬間をアンザイレンザイルに繋ぎあい、共に登って行ける英二の存在に喜びは温かい。
そんな温もりくれる山が愛しくて、ハーケンを撃つ岩肌を少しでも傷少なく保ちたいと願う。
こうして登っていく記憶の対峙に16年が癒されていく、そんな優しい瞬間を与える「山」と恋しあう。
―ね、アイガー?ずっと俺の為に待っていてくれたね、雅樹さんの記憶を今日の為に抱いてくれてたね?英二と一緒に登る今日を信じて、
ゴーグル越しに垂壁の彼方、蒼穹の光と頂に笑いかける。
確実に昇っていく蒼い冷厳は悠久の記憶が眠る場所、そんな深い懐から天辺は近づいていく。
そして大いなる陰翳の時間は終わりを告げて、青と白の耀く頂上雪田をアイゼンは踏んだ。
―…アイガーの雪と太陽は、まぶしかったね?
うん、まぶしくって綺麗だったよ。おかげで僕、ちょっと焼けたんじゃないかな?
見つめた白銀まばゆい世界に、幼い自分の声と大好きな声が笑う。
あのとき話してくれた光景に今、自分は佇んでパートナーの鼓動をザイル越し感じている。
どこか懐かしく微笑んで雪田の急斜にピッケル立て、蒼穹と銀嶺の境界線に目を細めさす。
ゴーグルを透かして眩しい青と白、いま天へ昇っていく白銀の竜の背に光一は笑った。
「まぶしくって、綺麗だね?アイガーの背中は、」
笑った視界がすこし滲んで涙、ひとつだけ頬伝って落ちた。
そのまま音も無く雪へと吸われて消えていく、その彼方へ蒼いウェアの幻が立ってくれる。
今の自分より4歳若かった雅樹の背中、けれど自分より広やかに頼もしい背中が山頂から笑う。
あの背中に追いつきたくて16年、ずっと山を一番にして自分は生きてきた。
「今、天辺に行くよ?雅樹さん、」
大らかな明るさへ笑って一歩、確実にアイゼンを踏みだし登りはじめる。
ピッケルを携え万が一の時に備えて氷雪を踏んでいく、その頭上から夏の陽光は降りそそぐ。
いま7月の太陽は光が強い、けれど標高三千を超えた世界は永遠の雪に彩られ壮麗なまま佇む。
この下界は緑豊かな季を生命が謳歌する、その同じ瞬間にここでは氷雪きらめき無垢なる光が目映い。
―こことアッチは異世界だね、でも同時に存在している。不思議で大きくて、怖くて綺麗だ、
アイゼンに踏む雪に想い廻らせ、いつものペースで進んでいく。
その胸に腰に繋がれるアンザイレンザイルにパートナーも動き、もう頂上雪田へ着くと解かる。
このまま無事にふたりで天辺へ辿りつきたい、そして約束の夢を一緒に笑い合って山とキスしたい。
そんな願いと踏みしめていく背後、ふっと空気が揺れて光一は咄嗟にピッケルを雪面に立てた。
―英二!
意識が叫んで振り返る、腕はピッケルを握りしめ重心を深く落し込む。
その視線の先でナイフリッジの大気が煽られ、深紅のウェア姿が横転し滑りだした。
「っ、嫌だっ!」
叫んだ心ごとダブルピッケルで体を支え、体重を錘にして腰を落とす。
無意識のまま腕が動いてザイルを繰りだす、ダイナミックビレイにアンザイレンザイルを制動する。
急にザイルを止めれば滑落者のハーネスが引き攣れ、皮膚から筋肉、骨まで痛めつけてしまう。
その衝撃を緩めながらザイルを止めて滑落を終わらせていく、その手ごたえ確実に生まれだす。
けれど、握りしめるザイルの一本がその彼方、かちりと冷たい音に金具が外された。
―チェストのザイルを外した?
かすかな金属音と手応え、けれど瞬間に状況が解かる。
その判断に光一は氷原の下方へ、思い切り怒鳴りつけた。
「ザイルを外すなっ!」
肚から怒鳴った声に、ザイルが的確に止まりだす。
滑落スピードは緩やかになり、深紅のウェアは白銀に留まっていく。
そうしてザイルは完全に停止し、光一は大きく喘いだ。
「…止まった、…ぁ、」
ザイルを掴んだまま姿勢を立て、ピッケルを雪面から抜き取る。
赤いウェアとザイルを見つめたままザイルを手繰り斜面を下っていく、その視界で深紅が起きあがる。
白銀の上に赤い花が咲いたよう座りこみ、黒いグローブの掌は雪を払い丁寧に体を確かめだす。
―無事だ、意識も体もちゃんとしてる、無事だ、
安堵が喉を詰まらせるよう込みあげながら、けれど怒りたくて仕方ない。
その想いに唇引き結んだまま深紅の花を見つめ、傍らに立つと頭ごなし怒鳴りつけた。
「馬鹿野郎っ!」
ぶつけた声に、白皙の貌が見上げてくれる。
その左頬が赤らんで痛々しい、風に倒された衝撃で打ったのだろう。
それでもゴーグルも割れずヘルメットも装着されている、この無事を見つめる向う綺麗な低い声が謝った。
「ごめん、こんなところで転んで。俺の不注意でタイム遅くして、すまない」
「そんなこと言ってんじゃないよっ!」
そんなことで怒鳴ったんじゃないのに?
この誤解が悔しくて哀しいまま、パートナーの隣に座りこむ。
どうして解かってくれないと、もどかしい想いごと深紅の肩を掴んで向かい合う。
ゴーグル越しに真直ぐ見つめて、切長い目の意識が無事な事を確認すると、肚から怒鳴りつけた。
「アンザイレン外すんじゃないよっ!馬鹿野郎っ、何のためにザイル繋いでんだよっ!」
お互いに援け合うため繋ぎあっている筈なのに?
おまえのこと、俺には救けられないと判断したから、外そうとした?
そんなに俺は頼りないのか、俺のこと独りぼっちに置き去りにするつもりなのか?
―もう置いて行かないでよ、俺のこと独りにしないでよ、もう嫌だ!
心が叫びだして奥深く、8歳の子供がもう泣きだしている。
泣き声に16年前の晩秋が蘇る、黎明の暗闇と哀切が今また心を引き裂きだす。
あのとき無力な子供だと思い知らされた、大切な人を救えなかった無念と懺悔が蝕んで、今また痛い。
「ごめん、」
綺麗な低い声が謝って、その声に心が引き戻される。
それでも喉には重たく冷たい塊が苦しい、そんな想いにゴーグル越しから切長い目が微笑んだ。
「光一を巻き込むの、どうしても嫌だったんだ。俺は光一のサポートをするビレイヤーだ、光一の無事を守るっていうプライドがあるんだ。
だから巻き込みたくなくて俺、ザイルを外そうって思ったんだ。だけど、ごめんな?絶対に止めてくれるって光一のこと、信じるべきだな、」
自分の無事を守るプライド、その言葉は嬉しい。
けれど、だったら何故と想ってしまう、ねだってしまう。そんな願いに怒鳴り声が叫んだ。
「そうだよっ…信じろよ!俺のこと信じて約束を守れよっ…」
雅樹が消えて思い知った孤独が今、もう怖い。
信じあって結んだ約束が途切れる、その孤独が怖くて不安で苦しい。
どうか信じてほしい、自分の力をもっと信じて認めて傍にいてほしい、もう置いて行かれたくない。
どうかお願い、俺の無事を守ってくれるんなら、ずっと生きて傍にいてよ?
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(to be continued)
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