萬文習作帖

山の青年医師の物語+警視庁山岳救助隊員ミステリー(陽はまた昇る宮田と湯原その後)ほか小説×写真×文学閑話

冬夜日記:名残の一葉

2012-12-21 23:07:46 | お知らせ他
彩、華やいだ時の形見



こんばんわ、週末いかがお過ごしですか?

写真は津久井湖畔にて見つけた、ちょっと変わったワンシーンです。
湖面へ張り出すウッドデッキに立っていた、秋の名残に惹かれて撮ってみました。

これって自然と挟まったんでしょうかね?
それとも誰かが挿していった、お遊びなんでしょうか?
もし、この真相をご存知の方いらしたらご一報 or どなたか謎解きしてください。

あと少しで第58話「双壁K2・15」加筆校正が終わります。
で、日付変わる頃に続篇をUPの予定です。

取り急ぎ、




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第58話 双壁side K2 act.15

2012-12-21 00:09:37 | side K2
「迷」その本心を見つめて、



第58話 双壁side K2 act.15

標高3,026m、ミッテルレギヒュッテから見るアイガーは鋭利な頂で蒼穹を指す。
この東山稜も尾根は狭く、山小屋も土台を谷から支えた上に建築されている。
そして、この北側に切れ落ちた垂壁を自分たちは明日、登っていく。

―今回は俺たちだけだね、北壁は、

心裡に明日を見つめながら、打合せ内容に視線は手帳を奔っていく。
今回のアイガーは自分と英二以外はここで1泊し、ミッテルレギ東山稜をガイドレスで登攀訓練する。
その予定とルートファインディングに問題はないのか、昨日のマッターホルン北壁を登攀した記録から考えていく。

―たぶん高尾署のタイムだと、この予定は難しいね?12時間の山行した翌日なんだ、疲労も残ってるはずだね、

マッターホルン北壁で高尾署が遅れた理由は、ルートファインディングと確保支点の数、あとは登り方だった。
このうち先2点は七機の加藤たちの同行で解消されるだろう、けれど登攀技術の難点と疲労の残存が心配される。
やはり所要時間を増やした方が良い、そんな判断に光一は軽く手を挙げ発言した。

「所要時間を増やした方が良いかもしれません、ガイドレスのルートファインディングは難しいし、夜明け前30分は暗いですから、」

本当は高尾署の体力を考えての判断、けれど敢えてガイドレスと明度を判断材料に挙げておく。
既に本人たちが誰よりも遅れを感じている、それなのに今ここで指摘したら劣等感を刺激するだけだ。
そんな考えに示した提案に、リーダーの加藤が山図へ訂正を入れながら尋ねてくれた。

「所要時間をプラス30分、山頂8時半に変更します。ルートについてアドバイス頂けますか?」
「はい、最初の狭い岩場続きとタワーが連続する辺り、ここは強風も起きるので姿勢と重心に気を付けてください。とにかく集中を、」

応えて話しだすと、各自が山図を確認しながらメモを取り始める。
隣では英二もペンを奔らせている、そんなパートナーに微笑んで光一は続けた。

「FIXロープの辺りは足場がありません、そこでは腕力が頼りになります。なので足場があるポイントは脚力を使って腕力を温存して下さい。
FIXロープは50mの長さになる地点もありますが、救助訓練を想定すれば難しく無いです。下山の南稜ルートも上り下りの連続になります、」

下山ルートは自分たちも同じ南稜ルートになる。
東山稜も南稜も、鋸歯のようなエッジが連続する稜線であることは変わらない。
そのルートを脳裡に描きながら光一は自分たちの予定を告げた。

「私と宮田はこの後、アイスメーアに戻ってクライネシャデックからアルピグレンに入ります。ベースキャンプのデポはテント一式のみ。
天候確認の後、5時スタートで山頂に8時、下山は南稜ルート経由で9時半メンヒヨッホ、30分ほど休憩してユングフラウヨッホ駅に11時です、」

今夜は久しぶりのテント泊になる、だから今も装備を背負ってミッテルレギヒュッテまで登ってきた。
そのうちテントやコンロなど共有装備を英二が担当していることを、遠征メンバー全員が把握している。
いつものよう英二は軽々と背負い標高3,026mを笑って歩いていた、そんな姿への視線は「賞賛」だった。
こんな細かい所からも英二への信望を高めたい、そんな意図を想う隣から加藤が尋ねてくれた。

「私たち東山稜は8時半登頂の予定ですから、若干、国村さん達の方が速いな。でもアルピグレンBCのデポ回収は行きましょうか?」

リーダーの加藤はアイガー北壁登頂の体力消耗を配慮してくれる。
けれど英二と自分なら問題ないだろう、それを穏やかに伝える為に光一は一歩退いた言葉で笑った。

「自分たちでやります、それも訓練の内なので。でも疲れてダメそうだったら、お願いするかもしれません、」

全部を自分たちでやれる、そう言うのは「流石だ」と想わせると同時に嫉妬も買うだろう。
そんな考えにした表現へ、加藤は敬意の眼差しで笑ってくれた。

「本当に国村さんはタフだな、さすがです。俺たちも8時を目指して登頂しますが、遅れたら予定通りグリンデルワルトのホテルに集合で、」
「はい、登頂したら無線の連絡は入れますが、出れない状況なら無視してください、」

会話をしながら加藤の言葉遣いに変化が感じられる。
昨夜、ツェルマットのホテルでミーティングした時は殆ど敬語を遣っていなかった、けれど今は違う。

―たぶん高尾署の件があったからかね?

昨夜、夕食に遅参した高尾署の二人に対して自分は怒らなかった。
もちろんミスの指摘はした、技術の研鑽が訓練の目的であるなら是正は必要だろう。
この指摘内容は以前と変わらない、けれど語調や態度は随分と変わった自覚は当然ある。
そんな変化の一番大きな要因は英二から影響を受けたことだろう、それを加藤たちも気付いてくれると良い。

―俺が変ることで英二の評価も上がるってモンだね、一石二鳥だよ?その辺を加藤さんも気付いてるとイイけどね、

今回の海外遠征訓練のリーダーである加藤は29歳、自分たちより5歳上の大卒で年次は高卒任官の自分より1年上になる。
階級は光一が1つ上の警部補だけれど、警視庁山岳会でも加藤は1年先輩だから当然のよう態度は今まで「先輩」だった。
けれど今日の加藤は素直な敬意を示してくれる、そんな様子を視ながら打合せは終わりコーヒー1杯の後で英二と出立した。



午後9時、オーバーハングの岩壁は蒼く夜へと沈みこむ。
紺碧の中天に星は銀いろ耀いて、ベルニーズアルプスを静謐が充たしていく。
東の涯へ透明な朱金は沈みゆく、その方角にある故郷の山と優しい俤を見て光一は微笑んだ。

―周太、明日はアイガーの天辺に英二を連れていくよ?最高の写真を撮って、無事に君の許へ帰らせるからね。でも、明日の夜は、

明日、無事に下山して夜を迎えたら、自分は英二に告白するだろう。
周太が贈ってくれた紙袋を開き、恋人の時間を求め合いたいと告げる。そのことに心が痛い。
いま故郷は明日の午前5時、この8時間の時差を超えて大切な俤を見つめながらアイガーの前、英二と並んで座っている。
この隣を護りたいと願う、その願いはアンザイレンパートナーとしての想いが強くて、そして明日の夜に迷いが生まれる。

本当に自分は、英二と恋人関係になりたいのだろうか?

雅樹の山桜と周太を重ね、約束ごと今も雅樹を想い続けて、雅樹にまつわる全てが自分の宝物でいる。
いま見上げるアイガー北壁、その威容にも雅樹が登った瞬間の残像を追って、19年前の幻を見つめてしまう。
こんなに雅樹を想う自分、だから自分を疑ってしまう、英二への想いは「雅樹の身代わり」かもしれない?
そんな想いに周太への自責がこみあげて尚更に迷う、本当に自分は英二との夜を望むのか?

―雅樹さん、俺は本当に英二に抱かれても後悔しないのかな?

本当に現実になれば、周太が傷つかない訳がない。
あの紙袋を確かに周太は贈ってくれた、それが光一の背中を押す為と解っている。
その全てが周太の英二に対する深い愛情と、自分に対する願いだとしても、周太の傷つくことを案じてしまう。
こんな全てへの回答を周太はくれた、富士山を見上げる森で言ってくれた、その言葉を信じないことは出来ない。
明るい木洩陽のなか笑ってくれた黒目がちの瞳、あの眼差しの無垢な強靭を記憶に見つめて光一は微笑んだ。

―結局のとこ、俺がいちばん臆病ってことなんだろうね?雅樹さんのこと、今も待っていたいって未練だね、

自分の弱さが露呈する、それが可笑しくて楽しくもある。
ずっと16年間を向きあえなかった傷に、こうして向きあっている自分が愉快で良い。
そんなふう笑い飛ばして見上げたアイガーへ、心の芯から光一は笑いかけた。

―ね、アイガー?あなたのことを「人食い壁」ってみんな言うけど、プライドがちょっと高いだけだね、俺と一緒だね?

nordwand北壁、そして一字違いでmordwand殺人岩壁
いま見上げる蒼黒く沈む闇の壁に、数多のクライマーたちが挑んでは死へと墜ちた。
そんな山の気持ちは解かる気がする、自分も今まで近寄りすぎる者を散々払い落としてきたから。
この自分に触れていいのは雅樹と「山」だけ、そう想い続けた涯に出逢えたのは英二だけだった、この気持ちに山へと語り掛けた。

―あなたは19年前、雅樹さんに恋して良いタイムで登らせたよね?きっと英二のことも気に入るよ、だから無事に登らせてやってよね、

肚の底から山に笑いかけ、アンザイレンパートナーの無事をねだる。
そうして見上げる頂はアルペングリューエン耀いて、薔薇色の光彩は羞んだ紅潮を想わす。
マッターホルンよりずっとツンデレな恥ずかしがり屋、そんな山に笑って光一は隣をふり向いた。

「英二、なに考えてる?」

笑いかけてマグカップの熱いスープを啜りこむ、その視界に英二が振向いてくれる。
ほっとする熱が喉すべり落ちる向こう側、白皙の貌は凛々しい緊張がいつもより堅い。
どうしたのかな?そう見つめた先で英二は正直に想いを吐露してくれた。

「ここってさ、有名なクライマーが沢山登ってるだろ?みんな俺よりずっと経験も才能もあって、でも中止したり亡くなったりしてる。
そういう場所に俺が登っても良いのかな?って考えてた。まだ1年も山の経験が無い、そういう俺が登るのは烏滸がましい気がしてさ、」

まだ1年どころか10ヶ月、この短期間で英二はアイガー北壁に挑むだけの実力を身に着けている。
そう判断したから後藤と蒔田も経験年数を問わずに参加させ、英二に実績と信望を積ませようと考えた。
その期待に応えられるのか?そんなプレッシャーも正直なまま英二は口にした。

「本当はさ、今回の訓練に俺が参加することは、反対意見の方が多かったんだろ?青梅署以外では。それでも副隊長たちは信じてくれた。
それは俺にとって本当に嬉しいんだ、だから余計に今、ちょっとプレッシャーって言うのかな?失敗できないって肩に力が入ってるんだ、」

期待とその反対意見、信頼と不安、羨望と嫉妬。
そんな視線を受ける立場は容易ではない、それを初任総合が終わったばかりで英二は背負っている。
こうした英二の現実が決ったのは1年前、警察学校の山岳訓練で英二が周太を救助したことだった。
初心者が要救助者を背負い雨後の崖を登りきった、それが英二の素質を示し今に繋がっている。

―だから英二の場合、本人も周りも想定外すぎるんだよね、俺と違ってさ、

自分は警視庁に入る前提が警視庁山岳会長の後継だった、その為に実績を作って任官している。
そういう事情だから自身も周囲も最初から覚悟していた、けれど英二の場合はダークホースと謂うしかない。
本人も周りも今回の遠征訓練に対して強張ることは仕方ない、そう覚悟したとおりに加藤たちから意見もされている。
たぶん今の英二は体から強張っているだろうな?心ごと少しでも解したくて光一は笑いかけた。

「そりゃ無理ないかもね?どれ、」

スープを飲み干しカップを置くと、立ち上がって英二の背後に回りこんだ。
見おろすダークブラウンの髪に残照が艶めく、その耀きが宵の明星を想わせる。
ホント髪ひとすじまで別嬪だね?そんな感心をしながら声かけた。

「ほら、カップこぼさないように気を付けてね、いくよ、」
「え?」

なんだろう?そう見上げてくれる貌が白く薄暮へ浮ぶ。
その切長い目に笑いかけて、英二の両肩に手を置くとゆっくり揉み解しはじめた。

「うん?ちょっと凝っちゃってるね、下山の後と昨夜と、ちゃんとマッサージした?」
「したけど巧くないんだろな?ありがとな、」

笑って前を向き礼を言ってくれる、その気配が懐かしく温かい。
いつも雅樹にもこうしてマッサージしたな?なんだか嬉しく微笑んで今のパートナーに率直な気持ちを告げた。

「前にも俺は言ったよね?確かに山は卒配からで10ヶ月だ、でも毎日この俺がヤる訓練に付きあえるの、おまえくらいだね。
正直に言うとさ、おまえが付いて来れるなんて最初は思っちゃいなかったよ。でも、おまえは一度も弱音を吐かずに付いてきた。
いっつも笑って、山でも寮でも俺のペースに合わせてくれる。それで昨日も予定時間通りに登ってくれた、英二にしか出来ないね、」

初めて逢った時、雅樹と似ていると思ったけれど「山」の適性は未知数だった。
けれど10ヶ月に英二の素質と努力を見つめて確信は今もう深い、それと同じよう周囲も認めるだろう。
その予想に違わず今日もミッテルレギヒュッテで打合せの後、七機の村木は英二への呼び方が変わっていた。

―宮田くんから「宮田さん」になってたよね、ま、村木さんは宮田の次に若手だけどさ、

七機の村木は大卒任官4年目26歳、今2年目の英二に次いで年次が若い。
年齢も2歳差で真面目な明るい性質だから、今回のメンバーでは最も英二に馴染みやすいだろう。
そう考え廻らせ話しながら揉んでいく肩が徐々に解れてくれる、このまま精神的にも楽になってほしい。
そんな想いに微笑んで手を動かす肩越しに、英二は振向き笑いかけてくれた。

「ありがとう、俺のこと信じてくれて、」
「だよ?ホント俺には、おまえしか居ないんだからね。自信持ちな、絶対に明日も完登出来ちゃうね、」

本当に自分には、英二しかいない。
その本音に笑いかけた光一へ、前を向いた綺麗な低い声が訊いてくれた。

「光一、お祖父さんとお祖母さんにマッサージするんだ?」
「まあね、二人共ぼちぼちイイ歳だしさ。おやじとおふくろにもしてたね、」
「あと田中さんと、雅樹さんもだろ?」

質問に鼓動ひとつ、心を叩く。
ついさっきも北壁に見つめた俤を想い、素直に答えた。

「うん、山の時はよくしてたね、」

告げた答えに英二の体が解れて、緊張が寛いだことが解る。
これなら明日は大丈夫だろう、嬉しくて微笑んだとき端正な笑顔が振向いた。

「光一、終ったら交替しよう?そんなに俺は巧くないかもしれないけど、ちょっとでもお返しさせて?」

どうして、英二?

ぽつんと心が呟いて、16年前の声が記憶から微笑んだ。
いつも雅樹が言ってくれた台詞を今、そっくりにアンザイレンパートナーが言ったから。

―…ありがとう光一、交替しよう?そんなに僕は巧くないかもしれないけど、ちょっとでもお返しさせて?

奥多摩の山で、富士で穂高で、ふたり山に連れ立った後は必ずマッサージし合った。
いつも長い指が与えてくれた優しさが蘇える、懐かしさと愛惜が温められて瞳に昇りだす。
あのころ笑い合った「約束」の1つを見上げている今、言われたら心揺らされずにいられない。
どうして英二はいつも、こうなんだろう?途惑いながらも素直に嬉しいまま、光一は笑った。

「なに、おまえ?雅樹さんと同じ言い方して、」
「あ、そうなんだ?」

切長い目が穏やかに微笑んで、綺麗な笑顔ほころばせてくれる。
その笑顔がただ嬉しくて優しくて、想い素直なまま英二に抱きついた。

「そうだよ?ホントおまえって、不思議なヤツだね…なんでいつも、」

頬よせた頬を撫でるのは、深い森の香。
抱きしめた肩は鍛錬に逞しく広やかで、ウェアは深紅と黒。
香もラインも色彩も、どれもが「英二」だと教えてくれて、それが嬉しい。
いま抱きついている人が大好きで、そんな想いごと頼もしい腕がやわらかく抱きしめてくれた。

―ほっとするんだよね、英二にくっつくと…こういうの、えっちしたら変わっちゃうのかな、

温かな懐に寛ぎながら不安かすめて、相反する二つに涙こぼれる。
この温もりを失いたくない、そんな本音が8歳の子供のまま泣いて踏み出すことが怖い。
こんな途惑いは16年前のとき抱かなかったのに?そう気付かされて雅樹と英二の差に微笑んだ。

―雅樹さんのコト信じ切ってるからだね、俺のこと絶対に拒絶しないって…でも英二だと怖い、

出逢って10ヶ月、その月日では「絶対拒絶しない」と信じきることは未だ難しい。
だから昨日の下山後、英二がホテルの部屋から出て行ったとき、拒絶されたようで怖かった。
そんな不安が新しい関係を拒ませる、もう何度も考えて覚悟してきたのに明日の夜が今、怖い。

―怖いね、俺。北壁よりも告白のほうが怖いよ、アイガー?…雅樹さん、俺って臆病だね、

そっと山へ微笑んで懐かしい俤に笑いかける。
こんなふうに自分は今も雅樹に甘えたくて、そんな想いごと英二に抱きついてしまう。
本当に自分はどうしたい?この迷い真直ぐ見上げた北壁は、穏やかな沈黙のまま紺碧の黄昏に佇む。



“Eeger” アイガー 標高3,975m。

グランドジョラス北壁ウォーカーバットレス、マッターホルン北壁と並ぶ三大北壁として知られる。
いま登っていくアイガー北壁は高差1,800m、この高さと屏風状の地形に太陽光も届かぬ垂壁は冷厳が夏も蹲らす。
そして大西洋の荒天から影響が大きい、またヨーロッパ平原の北東風をバックネットのよう受けるため突発的暴風が凄まじい。
こうした地形と立地による悪天候の多発は落石の頻発と夏の吹雪すら起こさせ、クライマーの命を呑みこみ「死の壁」と呼ばれる。
不意に風の衣を動かしては人間を振り落す、そんな気まぐれの誇り高い山は自分と似ていて、愉快な想い登っていく。

―マッターホルンは雲だけど、あなたは風だね?自由に気ままに動き回ってさ、俺も同じだよ。似た者同士だね、だから素顔でいてよ?
  似た者同士なら恥ずかしがることもないね、だから俺と素顔でキスしてよ?19年前、すっぴんで雅樹さんと恋したみたいにさ?

声なき言葉で呼びかけながらハンマーをふるう、そしてハーケンは誇らかに歌いだす。
高い金属音に岩壁は楔を受入れていく、そしてカラビナとザイルをセットし確保支点を造り、登っていく。
見上げる傾斜は雪も積もり難いほど垂直に切れ落ちて、ゆっくり明けはじめる曙光に黒い山は耀きだす。

―アイガー、雅樹さんを憶えてるね?天使の笑顔した山ヤの医学生だよ、あなたのこと嬉しそうに話してくれた、だから俺は逢いに来たよ?

8歳の夏、梓川の畔で聴いたアイガー北壁。その3年前にも登頂した直後、雅樹は5歳の自分に話してくれた。
まだ自分は保育園児でなんのキャリアも無くて、医学部2回生の雅樹は三大北壁を2つと6,000峰2つに記録を持っていた。
けれど光一を子ども扱いせずに一人前の山ヤとして対等に話してくれた、そんな雅樹をもっと大好きになった。
幸せそうにアイガーを語る笑顔は心にあざやかで、今も登っていく先に蒼いウェアの背中を見つめている。

―雅樹さん、今日も一緒に登ってるよね?約束を叶えてくれてるね、

登っていく垂壁に集中しながら心深くは呼んでいる。
懐かしい笑顔と綺麗な深い声、穏やかで明るい眼差し、抱きしめてくれる懐の温もり。
そして山桜の香が時おり、ゆるやかな風になって頬を撫で髪を揺らし、そっと吹きぬける。
この気配に信じている、自分のアンザイレンパートナーは今も変わらずに、この心に生きて共に登っていく。

―信じてる、誰が違うって言っても俺は信じてる、俺の隣にちゃんと帰ってきて一緒に登ってるね?英二のことも守ってくれてるね?

祈りに笑いかけ登っていくのは、数々の栄光と悲劇を風の衣に纏わらせる岩壁。
けれど自分が見つめるのは19年前に駆け抜けた背中と、16年前の約束と夢と、大いなる垂壁への畏敬の想い。
モルゲンロートに耀く山の喜びを想い、手招くようオーバーハングする岩に導かれ、集中は深く壁を読みながら意識に雲と風を聴く。
三点確保で登攀して岩肌を撫で、ハーケンを撃ちこんでランニングビレイをとり、山懐に抱かれる歓びに笑ってハーケンの歌を聴く。
そうして山と向き合う胸と腰には赤いザイルが繋がれて、その先にアンザイレンパートナーの鼓動と呼吸が真摯に伝わってくる。

―英二、おまえを信じてる、生きて俺をビレイ出来るのは英二だけだね。雅樹さんの夢を叶えられる唯ひとりだ、雅樹さん、英二を護ってよ?

心の底から呼びかけながら登っていく、その右から太陽が生まれる。
陽光の届かない雪と氷と岩、蒼と白と黒の世界にも夜は薄れて青い翳の一日が目覚めだす。
明るんでいくゴーグルの視界に吐息は白く、規則正しいリズムで燻らせ朝の訪れを知る。
そして進んでいく岩壁の先、刻々と華やぎだす暁は蒼穹に向かうルートを顕わしだす。

この岩の向こう、約束の「点」はもう直ぐに。





(to be continued)

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