「明」 約束の向こうへ、

第58話 双壁side K2 act.10
山頂は、銀色だった。
紺碧の天穹は銀砂が輝き、氷雪は星の火を映す。
近く遠く連なっていくアルプスの稜線おぼろに光る、遥かな空に黎明はうずくまる。
ファインダーに覗いた夜の銀嶺、その前に立ち見つめたレンズの向こうにシャッターが響いた。
カシャッ…
機械音が鳴り、ラストの証拠がデジタル一眼レフに納められる。
ゴーグルを外したままの貌に冷風は撫で、夜明けの近さが体感温度から迫りだす。
標高4,478mから見遥かす東の涯ひとつ、暁を呼ぶ星は輝度を増して天球を支配する。
金星またの名を “Lucifer” 宵を呼び、暁を起こす明かる星。この星を見つめる意識に北壁の音を掴まえる。
キン、キン、カンッ。
ハーケンが、最後の歌を終えた。
山頂に繋留するザイルへ星明り揺れて、遠い故郷の方角から空に光が漂いだす。
銀の明るむ雪を踏みカメラの固定を外し、赤いザイルの向こうへ願い祈る。
いま繋がれているアンザイレンザイルに鼓動の気配は、着実に近づく。
そして、見つめる北壁の縁、赤と黒のグローブが雪を掴んだ。
―英二、
心の真中が名前を叫んだ視界、はるかな稜線から黄金の光が生まれる。
モルゲンロートの薔薇色が凍れる頂を燃やしだす、ナイフリッジゆるやかに氷河の風が吹く。
赤いザイルは繰られ、アイゼンが氷雪を噛む音が近づき、そして暁の明星の下に深紅のウェア姿が顕われた。
「英二!」
声が名前を呼んで、腕を伸ばす。
明けていく暁の雪嶺に深紅と黒の長身は立ち、その横顔が振向く。
銀の星と黄金の曙光に白皙の微笑まばゆい、その笑顔が嬉しくて光一は思い切り抱きしめた。
―無事に登れた、英二と約束を登れた
北壁で見つめていた願いと祈りが今、喜びに温かい。
抱きしめる背中を大きな掌が抱えてくれる、ネックゲイターから薫らす気配が嬉しい。
深紅の肩に回した左腕の『MANASUL』を見、光一はタイムへの祝福を笑った。
「いま夜明けだよ!おまえ2時間ジャストだねっ、」
ふわり森の香が頬撫でて、ゴーグルを透かして見つめ合う。
切長い目は幸せに笑って、アンザイレンパートナーは促してくれた。
「光一、証拠の写真撮らないとダメだろ?おまえの場合タイムトライアルだし、すぐ撮らないと、」
登頂した証拠写真、これがないと記録は公認されない。
本人と頂上からの展望を写し、撮影した場所が解かるように写真で記録する。
この写真に不備が視止められ否認されたケースもある、だから英二の写真をきちんと撮ってあげたい。
場所と時間がいちばん解かるアングルはどこかな?思案と笑って光一は英二のゴーグルを外した。
「うん、だねっ。ほら、英二?」
声を掛けながらカメラを示し、少し離れてポジションを決める。
そのままレンズを英二に向けて、レンズ越しに指示をした。
「時計の文字盤コッチに向けな、顔の横に持ってくるカンジでね?ほら早くやってよね、撮るよ?」
「え、あ?」
言われるまま左手の甲を向けて、英二はレンズを見てくれる。
なにか途惑うような貌、その背後には暁の明星が光芒を放ち耀いていく。
この星と連なる銀嶺に山頂の雪を入れて撮れば、時間と場所が解かり易いだろうな?
そう思案して覗いたファインダーの向こう、本当に天使が地上に堕ちて驚いた、そんな貌が光一を見つめた。
―驚き顔も別嬪だね、ホントにルシフェルが堕天しちゃった瞬間って貌だ?
モルゲンロートの輝きのなか、目覚めの金星と白皙の貌が煌めいていく。
迎える朝に耀く至高の“Lucifer”その名を冠する美貌が今、深紅の登山ウェア姿で山頂に降り立った。
そんなふう想わす美しいパートナーに微笑んで、光一はシャッターを切り愉快に笑った。
「あははっ、おまえビックリ顔になっちゃったよ?撮りなおそうね、ほら、別嬪の笑顔やれよ?」
「ちょっ、待てって光一?」
驚いた貌のまま、深紅と黒のグローブの手が制止する。
なんだろうね?そう見つめた先で英二はウェアの内ポケットから、コンパクトデジタルカメラを出した。
「俺より光一の写真だろ?その為に俺、メモリーカード新しいの買ったんだけど、」
いつも証拠探しにも使うカメラを、英二は今回持ってきてくれた。
それが意外でなんだか可笑しい、愉快なまま光一は高らかに笑いだした。
「あははっ、おまえカメラ持ってきてたんだね?だったら周太の土産に写真、自分でも撮ればいいのにさ?」
笑いながら微かに心を刺して、けれど可笑しい。
大切な人への土産写真を撮れる癖に、どうして今までカメラを出さなかったのだろう?
こんな疑問も可笑しくて笑っていると、綺麗な低い声が困ったよう教えてくれた。
「だからな、おまえの記録用だから他のは撮ってないんだよ?時間もちゃんと現地時刻でセットしてあるんだ、」
俺の為だけに持って来たの?
そう言われて心が傷んでしまう、期待に疼いて泣きたくなる。
それでも今は登頂の昂揚に弾むまま、光一は綺麗に笑って問いかけた。
「へえ?いつのまにそんな準備ヤってた?」
「ツェルマットに着いてすぐ、おまえが風呂入ってる時だよ。ほら時計、こっちに向けろよ、」
説明しながら焦ったようカメラを向けてくれる、そんな様子が可笑しくて、けれど嬉しい。
きっと自分が証拠写真を撮っていないと思っているな?この予測が可笑しい、そして今は言う通りにしたい。
「おまえに写真撮ってもらうの、お初だね?ちゃんと美人にとってね、ア・ダ・ム、」
想うままを告げてレンズ越し、大好きな人へ笑いかける。
ヘルメットを脱いで髪を空気にさらす、吹きぬけるナイフリッジの微風に髪は靡いて心地いい。
写真を撮られるのは何年ぶりだろうな?そう思う向うにシャッター音が響いて、光一はザイルパートナーに一眼レフを示した。
「準備と心配ありがとね、でもさ?俺、登ってすぐ自分で撮ってあるからね。タイムレコードも『MANASLU』で計測してるしさ、」
開いた一眼レフの再生画面を、切長い目が見てくれる。
送っていく画面は山頂360度ぐるりの銀嶺を映しだし、空の明度も移ろっていく。
きちんとクライマーウォッチ『MANASLU』の文字盤を向けた写真も見せて、光一は笑いかけた。
「これ、連写で撮ったからさ。ちゃんと太陽が昇ってくるの解かるだろ?データには時間情報も入ってるしね、」
「うん、これなら解かるな、」
頷いて微笑んでくれる横顔が嬉しい。
その眼差しが光一を見、綺麗な低い声が尋ねてくれた。
「登頂してすぐの写真は?」
本当に光一の登頂を心配してくれる、その貌にビレイヤーとしての誇りが強い。
出逢った頃には無かった強靭の輝きに笑って、光一は手許を進めた。
「ちょっと待ってね、これ新しく撮ったのから表示だからさ、」
操作していく画面の映像は時間を遡らせ、登頂直後の写真が現れる。
夜に鎮まる東空の明星と黎明、そして光一の笑顔が映った画面に笑って英二は尋ねた。
「光一、星明りの頂上は綺麗だった?」
「うん、きれいだったね、」
さっき見た空を想い笑った隣、綺麗な笑顔ほころんだ。
穏やかで嬉しそうで、けれど強い眼差しが光一を見つめて綺麗な低い声が訊いてくれた。
「光一、俺にも『MANASLU』のタイムレコード見せて?」
「うん、見てよね、」
笑って頷きながらクライマーウォッチを操作していく。
そして示されたタイムレコードをパートナーに見せ、光一は朗らかに笑った。
「ちょっと世界記録には及ばなかったケドね?イロイロと条件も違うしさ、でも俺は嬉しいね、」
マッターホルン北壁、標高差1,124mシュミッドルートを完登した世界最短記録は1時間56分40秒。
その記録は2009年1月13日に単独登攀で樹立された、だから今回の登攀記録とは条件の相違も多い。
けれど、そんなことより「約束の2時間」が大切で、記録も名声も、あの「反抗」すら今はどうでも良い。
ただ幸せに笑いかけた先、綺麗な笑顔が長い腕を伸ばし惹きよせて、光一を抱きしめた。
「おめでとう、光一、」
名前を呼んで笑いかけてくれる、そのシーンに諦めた夢が共鳴してしまう。
この今の瞬間への想いごと、光一はアンザイレンパートナーに笑いかけた。
「俺ね、おまえとアンザイレンして、この時間で登れたから嬉しいんだ。ほんとに、うれしいんだ…」
ふっと瞳に熱が奔り、言葉を途切れさせ頬を伝う。
いま16年の祈りが熱に変っていく?そんな想いと笑った隣から温かな笑顔が言ってくれた。
「うん、俺も嬉しいよ。きっと雅樹さんも喜んでるよ?ずっと雅樹さん、俺と一緒に登ってたから、」
どうして?
どうして英二、そんなこと言ってくれる?
「どうして、そうおもう?」
問いかけ微笑んだ瞳は、ただ涙こぼれていく。
もう富士の前で終えてきた山桜の夢、16年縋り続けた叶わぬ望みたち。
あの8歳の幼く大人びた夢はもう終わらせた、その残滓が融けだす涙に英二は告げた。
「信じられないかもしれないけど、回収する時ハーケンとカラビナが冷たくなかったんだ。これって不思議だろ?
だから思ったんだ、このルートもタイムトライアルも雅樹さんとの約束なのかなって。この約束のために光一、俺と登ったろ?」
信じられない、なんて無い。
蒼い冷厳の壁にも「冷たくないハーケン」その言葉に信じたい、縋りたいと願ってしまう。
これは非科学的だと解かっている、それでも自分は信じたい。この切なる願いへと綺麗な笑顔は言ってくれた。
「光一、本当だよ?雅樹さんは約束を果たすために、俺と一緒にアンザイレンして光一をビレイしていたよ?」
ほら、約束を叶えてくれた。
雅樹は光一を大切に想うから今、約束のために来てくれた。
ずっと山を共に登りたいと言ってくれた、その為に必ず帰ると約束してくれた。
あの約束を「山」に叶えてくれる?そんな確信に心の真中、いま天辺に立つ山への誘惑が愉快に微笑んだ。
―ね、アルプスの女王さま?雅樹さんの約束を叶えてくれたね、愛してるよマッターホルン…ね、雅樹さん?
山に呼びかけ、そして約束の人を想いが呼ぶ。
いま叶っていく約束と夢の瞬間に幸せが笑い、涙の向こうで暁は輝く。
きらめいていくアルプスの夜明け、その隣に立ってくれるアンザイレンパートナーへ光一は誇らかに笑った。
「当然だね、俺のアンザイレンパートナーは絶対に約束を守る男なんだ、ふたりともね、」
ふたりとも、その言葉に約束は微笑む。
この想いに応えてよ?そう見つめた先で隣は綺麗に笑った。
「そうだよ、光一。全部の約束を叶えるよ、最高峰も奥多摩も、ずっと一緒に登ろう、」
ずっと一緒に登ろう、この約束が愛おしい。
この愛しさを告げる貌を曙光は照らし、あざやかに一閃の赤い頬傷が甦る。
熱を帯びると浮ぶ傷痕は山頂の昂揚には必ず顕われる、この赤い一すじに光一は微笑んだ。
―富士の竜の爪痕、マッターホルンでも浮んだね?なんか祝福みたいだね
冬富士の雪崩が刻印した傷痕に、母国の山からの祝福が過去と明日に微笑んでくれる。
この瞬間と16年の星霜と想いを、ひとつの涙に融かして光一は綺麗に笑った。
「うん、生涯のアンザイレンパートナーやってよね?約束、絶対に護ってもらうよ?」
今ひとつ終わる約束が生みだす新しい約束、その祝福にアルペングリューエンが足許を薔薇色に耀かす。
白銀の竜の背が連なるアルプス、その女王を謳われる山の頂に目覚める瞬間に光は充ちる。
その光輝へと共鳴するように、遥か東の蒼穹で明星は輝いた。
“Lucifer”
夜を呼び、暁を覚ます光輝と高潔の星。
それは至高の天使かつ堕天使にして魔王、その本質は「光もたらす者」純粋に激しい耀きの華。
その名前は今、この隣で笑う竜の爪痕を持つ男にこそ相応しい。
―根暗のクセにホント、まぶしくって強くって、至高の男だね?
見惚れる想いに笑って、光一はザイルパートナーへレンズを向けた。
ファインダーの向こうで真直ぐ見つめてくれる、その強靭な意志の瞳は熱情に煌めく。
天使のよう魔王のよう輝く自分のアンザイレンパートナー、この男が好きだと笑ってシャッター押す指が、ふるえた。
―雅樹さん…雅樹さん、今、英二の写真を撮れて嬉しいよ?でも、やっぱり雅樹さんの写真だって撮りたかった、俺が自分で、
あなたの生きた笑顔を、あなたが幸福と栄光に耀く瞬間を撮って、永遠にとじこめたい。
その願い正直に光一は、今この瞬間を生きてザイルを繋ぐ男の輝きを写真に映しこんだ。
もう二度と、あの哀しみを繰りかえさない―そう誓う想いごと今、レンズは綴る。

午後、東稜ヘルンリ尾根から雲が湧きだした。
店から通りへ出ると、白雲まとわすマッターホルン東壁に視線がいく。
山肌に上昇気流となった風は雲を生み、湧き起こる水蒸気は噴煙のよう空へ昇りだす。
濛々と昇華していく純白とグレーの陰翳たち、その雄渾な水の還天から稜線の強風が思われる。
こうした光景は好きだ、けれど今あの場所にいる人々への懸念が傷んで、光一は紙袋を抱きしめた。
「やっぱり雲が湧いたね?午前で降りられて、俺たちは良かったけど、」
氷食鋭鋒を見上げる隣、紙袋を提げた英二も山を仰ぐ。
下山した6時間ほど前は晴れていた稜線、けれど今は煙幕の彼方に隠れていく。
あの雲で起きている懸念を切長い瞳に映して、落着いた低い声が言った。
「うん、高尾の2人が心配だな?」
今回の遠征訓練に参加した高尾署の2人から、まだ連絡がない。
今朝の登攀開始から10時間が過ぎて14時、いま午後の湧雲に状況を予想させてしまう。
山岳救助隊員である以上は無事に切り抜けてほしい、そう願いながら見た無線機には連絡の形跡もない。
「無線にも連絡、まだ無いね、」
手に持った無線機を英二に示し溜息が零れた。
第七機動隊と五日市署は今頃ホテルに戻っただろう、けれど高尾署の連絡だけが無い。
それでも遭難という事は無い、そんなふう信じて歩く隣から穏やかなトーンが言ってくれた。
「エアー・ツェルマットのヘリコプター、遭難救助の動きはまだ見せてないな?きっと遭難はしてない、高尾の2人も同じ救助隊だろ?
きっと北壁の途中でビバークしているか、ソルベイヒュッテの辺りにいるんじゃないかな?きっと落ち着いたらさ、ちゃんと連絡くれるよ、」
英二の言う通りだろう、おそらく高尾署コンビは無線機も故障している。
それでも本人たちが無傷なら構わない、きっと大丈夫だろうと願いながら光一は微笑んだ。
「だね、緊急措置くらいキッチリ出来る人たちだしね?杞憂なんざ失礼ってモンだよね、」
「そうだな、」
笑って頷き歩いていく街は高い陽光に明るくて、スイスの夏らしい日の長さを感じさす。
いま7月のスイスは日没21時、それまで暗さに迷わされる心配は無い。それでも眼前のヘルンリ稜に雲は起こっていく。
マッターホルンの午後は岩肌の地熱が氷を溶かして、岩同士の結合を解いて落石を起こしながら大量の雲を吐く。
あの雲のなかは霧と雷電に阻まれ降雪の可能性も高い、それに填まったポイント次第では今日中の下山も難しい。
そんなマッターホルンでは登攀に時間が懸るほど疲労と冷気に体力は奪われ、天候悪化と落石に巻き込まれやすくなる。
―無事に下山できるはずだね、今朝は誰にも翳りは無かった、大丈夫
言い聞かせるよう考え廻らせながらホテルに戻ると、明るい午後の光に日章旗の純白がまぶしい。
マッターホルン北壁登頂者へ敬意を示す国旗掲揚に、翻っている馴染みの旗が面映ゆく素直に嬉しい。
この旗には第七機動隊と五日市署のパーティーも当然ふくまれる、それに高尾署も加わってほしい。
そんな想いと見上げた隣から、きれいな低い声が笑いかけてくれた。
「光一の旗だな、」
純白に深紅の太陽を象る旗。
見なれた母国のシンプルな旗に、アンザイレンパートナーは綺麗な笑顔ほころばす。
こんなふうに自分のために笑ってくれるのが嬉しくて、大好きな笑顔の頬を小突いた。
「おまえの旗でもあるね?俺が登れたのは、おまえの支えあってこそだよ、」
小突いた指に、なめらかな温もりふれてくれる。
温度、感触、そして笑顔が「生きている」と知らせて温かい、そして愛しい。
―生きてる、英二は。俺の隣で生きて笑って、一緒に山から帰って来れたね…ありがとう、雅樹さん、
英二は、一緒にいてくれる。
きっと雅樹も一緒にいる、けれど雅樹の体温には触れられない。
でも英二は生きて温かで、次も共に山を登って自分をビレイしてくれる。
それが嬉しくて幸せで、自分がどれだけ待っていたのか改めて気づかされて、我ながら可笑しい。
どうも自覚以上に自分は甘ったれかね?そんな思いめぐらせながら入ったエントランス、見知った顔が振向いた。
「国村さん、宮田くん。おめでとう、」
ぱっと気さくな笑顔が明るんで、頼もしい掌を握手に差し出してくれる。
第七機動隊山岳レンジャー第1小隊のコンビが、無事に戻ってきた。
また無事に再会できた、その幸運に光一は微笑んだ。
「加藤さんと村木さんも、おめでとうございます。前より記録を短縮したんですよね?」
「まあな、でも国村さん達の記録には敵わないよ、」
すこし日焼けした笑顔と握手し合う、その雰囲気は温かい。
加藤の隣から村木も英二に掌を差しだし、握手に笑いかけた。
「おめでとう、宮田さん。すごい記録ですね、本当に山は1年なんですか?」
やっぱり皆そう想うよね?
そんな納得に笑った前から、加藤が教えてくれた。
「国村さん達が登るのを、下から途中まで見ていたよ。二つのヘッドライトが互角のスピードで登ってた、速くて驚いたよ?さすがの記録です、」
今回も英二は、自分に着いて来てくれた。
それを加藤たちも見て確かめた、この誇らしさに光一は明るく笑った。
「宮田がビレイしてくれるから私も集中して登れました、あいつのお蔭です、」
優秀なビレイが確保してくれる、この安定感は大きく登攀に影響する。
それを的確に務めた実績が英二に1つ築かれた、この事は英二のバックアップになるだろう。
同じよう明後日のアイガーでも叶えたい、そう思案しながら加藤たちと夕食の同席を約束し、英二と部屋に戻った。
ぱたん、
扉の閉じる音を背後に聴いて、紙袋をチェストの上に置く。
すぐ開いて一昨日と同じワインボトルを1本出して、冷蔵庫へと仕舞う。
いま買物はとりあえず済ませてきた、この後はアイガー北壁の打ち合わせを英二としたい。
―明後日のアイガーは天気も良い、あとはルートがキッチリ頭に入っているか確認だね
この後すぐの予定にアイガー北壁を見つめながら、冷蔵庫の扉を閉じる。
早速に山図を確認して打ち合わせたい、必ず明後日も成功させて「約束」を叶えたい。
そしてまた1つ新しい約束を結びたい、そんな想いと振向いた視線の先、切長い目が真直ぐ光一を見つめてくれる。
―なんだろ?
どこか哀しげな視線に怪訝を感じ、見つめ返す。
何を英二は哀しんでいる?不思議で問いかけようとした光一に、透らす低い声が告げた。
「光一、アイガーの北壁は今回、見送ることも考えよう、」
いま、なんて言った?
(to be continued)
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第58話 双壁side K2 act.10
山頂は、銀色だった。
紺碧の天穹は銀砂が輝き、氷雪は星の火を映す。
近く遠く連なっていくアルプスの稜線おぼろに光る、遥かな空に黎明はうずくまる。
ファインダーに覗いた夜の銀嶺、その前に立ち見つめたレンズの向こうにシャッターが響いた。
カシャッ…
機械音が鳴り、ラストの証拠がデジタル一眼レフに納められる。
ゴーグルを外したままの貌に冷風は撫で、夜明けの近さが体感温度から迫りだす。
標高4,478mから見遥かす東の涯ひとつ、暁を呼ぶ星は輝度を増して天球を支配する。
金星またの名を “Lucifer” 宵を呼び、暁を起こす明かる星。この星を見つめる意識に北壁の音を掴まえる。
キン、キン、カンッ。
ハーケンが、最後の歌を終えた。
山頂に繋留するザイルへ星明り揺れて、遠い故郷の方角から空に光が漂いだす。
銀の明るむ雪を踏みカメラの固定を外し、赤いザイルの向こうへ願い祈る。
いま繋がれているアンザイレンザイルに鼓動の気配は、着実に近づく。
そして、見つめる北壁の縁、赤と黒のグローブが雪を掴んだ。
―英二、
心の真中が名前を叫んだ視界、はるかな稜線から黄金の光が生まれる。
モルゲンロートの薔薇色が凍れる頂を燃やしだす、ナイフリッジゆるやかに氷河の風が吹く。
赤いザイルは繰られ、アイゼンが氷雪を噛む音が近づき、そして暁の明星の下に深紅のウェア姿が顕われた。
「英二!」
声が名前を呼んで、腕を伸ばす。
明けていく暁の雪嶺に深紅と黒の長身は立ち、その横顔が振向く。
銀の星と黄金の曙光に白皙の微笑まばゆい、その笑顔が嬉しくて光一は思い切り抱きしめた。
―無事に登れた、英二と約束を登れた
北壁で見つめていた願いと祈りが今、喜びに温かい。
抱きしめる背中を大きな掌が抱えてくれる、ネックゲイターから薫らす気配が嬉しい。
深紅の肩に回した左腕の『MANASUL』を見、光一はタイムへの祝福を笑った。
「いま夜明けだよ!おまえ2時間ジャストだねっ、」
ふわり森の香が頬撫でて、ゴーグルを透かして見つめ合う。
切長い目は幸せに笑って、アンザイレンパートナーは促してくれた。
「光一、証拠の写真撮らないとダメだろ?おまえの場合タイムトライアルだし、すぐ撮らないと、」
登頂した証拠写真、これがないと記録は公認されない。
本人と頂上からの展望を写し、撮影した場所が解かるように写真で記録する。
この写真に不備が視止められ否認されたケースもある、だから英二の写真をきちんと撮ってあげたい。
場所と時間がいちばん解かるアングルはどこかな?思案と笑って光一は英二のゴーグルを外した。
「うん、だねっ。ほら、英二?」
声を掛けながらカメラを示し、少し離れてポジションを決める。
そのままレンズを英二に向けて、レンズ越しに指示をした。
「時計の文字盤コッチに向けな、顔の横に持ってくるカンジでね?ほら早くやってよね、撮るよ?」
「え、あ?」
言われるまま左手の甲を向けて、英二はレンズを見てくれる。
なにか途惑うような貌、その背後には暁の明星が光芒を放ち耀いていく。
この星と連なる銀嶺に山頂の雪を入れて撮れば、時間と場所が解かり易いだろうな?
そう思案して覗いたファインダーの向こう、本当に天使が地上に堕ちて驚いた、そんな貌が光一を見つめた。
―驚き顔も別嬪だね、ホントにルシフェルが堕天しちゃった瞬間って貌だ?
モルゲンロートの輝きのなか、目覚めの金星と白皙の貌が煌めいていく。
迎える朝に耀く至高の“Lucifer”その名を冠する美貌が今、深紅の登山ウェア姿で山頂に降り立った。
そんなふう想わす美しいパートナーに微笑んで、光一はシャッターを切り愉快に笑った。
「あははっ、おまえビックリ顔になっちゃったよ?撮りなおそうね、ほら、別嬪の笑顔やれよ?」
「ちょっ、待てって光一?」
驚いた貌のまま、深紅と黒のグローブの手が制止する。
なんだろうね?そう見つめた先で英二はウェアの内ポケットから、コンパクトデジタルカメラを出した。
「俺より光一の写真だろ?その為に俺、メモリーカード新しいの買ったんだけど、」
いつも証拠探しにも使うカメラを、英二は今回持ってきてくれた。
それが意外でなんだか可笑しい、愉快なまま光一は高らかに笑いだした。
「あははっ、おまえカメラ持ってきてたんだね?だったら周太の土産に写真、自分でも撮ればいいのにさ?」
笑いながら微かに心を刺して、けれど可笑しい。
大切な人への土産写真を撮れる癖に、どうして今までカメラを出さなかったのだろう?
こんな疑問も可笑しくて笑っていると、綺麗な低い声が困ったよう教えてくれた。
「だからな、おまえの記録用だから他のは撮ってないんだよ?時間もちゃんと現地時刻でセットしてあるんだ、」
俺の為だけに持って来たの?
そう言われて心が傷んでしまう、期待に疼いて泣きたくなる。
それでも今は登頂の昂揚に弾むまま、光一は綺麗に笑って問いかけた。
「へえ?いつのまにそんな準備ヤってた?」
「ツェルマットに着いてすぐ、おまえが風呂入ってる時だよ。ほら時計、こっちに向けろよ、」
説明しながら焦ったようカメラを向けてくれる、そんな様子が可笑しくて、けれど嬉しい。
きっと自分が証拠写真を撮っていないと思っているな?この予測が可笑しい、そして今は言う通りにしたい。
「おまえに写真撮ってもらうの、お初だね?ちゃんと美人にとってね、ア・ダ・ム、」
想うままを告げてレンズ越し、大好きな人へ笑いかける。
ヘルメットを脱いで髪を空気にさらす、吹きぬけるナイフリッジの微風に髪は靡いて心地いい。
写真を撮られるのは何年ぶりだろうな?そう思う向うにシャッター音が響いて、光一はザイルパートナーに一眼レフを示した。
「準備と心配ありがとね、でもさ?俺、登ってすぐ自分で撮ってあるからね。タイムレコードも『MANASLU』で計測してるしさ、」
開いた一眼レフの再生画面を、切長い目が見てくれる。
送っていく画面は山頂360度ぐるりの銀嶺を映しだし、空の明度も移ろっていく。
きちんとクライマーウォッチ『MANASLU』の文字盤を向けた写真も見せて、光一は笑いかけた。
「これ、連写で撮ったからさ。ちゃんと太陽が昇ってくるの解かるだろ?データには時間情報も入ってるしね、」
「うん、これなら解かるな、」
頷いて微笑んでくれる横顔が嬉しい。
その眼差しが光一を見、綺麗な低い声が尋ねてくれた。
「登頂してすぐの写真は?」
本当に光一の登頂を心配してくれる、その貌にビレイヤーとしての誇りが強い。
出逢った頃には無かった強靭の輝きに笑って、光一は手許を進めた。
「ちょっと待ってね、これ新しく撮ったのから表示だからさ、」
操作していく画面の映像は時間を遡らせ、登頂直後の写真が現れる。
夜に鎮まる東空の明星と黎明、そして光一の笑顔が映った画面に笑って英二は尋ねた。
「光一、星明りの頂上は綺麗だった?」
「うん、きれいだったね、」
さっき見た空を想い笑った隣、綺麗な笑顔ほころんだ。
穏やかで嬉しそうで、けれど強い眼差しが光一を見つめて綺麗な低い声が訊いてくれた。
「光一、俺にも『MANASLU』のタイムレコード見せて?」
「うん、見てよね、」
笑って頷きながらクライマーウォッチを操作していく。
そして示されたタイムレコードをパートナーに見せ、光一は朗らかに笑った。
「ちょっと世界記録には及ばなかったケドね?イロイロと条件も違うしさ、でも俺は嬉しいね、」
マッターホルン北壁、標高差1,124mシュミッドルートを完登した世界最短記録は1時間56分40秒。
その記録は2009年1月13日に単独登攀で樹立された、だから今回の登攀記録とは条件の相違も多い。
けれど、そんなことより「約束の2時間」が大切で、記録も名声も、あの「反抗」すら今はどうでも良い。
ただ幸せに笑いかけた先、綺麗な笑顔が長い腕を伸ばし惹きよせて、光一を抱きしめた。
「おめでとう、光一、」
名前を呼んで笑いかけてくれる、そのシーンに諦めた夢が共鳴してしまう。
この今の瞬間への想いごと、光一はアンザイレンパートナーに笑いかけた。
「俺ね、おまえとアンザイレンして、この時間で登れたから嬉しいんだ。ほんとに、うれしいんだ…」
ふっと瞳に熱が奔り、言葉を途切れさせ頬を伝う。
いま16年の祈りが熱に変っていく?そんな想いと笑った隣から温かな笑顔が言ってくれた。
「うん、俺も嬉しいよ。きっと雅樹さんも喜んでるよ?ずっと雅樹さん、俺と一緒に登ってたから、」
どうして?
どうして英二、そんなこと言ってくれる?
「どうして、そうおもう?」
問いかけ微笑んだ瞳は、ただ涙こぼれていく。
もう富士の前で終えてきた山桜の夢、16年縋り続けた叶わぬ望みたち。
あの8歳の幼く大人びた夢はもう終わらせた、その残滓が融けだす涙に英二は告げた。
「信じられないかもしれないけど、回収する時ハーケンとカラビナが冷たくなかったんだ。これって不思議だろ?
だから思ったんだ、このルートもタイムトライアルも雅樹さんとの約束なのかなって。この約束のために光一、俺と登ったろ?」
信じられない、なんて無い。
蒼い冷厳の壁にも「冷たくないハーケン」その言葉に信じたい、縋りたいと願ってしまう。
これは非科学的だと解かっている、それでも自分は信じたい。この切なる願いへと綺麗な笑顔は言ってくれた。
「光一、本当だよ?雅樹さんは約束を果たすために、俺と一緒にアンザイレンして光一をビレイしていたよ?」
ほら、約束を叶えてくれた。
雅樹は光一を大切に想うから今、約束のために来てくれた。
ずっと山を共に登りたいと言ってくれた、その為に必ず帰ると約束してくれた。
あの約束を「山」に叶えてくれる?そんな確信に心の真中、いま天辺に立つ山への誘惑が愉快に微笑んだ。
―ね、アルプスの女王さま?雅樹さんの約束を叶えてくれたね、愛してるよマッターホルン…ね、雅樹さん?
山に呼びかけ、そして約束の人を想いが呼ぶ。
いま叶っていく約束と夢の瞬間に幸せが笑い、涙の向こうで暁は輝く。
きらめいていくアルプスの夜明け、その隣に立ってくれるアンザイレンパートナーへ光一は誇らかに笑った。
「当然だね、俺のアンザイレンパートナーは絶対に約束を守る男なんだ、ふたりともね、」
ふたりとも、その言葉に約束は微笑む。
この想いに応えてよ?そう見つめた先で隣は綺麗に笑った。
「そうだよ、光一。全部の約束を叶えるよ、最高峰も奥多摩も、ずっと一緒に登ろう、」
ずっと一緒に登ろう、この約束が愛おしい。
この愛しさを告げる貌を曙光は照らし、あざやかに一閃の赤い頬傷が甦る。
熱を帯びると浮ぶ傷痕は山頂の昂揚には必ず顕われる、この赤い一すじに光一は微笑んだ。
―富士の竜の爪痕、マッターホルンでも浮んだね?なんか祝福みたいだね
冬富士の雪崩が刻印した傷痕に、母国の山からの祝福が過去と明日に微笑んでくれる。
この瞬間と16年の星霜と想いを、ひとつの涙に融かして光一は綺麗に笑った。
「うん、生涯のアンザイレンパートナーやってよね?約束、絶対に護ってもらうよ?」
今ひとつ終わる約束が生みだす新しい約束、その祝福にアルペングリューエンが足許を薔薇色に耀かす。
白銀の竜の背が連なるアルプス、その女王を謳われる山の頂に目覚める瞬間に光は充ちる。
その光輝へと共鳴するように、遥か東の蒼穹で明星は輝いた。
“Lucifer”
夜を呼び、暁を覚ます光輝と高潔の星。
それは至高の天使かつ堕天使にして魔王、その本質は「光もたらす者」純粋に激しい耀きの華。
その名前は今、この隣で笑う竜の爪痕を持つ男にこそ相応しい。
―根暗のクセにホント、まぶしくって強くって、至高の男だね?
見惚れる想いに笑って、光一はザイルパートナーへレンズを向けた。
ファインダーの向こうで真直ぐ見つめてくれる、その強靭な意志の瞳は熱情に煌めく。
天使のよう魔王のよう輝く自分のアンザイレンパートナー、この男が好きだと笑ってシャッター押す指が、ふるえた。
―雅樹さん…雅樹さん、今、英二の写真を撮れて嬉しいよ?でも、やっぱり雅樹さんの写真だって撮りたかった、俺が自分で、
あなたの生きた笑顔を、あなたが幸福と栄光に耀く瞬間を撮って、永遠にとじこめたい。
その願い正直に光一は、今この瞬間を生きてザイルを繋ぐ男の輝きを写真に映しこんだ。
もう二度と、あの哀しみを繰りかえさない―そう誓う想いごと今、レンズは綴る。

午後、東稜ヘルンリ尾根から雲が湧きだした。
店から通りへ出ると、白雲まとわすマッターホルン東壁に視線がいく。
山肌に上昇気流となった風は雲を生み、湧き起こる水蒸気は噴煙のよう空へ昇りだす。
濛々と昇華していく純白とグレーの陰翳たち、その雄渾な水の還天から稜線の強風が思われる。
こうした光景は好きだ、けれど今あの場所にいる人々への懸念が傷んで、光一は紙袋を抱きしめた。
「やっぱり雲が湧いたね?午前で降りられて、俺たちは良かったけど、」
氷食鋭鋒を見上げる隣、紙袋を提げた英二も山を仰ぐ。
下山した6時間ほど前は晴れていた稜線、けれど今は煙幕の彼方に隠れていく。
あの雲で起きている懸念を切長い瞳に映して、落着いた低い声が言った。
「うん、高尾の2人が心配だな?」
今回の遠征訓練に参加した高尾署の2人から、まだ連絡がない。
今朝の登攀開始から10時間が過ぎて14時、いま午後の湧雲に状況を予想させてしまう。
山岳救助隊員である以上は無事に切り抜けてほしい、そう願いながら見た無線機には連絡の形跡もない。
「無線にも連絡、まだ無いね、」
手に持った無線機を英二に示し溜息が零れた。
第七機動隊と五日市署は今頃ホテルに戻っただろう、けれど高尾署の連絡だけが無い。
それでも遭難という事は無い、そんなふう信じて歩く隣から穏やかなトーンが言ってくれた。
「エアー・ツェルマットのヘリコプター、遭難救助の動きはまだ見せてないな?きっと遭難はしてない、高尾の2人も同じ救助隊だろ?
きっと北壁の途中でビバークしているか、ソルベイヒュッテの辺りにいるんじゃないかな?きっと落ち着いたらさ、ちゃんと連絡くれるよ、」
英二の言う通りだろう、おそらく高尾署コンビは無線機も故障している。
それでも本人たちが無傷なら構わない、きっと大丈夫だろうと願いながら光一は微笑んだ。
「だね、緊急措置くらいキッチリ出来る人たちだしね?杞憂なんざ失礼ってモンだよね、」
「そうだな、」
笑って頷き歩いていく街は高い陽光に明るくて、スイスの夏らしい日の長さを感じさす。
いま7月のスイスは日没21時、それまで暗さに迷わされる心配は無い。それでも眼前のヘルンリ稜に雲は起こっていく。
マッターホルンの午後は岩肌の地熱が氷を溶かして、岩同士の結合を解いて落石を起こしながら大量の雲を吐く。
あの雲のなかは霧と雷電に阻まれ降雪の可能性も高い、それに填まったポイント次第では今日中の下山も難しい。
そんなマッターホルンでは登攀に時間が懸るほど疲労と冷気に体力は奪われ、天候悪化と落石に巻き込まれやすくなる。
―無事に下山できるはずだね、今朝は誰にも翳りは無かった、大丈夫
言い聞かせるよう考え廻らせながらホテルに戻ると、明るい午後の光に日章旗の純白がまぶしい。
マッターホルン北壁登頂者へ敬意を示す国旗掲揚に、翻っている馴染みの旗が面映ゆく素直に嬉しい。
この旗には第七機動隊と五日市署のパーティーも当然ふくまれる、それに高尾署も加わってほしい。
そんな想いと見上げた隣から、きれいな低い声が笑いかけてくれた。
「光一の旗だな、」
純白に深紅の太陽を象る旗。
見なれた母国のシンプルな旗に、アンザイレンパートナーは綺麗な笑顔ほころばす。
こんなふうに自分のために笑ってくれるのが嬉しくて、大好きな笑顔の頬を小突いた。
「おまえの旗でもあるね?俺が登れたのは、おまえの支えあってこそだよ、」
小突いた指に、なめらかな温もりふれてくれる。
温度、感触、そして笑顔が「生きている」と知らせて温かい、そして愛しい。
―生きてる、英二は。俺の隣で生きて笑って、一緒に山から帰って来れたね…ありがとう、雅樹さん、
英二は、一緒にいてくれる。
きっと雅樹も一緒にいる、けれど雅樹の体温には触れられない。
でも英二は生きて温かで、次も共に山を登って自分をビレイしてくれる。
それが嬉しくて幸せで、自分がどれだけ待っていたのか改めて気づかされて、我ながら可笑しい。
どうも自覚以上に自分は甘ったれかね?そんな思いめぐらせながら入ったエントランス、見知った顔が振向いた。
「国村さん、宮田くん。おめでとう、」
ぱっと気さくな笑顔が明るんで、頼もしい掌を握手に差し出してくれる。
第七機動隊山岳レンジャー第1小隊のコンビが、無事に戻ってきた。
また無事に再会できた、その幸運に光一は微笑んだ。
「加藤さんと村木さんも、おめでとうございます。前より記録を短縮したんですよね?」
「まあな、でも国村さん達の記録には敵わないよ、」
すこし日焼けした笑顔と握手し合う、その雰囲気は温かい。
加藤の隣から村木も英二に掌を差しだし、握手に笑いかけた。
「おめでとう、宮田さん。すごい記録ですね、本当に山は1年なんですか?」
やっぱり皆そう想うよね?
そんな納得に笑った前から、加藤が教えてくれた。
「国村さん達が登るのを、下から途中まで見ていたよ。二つのヘッドライトが互角のスピードで登ってた、速くて驚いたよ?さすがの記録です、」
今回も英二は、自分に着いて来てくれた。
それを加藤たちも見て確かめた、この誇らしさに光一は明るく笑った。
「宮田がビレイしてくれるから私も集中して登れました、あいつのお蔭です、」
優秀なビレイが確保してくれる、この安定感は大きく登攀に影響する。
それを的確に務めた実績が英二に1つ築かれた、この事は英二のバックアップになるだろう。
同じよう明後日のアイガーでも叶えたい、そう思案しながら加藤たちと夕食の同席を約束し、英二と部屋に戻った。
ぱたん、
扉の閉じる音を背後に聴いて、紙袋をチェストの上に置く。
すぐ開いて一昨日と同じワインボトルを1本出して、冷蔵庫へと仕舞う。
いま買物はとりあえず済ませてきた、この後はアイガー北壁の打ち合わせを英二としたい。
―明後日のアイガーは天気も良い、あとはルートがキッチリ頭に入っているか確認だね
この後すぐの予定にアイガー北壁を見つめながら、冷蔵庫の扉を閉じる。
早速に山図を確認して打ち合わせたい、必ず明後日も成功させて「約束」を叶えたい。
そしてまた1つ新しい約束を結びたい、そんな想いと振向いた視線の先、切長い目が真直ぐ光一を見つめてくれる。
―なんだろ?
どこか哀しげな視線に怪訝を感じ、見つめ返す。
何を英二は哀しんでいる?不思議で問いかけようとした光一に、透らす低い声が告げた。
「光一、アイガーの北壁は今回、見送ることも考えよう、」
いま、なんて言った?
(to be continued)
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