So long lives this, and this gives life to thee
第70話 樹守act.6―another,side story「陽はまた昇る」
独りじゃない食事は一週間ぶり、それが家族となら尚更に温かい。
ずっと馴染みの台所で母の好みを考え料理して、二人分の夕食を向かい合う。
そんな幸せの食卓に気づいてしまう、自分はずっと母に独りぼっちの夕食をさせている。
そして今夜から一週間を過ごせば独りきり互いの食事を過ごす、だからこそ今に周太は笑いかけた。
「今日もおつかれさま、お母さん…どうぞ?」
ワインバケットからボトルをあげ、母のグラスへ傾ける。
あわい金色へランプの光ゆれる向こう、やわらかなアルトが笑ってくれた。
「ありがとう、周も飲む?」
「ん、お相伴させて?」
笑って頷いて自分のグラスへ注ごうとして、前から母が立ってくれる。
その華奢な手をさしのべてボトルを受けとると慣れた手つきで注いでくれた。
「はい、じゃあ今夜はちょっと飲み会ね?何に乾杯しようかな、」
黒目がちの瞳が笑って訊いてくれる。
この乾杯を何に捧げるか?そう訊いてくれるなら願いたいことを口にした。
「あのね、お父さんの本に乾杯しても良い?」
「お父さんの本?」
アルトの声が尋ねながら黒目がちの瞳は促してくれる。
その問いかけに頷いて周太は綺麗に笑った。
「お母さん、俺ね、お父さんが書いた本を頂いたんだ…お父さんが大学で書いた論文をね、田嶋先生が集めて本にしてくれてあるの。
お祖父さんの研究室を田嶋先生が継いでくれたでしょう?そこにも置いてあってね、文学部の図書館にもあるから皆が読んでくれてるよ、
まだ俺も読み途中なんだけど、お父さんの論文は読みやすくて面白いよ?読み終わったら書斎に置いておくから、お母さんも読んでみて、」
この世から去ってしまった父、けれど父の言葉と想いは一冊の本に生きている。
このことを母に伝えたくて帰って来た、それを叶えられて笑った前で黒目がちの瞳ゆっくり瞬いた。
「お父さんが書いたものを、大切にしてくれている人がいるのね?」
父が書いたものを大切にしてくれる、それは母と自分にとって何より嬉しい。
この想いは家族二人きりだからこそ大きくて、ふたりだけの寂しさに大きくなっている。
この寂しさも本当は温められる現実がある、けれど今は言えないまま周太は笑って頷いた。
「ん、そう…すごく大切にしてくれてるよ、田嶋先生も、文学の勉強してる人たちもね、」
ありのまま伝えた向かい、穏やかな瞳が真直ぐ見つめてくれる。
その眼差しが訊きたがってくれる全てに周太はグラス掲げ、笑いかけた。
「ね、お父さんの本にまず乾杯しよう?たくさん話したいことあるから、食べながら話すね、」
父には著作がある、その現実を先ず祝ってあげたい。
この想い笑いかけた前、母は綺麗に笑ってグラス掲げてくれた。
「はい、お父さんと本に乾杯、」
「ん、乾杯、」
母子笑いあってグラスに口つける、その唇から涼やかに香ひろがらす。
ふわり甘い芳香にほっと息吐いた前、母もグラスを置くと少し恥ずかしそうにねだってくれた。
「ね、周、お母さん、わがまま言ってもいいかな?」
わがまま言いたい、そんなふう母が言う「わがまま」は何なのか?
その答えに嬉しく笑って周太は席を立ちあがった。
「ん、書斎に行こ?…お父さんの机に置いてあるから、」
きっとすぐ見たがるだろう、そう思って配膳も考えてある。
そんな食卓から母も立ちながら、困ったよう羞んだよう笑ってくれた。
「ごめんなさいね、周、ごはんが始まって直ぐなのに、」
「ううん、大丈夫だよ?きっと、すぐ見たいって言うと思ってたから、熱いメニューまだ出してないの、」
笑って答えながらステンドグラスの扉を開いた後ろ、母が食卓を振り向いた。
その黒目がちの瞳ひとつ瞬かせて、朗らかな眼差しくれながら微笑んだ。
「ほんとに周は佳い主夫でシェフね、お父さんとそっくり、」
父が食事を作ってくれるとき、いつも配膳のタイミングまで気遣ってくれていた。
そうした気配りも茶道に親しむ人らしく父は温かい、その俤を想い周太は嬉しく笑った。
「あのね、田嶋先生にも言われたんだよ?…話し方や声がお父さんとそっくり、って、」
「お母さんも似てるって思うわ、」
母も嬉しそうに笑ってくれる、その瞳が懐かしげに温かい。
こんな瞳をすることが時折ある、それが何故なのか今すこし解かったかもしれない。
そして母の父に対する想いをまた気づかされて、階段を昇りながら鼓動ゆっくり響きだす。
―お父さんのこと何も知らなくてもお母さんは結婚したんだよね、それくらい大好きで信じて、ぜんぶ受けとめる覚悟があるんだ、
母は、父の過去を何も知らないから息子の自分にも何も教えられなかった。
それでも母は父を信じて揺るがない、そんな母の想いが今この眼差しから思い知らされる。
そして迷い始めだす、今日も確認してしまった祖父と父と「家」の真実を、どこまで母に話せば良いのだろう?
『やさしい嘘なんて、私達には要らないのよ』
ほら、迷いだす心に一年前から微笑んでくれる。
卒業式の翌朝、あの一夜が明けた朝に母が微笑んだ言葉は14年前の約束だった。
あの一夜に自分は男との恋愛を選んだ、それは母から孫を抱く幸福を奪うことだった。
その真実を母に告げることは怖くて哀しくて、それでも母が笑ってくれたから嘘の壁を造らず済んだ。
『お母さんより先に、死なないで』
ほら、また一年前の願いごとが鼓動に響いて、もう泣きたい。
あの願いごとは必ず叶えて母をもう孤独にしたくない、けれど自分の現実は死線にある。
この2週間の入隊テストで思い知らされた現実は「明日」が不確定に過ぎて、だから母の願いも護れるか解らない。
―お母さんの言葉を2つとも護れないなんて、そんなのは嫌…だけど、
廻ってゆく想いのまま二階に足が着く、そして書斎の扉が見える。
扉を開いてランプ燈されて、いつも父が座っていた書斎机に深緑色と銀文字が輝いた。
「まあ…きれいな本、」
穏やかなアルトが微笑んで、ふわり香ゆれて母が歩きだす。
重厚で甘い香くゆらす部屋、あわいオレンジ色の光のなか母は微笑んで本を手にとった。
「とても分厚いのね、馨さんの本。たくさん書いたのね、たくさん夢を見て、考えて、努力して…素敵ね、」
やわらかな声が微笑んで深緑色の本を見つめる。
その笑顔の隣には今、穏やかな切長い瞳の俤が羞んで佇むようで、周太はカットソーの胸元そっと掴んだ。
―お父さん、お母さんに知ってほしいの?俺はどこまで話して良いの、
心呼びかけて書斎机の写真立てを見つめてしまう。
木目艶やかなフレームから涼やかな切長の瞳は微笑んで、静かに自分を見つめてくれる。
あの眼差しに訊きたいことが今あまりに多くて、その一つがカットソー越し気管支から迫り上げる。
―お父さん、お母さん…俺ね、喘息が再発しかけてるの、ほんとうは警察官なんて続けたら駄目って言われたの、でも今まだ辞めたくない、
いちばん言えない事実を心に告げる真中、母の横顔ゆっくり振向いてくれる。
その黒目がちの瞳に気づかれたくなくて周太は幸せな今だけ見つめて笑った。
「あのね、表紙の深緑色と銀文字は穂高の色なんだよ?穂高はお父さんと田嶋先生にとって大切な山なんだって、だからその色なんだ、」
笑いかけた向こう、黒目がちの瞳ゆっくり瞬かす。
そして深緑色の本を見つめて、頷いた母は綺麗に微笑んだ。
「穂高、そうだったのね、」
やわらかな笑顔ほころばせ、そっと母は本を抱きしめた。
大切な壊れものを抱くような仕草は優しくて、そのままに優しいトーンで母は唇を開いた。
「お母さんもお父さんと登ったわ、お付き合い始めた年の夏の初め。特別な空を見せてあげるって言ってくれて、暗いうち車で出発して。
あのとき特別って言ってたのは田嶋先生との想い出があるからなのね、それくらい大切で大好きな友達がお父さんにいて嬉しいわ…ね、周?」
特別な空を見せてあげる。
父が穂高で母に見せたかった空はきっと、いちばん輝いた時間。
そんな父の想いは田嶋が聴かせてくれた記憶と、自分の幼い夏に知っている。
それを伝えてあげたくて周太は書斎机の傍に歩み寄って、想うまま母に笑いかけた。
「お母さん、お父さんの本を開いて見て?いちばん最初のページ、」
「ん、最初ね、」
微笑んで腕ゆっくり解くと華奢な両掌は本を捧げてくれる。
優しい指は深緑色の本を開いて、そして黒目がちの瞳は眩しそうに笑った。
「シェイクスピアのソネット18、馨さんの大好きな詩だわ、」
I give it to an epitaph of savant Kaoru Yuhara.
And summer's lease hath all too short a date.
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimm'd;
And every fair from fair sometime declines,
By chance or nature's changing course untrimm'd;
But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow'st,
Nor shall Death brag thou wand'rest in his shade,
When in eternal lines to time thou grow'st.
So long as men can breathe or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.
[Cited from Shakespeare's Sonnet18]
美しい印字のアルファベット綴る一節は父のために贈られる。
この碑銘を贈ってくれた笑顔は父が抱いた夢と幸福を輝かす、その軌跡に周太は笑いかけた。
「And summer's から引用してあるでしょ、これってね、永遠の季節って言いたいからだと想うんだ…お父さんの文学も時間も永遠って。
ずっと護りたいって田嶋先生は想ってるから、俺を研究生にしてくれたんだよ?俺が誰か知らなくてもね、俺にお父さん見つけてくれたの、
だから俺に繋いだの…お父さんのこと『thy eternal』って信じて、お父さんは文学の天才だから必ず学問に帰るって待ってくれてたんだ、」
田嶋教授の想いと父の想いは、きっと同じ。
そんなふう想えるのは自分が父の息子で、父の言葉を憶えているからだろう。
それは父の妻である母も同じはず、そう想うまま笑いかけた真中で母は涙ひとつ綺麗に笑った。
「そうね、お父さんは大好きな文学の世界でずっと生きられるわ、この本を作ってくれる田嶋先生がいて、周がいてくれるんだもの、」
ずっと父は大好きな世界で生きられる。
そう信じられることは自分にとって幸せで、それ以上に母の喜びかもしれない。
だから今この時間を壊したくなくて大切にしたくて、祖父と「家」の真実を独り周太は胸に抱き籠めた。
そして翌朝、周太は高熱の昏睡に墜ちこんだ。
(to be gcontinued)
【引用詩文:William Shakespeare「Shakespeare's Sonnet18」】
blogramランキング参加中!
にほんブログ村
にほんブログ村