【⑪弓の清水・般若野古戦場】
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
越中浜街道を西進し、六動寺(現在の射水市六渡寺)に宿営していた源義仲の本軍は、寿永2年5月10日に般若野の今井兼平軍に合流した。
兵たちがあまりに喉の渇きを訴えたため、源義仲は地元の農夫である松原大助という男に水はないかと尋ねたら、大助は義仲の馬の前にひざまずき「ここに清き水がございます。」と答えた。
源義仲は馬を降りて弓を持ち、「私が平家の賊を滅ぼすことができるなら、泉よ、湧き出でよ」と言って弓で地面を突いたところ、突然そこから清水が湧き出した。
軍の士気を大いに上げた源義仲軍は、5月11日朝、倶利伽羅峠へ向けて般若野を出発した。
◎2024年10月9日編集 富山県 写真20枚
弓の清水、般若野古戦場、中田かかし祭り
★弓の清水・・・゛寿永2年(1183)源平般若の合戦に木曾義仲の軍勢人馬諸共渇したるところ甚だしく この土地の松原大助の進言で此の地に弓を射た所清き水湧出して渇を医て士気大いに上がったところである゛案内板より
源 義仲公 像
★弓の清水
源泉
★般若野の戦い(はんにゃののたたかい)・・・寿永2年5月9日(1183年)に越中国(富山県)砺波群般若野で行われた平氏軍(平盛俊)と源氏および北陸蜂起勢力連合軍(今井兼平)との間の戦い。
寿永2年(1183年)5月9日の明け方、加賀より軍を進め般若野の地で兵を休めていた平氏軍の先遣隊平盛俊の軍を、木曽義仲の先遣隊今井兼平の軍が奇襲し、平盛俊軍は戦況不利に陥り退却した。
この戦闘は『平家物語』諸本では全く言及されず、『源平盛衰記』系テキストにのみ記されるため、実在を疑問視する説もある。
★源平般若野古戦場石碑・・・寿永2年5月9日(1183)に越中国(富山県)砺波群般若野で行われた平氏軍(平盛俊)と源氏および北陸蜂起勢力連合軍(今井兼平)との間の戦い。
★中田かかし祭り(2013年9月21日撮影分)・・・源平倶利伽羅合戦場のテーマ
【⑫越後より砺波山へ】
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
越後より進軍してきた木曽義仲軍は越中越後の国境であり北陸道を見渡せる地(宮崎)を通り越中国に入りました。
般若野の戦いに関する史跡として、義仲が弓で地を穿つと清水が生じ将士の喉を潤したとされる高岡市中田常国地区の弓の清水・般若野古戦場のあと、砺波平野を経て倶利伽羅への進軍しました。
これらの史跡はいずれも湧水点の連なる庄川扇状地の辺縁部に相当し、北陸道の主道であった中田通り(呉羽山・般若野・倶利伽羅峠)が通っていた。
◎2024年10月15日編集 富山県にて 写真27枚
宮崎城址、鹿島神社、常国大悲寺観音堂、移田八幡宮、午飯岡碑、川田八幡宮、柳原石碑、鷲尾神社
★宮崎城址・・・県内最古の山城である。越中越後の国境近く、東は親不知の嶮、西は黒部川扇状地、北には富山湾を隔てて能登半島を望み、真下には日本海側の交通幹線の北陸道をふまえる城山地塊(標高249メートル)の山頂から山腹を利用して築かれた、天嶮と交通要地を押さえた防塞である。
東は親不知の嶮
西は黒部川扇状地、北には富山湾を隔てて能登半島
二の丸跡
宮崎城址 石塁
★北陸宮御墳墓・・・平家討伐の令旨を受けた木曽義仲が宮崎城の豪族宮崎太郎の一党とともに、後白河法皇の第二皇子「以仁王」の第一皇子「北陸の宮」をこの陣営に迎え入れて奉戴し、越中進攻と入京の足掛かりを固めた城である。
★鹿島神社・・・鹿嶋神社は、宮崎城の地に位置す るところから、要害の鬼門よけと、 尾根からの攻口を守る禁足地として 境内の鹿島樹叢とともに、歴史の城 将や加賀の前田氏に保護され、佐味 郷(朝日町内)の守護神ともなって いた。
木々に囲まれた参道の奥に、彫刻の施された、なかなかに立派な拝殿。
★弓の清水・般若野古戦場
別途 ⑪弓の清水・般若野古戦場 にて掲載しています。
よって、義仲軍は現在の高岡市般若野地区にある弓の清水(ゆみのしょうず)周辺で勝利した(般若野の戦い)後、砺波を通って倶利伽羅峠に向かったと想定されます。
★常国大悲寺観音堂・・・本堂の観世音菩薩は木曽義仲公の守護佛で寿永2年般若野合戦ののち常国山に祀ってあったものを当寺に移した。
★移田八幡宮(いかだはちまんぐう)・・・寿永2(1183)年5月、木曽義仲軍は平維盛軍と北陸で戦いとなります。木曽義仲の乳兄弟・今井兼平はここで戦勝祈願をしました。
白い⇔部分に書いてありました。
★午飯岡碑 ・・・1183年(寿永2年)木曽で兵を挙げて京を目指していた義仲は、五万の軍勢を引きつれて般若野から砺波山へと向かった。ちょうど昼ごろ小島を通りかかり、少し小高い岡をみつけ午飯にした場所。
小島には、その義仲が午飯(ひるいい=ひるめしのこと)を食べたと言い伝えられている場所があり、高さ2m、面積約50㎡の小高い石塚だったが圃場整備事業の際に取り壊され、石碑のみが元の位置から約200m東に離れた現在地に移築された。
★川田八幡宮 ・・・午飯岡で一息入れた後、西宮森の川田八幡宮で戦勝祈願をして倶利伽羅山の合戦にのぞんだといわれている。
★義仲 上洛への道・・・源義仲軍(五万)は川田八幡宮より石動の町や埴生口の道へと進む時の柳原を通るルートと小矢部川を渡り松永への鷲尾神社(鷲ヶ瀬)の道に分かれます。
★柳原石碑・・・木曽軍が控えた芹川近く。源義仲隊(二万)、樋口隊(四千)、余田隊(三千)、源行家(一万)がここを通ったと思われます。この後樋口隊は竹橋へ、余田隊は金峯坂へ。源行家(一万)は志雄山(志保山)へ。
★鷲尾神社・・・「鷲尾神社」は鷲ヶ瀬という、これまた進軍ポイントの地名の地に建つ神社。
今井隊(六千)、巴隊(三千)、根井隊(四千)がここを通り小矢部川の鷲ヶ瀬あたりを渡り、今井隊は蓮沼方面へ、巴隊は松永方面へ、根井隊は南黒坂方面へ向かった思われます。
鷲尾神社の碑・・・後ろの公民館は「鷲島公民館」
鷲ヶ瀬の碑・・・鷲瀬碑のある鷲尾神社付近は小矢部川から東へ500メートル程離れている。
【2024 スーパームーン】
2024年9月17日は、年に一度しかない天体ショー「スーパームーン」です。
一年で最も大きく、また、最も明るく見える満月が東の空から上ってきました、スーパームーンと呼ばれる一年で最も大きく見える満月です。
これは、地球に最も近いために大きく見えるもので、最も遠い今年2月の満月と比べて14%ほど大きく、さらに、近いため、30%ほど明るく見えるということです。
◎2024年9月17日 富山県にて 写真3枚
今回は曇り空、お月様が出ていません出したが・・・短い間ですが薄雲りの中、幻想的な姿を見せてくれました。
すぐ雲に隠れてしまいました
【⑭巴御前終焉の地】
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
信濃国の豪族・中原兼遠の娘と伝えられており、常に義仲のそばにいて共に戦った女武者。
その生涯は謎に包まれており、「平家物語」によれば「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」という美人で、「強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)」であったという。
「源平盛衰記」には、倶利伽羅峠の戦いで義仲軍の一隊の大将として活躍。
近江国粟津ヶ原での義仲最期の戦いでは、味方が残り数騎となっても勇敢に戦い、義仲とともに死ぬことを願ったが、義仲に諭され泣く泣く落ち延びていったという。
平家追伐のため信州より兵を起し、越後を経て、越中に入った木曽義仲の妻巴御前は、砺波山の合戦(1183)で活躍したが、京都に入った義仲もやがて都を追われ敗死後は和田義盛を頼った。
しかし、義盛も和田の合戦で戦死したので、かつて砺波山で一緒に戦った友人である石黒太郎光弘を頼ってこの地を訪れ、福光城の近い一角(天神町)に草庵を建て尼僧となり「兼生尼」と号し定住した。91歳で入寂と伝えられる。
その跡に1本の松を植えたが、樹齢を重ね巨松となり傘状に広がり地域の人達の幸せを祈ってくれている。この地を巴塚と称し町民に親しまれている。
◎2024年10月15日編集 富山県にて 写真19枚
福光駅前の石碑・・・「巴御前終焉の地」と刻まれています。
石碑裏面の「巴御前の軌跡」
福光で兼生尼として晩年を過ごし(57歳~91歳)宝治元年(1247年)10月22日に91歳で亡くなりました。
街中の「巴塚の松」と「巴塚」
巴御前(兼生尼)の遺体が葬られている「巴塚」
樹齢約750年を超える老松の「巴塚の松」
巴御前 辞世の句・・・「まぼろしよ 夢よと変わる 世の中に など涙しも つきせざるらん」・・・いにしえの街道、峠(天池)茶屋跡にて
福光城址栖霞園・・・福光城は石黒太郎光弘が在城していました。
福光城址の石碑
栖霞園の入口
小矢部・倶利伽羅源平の郷 埴生口にある「巴の松」
福光の巴塚公園の巴松の苗を植樹されたもの。
【⑬葵塚・巴塚古墳群】
②埴生護国八幡宮とその周辺 ③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ④いにしえの街道(歴史国道)① ⑤いにしえの街道(歴史国道)② ⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ⑦源平ライン
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ⑨猿ヶ馬場とその周辺 ⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ⑪弓の清水・般若野古戦場 ⑫越後より砺波山へ ⑬葵塚・巴塚古墳群 ⑭巴御前終焉の地
倶利伽羅山のふもと 葵塚・巴塚古墳群は、標高約85mの丘陵先端部に立地し、円墳と方墳から成っています。
古墳群は形態や立地条件から、約1,400年前の古墳時代の終わり頃に築造されたと考えられます。
この古墳群に、いつの頃からか「葵塚」と「巴塚」の伝承を重ねて、現在の石碑が建てられたものと見られています。
古墳が立地する丘陵では、今から約800年前の平安時代末に、源平合戦が繰り広げられた場所です。
この戦いは「倶利伽羅の戦い」と呼ばれ、源義仲(木曽義仲)は燃えさかる松明を角につけた約牛500頭を敵陣に突入させる、世に名高い「火牛の計」を用いて、人数では劣勢であったが勝利を納めた。
葵と巴はともに義仲の愛妾であり、武将であった。
葵は倶利伽羅の戦いで討死し、巴は義仲が討たれる日まで戦い、後に尼になり91歳の生涯を過ごした。・・・※解説板より
◎2024年10月15日編集 富山県・岐阜県にて 写真18枚
★巴御前(長野県日義村 徳音寺 蔵)・・・木曽義仲の愛妾で、絶世の美女と言われた。また武道の達人でもあり、源軍の武将として活躍しました。(小矢部・倶利伽羅源平の郷 埴生口にて)
★小矢部市 葵塚・巴塚古墳群 解説板
ここには巴塚・巴葵寺跡・葵塚があります。
整備された遊歩道
右に進むと巴塚があります・・・まずは巴塚へ向かいます。
【巴塚(巴御前)】
信濃国の豪族・中原兼遠の娘と伝えられており、常に義仲のそばにいて共に戦った女武者。
その生涯は謎に包まれており、「平家物語」によれば「色白く髪長く、容顔まことに優れたり」という美人で、「強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)」であったという。
「源平盛衰記」には、倶利伽羅峠の戦いで義仲軍の一隊の大将として活躍。
近江国粟津ヶ原での義仲最期の戦いでは、味方が残り数騎となっても勇敢に戦い、義仲とともに死ぬことを願ったが、義仲に諭され泣く泣く落ち延びていったという。
「源平盛衰記」によると、信濃に落ち延びた後、鎌倉に召し出され和田義盛の妻となったが、和田一族が滅ぼされた後には、倶利伽羅峠などでともに戦った石黒氏を頼って越中に住み、91歳で亡くなったと伝えられている。
★木曽義仲と巴御前の像・・・・宮ノ越・義仲資料館にて
★巴塚(巴御前)
解説板より
〇碑文・・・巴は義仲に従ひ源平砺波山の戦の部将となる。晩年尼となり越中に来り91歳にて死す
〇由来・・・源平合戦の後、和田義盛と再婚した巴御前は豪勇を誇った朝日奈三郎義秀を生んだが、その後未亡人となり後生を福光城主の石黒氏に託した。
石黒氏とは共に倶利伽羅合戦において平軍を攻めた親しい間柄であった。
尼となり兼生と称し宝治元年10月22日没し石黒氏が此の地に巴葵寺を建立したと伝えられている。
巴塚から分岐点まで戻り左側の「葵塚」へ向かいました。・・・途中 巴葵寺跡がありました。
【巴葵寺跡】・・・巴塚と葵塚の中間にあります。石黒光弘の計らいで、この地に巴葵寺を建立したのちに長禄年間戦火の為焼失したと伝えられています。
【葵塚(葵御前)】
葵御前は常に義仲のそばにいて共に戦った女武者で、各地を転戦し足取りを残している。
倶利伽羅峠の戦いに加わるが、討ち死にする。
その生涯は謎に包まれています。
葵御前は木曽義仲の武将の一人で、倶利伽羅の戦いで討死したので、屍をこの地に埋め葬ったと伝えられています。
葵塚は少し高いところにありました。
葵塚・・・後ろに墓標の松の木がありました(今は朽木となっています)。
解説板より
〇碑文・・・葵は寿永2年5月砺波山の戦に討死す。屍を此の地に埋め墳を築かしむ。
〇由来・・・葵は義仲の部将となり、倶利伽羅の戦に討死したので屍をこの地に埋め弔ったと伝えられている。
墓標の松跡は葵塚のすぐ後ろにありました・・・いまは朽ちています。
【①倶利伽羅への道(木曽義仲)】
➀倶利伽羅への道(木曽義仲) ベース
②埴生護国八幡宮とその周辺 ・・・・・ 埴生護国八幡宮、鳩清水、源義仲騎馬像、各務支考の句碑、聲の口(こえのくち)、将軍塚、茶臼山木曽義仲本陣跡、医王院、若宮古墳、石動駅南口
③ふるさと歩道(義仲進軍の道) ・・・ 倶利伽羅源平の郷埴生口、義仲進軍碑、埴生大池、お万伝説と地蔵堂跡、濁池跡、毘沙門天像、黒坂口、大平、猿ヶ馬場、参考・金峯坂、参考・北黒坂
④いにしえの街道(歴史国道)① ・・・ 道の駅メルヘンおやべ交差点、砂川橋一里塚、埴生口、長坂道登り口、たるみの茶屋跡、峠(天池)茶屋跡、矢立
⑤いにしえの街道(歴史国道)② ・・・ 矢立、一里塚、塔の橋、砺波山、倶利伽羅峠、不動の茶屋碑、不動の池、蜀山人歌碑、分岐点
⑥いにしえの街道(歴史国道)③ ・・・ 馬洗い場跡、竜ヶ峰城址、道番人屋敷跡、一騎討跡、前坂、竹橋口、竹橋、参考・平知度首塚
⑦源平ライン ・・・・・・・・・・・・ 砺波の関碑、葵塚・巴塚古墳群、砺波の関、万葉公園、源氏ヶ峰、砺波山の歌碑
⑧倶利伽羅古道とその周辺 ・・・・・・ 穴田道入口、道祖神、津幡側入口、地獄谷、松永碑、小耳入碑、膿川(うみがわ)、陣貝山、蓮沼城跡、日埜宮神社
⑨猿ヶ馬場とその周辺 ・・・・・・・・ 猿ヶ馬場(平家本陣跡)、火牛の像、芭蕉塚、猿ヶ堂、日吉社跡、源平供養塔、平為盛塚、蟹谷次郎碑、飯尾宗祇の歌碑、倶利伽羅展望台
⑩倶利伽羅不動寺とその周辺 ・・・・・ 倶利迦羅不動寺 本堂、奥の院、県境、金山穆韶僧正像、白寿観音、五重塔、おまん地蔵、手向神社、手水舎、和光堂、五社権現、西之坊鳳凰殿
⑪弓の清水・般若野古戦場 ・・・・・・ 弓の清水、般若野古戦場、中田かかし祭り
⑫越後より砺波山へ ・・・・・・・・・ 宮崎城址、鹿島神社、常国大悲寺観音堂、移田八幡宮、午飯岡碑、川田八幡宮、柳原石碑、鷲尾神社
⑬葵塚・巴塚古墳群 ・・・・・・・・・ 葵塚、巴塚、巴葵寺跡
⑭巴御前終焉の地 ・・・・・・・・・・ 巴塚の松、福光城址栖霞園
◎2024年10月15日編集 富山県にて 写真6枚
倶利伽羅峠が舞台となった源平合戦で平家軍を破った源氏の武将・木曽義仲と義仲に寄り添い戦功をあげた巴御前。
源平倶利伽羅合戦の最大のヤマ場は、義仲が用いた奇襲戦法「火牛の計」。角に松明を付けた牛(火牛)の大群が平家軍に突っ込み、数の上で劣勢だった源氏軍が勝利しました。
源平倶利伽羅合戦図屏風(倶利伽羅神社 蔵)
木曽義仲と巴御前(倶利伽羅源平の郷埴生口)
倶利伽羅(砺波山)の戦力・・・源軍(四万人)、平軍(七万人)。 志雄山は能登の方面です・・・源軍(一万人)、平軍三万人)。
・ふるさと歩道(茶色)、歴史国道(俱利伽羅越え いにしえの街道)(緑色)、源平ライン(朱色)、倶利伽羅古道(紫色)
【2024 コオバシギ】
◎2024年9月17日 石川県にて 写真6枚
海岸にオバシギ5羽、コオバシギ1羽がいました
一番左側の先頭がコオバシギ(嘴がやや短いシギ)、後ろにオバシギが続いています
◎2024年9月6日 石川県にて 写真10枚
オバシギと一緒に行動していました。
【2024 オバシギ】
◎2024年9月25日 石川県にて 写真11枚 追加しました
◎2024年9月17日 石川県にて 写真8枚 追加しました
5羽のオバシギがいました。(他に コオバシギ 1羽)
一番左側(先頭)がコオバシギ、後は5羽のオバシギです
◎2024年9月6日 石川県にて 写真9枚