と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

予備校の売れっ子講師先生のDVDを見て

2012年11月01日 16時53分55秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

今日はこれから塾に行く。こちらも楽しみである。どんな生徒を今日は担当するのかなと思うと楽しみになってくる。

体力養成、健康維持、知的活動の向上、徳性の涵養。

これらが保護者の願いであろう。

塾はその一つを担っている。

全部できるのは学校だけである。

尊いことである。

最近レンタルビデオで連続して予備校の先生がたの学習法講義を見ている。英語が主体である。楽しいものである。売れっ子の予備校講師が何を言っているのかなぁという関心があったからである。さすがと思う部分も多くある。しかし、ちょっとこれはいかがなものかという部分も正直ある。

受験一本に絞っておられるからであろう。しかたがないということであろう。それはそれ、これはこれである。

今はどっちの味方もできないから。

唯一愚生にできることは、この子達が、健やかに成長してくださいますようにと祈ることだけである。

本当に。

 

しかしである。

こうした売れっ子予備校の先生の語り口って、殆ど猛烈な早口なのはなんでか?

なんだか焦っているような気がするのだが。

愚生のようにゆったりとしゃべっていると、いかんのだろうなぁ。

効率的でないのかねぇ?

よくわかんないけど。

そういえば、愚生は予備校というモノに通ったことがない。

つまり、そういう世界を知らないのである。

だから、塾に興味を持ったのかもしれないなぁと思う。

 

もっとも、愚生の通った高校は、予備校よりももっと猛烈だったと、同級生で浪人した輩から聞いたことがある。その男、予備校時代に一日13時間も勉強していたんだが。

ご苦労様なこった。

 

愚生は、この塾で、必ず勉強方法にも言及する。ちょこっとだけどね。なにかの参考になればいいと思っているんだが。じゃまなだけかな?

 

さ、それでは出かけましょ。

 

 

 

 

 

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将門の石下町

2012年11月01日 16時15分11秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

NHK大河ドラマの「風と雲と虹と」を昨日見ていた。慣れないレンタル・ビデオ店から借りてきたものである。シニアは今月一本無料であるから、4本借りて1本無料である。ありがたい、ありがたい。

かなり昔のものだから、(1976年)画像があまりよくないが、これまた太平記と一緒で、面白い。

ただし、文献的には若干だが資料に乏しいので、まさか海音寺潮五郎先生の小説ですますわけにはいかないから、かえってこれからいろいろと楽しみになる相手である。

太平記は、いろいろあるからこっちはこっちで楽しみに読んでいる。DVDも見終わったので、再度古典大系本にもチャレンジである。

NHKのドラマに筑波の歌垣が登場してきたのには、びっくりした。えっ?と思った。映像で見たのは初めてである。実際に、登場人物を特定してこれをやるのはいかがなもんかなぁと思ったが、しょうがないといえばしょうがないだろう。

 

Wikipedia には「将門の勇敢さと真面目ぶり、貞盛の世渡り上手と気の弱さ、田原藤太の冷静沈着振り、純友の豪胆さと陰謀家ぶり等、人物の造形もわかりやすく、日活の清純派として名が通っていた吉永の演じる貴子が強姦殺害されるシーンも印象的だった。また、傀儡や海賊、遊女、農民等々庶民階層の登場人物が活躍する点も注目される。」との一部分紹介があった。

愚生の注目するのは、「傀儡や海賊、遊女、農民等々庶民階層の登場人物が活躍する点も注目される。」という紹介である。

この前の記事でも書いたが、階級と文化的スクリプトということを芸能と関連させて考えているからである。

 

昨日は、いつも通っている茨城県の石下町というところに将門の碑があるということを、NHKさんによって初めて知った。これはこれは。行ってみようと思う。デジカメにとってきたいものである。

豊田の小次郎将門とも言われていたとのことである。同所もさんざん行っていた。バイクでも、クルマでも。また行くつもりである。

楽しみがますます増えていく。

従実した老年人生ですなぁ。

 

(^_-)-☆

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一遍聖絵

2012年11月01日 16時11分17秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

「一遍聖絵」という作品がある。

愚生は、その他の宗教思想もすべてそうだが、差別に対してどのように対応しているかという観点からのみ各宗教を見ている。聖職者が、差別に荷担しているようでは偽物である。しかしながら、どうも崇高な理念を説きながら、ご自分は上から目線で愚生のような庶民を見下しておる方がいるような気がしてならないのである。ま、この手の輩は、どんな世界にでもいるが。

さらに、農民芸能源流を探っている毎日を送っておるから、余計いろいろと差別をめぐって各宗教の対応ぶりに興味津々なのである。

具体的には書かないし、書けない。

今日取り上げた「一遍聖絵」はかの有名な時宗の一遍である。流浪の生涯を送った方と言ってもいい。宗教的な価値についてはふれない。信徒でもないし。

そんなことより、この聖絵は実に特異である。

絵の中に被差別の民がたくさん出てくるのである。

これをなんと解釈するか。

画像をここに紹介するわけにはいかないから、是非ともインターネットで調べていただきたいと思うが。

聖絵の場合は、一人ひとりが皆違った姿で描かれており、リアルである。覆面をした犬神人も描かれている。

童姿をした人々、つまり、烏帽子をかぶらず、下げ髪にしている人。その他いろいろな方々が登場してくる。

特徴的なことがある。一遍の死後、犬神人が入水往生をしようとする姿も描かれているのである。

一遍の臨終に立ち会っている民衆の姿が描かれていて、この絵巻物は実に感動的である。共に死のうとしている方々もおられる。

時宗を支えてきたのは、こうした庶民階級であり、そういうところから、猿楽や田楽もまた派生したのではあるまいかと思っている。ただし、まだまだ確証はない。文献的に。これから一生かけて、捜していきたいことである。

今日は一日中そんなことを考え、そしてメモをとり、過ごしていた。


いいものである。

実にいいものである。

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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/