作品論というか作家論は
本学の、あるいは他大学の文学部卒論とか、修論とか、いろいろと勉強になるので読ませていただくことが多い。
みなさん、愚生などとは違ってさすがということを感じる。すばらしいものである。参考文献もあげておられるから、不勉強の愚生なんかには、洒落ではないが、それこそサンコーになるんである。
ありがたいかぎりである。
だから、かえって作品論というか作家論というのには手をつけないのである。このふたつの観点から文学を研究するっていうのは、「非常に高次な作業」になる。能楽だって、作品論・作家論から手をつけるとおそらく生涯かかってもできないであろう。愚生には、手に余るからである。とてもじゃないが、作品を分析して、あるいは作家を分析して・・・・というのはとても愚生ごときにはできない。たとえば、ドストエフスキー論なんて、書けない、書けない。語学的にどうアプローチするんだぃ?と聞かれたら、沈黙である。それしかない。だからある観点からというスタンスを堅持しているのである。そのことはここでは明らかにできないケド。
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時間も才能もない。ないないづくしである。
古典にあってはなおさらのことである。源氏物語の論文を全部読む?不可能である。源氏物語の新しい発見ができたという論文でも年間70はあるのだそうだ。聞いた話であるが。著書はこれより少ないであろうが、それでも二桁だそうである。
ムリですなぁ、愚生如きには。
されど、「チャレンジ」はしている。読むだけでも、せめてのチャレンジである。どしどし、線を引いて、読書カードでメモをとりながら、ジブンのやりたいことと関連があるなら、それを断片的にポメラでテキストデータにしておく。後で、ワープロに切り貼りしていくためにである。
しかしながら、焦る。そう、愚生には残された時間がないのだ。あと何年生きられるかわからないが、やることだけはやっておさらばしたいからである。いつも、死を見つめている。本当である。これからジムに行くが、ジムであっという間に・・・ということもあり得るではないか。油断禁物でっせ、ホンマに。
(^-^)/
こんなBLOGでも
こんなBLOGにいろいろと書いているのも、ノートのつもりだからである。後で、役にたつようにと、メモ的に書いているだけである。だから、申し訳ないけどアクセス数を気にしていないのである。
BLOGにもいろいろあって、
①他の方の役に立つように
②コミュニケ-トするため
③広報として
というような利用の仕方があるのだそうだ。
①は、愚生もお世話になっているから、ありがたいものである。つまり、通信教育の学校に行っている方々との交流は欠かせないものであるからである。ただし、同業の方とはちょっと難しいものがある。
②はこれもまたいろいろあって、実験的にやってみたことがあった。SNSとかいうらしいが。
③もやっていた。現職のときに。これは活用の可能性は高いであろう。
愚生がもっとも注目するのは炎上を恐れず、オピニオンを書かれるブログである。これが④になるのだろうか。読んでいて実にいい。その書き手の詳しいプロフィルまで知りたくなる。特に思想的に本格的に勉強された方のBLOGは価値がある。
こういうBLOGは注目に値する。
17時09分だけど、さっき老犬と一緒にヨレヨレと散歩してきて、ちょっとした土手のソバで今日はこれを書いてみたいと思ったので書いてみた。