と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

老後の生き方

2012年11月02日 22時12分09秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

愚生のちょっと知っている方で、現役時代は一流の建設会社で役員としてご活躍をされて、その後ビルメンテナンス会社で現場作業員としてしみじみと日々を静かに過ごしておられる方がある。

あるいは、遠く徳島の野球で有名な高校の校長先生が退職後に、タクシーの運転士をやっておられたことがあった。

愚生はお二人とも見事な老後をすごされたものだとただただ畏敬の念でいる。こだわりがない。前はこれこれであったとか、なんとかであったとか、馬鹿なことで暮らしておられない。

どっちにしても、なかなかできないことであると思う。

今朝、退職教員の互助会から冊子が送られてきて、退職後の人生あれこれという記事があった。なかなか面白くて、いろいろと眺めていた。

中にはご病気をされた方もおられる。マラソンをやっていたのに、糖尿になり、しかもそれが重症で、とうとう壊疽になり、足首切断という記事には、痛々しさを通りこしてしまった。かわいそうにと思った。それも愚生とそんなにトシが離れておられないかたである。

また、退職後に大学院に入られて、順調にライセンスをとられたものの、夢にまで見た大学教員の道は閉ざされていて、しかたがないから日本語教師のライセンスをとって、中国の大学で教えておられた方の記事もあった。

みなそれぞれである。

それぞれに頑張っておられる。

 

退路を断つという生き方がある。

これを老後にやったら、こりゃいのちを縮める。だから、日々平安に過ごしたいものである。退路は、現役時代に断つべきであろう。崖っぷちに立って、後ずさりもできないっていうのでは、こりゃいかがなものか。

 

今日は若い大学生さんと、90分もおしゃべりをさせていただいてきた。いのちの大切さを対話で、話し合いでどのように教えるかというようなことをやったのである。

いのちは時間であるという日野原重明先生を最後に出して、具体的な方法論を全員で検討した。あるいは、情報提示をさせていただいていた。

 

我ながら目の付け所がよかったなぁと思って帰ってきた。

これもまた愚生なりの生き方なんでしょうなぁ。

 

つまらん生き方でありますがね。

(^0^)

 

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いのちの授業

2012年11月02日 09時33分03秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

道徳授業のことについてパワーポイントを作成したのだが、今朝見直しをしていたら、大幅訂正をする必要を感じてそれをずっとやっていた。

朝の三時からであるから、熱心と言えば熱心だが、酔狂という言い方もあるかもしれない。あるいは、誠実だとも(ちょっと照れるが)。

相手は孫のような大学生である。教育実践はしたことがないから、理念だけは言うことができるだろうが。

こういう話は、長いこと教育実践で生きてきたじじぃに聞くに限る。なぜなら、やってきた過去の時間だけは大学生には負けないからである。

(^0^)

 

県教育委員会の方針から入るのはセオリーどおりである。

当然であろう。

で、その方針は、「いのち」のことについて相当深くつっこんでいる。このことをもっと書きたくなったのである。

 

愚生の道徳教育方法論は、対話から入る。

O.F.Bollnow の論から入っていくことを特徴としている。彼が、対話の本質を明らかにしているからである。

特に、「内省への問い」を一番の特色とするであろう。

さらに言えば「人間とは問う存在」であるという彼の言はいい。実にいい。自分自身を振り返る「内省への問い」こそが、道徳教育をとく鍵である。自己形成への問いである。罪意識とか、他罰傾向とか、そういった人間の傾向は、自己を内省することによって把握可能となる。それに行き詰まったときに、他者との対話を求めるのである。これこそが、道徳授業の要である。

人間観というものも重要である。人間とは何か。人間の秘密とは何か。人間不信とは何か。そのような問いから、人間を、自分自身を見つめていくことで、自己内省が可能となるのである。当然、それだけでは行き詰まる。そこから他者との対話が始まるのである。

道徳教育は、いろいろな資料を使うが、資料の中に、文学作品も含まれる。しかし、道徳教育は作品研究とか文学研究ではない。太宰治の「走れメロス」も道徳教育の資料としてよく使われる。しかし、これで作品研究をしてはならない。あるいは、主題は何かとやってはもっと笑われる。人間不信と、信頼という観点から対話をさせるのである。なぜなら、「信頼」とは、必ず「裏切り」を伴う暗い人間認識を伴うからである。無垢の信頼などというものはあり得ないのかも知れないからである。

人間観を語るものが、非常にすぐれた道徳教育であると思う。

いのちを考えさせるということは、ある意味、理想的な道徳の授業である。心臓はいのちか?とか、いのちってなんだろうか?と教師たちが問いを続けることによって、たとえば殺人がなぜいけないことなのかという問いについて考えることができるのである。そのことの回答はここには書かない。

これからある大学で行う夕方4:00からの講義で明らかにしていきたいと思っている。

どういうことを対話してくるのか。

楽しみである。

学生さんの反応が。

 

(^_-)-☆

 

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11月1日(木)のつぶやき

2012年11月02日 04時18分37秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

21:51塾から帰宅しました。英語数学国語。三人だけですが。だから実にふれあいができる。それだから、人間味で勝負です。(^-^)/


で、愚生はなんだかひいきにしてくださる生徒がたくさんいて、ご指名をいただくのであります。と~まジャなくちゃいやだとのたもう。愚生が来ている曜日に合わせたいと、今日は言われてしまったのです。(^0^)ましたな。さらに、経営陣にと~まにしてくれと、言いつけにいくのもいるんです。


あたしゃ、そんなに働きたくないと普段から申し上げているのですから、あまり生徒が増えると困っちまいます。マジに。愚生の本職は大学生でありますから。しかも、愚生のことをファーストネームで呼ぶ生徒もいるんですから。楽しいですなぁ。全く楽しい。これじゃこの塾を辞めるに辞められない。


結局、教師というものにむいているんですねぇと思います。ホンマに。


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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/