と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

サムイですねぇ、今日は

2012年11月19日 11時11分47秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
放浪芸ということに非常に興味があって、ずっとその視点からやっている。

前回の「いい日旅立ち」の記事に書いたこともまさにその関連である。

そもそも、愚生自身が放浪が好きなんだなぁ。オートバイでふろふらほっつき歩いたのも、それだ。そして、山の中で土地の人から話を聞くとこれがまた無上に楽しい。

京都まで原付バイクで行きたいくらいである。よれよれと。どこでのたれ死にしてもかまわんではないか。それで終わるのなら。ただし、周囲のご迷惑ということも考えなくちゃならんから、行動には移していないけど。

村人たちと話をするには、にこにこしていなくちゃならん。

しかめっ面で、おっかねぇ貌をしていたら、誰もクチをきいてくれない。
当たり前だのクラッカーである。(あ、これを知っている人は60才以上だわな)

ところが、愚生はこれが最大の欠点なのだ。

にこにこできないんだ。職業病だったなぁ。凝り固まっていた。でも、もう退職したんだからいいか。いつもにこにこ、にこにこ堂だわなぁ。

笑ってくらしたほうがいい。

ただし、世の中には変わり者もいるから、あんまりにこにこしていると怒り出すのもいる。こういうのは、敬シテ遠ざけることだ。

常不軽菩薩といっったけ?
この人がそうだったんだってねぇ。

信者でないから、どうでもいいけど。

宮沢賢治の「雨にも負けず」が、この人のことを語っているとなにかの本で読んだことがあったっけ。

ちなみにあの賢治さんの詩はいいねぇ。現役時代、どんなにつらいことがあっても、「アメニモマケズ」って咒文のように唱えると、リラックスしたものだ。

けっこう大変なんですよ。仕事が大好きだったから。仕事熱心ならばこそ、いろいろと難問も招来してしまうから。永久にこのあたりのことは書けないし、書かない。

書かないと言えば、教えている大学のことを一切書かないのを不思議がっておられる方がいるけど、あれはルールである。あっちは職員みたいなものだから、書かない。

こっちは愚生は学生だから気楽に書いている。そこらへんのじょしこーせーと変わらんスタンスである。

さすがに、高校生と違って、学校の悪口を書いたり、せんせのことを書いたりはしない。あたりまえである。そんなことをしたって意味がないからである。もっとも、このブログも意味があるのかと聞かれると、ごにょごにょと口ごもるしかないけど。



今日は寒い。

薄着で通学してきたので、失敗したと思っている。

参ったね。

それに、寒風が、できの悪い頭を冷やしている。

参ったね。

実に。




(^_-)-☆
















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いい日旅立ち

2012年11月19日 07時51分45秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
JRのテレビ番組で流される歌で「いい日旅立ち」というのがある。あれは、確か今は引退している百恵様がやっていたような気がする。いい歌である。

これは「思い立ったが吉日」ということわざのパロディであろうと思うが、違うかな?ま、どうでもいいような話であるが。(いつもそうだ)

何か目的を持った旅というのは、これと違う。思い立ったから、行くというようなものとは。こちらはきちんとスケジュールが決まっている。

愚生が書きたいのは、これとは別の旅。未知と偶然の要素をオオイニ含んだあやしい胸のときめきを感じる旅である。心の華やぎというものがある旅でもある。

演劇性と祝祭性を持っているのだ。特に、全国流浪の旅をしていた流民というものの存在に興味が沸く。

芭蕉も言っている。

「春立てる霞の空に、白川の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるわせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず・・・・」(おくの細道)

芭蕉翁はさすがである。
異次元への飛翔である。
世外への連れだしである。上田秋成の言うごとくである。「世を浮かれ歩き」「事触れて狂ひありく」のである。芭蕉は、まさにこれであると愚生は思っている。風雅を装ってはいるが。

能も同じである。能の特色は、幽玄とか言う学者が多く、愚生はこれまでちょっとそれ以上なんでつっこんでこないのかと不満であった。幽玄なんて言われたらなんだかわからなくなってしまう。

本当にそれでいいのかね?

猿楽とか、散楽とかの視点から見ていると、ちょっと違うのではないかと思うんである。流浪の旅人が、これらの担い手であったからであると愚生は思っているのだが。

それと奈良仏教の関わり。

これ以上は書かない。まだまだ調べなくちゃならんことがたくさんあるから。



12月の8日は確定している京都行きの旅である。
これは目的があって行く旅である。

新幹線で、あっという間に着いて、あっという間に帰ってくる。スピード満点。実はあまり好きではない。時間が早すぎる。

ヨレヨレと、ジタバタとあっちふらふら、こっちふらふらの旅の方が愚生らしくていい。京都まで一か月くらいかけて。

そんなことをしていたら、どっかでのたれ死にするかもしれないか。


(^_-)-☆

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

捨て魔と呼ばれている

2012年11月19日 07時20分20秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
愚生はなんでもすぐに捨てるので、「捨て魔」と呼ばれている。

とりわけ、おもしろくない本を、えぃ!とばかりゴミ箱に投げ捨てる特技がある。

書評の高い本を購入して楽しみに読んでいて、頁をくくっていると、途中で「なんだこりゃ?」ということがある。世評と、愚生の基準があわないのだ。もっとも、愚生の基準なんて当てにならんが。おちこぼれの基準だからなぁ。

はれぇ、その前に殆ど古本で買うから著者には悪いんだけど。

新聞の書評で取り上げられて、楽しみにしていると、あっというまに古本チェーンに売りに出される本も世の中にはある。

退職**が書いた本である。おそらく義理で買わされた御仁がしかたなしに買って、愚生と一緒でえぃっとばかりゴミ箱に捨てられた本であろうと思う。

愚生はそういうことはしない。そんな義理本は、最初から買わないからである。だって本に失礼ではないか。もっとも、愚生にそんな類いの義理は全く存在しないから、最初から買わないが。カネの無駄だから。
(^0^)

古典を買っているから、世評は確定している。むしろ、そういう古典系・哲学系でまだ読んでいない本が多すぎる。これから死ぬまで全部読みたいのだが、なかなか困難である。しかも、愚生は全部の宗教も読もうとしている。一遍もしかり。空也も最近興味を持っている。経典も全部読破したい。だから、死んでるわけにはいかないのである。

ま、そんなわけにはいかんだろうけれども。



捨て魔だと勝手なことを言っているうちに、そのうちにえぃっとばかり、愚生そのものが捨てられる可能性があるから、クワバラ・くわばら・kuwabaraである。

そんなことにならんようにしましょ。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月18日(日)のつぶやき

2012年11月19日 04時26分32秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

(*_*) マイッタね。2日の件は。全員が勘違いをしていたんだ。愚生も含めてね。でも、オレのメモにははっきり2日に話してほしいとある。ま、ダレにでもミスはあるわなぁ。オレがその典型かもしれないケド。


こういうときに、器というものが試されるですな。配偶者然り。選んだ本人と同レベルなんですよん。まったく、まったく。だから仲良う暮らしていけばいいんです。(^-^)/


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/