と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

「結界」ということを守るつもりである

2012年11月10日 12時37分26秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

「結界」と言う言葉がある。

(1)仏道修行に障害のないように,一定地域を聖域として定めること。寺院などの領域を定めること。
(2)密教で,一定の修法の場所を限って印を結び,真言を唱えて護り浄めること。
(3)
(ア)寺院の内陣と外陣との境の柵。
(イ)外陣中に僧俗の席を分かつために設けた柵。
(4)帳場格子。
(5)茶道具の一。風炉先屛風の代用品。道具畳の向こうに客畳のある広間などで,その仕切りに置くもの。

ATOKの辞書の意味が上記のようなものである。

 

これも内館牧子様の「女はなぜ土俵にあがれないのか」(幻冬舎新書)で、知ったのであるが。なかなか含蓄がある。ゲーム世代の小学生でも知っている言葉だそうである。否、ゲーマーだから余計知っているということか。

内舘様は土俵をその結界であるとされる。(p.37)このことを昨日書くのをワスレテしまったので再記述をこころみる。

土俵は俵で結界された聖域であるとされるのだ。これはまた異な事をもうされると思って、この新書に惹きつけられていったのだ。なるほど、この考えがあったら、新書のタイトルどおりの書籍が書けるわけである。

なぜ愚生がこのことに興味を持ったか?

それは愚生の周囲には、「結界」がごまんとあるからである。例えば、学界。この世界には入っていってはいけない。ま、入る資格もないがねぇ。研究者の世界にも入ってはいけない。齢、60になってナンニモ実績がないのだから。門前払いでありまする。当たり前である。それくらいの恥は知っているつもりである。さいきん、かなりぼけてきて、英単語もなかなかアタマに入らないし。

※話は脱線するが(いつもそうだ)、塾で教えていると、英語や数学、理科、社会の参考書まで買っているジブンがいるのに気がついた。全部、105円で買って来るけど。

(^0^)

 

もうひとつある。若い大学生の世界に進入していってはあかんということである。勘違いをしてはならん。共通の土俵はある。お互い同じような学問をさせていただいているからである。だから、話はさせていただくこともある。されど、絶対的にこっちが学ぶ方である。教えていただくのである。学問に年齢はない。だったら、60歳の小僧っ子がいてもいいではないか。20歳の大学生に教えていただくのである。なんでもいい。コンピュータでもいい。本学には親切な学生がたくさんおられて、コンピュータでちょっとでも愚生が困った顔をしただけで、教えてくださる学生がそれこそたくさんおられる。こんなありがたいことはないではないか。

師匠のこれまでの足跡を調べて、いろいろな学問的課題を自分で見つけては、お聞きする。これがむやみに楽しい。師匠は、やさしく受けてくださり、ご指導をいただく。博覧強記。なんでもご存じである。参る。著書の数たるや半端なものではないし。だから、それからが大変である。あらゆる図書館で調べたり、苦手なインターネットで調べたり、国会図書館に行ったりしている。まぁまぁどこにそんな情熱があったのだと思う。60になったら、枯木のように老いたいと勝手に思っていたんだが。毎日、あはは・おほほと(^0^)ながら暮らしていくんだろうなぁと思っていた。

まったく違っていましたよん。

日々困難なことが、知的生活の中でドンドン押し寄せてくるけど、これまた楽し。そういうことを塾の生徒にちょこっとだけ語って聞かせると目を輝かして聞いてくれる。やはり、ものが違いますな。塾に通ってまで勉強するという生徒は。

 

これもまた愚生の入ってはならない「結界」なんでしょうねぇ。寂しいけど。

 

今晩も塾がある。三時間連続だ。期末試験が近いからだそうだ。

心配なことがひとつある。

愚生の体力がもつかということである。あ、その前に能力がか・・・・・・・

 

(^_-)-☆

 

 

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相撲はなんであんなにおもしろいのか

2012年11月10日 00時17分00秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

相撲が好きである。

幼児の時からそうだった。
(じじぃだって幼児と呼ばれるかわいい時代があったのである)
なんてったって、あの独特の所作がいい。

故郷には母校の小学校に地上巡業がかなり来たので、必ず見た。大内山とか千代山(ダレも知らないだろうなぁ)のファンだった。まだ小結だった大鵬と柏戸がいて、これもまた興奮したものだった。

内館牧子様という相撲のオタクがおられる。
好著「女はなぜ土俵に上がれないのか」(幻冬舎新書)を書かれた有名な相撲ファンである。
趣味が昂じて、東北大学大学院修士課程で相撲の持つ宗教性ということで、修士論文まで書かれた方である。
この本は、その修士論文を、庶民である愚生のような者でも理解できるようにわかりやすく書いてくださっているのであるが。

相撲は、神事芸能であると愚生は思っている。
総合格闘技とか、シュートとか、なんとかとか、いろいろ喧嘩のようなものが世間にはあって、愚生も嫌いではないから、2万円も払って見に行っていた時代があった。

相撲はちょっと違う。実際に格闘技としての能力は高いものがあると感じてはいるが。

喧嘩の意味があるんだったら、さば折りで相手の背骨を折ってしまってもいいのにそんなことはやらない。土俵があって、そこから出たら負けである。出ていった相手を追いかけていって、殴ったりはしない。

国技であると言われるが、内舘氏はそれを歴史的に分析しておられる。ここには書かないが、実に面白いことがたくさん書いてある。

様式美なのであろう。

四股を踏むのも、能の所作と似ていると愚生は思う。能と足の上げ下げが全く違うが。

塩をまくのもそうである。神事なのである。

祈りの世界であるのだ。

また、あの大男たちは、庶民にとってはマレビトでもあった筈である。現代は、大きな人が多くなっているが、昔は珍しいものであったろうから。

一番面白かったのが、ふんどしのことである。
タフサギということであったのだそうである。つまり、タフサギはタブサキのことであり、漢字で書けば束尖・肉幸なのだそうである。もともとは盛り上がった部分をさす。そしてこういうところは神の憑依する神聖な部分であると。人間の肉体のうち聖なる部分、あるいは聖なるものの寄りきたるところと考えられているということだそうだ。(p.72)

そして、タフサギはこうした神聖な部分を保護するとともに、神の依代としての布を意味するのだそうである。もっとも、このことは山田知子先生の書かれた「相撲の民俗史」(東京書籍)に書かれていたものらしい。愚生はまだ読んだことがないけれども。

愉快である。実に愉快。

そうなのかとはたと思い当たった。神との密接な関係を持っていたのである。ふんどしというものは。

 

相撲はなんであんなにおもしろいのか?ということの回答が、ふんどしがあるからというのではない。

(^0^)

 

神事芸能であるからである。

マジに。

ホンマに。

 

 

 

コメント
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/