いろいろな人と会って、生涯学習のことを話すると、まだまだ生涯学習は市民権を得ていないなぁと思うのである。どうしても上下関係だけでしか考えてもらえないようである。つまり、そんなことをやっていてなんになるの?ということを、上から目線で平気で言われることがあるからである。正規の教育のうちに入っていないということであろう。
通信教育を蔑視されている方も多い。実に多い。なんで通信で大卒・修士・MBA・博士になるの?とかである。事実そういうメールをいただいたことがあるからである。知らないだけである。そういう方は。実態を。
通学制がトップの位置を占めているのだ。そういう方の潜在意識には。そりゃそうだといったんは肯定しよう。確かに、通学制が基本である。しかも、生涯学習ではないものが、である。
ここにもコスト主義というものが隠れ棲んでいると思うのである。儲かるか、儲からないかということである。もっと言えば、大学なりを出てから、出世できるか、あるいは、人を指導できるだけのポジュションにつけるかということである。
拙ブログで、東京一極集中主義を書いてみたことがあった。地方の青少年達が、なぜ東京の大学に集中するのかということをである。それは明治維新で瓦解した武家階級の子弟が、上京して高等教育を競って受けたからであると概略書かせていただいた。地方の城下町を明治維新で崩壊させたのも、武家階級の手助けが無かったら、できなかっただろうし。そして、先代まではその城下町で座して食っていた境遇から、一転無収入になったからでもある。
だからこその猛烈なる立身出世主義であったのだ。当然であろう。食っていく道が無くなったのだから。武士としては。年貢のあがりもないし、身分も保障されない。いばっているだけでよかった時代ではなくなったからである。言わば武士としてのシステムだけで食えたのである。もっとも、現代でもシステムだけで食っているひとがいるけどねぇ。
だから学校教育に要求される内容が今とは違っていたのである。学問をしてとりあえず食うための手段を身につけるしかなかったのだ。文学部不要論はこのあたりから出ていると、愚かなアタクシは思っているのだが。
事実、創立100年を超えるような私立大学は、最初法律学校とかの実学教育でスタートしている学校が実に多い。それがどうしたこうしたというわけではないのだけれども。それはそれで結構なことでありますから。
そういう基礎を背負っているから、現代の教育は上下関係の意識があって、それぞれの大学や高校をランク付けして相互蔑視の対象にする。点数とか、進学率とか就職率、体力とか、部活の成績、生徒指導、退学率とかなんとかとか等々いろいろな要素でである。それぞれがである。このことはなんとなくご理解いただけるであろうと、愚生なんかは、それこそ愚かであるから感じるのである。
立派な成績をとって、いい高校に行き、いい大学に行き、一流会社に就職するということだけのために、猛烈にジブンの子弟を鍛える親御さんがいる。それは、明治維新直後の武家階級と何ら変わらない。
ある種の血脈主義がある。ちょっとしたことで、「オレの血筋は、**天皇の子孫で、その40代目にあたる」とかのたもう方もおられる。冗談だろうと相手にもしないが。たいては酔っ払った時にのたまわれるから。
平家落人伝説というのも、このたぐいであろう。実際は、どうだったのかわからないだろうから。このことについて、大阪の橋下市長と朝日出版とのいきさつは看過できない出来事であったと思うのだが。いかが?。血脈主義というのは、おそろしいものであると、この点にかぎって言えば、橋下市長に賛成をする。それも、天下の自称エリート集団の大マスコミがやったのであるから、鎧の下にはとてつもない潜在意識が隠されていると思うのだが。この辺りは、どっかでまた書いてみたいことの一つである。自称エリート主義のよってきたるところは、どのあたりにあるのかということをである。これは愚生のような落ちこぼれで無いと書けまへんな。
こういうものの中に、一種の「貴種待望論」があるのを危惧するのである。そんなくだらないことを言っているヒマがあったら、どうでっか?生涯学習をやりまへんか?と申し上げたいですなぁ。自称エリート様には。
生涯学習から得たところの結論である。なんの足しにもならんだろうけれども。
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