と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

はやるBLOGを書くには

2012年11月07日 20時44分21秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

はやらないBLOGを書いている愚生がなにをか況んやである。

おおいに笑っていただきたいのであるが、つまり愚生の逆をやればいいというやつである。

以下はあるBLOGの書き方師範のHPを読んで感じたことである。

イケダハヤトの記事一覧さんから参照して

 

1 ひらがなを多用すること

けっして気取って難しい漢字を使ったり、やたらと横文字をつかってはならないのである。

これは鉄則である。

読むのに四苦八苦していただいてはいけない。

なんて、愚生も見栄張って難しそうに書くことがあるからなんとも人のことは言えないんだけど。

 

 

2 一作長文主義を排すること

一つの記事をなが~く書いてはいけない。

これも愚生は時々やっちまうなぁと思う。

しかたない。

なぜって、愚生には文才がないからである。

一日に4~5記事書くといいのだそうだ。しかも短く。もっとも愚生の場合は好きなように書いているだけだが。

 

3 いつもいつも同じネタではあかん

もっともこれは学校宣伝用とかの場合は、同じネタになるのはやむを得ないだろうと思う。

だって、立場というものがあるだろうから。

さらに言えば、いつも私的なことばかりでも面白くない。

この愚生のBLOGのようですね。

面白くないということに限って言えば。

(^0^)

 

 

さ、今日はこれでおしまい。

これから夜のスポーツジムに行って参ります。

 

 

 

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傀儡(クグツ)のこと

2012年11月07日 20時31分11秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

傀儡子は定まれる居なく


DVDの平将門や、同じく太平記にも傀儡がたくさん出てくるのが実に面白いのであるが、ちょっとこのことについて考えることがあったので書かせていただく。これまでは映像を見ることは全くなかった両作品である(書物としては部分読みも含めて読んでいる)が、実に興味深いことを発見させていただいたからである。つまりそれは、大衆芸能というか民衆芸能というか、そういう世界の話が中世にはいくらでもあったのではないかということである。

1、大江匡房の描写から


大江匡房は、1041~1111の時代の人である。「傀儡子記」に「傀儡子は、定まれる居なく、当たる家なし。」と書かれておる。家を構えていなくて、定着もしていないということである。定着どころか、諸国を移動しつつ生活をしていたのである。

一本の剣をお手玉にしたり、七つの玉投げの芸など傀儡子記には書かれてある。つまり散楽(注1)である。


注1:奈良時代に中国から渡来した雑芸 (ぞうげい)。軽業・曲芸・奇術・滑稽物真似などを含み,相撲 (すまい)の節会 (せちえ)・競 (くら)べ馬・御神楽 (みかぐら)などに行われた。のち田楽・猿楽などに受け継がれ,猿楽能の母体ともなった


変幻自在の手品のような芸と、舞いの芸を持っていたのである。

このことを、NHKのDVDがしつこく映像で愚生に迫ってくるのである。おかげで、愚生は眠れなくなってしまったのだ。(^0^)
なぜなら、毎日毎日DVDを見ているからである。
だったら見なきゃいいのだと言われそうだが。

「女は愁目・啼粧・折腰歩・齲歯咲を為し、朱を施し粉を傳け、倡歌淫楽して、もて妖媚を求む。父母夫聲は誠せず」

以上のようにも大江匡房は書いている。
彼はこの記述によれば、傀儡の女性はなんともなんとも楽しいというか、考えられない様子を示しているという感じなのである。このBLOGは庶民の愚生がおもしろおかしく書いているので、まったく極端な興味から材料を集めている。だからこの部分はこんな風な意味であると思うのだが。

つまり、細く描いた眉、悲しんで泣いているような化粧、いかにも足が弱くてなよなよと見せるために腰を曲げて歩く、虫歯が浮いてしまったようなわざとらしい作り笑い、朱とおしろいの厚化粧等々で歌を歌いながら男を誘うという姿が見えるのである。楽しいというか、現代とまるっきり同じというか、まったく鼻持ちならんというか。愚生とは違う世界に生きているというか。

しかもである。その女の父母、さらに追い打ちをかけるのが、夫がいてもとがめもしないというのである。


2、いつ傀儡の女は消えたのか

11世紀から陸の宿駅で、歌と共寝をする傀儡女が姿を見せ始めて、12世紀には今様で有名なる後白川法皇御所に出入りしていたのが、13世紀末には消滅してしまった。

後白川法皇の今様を愛してやまない性格は芸術の根幹をなしていったと愚生などは好ましく思っているのだが、なにしろスケールのでかい法皇である。

御所には、京都の男女はいうにおよばず、所々の端者、雑仕、江口神崎の遊女などがいて、国々の傀儡の往来、交流、交感の場であったのである。いわゆる情報交通の一大ネットワークの場であったのである。梁塵秘抄口伝集にそのことが書かれているのである。さすがに後白河法皇である。器が違う。そして、非常に面白い部分である。

13世紀に傀儡女の名称が消滅していってから、遊女の跋扈が始まる。春を売る専門の存在になってしまって、芸能の分野が廃れる。農民層にも家の組織が確立して、家長の男が差配をして行く時期である。

鎌倉から室町、戦国と遊女達の存在形態、男女の性意識の変化ということから考えていくと、庶民の文化の源流というのはどこからでも分析可能なのだなぁと思った次第であるが、ちょっとはっきりBLOG程度では書けない部分もある。かなりあちこち削って書いてみた。

 



以上であります。

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一つの問題提起

2012年11月07日 09時13分34秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

田中真紀子さんの記者会見


1、学生・生徒募集のこと
この代議士の思考方法は、いろいろ問題もあるのだろうが、的を得ている面もある。一概に否定ばかりできないのではないかとも感じていた。今朝の記者会見の様子を見ても、学生募集についての見識を問うていた。このことが最も重要であると思うのだが、あまりマスコミはそこのところを取り上げていなかった。

受験生である高校生を取り上げていた。確かに、被害者であろうと思う。受けたい学校が無くなってしまうんでは、それでは話にならない。されど、そこのところもマスコミのある意図が見えてくる。

世の中は、すべて勧善懲悪で成り立っていて加害者がいて、被害者がいるという構図なんであろう。その方が愚生のような大衆・庶民に受けるからである。こういう高校生を被害者にしたてることは、いかな愚生でも反対である。

大学ばかりではない。高校の生徒募集でもこうした問題は、真剣に考えられるべき問題であると思うのだが、いかに。

つまり「学生・生徒募集」のことである。このことを我が事として考えないのでは、いけないよということを彼女は問うたのである。


2、大学開設のシステム批判
この田中代議士は、大学の設置について昨年度の3月に申請して、その年の11月には
認可されて学校の建物もできていくという流れを批判していた。なにかの意図が透けて見えるということなのであろう。むしろ、他者批判の好きなグループに属しているから、そういうふうに発言をすると、受けると考えたのかもしれない。

一定の効果はあったと思う。全国民が大学に興味を持っただろうから。それはそれなりにである。よかったのか、悪かったのか。それはわからない。


3、子ども人口が減少するから学校も減っていくのか
なんだか、子どもの数が減っていくから、学校も減少させていくべきだろうという論理の展開があちこちである。今回の田中代議士もそのことに触れていた。よく聞く話である。

需要がないからということなのであろう。需要がなければ、供給はストップしていいというわけだ。経済用語である。だったら、教育は儲かるのか、儲からないのかということを考えてしまうのだが。

儲かるからやるのかね?

思想哲学なんていう分野は、まったく儲からないからやめっちまえということなのかな?撤退せよということなのかな?あふぉ~な愚生にはよくわからんから、誰かわかるように説明してたもれ。

愚生なら、学級定員をいじって、好機到来とやるねぇ。少ない生徒とたくさんの先生方で充実したマンツーマンの教育を行う。これぞ私塾形式ですわなぁ。江戸時代の藩校の再来であると思うんだが、乱暴かね?


4、そもそも能力がないじじいに大学を作ってやる必要があるのか?


能力がないというのは愚生のことである。認める。自他共に認める。


まったくじじぃが今更大学に行って何をするんだというご指摘は、今でもある。「じじいのために大学を作ったわけではねぇだろうよん」って愉快なご指摘もあるからである。無駄ではないかということである。確かに、確かに。てめぇ一人のことで、社会的還元がないだろうよ!というお怒りは実によくわかる自己満足だろうよ!ということもである。

しかし、じじいが勉強していたらいけないのかな?儲からないからかね?学費はきちんと払っているけど。あ、本学がそう言っているんではごじゃりませぬよ。目立たないようにひっそりと生きていますから。

社会的還元と言うことでは、愚生は職場に再雇用という形では存在していない。つまるところが、若い人の邪魔をしないように生きている。これが愚生なりの社会的還元である。後は若い人を応援させていただくだけである。だから話だけはどこでもさせていただいている。すっ飛んでいくのだ。本来そういうのが好きだから。

能力なんて、勉強すれば身につく。やらなければ身につかない。それだけである。それだけ。

嫌なら辞めるし、学校から出ていけと言われたら出ていくしかない。さっぱりとしたものである。まるで平将門のようだ。猪突猛進。愚生は将門のような人物が大好きである。失敗してもいいから、挑戦してみるというタイプ。ただし、彼のようなのをトップにいただいたら、組織としては不幸である。半分は失敗の可能性もあるから。もっとも、ダレだってそうか。失敗か、成功かそれしかないからなぁ。世の中は。

ちなみに平将門だけを論文にして、著書を出し、博士までとられた方の著書を昨日読んでて、感動した。ここまで惚れることができるんだと思った。

もっと書けば、千葉県内の横芝光町に将門の叔父がいて、そこの良子姫を略奪するシーンが昨日見ていたDVDの中にあった。坂田という地名だそうだ。ふむふむ。千葉県内には美人が多いからなぁ。

(^_-)-☆

無為なら安全だろうって?
それもまた失敗の可能性が50%はあるんじゃないのかねぇと思う。


田中センセの記者会見を拝見させていただいて、以上のようなことを考えてしまった。

シマッタ、シマッタ。

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11月6日(火)のつぶやき

2012年11月07日 04時26分26秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

米大学 入学者が減る5つの理由 - SankeiBiz(サンケイビズ) sankeibiz.jp/compliance/new… @SankeiBiz_jpさんから


ほんとうに、愚生のようなものを入学させていただいて、ありがたいことであると最近はしみじみ思うのだ。


実力がないからだ。もっと勉強していればよかったなと後悔ばかりしているのだ。本当に、情け無い。


謙虚に生きなくてはならんなぁと思う。なんだか、目を三角にして血迷うていたら話にならんではないかと思う。将門の弟である学問好きな四男は、しみじみと言っていたではないか。「学者センセは、争いごとはかりやっていて、他人の悪口ばかり言っている」って。NHKの大河ドラマの中で。(^0^)


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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/