むろん、愚生もいっぱしの教師だと思っていたから、道を踏み外そうとした生徒がいた場合、当然のごとく諭すわけである。
悪いことをした時だけではない。
まれにであるが、勉強熱心すぎて、具合の悪くなる生徒にも説教したことがある。胃が痛くで、しょうがないという男子であった。説教と言うより、援助である。あたたかな説教である。あ、説教というのは教を説くのである。
胃が痛かったら、休めと説教したのだった。
彼は、愚生の説教を聞いて、とたんに明るくなったのである。肩の力を抜けということであった。ちょっと余計なことも言ってしまったが。つまり、「オレのように生きよう」てなことを言ったのである。
それから、俄然彼は、逆に勉強を始めたのだ。
それはな~んでか?
と~まのようにはなりたくないっていう恐怖感からであったのだ。それもまた個人の自由である。
(^0^)
さて、説教の時に、「はい、わかりました」というタイプと、「ふん、そんなの個人の自由でしょ」というのと二通りあるのだ。
机の回りをゴミだらけにしているのを注意すると、二通りいるのである。
個人の自由でしょとなると、もうそれから先の展開はない。
そりゃそうだ。個人の自由で生きているんだから。
されど、されどである。
それは論理的に破綻している。
個人の自由ならば、人間の関係性って、それこそ「そんなのかんけぇねぇ!」じゃないのかね。
だったら、自分一人で海から魚をとってきて、米も自分でつくり、電気も自分で山奥に大きなダムを造り発電機を回していればいいんだよ。
ダレの助けも借りてはならん!
なんて、また説教しちゃったケド。
なんだか、年取ったせいか、ぐだぐだと若者への期待値の高い話ばかり書いているなぁ。
爺むさい話ばかりでありますよ。