と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

酔漢マルメラードフ

2012年11月03日 09時47分09秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

一瞬の美ということを考えた。本学の東金キャンパスの並木は美しい。ドストエフスキーの、罪と罰を思い出す。

葉を通して、太陽を見るシーンがある。このことについて10代のころ、感動したことがある。

椎名麟三であった。

酔漢マルメラードフが、そういういろいろなシーンを通して人間の罪悪と救いについて感じることがあるのである。まだ愚生は18歳であった。これを一瞬の救済と受け取ってなぜそんなことが可能なのかと思って、学部の卒論にしたのである。これが出発点であった。今、読み返すとまことに稚拙である。(今もろくでもないことしか書けないケドねぇ・・・)

学部の時に、このシーンに感動したのだ。

そしてキリスト教作家である椎名麟三が格別の思い入れをこのシーンに抱いていることも知った。

全集が老年になった愚生の書庫にある。懐かしい二人である。ドストエフスキーも、椎名麟三も。

徹底的に読み込んでいたからである。読書カードも、ノートもである。

こういう時代を経ないと、愚生は元来がおろかものであるから、教壇にはたてなかったとしみじみ思う。いわば、準備期間であったのである。

それが、あの苦しかった苦学生としての鍛錬であったと思うのである。

亡父が、愚生の進学した大学に不満を持っていて、びた一文出してくれなかったから苦学を始めたのであった。亡父は、まったくメリット主義者であったから、金を出す以上経済的な利点がないといかんと言っていたのである。町役場の官吏であったし、亡母は小学校の教員であったから貧しかったけれども学費は出せたのだろうとは思う。しかし、チャレンジせよということであったのだろう。

今になればそれはよくわかる。

亡父はもしかしたら、愚生に期待をしていたのかもしれないと、今になってわかったような気がするのである。

だから、言うことを聞かない、不肖の息子を旅に出したのであろうと思う。

かえってありがたかったと思うのである。

それがここまできてしまったのだ。

こんなダメな息子でも。



とうとう亡父を抜いた。

亡父の命日が、昨日の11月2日であったからである。プラス一日であるが。生きていれば90歳である。愚生はこのオヤジ殿が大好きであったのだ。いつも温泉に行っていたし。(温泉が町中にたくさんあるのである)長じては、共に鯨飲をした。苦学をさせたことを悔いていた。そんなことはない、オレは感謝しているよと愚生の方は言っていた。本当に、そう思っていたからである。あの体験がないと、ろくでもない鼻持ちならん人間になっていただろうと思っている。たいした力量もないのに、偉そうにしているそこらへんの馬鹿と一緒になっちまったよと思う。もっとも、あれだけ鯨飲の日々を重ねていたら、長生きはできなかった。そこのところだけは、残念でならない。


あとはいつまでも元気で、憎まれっ子を生きていきたいと思うんである。

愚生の方は。

 

(^-^)/

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愛情ってそんなに欲しいのかねぇ

2012年11月03日 09時33分19秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

ここまで60年生きてきて、いろいろな方との出会いがあった。

その中でも、印象に残るのが、評価をされるためだけに生きているのではあるまいかと思う方である。確かに、そういう方がちらほらおられる。

血みどろの戦いをしている方もおられる。それはそれでけっこうなことである。なにも全面否定をするつもりはないからである。それはそれであってもいいことであるからだ。

評価をされるためにというのは、比較の問題である。そしていつも思うのだが、比較の問題である以上、そこから抜け出す事はできないということである。こだわってしまって、人生を間違えてしまうこともありうるからである。

そんなことを言って、評価をする側で生きてきたではないかと言われることを承知の上で書いている。

結局、いい評価をいただきたいというのは、愛情乞食なのである。

すねたりするのもこれ。

オレは、アタシはこんなに組織に貢献しているのに、なんで高い評価をしてくれないのかと言ってやけ酒を呑むというのは健康に良くない。健康に良くない事はしない方がいい。長生きできませんぜ。長生きしないと、生涯学習なんてできませんぜ。おっと、もっともダレでも生涯学習をやりたいというのは、愚生の思い違いでもありますがね。思い違いの固まりでございますから。

アハハ・・・・



独立独歩でいきたいものである。

 

内田百先生のことを時々書いているが、あの偏屈せんせ、実に味のあることを書かれる。

ここから先は愚生の勝手な理解であるが、好きならやりゃぁいいし、嫌いなら辞めればいい。たったそれだけのこってすよ、というような気がするのである。

あの偏屈せんせが言われていることは。

 

だから、ぐちゃぐちゃといつまでも、「オレは認められていない」って言わんことであります。愛情なんて、向こうから来るもんではございませんですよ。

こっちから出向いていかないと、愛情は来ない。

自分から、愛情を振りまくこってす。愚生のように。

 

(^_-)-☆

 

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廃講から生涯学習をスタートされた先輩から学ぶ

2012年11月03日 07時20分22秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

退職をされた教職の先輩(63歳広島県在住)が、共済組合から送られてきた冊子に書かかれていた。

タイトルは「平家物語」とある。

理科の先生であったようだ。

理系の先生であったので、50歳を過ぎてから文学も少しは学ぶべきであると考えられて、近くの短大で行われた英文学の社会人向け講座に通われたとのことである。

昨年後期からさらにヒートアップして、源氏物語講座にも。そのつもりで学校に行ったら、源氏ではなかったとのことである。平家物語であったのだそうである。しかし、この良い意味での勘違いが、平家物語への興味・関心をそそったのだそうである。見上げたものである。たいしたものである。

愚生ならどうだと思った。文系人間の典型である愚生なら、理系のそうした社会人講座に行くか?ということである。まず関心を持たないであろうから。

(^0^)

ところが、指導教授がこの三月に定年を迎えられて、英文学講座が廃講となった。その残念な気持ちは愚生も同様にある。いつどうなるか。明日のことはわからないからである。

しかも、文科省が新設大学認可についていろいろやっていて、今日の新聞をにぎわしている。どんな組織もそうだろう。世界を席巻したPanasonicも巨額の赤字を抱えていると先日発表になったし。

しかし、これじゃぁ株式投資と同じではないかと思ってしまったのも事実である。現代の学校というのは実は歴史的にもまだ浅い。ま、あらゆる組織というのは、永遠ではない。浮き沈みというのは当然ある。

廃講になるかもしれないという危険性を抱えながら、それでも学ぶしかない。好きだからである。もっといえば、廃講から廃校、廃学という可能性も考えながら、学ぶしか無い。

生涯学習の真髄ここにあり、である。

 

いいスタートを今日も切ったものであると思った。

感謝である。

 

 

 

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11月2日(金)のつぶやき

2012年11月03日 04時25分16秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年
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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/