一瞬の美ということを考えた。本学の東金キャンパスの並木は美しい。ドストエフスキーの、罪と罰を思い出す。
葉を通して、太陽を見るシーンがある。このことについて10代のころ、感動したことがある。
椎名麟三であった。
酔漢マルメラードフが、そういういろいろなシーンを通して人間の罪悪と救いについて感じることがあるのである。まだ愚生は18歳であった。これを一瞬の救済と受け取ってなぜそんなことが可能なのかと思って、学部の卒論にしたのである。これが出発点であった。今、読み返すとまことに稚拙である。(今もろくでもないことしか書けないケドねぇ・・・)
学部の時に、このシーンに感動したのだ。
そしてキリスト教作家である椎名麟三が格別の思い入れをこのシーンに抱いていることも知った。
全集が老年になった愚生の書庫にある。懐かしい二人である。ドストエフスキーも、椎名麟三も。
徹底的に読み込んでいたからである。読書カードも、ノートもである。
こういう時代を経ないと、愚生は元来がおろかものであるから、教壇にはたてなかったとしみじみ思う。いわば、準備期間であったのである。
それが、あの苦しかった苦学生としての鍛錬であったと思うのである。
亡父が、愚生の進学した大学に不満を持っていて、びた一文出してくれなかったから苦学を始めたのであった。亡父は、まったくメリット主義者であったから、金を出す以上経済的な利点がないといかんと言っていたのである。町役場の官吏であったし、亡母は小学校の教員であったから貧しかったけれども学費は出せたのだろうとは思う。しかし、チャレンジせよということであったのだろう。
今になればそれはよくわかる。
亡父はもしかしたら、愚生に期待をしていたのかもしれないと、今になってわかったような気がするのである。
だから、言うことを聞かない、不肖の息子を旅に出したのであろうと思う。
かえってありがたかったと思うのである。
それがここまできてしまったのだ。
こんなダメな息子でも。
とうとう亡父を抜いた。
亡父の命日が、昨日の11月2日であったからである。プラス一日であるが。生きていれば90歳である。愚生はこのオヤジ殿が大好きであったのだ。いつも温泉に行っていたし。(温泉が町中にたくさんあるのである)長じては、共に鯨飲をした。苦学をさせたことを悔いていた。そんなことはない、オレは感謝しているよと愚生の方は言っていた。本当に、そう思っていたからである。あの体験がないと、ろくでもない鼻持ちならん人間になっていただろうと思っている。たいした力量もないのに、偉そうにしているそこらへんの馬鹿と一緒になっちまったよと思う。もっとも、あれだけ鯨飲の日々を重ねていたら、長生きはできなかった。そこのところだけは、残念でならない。
あとはいつまでも元気で、憎まれっ子を生きていきたいと思うんである。
愚生の方は。
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