と~ま君の部屋

楽しい老後を送りたいとやっています。所詮人生回り道。修士(人間学、仏教学)。ぼけ防止・脳のリハビリでやってるブログです。

目のつけどころ

2012年11月08日 22時28分31秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

塾の日

今日は塾のある日である。

帰ってきて、風呂から出て、22:38この記事を書いている。

国語と英語をやらせていただいた。高校受験のレベルだから、そんなに難しくはない。しかし、塾のテキストは実によくできている。さすがに専門家が検討して作ったものである。おっと、これ以上書くと叱られるから書かない。

しかし、なんでも専門家というのは凄いもんである。塾もそうだし、学校もそうだ。こういうのに長年関わってきたから、凄さといのはよくわかっているつもりである。

 

学校改革

中でも、学校改革に取り組んでかなりの評価をあげている学校には興味がある。否、あったというべきか。特に私学である。このBLOGでもカテゴリに入れてあるが、浪速高校もその一つ。

トップの経営姿勢が見事である。こういう方でないとこのような見事な学校改革はできないのだろうなと思う。真実思う。しかしながら、あまりに暴君であっても人心は離反する。そこのあたりの綱裁きが難しいのである。経験上。実際に、生徒を相手にするのは、教職員であるからである。

このことは平将門の人心掌握術が参考になるだろう。これから組織を預かって、トップになるという方には、NHKの大河ドラマを見られた方がよろしいと思う。以前は、DVDにもできないくらいに画質が悪くて、完全版がなかなか出てこなかったそうである。今でも、画質はよくないが鑑賞はできるから良しとしよう。

この学校改革ということでは、いつか論文でも書いてみたいと思っている。実践してきたのだから、ネタはいくらでもある。Twitterにも今日書いたが、しかし、そのネタはインターネット上にはいくらでもころがっていて、今更なにをか況んやという場合もあるだろう。だから難しいのである。

 

視点論から

視点が違えばいくらでも書けるという方もおられるかもしれない。結局そういうことであろう。材料は有限であるからだ。視点を違えて書くことでまるっきり違った世界が展開されていく。

学校改革もそうなのではないかと思うことがある。視点論である。目のつけどころが違うと、違ってくるのである。ニンゲンナンテ、まるっきり新しいことを始めるのは難しいではないか。イエスだって、ユダヤ教を下敷きにしている。マホメットも、釈迦も下敷きがあるのである。

いろいろな論文もそうである。中世について参考文献を読んでいる。例えば能である。能も、幽玄とかなんとかとかいろいろ言われるが、視点が違うとまるっきり違う論文が書ける。それが正解かどうかはわからないのだが。

されど、材料は一緒である。ここのところが一番重要である。材料は一緒なのだ。

 

 

そんなことをつぶやいてみた。

 

 

 

 

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中上健次の本を借りてきた

2012年11月08日 18時25分35秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

紀伊熊野を代表する作家中上健次の本を県立図書館から借りてきた。

「現代小説の方法」(作品社)である。能について造詣が深かったということを知ったからである。昨日である。まったく知らなかったのである。

正直言ってあまり好きな作家ではなかったから、枯木灘くらいしか読んでいない。あまりに迫力があったからである。愚生のような庶民の弱さとか、つらさ、悩みというものと無縁であろうと勝手に思っていたからである。

そうである。

愚生は、そういう観点から好きな作家を決めているみたいである。なんとなくそうなってしまうのである。世の中の艱難辛苦を味わいながら、今も生きているからなぁということである。

順調という言葉を知らないからである。教育の世界ではその「順調ですか?」という言葉は使う。生徒に対してはである。だって、絶えずそうやって生徒を気にしていないと理解できないからである。せめての良心である。愚生の。しかし、愚生は順調ではなかったから余計他者の順調ぶりを気にするのかもしれない。

ある意味、根底にまだまだ書いていないのだが、現在調べている差別の問題が奥底にあるからである。芸能と宗教、文化と差別、民俗と差別というような問題が愚生の意識としてあって、それを駄文で書いてみたい。

渡辺昭五先生(大妻女子大学教授であった)の著書にず~っとあたっていた。今日は、あまりににも面白いのでとうとう県立図書館に行ってまた借りてきた。

梁塵秘抄関係の資料である。

渡辺昭五先生の本で、能に興味のあった中上健次を知ったのである。学恩である。当然、愚生ごとき、お会いして直接教えを受けたわけではない。書物の上である。

ありがたいものである。

実にありがたい。

 

 

 

 

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観世流謡曲名曲撰「百萬」を購入

2012年11月08日 18時13分09秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

同じくAmazonから入手したCDの「百萬」である。

これも欲しくてたまらなかったものである。

能に入っていくきっかけとなった作品である。

母性の哀れさ、子どもを思う気持ちのありがたさがあるからである。

それこそ、大衆、庶民文化の象徴である。

我々の先祖はこういうものを見て涙を流していたのだと思う。

 

ちなみに、こんな感じのストーリーである。

 

(テキストは「半魚文庫」を活用) 

ワキ次第「竹馬にいざやのりの道。竹馬にいざやのりの道。誠の友を尋ねん。
詞「これは和州三芳野の者にて候。又これに渡り候ふ幼き人は。南都西大寺のあたりにて拾ひ申して候。此頃は嵯峨の大念仏にて候ふ程に。此幼き人をつれ申し。念仏に参らばやと存じ候。

 

こういう発端から始まる。

おさなごと離れた母の物語である。

次いで、アイ狂言が入って狂女の到来を告げ、それにしたがって、狂女が念仏を唱えながら登場する。

シテ詞「あら悪の念仏の拍子や候。わらは音頭を取り候ふべし。南無阿弥陀仏。
地「南無阿弥陀仏。
シテ「南無阿弥陀仏。
地「南無阿弥陀仏。
シテ「弥陀頼む。
地「人は雨夜の月なれや。雲晴れねども西へゆく。
シテ「阿弥陀仏やなまうだと。
地「誰かは頼まざる誰か頼まざるべき。
シテ「これかや春の物狂。
地「乱心か恋草の。
シテ「力車に七くるま。
地「積むとも尽きじ。
シテ「重くとも。ひけやえいさらえいさと。
地「一度に頼む弥陀の力。頼めやたのめ。南無阿弥陀仏。
地歌「げにや世々ごとの。親子の道にまとはりて。親子の道にまとはりて。なほ子の闇を晴れやらぬ。
シテ「朧月の薄曇。
地「わづかに住める世になほ三界の首枷かや。牛の車のとことはに何くをさして引かるらんえいさらえいさ。
シテ「輓けや輓けや此車。
地「物見なり物見なり。
シテ「げに百萬が姿は。
地「本よりながき黒髪を。
シテ「荊棘のごとく乱して。
地「旧りたる烏帽子引きかづき。
シテ「又眉根黒き乱墨。
地「うつし心か村烏。
シテ「憂かれと人は。添ひもせで。
地「思はぬ人を尋ぬれば。
シテ「親子のちぎり麻衣。
地「肩を結んで裾にさげ。
シテ「すそを結びて肩にかけ。
地「筵片。
シテ「菅薦の。
地「みだれ心ながら南無阿弥陀仏と。信心をいたすも我が子に逢はんためなり。
シテ「南無や大聖釈迦如来。我が子に逢はせ狂気をとゞめ。安穏に守らせ給ひ候へ。

ここは、始まって早速変化に富んだ部分であり、シテの動きといい、謡といい、楽しいところである。狂女を見た子方は、いちはやく、この女が自分の母ではないかと見破り、連れのものに尋ねるように頼むが、連れはすぐには子のことをあかさず、女に舞を続けさせようとする。

全文を掲げることはちょっと遠慮したいので、この辺で。

一気に終わりの場面へ。

ここで、立廻が入り、一曲はクライマックスを迎える。

シテ「これほど多き人の中に。などや我が子の無きやらん。あら。我が子恋しや。我が子給べなう南無釈迦牟尼仏と。
地「狂人ながらも子にもや逢ふと信心はなきを。南無阿弥陀仏。南無釈迦牟尼仏南無阿弥陀仏と。心ならずも逆縁ながら。誓に逢はせて。たび給へ。
ワキ「余りに見るもいたはしや。これこそおことの尋ぬる子よ。よく/\寄りて見給へとよ。
シテ「心強や。とくにも名乗り給ふならば。かやうに恥をばさらさじものを。あら恨めし。とは思へども。
地「たま/\逢ふは優曇華の。花待ち得たり夢か現か幻か。
キリ地「よく/\物を案ずるに。よく/\物を案ずるに。かの御本尊はもとよりも。衆生のための父なれば。母もろともに廻り逢ふ。法の力ぞ有難き。願も三つの車路を。都に帰る嬉しさよ。都に帰る嬉しさよ。

 

どうです?

いいもんでしょう。

泣けますな。

まったく。

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「申楽談義」の古本

2012年11月08日 18時04分57秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

Amazonから「申楽談義」の古本を購入できた。法政大学の教授をながらくやっておられた表 章先生が紹介されていた書物である。もっとも野上豊一郎先生の校訂と表紙にはあるが。岩波書店から出ている「名著・古典籍文庫」の一冊で、一穂社の岩波文庫復刻版というものである。

欲しかったのだが、偶然Amazonで古本で見つけた。昨日注文したら18:08来たのである。ありがたいこと限りなし。昨日、表 章先生の能楽の講義をDVDで見ていたので余計うれしかったのである。

さすがに碩学である。

また、こうしたことでご縁をいただくということがどんなにありがたいことであるか。はかりしれないものがある。これからまた夜更けまで読書である。

楽しみ、楽しみ。

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将門のやりきれなさ

2012年11月08日 17時41分00秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

平将門をDVDで見ているとやりきれなくなる。原作がそうなんだろう。海音寺潮五郎からきているから。

まっすぐて、明るくて、優しい人間として描かれている。

ある意味、怒りの人としても描かれているのだろうが。

こういう傾向は多かれ少なかれみんな持っているものであろうから。

坂東の平家一門の争いから来ているという設定である。これはいろいろ調べると事実らしい。らしいというのは文献的な根拠がまだ不勉強の愚生にはわからないからであるが。

領地争いのようである。

騙された将門の怒りという側面から描いてある。むべなるかな。仕方がなかったのかもしれない。そして、NHKの描き方が、現代の政治家と一緒で、我々のような大衆、庶民の支持が将門の方にあったというように演出してあるのだ。脚本がそうなっているということであろう。

私怨で行動しているのと、公憤で行動している差があるのかもしれない。こういう観点から見ていくと、この大河ドラマは実に面白いものである。

しかし、やりきれない。まっすぐで、直情的で、おのこの中のおのこという設定を将門にしていること自体がである。いわゆるキレルという輩は天下にあまたいるが・・・・・・・武闘派であるとしてもである。あまりにも、真っ直ぐすぎる。柔道だって、誘いの技とかいろいろある。呼び水というやつである。汚いと言ってもいい。実力一本勝負。常に真正面からのみ、真剣勝負ではいかがなものか。これじゃぁ精神論、根性論の焼き直しである。

相手に嘗めさせて、油断させて勝負をかけるということもあり得る話であろうから。そして、たいてい思い上がっている輩は、そういう汚い勝負をかけていくと敗退する。

そんなもんである。世の中そんなもん。

 

愚生もまっすぐに生きてきたかったなぁ。

もうムリだけどね。

 

(^0^)

 

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11月7日(水)のつぶやき

2012年11月08日 04時31分43秒 | 大学院博士ごっこ2012年から2015年

千葉県内には美人が多い?なんのこっちゃ goo.gl/AzTXO


ちょっとあちこち削除しながら書きました(^0^) goo.gl/RRvvW


今日も大学でせんせに間違えられてしまった・・・。しかも先生に、せんせと間違えられた。修士の院生に先生が、コンピュータのご指導をされていたのだ。二人であった。愚生は隣の隣で、能楽の史料をスキャナでいじっていた。そして、終わりしなに、そんなことを言われたのだ。・・・参るなぁ。


もっともこっちの大学で院生。あっちの大学ではたしかに先生だわなぁ。切り替えが難しいというのではなくて、周囲が切り替えてくれない。愚生の所属学科だけだ。きちんと呼んでくださるのは。確かに学ぶ者であるからで。


12月の2日に千葉市市民会館で、愚生の40分にわたる発表があるそうです。開始時間等まだ不明です。80枚資料を作成するんだそうです。もっともパワーポイントでありますから、そんなに大した分量ではないですが。でも、資料1とか資料2とかやるとなると膨大なものになってしまうです。ムム・・


膨大と言えば、パワーポイントも50枚になってしまった・・・・


他の大学の先生も数名こられるとのこと。参ったね。これまで、教育実践家としての発表はしたことがあったが、こういう学術的な会合は初めて。だから、愚生は院生の資格が無いと言われてしまうのだなぁ。オレもそう思うケド。若くないしね。


やりたいことだけをやっているんだから、ま、いいかということですわな。。


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光こそ、すべての源という気がするのだが

柔道をやると~ま君

サンスクリット般若心経

高齢\(^_^)/