塾の日
今日は塾のある日である。
帰ってきて、風呂から出て、22:38この記事を書いている。
国語と英語をやらせていただいた。高校受験のレベルだから、そんなに難しくはない。しかし、塾のテキストは実によくできている。さすがに専門家が検討して作ったものである。おっと、これ以上書くと叱られるから書かない。
しかし、なんでも専門家というのは凄いもんである。塾もそうだし、学校もそうだ。こういうのに長年関わってきたから、凄さといのはよくわかっているつもりである。
学校改革
中でも、学校改革に取り組んでかなりの評価をあげている学校には興味がある。否、あったというべきか。特に私学である。このBLOGでもカテゴリに入れてあるが、浪速高校もその一つ。
トップの経営姿勢が見事である。こういう方でないとこのような見事な学校改革はできないのだろうなと思う。真実思う。しかしながら、あまりに暴君であっても人心は離反する。そこのあたりの綱裁きが難しいのである。経験上。実際に、生徒を相手にするのは、教職員であるからである。
このことは平将門の人心掌握術が参考になるだろう。これから組織を預かって、トップになるという方には、NHKの大河ドラマを見られた方がよろしいと思う。以前は、DVDにもできないくらいに画質が悪くて、完全版がなかなか出てこなかったそうである。今でも、画質はよくないが鑑賞はできるから良しとしよう。
この学校改革ということでは、いつか論文でも書いてみたいと思っている。実践してきたのだから、ネタはいくらでもある。Twitterにも今日書いたが、しかし、そのネタはインターネット上にはいくらでもころがっていて、今更なにをか況んやという場合もあるだろう。だから難しいのである。
視点論から
視点が違えばいくらでも書けるという方もおられるかもしれない。結局そういうことであろう。材料は有限であるからだ。視点を違えて書くことでまるっきり違った世界が展開されていく。
学校改革もそうなのではないかと思うことがある。視点論である。目のつけどころが違うと、違ってくるのである。ニンゲンナンテ、まるっきり新しいことを始めるのは難しいではないか。イエスだって、ユダヤ教を下敷きにしている。マホメットも、釈迦も下敷きがあるのである。
いろいろな論文もそうである。中世について参考文献を読んでいる。例えば能である。能も、幽玄とかなんとかとかいろいろ言われるが、視点が違うとまるっきり違う論文が書ける。それが正解かどうかはわからないのだが。
されど、材料は一緒である。ここのところが一番重要である。材料は一緒なのだ。
そんなことをつぶやいてみた。