ただただ無明の迷いの世界
東京の上野学園大学で学会があるから参加してくる。聞きにいくだけである。ある意味気楽なのだ。研究発表となるとこれはかなり緊張するが、下で聞いているだけだと確かに気楽である。これは間違いがない。
しかも、老いたじじいである。なんの成果もこちらは持っていない。ただ今修行中であるから。
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だから学ぶ一方である。収穫専門。メリットという言葉は使いたくないが、まさにメリットだらけである。失うものはなにも無い。中年の知識という名の贅肉みたいなもので、どんどんどんどんついてくる一方である。大歓迎のぜーにく(知識)である。わはははっははははっは。
アタマに知識がつくっていうことは、歓迎しなくちゃアカンですなぁ。しみじみそう思う。家人は、道楽ばかりやっていてと悪口を言うが、これもなんにもやらなくちゃかえって迷惑になるではないか。例えば、朝、食後の運動だとかほざいてfitness clubに行って、午後は将棋教室で油を売って、夕方またfitness clubで温泉とサウナに入ってのんびりしていたら、それはそれで邪魔者がいなくなるからいいんだろうけど・・。確実に惚けるなぁ。将棋はアタマの活性化にはいいんだろうが、ちょっといかがなものかと思うから。
上野学園大学には明日も行く。明日は、もっと早く行って、夜までいる。専門の先生たちが、音楽の歴史的展開について今日も含めて10人以上発表されるからだ。それぞれの専門に特化されているから、楽しみである。楽しみ。
今日は、残念ながら途中で帰ってくる。そう、木曜日だから塾があるのだ。しかも今日は高校の合格発表の日である。関わった生徒たちに、祝福の言葉を申しあげたい。せめてできることは、それくらいしかないではないか。オレなんか。
学会の懇親会というのにも出ない。出てもなんにもならない。終わった人間であるからだ。そんなもんに出て顔を売ろうっていったって、終わった人間には用なしである。
明後日、千葉市で今年度最後の郷土史文化講座と、古文書解読講座がある。それぞれ2時間展開。合計4時間。こちらの方がオレには楽しい。郷土史の世界には定年もないし、いろいろな研究誌に投稿もできる。人間関係も構築できる。楽しいものである。
そうなのだ。進むべき道を間違ってはならないということである。勘違いをしてはならないということである。今更、終わった人間がジタバタ騒いでいてはならないということである。生涯学習をやっているのであって、学校教育をやっているのではないからだ。これから第二の人生を送ろうとか、ナニカになってやろうとか、就職をしたいとか、なんにもないからだ。そんなことを云っていたら、ただただ無明の迷いの世界にいくだけである。
昨日、大学でも、大学の行き帰りでも、ずっと熊野信仰のことを考えていて、あるいはそういう専門書を読んでいて「ただただ無明の迷いの世界」で迷っていてはならんとしみじみ思ったからである。
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