活躍している仲間達を見ていて
生涯学習仲間が次々と活躍されている。いろいろな進路に進んでいかれる。あるいは、論文を書かれ、著書を世に問い、まことに凄い方々ばかりである。こういう生き方、つまり、本業を持ちながら学習をやっていくということは、学問専門で喰っている方々とはまた違った心的態度にいる。伊能忠敬もまた生涯学習の尊師であるとオレは思っているのだが、ま、尊師ほどではなくても、爪の垢でも煎じて飲みたい方々は世の中にたくさんおられるから世の中はおもしろいのだ。
尊いことである。オレごときが、できるような話ではない。せめて足下にひれふして、話を拝聴させていただくだけである。それを許していただけるのが生涯学習のいいところだ。
生涯学習の総本山は放送大学だとオレは思っている。幕張にある。その隣の教育センターというところにオレは3年間ごやっかいになった。それでご縁ができたのだ。人間なにがどうなるか、わかったものではない。ありがたいことだった。
放送大学の学食にも毎日のように通った。距離にして、200メートルくらいだったから、オレの勤務している部屋から脱兎のごとく移動して、おいしい学食を堪能したのである。
管理職にさせていただいてからも放送大学にはお世話になった。教授の先生がたに理論的な、あるいは調査方法等でご指導をいただいていたからである。
いい思い出であった。
現在在籍させていただいている城西国際大学も、いい思い出であったと振り返る時期が来ると思う。そうなるためには、努力せんとアカンですなぁ。まだまだである。こんなじーさまを受け入れてくださっただけでも感謝しなくちゃならないだろうと心の底から思っているのだ。しかも博士後期である。大学のためになにか寄与したいと思ってもただの邪魔者でしかないのだけれども、あちこちでどう?と聞かれるから宣伝だけはさせていただいている。せめての恩返しである。もう、これで二年生が終わろうとしているのだから。奇跡である。奇跡。
しかし、来年どうするのか。
今年中に進路を考えなくちゃならん。次の学校に行くのなら、今年の夏から入学試験が始まる。だから、真剣に考えなくちゃならんのだ。
別にどうでもいいような話ではある。これから出世するわけでもないし、収入が増えるわけでもない。暇なじじいの手慰みである。城西国際にはまことに申し訳ないと思っている。厄介者を一人抱えているようなものではないか。申し訳ないのだ。のんべんだらりとしているだけで大学のためにはなんもなっていないからである。郷土史を中心として、中世の民俗芸能についてあちこち駄文を書き散らしているだけだからだ。ただし、城西国際の院生であることは書かせていただいているけど。これもまたせめての恩返しである。
ただし、オレは第二の人生を送ろうとか、何になったらいいかわからないとか、自分捜しの旅に出ているとかというのは無い。もうオレはアイデンティティというのは、終わったのであるから。教師という一つ目の人生を、である。
アイデンティティを確立して、定年まで教師をさせていただいて、退職させていただいたのである。なんのなんの。これから第二の人生を送りたいと言ったら笑われますなぁ。わはははっはははは。
自分で笑っていたら話にならないのだけれども。
だから、オレはなんにも拘らない。自由である。もっと言えば、これから何をするかということでは、思いもよらないことをするのかもしれない。潜在意識にはあるからだ。もしかしたら、一人暮らしをしに最果ての地に降りたって、ゼーゼーとため息をつきながら人生の終局を目指しているのかもしれない。
わかんねぇのだ。
人生の終わり方なんて。どうなるか。
誰だって、人生を終わらなくちゃならんのだから。
それまでは生きているし、生きて行かなくちゃならんのだから。
生涯学習というのはそういうことも含めてやるべきことなのである。
うううううううううううむ。
今朝はずいぶんシリアスな話になったなぁ。
今は、3:51だけれども。
さ、これで指があったまった。駄文を書き始める。189枚から、今日はスタートだ。大台の200枚にあと少しである。やるっきゃないのだ。人生の終局を目指して。
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