毎日毎日折り紙を
孫がオレの家に来てから、毎日折り紙をやっている。小鳥さん、鶴さん、ゾウさん、ペンギンさんとかとか作っているのだ。孫はあまり関心がないが、テレビを見せているよりはいい。テレビは、アホになるからだ。(^_^)。アホは、オレの代だけでいいからだ。それに子育て放棄にもなる。ま、まったくアカンと云っているわけではない。Youtubeにもつながるテレビを買ったので、それで働くクルマなんかは見せているから。
じじいのオレが折り紙をやっているのは、たった一枚の紙から、無限大にいろいろな形ができてくるからである。孫はすぐそれをくちゃくちゃにしてしまうが、それでもかまわない。それでいいのである、それで。
じじいのオレが作っているものなんか消えてしまうものである。オレそのものの存在というものも、孫にとっては記憶から消えていってしまうものでしかない。折り紙で小鳥さんを作っても、永遠に存在するわけではない。あっという間に、壊されて、くちゃくちゃにされて、ゴミとして捨てられるしかないのだ。瞬間の楽しみでもある。
それでいいのだ。
永遠に続くものはないからである。オレはそういう哀しみを味わいながら、丁寧に、一枚一枚の折り紙を折っているのである。そしてこれは鶴が多いのだが、何羽もの鶴さんを一本の糸に通して、部屋につるしているのである。しかし、それも3日もったらいいほうだ。あっと言う間に探究心旺盛な孫に破壊される。そうである。叱らないのだ。なぜなら、探究心の方が大事だと思っているからである。いい年をしたまったくのじじいが、オレの作った折り紙をよくもまぁ破壊したな?とか、孫相手にぷりぷりしていたら、孫に与える影響はかぎりなく良くないものになってしまうではないか。
すべてのものは破壊される。
人間だって、最後は死骸を焼いてしまう。その運命というか、結果は逃れられない。どんな美人でも、その運命から逃れることはできないのだ。わかりますか?そちらの、あちらの美人、美男さまたちよ。
わははっはっははっははっはは。
死ぬことがすべての結論である。それまでは精一杯生きることである。ただし、死ぬことをまったく考えないというのはいかがなものか。死ぬことを意識して生きていると、生が充実していく。ただし、生きることが充実してくるから、死ぬことを意識するのだというメリット論では考えないことである。死生観を持つことである。武蔵野大学大学院でそのことを修士論文に60歳で書いたから、しみじみそう思っているのである。
しかし、そんなもんもすべては消滅していくしかないのだ。
実績や名誉、カネ、髪の毛(マジに)、腕力、オレみたいな美しい顔、体力等々なんでもかんでも消滅してしまうではないか。
ま、折り紙の本を買ってきたから、今日もこたつにあたりながら、作っているんだけどね。
わはははっははっははは。