メモ改訂:「笑われても、怖おうても、恥ずかしゅうても、おかしい思たら、言わなあかん。言わなあかんことは言わなあかん。これは無力な大人の責任や。偉い人は、それを言わさなあかん。山のように言わせて、聞く耳持たなあかん。どっちも無責任だったんや。」
千葉県内 警報・注意報情報
<千葉中央>
すべて解除
<印旛>
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<東葛飾>
すべて解除
<香取・海匝>
波浪注意報
<山武・長生>
波浪注意報
<君津>
波浪注意報
<夷隅・安房>
波浪注意報
このノート、いたたまれない。→「天童中1自殺 陰口、中学入学後から」。“ノートは、事故当日の午後、死の原因につながるものはないかと部屋を探していて見つかった。”yomiuri.co.jp/e-japan/yamaga… pic.twitter.com/ovT8BgnAkD
いまだ理研に在籍する優秀な研究者のためにも、「小保方さんの社会的な地位を守れなかった理研という組織の問題」は、もっと糾弾されていいと思います。疑わしき人を無理矢理にでも表舞台から一度引きずり下ろすというのは、結果的に個人を守るということでもあるのですから。
そして、ファン・ウソク(韓国のES細胞問題の当事者)が横領等で在宅起訴まで至っているという前例を、私たちはどう考えればいいのでしょうか。仮に小保方さんやそのチームが刑事告発されるとしたら、問題発覚後に理研の対応が後手に回ったことが一因でもあり、それはそれで気の毒です。
数日前、イギリスのとある有名な学者について「長年かけて積み上げてきた知識人としての信頼を、ツイッターを始めたせいでわずか3年で失った」という英語ツイートを見た。うなずきながら、翻って日本では…と考え始めたら、たくさん例がわわわっと思いついたので、考えるの止めてお風呂掃除した。
胴上げ写真のアメフト部が気になって仕方がない。予備校の職員か?→「東大離れの時代? 志願者数減少ストップも優秀な学生は医学部へ」。“”dot.asahi.com/news/domestic/…
教育は、ひとつの芸術なのだから。そして芸術とは、創造のプロセスなのだから、一瞬一瞬が前例のない瞬間だ。子どもに対しながら、その一瞬一瞬を新しく生みだす力―私がファンタジーと名づけるこの力こそ教師に求められる才能です。 『エンデと語る』
就職安泰のイメージだったが。→「若者で広がる、工業高校離れ」。“工業学科のある高等学校の数はピークだった1965年の925校から13年には542校と、4割以上も減った。工業高校の生徒数もピークの62万人から26万人へと、何と6割弱も減”toyokeizai.net/articles/-/327…
外形的なコンプライアンス要件を維持したとしても、本質の部分で手続きに不正があるなら、それは何の意味もないどころか、正当を装って「騙す気がある」という意味ではむしろ悪質といえます。STAP論文が批判されるのは、その悪質さに嫌悪を感じる向きが少なくないからでしょうね。
本質が議論の対象である時には、手続きの正当性(デュー・プロセス)こそが重要となる。これは学術分野に限らず、広く一般に共通する「お約束」ですが、STAP論文問題は改めてその重要性と、私たちの社会がその観点ではまだ未熟であることを、浮き彫りにしたと思います。